レイネ 十四

――愛されたい、と考えた。

けれど自分は愛されたかったのだろうか。


父が名誉の戦死を遂げたと聞いて、考えたのはそんなこと。

あれだけ愛されようと努力して、けれどそれほど、悲しいとは思わなかった。

そうか、それは悲しいことだと思っただけ。


一人になりたいと言うまでもなく、慰めに来るものはいなかった。

屋敷には何人もの使用人がいるのに、自分を慰めようとする者はおらず、その様子を見ると益々、自分が非情な人間なのかも知れない、と感じてくる。

それが分かっているから、きっと誰も近づかないのだろう。


父が死に、どうあれ自分がその代行。

絵を描くことを中断して、帰って来るはずだった父の残していった仕事を処理して、ひとまずこの家の資産を維持するべく、商人達と契約ごとの改めを。

父は女王側――戦争には間違いなく、あの女王が勝つだろう。

調べた限りでは随分と頭脳に長け、商才があり、戦場においても名高い武人を何人も討ち取っている。

女王に加担するよう父を説得したことは、どうあれ結果的に良いことであった。


結果的に父が死んだとなれば、父にとっては不幸であったのかも知れないが、とはいえそれは敵方についても同じ事。

少なくともフィーリに取ってはこちらの方が都合が良い。

貴族側についていたなら、連座で処刑と言うこともあり得ただろう。


さりとて、それが喜ばしいことなのかと言えば、それもまた難しい。

何のために生きているのかも分からない状況で、生きながらえることに何の意味があるのだろう。


――誰にも愛されることなく、生きることに意味はあるのだろうか。


時折考えるのは、そんなこと。

死ぬのが嫌だと感じるほど、この世に未練がある訳でもない。

苦痛はなるべく避けておきたい、忌避する理由はその程度の事であって、しかしいずれ人は死ぬもの。

ならば早くに済ませてしまう方が良かったとも言えるのかも知れない。


下らない考え事を頭から追い出すように、手を動かすことは日課であった。

何かを見て、思い浮かべて、それを描くことに集中する。

そうしている時間だけは好きだった。


見たいものだけを見たいように切り取って、形にしていく作業。

余計な考えが頭から消え、綺麗と感じるものだけが絵画に浮かぶ。

形に残った絵画には、綺麗なものだけが閉じ込められる。

そこには下らない考えも、鬱屈した感情も宿らない。


何もかもが、自分さえもが絵画の住民であれば良かったと時々思う。

ごく普通に笑顔を浮かべて、悩み事もなく、綺麗な世界で幸せを謳歌出来るような。

そんなものがこの世界にも、自分にもないから憧れるのだろう。


仕事をこなして、絵を描く。

そうして孤独な屋敷で時間を消化する日々の中、屋敷を訪ねたのは女王であった。

戦地からの帰りであったようで、泊まる屋敷としても都合が良かったのだろう。


『父親の戦死にも関わらず、健気な事ね。でも、残念ながらこの家の財産は戦費補填も兼ねてわたしのものにする予定なの』

『はい、女王陛下』

『貴族として生きられる程度の生活はさせてあげる。それからその内、適当な貴族のところに嫁がせてあげるわ。器量は良いもの、それなりに力のある貴族を選んであげようかしら』

