天地開闢、悠久長路 一

お二人とアルガン様を除けば、老婆から若き日の姿に。

老いていくこと、老いたこと。

それを自然に受け入れていただけに、最初の三日ほどは何とも言えない戸惑いがあったもの。

若々しくなったセレネ様達と顔を合わせると、お互いに妙な気恥ずかしさがあったのだが、あっさり受け入れられたのはきっとアルガン様のおかげだろう。


アルガン様がいらっしゃる、というだけで、すぐに馴染んでしまったのだ。

まだわたし達も老人などではなかった頃の『お屋敷』に。

今となってはこちらの方がずっと年上のはずであるのに、アルガン様が以前とお変わりなく、何とも自然に接するもので、年月の隔たりなんてものは遠く彼方へ消えてしまっていた。


それなりに積み重ねてきたものがあったはずで、多少の成長くらいはあったもの。

わたしでさえそうなのだから、他の方は尚更だろう。

けれど、まるでそんなわたし達が過去に戻ってしまったかのように――あるいは、これまでの年月を共に過ごしてきたかのように、アルガン様は自然とお屋敷の中心にあった。


「……本当、随分と長い年月が経っているのですね」

「はい。アルガン様はやはり、あの日からの記憶も一切?」

「そうですね……一眠りした心地でしょうか。ふと目覚めたら裸でベッドの上で、ふふ、少しばかり驚きました」


クリシェ様の――というより、アルガン様とクレシェンタ様、三人の私室。

端には天蓋付きのベッドが置かれ、クローゼットが壁に並び、中央には大きな机とソファ。


アルガン様はそこに座り、その太ももの左右に頭を乗せるのはクリシェ様とクレシェンタ様。

ここに来てから、お二人はアルガン様のお側でほとんどを過ごした。

お気持ちを考えれば当然だろう。

幸せそうな寝顔を眺めながら、アルガン様はそんなお二人の頭を撫でて、柔らかな――以前と変わりない、美しい笑みを浮かべた。

身につけるのはエプロンドレス。

白い頬は血色も良く、当時は薄れた肉もふっくらと。

少女のような顔に、穏やかで優しい淑女の笑みを浮かべ、窓から差し込む光はそんな三人を神々しく照らしていた。


鼻の奥がじーん、と思わず涙を零しそうになり、目頭を押さえる。

それを見たアルガン様は苦笑して、ご苦労をお掛けしました、と口にした。


「お屋敷にもあまりに変化が少なくて、何十年も経ったという実感もあまりなかったものですから……いえ、こういうことを軽々しく口にするのもどうかと思うのですが」

「……そんなことは」

「でも、あちこち見て回ると屋敷の細かな所には年月を感じますね。この机にも知らない傷が……」

「そ、それはその、大掃除の時にわたしが……」

「ああ、なるほど」


くすくすと、愛おしげに机の傷を指でなぞる。

クリシェ様の手甲を運ぶ際に転び、机に叩き付けたのだった。

アルガン様の楽しそうな笑顔を見て、やはりまた、じーん、と鼻の奥が疼く。


自分は随分な老婆であったはず。

アルガン様の倍の年月を生き、今では人としても使用人としてもわたしの方が経験豊富なはずなのだが、やはりアルガン様は完全無欠、憧れのままの使用人であった。

自分の方が今では年上なのだという当たり前の事実にさえ違和感があり、長い年月をこうして変わらず過ごしてきたかのような錯覚さえ感じてしまう。


アルガン様がいなかった年月などなかったかのように、それが悪い夢か何かであったかのように、アルガン様はアルガン様。

敬愛する偉大な使用人であり、わたしの憧れ。

わたしにとっては今も変わらず目上の方、尊敬すべき大先輩なのだった。


大陸に名を知らぬ者もいない大元帥。

あらゆる武人から敬意を向けられていたセレネ様でさえ、今も変わらずお嬢さま。

あれほど思い悩んでおられたのに、顔を合わせれば早速楽しそうに口喧嘩をして、その光景はやはり以前からの地続きであった。

ぷりぷりとアルガン様に文句を言い、小言を繰り返すセレネ様のお姿は、まるでわたしがクリシュタンドに訪れた頃のようで、このお屋敷はあれから何一つ変わっていないのかも知れないと感じてしまう。


