責務 四
アーナから続く唯一の入り口は集落の北東に存在する。
南東には小川が流れ、畑があり、日中の女達は小川の側で働く事が多い。
聖霊の禁域の方向である北から北西では戦士達の訓練が行なわれ、少し離された南と西には職人達の区画があり、その近くにアルゴーシュ達の天幕と畑もある。
住居は比較的中心に多いが、一軒一軒の距離は普通の村に比べても離れている。
魔獣が現れた際、見通しを確保する理由が大きいそうで、集落を囲う柵も魔獣に対しては無意味であると簡素なもの。
その代わりに櫓は普通の村に比べて随分多く設置されていた。
集落の中央に存在するのは、一際頑強に作られた倉庫。
ここが有事の際の避難所となっており、そしてその隣に族長の家と並んで、大きな集会所が併設されている。
そこで行なわれるのはさながら、軍の作戦会議だろう。
張り詰めた重苦しい空気は実に似通っていた。
エルデラントとの戦になれば、ギーテルンス家が管理する一帯は北部の軍の補給拠点の一つとなる。
先日の大戦においても同様――顔触れはアーナの軍人達がほとんどであったが、しかし戦う者特有の気配には通ずるものがある。
たった一つの命を差し出して、目的のためにはそれを捨てること厭わない。
少なくとも、経験を経た軍人とはそういう生き物だ。
アルゴーシュのように日常に暮らすものとは住む世界そのものが違う。
例えば己がドゥカランのような強さを持っていたとしても関係ないだろう。
言葉一つ、所作の一つが重く圧力を掛けるような、言語化も出来ない何かは、その身に宿る覚悟から生じるもの。
目的を果たせるならば、己の死に何百、何千、何万の命を重ねても構わない。
そんな重責を当然のように、己の両肩に負う人間が纏う空気。
それを前にはどれほど鍛え、剣を振り重ねたところで意味もない。
ベーグに連れられ入室した瞬間、怯みを表情に浮かべずに済んだのは、アルゴーシュが長く生き、老獪さを身につけたが故。
高々齢十五で元帥の地位を与えられた少女の顔を思い浮かべる。
内戦では父の後を継ぎクリシュタンド軍を率い、王弟ギルダンスタインを討ち破ったセレネ=クリシュタンド。
少なくとも、女王やアルベリネアのような超常的な異才の持ち主という訳ではあるまい。
そうであるにも関わらず、ただ覚悟の一つで、王国全ての軍人を束ねる元帥位に座し、堂々とした姿を見せて笑顔を浮かべるのだ。
先日の滞在中に何度か挨拶の言葉を交わした程度ではあったが、世の中にああした人間がいると思えば、我が身を顧みずにはいられない。
背筋に嫌な汗を掻くのを感じながらも、王国貴族として堂々と歩き、席へ座る。
アルゴーシュはそんな者達と比べれば、あまりに凡庸であった。
しかし、この場においてはアルゴーシュこそが王国にある全ての貴族の代表であり、決して彼らの顔に泥を塗るような姿を晒す訳には行かない。
アルゴーシュの言葉一つ、所作一つが、全ての者から敬意を向けられるべき崇高な貴族達の名を穢すものであってはならない。
静かに呼吸を整えながら姿勢を正し、正面に座るアルキーレンス達に軽く頭を下げる。
少し高さを設けた壇上。
正面に座るのは、アルキーレンスとヴィンスリール、そしてリラ。
安楽椅子のようなものに腰掛け、細身の老人もそこに並び座っていて、恐らくはそれが先代族長、長老ビーキルスなのだろう。
数年前から随分と体を悪くしていると聞くが、アルゴーシュを一瞥する目は今なお戦士のように鋭く、アルキーレンスと何かを話していた。
アルゴーシュは戦士達が並ぶ列からは少し離れた左手。
ここが客人の席なのだろう。
列には一応並びがあるようで、先日同行していた男達はやはりほとんどが前方――最前列や前方に座る男ほどそれと分かる覇気がある。
「……ある程度集まったようだな」
しばらくして、アルキーレンスが重々しく口を開く。
「既に聞いているとは思うが、西で嵐翼が飛び立った。今回集まってもらったのは我々の対応について。最悪の場合――奴がこちらに飛んでくる可能性も踏まえて、ここで意見を交わしたい。……長老」
禿頭に胸まである長い白髭。
ビーキルスは少し身を起こし、口を開く。
「……伝え聞いてはいるだろうが、嵐翼を見たものはもう、わしやアルキーレンスくらいのもの。まずは改めて、誇張なく、あの怪物がいかなるものかを知ってもらわねばならん」
