責務 五
翠虎はほとんどの時間を寝て過ごす。
何かの気配を感じた時、獣特有の浅い眠りから目を覚ますが、基本的に太陽が空を照らす時間に活動的なのはよほど腹が減っている時くらいのことであった。
彼らは夜目が利き、恐ろしいほどに優れた聴覚と嗅覚を有し、曇り空の新月にあってさえ彼らは当然のように狩りを行なう。
彼らが最も活動的になるのは、夕暮れを過ぎて夜に入り、それから二刻ほど。
昼行性の獣達が寝入り始めてから、しばらくした辺り。
それから数刻歩き回って獲物を探し、満足した後にその場で再び眠る。
雨を嫌って木々の下で眠ることが多いが、特に隠れているわけではないらしい。
翠虎とは森の王。
森にある彼らに襲いかかろうとするものはほとんど同族くらいのもの。
大昔には多くの魔獣がここにあったと聞くが、彼らの存在からその多くは他の土地に逃げ出し、あるいは食い殺されたと考えられていた。
残っているのは藍鹿と嵐翼くらいのもの。
竜を除けば嵐翼はこの山脈の頂点に存在するが、いつの時代も常に一羽が空を舞う。
恐らくはその縄張りの広さ故――もし二羽が同じタイミングで存在しても、争って一方が食われるか、彼方へ逃げ出すのだろうと考えられていた。
それ故、彼らはこの土地の力関係に直接大きな影響を与えない天災のようなもの。
藍鹿は翠虎ですら命懸けで狩りをする相手。
互いを認めても距離を取る場合が多く、お互いの縄張りを守る。
魔獣の縄張りは広いもの――この山中をそうして二種の魔獣が広く支配し、埋め尽くし、その隙間にクレィシャラナが集落を構えた。
問題が起きるのはいつも、そのバランスが崩れたとき。
例えば隣の山で腹を空かせた翠虎が藍鹿を襲えば、それによって生じた歪みが連鎖的に集落の周辺にまで波及する。
一つの歪みが大きなうねりとなって、この山々の全てに影響を与える。
最も大きな影響を受けるのは、彼らの縄張り、その隙間に居を構えるクレィシャラナの者達。
ここから少し西の方で、藍鹿が暴れたという報告があったのは三日前。
獅子鷲騎兵は集落の周辺では翠虎を探すが、離れたところでは藍鹿を探す。
歴史上には肩高二十尺の巨体も存在したと言われる藍鹿は、巨大な翠虎に比べてなお倍近い体格。
彼らの縄張りは目印として最適で、彼らと翠虎が争えば必ず周囲の木々は薙ぎ倒され、一目にそれと認められる。
更に西――空を舞う嵐翼から多くの獣が逃げ出し、そして他の縄張りを侵し始めたのだろう。
特に魔獣の足は速い。
波の伝わり方もまた、それに比例する。
集落全体がピリピリとしていて、女達は倉庫で寝起きするようになった。
採取や狩りも行なわず、煮炊きや食事なども集落の中央に集まり、皆で行なう。
普段グリフィンを世話し、乗り方を知っているリラや一部の女達も昼には空に上がって、常に誰かが空にあった。
しかし、それさえクレィシャラナの人間達には日常なのだろう。
男達にも女達にも怯えて震える様子はなく、普段通りに笑って過ごした。
これを切り抜けたら宴だと、空いた時間に女達は宴のための衣装や飾りを作っていたし、男達も次の宴では誰に想いを伝えようとしている、などと、そんな話で盛り上がっている。
戦時下の村の様子とは随分異なった。
村々を巡っては、ここは大丈夫でしょうか、と不安そうな住民達をなだめて回っていたものだが、彼らは目前に迫る魔獣の襲来という事態に対してさえ、怯えることなく受け入れている。
死の危険さえも、一人一人が身近なものとして受け入れているということだ。
それこそが、クレィシャラナの強さというものなのだろう。
夕暮れに目覚めたアルゴーシュが食事をしていると、どうぞ、と果実の一つを差し出される。
リラであった。
礼を言って受け取ると、椅子代わりに使っていた丸太の隣に腰掛ける。
