責務 六

――キッチンに入ると、そこにいたのは赤毛の使用人。

肩に掛かる程度であった髪も、いつからか伸ばされ背中まで。

一つだけ灯された常魔灯と月明かり。

仄かに輝くキッチンに、白いネグリジェを身につけ、その後ろ姿は溶け込むようで美しい。


「アーネ様もお飲みになりますか?」

「え?」


言葉は振り返る前に。

こちらを見つめたベリーの微笑に、やや驚いて頷いた。

ベリーはそのまま鍋に新たなミルクを注いでいく。


「その、やっぱり足音だとかで分かるのでしょうか……?」

「はい」

「……すごいです」


素直に告げると苦笑して、冗談ですよ、と口にした。


「クリシェ様と違って、扉の開け方や足音だけでは確実にとは。まだ部屋から灯りが漏れていましたし、昨晩もホットミルクを作っておられたようでしたから、それでアーネ様だと気づけただけです」

「な、なるほど……」


ちょっとした手品です、と悪戯っぽく笑みを浮かべて、ミルクを冷蔵庫に。

どちらにせよ、それで確信を持てるのはすごいことなのではなかろうか。

告げる前にベリーは口にした。


「……ご心配ですか?」

「ぁ……その、はい」


ベリーはあまり冗談を口にしない。

口にする時は大抵クリシェやセレネ、クレシェンタ――少なくともアーネにそうした言葉を掛けることはなかった。

けれどその冗談に気遣いの意図を察して、それがどうにも嬉しく思う。


本格的な交流の前に、父はクレィシャラナを訪問し、しばらくそこで文化を学ぶつもりであると先日王都に手紙が届いた。

クレシェンタは許可を出しており、丁度今頃、父はクレィシャラナにあるだろう。


昨日は丁度、夕食の席でそのような話に。

セレネに尋ねられ、クリシェはベリーのためその山に踏み入ったときのことを語っていたが、クレィシャラナは厳しい土地。

ぐるるんのような魔獣――それも凶暴な魔獣がそこら中にいるのだという。


狩った魔獣の肉を大量に捨ててしまい、思えば可哀想なことをしただとか、魔獣が単なる狩りの獲物か何かであるかのような暢気な口ぶりではあったが、それでもそこがどれほど恐ろしい世界かは容易に理解が出来る。

ぐるるんを初めて見たときは、思わず怖くて青ざめたもの。

クリシェやベリーが繰り返し大丈夫だと口にして、それに甘える姿を見てきたことで慣れはした。

今では可愛いとすら思っていたが、それはあくまでぐるるんが特別大人しいから。


魔獣一頭が本来、軍の百人隊を容易に壊滅させる化け物であるということくらいは知っていたし、実際にぐるるんの体躯や身体能力を見れば疑う余地もない。


そんな魔獣が大量にいる山に、父が入り過ごしている。

それを想像すると、夜も中々寝付けなかった。


「え?」


目の前には白い猫が浮いていて、頭の上に小さな蜂蜜色の猫。

二匹は両腕を上げて口を大きく開き、アーネに襲いかかる真似をした。

その姿はどうにも可愛らしく――そしてアーネの手にマグカップが渡されると、猫は宙を歩きながらその中に。

大きな猫は湯気を立てるミルクになり、小さな蜂蜜色の猫はその水面を泳ぐように、溶け混ざる。


呆然とマグカップを見つめ、顔を上げる。

青い燐光を指先に残したベリーは苦笑し、どうでしょう、と尋ねた。


「所詮はお遊びみたいなものですが」

「……、童話の魔法使いみたいです」

「ふふ、ありがとうございます」


アーネは微笑みながら、マグカップを両手で包んだ。

ここだけの秘密、ということで、それがどういうものかは皆教えてもらっている。

宙に術式を刻印し、魔水晶に頼らず魔術を行使する。

それはきっと、とてもすごいことなのだろう――けれどそれほど強い驚きもない。

このお屋敷はお伽噺の世界のようで、驚きには満ちあふれていた。


けれどそれとは無関係に、目の前の女性は魔法使いか何かなのだと思う。

今の一瞬でアーネの中の暗い不安をどこかに消して、子供のように安心させてしまうのだから。

蜂蜜の混ざったミルクに口付けると、アーネの頭を優しく撫でて、彼女は告げる。


「アーネ様はやっぱり、笑った顔がとても素敵ですね」

「……申し訳ありません。使用人失格でした」


きっと、暗い顔をしてしまっていたのだろう。

告げると、いいえ、と彼女は答えた。


「わたしも随分な心配性でございますから、そのお気持ちもある程度」

「……はい」

「お父様は大丈夫だと、無責任に口にすることは出来ませんが……でも、不安も分け合えば少しは軽くなるものです。お一人であまり無理をなさいませんよう、いつでも仰ってください」