――永遠にこの方達と共に過ごす。

そんな未来に大きな疑問を覚えなかったのは、きっとそれが理由だろう。

内戦が終わってから、お屋敷の外の世界は目まぐるしく物事が動いていたけれど、お屋敷の中はそれから十年、何一つ変わりはしなかった。

昼の間は仕事に出て、夜になれば集まり皆で食事をして、お茶をしながら話をして。


そんな日々をわたしは疑問に思ったことがなかった。

お屋敷の仕事をして、クリシェ様達のお世話をして、そして眠り、朝に目覚める。

穏やかで心地よい、幸福な日常――これがずっと続けば良い。

わたしはきっとそんな風に、永遠というものを心のどこかで望んでいたのだろう。


恐れと言えば、そんな日常が失われることだけ。

永遠を作りたい、とクリシェ様が口にしたとき、セレネ様とは違い、わたしは戸惑いながらも至極あっさりとそれを受け入れていたように思う。

何とも脳天気なこと。

セレネ様やエルヴェナ様、リラ様のように思慮が深い方達には色々と悩まれる部分があったのだろうと思うが、それだけに少しばかり申し訳ない気分であった。


お屋敷は変わりなく、見知った愛しい方達ばかり。

リラ様という客人を招いて永遠は始まり、一週間。

やはり目の前の光景は、思い描いていた幸福をそのままに映し出していた。


「それより……アーネ様もお座りになっては? まだお体に慣れていらっしゃらないようですし、立ちっぱなしも大変でしょう」

「い、いえ、早く体に慣れませんとご迷惑をおかけしますし……」


腕を上げ、手を開いては閉じ、目を泳がせる。

お三方を除いた者達は皆、この新しい体には苦労をしていた。

気を抜くと転倒しそうな、自分の肉体とも思えぬ体である。

今はまだ自分の体を洗うのも難儀で、風呂の水深で普通に溺れるという稀な経験までしたところ――ひとまず現状、入浴は皆で、ということになっていた。

朝の着替えの際もエルヴェナ様と手伝い手伝われでエプロンドレスを身につけていたし、早く体に慣れるというのは現状の急務であった。


魔力で体を操る、という事に慣れたセレネ様もやはりまだ違和感が残っているようで、体術を修めているというリラ様と共に今も庭で訓練をしていた。

そうした努力を知りながら、使用人のわたしがだらける訳にはいかない。


それにセレネ様は言わずもがな、リラ様も同様。

クレィシャラナでは魔力の扱いについて、男女問わず幼少から叩き込まれるそうであったし、エルヴェナ様はクリシェ様の手伝いで魔力の扱いも上手、元よりセンスというものでわたしとは比べものにならない方である。

この体に慣れるのがもっとも遅いのは、まず間違いなくアーネ=ギーテルンスという使用人であった。


「迷惑だなんて、わたしに比べれば。それに急がずとも時間はたっぷりある訳ですし、ゆっくり慣れていけばよろしいのですよ」

「う……で、ですが……」

「休息も大事です。お屋敷の仕事をしている内に、自然と慣れていくでしょうし」


とはいえ、あまり好意を拒むというのも使用人道に反するもの。

アルガン様の言葉に甘えると、その右斜め前にある一人掛けのソファに座る。

腰を下ろすと気が抜けて、だらしなく体が弛緩しそうになり、意識して背筋を伸ばす。

アルガン様はくすりと笑い、それから指先で唇をなぞった。

いつもながら、どこか色気のある仕草――天井を眺めて考え込むようにアルガン様は告げる。


「しかし……国の仕事がなくなったとなると、随分暇が出来てしまいそうですね。お屋敷の仕事と言っても、大したものではございませんし」

「それは……確かに」


頷く。

掃除や洗濯、食事の準備。

アルガン様がいなくなってからも長く、しかしそれでもエルヴェナ様と上々にこなしてきたもの。

クレシェンタ様にはわたしが、セレネ様には時折エルヴェナ様が仕事の際に同行し、お屋敷のことを後回しにする日もあったものの、そういう時にはクリシェ様がお一人であれこれあっさりと片付けていた。

