天地開闢、悠久長路 三
これから戦場となるウルフェネイト。
そこにある大倉庫の一つであった。
「――名誉のため、人々のため、あるいは大義のため。とはいえ、あなた達の中には、そのような美辞麗句では癒やす事の出来ない、深い傷を負われた方も多くいらっしゃるでしょう」
床に布を敷かれただけの粗末なベッドが並んでおり、負傷兵が数十人。
ほとんどが遅延戦闘にて、大怪我を負った兵士達であった。
手足を無くした者が何人もいて、入ったときにはその重々しい空気に怯むほど。
その場に女王陛下が現れたことに、負傷兵も、その治療に当たっていた者も、誰もが驚いていた。
そして彼ら一人一人の前で、女王陛下が深く頭を下げていく様には誰もが言葉を失う。
女王陛下、とお止めになる声も聞かず、彼女は悲しげな顔で一人一人――丁寧な一礼を繰り返し、入る前に響いていた苦痛の声や、苛立ちから来る叫び声さえ、止まったまま。
そうして入り口に戻ってきた女王陛下が口を開いてからも、場には静寂。
鈴の鳴るような、透き通るような声だけが場に響く。
全ての視線は小さな女王陛下に向けられていて、その全ての意識が女王陛下に傾けられていた。
話し始めには、普通には行なわない自己紹介を。
自分が女王であることを語り、そしてクリシェ様のガルシャーン軍撃破についてを。
その大いなる戦果を語り、そしてエルデラントを打ち破ったアルベリネア軍がすぐさまこちらへ向かって応援に来るのだと、動けず不安に怯える兵士達に語って聞かせた。
「――誰かが命を落とし、あるいは傷を負うことも戦場の定め。そう勇気を奮い立たせ戦場に立ちながらも、そうして手足の自由を奪われ、あるいは友を失って。それでも輝かしい何かを胸に抱き続けることが、どれほど苦しく、辛いものであるか……それを容易に理解出来るなどとは思いません」
そして次に、彼ら自身のことについて。
「取り返しの付かない傷を負ったという事実は、どれほど目を背けようとしても、現実として今あなた方の目の前にあり、その苦しみはきっと……あなた方自身にしか分からないことでしょう」
女王陛下は両手を胸に抱くように告げる。
美しい白のワンピースドレス――本来一点の汚れも許されないその袖は、血で汚れていた。
先ほど同じように負傷兵を見て回っていたときに汚れたもの。
白いドレスにはどこまでも、そうした穢れが目立って見える。
「わたくしはこの国の女王として、全ての民の長として、必ずやその恩義に最大限報いることを誓っております。……しかしそれでも、あなた方の前には多くの苦難があり、あなた達の背後にはこの戦での後悔が列を成し、それだけではその苦痛の全てを取り除ける訳でもないでしょう」
目を潤ませながらもそれを零さぬように努め、女王陛下は続けた。
「傷一つ負うことなく、こうしてあなた達の前に立つわたくしが語る言葉は……どこまでも薄っぺらいものに聞こえるのかも知れません。恨みや怒りを覚えることもあるでしょう。……此度の戦はわたくしの、上に立つ者の不始末が招いた結果であり、そしてだからこそ、あなた達は心と体に深い傷を負わされているのですから、それは当然の感情です」
それでもどうか言わせて欲しいのです、と女王陛下は彼らを見渡した。
「……決して、ご自分の境遇に絶望することなく……この先を生きて下さい。その深い傷に耐えるため……そのために怒りが必要ならば、わたくしを恨んで下さっても構いません。どれだけそこに苦難があっても、ただ生きて……この先の十年、二十年後の未来を、あなた方にも共に見て頂きたいのです」
言葉は力強く、その場に響く。
涙を隠すように顔を覆うものがいて、すすり泣くものがいた。
ただただ、ぐっと拳を握る方がいた。
「わたくしは、あなた達の犠牲を無駄にしません。今日のことを忘れず、その恩義に報いるため……あなた達の苦しみが過去となり、消え失せてしまうくらいの幸福な国を築いて見せます。その傷が誇りとなり、どんな勲章よりも名誉ある勲章として誰かに見せられるような、そんな国を築いて見せます」
祈るように手を組み、目を閉じて。
女王陛下は繰り返す。
「どれほど辛く、苦しい道を示しているかは理解しているつもりです。自らその命を絶ちたくなるような、そんな絶望を前にするあなた達に生きろと口にすることが、どれほど傲慢なことかは理解しております。ですがどうか……」
