責務 三
五つの集落――クレィシャラナの集落はそれぞれが随分と離れた所にある。
纏まって居住可能な場所が確保出来ないことも理由にあるが、これには被害の分散という意味も大きい。
翠虎や藍鹿でさえ、魔獣としてはまだ良い方。
羽ばたき一つで嵐を起こし、集落を壊滅させるような、嵐翼と呼ばれる怪物もこの山脈の奥地には存在している。
過去にはこれだけ精強な戦士達に守られるクレィシャラナを滅ぼしかけたと言われており、集落を広く分散させたのはそれから。
当時存在していた七つの集落の内、二つはそれに滅ぼされたと言われている。
集落を隔てるのは起伏険しく、魔獣が蔓延る山中。
そのため集落同士の交流はグリフィンによって行なわれ、人の往来もほとんどなく、戦士達の交流に留められることが多い。
丁度時期も悪く、戦士長のヴィンスリールは族長アルキーレンスの代行として各集落をグリフィンと回っていたらしい。
「お久しぶりです、ギーテルンス殿」
アルゴーシュがここに来てから三週間ほど経った夜のこと。
常魔灯に照らされた天幕で車座になり――そこに現れた顔を見て、アルゴーシュは立ち上がり頭を下げた。
「ヴィンスリール殿、お久しぶりです」
精悍で端整な顔立ち――鍛え上げられた長い手足。
クレィシャラナ戦士長、ヴィンスリールであった。
酒を飲んでいた部下も同じく、ベーグに到っては途端跳ね上がるように姿勢を正す。
「も、もうお帰りで……」
「ギーテルンス殿が到着されたと聞いて、少し予定を早めたんだ。聞いているぞベーグ、何でも近頃は毎日のようにギーテルンス殿の所に入り浸って酒を飲んでいると」
「入り浸ると言うほどでも……二、三日に一度くらいで」
「……お前ほどの戦士がその有様でどうする。明日は久しぶりに槍を見せろ、鈍っていないかを確認させてもらう」
「う……分かりました」
先ほどまでは丁度、もう二、三日でヴィンスリールが帰って来るから飲み納めをしておきたい、と話していたところ。
悪戯の見つかった子供のように頭を掻いている姿を見て、アルゴーシュ達は笑う。
「申し訳ない、腕前は良くても酒好きでどうにも。ご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ、ベーグ殿には色々とクレィシャラナのことを。気を遣ってもらっているのはこちらの方……それに色々とお話を聞かせて欲しい、とお誘いしてしまったのはこちらの方ですので」
「はぁ……ギーテルンス殿は本当に人が出来ていらっしゃる」
「そんなことは……本当のことです」
いかがでしょう、とワインを示すと、ヴィンスリールは苦笑し頷く。
酒杯を手渡すとワインを注ぎ、再会を祝して、と乾杯を。
そこからしばらくは酒を飲み交わしながら、先日の旅や戦での活躍について。
五大国戦争を間に挟み、一年と少し。
彼らを王都に連れて行ってからは顔を合わせてはいない。
ベーグの他にも顔見知りとの挨拶は大体終えていたが、皆好意的で、ヴィンスリールも同様、笑みを絶やさず言葉を交わす。
「リラから聞きました。どうにもドゥカランが無礼を働いたようですね。……向こうの言い分を聞く前に、まずはギーテルンス殿とお話をと」
しばらくして、ヴィンスリールはそう切り出した。
恐らくは一番の用件であったのだろう――リラといい、随分と気を遣われていると思いながら、嬉しくもあった。
「無礼と言うほどでは。事情を聞けば当然……今回の交流に難色を示す方がいることも承知の上。私は仕方のないことだと思っております」
リラに言った言葉と同じ言葉を返して、アルゴーシュは微笑む。
「それに、ドゥカラン殿はクレィシャラナでも尊敬される有数の戦士と聞きます。そうした方達にまず私が認められねば、この交流は上手く行きません。刃傷沙汰という訳でもなく、こうしたことも含めて交流……気長に考えてくだされば」
「ギーテルンス殿であれば、そう仰るだろうとは思っていたのですが……ご苦労をお掛けします。集落の問題も重なって、余計に事を難しくしてしまっていますから」