悩ましいクリシュタンドの財務管理についても時折、クレシェンタ様が文句を言いながらあっさり(体感処理速度はアーネ1200倍である)処理してくれることもあり、問題を感じたことはない。


使用人としての側仕えや、そうしたやりくりが必要ないとなれば、四人でお屋敷仕事となる。

それでも一般的には少人数であったが、元よりお屋敷の仕事というものはアルガン様がお一人いればほとんど終わってしまうのだ。

それに加えてわたしにエルヴェナ様、クリシェ様まで加わるとなればやはり、幾分過剰である。


以前より丁寧にやるにしても増える仕事には限界があったし、昼を前にほとんどの仕事が終わってしまうだろう。

今はまだ体に慣れていないため毎日を無駄に忙しく過ごしているものだが、体に慣れるのも精々数年のことだろう、とクリシェ様も仰っていた。


「余暇の時間には何かお考えですか?」

「今のところは……ああ、でも、何かその、お話でも作ってみようかとは、以前から少し……」

「お話……」

「そんな大層なものでもないのですが……そういうものを書き記して、本でも作ってみようかと。随分と前、お父様への手紙を本にしたことを思い出しまして」


ああ、とアルガン様は苦笑する。

中を見せたことはなかったものの、出来上がった二冊の『手紙』を見て、アルガン様が同じ顔をしていたことを思い出して頬を染める。


「あの時は装丁師に頼んだりと色々お願いしたものですが、折角たっぷりと時間もある訳ですし、最初から最後まで自分で仕上げて、物語の本でも作ってみようかなと……」

「物語の本……ふふ、楽しそうですね。とても贅沢で」

「はい」


本というものはそれなりに高価なもの。

記されるものも学術的な内容がほとんどで、娯楽のための本というものは少ない。

子供に読み聞かせるために、有名な物語を本にしたちょっとした絵物語はそれなりに出回っているものだが、あくまで童話や寓話である。

大人が楽しむための、単純な娯楽として作られた本は、万を超える本が眠っていた王宮の図書館でさえ片手の数もなかった。

もちろん、どこかにはあるのかも知れないが、少なくとも街の貸し本屋に並ぶほどにありふれた代物でもあるまい。


読みたい本を自分で作る、というのは実に楽しそうで、もし本当に永遠を過ごすならばと考えていた一つであった。


「アルガン様は何か?」

「そうですね。果樹園を広げたり、一から畑を作るというのも良いでしょうか。各地から苗や種を集めて、自分で品種改良をして、美味しい野菜や果実を収穫して、調理して。以前から興味はあったのですが、やはり手間と年月が掛かることですから、小さな果樹園で諦めていたのです」

