レイネ 終
――初めて目にした時からお慕いしておりますわ、レイネ様。
愛おしげに囁かれる声に、呆れたようにレイネは答えた。
『……ようやく分かったわ。壊れてるのね、あなた』
『壊れているなら受け入れて下さるのでしょうか? それなら、壊れています、とお答えするのが都合が良いですわね』
くすくすと楽しげに肩を揺らし、少女のようにフィーリは笑う。
『でも、そのような区別が必要でしょうか? 皆、壊れているとも言えますし、正常だとも言えるでしょう。わたくし達は皆、不完全な生き物ですわ、レイネ様。もちろんあなたも含めて』
そして自分の頭を指し示す。
『完璧というものは、何も欲することはなく、望みもない存在。レイネ様は特別綺麗でも、所詮はわたくし達と同じ、不完全な一匹の動物ですわ。食べて寝て交わって、犬や猫と変わらない人間の一匹……』
レイネが眉を顰めると、フィーリは微笑む。
『……こんな下らない世界だなんて馬鹿にして、他とは違うと意地を張って、あなたはご自分が特別だと信じなければ怖いだけ。疎外感の自己弁護に、特別だなんて言葉を使っているだけですわ。存在意義を求めて子を産んで、やっていることは何一つ、他の人間と変わりませんのに』
『……殺して欲しいの?』
『まさか。ベヌーレ様に代わって、教育係としてのちょっとした指導でございますわ』
飄々と紅茶に口付け、目を細める。
余裕の態度を崩さず、恐れや怯えもない。
ただただ、苛立たしい態度の女。
『所詮は獣の群れ。各々が好き勝手に、自分の利益を求めて過ごしていますの。金に異性に権力に……皆自由にやってますわ。あなたも同じ、エルスレイネ様を愛することで、愛されるという見返りを欲して利用しているだけ。純粋な善意でさえ、自己満足という見返りがあればこそ。意識してか無意識にか、それは人それぞれでしょうけれど……』
嘲るようにフィーリは続ける。
『この世界はそんな世界。それが下らないと仰るなら死ぬべきでしょう。一切の見返りなく、他人を愛せる人間なんて存在しませんわ。……それをお分かりのはずなのに、こうしてあなたが生きていらっしゃるのは……この下らない世界で生きる理由を与えてくれる誰かを期待したからではありませんか?』
『…………』
『でも、世界はあなたにばかり都合良くは変わらないもの。変わるべきはあなたですわ、レイネ様。閉じたその目を開いてみるだけで、あなたの愛を求め、あなたを愛したいと願い、あなたの生きる理由を与えてくれる存在はいくらでもいらっしゃいます』
――もちろん、わたくしも含めて。
その手を伸ばして頬に触れ、愛おしそうに肌をなぞる。
『まずはわたくしの愛を受け入れて下さいませんこと? きっと、後悔はさせません。レイネ様が二度と、目を閉じないで済むように……望みの全てを叶えますわ』
そして手を離すと、くすくすと口元に手を当て笑いを零す。
そのまま紅茶を飲み干すと立ち上がった。
『今日は遅いですし、これで失礼しますわ、女王陛下。……じっくりお考えになって下さいませ。明日の朝、お片付けとお掃除に――、っ?』
勢いよくその手を引いて、そのままベッドへと放り投げる。
抵抗もなく倒れ込んだ彼女の両手を押さえつけると、フィーリは呆然とレイネを見つめた。
『……そんな顔もするのね』
『それは、まぁ……わたくしも人間でございますもの』
そう口にすると視線を揺らして頬を染め、溜め息交じりの深呼吸。
緊張していた体を緩め、恥ずかしそうに苦笑した。
『これは、先の言葉を受け入れて下さる、ということでございましょうか?』
『別に。……単にあなたの口にする愛が、どんな下らないものか見てみたくなっただけ』
『ふふ、流石は女王陛下。肌を重ねることで、相手の愛が真実かどうかまでお分かりになってしまわれのですね。素晴らしい特技を――、っ』
口付けて、舌を差し込み、舐め回す。
