責務 一
自分は実に平凡な人間である、とアルゴーシュは理解していた。
人に劣るとまでは言わないものの、しかし人より秀でている訳でもない。
一つ歳の離れた弟は自分と違い、人が羨むような才覚を持っていた。
ギーテルンス家は弟に継がせるべきではないか、と思ったこともあったが、家を継ぐのはお前だと父はアルゴーシュに言った。
そして弟にも兄を助け、共にギーテルンスと民を守っていくように、と。
お前達は一人と一人ではなく、一個としてギーテルンスなのだと。
弟は反発し、立身出世を求めて戦場に出ることになった。
『もう一度、父と話をしよう。……少なくとも私は、お前がギーテルンスを継ぐに相応しいと思っている』
才能に嫉妬はしていたが、憧れてもいた。
弟を見れば自分は器ではないと思えたし、家督を譲ることも受け入れられる。
『兄上、もう決めたことです。何、心配しないで下さい。いずれは大きな手柄を挙げ、無事に帰ってきますとも。その時にはここでまた、旨い酒でも飲みましょう』
ただ、弟は心に決めた様子。
説得を諦め、仕方ないと送り出したのは、弟には才能があったから。
弟ならば言うように、上手く手柄を挙げ、いずれは偉大な将軍として名を馳せるのかも知れない。
そう思ったからだ。
けれど、弟は初陣で呆気なく命を落とした。
アルゴーシュが手も足も出なかった弟は、エルデラントとの戦いで運悪く敵の主力とぶつかり、敵の猛者に討ち取られたのだという。
『……お前は夢を見るな、アルゴーシュ。夢を見る時間に、やるべきことも、求められることも、いくらでもある。己の手の届く範囲に、人生全てを費やしても終わらない責務が』
『責務……』
『そう、間違えるな。お前の命は、お前一人のためのものではないのだ』
己が憧れた才覚が呆気なく潰える姿を見たことは、その後のアルゴーシュにも大きな影響を与えた。
上には上がいて、そしてその上には更に上がいる。
世界は広く、己はあまりにちっぽけだった。
愚直にただ、やるべきことをやるだけ。
手の届く範囲で、出来る限りに。
ただ貴族としての責務を果たすために。
「――いやぁ、しかし、あの時のギーテルンス侯爵には本当に痺れました。竜を前に一人で堂々と歩いて行く背中……」
「そうですなぁ。あれからしばらくは街を歩いていても侯爵の話ばかり。歌まで覚えてしまいましたよ」
「ここでは呼び方に気をつけろ、竜ではなく聖霊だ。それに何度も言ったように、言われているような英雄行という訳ではない。心底すくみ上がって足まで震えておったのだから」
アーナに入り、クレィシャラナへの山道を登りながら、護衛の男達が語るのはアルゴーシュの話。
怯えながら一人、竜の所へ向かったアルゴーシュのことも今では砦の兵士達から民衆にも伝わった。
民のためには竜をも恐れぬ雄々しき貴族などと、話が広まるほどに尾ひれが付き、随分と話が大きくなってしまっている。
民衆からそのように敬意を向けられるのは喜ばしいことだが、だからと言って実際以上に持ち上げられることは好ましくはない。
アルゴーシュは真面目が取り柄、気の小さい平凡な人間。
歴史に名を残す英雄達とはものが違うし、分相応というものがある。
「それは誰だって同じです。そんな状況で一人歩いて行ける人間なんて、そう何人もいるもんじゃありません」
「貴族としての責務を果たしただけだ。特段称賛されることでもない。……そうして話をするのは良いが、周囲には注意しろ」
付き合いの長い護衛達で、気心は知れた相手。
優秀で腕も立つが、無駄話が多いことが玉に瑕であった。
「この道にはほとんど出ないと言うが、それでもここは魔獣が蔓延る山なのだ」
「は」
アルビャーゲルを中心とした山々には、無数の魔獣が存在している。
その内の一頭にでも出会えば死を覚悟せねばならない山道――少し緊張感が足りないように思え、念押しする。
正規軍の百人隊一つを平らげるのが魔獣というもの。