『ありがとうございます、女王陛下』


少女と女性の中間――優美な黄金の髪をした美しい女王。

紫色の瞳が宝石のようで綺麗に見えた。

茶を淹れようとするフィーリを止め、側付きの女に全てをさせ――まだ十と少しのフィーリでさえ疑っているのだろう。

ソファに長剣と小剣を無作法に寝かせて、いつでも抜けるよう柄は手元側に。

一切の隙がないほど、猜疑心に満ちていた。


言葉も一切の反論を許さないと言わんばかり。

父親が戦死し、それでも家を守ろうとする娘――『普通』の視点で考えれば同情の余地もありそうなものだが、健気な事、の一言で終わらせ、結論を述べた。

最初から自分の利益しか考えていないのだろう。

人間ではなく、ネーラス家の財産の一つとして自分は扱われていた。


『後はよろしくね、ベヌーレ。私は休むわ』


要求だけを告げると、熱い紅茶が冷めるまで待つこともなく、応接間を出て行く。

すごい人だと素直に思う。

あのように自由に生きられたなら、どのように世界が見えるのだろうか。


『……大丈夫?』

『はい、こうなることもあり得るかとは想像しておりましたので』


机の上。

家を継がせてもらうための材料として用意した羊皮紙の束には、ネーラス家の財政、資産の推移が記されていた。

女王がパラパラと捲り、一瞥しただけで置き去ったそれを、ベヌーレと呼ばれた側付きは手に取り、眉を顰めた。


『これを……あなたが?』

『はい。結果的に女王陛下の一助となれたと思えば、無駄ではありませんでした』


自分の知性は随分と高い水準にあると考えていた。

交渉材料となり得るものと考えていたが、女王は恐らく、フィーリよりもずっと優れているのだろう。

評価は健気、子供にしてはよく頑張った、程度の扱いであった。

井の中の蛙とはこのこと――やはり上手くは行かないもの。

苦笑すると、ベヌーレは怪訝な顔を浮かべ、あれこれ尋ねた。


これまでの話を尋ねられ、それから同情するように。

ベヌーレは『普通』の優しい人であった。


『……使用人、でございますか?』

『ええ。能力は十分過ぎるくらいだもの、女王陛下にはわたしからお願いしてみましょう』

『ですが……』

『……?』


同情してくれているのは分かる。

ただ、あの女王に自分が必要かと問われれば、疑問であった。


『わたくしに同情して下さっていることは分かりますわ。けれど、女王陛下はそうしたお方ではありませんし、わたくしの身を案じることはベヌーレ様の不利益になりかねません。……お誘いはとても嬉しく思いますけれど、お止めになった方がよろしいかと』

『……ふふ、わたしが言い出したことをどうしてあなたが気遣うのかしら?』

『……?』


同じ事じゃない、とベヌーレは苦笑する。


『わたしの身を案じることはあなたの不利益でしょう? 素直に頷いておけば、王領の使用人として、小さな自由を得られるのに。それとも、王領使用人に魅力を感じない?』

『いえ……』

『……優しいのね』


フィーリは首を振った。


『そんなことは。ただ、わたくしは……ベヌーレ様に同情して頂けるほど、傷ついてもおりません。この先どうなっても、きっとそうでしょう』


これまでもそうでしたから、と続ける。

母の病死も父の死も、悲しいことだ、の一言で済ませてしまえた。

この先、不幸があってもそうだろう。

悲しいことだ、で終わらせてしまえる人間だった。


『……そんな人間のために、ベヌーレ様のような方が骨を折る必要はないと、そう思うだけですの』


ベヌーレのような人間の優しさは、自分ではない誰かに使われるべきだと思う。

あまりに勿体なかった。


『……自分のことが嫌い?』

『……好きではありません』

『きっと、すごく潔癖なのね。本当にレイネ様にそっくり』

『……?』

『レイネ様も純粋過ぎて、だから色々なものに傷つけられて……何も信じられなくなってしまったの。だから、すごく似ているわ。そうやって自分を否定しようとするあなたと、他人を否定しようとするレイネ様……向かう方向が違うだけで』


ベヌーレは隣に腰掛けると、フィーリの頭を撫でた。


『こうしてあなたと出会ったことは何かの導きだと思うの。……わたしはあなたのような子が、レイネ様のお側にいて欲しい。あなたはきっと、誰よりレイネ様の心を癒やすことが出来ると思うから』