彼女は一瞬硬直して、大きな目を見開いたまま、抵抗はせず。
『……黙って』
そう告げると、彼女は命じられるまま黙りこみ、視線を揺らして頷いた。
この世のほとんどは、言葉を喋る道具のような存在。
レイネ達とは違うもの――単なる気まぐれで、そういう使い方をしてみただけ。
特に大きな意味もなく、不愉快な女の言葉を受け入れた訳でも、考えを改めた訳でも、愛した訳でもありはしない。
ちょっとした気まぐれだった。
へらへらと笑う不愉快な女の、嘲るような、見下すような瞳もいい加減に目障りで、少し溜飲が下がればいい、その程度の事。
その腹立たしい面の皮の下はどのようになっているのだろうと、そういう興味。
『……結局、この世の全ては夢と変わらぬ錯覚ですわ、レイネ様』
けれど終わった後も、裸体を寄せては講釈染みた世迷い言。
『心だなんて不確かなものを持った者達同士で、それを様々な形で表現して、受け止めて。身を寄せ合って、触れあって、言葉を紡いで確からしく、どこまで行っても心がそのまま伝えられる訳でも、読める訳ではないんですもの。各々が自分勝手に、都合の良い解釈で受け止めて、都合の良い現実を見ているだけ』
耳障りな言葉ばかり。
『どうせ分からないことであれば、幸せに思える解釈をする方がずっと合理的ではございませんこと? 少なくともエルスレイネ様を悲しませたくないわたくしは、あなたを殺すことも害することもありませんわ。だからまずは、わたくしに愛されていると、都合良く解釈して見るのがよろしいと思いますの』
『あなたにとって都合が良いだけでしょう、それは』
『当然ですわ。ふふ、わたくしはわたくしの幸せ以外に興味がありませんもの』
くすくす、と肩を揺らして、目を細め。
愛おしいことを表現するように、レイネの瞳を覗き込む。
『わたくしが欲しいのは、二人のレイネ様に愛されるという都合の良い現実。お二人が幸せそうに過ごすエルスレンに招かれて、共に幸せな日々を過ごすこと。……結局わたくしを殺せない以上、抵抗したって無意味ですわ』
わたくしはしつこいですもの、と楽しそうに笑って、レイネの腕を取り頬を寄せる。
『嫌と言っても側に侍り、愛を囁き、あなたの言葉も態度も全て、都合良く解釈して受け止めて、生涯を尽くして見せましょう。……どれだけあなたが疑っても、キリがないほど愛しているとお伝えしますわ』
ベヌーレに拾わせなければ良かった、と告げると、フィーリは笑う。
取り返しが付かないから、後悔と言いますの、と頬を擦りつけ。
『……このまま、朝まで添い寝をしてもよろしいでしょうか』
『一人で寝るわ。出て行ってちょうだい』
『聞いてみただけですわ。わたくしが添い寝をしたいだけですもの』
くすくす、くすくすと。
笑いながら更に身を寄せ、口付ける。
『ふふ、もう一人のレイネ様が戦場からお帰りになるまで……明日から毎晩、お部屋を訪ねますわ。それから毎晩のように戯れ言を聞かせて、添い寝をしますの』
それから幸せな未来を語るように、レイネの腕を枕にした。
『……お帰りになった時には、二人で添い寝してあげればきっと、大喜び間違いなしですわね。……ふふ、いつもとても幸せな……そういう素敵なお方ですもの』
――おやすみなさいませ、レイネ様。
言いたいことを口にして、目を閉じて。
レイネは苛立たしさを吐き出すように息をついた。
気に食わない女であったが、けれどきっと、そうなるのだろう。
彼女の寝顔を眺めさせられている現実を見れば、そうなるような確信があった。
ただ、そうなるような気がしていただけ。
そうした未来は訪れなかった。
「…………」
薬が効いてきたのか、一人ベッドの上で転がっていると、眠気がゆっくりと訪れる。
父を殺した時に使った薬――眠るように死に到る。
ぼんやりとした頭で、どうして生まれてきたのだろう、と考える。
生きるためにしてきた様々な事に、果たして意味はあったのだろうか。