アルゴーシュと護衛十人では死ぬ可能性の方が高いだろう。
道なき道を、魔獣を狩りながら平然と登れたのはアルベリネアだからこそ。
比較的安全な道と言われても気を抜いてはならない。
「侯爵、空を」
「ん?」
木々の間から空に映るのは、大きな翼。
グリフィン――獅子鷲騎兵であった。
大きな風を巻き起こしながら少し前方に着地するのは精悍な男。
「ギーテルンス殿、お久しぶりですね」
「ベーグ殿……出迎えに来て下さったのか」
「丁度、今の俺の担当がここでしてね。戦士長にもギーテルンス殿が来たら案内をと」
少し癖があったが西部共通語――先日もアルベランにヴィンスリールと共に訪れた内の一人であった。
「ご無事で何より。戦場に出られたという話は聞いておりましたが……」
「一応は全員……一人愛騎を失いはしましたが、大怪我をしたものはいません。まぁ、あのクリシェ様の側で戦わせてもらいましたから、そのおかげでしょう」
グリフィンに怯えを見せる馬をなだめると、ベーグは苦笑し飛び降りる。
「リンズ、お前は前を歩け」
クレィシャラナの言葉。
きゅくるぅ、と勇猛な見た目にそぐわず高い声で鳴き、翼を閉じてリンズと呼ばれたグリフィンはベーグの少し前を歩く。
馬を降りて近づいていくと、ベーグも横を歩いた。
「険しい山道です。気を遣わず、馬に」
「久しい再会……馬上から話というのは失礼です。お気になさらず、これでも健脚な方ですから。お前達は良い」
アルゴーシュに続いて、馬から降りようとした護衛に告げる。
そしてグリフィンの後ろ姿を眺めた。
肩高五尺、優美な青い翼と獅子のような体躯。
そして猛禽のようなくちばし。
先ほど命じられた通り、少し前をグリフィンは歩いていた。
「しかし……以前にも思いましたが賢いものですな」
「馬よりは多少……魔獣に近い獣と言われてますからね。小さい頃から躾けていれば人の言葉もある程度分かるようになるんです。空から落とされたら堪ったもんじゃないですから、そうでないと困りますが」
「やはり躾は大変そうですな」
「そうですね……そちらの女王陛下は興味がお有りのようですが、懐かせるのはともかく躾となると難しいですからね。あんまり口にしたくはありませんが、やはり嫌がるものもおりますし、そっちの問題も大きいでしょう」
「でしょうな」
グリフィンは彼らの生命線。
その調教術や繁殖術を教える事には抵抗もあるだろう。
女王の顔――美しい少女の美貌と、紫の瞳を思い出す。
『ひとまずは軽いところから文化の交流を。あちらが興味あるものは無償で提供しても構いませんわ。その上で対価をもらうならば、何より優先すべきは魔水晶……グリフィンの方はちょっとした希望に留めて下さいまし』
『希望……でしょうか?』
『ええ。これから需要が増える魔水晶ばかりをねだるより、グリフィンの代わりに魔水晶、という方が心理的に抵抗も少ないでしょう? まぁ、どちらにせよ特に急ぎませんわ。まずは溝を埋めることが大事ですもの、あなたに任せますわ』
何が見えているのか、何を考えているのかも分からない。
女王クレシェンタが恐ろしい存在であることは確かであったが、少なくとも娘との様子を見る限り、随分良くしてくれているらしい。
恩義には恩義を――どうあれ任されたからにはきちんと成果を挙げなければなるまい。
「今回は集落に滞在したいということでしたが……そちらに興味が?」
「役割上それもありますが、まずはあなた方の文化を肌で感じてみたいというのが本心です。クレィシャラナとアルベランの隔たりは大きなもの……本格的な交流が始まる前に、あなた方のことをよく知っておきたい」
「……なるほど、ギーテルンス殿らしい。しかし、豊かな平地暮らしからすれば随分不便な生活となるでしょうが……」
「承知の上です。実際に肌で感じてみなければ、その文化も、生活の厳しさも、欲するものも見えてこない」
多くの文化的摩擦があるだろう。