「はは、本当に私のことはお気になさらず。もしこちらから泣きつくことがあれば、その時お助け頂ければと」
ワインに口付け、難しいものですな、と口にした。
「誰もが未来を良くしよう、と考えているのに、方法論が異なり、目指す場所にも違いが生まれる。その度、何が正解なのだろうか、と考えます。私も自分に任せられた領地をどうして行けば良いか……正解とも間違いとも言えぬ結論を出し、そうした問答を日々繰り返しておりました。今もそれは変わりません」
どこかに施しを与えれば、与えられなかった場所が割を食う。
上手くバランスを取って領地を豊かにし、けれど金銭的豊かさがそのまま幸福となる訳でもない。
「皆が喜ぶ未来であれば良い。しかしその皆とは誰なのだろうか、と」
ヴィンスリールはほんの少し姿勢を正し、それに倣うように他の者も。
ただただ、酒杯に目を落とすアルゴーシュを見つめる。
「……皆、ですか」
「ええ、誰一人同じ人間ではないというのに、気付けばいつの間にか、一括りに考えてしまう。少しでもそれが誰かを理解しようと領地を走り回り、時間を費やし、交流を持ち……それでも、理解出来たとは言いがたいものです」
きっと指の先ほどしか理解出来ていないのでしょう、とアルゴーシュは苦笑する。
「一人の父としてさえ、娘の幸せはどこにあるのかと迷い、ああすれば良い、こうすれば良いと考えながら、どれも正しく、どれも間違いであるような気がして。高々一人の人間の幸せにさえ迷う自分に、本当に何かを選択出来る権利があるのかと日々問いながら彷徨うのが常。……この交流がお互いの益になると思いながらも、本当にそうかと尋ねられれば、今の私にはっきりと答えられる言葉もありません」
ドゥカランの態度に怒る気持ちがないのは、そこが理由だろう。
アルベランにとっては益がある――そう思える。
しかし、その先にクレィシャラナの幸福な未来が本当にあるのかと尋ねられれば、あるとは自信を持って断言は出来ない。
「書物を眺め学者を招き、歴史や文化、多少の学術的な知識は得たつもり。ですが所詮それは学問、私は実際にクレィシャラナに住む人々が何に笑い、喜び、怒り、悲しむのか……何一つ分かっておりません。そんな私が両国の――この国のより良い未来のために協力して欲しいと上辺だけの言葉を口にした所で、耳を貸して下さる方はいらっしゃらないでしょう」
再び酒杯に口付けて、続ける。
「まずは私がクレィシャラナという文化を肌で学び、理解して行かなくては話にもなりません。その先に通じ合えるものが見つかれば……今はただ、そうした期間であると、私は思います」
言ってアルゴーシュは顔を上げ、静かな天幕を見て視線を左右に。
慌てたように言った。
「ああいや、すみませんな。酒が入るとべらべらと」
「いえ。私も今は、同じ悩みを抱えていますから。……それにギーテルンス殿は私の先達――本当にためになるお話です」
「先達などと……」
「ギーテルンス殿が抱える民の数はこの国一つと比べても随分なものでしょう。それを良い方向に導いているというのですから、誇るべきことです」
いえいえ、とアルゴーシュは酒杯に新たなワインを注ぐ。
「私は非才の身……不器用ながら走り回っているだけ。周囲の多くの者に助けられて、今があるのもそのおかげですよ。ヴィンスリール殿のような傑人にそう褒められると体が浮き上がってしまいます」
「まさにそこであるのかも知れませんね」
「……?」
「私の悪癖です。……戦士長の地位を己の力で勝ち取ったと誇り、そんな己の考える正しい方向に、皆を導こうなどと驕ったことを考える」
「それは……お立場からも悪いこととは」
いえ、とヴィンスリールは苦笑した。
「クリシェ様を前にすれば、赤子のようなもの。世界を見渡せば、コルキス殿のような豪傑もいる。己がいかに井の中の蛙であったかを思い知ったはずであるのに、今も戦士長として、ドゥカランに対し非礼だと、頭ごなしに正してやろうなどと考えておりました。……恐らくは無意味な口論となり、余計にギーテルンス殿を敵視させる理由を作ったことでしょう」