「なるほど……」

「ふふ、きっとクリシェ様にも楽しんで頂けると」


そう言って柔らかく微笑み、クリシェ様の頭を撫でた。

本当に幸せそうな寝顔は子供のようで、それを見ると本当に、良かった、と思う。

ここに来てからはお二人とも表情が一段と華やいで、幸せだという雰囲気が全身から溢れ出していた。


「その時は是非、わたしもお手伝いを」

「ありがとうございます。とはいえ少し先……本格的に始めるのはもう少しここでの生活に慣れて、落ち着いてからですね」

「……はい」


アルガン様の穏やかな微笑を眺めると、感嘆の息が漏れてしまいそうだった。

アルガン様がいて、クリシェ様達がいて、わたしがいる。


自分が夢に描いたそんなお屋敷が、今は戻ってきたのだと。











昔働いていたのはイルネ屋敷と呼ばれる場所であった。

王の庭と呼ばれる王領、大庭園の中に建てられた七つの屋敷の一つ。

その中でも最も利用されるのがイルネ屋敷と呼ばれる場所で、基本的には貴族――王家が臣下達を出迎える場所。


どちらかと言えば屋敷というより、屋敷の形をした応接間のようなもの。

朝、昼、晩で別の貴族を出迎えることもあり、忙しい時期には忙しかったものの、人が泊まっていくのは稀なこと。

そこに滞在する人間もあまりいなかった。


わたしは王領の使用人なのだ。

入ってから半年程度はその肩書きに満足していたように思う。

仕事を覚えるのでいっぱいいっぱいだったというのも理由にあっただろう。


けれどわたしが夢見て思い浮かべていたのは『誰かにお仕えする使用人』であって、エプロンドレスで仕事をしているだけの日常には、どうにも違和感が拭えなかった。

お客様を出迎えて、そのお世話をし、見送る。

その仕事にやりがいが一切ないということもなかったが、主人に付き従って屋敷に訪問する使用人達を眺めると、何かが違う、と感じるのだ。


お仕えし、忠誠を捧げるべき主人を持たないのが王領の使用人というもの。

無論建前では王家に忠誠を捧げて仕える形にはなっていたのだが、王家の方々とは雲の上の存在であって、会話をすることも目を合わすこともない存在。

遠目に散歩をしているクレシェンタ様や陛下達をお見かけするくらいのことはあったが、お仕えしている、というにはあまりに距離が遠かった。


何とも言えない閉塞感。

途方に暮れる、とはそのような状況を言うのだろう。

自分は果たしてここで何をしているのだろうか。

やはり所詮は夢物語、現実はお話のようには出来ていないのだ。

そんな諦めが顔を覗かせるようになった頃、訪問したのはクリシュタンド家――そしてそれに付き従うアルガン様。


その時の感動が、わたしにとって一体どれほどのものであったか。


アルガン様はあのような方であるし、自己評価がとてつもなく低い方(このお屋敷にいらっしゃる方の特徴とも言えるだろうか)である。

未だにそれが上手く伝わっていない気がしていてもどかしいが、ともあれ、それはまさに晴天の霹靂。

本当にこんな方がこの世にいたんだと、わたしの頭は鈍器でがつんと叩かれたようであった。


理想が形となって現れる、という出会いはある種、暴力的でさえあると思うのだ。

一目にそれと理解して、ああこれだ、と心の全てが囚われる。

暗闇に突如光が差し込むように、それが周囲の全てを照らし出し、道が目の前に浮かび上がり――それがなかった世界など、想像も出来なくなるほど世界は目映く。


誰だって、こうなりたい、という理想くらいは子供の時分に持つものだろう。

大人になれば多少の分別と共に、こうはなれまいと諦めていく、そんな夢。

例えばそれが殿方であれば、将軍であったりするのだろう。

ただ、どれだけ努力したところで、夢を叶えるためには運と才能と巡り合わせが必要で、それは誰にでも与えられるものではない。

百人隊長でさえ、それを志す百人の中に一人の存在――子供の夢など叶わないのが普通である。

それを諦めることは恥ずかしいことではなくて、大人としての分別なのだろうとわたしは思う。

あの日アルガン様に出会うことがなければ、多分わたしもその一人であっただろう。


それが悪いことなどとは思わなかったし、それなりに幸せだったに違いない。