その生活も、何もかもが違うのだから。
いざ交流を、となっても、相手が見えていなければ触れることすら出来ない。
まずは知ること――それが、今回の旅の目的であった。
「真面目な方ですね。こう口にするのは失礼ですが、やはり変わっていらっしゃる」
聞いたベーグは呆れたように両手を開く。
変わり者とは聞き慣れた言葉。
「それが、私の責務ですから」
苦笑して、アルゴーシュはいつものように答えた。
それからの旅は三日ほど。
グリフィンの翼なら半日かからず往復出来る距離。
付き合わせるのは申し訳なかったものの、道案内はいた方が良いということで、言葉に甘えることにした。
道すがら尋ねるのは魔獣を警戒した寝床の作り方。
食べられる果実や野草などを教えてもらう。
山でグリフィンを失ったときのため、生存術は幼少の頃から叩き込まれているらしい。
水場のないところも多く、基本的に山中での行動は果実で水分を補給するのが基本となるようで、水気の多いトックルという果実が重宝されている。
ほんのりと甘いが癖がなく、拳大の硬い果実はしっかり水気を含んでいる。
果実で水分を摂取するのは水場が危険だという理由もあるらしい。
魔獣もまた水場付近を縄張りにするものが多いため、グリフィンもなしに近づかない方が良いと彼は告げる。
そして新鮮な、潰れたトックルの果実を見掛けた際にはすぐにその場を離れなければならないと注意するよう語った。
トックルの実は少し高い枝にぶら下がっており、それを喰らうのは大抵魔獣――つまりはその縄張りである。
やはり、特に興味を引くのは魔獣を警戒した話。
山に詳しいものから事前に山での行動について話は聞いていたが、彼らは獣ではなく魔獣を前提に物事を考えている。
例えば獣は火を恐れるが、魔獣は火など恐れない。
そして人間を知る魔獣ならば、火の側には人間がいることを理解する。
獣を避けようと焚き火をするのは逆効果、場合によって魔獣を引き寄せることになる。
しかしだからと言って焚き火をしなければ他の獣も寄ってくるため状況に寄りけり――ただの熊や虎、狼であっても、殺されるときは殺されるのだ。
だから野営の際には必ず守りの香木と呼ばれるものを混ぜなければならない。
彼らの鼻を麻痺させる匂いであるそうで、よほど運が悪くなければこの匂いのする方へは寄ってこない。
ただ、獲物を見た後は構わず近づいて来るため、こちらを見られぬよう焚き火は少し穴を掘って小さめに。
夜は立ち上がらず、藪から頭を出さぬようにとベーグは語った。
火は夜目の利く魔獣への目くらましにはなるが、狼を追い払うようには使えない、ということなのだろう。
そうして聞いた話を些細なことから書き留めながら、私見を交えて手記を記す。
長年の知恵――魔獣達の縄張りに集落を築く者達なのだと言うことがよく分かる様々なこと。
山行の最中、些細なことからベーグは気を配っており、アルゴーシュや護衛達と笑顔で話しながらも警戒は怠らない。
ベーグは以前から随分と気さくに話しかけてくれる方で、先日の旅の間も護衛達とも随分打ち解けていたが、彼らも端々に伝わる雰囲気で分かったのだろう。
彼の指示には素直に従い、夜のちょっとした酒も慎んでいた。
恐らくこの山は彼らに取って戦場のようなもの。
グリフィンを降りて共に歩くなど、彼としても避けたいだろうに、こうして付き合ってくれるのは非常にありがたかった。
アルベリネアの連れた翠虎を除いて魔獣を目にしたことはなかったが、一目見ればあれがどれほど恐ろしい怪物であるかは理解が出来る。
小山のような竜の背中から、あの巨体で容易に飛び降りてくる姿。
アルベリネアを見たが故に動転していたが、しかしそれでも獣などとは決して呼べぬ化け物なのだ。
そうした魔獣を平然と狩りながら、道なき道を進んで山を登ったというアルベリネアとアルゴーシュ達は違う。
そうした化け物と共に過ごす彼らの生活はやはり、さぞ厳しいものなのだろう。