「畑、綺麗な花が咲いていましたね」
「あ、ああ……ええ。好む方は多いようですな」
魔獣の迫るこの状況。
平然と、畑の話をされたことに驚きつつ、答える。
水飲み芋は薄紫の愛らしい花をいくつも咲かせるため、その花を好む者も多かった。
「……花を摘んでいたようですが、あれは何か?」
「多少減らした方が収穫の時に芋が大きくなりますから。実を付けてしまうとそちらに養分が吸い取られるようで……先人の知恵ですな。ここでは間引きなどもあまりされないとか」
「ええ、あまり……駄目になったものくらいでしょうか」
「芋に限らず果実や他の野菜なども、場所によってはより大きく、美味しいものを作るために育つ前にいくらか間引いておくことがあるのです。そうすれば残った果実に力が集中しますから。……平地で口にした果実は甘かったでしょう?」
「はい、すごく……びっくりしました」
恥ずかしそうにリラが告げる。
頬を綻ばせて果実を口にするリラの顔を思い出して、アルゴーシュも苦笑した。
「あれもそうして育てられたものです。同じ果実でもそれによって値段が大きく変わります。育ちの悪いものや小さなものを間引いて、より良い実に力を注いで……ああ、なるほど」
「……?」
「通ずるところはあるものだと」
弱きもの――臆病なものを間引き、強いものだけを残していく。
クレィシャラナの在り方はまさに、王国で育てられる果実のよう。
逆にクレィシャラナでは質よりも量。
間引くことなく、多くの実りこそを大事にした。
「在り方は真逆であるのに、不思議なことに育て方も真逆ですな。間引いて良い実を、と考える育て方は、クレィシャラナの在り方に近い。惰弱を廃し、それ故に精強なクレィシャラナの人々はまさに、王国で育てるあの果実のようなものです」
そうであればこそこの土地で生きられるのでしょう、と口にする。
「ここに来てからここの人々を見てきて、何より驚いたのはその強さ。巫女様が果実の甘さに驚いたように、私も同様です。今もこうして、死の恐怖が間近にあって皆笑って過ごしているのが信じられません」
「……皆、怯える心がない訳ではありませんが……それはギーテルンス様もそうなのでは?」
「私は貴族ですから。……恐怖に怯えて立ち止まることは許されません。恐怖に怯えるものを勇気づけ、守り抜くことこそが責務ですから」
とはいえ、と苦笑する。
「ここにはそういう人間がいない。戦士達がそういうものであるということは理解出来ますが、彼らが守ろうとする女衆でさえ、恐怖を当然のものとして受け入れ、それでいて笑っている。アルベランであればこうはなりません」
「死は身近なものですから。……アルベランがそれだけ平穏に満ちた、良い国である証拠とも」
周囲に聞こえないよう、少し声を抑えてリラは言った。
「アルベランの豊かさを自分の目で見て思いました。魔獣の代わりに戦があり、けれど普段はこのような恐怖を味わうことなく、強い弱いに関わらず、多くの人々が受け入れられ幸せそうに過ごしているのだなと」
リラは手に持った果実を眺める。
クレィシャラナの畑で収穫されるもの。
同様のものをアルベランでも育ててはいるが、それと比べて小さく、甘みも薄い。
「……わたしはここで生まれ育ち、暮らしてきて、この生活を気に入っています。けれどきっと、アルベランに生まれていても、同じようにその生活を受け入れ、幸せに過ごしていたでしょう。……性格的にはむしろ、そちらに馴染みすぎていたかも知れません」
リラはくすくすと笑う。
「兄さんのように強く生まれてくる人がいれば、そうでない人もいる。努力さえあればと語る人は多くいますが、そういう心を子供の頃から持てることも天性の一つでしょう。戦いを嫌う臆病者と語られる人も、見方によっては気遣いが出来る心優しい方であったりしますし、同様にそれも一つの天性だと、わたしは思います」