――生きて下さい、希望を見失わず。
目を擦るように手で拭い、彼らに告げる。
「このクレシェンタ=ファーナ=ヴェラ=アルベランの名に誓って、必ずや……その苦しみに見合う国を、あなた達の前に届けて見せると、そう約束します。ですから、どうか……」
そして再び、深々と頭を下げた。
女王陛下に敬礼、と肘から先を失った右手で、身を起こさぬまま口にする者があった。
左手も包帯で固定され、目尻から落ちている涙も拭えぬままに、年嵩の負傷兵は天井を見上げたままに、敬礼の姿勢を取る。
同じくどこかから、女王陛下に敬礼、と声がいくつも重なった。
体を動かせぬものでさえ天井の、正面の一点を見据えるように――可能な限りの敬礼を女王陛下に向けていた。
――あなたに命を捧げます。
軍で行なわれる敬礼とはそのようなもので、心臓へと手を当てる。
けれど彼らはその所作無く、一糸乱れぬ見事な敬礼を女王陛下に向けていた。
見ているわたしが落涙を堪えきれないくらいの、そういう見事な敬礼であった。
「……はぁ、あちこち歩き回った上に涙の流しすぎで疲れましたわ。もうちょっと負傷兵も一纏めにしておいて欲しいものですわね。見て回る方の身になってもらいたいですわ」
ヴェルライヒ辺境伯に用意された一室に入ると、先ほどまでが嘘のような顔で嘆息する。
セレネ様はエルヴェナ様と共に辺境伯の所へ行き、部屋には二人きり。
女王陛下が指を立てると青いラインが袖に走り、そこにあった血の汚れをあっさりと消すと、靴を脱ぐとベッドの上に飛び込むように寝転んだ。
「ご苦労様です、女王陛下」
「とりあえず足を揉んで下さいまし」
「はいっ」
ポットの湯と水差しの水でぬるま湯を作ると、布を絞って足を清めつつ手で揉み込む。
いつもながら何とも柔らかい足だった。
「匂いも酷いし数も多いし……どうせなら捕虜にでもなってくれた方が良かったのですけれど。こういう面倒くさいのはうんざりですわね」
「でも本当……素晴らしいお言葉の数々でした。女王陛下のお言葉で救われた方はあの中にも沢山いらっしゃったと……」
「わたくしはこういう、効率の悪い対症療法って大っ嫌いですの。それしか出来ないアーネ様には分からないでしょうけれど」
「も、申し訳ありません……」
謝りつつも、ふと、笑みを浮かべてしまう。
女王陛下は何とも露悪的なことばかり仰るのだが、それが真実ではないのだとわたしは思っていた。
負傷兵の居る場所を一つ一つ見て回ると決めたのは女王陛下で、一人一人にああして頭を下げていったのも女王陛下――うんざりだとか、面倒くさいだとか仰りながらも、女王陛下はいつも手を抜かない。
無論女王陛下は、わたしなどとは比較するのもおこがましいくらいの天才である。
言葉通りの気持ちもあるのだろうが、かと言ってそれは悪意ではない。
善意でもないのかも知れないが、しかし誠実なことは確かだろう。
こうして足が疲れた、効率が悪いだとか、色々文句を仰りながらも、だからやめようなんてことは仰らない。
時間が無いから、だなんて言い訳もしない。
それがどれだけ非効率で疲れることであっても、女王陛下は完璧にやり遂げるのだ。
そのためならばと時間まで作って、やれるべき全てをこなしてしまう。
きっと、世界中で誰よりも誠実な女王陛下だろう。
それは全て演技だと仰りながらも、苦しむ人々にとって、掛けられる言葉がどれほど嬉しく、力強いものであるのかと思えば、悪いこととは思えない。
少なくともあの場に居合わせた多くの人々が、この女王陛下のお言葉で救われたのだ。
悪人の振りをして悪を行なえば、真実がどうであれ、それは悪に違いなく。
善人の振りをして善を行なう女王陛下は、どうであれ善人に他ならず、善き女王に他ならない。
それを完璧以上に演じきるのであれば、この方以上の善人などはいらっしゃらないだろう。
『クレシェンタ様は色々とあべこべなのですよ。嘘のように本当のことを仰ったり、本当のことのように嘘を仰ったり……きっと、言葉なんてものを信じておられないのでしょうね』
『信じていない……ですか?』
『ええ。あのようなことばかり仰るはそれ故……良い子を演じながらも、色んなものに疑われて生きてこられたクレシェンタ様ですから』