『癒やす……』

『ええ。……ずっと側にいたわたしには、どれだけ望んでも出来なかったことだから』


優しい手つき、悲哀と諦観の混じった優しい音色。


『レイネ様はお生まれになってからずっと、孤独を感じておられるの。どこにも、ご自分の心を癒やしてくれるような理解者がいないことに。だから、同じ悲しみを知るあなたにこそ、レイネ様のお側にいて欲しいと、そう思うのよ。……使用人として王領に来て欲しいと言ったのは、同情だけじゃないわ』

『わたくしには……』

『あなたはまだ子供よ、フィーリ。……自分から可能性を閉ざしてしまうようなことは口にするのはやめなさい。それに、人生には何かの目標が必要よ』

『目標……ですか?』


ええ、と頷く。


『長い人生……ただ生きるだけでは辛いことの方が多いもの。月をしるべに歩くように、目指す場所がなければ苦しいだけ』


わたしにとってはレイネ様がそう、とベヌーレは続けた。


『ひとまず騙されたと思って、わたしの与える目標に向かってみるのはどうかしら? もちろん、今は仮にでもいいわ。強要出来ることでもないけれど……でも、もしいつかわたしの目標とあなたの目標が重なって、レイネ様のそれが重なってくれれば……そう思えるだけで、すごく幸せなことだから』

『……思えるだけで、でしょうか?』


ええ、と頷く。


『……そんな想像が出来ることほど、幸せなことはないもの』


何となく、絵を描いている時の自分を思い出した。

叶わないと思いながらも、描かれるのは輝くような、綺麗な世界。

ふと、あの猜疑心に満ちた美しい女王が、紅茶を淹れる自分に笑いかける姿を想像する。

まるであり得なさそうな――けれど、想像するほどに楽しそうで、幸せそうな光景。


それは良い、と不思議と思えて。


それが、全ての切っ掛けだろう。


――ぼんやりと目覚めると、既に彼女は起きていた。

そして不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。


「……おはようございます、レイネ様。今日はお早いですわね」

「あなたが遅いのよ」

「まぁ……ふふ、懐かしい夢を見ていたからでしょうか」


ふと見ると彼女の腕を頭の下に敷いていて、苦笑する。

それから、失礼を、と裸体を起こすと、レイネは痺れたらしい腕を手で撫で、こちらを睨む。


「何度ベッドから蹴落としてやろうかと思ったわ」

「実行に移さないところに愛を感じますわね」

「減らず口を叩かないで、早く出て行ってちょうだい」

「今更隠さずとも、女王陛下が使用人を寝床に招いているなんてすぐに噂になりますわ。わたくしも一応気をつけてはおりますけれど、不審に思われている気が致しますもの」

「……招いているのではなくて、あなたが勝手に来ているのよ」


くすくすと肩を揺らして下着を身につける。


「そうですわね。女王陛下は勝手に来る使用人の訪問を許して、朝まで共に過ごすことを許しているだけ……わたくしが勝手に来ているだけですわ。外から見た時にどう見られるかはともかく」