それとも自分が何かを誤ったから、こうしているのだろうか。
――良かった、本当に良かった。この子の名はレイネだ。レイネにしよう。
後で、光り輝くものだという、そんな言葉の意味を知った。
美しく、素晴らしい名前なのだと使用人達は口にする。
望まれ、愛されて、そうしてレイネは生まれてきたのだと。
そうなのか、と考えて、そうなのだろうと信じ込んだ。
望まれて、愛されて、だから自分はここにいるのだ、と。
愛を与えてもらったならば、愛を返すのは自然なこと。
愛とは何だろう、と様々な書物を開いて探して、けれども分からず、少しでも返せるようにと、すぐに死んだ母の分まで、ただただ父の利益になることを。
伝わらなかったのか、それとも愛ではなかったのか。
『本当にすまなかった、レイネ。愛している……本当に、愛している。我が身可愛さにお前を利用してしまった、愚かな父を許してくれ……』
最期に向けられたそれは、愛だったのだろうか。
愛していると囁くと、愛している、と返された。
自分は確かに、父にとってのレイネであったのだと。
繰り返し、死ぬ間際までうわごとのように同じ言葉を繰り返して。
どうだっていいことだった。
もう終わったこと、答えも分からないこと。
これで終わるのだから、どうでもいい。
『――どうせ分からないことであれば、幸せに思える解釈をする方がずっと合理的ではございませんこと?』
全てを疑って、利用することで、ようやく生きることが許された。
けれど、その生に意味はあったのだろうか。
確かに、合理的であるのかも知れない。
幸せがそこにないのなら、苦痛ばかりであるなら、生きることに意味などない。
『そうではありません。決して、愚かでもありません。……姫様が求めていたものは、そのように打算的なものではなく、紛れもない先王陛下からの愛なのですから』
それが欲しくて生きてきたのは、結局の所、事実だろう。
生まれてからそれを得るために、生きてきて、違ったのだと諦めて――その後に、フィーリを拾って、レイネが生まれて。
『……こんな下らない世界だなんて馬鹿にして、他とは違うと意地を張って、あなたはご自分が特別だと信じなければ怖いだけ。疎外感の自己弁護に、特別だなんて言葉を使っているだけですわ。存在意義を求めて子を産んで、やっていることは何一つ、他の人間と変わりませんのに』
顔を思い出すと、今でも憎らしく、腹立たしい。
偉そうに講釈を垂れた本人はすぐに死に、存在意義も失われ。
何一つ願いは叶わない。
――やっぱりここは、下らない世界よフィーリ。
あるいは、それも叶っていたと思い込めなかった、自分が悪いのだろうか。
もっと早くに受け入れていれば、違う未来はあったのだろうか。
あった気がして目を伏せて、赤子のように体を丸める。
「――母上!」
娘のように、レイネは素直に受け入れられなかった。
誰もが、何もかもが信じられず、疑って、怯えて、遠ざけて、利用することでしか、生きる術を知らなかったから。
「何をしている! 医者を呼べ!! 母上、お気を確かに……っ、口を開いて下さい、母上――」
本当は、気付いていたのに、ただ、怖かっただけ。
体を揺する腕を掴んで、動きを止めて。
抱き寄せながら、そのまま静かに目を閉じる。
あの子のようになれていたなら、幸せな今があったのだろうか。
滲む視界を閉ざすように、身を抱くように体を丸める。
――暗く優しい闇の中へと、その身と心を委ねるように。
エルスレンは三大公が支配する。
レイネは儀礼的に議会に顔を出すが、口を開くことも、言葉を発することもない。
時折意見をゴルザリアス達に求められた時だけ、計算をして、紙に記した。
必要とされるのはそうした能力だけであり、何かの意見は求められていなかった。
それでも以前よりは国の財政を教えてもらえる機会はあり、改善するための提案を紙に記してゴルザリアスに手渡す。