果実を手の中で弄びながら続けた。
「ここで提示される理想の姿にそぐわないというだけで、別の土地に生まれていたならその方は、その文化における理想的な人であったかも知れません。そういうことを考えると悲しくて、だからわたしは……そういう人達が少しでも、幸せに過ごせる未来があれば良い、と」
「……巫女様はお優しい方ですな」
「い、いえ、わたしは……」
「私が巫女様の年頃には、己のことしか考えておりませんでしたから」
苦笑する。
まさに、それがこの巫女の少女の天性なのだろう。
しかし、わたしは未熟者です、とリラは首を左右に振る。
「人のため未来のため、と思っていても、結局は自分のため……己の居心地が良い場所になれば良い、とそう考えているだけなのでしょう。だから明確な意思も目的も持てず、わたしは弱くて優柔不断で……すぐに流されてしまいます」
巫女になってからは本当に、と目を伏せた笑う。
「先代の巫女様は素晴らしい方でした。凜として、けれど柔らかく、誰からも心からの尊敬を向けられていて……」
「……はい」
「まさにクレィシャラナの理想を体現されたような方で、あのような方を目指して皆精進すべしと誰もが語っていました」
けれど、と続ける。
「その後を継ごう、という方は誰も。聖霊を敬い、生涯を修行に費やすお役目は何よりも素晴らしいものであり、理想であるとは語りながらもいざその機会が訪れた時、進んで名乗り出る方は一人として」
「……そうなのでしょうな」
劇もなければ芸人が訪れる訳でもなく、耽溺する書物もない。
アルベランであれば例えば、財を築き上げること、名声や権力を得ることも大きな楽しみになるだろうか。
けれどここにはそれがなかった。
己を磨くほかの娯楽がないこの環境では、愛する相手と結ばれ、家庭を設け、子を成して、それが何よりの生きる喜びであろう。
その未来を己から手放すことを受け入れられる人間もそうはいまい。
「わたしが巫女になったのも結局は、意地のようなもの。先代の巫女様の在り方を心から美しいと思いながら、同じ道を歩むことを恐れる情けない自分の姿を見たくなかっただけで……心の底では先に誰かが名乗り出ることを期待する感情が、一切なかったとも言えません」
リラは美しい娘であった。
その上で気立てが良く、働き者で、思いやり深く――望めば彼女の将来には、そうした幸福が約束されていただろう。
まだ二十にもならぬ年齢で、その当時は恐らく十を数えて間もなく。
恋に恋するような年齢で、それを自ら捨てることがどれほど辛かったものかは容易に想像が出来る。
「そうして形ばかりの巫女になって、それでも巫女となればそうした己も変わるのかと思いながら……今もわたしは変わらぬままです。聖霊巫女としての形ばかりをなぞって、取り繕っているだけ……立派な人間とはとても言えません」
そう恥じるように口にするリラの在り方は、あまりに純粋であった。
美しい、と心から思う。
「人はただ一つの責務を果たせば良いのだと、私の父が」
「責務……」
「ええ。生まれ持っての立場、才覚の大小こそあれど、その生涯においてやるべきことはただ一つなのだと、私に常々。良い作物を育てること、家族を養うこと、戦場で命を賭けて戦うこと……それがどのようなことであれ、その人間が己の責務と誇りを持つ限りにおいて、貴賤優劣は存在しない、と」
全ては大いなる過程です、とアルゴーシュは口にする。
「長い歴史に見れば我々の時間は短い。一人が一つの人生を真摯に全うして、それでなお歴史から見れば目にも映らぬ小さな出来事。無論、女王陛下やアルベリネアのように、史に確固たる名を刻み、その流れを変えてしまうような方もいらっしゃるのでしょうが……皆がそうではありません」