「……朝からあなたの減らず口に付き合うのはうんざりだわ」

「それを仰るならわたくしの方も。女王陛下の減らず口に付き合うのはうんざりですわね。ふふ、もっと素直になってくださればよろしいのに」


そうしてエプロンドレスを身につけて、ベッドの上に。

そしてこちらをぼんやりと眺めていた、寝ぼけ眼のレイネに顔を寄せ、頬に手を当て口付ける。

抵抗もなく、彼女はそれを受け入れた。


「近頃は良く思いますの。……きっと誰かに愛されることよりも、誰かを愛することの方が、ずっと幸せなことですわ」


――愛されたい、と考えた。

けれど自分は愛されたかったのだろうか。


きっと、順序があべこべなのだと思う。

自分は多分、愚かな父を愛したいと思っていたのだろう。

ただただ、普通の娘として。


愛されることで、己の愛が届いたのだと、きっとそれを確認したかったのだ。

己は父を愛しているのだと、それを実感したかったのだ。


何かを愛することが全ての始まりなのだと思う。

愛するもののない人生など、どこまでも空虚であった。

人生に光をもたらすのは、愛すべき何か。

それに愛されるかどうかなど、所詮は結果でしかないのだろう。


大いなる過程の内側において、結果などは泡沫であった。

愛を求めて一喜一憂などせずとも、己に愛が一つでもあれば良い。

それは、光り輝くように、目の前の道を照らしてくれる。


「……わたくしはレイネ様がそんな幸せに気付いて下さる日が来ることを、毎日のように夢見ておりますの」

「……はた迷惑な夢だこと」

「まぁ。ふふ、でも、エルスレイネ様もそれをお望みなんですもの」


大きな光の、小さな光。

慣習的なものではあったが、しかしフィーリには良い響きに思えた。


「後はレイネ様だけ……今日から嘘だと思って、エルスレイネ様だけではなく、愛しているわ、フィーリ、と夜毎に囁いてみてはいかがでしょう? きっと世界の見え方が変わりますわ」