くすりと柔らかく微笑んで、頬を両手で包み込むと優しげに。


「いかがでしょう? 忙しい、忙しいだなんて、お嬢さまが今日も熱心に夜更かしされているようですから、そのお邪魔虫になりに行こうと考えているのです。……アーネ様もご一緒しませんか?」

「……はい。ふふ、お付き合い致します」


部屋を出る時にも、まだセレネの部屋の灯りが零れていた。

誰より真面目で努力家で、セレネは毎日当然のように無理をこなす。

そんな彼女を気に掛けながら、アーネを気に掛け、エルヴェナを気に掛け、クリシェやクレシェンタを気に掛けて、そうして毎日を過ごしているのだろう。


『――人は形から。目の前が見えなければ歩けぬように、何を目指すかは大事なことだ。私もお前がひとまずの目標を見つけてくれたことは嬉しい。だがな――』

『はい、お父様! わたしはあのお話のような使用人を目指します!』

『……う、うーむ……』


彼女はアーネの憧れる、お伽噺の使用人。

自分が彼女のようにはなれないことは理解していて、けれどそれでも、それを目指して歩くこと――それは何よりきっと、良いことだろう。

父もまた、そうであると語っていて、そしてそのお役目でクレィシャラナに。


「お父様はわたしが敬愛するお一人……素晴らしい父で、素晴らしい貴族です」

「……ええ。大変ご立派な方であるとわたしも」

「ですから、どんなに危険なお役目でも……きっと貴族としての責務を見事に果たし、帰ってこられると、そう信じることにします」


はい、と嬉しそうに彼女は頷く。


「どうしても一人で考えると心配になるもの……大丈夫とは思っていても、あんなにお強いクリシェ様のことですら、戦場に出れば心配してしまうくらいですから」

「はぁ……今のアルガン様のように、どうしてもう少しお気遣い出来なかったのかと……お恥ずかしいばかりです」

「そんなことは。わたしの方こそ、アーネ様には随分お助け頂いておりますよ、アーネ様がお気づきになっていないだけです」


行きましょうか、とミルクをマグカップに注ぎながらベリーは告げる。

セレネ用のミルクを先んじて受け取りつつ、はい、と答え、そして彼女に続いてキッチンを出る。


「お嬢さまは今頃きっと、難しい顔で唸っておられる頃です。その百面相でも眺めながら無駄話をして、ゆっくりミルクでも飲みましょう」

「……怒られてしまいそうですね」

「ふふ、良いのですよ。大事なことは何をするかではなく、何を思ってそうするか」


彼女は指を立てるとくるりと回る。

ネグリジェの裾がふわりと舞って、窓から差し込む月明かりに、柔らかい光を反射させ。


「主人のお仕事が捗るよう、雑務を片付けお世話をするのも仕事の内。夜更かしする主人を怒らせて、やる気をなくして仕事を投げ出したくなるように……時にはそうして、文句を言われるのも仕事の内」