「改めて礼を、ベーグ殿。随分と助かりました」
集落の入り口が見えてきたところで、アルゴーシュは彼に告げる。
「以前の案内の礼ですよ。おかげで随分楽しい旅が出来ました」
「いえ、危険な旅路に付き合わせたのですから……カックス」
「は」
呼ばれた護衛――カックスは馬車から酒を一瓶持ってくる。
「この恩には見合わぬ些細なものですが……良い酒です。是非に一本」
「頂けませんよ。道案内は当然の仕事ですから」
「護衛以外にも多くを教わりましたから」
あー、と迷ったように頭を掻き、視線を惑わせる。
それから耳打ちするように告げる。
「あんまりこういう高価そうなものをもらうと、色々面倒な所があったりするんですよ。清貧を尊ぶべしがクレィシャラナの教えですから」
「なるほど……」
「という訳で、そっちに今晩顔を出したときに頂けると嬉しいんですが……」
「はは、酒好きのベーグ殿も大変ですな。分かりました。では、その時に味わってもらうと致しましょう」
そうしてベーグと共に奥へ。
男達が半裸であれば、女達も下着のような姿――気にしないようになるまでにはしばらく掛かりそうだった。
視線は興味と若干の警戒、嫌悪。特に男達の方にそれが強い。
「すみませんね。やっぱり少し、アルベランとの交流には難色を示すものが多くて……クリシェ様ならばともかく、と」
「当然でしょう、数百年の隔たりです。一朝一夕でどうにかなるものではありません」
集落は木造の小屋のような造りが主流で、土壁は少ない。
湿度が少し高いせいか、軒下に少し高さを設けており、どこの家にもちょっとした階段がある。
子供は男女交じって、徒手での格闘訓練らしきものを行なっており、仕事が分かれていくのはある程度大きくなってきてからだろうか。
少し離れた空き地で槍を突いているのは年若い男や少年ばかり。
同年代らしき少女は他の女達とともに採取してきた山菜や果実を仕分けたり、獣の解体や洗濯などを行なっていた。
その辺りはどこの村にも見られる光景に近しい。
珍しいところはと言えば、男のほとんどが訓練をしていることくらい。
「……クレィシャラナの男は戦士と従士で大きく分かれるのでしたか」
「ええ。あそこにいるのは従士見習い――従士になれず十八を超えた奴は一生戦士にも従士にもなれませんからね。みんな必死です」
「なれなかった場合は?」
「職人です。武具を作ったり家を建てたり……問題は端的に言えば、モテないってことでしょう。生涯を未婚で過ごすものも多い」
戦えない男に価値はない、という考えです、とベーグは告げる。
「これでもマシになった方……昔は戦士以外に妻帯は許されなかったそうです。今は女側が受け入れるなら従士だろうと職人だろうと妻を持てる、ということになってますが……」
「なるほど。多くはない、と」
「従士にもなれない根性なし、って評価が普通です。少なくとも、試練はそう難しいものではないですから」
ベーグは言いながら、周囲の森を指で示す。
「機会は生涯に一度だけ。十八になるまでに一人で森に入り、獣を一頭、小物であれば三匹狩って持ち帰る。時間の制限もなし、やる気さえあれば獣が狩れるまで一ヶ月過ごしたって構わない……試練はそういうものです」
「とはいえ、魔獣のいる森でしょう?」
「死を恐れて逃げ帰る奴は、いざというとき仲間を見捨てて逃げ帰るもの……心身を鍛え上げ、偉大なる先人に学び、その上で覚悟があれば十人に九人は帰ってこれる。無論、不運な奴はいますがね」
それから、集落の中心部から少し離れた小屋を指で示す。
木造がほとんどの集落であったが、そちらは土壁が主。
鋼を打つ音が響いていて、職人達がいるのだろう。
足を引きずる男の姿が見えた。
「魔獣に殺されたり、腕や足を食われたり……どれだけ鍛えて学ぼうと、結局は天運。自然に敵う者はいない。中にはまぁ、アルベリネアのような存在もいるんでしょうが……お、そこが族長の家です」