「不思議なものね、あなたに口にするのは死んでもごめんだわ」

「あら、傷つきますわね」

「二度目よフィーリ。減らず口を叩いてないで、早く出て行ってちょうだい。あなたのせいで腕が痺れて、今日はよく眠れなかったの」


不機嫌そうに言って、顔を背けるように横になる。

少女と女性の中間――美貌は今なお陰りなく。

そんな寝顔を綺麗と眺めて、その金糸を指でなぞるように、頭を撫でた。


それから部屋を眺めて、彼女に告げる。


「今日は花壇の手入れをするついでに、花を摘んで参りましょうか。花瓶があると殺風景な部屋も少し温かく見える気が致しますし」

「……好きにしてちょうだい」

「この際、絵画を入れ替えても良いかも知れませんわね。エルスレイネ様の絵を何点か、見繕っておきますわ」


好きにして、と更に繰り返されて、苦笑して。


「それではまた、後ほど」


お休みなさいませ、レイネ様。

もう一度口付けを頬に落とすと部屋の外へ。






透き通るような青い空に、ふわりと雲が列なっていた。

影は真下に、王城の影さえ側の花壇に伸びることなく。

水の雫を肌に浮かべ、陽光に照らされる花達が、きらきらと目映く虹の合間に揺れ輝く。


花壇の手入れは好きであった。

芽から育って蕾になっては花開く。

繰り返す内に、この芽が蕾が、どのような花を開かせるのかと想像するのが、何よりも楽しい。


そうして浮かんだ想像の花を、絵にしてみるのも悪くなかった。

エルスレイネが帰ってきたら、それを一緒に描くのも楽しいかも知れない。

その内、三人で絵を描いて見るのも良いだろう。


『かあさま、こうすると良いのですよ』


そんなことを教えながら、心の底から幸せそうに笑う『彼女』の姿が目に浮かぶようで、不機嫌そうな顔の『彼女』の姿もまた同じく、目に浮かぶ。

母の部屋にいつの間にか、自分の絵が飾られるのを見たならどう思うだろう。

きっと喜んでくれるに違いない。

あの笑顔はどこまでも綺麗で、美しかった。


まさに大いなる光が願った、小さな輝きそのもの。

彼女が願うに足る、愛するに足る、この世に一つの宝石のように綺麗な少女。


どこまでも優しい彼女のこと――戦場できっと、疲れてしまっているだろう。

帰ってきた彼女がこの先、何に思い悩むことなく休めるように、心の底から良かったと思えるように、もっと綺麗にしておきたかった。


『長い人生……ただ生きるだけでは辛いことの方が多いもの。月をしるべに歩くように、目指す場所がなければ苦しいだけ』


誰より彼女を愛したベヌーレも、ここにいれば良かったと思う。

今の彼女を見たならば、きっと誰より喜んでくれただろうに。


死を選んだとき、何を想像したのだろう。

愛するものの幸せな未来を、思い浮かべることが出来たのだろうか。

せめて、そうであったなら良いと思う。

彼女のような人間の最期は幸せなものであるべきだった。

その幸せな想像のためであれば、死もまた彼女の救いになったと思いたい。


「……ベヌーレ様。ベヌーレ様とわたくしの、そしてレイネ様の願う世界は、もうすぐここに訪れますよ」


今日は墓前に花を供えようか。

彼女の好きだった花の一つを眺めて、どれにしようかと思い悩み。


「フィーリ様、ですよね……?」


人の気配と掛けられた声に振り返る。

王領屋敷の使用人――王城側の何の用かと首を傾げた。


「ええ。わたくしに何か――」

「ぉ……お許しを!」

「ぅ、っ……?」


一瞬状況が理解も出来ず、痛みと言うより衝撃だった。

脇腹に突き立てられたナイフを眺め、相手の顔を眺める。

自分で刺しておきながら、怯えた様子――特に恨まれた覚えもない。

誰かに命じられてのものだろうか。


力が抜けて、膝が崩れて横たわる。

慌てて立ち去る足音が響いて、突き立ったままのナイフを見つめた。

どうあれ、明らかにフィーリを狙ってのことだろう。

人間違いでないことは幸いであった。


何故、と思えば城の外――戦場に出たエルスレイネが思い浮かぶ。

同じ王城勤めならばともかく、屋敷担当の使用人。

女王と使用人の関係を知っているとも思えない。


脇腹、肋骨の下。

万が一にでも助かるだろうかと考えて、無理そうだと思考を止める。

刺さりどころが良くなかった。せめて身を捻るくらいは出来れば良かった。

そうでなくとも、まず間違いなく毒が塗られているに違いない。

刺さった場所が致命的でなければ、それで万が一という程度。

自分が死ぬことは間違いないらしい。


そうであればせめて、幸せなこの先の世界を想像したかった。


けれど、タイミングが悪いと言わざるを得ない。

死ぬには一番、悪いタイミングのように思えた。


きっと誰かは、母と娘で殺し合わせる心算なのだろう。

殺し合いとまではなるまいが、けれど――考えている内に、体が冷えていくようだった。


せめてエルスレイネが帰ってきた後に殺してくれれば良かったと思う。

そうであればきっと、二人が笑って過ごす世界を想像も出来ただろう。


せめて絵だけでも飾っていれば良かった。