「……はい」
「一人の生涯など知れたもの。だからこそ、己の出来る範囲で、己に与えられた役割をただ全力で全うすること……それが人の責務であるのだと。そしてその結論は一生をやり通してから、死に際にでも考えれば良いのだと、そう私に」
今なお、この生涯を費やして超えられるかどうかも分からない。
父はそういう、偉大な人間であった。
世界で見れば単なる田舎の一貴族だろう。
希有な才覚に満ちあふれた天才ではなかったし、特別な存在でもない。
けれど父はアルゴーシュにとって、誰より偉大な存在だった。
「私も今なお未熟者です。弱く臆病で、巫女様に比べて遙かに長い年月を生きながら多くに迷い、途方に暮れる日も、間違える日もある。ですがそれも過程の内……未熟な私が結果を求めるにはまだ早い」
父からすれば、まだまだ若造。
死ぬその日までそうだろう。
混じり合う血の中で、間抜けな息子を父は叱っているのかも知れない。
「人は形から入るものです。そして中身は器があって、初めて注がれるもの。偉大な先代を瞼に映し歩まれる巫女様は、きっと年月を経て相応の方へとなっておられるでしょう。理想こそが、己の器の形を決めて導く指標なのですから」
「……、はい」
「私も同様……偉大な父や、敬愛する弟に認めてもらえるような、そういう理想の自分であるために歩む、道半ば。巫女様にとってのそれが聖霊巫女の責務であるように、私に取っては貴族の責務であるというだけ。……きっとそれは誰もがそう、あなたの父君や兄君もそうでしょう」
リラはしばらく考え込むように、そしてくすくすと肩を揺らした。
「兄さんも、近しい事を良く言ってました。……自分の器を大きなものにするために、日々鍛錬を重ねるのだと」
「ええ。きっと、高い理想を……それこそ、聖霊のお姿を瞼に宿しておられるのでしょう。……同じく、焦らずとも巫女様ならばいずれは」
「……ありがとうございます」
リラは静かに頷く。
それから、再び苦笑した。
「すみません。何だか、気を遣うどころか、気を遣わせてしまいました」
「いえ。おかげで少し肩の力も……このところは襲撃のことばかりで私も緊張で凝り固まっていたところ。助かりました。巫女様もお疲れでしょうに……少しは休まれて下さい」
「……はい」
――人はあくまで形から。
頭を下げて立ち去る彼女を見ながら苦笑する。
まるで、そうであれば良い、と己に言い聞かせるような言葉であった。
――藍鹿と翠虎だという声を聞いたのは夜のこと。
大気を揺るがす咆吼が、森の静寂を脅かしていた。
「カックス、デーベルの班は屋根の上に行け!」
「は!」
響き渡る虎入りの鐘の音。
櫓の高台から七番櫓の旗色を確認しつつ、飛び起き集まっていた部下達に指示を飛ばす。
櫓の上に十一人はあまりに手狭――事前には位置は決めてあった。
しかし、身の毛がよだつ咆吼であった。
遠くに響く翠虎の声には慣れたものであったが、目と鼻の先で吠える翠虎の咆吼の恐ろしさは全く異なるものであった。
悲鳴のような声と地響き、巨木が次々にへし折れる様子がこの高さからは目に出来た。
翠虎が襲っているのは藍鹿。
そして明らかに、木々を薙ぎ倒しながらこちらに向かってきていた。
その頭上では既にベーグ達獅子鷲騎兵の姿があり、この櫓の上にも数騎。
リラを含め、グリフィンに乗り慣れた女達も空に上がって、状況把握に努めていた。
「――来るぞ!」
西側の森を薙ぎ倒して。
飛び出してきたのは藍鹿であった。
木々の間から突き出さんばかりの勇壮な角が生え、小屋のような巨体で暴れ回るように駆けてくる。