半分ほどは無視されて、もう半分は議会にて承認される。
少なくとも、何もしないよりはマシ――それで国民の暮らしが少しでも良いものになるのであればと、提案は続けていた。
全て三大公からの提案として議会に提出され、受理される。
実績のために利用されていることは理解していて、けれどそれさえどうでも良かった。
これも永遠ではなかったし、いつかは彼らも死ぬだろう。
もう十年、二十年、あるいはもう少し我慢をすれば、いずれ、彼らのようではない人達も出てくるかも知れない。
そういう人達と、良い国を築ければ良いと思う。
そのために、国がこれ以上傾かないことだけを考えた。
治安は乱れ、各地で小規模な反乱が起きていた。
一部の教会が焼かれ、孤児院の子供も巻き込まれて殺されたという話も聞く。
大きなものではなく、ちょっとした騒ぎ程度。
アルベランによる工作だと民衆には伝えられているようだが、違うように思える。
母が本気であれば、もっと国が傾くだろう。
ただ、繰り返し聞かされると、そうなのかも知れない、とぼんやり思うこともある。
レイネは母を裏切って、国境付近では小競り合いを繰り返していた。
母はレイネよりずっと賢い。
レイネに分からないようなことを仕掛けられているのかも知れない。
レイネには、何も分からなかった。
国のことも、誰かのことも、よく分からない。
どういう意図で、こんな事を口にするのだろう。
どういう意図で、こんなことをするのだろう。
レイネには何もかもが分からなくなっていた。
言葉はどう受け止められるか不安で、行動はどう受け止められるかが不安。
筆談でさえ、少し怖い。
「エルスレイネ様、できましたっ」
孤児院の子供達を見ると、少しだけ安心出来た。
描いた絵をレイネに見せる少女に微笑んで、頭を撫でる。
何十年も見ていると、よく分からなかった絵も分かるようになる。
描かれているのは孤児院で、孤児達とレイネ。
皆笑顔を浮かべて、楽しそうに並んでいた。
微妙な特徴から、これはあの子でこれはこの子。
そう指で示してみると、そうです、と嬉しそうに少女は笑い、それを見るとレイネも嬉しくなった。
「エルスレイネ様の絵みたいに、描いてみたいなって思って……」
頭を撫でると、えへへ、と笑い、他の子達もその様子を見て絵を見せに来る。
いつ来てもここは変わらなかった。
ここの院長は元々孤児であった少年が引き継ぎ、今では立派に、子供達に様々な事を教えている。
皆良い子達で、喧嘩をすることはあっても、やはり仲が良く、いつ来ても嬉しそうにレイネを迎え入れてくれた。
きっと、いずれは良い国になる。
こういう子達が大きくなって行けば、とそう信じることが出来て、少し落ち込む度に、ここでそういう気持ちを取り戻すことが出来た。
「いつかわたしもエルスレイネ様みたいに――」
「エルスレイネ様」
呼ばれた方を見ると、嬉しそうなフェネラの顔。
首を傾げると、フェネラはお客様です、と笑みを浮かべる。
隣から現れたのは一人の男。
魔力保有者であったフェネラと違い、風貌は随分と老いていたが、まだ少し面影が残っていた。
「っ……」
ニール、と声を掛けようとして、けれど声は出ず、目を泳がせた。
それから笑みを浮かべて、そのまま近づく。
フェネラとは同時期に孤児院にいた少年だった。
「……お久しぶりです、エルスレイネ様」
その言葉に頷き、頭を下げる。
ニールが怪訝な顔をすると、フェネラが告げる。
「その……色々あって、声が出なくなってしまって」
「……声が」
ニールは眉間に皺を寄せ、視線を揺らす。
心配してくれているのだろうか、と首を横に振り、笑顔を浮かべた。
ニールはここを出た後、職人の所へ弟子入りしたのだと聞いている。
しかし体つきは戦う者、と言った雰囲気で、手は剣を持つもの特有の硬さ。