しゃがれた声は集会所を震わせるよう。
そうしてビーキルスは話し始める。
嵐翼――大鷲の魔獣。
翼を広げずとも藍鹿に匹敵するほどの体躯を有し、その翼は羽ばたき一つで小屋を倒壊させる暴風を巻き起こす。
その風は木々のみならず翠虎さえをも平然と宙空に巻き上げ、藍鹿のような巨体さえを掴んで容易に空を舞う。
その暴風にあっては空を縄張りとするグリフィンさえも逆らえず、これまでに多くの獅子鷲騎兵を葬り去ったという。
前回は六十年ほど前。
嵐翼が空を舞うのは数日から長くても数週間の僅かな時間――そんな化け物がいながら彼らがここに暮らしていられるのは、その活動期の短さから。
普段は険しい山の頂きで大人しくしているがその理由については判明しておらず、それだけの歳月狩りを行なわずに過ごせる嵐翼が捕食を行なう理由も分かってはいない。
ただ、飛べば大いなる災禍を招く、天災のような怪物であった。
クレィシャラナの歴史にあって、嵐翼を討ち取ったのはただ一度。
その際には三百の獅子鷲騎兵によって挑み、その内三分の二の被害を出した。
それから六十年前を含む三度、嵐翼を追い返しているが、やはり大きな被害を出している。
六十年前には百二十騎の獅子鷲騎兵の内、四十騎ほどが失われたという。
クレィシャラナにおいてグリフィンもその乗り手も、非常に貴重な存在だった。
現在の総数がクレィシャラナ全体で百五十騎ほどだということを考えれば、ほとんど総力戦。
頭上を取られることを嫌う嵐翼の頭上を飛び、乱れる風の中、投槍を命中させ、あるいは決死の特攻に賭ける。
脅威を覚えた嵐翼が逃げ出してくれることを期待して。
「最悪の場合――こちらに向かってくる可能性を考えれば、対抗するには獅子鷲騎兵の他存在しない。禁域の守手と僅かな騎兵を残して、他は今日の内に西、ロサレヌの集落に飛び立つ。……ヴィンスリール、誰を残す?」
アルキーレンスが尋ねると、ヴィンスリールはベーグを見た。
「ベーグ、集落の空を任せる」
「了解です、戦士長。クロッセランとビーグスをもらっても?」
「ああ。ヴェルヴァス、守手にも負担を掛けることになるが……」
最も遅れて来た男――どうにも彼を待っていたらしい。
ヴェルヴァスと呼ばれた体格の良い男は、当然のように頷く。
「構いません。ベーグ、ケーピスも集落にやる。見回りの範囲を増やさねばならんとなると……そちらが出る前にグリフィンの餌を運んでおきたいですが」
「後で手配しよう、集落を頼む」
「戦士長こそ、気をつけてほしいものです。俺の可愛い娘が新婚早々夫を失う所を見たくはない。思わず墓標の槍を蹴り折ってしまいそうだ」
「くく、自分の墓標を義父に蹴り折られたくはないな」
二人は笑い合い、それに周囲の者も肩を揺らす。
笑えないのはアルゴーシュくらいのものだろう。
彼らは死という可能性を覚悟した上で笑っていた。
集落の端に並ぶ、大地に突き立てた槍の墓標を思い浮かべる。
魔獣との戦いを主とするクレィシャラナでは、死者の亡骸も残らない。
そのような場合には槍を墓標として、それが朽ちるまで突き立てられる。
まだ新しいものは、そこにいくつも存在していた。
ここはそのような厳しい環境。
戦場にある軍人のように、普段から己の死を受け入れているのだろう。
「ドゥカラン、集落全体の指揮はお前だ。ベーグと連携を」
「お任せを」
重々しくドゥカランは頷き、それを見たヴィンスリールはアルゴーシュに目を向ける。
「ギーテルンス殿。これから騒がしくなります、比較的安全に山を降りれるのも今日が最後となるでしょうが……」
「我々には構わず。微力ながら何かのお役に立てれば」
周囲の目もこちらに向けられ、そして当然ドゥカランも。
睨むようにアルゴーシュを見た。
「足手纏いだ」
「私も含め、十一人おります。魔獣に対し真っ向から渡り合えるとは申しませんが、見張り役程度にはなりましょう。場合によって警戒が長期に渡る可能性を考えれば、目の数は多い方が良い。ドゥカラン殿達の負担も多少は減らせます」
目を逸らさず、告げる。
「……女王陛下とこの名に誓い、必ずやお役に立ちましょう」
ドゥカランは何かを言いかけ、ヴィンスリールが静止する。