例えば実家に戻り、どこかの殿方と結ばれて、子宝に恵まれれば、昔の自分はこんな馬鹿なことを考えて王領に行ったのだとか、恥じることなく笑い話にしていただろう。

偉そうにしたり顔で、自分のようにお馬鹿な夢を見る子供に何かを説いていたのかも。


ただ、わたしの理想はアルガン様という形となって、目の前に現れてしまった。

もはやそれをお馬鹿な理想や、子供の描く夢物語と笑い飛ばすことなど出来はしない。

この方のお側で、同じ主人にお仕えする。

そんな未来の輝きが形となって現れれば、後はその輝きに手を伸ばし、歩み出すほかないのである。


振り返ってみれば、わたしの人生はその出会いが全て。

その出会いの前と後で、普通であったわたしの全ては変わったと言えた。


「くく、なるほど……若さとは力だな」

「す、すみません。つい熱が……」


内戦最後の戦が終わった後。

天幕のベッドに横になっていたのは、戦いの後で少し体調を崩されたガーレン様。

その看病をしながら話をしている内に、内容はわたしがクリシュタンドに来た理由についてとなっていた。

思わず熱弁してしまったことを恥じていると、ガーレン様は苦笑しながら首を振る。


「いや、それくらいで丁度良いだろう。ベリーは……そうだな、悪く言えば少し気難しいというか、人見知りをするところがあるから」

「……人見知り?」


ガーレン様は身を起こすと頷き、サイドテーブル代わりの箱の上――薬草茶に手を伸ばした。


「昔は特にな。初めて顔を合わせてからはもう二十年ほどの付き合いになるが、最初の十年ほどはまともに話をした記憶もない。笑った顔もほとんど見たことがなかった。元々随分静かな娘……今でこそ随分と明るくなったものだが、だからと言って生来の不得手が得手になったという訳でもあるまい」

「そう、なのですか……」


ガーレン様は頷くと、薬草茶へと口付ける。

人見知り――とは思えぬ方であった。

誰に対しても物腰柔らかく丁寧で、笑顔を絶やさず、好かれはしても敵を作らない方だろう。

どちらかと言えば話しかけやすい雰囲気があったし、それはわたしに限ったことではあるまい。


「姉のラズラは正反対、随分と元気が良い女丈夫で……ボーガンも尻に敷かれておったくらいなのだが、あの姉妹はまさに太陽と月であったな。そんなラズラを亡くしてからは随分と無理をしていたものだが……本当に良い巡り合わせ。クリシェと出会ったことで随分と良くなったように見える」


それはセレネにも言えることだが、とガーレン様は続け、一息をつく。


「クリシェは見ての通り、少し変わった娘だ。難しいことも出来すぎるくらいにこなせるが、時に簡単なことが分からなかったりする。ボーガンに預けることを決めて、受け入れてもらえるだろうかとわしも心配していたものだが……逆にそんなクリシェだからこそ良かったのだろう。恐らくはお互い、通ずる部分があったに違いない」


通ずる部分、と思い浮かべて、二人の顔を思い浮かべる。

似ているかと言われれば、むしろ全く違う二人だろう。

ただ、あれほど自分にも他人にも厳しいクリシェ様のような方に、心から尊敬されるということがどれほど難しいことかは理解はしていた。


周辺世界に名を轟かせる、そんな武人に対して平然と指導をしてしまうような少女である。

天才、という言葉一つでは片付けられないほどの才覚。

わたしのような凡人からすれば天才と称する他ないセレネ様であっても、そういう点では比較の対象にさえなっていないというのだから。


「頭が良すぎるが故に、色々なものが見えすぎてしまうのだろうな。だからこそ何事も理屈で考えてしまい、時にその袋小路に迷い込む。……素直な感情に従えば、あっさりと気付けることにも気付かぬまま」


ガーレン様は柔和な笑みを目元に浮かべてこちらを見た。


「……そういう意味で、君のような子が屋敷に来てくれたことは本当にありがたいことだ」

「え、えと、わたしはそんな。勝手に押しかけてしまったようなものですし……今もご迷惑ばかりで」

「迷惑には思うまいさ。……ただの憧れ一つで王領を飛び出してしまう、そんな君の在り方はきっと、ベリーには随分と目映いものだろう。もちろん人によっては君を愚かと口にするものもいるだろうが」