集落の中央から、少し奥まった辺りだろう。
女達が解体した獲物などを運ぶ、大きな木造のすぐ側。
比較的大きな、しかし屋敷とも言えない大きさのそれが族長の家らしい。
それらしい目印は屋根の四隅に巻かれた古色の赤帯程度。
貴族のそれとは比べものにならない、村長の家。
それがクレィシャラナ族長の家。
クレィシャラナの人口は、精々がアルベランの街一つ――しかしそれにしても質素であろう。
とはいえ、一目にそれと分からぬ程度の小さな家に族長が住むと聞けば、多少の驚きはあった。
家の見栄えは単に贅沢のためだけに存在する訳ではない。
権威を示すためのもの。
多くの民衆は華やかな貴族の邸宅に格を見て、そこに住む人間を特別な存在として区別する。
好悪あれど、憧憬を向けるべき、自らの上に立つ存在として認識するのだ。
貴族と民の間には明確な役割と立場の違いがある。
立ち居振る舞いから身につけるもの、住む家も含めて高貴を纏い、だからこそ民衆は貴族に対して従うことを良しとする。
貧者に自らおもねり、従う者などありはしない。
ただ、クレィシャラナにおいては本当に、外見的な高貴さになど一切の価値を置いていないのだろう。
肩書き一つ、族長としての名一つで、その権威の全てが成り立っているのだ。
それがこの地の民全てに文化として根付いている。
そのこと一つを見ても、やはり大きな違いを感じていた。
「お久しぶりです、ギーテルンス様。ようこそいらっしゃいました」
女達に紛れて荷運びを手伝っていた黒髪の少女がこちらに気付き、小走りに。
クレィシャラナの聖霊巫女――リラ=シャラナであった。
他の女達と同様、飾り気のない巻き布と腰布。
花が綻ぶような笑みを浮かべ、頭を下げる彼女に、こちらも深く頭を下げる。
「お久しぶりです、巫女様。……耳にしてはおりましたが、本当に巫女様のような方も働いておられるのですね」
「ええ、行事や祭礼を除けば他の者と何も変わりありませんから」
くすくすと笑みを零して、護衛のカックス達にも挨拶を。
格好が格好――カックス達は目のやり場に困った様子で、頭を下げ、いつも以上に護衛らしく視線を真っ直ぐ宙に向けていた。
「お茶を用意しています。族長も中に……長旅でお疲れでしょう。どうぞ」
「ありがたきお言葉……しかし、この人数ではご迷惑でしょう。カックス、お前達は少し待っておけ」
「は」
女らしい体にこの衣装、容姿も整うリラである。
先日は毛皮を纏ってくれていたものの、アルベランの人間には少し刺激が強い。
カックス達も当然、族長との挨拶で巫女に不躾な視線を向けるつもりもないだろうが、とはいえ念には念を入れておきたかった。
無意識というものは馬鹿に出来ない。
「えーと、迷惑ということは……」
「リラ様。そういうことなら俺が少し集落を案内しておきましょう。見慣れぬ土地で緊張もあるでしょうし……無論、ギーテルンス殿がよろしければですが」
不思議そうなリラに代わり、こちらの意図を理解してくれたのだろう。
苦笑交じりにベーグが言い、アルゴーシュは頭を下げる。
「あ、そうですね。そういうことなら……お願いしますね、ベーグ」
「ええ」
礼を告げるとベーグは気にしないで良い、と言わんばかりに、朗らかに笑って護衛達を連れていく。
笑顔でそれを見送ったリラはアルゴーシュを誘い、家の中へ。
事前に多少、その文化や作法は学んでいる。
腰の剣帯から愛剣を外すと、リラは少し驚いたように微笑み、それを受け取る。
ブーツを脱ぐと入り口に並べて、それから板張りの上に。
アルベランのように土足で家の中を歩く文化ではないが、こうした作法は田舎の村にもよく見られるもの。
それほど不思議なものではなかった。
椅子を使わない土地では比較的よく見られる。
案内されるまま一つ奥の引き戸を潜ると、両足を畳んだ正座で座る一人の老人。
剃り上げた頭と豊かな白髭。