ヴィンスリールは酒杯に口付けながら、視線を落とす。
それから真っ直ぐとこちらを見た。
「ギーテルンス殿が仰るような凡庸な方とは思っておりません。けれどそのように、己が非才であると笑ってしまえる強さを学びたいものです。戦士長として他人には偉そうに語りながら、私は己の小ささを受け入れられる、そんな強さを持ち合わせておりませんから」
向けられるだけで怖じけてしまいそうな、強い覇気を宿した目。
そうした意図が存在する訳ではなく、けれどアルビャーゲルの険しい山脈を想像させる、その強く厳しい克己心こそが、その瞳に力を灯すのだ。
昔のアルゴーシュであれば、その瞳の強さに萎縮してしまっていただろう。
今そうした無様を見せないで済むのは、建前が上手くなり、受け流せるようになったからこそ――敵わない、という嫉妬に似た感情を、客観的に眺めることが出来るからこそ。
「私のそれは強さと言うより、諦めであるかも知れません。クレィシャラナの方々を見ていると、私の弟のことを思い出しますから」
「弟?」
「ええ。才覚に恵まれ、己に厳しく、気高く優しい……まさに貴族として羨むような資質に恵まれた、私の憧れでした。ただ、初陣で若くして戦死を」
アルゴーシュは自分が努力家であるとは思わない。
弟はアルゴーシュよりも、自己の研鑽に余念がなかった。
アルゴーシュが一を学ぶところで二を学ぶ。
そんな才覚に恵まれながらも、まだまだ足りぬと言わんばかり――アルゴーシュをすぐに追い抜いて更なる先へ。
アルゴーシュが家を継ぐと決まった後も、恨み言を口にはしなかった。
兄上のことを敬愛していると、子供の頃から変わらずアルゴーシュを慕う姿は変わらず、笑顔を見せていたことをよく覚えている。
「家を継ぎ、領地を任され、何かに悩む時にはいつも考えます。ここにいるのが弟であれば、きっと己よりも上手くやっただろうと。それを少しでも埋めるべく、不器用ながら走り回り、ただ責務を果たすため、それらしく見せかけているだけ……ヴィンスリール殿のような方にそう真っ直ぐと言われてしまうと、少し恥ずかしいものがあります」
例えば弟が生きていたなら、家を継いでいたなら、ここにいたならばどうだろう?
ドゥカランに侮られることもなく、相応の姿を見せていただろう。
弟を見て臆病者などと、そんな言葉を吐くこともなかったに違いない。
強さは瞳に宿るもの。
アルベリネアや女王がそうであるように、クレィシャラナの者がそうであるように、その目が何より本物であるか、偽物であるかを語るのだ。
真っ直ぐに向けられれば、萎縮してしまうような瞳によって。
「ギーテルンス殿のそれが取り繕った飾りとは、少なくとも私には見えません」
ヴィンスリールは微笑む。
「強さとは決して、一つのものではないでしょう。鍛え上げられた技や肉体も強さであれば、ギーテルンス殿のような誠実さや、広く穏やかな心を持てることも強さ……本当にクリシェ様だけが今回の交流の切っ掛けだと思っておられるのでしょうか?」
「……?」
「あの旅に同行したものが皆、納得していた訳ではありません。聖霊が盟友、クリシェ様のためならばと思ってはいても、アルベランとの交流に対しては否定的な者も少なくはありませんでした。……あなたの我々への気遣いや心配りを見て、今回の交流に乗り気になった者もいます。このベーグもそうだ」
水を向けられたベーグは頭を掻いた。
驚いたようにアルゴーシュは目を向ける。
ベーグは旅に同行した者では誰より早く、こちらに話しかけてきた一人であった。
「戦士長の仰る通り……というより、ほとんどの奴はアルベランとの交流がどうこうなんて考えてませんでしたし、理由の大半はクリシェ様と興味本位。ギーテルンス殿からすりゃ、唐突に来た蛮族が相手……だってのにあれだけ歓待してもらえりゃ平地の人間への見る目も変わります」