遠慮の無くなってきた女王陛下に、最初の頃はガチガチに緊張してしまい――そんな時にアルガン様はそのような事を仰った。
『……もしかすると悪い子を演じることで、良い子だと信じてもらいたいのかも知れませんね』
偉大なる女王でも、アルベリネアでも、元帥でもなく。
アルガン様は多分どこかで、クレシェンタ様の事も、クリシェ様の事も、セレネ様のことさえ、まるで子供を見るような目で眺めていた。
その凄まじい能力やお立場も無関係――その心や感情だけを見つめて愛情を向ける。
そんなアルガン様にとって、女王陛下はそのように見える方なのだろう。
自分もその境地に、などとおこがましいことを考えた訳ではないが、しかしそんな言葉を聞いてから女王陛下を眺めると、見える姿も変わってくる。
お馬鹿で無能でどうしようもないだとか、女王陛下は確かに遠慮のない言葉を口にする。
けれど本気でわたしが落ち込んでしまうと、女王陛下は溜め息を吐きながら、これはこうするあれはこう、だなんて必ずそうやって指導をされた。
手間が掛かって仕方ない、アルガン様でもこのくらいは出来ますわ、と口では悪態をつきながらも、いつも相手の気持ちを考えておられるのだろう。
女王陛下はそういう、すごく優しいお方である。
『そして多分、確認がしたいのです。……それでもちゃんと、自分を愛してくれるかどうか』
わたしは女王陛下が王女殿下であった頃をほとんど知らない。
王領の一使用人が接する機会もないのだから、当然だろう。
けれど、王家の忌み子という言葉や、そんな噂話くらいは知っていた。
ただ泣かなかったというだけで、死を望まれる気持ちはどのようなものなのだろう。
誰よりも賢い女王陛下は、きっと赤子の時分にはご自身の立場を理解していたに違いない。
その理不尽を、どのように受け止めたのか。
そのことについて、直接わたしが教えてもらったことはない。
ただ、そうした噂話のどこまでが真実か。
それくらいは流石にわたしであっても、共に過ごせば理解は出来てくるもの。
恐らくは、王国の人間であれば口に出来ないような大罪を犯されたということは事実なのだろう。
あの内戦において、真実正しかったのはどちらかと言えば、女王陛下ではなかったのだと思う。
もしも女王陛下がどのような方かを知らずにいて、その確からしい真実を目にしていたならば、自分は異なる見方をしていたのかも知れない。
けれど、こうして女王陛下を見てきたわたしには、そうした見方は出来なかった。
クリシェ様もクレシェンタ様も、ただただ切実な方なのだ。
何事に対しても手を抜くことを知らず、真っ直ぐと物事を受け止め、全身全霊で向き合う方。
そしてそれを傷つけられてきたならば、その痛みを想像するならば、それはやはり悲劇であった。
その結果が招いた罪を、単なる罪と呼ぶことは出来ないだろう。
降りかかる理不尽に対して、理不尽を返しただけなのだから。
もちろんそれは、わたしがこの女王陛下を愛すればこそ。
傲慢と言えるくらいに主観的な意見と理解しつつも、その理不尽さを理解しつつも、それでもやはり、女王陛下は誰よりも幸せになるべき方であるのだとわたしには思えた。
少なくとも、わたしが見てきた女王陛下は、他人に悪意というものを抱かない。
必要だと感じたことをなさるだけ――それが善行であれ、悪行であれ。
そしてこの方は、選べるならば必ず善なることを尊んだ。
好かれる方が都合が良いと仰りながら、一日中歩き回って。
手間が掛かる面倒なことと仰りながら、負傷兵の一人一人に頭を下げて、言葉を掛けて回るのだ。
民衆の支持を得るためだと仰りながら、それが当然だと言わんばかりに。
それを見ているわたしにとっては、どこまでも誠実な女王陛下。
やはりそのような方にしか見えず、やはり全身全霊でお仕えすべき、偉大な主君の姿に他ならない。
「……アーネ様、痛いですわ。もうちょっと優しくして下さいまし」
「あ、はい……」
「もう少し加減というものを覚えて頂きたいのですけれど。……全く、これも全てアルガン様のせいですわね。あんなタイミングで熱を出すから、わたくしがこんな小言を言わなければならないのですわ」
その言葉に思わず零し、
「……何笑ってますの?」