フィーリが飾ったのだと知れば――母とフィーリが良い関係であったのだと知れば、少しは想像が出来たのかも。

けれど、それも後悔でしかなく、これで終わるのだ、と、視界が暗くなっていく。


泡沫が弾けるように、呆気ない終わり。

これで終わるのかと思えば、どこまでも寂しく思えた。


エルスレンはきっと、すぐ側にまで近づいていたのに。

それをこの目で見ることは叶わないのだと気が付いて、灰色の視界が滲んで歪む。


目の横を流れる感触を味わいながら、目映い日差しに目を細めた。

自分にも、このようなものが流れるのだと初めて知って、蹲る。


今更知ったところで、意味のないこと。

この先には、無があるだけ。


それでもただ、もう一度二人の顔を思い浮かべた。

せめて二人が笑う姿を一目でも、見られたならば良かったのに、と。


もはや無意味な願いを繰り返して、どこかへ沈んでいくように。


























「……あれから一年経ったというのに、信じられないほど下手ですわね。商品として売りつけられたら、むしろ引取料を要求するところですわ」

「……あのね。呼んでもないのに来た挙げ句、開口一番に文句を言わないでちょうだい。まだ練習中なのよ」

「わたくし、セレネ様が何かの練習を終えた所を見た覚えがありませんわ」

「あるでしょ! この前の別荘だって悪くないとか言いながら好き勝手寛いでたじゃないの!!」

「ま、まぁまぁ……クレシェンタ様、そういうことを口にしてはいけませんよ」


屋敷の側――セレネの工房の隣に建てられた、セレネの第二工房。

そこに置かれているのは様々な顔料と描かれた絵画であった。


絵を描いてみようと考えたらしいセレネは新規に工房を設計、併設し、それから一年ほどが過ぎた。

近頃は絵画にご執心――毎日のようにここに籠もって絵を描いていた。


元々美的なセンス自体は悪くもなく、彫刻等で磨かれてもいる。

一年間絵を描き続けたセレネにはもちろんそれなりの進歩はあったものの、あくまでそれは素人として。

そして、この屋敷には一人を除き、高価な美術品の数々を目にして育ったものばかり。

その基準を超えることは並大抵のことではない。


モデルになって椅子に座っていたクリシェは、ベリーとクレシェンタが来て中断したことで立ち上がり、セレネの描いていた絵を眺める。

ほへー、と間の抜けた顔でそれを眺め、首を傾げ。


「……? あの、セレネ? クリシェを描いてたんじゃ……」

「……ま、まだスケッチの途中なの」

「えと、スケッチ……?」


クリシェは置かれていた姿見で自分の姿とスケッチを何度か見比べる。

見るほどに困惑を深めるクリシェを慌てたようにベリーが止めた。


「も、モデルのお仕事でお疲れでしょうし、クリシェ様、お茶にしませんか? クッキーを焼いてきましたので」

「あ、はいっ、じゃあクリシェ、お茶を淹れますね」

「ええ、お願い致します。そちらの机を使いましょうか」


座りっぱなしで退屈だったクリシェは笑顔を浮かべ、紅茶を用意しはじめ、セレネは深くため息を吐く。


「どうして見たものを見たままに描くことさえ出来ないのか、わたくしは理解に苦しみますわ。以前から何度も言っているはずですけれど、芸術はそろそろ諦めた方が良いのではないかしら? ガラクタが増えるとアーネ様に処分してもらうのも大変ですわ」

「うるさいわね……」


クレシェンタは睨まれることも構わず、炭を手に取り、置かれていた真っ白なカンバスに。

無造作に手を動かすと、先ほど椅子に座っていたクリシェの姿を頭の上からあっさりと描いた。


何の下書きもなく、まるで見たものをそのまま炭で表現する作業は、クリシェとベリーが紅茶を淹れ終わる前にほとんどが終わる。

呆気なく炭を手放すと無言でベリーに手を差し出し、炭の汚れを清めさせ。

自分の描いたものとセレネの描いたものを指で示して、呆れたようにクレシェンタは告げる。


「赤子の頃のわたくしでさえセレネ様より上手に描けますわね」

「ぅ……」

「ふふ、お上手ですね。でも、そういう意地悪なことを言ってはいけませんよ」

「むぐっ」

「色々試して、少しずつでも進歩していくことには楽しみがございますし……下手なこともその分進歩を楽しめるという点で悪いことではありません」


クッキーを咥えさせて抱き寄せつつ。

説教を口にするベリーを見て、セレネは眉間に皺を寄せる。


「……へぇ、その言い分だとあなたもわたしが下手だって言いたいのね、ベリー」

「ぁ……、い、いえ、そういうことでは……言葉の綾でございますよ。一年前に比べるとお嬢さまの絵には随分進歩は……」

「……中々の上から目線で言ってくれるじゃない。あなたってそういう所あるわよね」

「そういう所……」

「何を作っても力作ですねだとか気持ちが伝わる良い作品ですねとか……小馬鹿にしてるとまでは言わないけれど、まるで子供の成長を微笑ましく見守ってます、と言わんばかりの上から目線。……いつまであなたはわたしの保護者気取りなのかしら」