「……ベーグ殿」
「そりゃあの旅に不愉快の一つもなかったかと言えばそうじゃないですが……それはギーテルンス殿のせいでもなし。俺個人に限って言えば、ギーテルンス殿が切っ掛けだ。他の奴ならこうは行かなかったでしょうし、今頃ドゥカランの兄貴みてえに文句を言っていても不思議じゃない」
少し照れたように、ベーグは酒杯を煽る。
「アルベランなんざどうでもいいって連中を、旅の間に心変わりさせちまう人間が立派でなけりゃ、立派な人間ってのはどんな野郎なのかと思いますよ、俺は。少なくともギーテルンス殿のことは尊敬に値する人だと思っている。所詮は蛮族の俺達に見る目がないだけ、だなんてギーテルンス殿が思ってるならまぁ、それでも構いませんが……」
「そんなことは……」
慌ててアルゴーシュが否定すると、男臭く笑って続ける。
「俺はギーテルンス殿のそういう所が気に入っていますが、もう少し自信を持たれても良いと思いますがね。今があるのもギーテルンス殿だからこそ……他の人間じゃこうは行かないでしょう。少なくとも俺はそう思いますよ」
「……、ありがとうございます」
「それに、戦士長やリラ様は随分気にされているようですが、ドゥカランの兄貴も意固地になっているだけ。……その内、アルベランから来た鼻持ちならない貴族じゃなく、アルゴーシュ=ギーテルンス殿と話すようになれば、それこそ簡単に解決する問題でしょう。……身の美しさは聖霊にさえ伝わらん、ですよ」
あの人も悪い人じゃないんだ、とベーグは酒杯に新たなワインを注ぐ。
それを呆れたように目で咎めながらも、ヴィンスリールは自分の酒杯を差し出し、ワインを注がせた。
「……お前は簡単に言いすぎる」
「ギーテルンス殿はそんなことを気になさる小さな男でもないんです。むしろあれこれ気にされる方が気になる方だと思いますがね。でしょう?」
アルゴーシュは何とも言えず、曖昧に笑みを浮かべ。
それを見たヴィンスリールは苦笑した。
「私も……ギーテルンス殿がそのような方だとは知っているつもりなのですが」
「いえ、いえ。お気持ちはとても嬉しく思っています」
「……いや、失礼をしました。確かにお立場から考えてもやりにくいでしょう」
ヴィンスリールは酒杯を眺め、考え込む。
「ベーグの言ったとおり、悪い男ではないのです。己にも他人にも厳しく、戦士の中の戦士であると多くの者から尊敬されている。私に取っても尊敬すべき師の一人……ただ、昔のこともあって、少し苛烈に過ぎると言いますか」
「昔のこと……」
「ええ。言い訳染みたものとなりますが……」
クレィシャラナに訪れてから、ひと月半。
水飲み芋は畑に根付き、蔓を周囲に這わせていた。
成長は随分と早いようで、恐らくはこの大気、そこに満ちる竜の魔力が関係しているのだろう。
異物であったアルゴーシュ達も、ヴィンスリールやリラ、ベーグ達のおかげもあって、徐々に受け入れられ始めていた。
顔を合わせれば挨拶をされ、話しかけられる程度にはなっている。
時折何人かの前で王国のことを話す機会も増えたが、とはいえ平地への憧れを覗かせる者があっても、表立ってそれを尋ねることは周囲の視線が気になるのだろう。
反応はあまり良くないこともあって、口にするのはアルベランに伝わる物語が中心。
リベリスの乙女を始め、古い物語は彼らにも受け入れやすく人気があった。
数百年の隔たりがあるとは言え、王国にも戦士を尊ぶ文化はあったし、同じ人間であればこそ、通ずるところはあるもの。
聞いた事のない物語――聞き手としてはこれ以上なく、吟遊詩人に目をキラキラとさせ、何度も話をねだって滞在を引き延ばしていた娘の顔を思い出す。
あまり困らせてはいけないと叱ったものだが、構いませんと喜んで物語を響かせた彼の気持ちも、ここに到っては理解が出来た。
下手ではないが上手くもなく、そんなアルゴーシュの語る物語にも一々反応を返してくれる聴客ほど、嬉しいものはない。