不思議には思ったものの、特には触れず、庭へ出ませんか、と告げる彼に促されるまま外へ。
フェネラと彼の話を聞きながら歩いて行く。
どうしていたのか、と訪ねるフェネラに色々あったのだと告げ、ニールはフェネラの方こそどうしたんだ、とエプロンドレスを身につける彼女にこれまでのことを尋ねる。
庭に行くまで――話はそれほど長くはなく。
「……この辺りでいい」
「この辺り……?」
「ああ。……すまない、フェネラ」
口にしたニールは突如、指笛を。
それから、不思議そうな顔をしたのフェネラの首を抱えると、隠し持っていたナイフをその首へと突きつけた。
「ニール! 何を……っ?」
「エルスレイネ様、そのまま動かないでください」
突然のことに困惑するレイネを見て、ニールは告げる。
響いたのは入り口に止まる馬車の方から、兵士達の悲鳴。
周囲からはそれ以外にも何十人もの男達が現れ、孤児院を囲う塀をよじ登り、兵士達を数の暴力で始末しながら侵入してくる。
「……、大人しく、死んで頂けませんか?」
暴れるフェネラの首を締め、ナイフを更に近づける。
現れた男達は、良くやったニール、と笑みを浮かべていた。
混乱していたレイネにも、流石に状況は理解出来る。
この男達はニールの仲間なのだろう。
「こいつがエルスレイネか。何とまぁ……本当にあんな護衛で、こんな警備が手薄な場所に遊びに来ているとは恐れ入ったぜ。善人ぶりやがって……さぞ楽しいだろうな」
「腐った領主達を野放しにしておきながら、搾り取った金で偽善者ぶりやがって」
男達は血走った目でレイネに罵倒を浴びせた。
少なくとも、やっていることはそのように見えるのだろう。
偽善と言えば、そうなのかも知れない。
レイネは何も出来ていなかった。
ニールを見ると、彼は視線を揺らす。
「あなたが……どのような方かは知っています。事情もあるのでしょう。しかし……この国の現状は、あなたがいつか語ってくれたエルスレンからは遠いものとなってしまった。……あなたの語る理想の場所はもう、訪れることはないのでしょう」
「に、ぃるっ、エルスレイネ、様、わたしに、構わず……っ」
「私が愛した妻は貴族の誘いを拒み、殺されました。その貴族を殺しても、変わらぬ獣が支配するだけ。……この国はもう、あなたの手には委ねられない。あなたには死んで頂くほかないのです」
抵抗しないでください、とニールは告げる。
「あなたが従うなら、フェネラには決して……手出ししません。お覚悟を」
近づく男達から無意識に距離を取る。
切り抜けるのは容易なことであった。
ただ、人質に取られるフェネラを見て、ニールを見た。
『いつか、その……大きくなったら戦場に出て、エルスレイネ様のために戦いたいって思ってて……』
――エルスレイネ様の願う国を作るためのお手伝いがしたいんです。
呆然と、いつか彼が語った言葉を思い出して、目を伏せると膝を突いた。
「コル、彼女を。約束通り、お前達は手出しをするな。……俺がやる」
「おいおい、ふざけるな。殺すだけで許されるはずがないだろう。こいつには生まれてきたことを後悔させてやるくらい、苦しめて殺してやる」
「そうだ。縛ってさっさと連れて行こう。人質に取ればあっちも手が出せない」
「馬鹿なことを言うな! 俺はそんなことのために――、っ!?」
「っ、エルスレイネ様!」
言い争う声がして、名前を呼ぶ声。
ニールの手から抜け出したフェネラが無理矢理レイネの腕を掴んで起こし、
「てめぇ!」
「やめろ!!」
そして突き飛ばした。
声は出ず、笑みを浮かべた彼女に振るわれるのは剣。
赤い鮮血が周囲に飛び散った。
――部屋で一人、レイネは白いカンバスの前に。
忘れることのないはずの、レイネの記憶は斑だった。
数十人を皆殺しに、作業のように斬り殺して、冷たくなったフェネラの前でぼんやりと。
それから兵士達が集まってきて、連れられて、フェネラと共に城に。