そして、悪戯っぽく彼女は笑う。


「それもまた、使用人の大事な責務でございますよ」












――迫った翠虎の眼前に、ワイン瓶を放り投げた。

そして手に持つ宝剣の切っ先――その腹で叩き割る。

破片と共に撒き散らすのは、香りのキツい香水だった。


倒れ込むように身を伏せて、その剛腕を寸前で躱し、すぐに立ち上がる。

顔面に大量の香水を浴びた翠虎は恐ろしい悲鳴を上げながら暴れ回り、その顔を腕で拭っていた。


着飾ることを好まないクレィシャラナの民。

色々考え持ってきた贈り物の一つが香水であったが、受け取ってはもらえず。

しかし今は、それを提案してくれた妻に深く感謝する。


小瓶一つで銀貨数十枚――本来的には極少量を仄かに香らせる程度に使うもの。

原液をそのまま顔に浴びせられれば、人間であってもむせ返る。

嗅覚に優れるという翠虎であれば、その苦しみは人間の比ではあるまい。


効いたことを確信しながら立ち上がる。

しかしそれでも、手に持つ剣が震え、足がすくんでいた。


悲鳴一つで天地を揺らし、体を芯から痺れさせる。

暴れ狂う巨獣の姿は明るい広場に出たことで、より鮮明にその獰猛さを知らしめる。

転がり振るった腕は、頑丈な井戸枠の石積みを一息で薙ぎ払い、その姿を見れば己の矮小さがはっきりと理解が出来た。


「っ……」


逃げ出すべきだと本能が訴える。

両脚はまるで石化したように、呼吸は止まりそうだった。

自分は十分にやった、と称賛する心があり、妻や子供達の姿が目に浮かぶ。

ここで死ねば、己は二度と、妻にも子らにも会うことはない。

死にたくないと全身が訴え、全身を恐怖で震わせる。


「侯爵ッ!」

「侯爵! お逃げを!!」


頭上から、そして背後から響いた声にはっと気付いて、苦痛すら感じるほどに剣を握りしめた。

痛みによって恐怖を押し殺し、踏み込む。

一瞬、前に踏み込んだ事への後悔が去来した。


――生涯でこれほど長い刹那があっただろうか。

今もなお目に焼き付く、弟の剣を思い浮かべた。

アルゴーシュへの、尊敬の眼差しを思い浮かべた。

体は前に進みながら、心中は過去へと戻るよう。

父の言葉を思い浮かべ、聞いた言葉を我が物顔で、弟に語る自分の姿を思い浮かべた。


生まれこそが貴族の証明などではない。

その責務を果たすため、ただ愚直に。

己の全てを捧げるその姿こそが、貴族を貴族たらしめるのだ。


背後には守るべき弱者。

眼前には恐るべき怪物。

未だ、アルゴーシュは己の責務を果たしてはいない。


『多くの剣術があり、それぞれに美点はあるでしょう。しかしこのザインの剣は貴族に最も相応しい剣です。守るではなく踏み込み、貫き、相手に先んじて相手を殺す。臆病者には振るえぬ剣、己の修練、剣を信じ、命を賭す覚悟がなければこの剣は振るえません』