無論、受け入れる者ばかりではない。
悪戯盛りの子供に泥団子を投げられることもあったし、老若男女を問わず平地の人間を快く思わぬものはいた。
それほど大きくもない集落――ドゥカランと顔を合わせることもあるが、やはり変わらず無視されることがほとんど。
ただ、時折遠くからは視線を感じていて、こちらに一切の関心がない、という訳でもないのだろう。
それが嫌悪であれ、何らかの感情を向けてくれるのであれば、いずれ好意に転じることもある。
同じ人間として認識されている、ということなのだ。
まだ若い頃に各地を巡っていた頃、多くの者は貴族としてアルゴーシュを捉え、貴族と平民としての壁を作り、距離を取った。
多くいる内の貴族の一人――そのような認識である内は、誰もが事務的に受け答えをし、本音を晒すこともない。
それが次第に貴族という役割ではなく、アルゴーシュという人間、というものに変わっていく内に、皆少しずつ心を開いていってくれたのだ。
平地の貴族、ではなく、アルゴーシュ個人に対し、何らかの感情を向けてくれているのであれば、それは決して悪いことではない。
今すぐどうしようとは思ってはいなかった。
次第にそうした関心がアルゴーシュ自身への興味に繋がって、嫌悪であれ不満であれ、会話と交流をしてくれるようになれば良い。
そうなるまでこちらは心を開いて待ち、普段通りにやるべきことを果たすだけ。
隠さず臆さず、貴族としてのあるべき姿で。
朝に目覚めて剣を振り、朝食を取り畑の手入れを。
集落のあちこちに顔を出し、クレィシャラナについての文化や習慣を学び、書き留め、通ずるところ、異なるところを見出していく。
そうして時折人を集め、アルベランの習慣や物語を語って聞かせ、夕食を。
夜には天幕を訪れた誰かと酒や薬草茶を飲み交わし、眠り、また朝には目覚めて剣を振り――毎朝アルゴーシュは剣を振るう。
過去には努力して、今となっては習慣として。
剣を持てるようになってからは日々研鑽を重ね、多くに比べれば秀でた方。
初めに弟に剣を教えたのはアルゴーシュであった。
戦場に出る出ないに関わらず、いざとなれば弱き者の盾として、貴族たるもの剣の修練を怠ってはならない。
時折招かれていたザインの剣術師範からの言葉の受け売りを偉そうに語りながら、剣の持ち方、振り方を教え、心構えを教えた。
剣だけではない。
兄上、兄上と尊敬の眼差しを向ける弟に、アルゴーシュは自分自身理解もしていない、貴族としての在り方を教え、早く生まれたことで先んじたものを鼻高々に。
貴族とは民の上に立つが故に、民の上に立つに相応しい存在でなければならない。
人々より多くの研鑽を重ねて心身を鍛え上げ、欲望ではなく王に仕え、そして偉大なる王の庇護を弱き民全てに届けるという責務に、全身全霊を尽くす者。
その在り方の美しさがあればこそ、貴族と名乗ることが我々に許されるのだと――父や他の貴族、尊敬すべき方からの言葉を、まるで自分の言葉かのように。
弟は兄が語る理想の貴族の姿を日々耳にして口ずさみ、そしてその理想に近づくために脇目も振らず邁進し――そんな弟に怯えたのはいつであろう。
いつの間にか、アルゴーシュ自身も目指していた理想の貴族のために剣を振るのではなく、弟に負けないために剣を振るようになった。
書物に齧り付く時間も何もかも、弟に侮られないため、軽蔑されないため。
弟に勝てないと知った後は、理解のある兄を装った。
弟を手放しで褒め、流石だと笑うことで、己の器の大きさを見せるように。
愛していたことは確かだろう。
けれど顔を合わせる度、心の底にはいつも劣等感が滲む。
弟が疎ましいと、笑顔を浮かべるアルゴーシュの心臓を何かが掴むようだった。
兄を尊敬する、弟の目が怖かった。
お前を当主にと言われたとき、怖かったのはその目がいつか失望に変わるのではないかと想像してしまったからだ。
己に劣る兄が当主となり、それを補佐しながら何を思うのかと。
軍人になると口にした弟に――内心、安堵を覚えてもいた。