苦笑して、ガーレン様はご自分の頭を示した。


「だが、賢さが幸せに繋がるかと言えばそうでもない。心のまま素直に、君のように行動出来ることは何よりの美徳だよ」

「美徳……」

「きっと、ご両親の教育も良かったのだろう。……落ち着いたらちゃんと、手紙でも出してやりなさい。随分と心配しておられるはずだ」

「は……はい」


ガーレン様は優しい微笑を浮かべ、わたしは少々恥ずかしくなり、目を泳がせる。

実家を出てくるときにはお父様と大喧嘩。

その時にはどうして分かってくれないのか、と思ったものだが、お父様からすれば娘を心配するのは当然だろう。

申し訳ないことをした、という自覚は流石にあった。


「……素直で良い。もちろん君にも言い分はあるのだろうが、親はいくつになっても我が子を心配するもの。口うるさいと感じる言葉も愛情の一つ。……それがただの喧嘩で終われば良いが、拗れることもあれば、謝る機会を永遠に失うこともある」

「……はい」

「わしも父親とは喧嘩別れしたまま――尊敬していた父であったのに、軍人になることを止められ、一時の感情で罵って……帰ったときにはもう、謝ることさえ出来なんだ」


少し遠い目をして、ガーレン様は口にする。


「本当の愚かさとはそういうことだ。……そうならないためにも、きちんと言葉にしておきなさい」


頷くと頭を撫でられる。

初めて見たときには厳しそうな方に見えたが、どこまでも優しい方だった。

声音は静かで落ち着きがあり、意外なほどに柔らかい。


「大人になればむしろ、素直な心に従うことの方が難しい。下らない矜持や因果、理屈に論理、立場や責任に支配されて、わしはそういう愚かな後悔ばかりを積み重ねた。……幸せにすると約束した妻にもろくな言葉を掛けてやらないまま、一人で旅立たせ……愛していると素直に口にしたのも、若い頃に数えるほどだ」


寂しそうに目を伏せて、目を閉じる。

それからわたしを見つめて続けた。


「だからそうやって素直な心の内を、君のように何のてらいもなく人に語れてしまえることは、何よりも素晴らしい才能であるとわしは思うよ」


ベリー=アルガンという女性との出会いは、今まで見ていた世界が全てひっくり返ってしまうような、そんな衝撃をわたしに与えた。

絵物語のような、優美な世界に到る道――けれど全てが輝くような景色の中では、歩くことさえ畏れ多い。

全てが輝く世界において、自分だけが異物のように思えてしまうから。


「……それを大切になさい。そうするだけで、君は多くの人が間違う道を、きっと正しく進めるだろう。……それは愚かな賢しさに勝る、大いなる財産だ」


だからこそ、そんなガーレン様の言葉がどれほど勇気を与えてくれたかはわからない。

わたしは多分、呆れるくらいのお馬鹿であったのだと思う。

そのように言われることにも慣れていて、わたし自身もそうだと感じる。


だからこそ、それは素晴らしいことなのだ、とそんな風に言われたことは初めてで――その言葉がわたしにとって、どれだけありがたく、嬉しいことであったかなど、やはりガーレン様には気付いてはおられないのだろう。


「……どうした?」

「も、申し訳ありません。嬉しくて……」


困ったように、苦笑するガーレン様の手はどこまでも優しく頭を撫でた。

ぽろぽろと溢れる涙が止められず、俯きながらハンカチで目元を拭い、されるがまま。


途方に暮れたわたしの前――そこに天地を作ったのがアルガン様なら、


「全く、泣くほどのことはあるまいに」


ガーレン様は、そんな世界を歩む勇気をくれた方。


わたしにとってお二人は、言うなれば神様のような存在であった。

きっとお二人は困ったように、褒め言葉にも過剰なのだと否定をなさることだろう。


――けれど、わたしはそう思う。

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