子供の頃、客分として招かれていた師の教えを思い出し、切っ先を前に。

全身をただ、相手を貫く刃に変える。

己の五体を武器と変え、死を恐れず、その修練を解き放つことに全てを捧げる。

残る五間の間合いから、全身をバネのように縮めて捻り、引き絞った弓の弦で弾くように――もはや己でさえ知覚も出来ぬ速度に至り、


「――ッ!!」


練り上げたその全てで、翠虎の腹へとその刃を突き立てる。

肉を貫く感触さえなく、中程まで。

悲鳴を耳にしながら突き立てた刃を引き抜き、構え、


「ぐぅっ!?」


その剛腕の一撃で跳ね飛ばされ、宙を浮く。

数間を飛ばされ、家屋の前の樽を破壊し、転がって咳き込む。

頑強なはずの革鎧は陥没し、胸に鈍痛――肋骨が折れたか、ヒビが入ったか、あるいは内臓か。

痛みに動けず、それでも必死に体を起こす。


刃を一尺は突き入れたはず。

だというのに翠虎は身を起こし、天地を揺るがす咆吼を上げる。

そしてその怒り狂ったその目でアルゴーシュを捉えていた。


――無念。

考え得る限り、生涯最高の一撃であった。

あれほどの剣を振るったことはない。

それでも、目の前の獣は更なる高み――アルゴーシュの決死の一撃さえも意に介さず、こちらに迫っていた。


逃れ得ぬ死に目を閉じかけ、


「――侯爵をお助けせよ!!」


響いた声に目を見開く。

剣を引き抜き、あるいは槍を手に、翠虎に向かう部下達の姿だった。

投槍を躱して翠虎は飛び退き、男達は二人一組で散開。

頭上からも矢が翠虎に放たれ、何本かが突き立ち、そしてアルゴーシュと翠虎の間に壁を作るように槍が大地に。


「命に代えても侯爵に近づけさせるな!」

「カ、ックス……っ!」

「侯爵、時間を稼ぎます!! お逃げを!!」


アルゴーシュが貴族の責務を全うしようとするように。

彼らもまた、護衛としての責務を全うしようとしていることに気付き、目を見開き――そして笑みを浮かべると、再び剣を握り締める。

苦痛を殺して立ち上がると、前に出た。


「っ、逃げはせん! 私を補佐せよ!!」

「っ……、は!!」


体は動けぬほどに苦しく、けれど己は魔力保有者であった。

ただ魔力の流れに集中し、魔力によって構築する仮想の筋肉を操り、ただその意志によって己を前へと進ませる。

それで無様に殺されようと、今このとき、己の責務を全うせんがため。

呼吸がある限り、命が尽きぬ限り、歯を突き立ててでも時間を稼ぐのだと、ただ己の責務だけに目を向けた。


己の前に突き立てられた槍を掴み、全力で翠虎に投擲すると、他の者もそれに続く。

降りてきた六人は皆、魔力保有者。

その投槍であれば翠虎にも有効な打撃となる。

訓練を重ねた槍は一本とて当たることなく、けれど翠虎は逃げ回る。

家屋に身を隠してそれを避け、櫓に登る男達の矢がその位置を示した。


それでも相手は魔獣――人の比ではない。

手負いでありながら矢と槍を避け、信じられぬ速度で走り回り、家屋を容易に飛び越えこちらへ。


「――ッ!!」


躱しきれぬ、と思いながらも前に踏み込み、ザインの剣。

構えた瞬間、あちらが一瞬早いと理解しながら、刃を突き立てるべく踏み込んだ。

これまでの修練を思い浮かべて信じ、己が死しても、必ず刃を突き立て、僅かな時間を稼ぐのだと。


知覚も出来ぬ、加速した刹那に、翠虎の体が空中で揺らいだように見えた。

足りなかった一瞬を上回った切っ先はそのまま刃を肉に埋め込む。

突き立てたのが喉ではなく肩口であったことに気付き、舌打ちする間もなく、宝剣を手放し、その体を蹴って転がり逃げた。


その視線の先では暴れる翠虎。

肩口から剣を埋め込まれ、脇腹には槍が突き立っていた。

護衛達のものではなく、クレィシャラナの槍だと気付いた瞬間に、翠虎に飛びかかるのは咆吼する大柄巨躯の男だった。

尚も暴れる翠虎の腹から槍を引き抜き、そのまま何度も突き立てた。

そして一際深く突き立てると、腰の大振りな曲剣を引き抜き、痙攣する翠虎の首に大上段から振り下ろし、肉に食い込ませる。


どこまでも荒々しく、魔獣以上の鬼気迫る姿。

荒く肩で呼吸をしながらこちらに近づく。


「っ……、ドゥカラン殿……」


こちらに目をやったドゥカランは眉間に皺を寄せ、告げる。


「黙ってろ。仰向けになれ」


言われた通りに転がると小刀で革鎧の繋ぎ目を裂き外す。

そして服も同じく裂き破ると、確かめるように軽く胸に触れる。

痛みに声を漏らしながらも耐えていると、少しして手を離した。


「酷くはない。死にはしないだろう。だが、しばらくは動くな。……おい、女達の所へ連れて行って誰かに手当をさせろ」

「っ、わかりました。侯爵、肩を」

「ドゥカラン、ギーテルンス様は……!?」

「無事のようです、リラ様。骨にヒビは入ってるでしょうが、革鎧のおかげか酷くはない。これ以上暴れなければ死にはしないでしょう」


羽ばたきと共に、リラが現れ、彼女はほっと胸を撫で下ろす。

そしてグリフィンを飛び降り、駆けるようにアルゴーシュに近づいた。


「あちらも仕留め終わった様子。戦士達が戻ってきています。ギーテルンス様は安静に、しばらくお休み下さい」

「ええ、っ……」


けほっ、と咳き込むと、胸の痛みに蹲りそうになり、カックスがそれを支え、リラがその背中をさすった。

唾に血が滲んでいるのを見て、リラはギーテルンス様、と声を上げ、苦笑し首を振る。


「口の中を切っただけ……その血です。ご安心を」

「……、本当に、ありがとうございました、ギーテルンス様」

「……いえ」


リラに代わってもう一人も、アルゴーシュに肩を貸した。

それに身を預けながら告げる。


「私の責務を果たしたまでのことです。……しかし、まだまだ油断は出来ぬ状況。後はお任せします、ドゥカラン殿」

「……、言われるまでもない。怪我人は邪魔だ、行け」

「……ドゥカラン」


アルゴーシュは苦笑しながら、そのまま広場を後にした。









戦いの興奮で痛みも薄れていたのだろう。

それから三日ほどは、軽く動くだけでも激痛が。

同じような怪我人は戦士達の中にも何人もいて、女衆が話し合いに使う会議場に纏めて寝かせられて手当を受けた。


話し相手には事欠かないのは幸いだった。

打撲に良いという軟膏を塗り、痛み止めを飲ませ、手当てをしてくれる女達は心から感謝していると礼を言い、あれこれと外のことを話してくれたし、部下達も手の空いたものが様子を見に来て畑のことなどを話した。