「ドゥカラン。ギーテルンス殿の言葉はもっともだ。騎兵が当てにならぬ以上、目の数は多い方が良い。私心は捨てられぬというなら、別の者に指揮を執らせる」
「……は」
「……申し訳ない、ギーテルンス殿。客人を当てにするのは心苦しいですが……」
「いえ。王国とクレィシャラナの断絶は解かれ、女王陛下は盟友として迎えることを宣言されました。……なればその窮地に、剣と命を捧げることが我々の責務。お役立て下さい」
ヴィンスリールは笑みを浮かべて頷く。
「少なくとも、ギーテルンス殿は戦士としての人格、必要な力量を十分に持っておられると戦士長として保証する。ドゥカラン、分かったな?」
「は、戦士長」
「櫓の一つを見てもらえ。配置はお前に任せる」
――ドゥカランが旧来のクレィシャラナの形に拘る理由は過去にある。
ドゥカランから少し歳の離れた弟は、その同年代であったヴィンスリールをして凄まじいと言わしめる才覚の持ち主であったのだという。
当時から名を知られる戦士であったドゥカランも、いつか己を超える弟なのだと豪語し、特に目を掛けていた。
ヴィンスリールも己のライバルとしてその弟を意識し、槍の腕を磨き合い、そして十五になっての従士の試練。
当然帰って来ると思われていた弟は帰ってこなかった。
共に試練を受けた別の見習いの背後に翠虎がいることに気付いた彼は、翠虎の前に立ちはだかり、そして死んだのだ。
ドゥカランは大いに嘆いたが、クレィシャラナにおいて死は身近なもの。
助けられながらも、弟を置いて戻った見習いを恨みはしなかった。
魔獣との遭遇は試練の例外。
その時点で試練は中断される。
そもそも見習い程度で勝てる相手でもない。
不幸な事故として、ドゥカランはそう納得していたらしい。
しかし、それから見習いは従士に。
他の者達と同様、狩りをしていた彼は再び、翠虎と遭遇する。
獅子鷲騎兵を呼ぶ笛を吹き鳴らしながら逃げ回り、彼は決して魔獣を近づけてはならない、女達が採取をしている森の方へと向かってしまった。
翠虎は百人隊さえを平らげる怪物――女達に為す術もない。
彼を含めて多くの被害を出し、そしてその中には子を宿していたドゥカランの妻も含まれていた。
周囲の制止も聞かず、怒り狂ったドゥカランは一人で翠虎を追ってそれを狩り、そして血涙を流しながら全ての原因を集落の在り方に求めた。
受け継がれてきた教えに緩みを設けたことが、戦士とも呼べぬ臆病者と、多くの犠牲を生んだのだ、と。
アルベランに生まれたアルゴーシュに取って、アルキーレンスやヴィンスリールの考えは馴染みやすい。
厳罰によってではなく、集落の在り方によって集落の未来を考え、維持する。
過去の遺恨を水に流し、新たな関係を築いていく。
かつては一部族であったアルベランも、敵対していた多くの部族と手を結び、協調することで今のような大国となったのだ。
当然、そうなるまでの過程には多くの流血や問題も当然存在していたが、そうした歴史に由来する文化や慣習がそう思わせるのだろう。
彼らの考えは喜ばしい、と心からアルゴーシュは思う。
けれどドゥカランの感情も、その考えも理解が出来た。
このような厳しい土地で暮らすクレィシャラナ――アルベランとの交流は彼らをいつか滅ぼすこととなるのかも知れない。
少なくとも、ヴィンスリールやリラも話している限り、彼らもそのような未来を想像しているように見えた。
恐らく多くの者は理解していて、だからこそ、それを嫌うものもいる。
平地に降りてくるならば、今のような厳しい暮らしからは解放され、魔獣に襲われて死ぬこともほとんどなくなるだろう。
単純に考えればそれで解決する問題。
けれど、人は過去と死者に縛られる。
ここで暮らしてきた先人達の文化と風習――その犠牲になってきたもの。
これは仕方のない犠牲であった。
そう納得し、折り合いを付けながら、彼らは多くの苦しみと悲しみに耐え、ここに暮らしてきたのだ。
それを捨てるなど、この厳しい土地で教えを守り、そのために死んだ者達に対して顔向けが出来ない。
そう考えるのも当然のこと。
アルゴーシュを嫌う理由もよく分かる。
「気持ちは分からなくもないですが……しかし、ギーテルンス様へのあの態度はどうにも。笑顔で話しかけて欲しい、とは言いませんが」
「仕方のないことだ。事実として、私であってもここの戦士達と比べれば力量十分とは言いがたい。信用しろ、と言われても、信用は出来まい」