それを見た女王陛下に睨み付けられる。
「いえ……少しでもアルガン様のご奉仕に近づけるよう、頑張ります」
「頑張らなくていいですから、せめて痛くないようにしてくださいまし」
「は、はい……」
全く、と不機嫌そうに溜め息を吐かれた。
体調管理が出来ていない、だらしない、ろくでなし、アーネ様以下――などと事あるごとに仰りつつも、お屋敷を出てから日に三度はアルガン様のことを口にしていた。
こうしている間も心配しているのだろう。
そう口にすれば『心配なんてしていない』と仰るのだが、照れ隠しだということは三人とも理解していた。
クリシェ様が戦場に出ていることが、アルガン様は心配で堪らなかったのだろう。
ふと物憂げな顔で窓の外を見ていたり、考え事をしていたり、心ここにあらずといった様子。
女王陛下は何かと理由をつけて、そんなアルガン様を公務の際の側付きとして連れ出していたし、あれこれ随分と気に掛けておられた。
わたくしの手を煩わせて何様のつもりかしら、だなんて言いながら、濡れ布巾を絞ってアルガン様の額に乗せている様は何とも甲斐甲斐しく。
アルガン様が刺され、クリシェ様が飛び出して行った時もそう。
寝込んだセレネ様のお側で文句を口にしながらも、ずっと側でその看病を。
自分は世界で一番偉い女王なのだ、と仰りながら行動は正反対。
愛する人達のためならば、どんな労苦も厭わない。
皆から愛されるような女王であろうとする理由は、きっとそうした理由も大きいだろう。
そうなれば彼女達にも喜んでもらえると、そう思うからそうするのだ。
非効率だと仰りながら、非効率的なことを全力で。
女王陛下はやはりクリシェ様の妹であり、わたしには瓜二つに見えた。
わたしとは比べものにならない、偉大なる女王陛下。
けれども多分、その気持ちそのものは、誰にだって理解は出来るものだろう。
愛する人に褒められたいと、喜んでもらいたいと努力する。
それは誰しも子供の頃に、多少なりとも抱く気持ちであろうから。
そのままぺたり、とうつ伏せに転がる女王陛下に尋ねた。
「腰もお揉みしましょうか?」
「わざわざ口にしなければ分かりませんの?」
「い、いえ……では、失礼しますね」
眠たげに欠伸を噛み殺す、女王陛下の腰に手を。
柔らかくて、折れてしまいそうな細い腰。
それを優しく揉んでいくと、長い睫毛を揺らしては閉じ、揺らしては閉じ。
次第にその瞼が降りて、すぅすぅと小さな寝息が響きはじめた。
外で見るお姿とは正反対。
可愛らしい、子供のような寝顔である。
起こさないようにそのまま上に毛布を掛けて、そーっと手を伸ばしては頭を撫でた。
起きていたなら何様なのかと怒られてしまうだろう。
そうは思いながらも、優しく優しく、笑みを浮かべて。
お屋敷を出てから毎日演説をして回り、人々の様子を見て回り、声を掛けては不安を和らげ。
いつもよりもずっと、女王陛下はお疲れなのだった。
普通の王様ならしないようなことまで、完璧にこなすのが女王陛下。
言い訳はせず、手も抜かない。
お屋敷の方は皆そうで、それは女王陛下も例外ではなく。
いつか、とわたしは思うのだ。
皆様も、女王陛下も、色んなことから解放される日が来るのだろうかと。
心配することも無理することもなく、こうして女王陛下が一日中子供のように過ごされて、羽を休めることが許される――そんな日が来るのだろうかと。
とても難しいことだということは分かっていて、けれどもそんな夢を見てしまう。
何を心配することも、気兼ねすることもなく、この愛しい女王陛下が子供のようにお過ごしになる。
そんな優しい未来が、いつか来ればいいと思ってしまうのだ。
戦禍に見舞われるこの国にあって、今だけは優しい夢の中。
小さな小さな女王陛下は安らかな寝息を立てていた。
それを見ながらわたしはただ、その頭をなで続ける。
いつもアルガン様がそうするように――まるで愛しい子供にそうするように。
――空を見上げると、青い空には輝く濃淡。
今では世界樹となった天極から放出される魔力の渦は、あちらに比べてもずっと輝きが強く、美しい。
ここは世界の狭間、根源と物質世界の間にこの世界は存在するらしいのだが、アルガン様に教えてもらっても今ひとつ分かっていない。