遠くどこかに行ってくれれば、この気持ちも楽になるだろうと。
――気付いたのは、それを失ってから。
まるで見えていた道標さえ見失うようかのよう。
いつからか弟に負けないために、と剣を振っていたことに気付いて途方に暮れて、自分が何のために剣を振っているかさえ忘れていた。
兄上は貴族の模範だと、尊敬しているのだと語る弟の顔を思い出して、偉そうに語って聞かせた数々の言葉を思い出して、己を恥じて。
それからはずっと、日々欠かさず。
いつか弟に語って聞かせたような貴族であるために、剣を振っていた。
優劣のためではなく、誇示するためでも、下らぬ矜持を守るためでもない。
この先、振るうことがあるかないかも関係なかった。
いざとなれば弱き者の盾として、貴族たるもの剣の修練を怠ってはならない。
そう語って聞かせた言葉を嘘にしないため、剣を振る。
それを信じて命を落とした弟に堂々と、同じ言葉を答えられるように剣を振る。
お前は民のため、貴族の責務を果たしたのだと――兄としてそう答えられるようにと剣を振る。
過去においては努力であった。
上に立つため、負けないため、侮られないため。
何かから逃れるように振るう剣。
気付いてからは習慣であった。
朝に目覚めたものが冷たい水で目を覚ますように、軽く伸びでもするように。
弟が愛してくれた――そんな貴族であるために振るう剣。
競うでも比べるでも、高みを目指すためでもない。
剣を振ることが貴族の朝には相応しい。
そう考えればこそ、自ずと朝は剣を掴んだ。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
平地では太陽が昇るか昇らないか――そういう時間にアルゴーシュは目覚める。
この山間の土地にあっては山に朝日も遮られ、空はまだ夜に近く、彼らが天幕から現れるのは空の半分を陽光が照らしてから。
少し眠たげな顔をしながら剣を持ち、整列する。
特に決まりを作っていた訳ではない。
朝には朝食の当番を除いて、食事までは自由を与えている。
ストレスの溜まるであろう環境――気楽にしろと口にしていたが、いつの間にか彼らも共に、朝の稽古に顔を出すようになっていた。
最初は各々適当に、人数が増えればアルゴーシュの指示を求めて、訓練のように。
「袈裟から横薙ぎ、袈裟から斬り上げを左右に二十、踏み込んでの突きを三十、逆手に持っての突きを三十。その後はいつも通り、槍に移る」
「は」
「最初の十回はゆっくりと、動きを確認しながら丁寧に。では、始め」
両手を打ち鳴らすと、それぞれが剣を振り始める。
重要なことは無意識に馴染ませること。
速く振ろうとすればするほど、腕にばかり意識が行く。
遠心力に委ねれば腕だけでも剣は振れるが、腕だけではゆっくりとなど剣は振れない。
体全体を使えなければ美しい剣閃は描けず、剣に重みを伝えられない。
魔力保有者であろうとなかろうと、基本的な身体操作は同じであった。
特に号令を掛けるでもなく、各々が静かに。
半数は魔力を扱えなかったし、そうでなくとも剣の習熟、センス、魔力の扱い一つに違いがある。
一、二、と剣を振らせる方が見栄えは良くとも、こうした形の方がそれぞれの違いがはっきりと分かりやすい。
「トロルス、肩に力が入りすぎている。肝要なのは胴だ」
「は」
見本を見せるように剣を振る。
何万回と繰り返した袈裟から横薙ぎ、斬り上げからの突き。
無駄を削った、自然な力の流れをゆっくりと。
「背骨から伸びた縄――それが腕だ。その縄の先に結びつけた剣を、体の動きで振る。そのくらい意識して肩の力を抜きなさい。腕の強ばりは剣に伝わる力を阻害する」
「……ありがとうございます」
「腕の役目は足腰から伝わる力を導くこと。……要は馬の手綱のようなものだと思うといい」
「手綱……」