その背中には小枝のような槍が突き立っていたが、気にも留めた様子はない。
遠目にも分かる怪物の巨体は遠くに見える七番櫓を容易くへし折り、櫓に乗っていた男達が崩れ落ちる櫓から飛び転がるのが見えた。
森の手前で待ち構えていた男達は無数の槍を投げつける。
それさえも命を奪うに到らず、藍鹿は猛進。
その背後から飛び出してきたのもまた怪物。
咆吼を響かせる翠虎は魔力保有者の槍を避け、男達の一人がその巨体に跳ね飛ばされると、二十間近く。
信じられない距離を転がっていくのが見えた。
周囲の護衛に目を向ける。
全身に全身を強ばらせ、篝火にも唇が青ざめていた。
無理もない。
皆優秀であったが、それはあくまで人の中での話。
魔獣は百人隊を容易に平らげる化け物であった。
「案ずるな。聖霊と比べれば所詮は獣だ」
「侯爵……」
「訓練通りにやれば良い。仮にもし戦うとしても時間稼ぎ……クレィシャラナの戦士達は魔獣を恐れぬ勇壮な戦士達。我々は訓練通りに動けば良い」
笑みを浮かべると、男達の肩を叩く。
己の震えを隠すように力強く。
そして屋根の上の男達を含めて口にした。
「先に言っておく! 仮にもしお前達が手足を失う大怪我を負おうと、ギーテルンスはその恩義を忘れない! アルゴーシュ=ヴィケル=ギーテルンスの名に誓って必ず、その殊勲に見合う報酬を出すと誓おう! お前達の家族が路頭に迷うと心配はするな、私が全て面倒を見よう!!」
分かったか、と声を張り上げると、男達は踵を鳴らして胸に手を。
アルゴーシュもまた、答礼を行なう。
「恐れることはない、所詮は大きいだけの猫と鹿! 人に勝るものではない!」
猛進する藍鹿を追うように男達は駆け、翠虎もまたその側を駆け回る。
無数の槍を突き立てられながら、藍鹿に止まる気配はなかった。
文字通りの怪物。
そして翠虎も、まるで藍鹿の巨体を盾にするように槍を躱しているように見えた。
アルベリネアが飼っていた翠虎の姿を思い出す。
恐らく、相当に知能が高いのだろう。
そういう話を聞いてはいたが想像以上――自分の獲物さえ敵の遮蔽に使う発想は尋常のものではない。
足を止めろと声が響き、藍鹿は猛進。
運が悪い、と拳を握る。
集落の中央を突き抜ける気であった。
小屋の如きなど障害物にもならない。
藍鹿は小屋に構わず前進――家々を薙ぎ倒し、怒り狂った悲鳴を響かせる。
藍鹿の速度には後ろに続く戦士達さえ追随出来ず、中央の櫓の上にいた戦士達が槍を片手に飛び降り始めた。
「ロック! お前は残れ! 他の二人は空いた櫓へ!」
「は!」
力量経験不十分――戦うには邪魔になる。
二人はすぐさま櫓を降りていき、別の櫓へ。
その間も進む藍鹿の顔の前をベーグ達が飛び、女達の籠もる倉庫からその行き先を逸らせ遠ざけていた。
藍鹿は倉庫から大きく右手を抜け、恐らくはそのまま北東の森へ消える。
そう安堵した瞬間、藍鹿の破壊した家屋の破片が倉庫に直撃するのが見えた。
「監視を続けろ! カックス、デーベル! 来い!!」
声を張り上げると櫓から飛び降り、倉庫へ。
倉庫の壁には大穴――中の様子を見ると、槍を持った子供と老人、女達。
青年の姿もあったが、恐らく職人だろう。
老人や青年は一部の女達と共に槍を構えていた。
「怪我人は!?」
「軽傷だ。外は?」
答えたのは長老――ビーキルスであった。
肉が削げ落ち、余命幾ばくか。
会議でも横になっていたはずの老人は、穴の正面で見事に槍を構えたまま尋ねる。
その目、構えには勇壮なる戦士の覇気を漂わせていた。
「藍鹿は少し北を迂回、翠虎はその周囲に……戦士達が追っております、長老殿」
「櫓は?」
「私の部下を開いた櫓に」
「……ありがたい」
そう答えると咳き込み、ビーキルスは膝を突く。
咄嗟に支えると声を掛ける。