同じ怪我人同士、体を休める戦士達とも暇つぶしに会話を。

どういう風に怪我をしたのかと話をしながら、穏やかに時間を過ごす。


じっとしていられないのが性分であったが、同様の気持ちらしい彼らのおかげで、気を急かさずに済んだことは幸い。

幸い今回は死人も出なかったらしい。

丁度櫓から見えた、跳ね飛ばされた男もそこにいた。

アルゴーシュと同様、胸の打撲に加えて、首も固定され、右腕が折れ、左足も捻ったらしい。


丁度寝床も隣。

それを見れば痛い痛いと嘆かずに済んだし、まだまだ若く、面白い男。

アルゴーシュに妻と子がいるということを聞いて、どうやれば女性を振り向かせられるのかと恋愛相談までする始末で、他の男達からも笑われていた。

丁度手当てに来ている一人が意中の相手のようで、彼女に手当てをされながら石のように固まっている様子は、流石にアルゴーシュも思わず笑ってしまうほど。


よほど好きなのだろう、と鈍感だった妻に随分苦労したことを思い出した。

優しく穏やかで飾り気なく、使用人として訪れた彼女にすぐさま惚れ込み、けれど気持ちに気付いてもらうためには五年の歳月を。

妻の中では共に過ごす内、お互い自然に仲良くなり、意識しあうようになった、ということになっているようだったが、アルゴーシュが想いに気付いてもらうために、どれほど努力していたかなど未だに理解はしていまい。