腿の膨らんだズボンと脚絆、肩からは毛皮を掛けていたが、その隙間からは老人とは思えぬ鍛え上げられた体躯。
何とも威圧感のある老人であった。
木簡に目を通していたその男は静かにこちらに視線を向け、軽く頭を下げる。
どうするべきかを迷いながら、ひとまずその場で両膝を突き、同様の礼を。
ある程度学んではいるとは言え、細かい部分の作法は分からない部分が多かった。
「アルベラン王国侯爵、アルゴーシュ=ヴィケル=ギーテルンスです、族長アルキーレンス殿。此度は私どもの滞在をお許し頂き、ありがとうございます」
「ヴィンスリールから貴殿のことは。先日は随分、貴殿の誠意に助けられたと……なれば必然。恩義ある相手に対し、不義理を返す訳には行かないもの。どうぞ、気楽に……そちらの席へ」
「は」
立ち上がり、示された座布団に改めて膝を突く。
アルゴーシュの前にはティーカップではなく、素朴な湯飲みが置かれる。
紅茶ではなく薬草茶の類――頭を下げると、続いて置かれるのは山盛りのクッキーであった。
大きな器に山盛りである。
クレィシャラナ流の客人へのもてなしであろうか――僅かな困惑を覚えてリラを見ると、恥ずかしそうに苦笑した。
「皆様いらっしゃるものだと、その、沢山作ってしまい……」
「な、なるほど……それは失礼を」
こうした作法は難しい。
まずは礼儀として一つ口にするべきだという者もいれば、重要な話を前に茶菓子へ手を伸ばすなど言語道断と口にする者もいる。
アルキーレンスは無言でこちらを眺め、茶を啜っており、リラは何かを期待するようにニコニコと笑みを浮かべていた。
話を切り出すか、それともクッキーへ手を伸ばすか。
一瞬の熟考の末、自然にクッキーへと手を伸ばし、一つをそのまま口にする。
木の実を使ったものだろうか。
少し独特の食感ながらも、蜂蜜のほのかな甘みは柔らかい。
口にしている最中もアルキーレンスは無言。
リラはニコニコと笑顔である。
この選択は正解であったのか、それとも不正解なのか――疑問と共に嚥下し、貴族らしい落ち着いた笑みを浮かべる。
「いかがでしょう? 先日ベリー様に習ったレシピで、ギーテルンス様達のお口に合えばと思ったのですが……」
「ええ、とても。……丁度先日の、王都に滞在している時のことを思い出しました。あの時は娘がご迷惑を……」
「いえいえ。アーネ様には……ふふ、滞在中はとても気遣ってもらいましたから。ギーテルンス様とよく似て、お優しい方ですね」
「そう言って頂けると助かります」
張り切りすぎていた娘の姿を思い出し、心の底からそう告げると、彼女は苦笑しながら右斜め前に。
アルキーレンスは柔和な笑みを僅かに目元へ――リラを眺めていた。
正解だったらしい、と安堵し、内心でほっと息を吐く。
「……聞いていたとおりの御仁のようだ。まずは、長旅の苦労を労いたい」
「いえ、苦労など。ベーグ殿の案内もあり、学びの多い旅路でした」
「そう言ってくれて助かる。本来的には交流の再開を祝し、宴で迎えるべきであろうが……ろくな歓待も出来ず申し訳ない。未だ、アルベランとの国交回復に納得出来ていない者も少なくないのだ」
「当然でしょう。五百年の断絶……聖霊とアルベリネアの友誼という切っ掛けがあれど、過去の遺恨、その一切を水に流せるものではなく。私は少なくとも、今後数十年の歳月が必要だと考えております」
「わしも同じ意見。その上で……貴殿の申し出を耳にしたときには正直、ありがたいと思った」
アルキーレンスは真っ直ぐにこちらを見つめる。
威圧している訳ではなく、ただ、覇気を感じる眼差しであった。
「ここにいるリラやヴィンスリール、先日の旅に同行した者から貴殿のことは聞いている。こうして目にしてもやはり、聞いた通り……良き御仁のようだ」
「いえ、過分な評価です。こちらの不手際で随分と旅足を遅らせる形にも」