ベリーは困ったように苦笑した。


「いいわ。折角の機会だしどうかしら、あなたも絵を描いてみたらどう?」

「え、えぇと、わたしは……ほら、仕事もございますし」

「家事以外は遊んでるようなものでしょ。暇がないだなんて言わせないわよ。前々から……千年以上前からずーっと気になってたの。あなたが料理と魔水晶以外に何かを作っているところを見てみたいわ」

「たまには良いことを言いますわね、セレネ様。わたくしも出来損ないしか描けなくて吠え面を掻くベリーを見てみ――むぐっ、……っ」


ごく自然にベリーはクレシェンタの口をクッキーで塞ぎつつ、嘆息した。

不満を露わにベリーを睨むも、敵も然る者。

ベリーは既に新たなクッキーをクレシェンタの口の前に用意し、一切の発言を許さぬ構えである。


それを見ていたクリシェも、もはやそうした会話も耳の外。

クッキーを手ずから食べさせてもらっている妹の姿に、自分も欲しいと言いたげに顔を上げて、ベリーにアピールしていた。


「そこまで仰るならば受ける他ありませんね」


そちらにもクッキーを与えつつ、仕方ないと言いたげにベリーが告げる。


「そう来なくちゃ。そうね、期間は今月の終わりまで。負けた方は次の旅行先の決定権を持つってことでどうかしら? 判定するのは他の三人……言っておくけれど、買収もしくはそれに準ずる行為は禁止よ」

「……、何だか信用されてませんね」

「……自分のこれまでを振り返って、あなたがわたしに対して信用を積み重ねてきたと思うならそれは何かの病気だと思うわ」


ベリーは再び苦笑して、そんな彼女を見ながらセレネは続ける。


「ついでに、一から十まで全部自分で描くこと。モデルにするのはともかく、お馬鹿二人にあれこれアドバイスをさせるのも禁止。いい?」

「……お嬢さまはいつからそんなに人を疑うようになってしまわれたのでしょう。可能であれば、ほんの子供であった頃のお嬢さまの姿をお見せしたい所でございますが……」

「……あなたがそれを言うのかしら。念のため、クリシェはモデルにもらうわよ」

「えと……セレネ? クリシェ、まだモデルのお仕事するんですか……?」

「あなたはすぐに言いくるめられてベリーの味方するんだもの。文句言わない」

「うぅ……」


もうモデルは嫌と言いたげなクリシェはベリーに助けを求めるも、ベリーは困った様子で笑うばかり。


「仕方ありませんね。では、勝負の条件は以上ということで」

「ええ。見てなさい、描いてみると意外と難しいだなんて泣き言と言い訳を繰り返すハメになるんだから」










お茶を飲んだ後はセレネの牢獄に収監されたクリシェを置き去りに。

例の如く、抱き上げられながらも偉そうな顔をするクレシェンタが尋ねた。


「何やら自信がありそうですわね」

「あら、そう見えますか?」

「随分素直ですもの。負ける可能性があるなら賭けをしないか、あなたはあれこれ屁理屈を捏ねて、条件を弄くり回して掻き乱そうとするでしょう? 下らない勝負に大人げなく」

「その言い方は心外でございますね。不利な戦いを避けようとしているだけですよ」

「それはセレネ様との勝敗が五分になってから口にするべきですわね」


くすくすとベリーは笑いながら、屋敷を眺めながら指先を振るい、宙空に式を刻む。

水気を集めて出来た猫がぴょこぴょこと現れ転がり、同じく鳥が、犬が現れた。


「何かの造形を観察するのは慣れておりますし、描き方は無条件……」


猫の一匹が水で出来た筆を咥えて、下生えに簡素な猫の絵を描いていく。


「細かい部分は式を組めば済む話です。ふふ、まぁ、クリシェ様やクレシェンタ様からすれば随分と稚拙な絵にはなるかも知れませんけれど」

「当然ですわね。雑草を比べるようなものですわ」

「……それにお嬢さまは独学。わたしの方は大した期間ではありませんけれど、子供の頃には少し、姉と一緒に家庭教師から絵画の基本程度は習っておりますし」


絵画の授業にうんざりして、ベリーを引っ張ってきた姉を思い出して苦笑する。

面倒くさがりで不器用で、姉は随分と絵が苦手であった。


「わたしに似て不器用だから、とお嬢さまには家庭教師を付けたりはされなかったのですが……まぁ、今のところお嬢さまとは大して条件も変わらず、有利はこちらでございましょうか」