アルガン様でさえ説明は難儀なようで、自分も概念的にしか理解していない、と口にしていたところを見るに、わたしでは理解出来る日も来ないのだろう。
分かりやすく言えば妖精の国のようなものだ、という説明が強いて言うならしっくりと来た。
深い森の中、あるいは家具の陰、洞穴の中――そこに潜むという幻想から、繋がる世界の向こう側。
大人になれば忘れ去られる童話の世界。
ここはそんな場所なのだろう。
概ね地形としては似通っているようで、大部分は重なり合っているらしい。
ここも位置関係としては今もアルベナリアの王領であり、人工物が見えないだけで確かに地形的にはなるほど、と思う部分もある。
アルベナリアは平原の中、小高い緩やかな丘の上に存在していて、このお屋敷も周囲が森であることを除けばそのように緩やかな丘の上。
周囲がどうして森なのかと尋ねてみると、クリシェ様もよく分かっていないようで、適当に作ると森になったのだと口にした。
今は拓かれた平原も、かつては多くが森であったのだという。
そういう話は知っていて、もしかするとアルベナリアも元々は森の中にあったのかも知れない。
軍が訓練に用いていた森もその名残なのかも、とアルガン様は興味深そうで、やはりどうにも神秘的な場所であった。
「……全く、何でわたくしが鍬を持たないといけませんの。アーネ様、もう少し強くが良いですわ」
「はい」
ここに来てからは半年ほど――お屋敷総出で農作業。
クリシェ様はぐるるんと木をなぎ倒し、根を引き抜き、セレネ様とリラ様はその木の枝を払って丸太に加工。
アルガン様とエルヴェナ様がそうして出来た場所に鍬を使って土を耕していた。
わたしとクレシェンタ様も鍬係であったのだが、面倒くさいと文句を口にし出したクレシェンタ様を連れて休憩を。
岩に腰掛けたクレシェンタ様の足をマッサージをしていた。
お屋敷も随分と遠くに見え、その裏手に拓かれた土地は一里四方。
クリシェ様もぐるるんの背後に農耕機具らしきものを付けて走らせ始めていた。
今回の開墾予定部分からは木を取り除けたのだろう。
山のように積まれた木々を延々と丸太にしているセレネ様達が大変そうで、次はそちらを手伝った方が良いのかも知れない。
「馬鹿馬鹿しい。魔法を使えば一瞬で終わりますのに……何日掛けるつもりなのかしら」
「でも、これはこれで楽しいですよ。わたしも農作業というものは初めてで、中々新鮮な気分です。鍬の使い方も上手になってきた気が……」
「……あなたの場合は気がするだけですわ」
呆れたようにクレシェンタ様。
いつもの如く、凝りやむくみなどというものを感じられない柔らかい足であったが、クレシェンタ様はマッサージ好き。
何かあると肩を揉め、足を揉めとマッサージを命じることが多く、セレネ様などはいつも呆れたように小言を口にしていた。
とはいえ、客人もいない世界。
仕事という仕事も大してないこの世界においては、そうしたクレシェンタ様に対する奉仕がある意味使用人らしい業務の半分を占めており、個人的にはクレシェンタ様くらいは好き放題に、わがままを言っても良いのではないかとは思っていた。
セレネ様は元より、ご自分のことはご自分でぱっぱと済ませることが多い方であるし、クリシェ様まで使用人。
やはり正直なところ使用人が飽和状態なのである。
クレシェンタ様のようにあれこれと命じて下さる方が一人くらいいても良いのではないかと考えているのはわたしだけではないようで、アルガン様もエルヴェナ様も同意見のようであった。
頭脳冴え渡る思慮深い女王陛下のこと。
こちらに来てから輪を掛けてわがままを仰るようになったのも、もしかするとそれを気遣ってのことであるのかも知れない。
まさにわがままな子供と言わんばかりの表情を見せる、そんなクレシェンタ様の美貌を眺めて微笑んでいると眉間に皺。
「……なんですの? その顔は」
「いえ、クレシェンタ様にお仕え出来て光栄だと、感じ入っておりまして……」
「はぁ、そうですの……」
「はいっ、小さな事から大きな事まで、何でもご命令下さい。このアーネ、喜んでクレシェンタ様のご命令を果たします」
「……、あなたに大きな事を命じる日は、この先も永遠にありませんわ」
何ともうんざりとした様子でクレシェンタ様は告げるも、クレシェンタ様は素直ではない方なのである。