そんな妻を思い出せば、アーネのことも。

アーネはその美点とも難点とも言える母の気質を受け継いだが、似なくていいアルゴーシュの悪いところまで受け継いでしまい、この先はやはり心配であった。

女王の側、今を幸せに過ごしてくれるのは嬉しいが、しかし父としてはこれから先のことも心配になるもの。

そんな身内の話をしながらも、そうして日々を過ごす。


出歩くことを許されたのは一週間ほど経って。

丁度その辺りにヴィンスリール達も戻ってきていたようで、話を聞いていたのか、アルゴーシュに深く感謝を告げた。


有事にあって、基本的に戦士達は見舞いをしない決まりらしい。

リラなどは度々訪れていたが、戦士達は誰一人訪れず、戦士達は己の責務に忠実であった。

しかしそうして表に出ると、若い者から年嵩まで、多くの男達はアルゴーシュを笑って迎え、肩を叩く。

以前はアルゴーシュを不審な目で眺めていた者達も同様に、見直したのだと。


死にかけ、怪我をしたことも、そうして彼らに受け入れられたことを思えば小さな事。

痛みさえ誇らしかったが、しかし、それを口に出しはしない。

他の集落では死人が出ているところも当然あったらしい。

彼らに取ってはそれが日常なのだ。


アルベランでは軍人であっても、翠虎に立ち向かうことは強い勇気ある行いであると称賛される。

槍を突き立てただけでも勇者として、将軍自ら褒美を与えることが普通。

討ち取ったとなれば女王直々に褒美を与えられ、それだけでリネアの爵位を与えられるだろう。

だが、彼らの中ではそうであって最低限。

翠虎を前に立ち向かうこと勇気は、持っていて当然のものなのだ。

怯えて振り絞った勇気を思い出せば、やはり彼らに誇ることは出来ない。


アルゴーシュもまた、当然のこととして受け止め、当然のように日常に戻る。

朝には軽く剣を振り始め、畑に顔を出しては実りを眺めた。

大きく育った水飲み芋を収穫し、是非とも集落の皆に食べてもらいたいとリラに告げると、山が落ち着き、無事に切り抜けたことを祝う宴をすると伝えられ。

そうして、アルゴーシュも宴の席に。


男達は槍や弓の腕を競い、この時ばかりは女達も軽く着飾り、踊り。

酒を飲み、肉を食っては宴に興じる。

アルベランの街で行なわれるような祭りと比べれば、何ともささやかなもの。

各地の村々で行なわれているものと変わらない。


けれど心の底から楽しそうに笑い合う姿を見れば、街の祭りにも負けないものだとアルゴーシュは思う。

大怪我をした例の男が意中の彼女と過ごし、固まっているところを眺め、苦笑していると、


「おい」


声を掛けられたのは後ろから。

振り返ると、そこにいるのは見上げる巨漢。

先日のものだろう、翠虎の毛皮を身につけていた。


「ドゥカラン殿。末席を汚させてもらっております」


隣に座っていた部下達はやや緊張した様子を見せ、アルゴーシュが頷き、少し横にずれたのを見て、彼らも少し座る位置をずらした。

あれからドゥカランとは、ほとんど会話を交わしてはいない。

礼を言っても、お前に礼を言われる筋合いはないと歩き去り、アルゴーシュに近づくことも話しかけることもなかった。


そんな彼がわざわざ来てくれたことに内心ほっとして、空いていた酒杯へ持ってきたワインを注ぐ。

唯一受け入れてもらえた贈り物――あちこちの席で、同じものが飲まれていた。


ドゥカランは黙ってそこに座ると、差し出された酒杯を煽る。

そして、口にした。


「平地も酒の味は悪くない」

「つまみに芋はどうでしょう?」

「もう食った。不味くはないが、美味くもないな」

「荒れ地に根付き、育ちやすいことが利点の芋ですから。一応これはつまみ用にしたものなのですが」


薄く切った水飲み芋を、軽く油で揚げたもの。

塩と油の味で誤魔化せば、つまみとしては悪くはない。

ドゥカランはそれを取り、口にしながらワイン瓶を手にする。

アルゴーシュは軽く頭を下げ、酒杯で受けた。


ドゥカランはそのまま自分の酒杯にワインを注ぎ、乾杯をしようと酒杯を差し出すアルゴーシュを睨む。

それから、ほんの少し乾杯するように酒杯を持ち上げ、それから口付けた。

アルゴーシュは苦笑し、同様に。


「認めた訳じゃない。腕前は戦士として三流、あれで良くもまぁ偉そうな口を利けたものだ。百に一つの命拾い、ラシェルナ様に感謝を祈れ」


ラシェルナというのはクレィシャラナに古くから伝わる狩人の神。

平地の頃から続く、聖霊とは別の信仰の一つであった。

アルベランではライセルナという、同様の神がいる。恐らく、源流は同じなのだろう。


「はい。ドゥカラン殿の槍がなければ、一瞬翠虎が早かったでしょう」

「踏み込む前に気付け。さらには周りも見えていない。平静を保ちさえすれば、槍を構える俺が見えていたはずだ」

「……申し訳ありません」

「三流ほど無謀と勇気を履き違える。他の奴らがお前達は良くやったと褒め称えるからといい気になるな。ただ二本足で立つだけでも、赤子が立てば褒めそやすものだ」


悪し様に言われながらも、素直に喜ばしいと思う。

三流の『戦士』であると語ってくれているのだから。


「革鎧など、翠虎を前には何の役にも立たん。せめて身につけるならこれを使え」


そうして後ろから、掴んでよこしたのは鋼の胸甲であった。

分厚く重厚な代物で、傷一つなく、まだ新しい。

驚いて目を見開くと、再び酒杯を煽って立ち上がる。

更に翠虎の毛皮を脱ぐとその場に置き、背を向けた。


「畑仕事も終わり、傷も癒えただろう。明日からは鍬ではなく剣を持って、俺の所に顔を出せ。飾りではない、本物の剣を教えてやる」

「はい。これは――」

「決まりで着ただけだ。それに俺はトドメを刺しただけ。一番槍はお前だ。好きにしろ」


そして一言告げると歩き去り、呆然と見送り、翠虎の毛皮を手に取った

ずしりと重く、毛は針金のよう。

打撲や斬撃にも強く、好んで身につける武人も多いと言う。

重すぎるのか、クレィシャラナでは軽い毛皮を身につける方が多いようだが、それでも貴重なものだろう。

アルベランでも随分高価な代物であったが、しかし、それ以上の価値があった。


ドゥカランの後ろ姿を眺めて、苦笑すると頭を下げ、丁寧に折り畳む。


「侯爵……」

「新しい家宝が出来た。……明日からはドゥカラン殿の所に行く」

「……は」


そして、胸甲と共に重ねて隣に置くと、静かに笑みを浮かべた。


「……我々に、本物の戦士の剣を教えて下さるようだ」


いつか瞼に宿した貴族のように全うし。

自分は己の責務を果たせたのだと、その実感を噛みしめるように。

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