「走らせるのはお前でも、走るのは馬。右へ曲がれ左に曲がれと、いくら手綱に力を込めたところで意味もなく、抵抗する馬に腕力で勝てる訳もなし。重要なのは馬を無理なく目的の場所へ導くこと……馬とはお前の足であり、胴の力だ。あれだけ馬術が巧みなお前のこと、理解は出来るだろう」
頷くトロルスに笑い、肩を叩いて他の者を。
人に教える事は己の稽古に繋がった。
あやふやな理解も、それを誰かに伝えられる言葉へと置き換えることで深まっていく。
弟に負けないためと剣を振っていた頃には見えなかったものが多く、今では見えるようになっていた。
きっと弟は、子供の頃から見失わずにいたのだろう。
我武者羅ではなく、貴族としての剣を振っていたのだと思う。
信じられないような努力の数々も、弟に取っては単なる習慣。
貴族としては当然だと、そう心から思っていたに違いなく、それに怯えていた己があまりに恥ずかしくなる。
比べるための剣など、弟は振っていなかったのだ。
だからこそ兄上と、アルゴーシュを尊敬の眼差しで見ていたのだから。
「……?」
そうして剣から槍に訓練が移行した頃、集落の方が騒がしく。
首を傾げていると、グリフィン達が飛び立つのが見え、首を傾げる。
耳を澄ませば、遠く彼方からの鐘の音。
そして西の空――そこからのろしか何かか、煙が空に伸びているのが見えた。
「……何かあったのでしょうか?」
「そうらしい。カックス、訓練は中止、朝食の煮炊きもひとまずやめておけ。それから、いつでも装備出来るよう武具の用意を」
「は! 聞いた通りだ。朝食はひとまず果実で済ませる」
どこかの集落が襲われたか――どうあれ、すぐにどう、と言う訳でもないだろうが、このような土地。
普段以上に警戒はしておいた方が良い。
念のため持ってきておいた簡素な手甲と胸甲を身につけていると、空から現れるのは一頭のグリフィン。
それに跨がっていたのは、真剣な顔をしたベーグであった。
「西で嵐翼が飛んだと知らせが」
「嵐翼……」
大鷲の魔獣であった。
文字通り、羽ばたき一つで嵐を巻き起こす怪鳥。
この土地で最も恐れられる魔獣であった。
グリフィンでさえ近づけず、巻き起こす暴風で投槍すらも届かない。
森をなぎ倒し、魔獣さえも捕食する、怪物中の怪物。
「どうしようもない化け物です。聖霊に近いこちらへ来ることはないと願いたいですが……どちらにせよしばらくは山全体が騒がしくなる。ひとまず、ギーテルンス殿もこちらへ、族長達が会議を行ないますので」
「分かりました。カックス、後は任せた」
「は!」
口にしながら、背筋に冷たいものを感じた。
嵐翼はそれ自体が恐ろしい存在。
他の魔獣さえも嵐翼には背を向ける。
魔獣達は逃げた先で他の縄張りを荒らし、それは連鎖的に山全体に波及し――そうして行き着く先の一つには当然、この山に住む人の縄張りも含まれた。
一方、その頃――
「いかがでしょう? 今日のデザートは?」
「ん、まぁまぁですわ……」
「ふふ、ありがとうございます」
クレシェンタはベリーの膝に乗りながら、寝間着姿で腕を組み、豊かな胸に背中を預け、口だけを動かしていた。
ナイフもフォークも全自動――何故ならクレシェンタは寝起きである。
「あなたは本当朝がとことんだらしないわね。仕事が昼からとは言っても、せめて着替えたらどうなのかしら?」
「まぁまぁ、昨日は随分お忙しかったようですし……お疲れなのですよ」
「お疲れなのですわ……」
「あなたはそうやって甘やかして……」
眠たげに瞼を揺らし、欠伸をかみ殺し。
アーネとエルヴェナはくすくすと肩を揺らし、クリシェが羨ましそうに椅子を近づける。
「あの、ベリー、クリシェも、その……」
「クリシェ、姉のあなたまでそんな風に甘えるからこの子はこんななのよ。わかってるかしら?」
「えぇ……?」
「ふふ、クリシェ様をいじめてはいけませんよ。クリシェ様、はい」
「えへへ、あーん……」
「あなたね……」
遠く彼方の問題も露知らず、お屋敷は今日も平和だった。
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