「デーベル、状況が落ち着くまでお前達の班もここの守りを。……槍を持てるものは集まって頂きたい。即席の壁を作ります」
一瞬顔を見合わせながら、槍を持ち穴の前へ。
同時に、近づいて来た女にビーキルスを預ける。
凄まじい精神力であった。
まともに立つことすらままならぬ体で、背後の者を守るために槍を構えたのだ。
「デーベル、即席のファランクスを組む」
「は!」
「槍を持つ者はこの者達の後ろに、体の隙間から槍を突き出して下さい。槍で隙間なく壁を作れば、少なくともここからは入ってこない」
「っ……、この者の、言うとおりに……」
咳き込みながらビーキルスは告げ、アルゴーシュに目を向ける。
「……感謝する」
「感謝など。……当然のことです」
デーベル達が槍を構え、後の者がその隙間から槍の穂先を突き出す。
それを見届けると、グリフィンの羽音――リラであった。
「ギーテルンス様、中の人達は?」
「無事のようです、軽傷が数名。ひとまず問題はありません」
「良かった……」
倉庫の前――中央の広場に降り立ち、ほっと息を吐くリラに頷く。
そして隣に目をやった。
「カックス、空いている別の櫓に登れ。すぐに行く」
「命令の通りだ、行くぞ!」
カックス達が駆けだしたのを見て、アルゴーシュはリラに尋ねた。
「藍鹿と翠虎は?」
「北東――共に二番の櫓の方へ。戦士達が追ってますから、恐らくは――」
そして彼女が言いかけた所で、再び西から鐘の音。
「侯爵! 先ほどの道を通って別の翠虎です!」
「っ……」
「すぐにお逃げを!」
西を見る――随分と距離があったが、それと分かったのは夜闇にも輝いた、その瞳の輝きを目にしたが故。
本能的に理解したのは、あちらがアルゴーシュを認めたこと。
ぞっとする悪寒が背筋を駆け上った。
すぐ左手には倉庫――槍を構えるデーベル達の姿。
獲物を見つけた翠虎は間違いなく、ここに来るだろう。
ここでアルゴーシュが身を隠せば、あの翠虎は当然それを追ってこの道を通り、この中に人がいることに気付く。
その場合、どちらを狙うのか。
「巫女様、空へ」
「ですが――」
「もし私が命を落としたなら、夫は勇敢に戦って死んだと妻にお伝え願いたい」
「っ……」
一瞬の間を空け、グリフィンの羽音。
「……分かりました、ご無事で」
体の震えを押し殺し、腰にぶら下げていたワイン瓶を手に取り握る。
そして左腰から、家宝の剣を引き抜いた。
代々伝わるギーテルンスの宝剣は磨き上げられ、瑕はほとんど存在しない。
三百年に渡り、そうして受け継がれてきたが故。
この宝剣はギーテルンスの象徴であった。
ギーテルンスは武門の家ではなく、栄誉のために剣を振るうをよしとしない。
あくまでこれは、弱き者の庇護者として。
これを引き抜き振るうのは、その当主が命を賭して、その責務を果たす時のみ。
「……ギーテルンス様」
「安心せよ、必ずや時間を稼ぐ」
槍を構えるデーベルに告げ、半身に剣を構える。
軽く駆けるような足取りで――けれど驚くほどの速さで近づく翠虎を真正面に捉え、意識しながら呼吸を深く。
緊張は呼吸を浅くする、
前進の強ばりを解くように、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
一瞬だけ目を閉じた。
弟の振るった、美しい剣を思い浮かべた。
兄の語る理想を追い求めた、ギーテルンスの剣。
いつも瞼に映るその剣が、今この瞬間だけ、この手に重なることを願って祈る。
瞼を開くと、もはや完全に駆けだした翠虎を前にして。
「……それが、私の責務というものだ」
弟が愛してくれた、理想の貴族であるために。
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