櫓の上から集落全体を俯瞰しながら、カックスに告げる。
集落の中央にある櫓の一つで、森の見張りというよりも森を監視する外周の櫓の見張り。
そこから伝わる情報を下に伝えるのが役目であった。
「それに、森の監視にはやはり慣れたものが良い。特に夜では飛び出してくる鹿や猪を見誤るということもあろうし、戦士達の方が夜目も利く」
「まぁ、それはそうですが」
「とはいえ、重要な役目だ。旗と番号にだけは間違えるな」
「は」
集落外周には櫓が九つ。
それぞれ番号が振られており、聖霊の方向である北から右回りに1から9。
子供が最初に教えられるのが櫓の番号であるらしい。
有事の際には旗と鐘によって合図が行なわれる。
クレィシャラナで通常櫓に昇るのは二人一組。
一つの櫓は三組六人で構成され、概ね三刻ほどで交代が行なわれていく。
アルゴーシュ達は三人一組での三組構成。
アルゴーシュと残った一人が昼の間、ちょっとした雑用を行い、夜の間は櫓に昇って四人で警戒を行なう、という形になっていた。
護衛としても使うことは多いが、彼らも元々は衛兵。
普段から衛兵の仕事は見張りや監視が基本業務であり、その点で心配はしていなかったが、それはあくまで人間に対するもの。
魔獣を想定した見張りを行なうことなどなかったこともあり、念には念を入れている。
『戦士長の命令だ。この櫓を任せるが……妙なことは考えるなよ?』
『妙なこと?』
『魔獣が現れても手を出すな。足手纏いだからな。お前達の役目はこの櫓を機能させることだけ、それより先はない。……もし邪魔をするなら命はないと思え。その時は俺が殺してやる』
『……肝に銘じておきましょう』
口は悪いが、とはいえ道理。
魔獣を想定し訓練を行なってはいたが、幼少からそれを前提して心身を鍛える彼らと比べれば所詮は付け焼き刃。
無用な手出しは確かに邪魔になりかねない。
櫓から下に。
空を見上げると丁度グリフィンが飛び立つ――ベーグだろう。
夜になれば空からの監視は効果が薄い。
ただでさえ深い森である。
見通せる場所は多くない。
昼間でさえグリフィンの獣の勘と目が頼り。
暗い夜にはそれも当てにならなくなり、だからこそ明るい内に広い範囲を見て回っておくのだという。
彼らはほとんど休みなく空を飛んでいた。
気になっていた避難所に。
周囲にはいくつもの屋根付きの台を設けてあり、職人達が薪を運んでいた。
篝火にはあまりに数が多い。
「巫女様」
「どうされましたか?」
それを見ていたリラに声を掛けと、彼女は振り返り小首を傾げる。
いつもながら女らしい体に露出の多さ――未だにやはり慣れないものがあった。
「篝火にしては量が多いようですが……」
「守り火です。組んだ薪の中に守りの香木を沢山入れて、気休め程度ですが獣除けを……どれほど効果があるかは分からないのですが」
「なるほど、そういうことですか」
少し考え込み、尋ねる。
「翠虎は鼻が利く、ということでしたか?」
「ええ。鼻が麻痺するのを嫌がるのは確かなようですね。とはいえ獲物を前にすれば関係がないようですが……何か?」
「……色々と少し、やれることはやっておきたいと思いまして」
リラは柔らかく、嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます、本当に。……ただ、もしも何かあっても無茶はしないでください。ギーテルンス様は両国の交流に欠かせない方ですから」
「ええ、分を弁えて。クレィシャラナの戦士達は素晴らしい……信頼はしておりますが、何事にも絶対はないものです。そうした時に後悔しないようにしておきたい」
「……はい」
再び礼を言うと、自らの天幕に。
乗ってきた馬車の積み荷を眺める。
贈呈用の品々をそれなりに持ってきたが、受け取ってもらえたのは日用品程度。
ほとんどが持ち帰りであった。
目当てのものを見つけると箱ごと取り出し、美しいガラス細工の小瓶達を出し始める。
「……侯爵?」
「ワインの空き瓶を持ってきてくれ。使いたい」
「わかりました、すぐに」
――集落に魔獣の襲撃があったのは、それから一週間後のことであった。
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