「それはこちらも同様……アルベリネアの許しがあったとは言え、あのような方だ。口にされぬだけで我らの訪問には随分と苦労があっただろう。平地の決まり事や作法の一つも知らぬ、野蛮な山の民を連れ歩くのだから」
「野蛮などと……」
アルキーレンスは目元を柔らかく、苦笑する。
「少なくとも、多くの者がそのように我らを見ていたことは事実であろうし、それを覚悟の上でアルベリネアの下へ参じた。その上で、そんな我らを客人としてもてなし、心を砕いた貴殿のことは皆が感謝しておる。……いかに謙遜しようと、その身の美しさは言葉や飾りの一つなくとも伝わるもの」
「……ありがたきお言葉です」
「うむ。そしてそんな御仁が両国の隔たりを埋めるべく、身一つで異郷に足を踏み入れ、我らに歩み寄ろうとしてくれている。これほどありがたく、心強いことはない。多くの不便はあろうが、族長として可能な限り、わしもそれに協力するつもりだ。何かあればいつでも、わしの所へ」
「は……!」
両膝を突いたまま、そのまま深く頭を下げる。
ありがたい言葉であった。
数ヶ月から半年ほどの滞在を願いたいと文を出したが、本当に受け入れてもらえるかと言えば半々。
けれども族長からこうしてお墨付きをもらえるのであれば、ひとまずの安堵は出来た。
「集落の端に天幕を張りたいとのことであったが……空いている小屋がある。人数に対して手狭かもしれんが、滞在中はそこを使ってもらっても構わないが……」
「いえ、我々は異邦人……なるべくはこの土地に負担を掛けぬようにと。場所さえお貸し頂ければ、そこで生活したいと思います。食糧に関しても、採取や狩猟の許可を頂ければ、長けたものを連れて来ております故」
「……駄目とは言わんが……クレィシャラナにおいて、戦士は狩猟のみを行なう。死に触れるのは男、実りを得るは女というのが慣習だ。言いたくはないが、貴殿らを侮るものが出るだろう」
「今回の滞在で持ってきた芋も育てるつもりです。いずれ、作物を専門とする学者を連れてくることになると思いますが……それも恐らく男となるでしょう。この先の交流に文化的な摩擦が避けられない以上、そうしたものも含め、この滞在中に肌で感じておきたいと思います」
アルキーレンスは渋面を作り、考え込む。
「貴殿は王国でも古い歴史を持つ、有数の貴族であると聞く。恥ずかしいことではあるが……皆が皆、教えに忠実な者ばかりとは言えん。肉体を鍛えながらも、未熟な心を持つ者も多い。そうした者達の中には、貴殿らに耐えがたい侮辱を口走る愚か者がおるかも知れん」
「貴族とは歴史や名ではなく、その在り方を示すもの。目の前の責務を前に、耐えがたいことなどありません。……お気遣いはありがたく思いますが、心配はご無用に」
アルゴーシュは笑顔を浮かべ、真っ直ぐと彼を見つめた。
「いずれ互いに、そうした様々なものを受け入れられる日が来ると思えば、それは些細なことです。……此度の試みが両国の断絶を埋める一助となれるよう、女王陛下とこの名に誓って、身命を捧げる覚悟。ご安心を」
しばらくそうして見つめ合い、少ししてアルキーレンスは苦笑する。
それから深く頷き、聖霊と剣に誓い、と答えた。
「貴殿の覚悟に最大限応えると約束しよう。必要なもの、問題があればわしの所へ……リラ、しばらくはギーテルンス殿の所で集落や森のことを」
「はいっ、そういうことであれば、わたしも同じく、聖霊に誓って」
リラは人好きのする愛らしい笑みを浮かべて頷いた。
「ふふ、よろしくお願いします、ギーテルンス様。先日の恩義はまだ返せぬまま……分からないことや不便があれば何でも言って下さい。滞在中はなるべく、日に一度は顔を出しますので」
「ありがとうございます、巫女様」
邪気のない、真っ直ぐな笑み。
似ているのはその黒髪くらいだろう。
けれど不思議と、今は遠くで過ごしている娘の顔を思い出して微笑んだ。
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