問題は題材でございますね、とクレシェンタを眺め、露骨に嫌そうな顔をする。


「あなたの下手くそな絵のモデルだなんて真っ平ですわ」

「せめてご覧になってから言って頂きたいところですが……ふふ、そう仰ると思いました。さりとて他の三人をモデルに、とすると、買収に準ずる行為とされてしまいそうですね」


困りましたと困った様子もなく、そのまま歩いて屋敷の正面、深い森の際に。

屋敷と周囲の風景を眺め、目を細める。


「ぐるるんも描きやすくて良いかと思いますけれど、どうせ描くなら勝つだけじゃなくて、楽しそうな絵が良いですね。みんなで宴をしている絵だとか」

「エルスレイネの絵でも真似しますの?」

「そうですね、それも悪くはないかとは」


美しく、精緻で、鮮やかな絵画。

あちらにいた頃は見たことはない。

王国を二分した王女の絵――どれほど見事であっても飾るのは王家に対して不敬であり、不吉であるとされていたそうで、貴族達も堂々と飾ることはしなかったと聞く。

ギルダンスタインがその多くを売り払ったそうで、王領で過ごすようになってからも見たことはなかった。


「あなたじゃ贋作レベルにも到らないと思いますけれど。無駄に手が込んでますもの」

「良いのですよ、要は雰囲気。見た感じの印象が良ければ全て良し、です」

「あなたはいつも適当ですわね」


こちらに来て、あちこちを巡って、そうして初めて目にした絵画。

一目にそれと分かる、圧倒的な技法。

忌み子とされる二人のレイネ――実際に、この二人と近しい存在であったのだろうと思う。

だからこそ、その死はきっと悲しいものであったのではなかろうか。


「それに、丁度良いかも知れません。ここはとてもぴったりですから」

「……丁度良い?」

「楽園ばかりを何枚も描いて、国の名前もそのように。……最期はどうあれ少なくとも、エルスレイネ様が願われたような場所はこんな場所なのではないでしょうか」


小さな楽園。

国の名としては、不思議な名前。

権威ではなく示威ではなく、子供の願うような、夢の国。


「タイトルは小さな楽園。……ふふ、エルスレンとでもしましょうか」


響かせるとしっくりときて、苦笑する。

心地よい風と空気、輝くような、穏やかな世界。

少なくとも、ここはきっと、いつか願われたそんな場所。


「それはさぞ、名前負けする傑作が生まれそうですわね。見せかけばかりで中身が空っぽな、あなたにとてもお似合いのタイトルですわ」

「ふふ、良いではありませんか。……それに、それを仰るならばこんな場所を作った方にも責任があると思うのですが。モデルはここになる訳ですし、まさに頭の中身が空っぽな方が考えたような夢の国です」

「喧嘩を売ってますの?」

「いいえ、素敵な場所だと褒めているだけでございますよ」


くすくすと笑って、不機嫌そうに髪を引っ張る彼女を無視して続ける。


「ある意味クリシェ様とクレシェンタ様、お二人との合作でございますね。上手に描けて勝負に勝てたら、どこかに飾ってみましょうか」

「これ以上ガラクタを増やさないで下さいまし」


光り輝く小さな楽園。

下らない日々を繰り返すだけの夢の鳥籠。

王家に生まれた二人の赤子が、願いの末に到った場所。

どこを切り取っても、手を加える必要もないほどに、光り輝くそんな世界。


目映い世界を色鮮やかに――絵にするならば、ここが良い。

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