そのお言葉に一喜一憂していたのも今は昔。
笑顔で受け止め、そのほっそりとした足をもみもみと。
露悪的で素直ではない方。
そして意外に照れ屋な方――憎まれ口を叩くのがクレシェンタ様の愛情表現。
人前に立つときにはいつだって完璧な女王陛下であって、そのように振る舞える方なのだ。
他人をいかようにも喜ばせることが出来るそんな方が、そうではない姿を見せるというのは、それだけ信頼されている証拠に他ならない。
それにクレシェンタ様はいつだって、一方的ではなく、言いたいことがあれば言え、と常にわたし達には命じておられた。
遠慮はするなと言わんばかりで、わたしのような一使用人が女王陛下に口にするにはおこがましい、無礼な発言をしたところで怒りはしない。
下らない、と不機嫌そうに話を打ち切ることはあっても、きちんと話を聞いてくれて、きっとその全てを心に留めてくれていた。
誠意には誠意で応える、そんな芯の通った方で、他人を真っ直ぐと見つめる方。
そういう相手を大切に思え、大事に出来る方。
セレネ様はクレシェンタ様がだらしない、こちらに来てから一層だらしなくなった、と常々口にされているが、わたしにとっては今も偉大な女王陛下。
きっとその評価は未来永劫変わることもないだろう、とそう思う。
ここがそんなクレシェンタ様の望んだ楽園であるならば、そのわがままに付き合うことが使用人の責務というものであった。
「いかがでしょう? 休憩が終わった後はセレネ様達のお手伝いなど……鍬には飽きたご様子。あちらもお二人では大変そうですし」
「嫌ですわ。鍬もノコギリも同じですもの。ここの主人たるわたくしがなんでそんなものを……」
「ですが、あまりお休みしているとクリシェ様がお叱りになる気が……あ、そうです。ぜひわたしにノコギリの使い方を指導して頂きたく」
「どこかの赤毛の真似をしないで下さいまし。……、仕方ないですわね」
両足をわたしの左腕に。
抱っこして行けということなのだろう、と持ち上げると立ち上がる。
「アルガン様、セレネ様達の方をお手伝いに」
そして声を上げると、アルガン様は抱き上げられたクレシェンタ様を見て、鍬を持ったまま笑って会釈。
わたしも笑みを浮かべて、気怠そうに空を見上げるクレシェンタ様を眺めた。
小さな体は腕の上に柔らかく、羽毛のように軽く、そして温かい熱を帯びていた。
アルガン様がぎゅうぎゅうと抱きしめたくなる気持ちも分かるというもの――クレシェンタ様は抱っこされるために生まれてきたのではないかというくらいの抱き心地である。
見上げれば空は青く輝いて、きらきら、きらきらと燐光を放つよう。
わたし達以外の誰もおらず、喧噪もなく、お屋敷を除けば森ばかり。
公務もなく、責任もなく、争いも起こらない平和な日々。
腕の中の少女を見下ろす。
ここに来てからのクレシェンタ様は、まるで子供そのものであった。
必要ならばどんなことでもなさる方――ただ、必要である限り振るわれる知性も能力も、ここに来てはちょっとした個性でしかなく、無用の長物でしかない。
見た目通りわがままを仰るだけの子供の姿で、日々を甘えてきって暮らしていた。
他人の目を気にすることなく、まるで醒めない夢でも見ているように。
――いつか願った世界がここにあり、いつか願ったクレシェンタ様はここにいた。
かつてのような『偉大なる女王陛下』など、この先永遠に目にすることはないのだろう。
もはやそんな偉大さなど、誰も求めることなどないのだから。
それで良いのだとわたしは思えた。
それでもこの方はわたしにとって、誰より偉大な女王陛下なのだから。
「……間抜け面で歩くのは構いませんけれど」
そうしてそのまま眺めていると、不機嫌そうにクレシェンタ様がこちらを見やる。
「ちゃんと前を見て歩いて下さるかしら? 不安で仕方ないですわ」
「も、申し訳ありません。でも大丈夫ですよ、流石にこんなところで――ぁ」
ふと足に引っかかったのは残っていた木の根っこ。
「ぅぐっ!?」
抱えていたクレシェンタ様を咄嗟に抱きしめようとして、勢いのままに頭突きを額に叩き込んだ。
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