葬儀で焼かれるフェネラの姿――それからも記憶が斑。
起きて、寝て、空腹を感じても気にならず、ゴルザリアス達が見舞いに来たことは覚えているが、何を言われたかも覚えていない。
レイネはカンバスの前に座っていた。
まだ何も描かれていないカンバス――何かを描こうとしていたのだろうか。
自分の行動さえも分からず、フェネラの顔を思い浮かべた。
『ふふ、本当素敵な絵。エルスレイネ様の絵……すごく好きです』
そんな言葉を思い出して、色を練る。
「…………」
練りながら、フィーリの顔を思い浮かべた。
大事なのは何を伝えるかなのだと、フィーリはレイネに教えてくれた。
レイネは何を伝えたいのだろう。
何を伝える絵を描こうとしているのだろう。
分からなかった。
何故筆を取っているのかすら分からない。
『フィーリは何の絵かも分かってないまま絵を描いているのですか?』
『そうですわね……ふふ、結構思いついたまま描くことが多いですもの』
『思いついたまま……』
『ええ。適当に線を引いてる内に、ぼんやり浮かんだものを形にして……自分がどういう絵を見たいのか、そんなことを考えながら描いてるのですわ』
何千枚と描いた楽園――それを思い浮かべてカンバスを眺める。
輝くような、小さな楽園。
フィーリの語ったエルスレン。
色んな人がいたエルスレンからはいつの間にか、大人の姿が消えていた。
フィーリが人を描く時には、その人がどんなことを考えているのか思い浮かべながら描くらしい。
レイネもそれに倣って同じように。
この人はパンが欲しくて、隣の人はそんな彼にパンを与え。
この人は紅茶を注がれて、そっちの人にお礼の言葉を述べていて。
そんな風に考えながら描いていて、けれど段々、彼らが何を考えているのかが分からくなってしまい、いつの間にか描かなくなった。
楽園には子供ばかりがいて、けれど――窓からレイネを、怯えるように見ていた子供達の姿を思い出す。
何を考えているのだろう。レイネに怯えていたのだろうか。
『……この国はもう、あなたの手には委ねられない。あなたには死んで頂くほかないのです』
――エルスレイネ様の願う国を作るためのお手伝いがしたいんです。
思えば、彼らが何を考えているのかも、よく分からない。
分かっていたつもりだっただけで、本当は違うのかも知れない。
どちらにせよ、彼らもいつか大人になって、分からなくなるのだ。
何かを描こうとして、頭に浮かぶエルスレンからは人の姿が消えていて、輝ける楽園は寂れたように、暗い何かが落ちていく。
光り輝く世界を、様々な色が混ざり合ったような暗い何かが、ぐるぐると塗りつぶしていくように。
先日まで描いたはずのエルスレンが、見えないくらいに遠くにあった。
ぐるぐる、ぐるぐると、暗い色が楽園を、ずっと遠くへ追いやるように。
ふと、何をしているのだろう、と手を止めて、カンバスを眺めた。
白いカンバスは端から暗く塗りつぶされていて、呆然とそれを眺め、ふと、描きかけの他のカンバスに目を向ける。
輝くような小さな楽園――完成させるとフェネラはいつも、初めて見るように喜んだ。
最近は、それを目的に描いていたようなもので、それを仕上げようと近づき、足を止める。
どのように描き上げれば良いのだろう。
思い浮かべると、それを暗い何かが頭の中から遠ざける。
暗い影が落ちたように、誰もいない楽園を思い浮かべて――腹の奥からせり上がるものを感じて、口を押さえた。
「っ……、ぇ……」
気分の悪さにしばらく嘔吐いて、顔を上げる。
描きかけのカンバスも、全部が同じように見えていた。
暗い影が、端から塗りつぶしていくように――呆然と、それを眺める。
頭がくらくらとして、暗い色の付いた筆を放り投げた。
右を見ても、左を見ても、どの絵を見ても暗い色が塗りつぶしていく。
記憶の中にある絵さえ、どれもが全て、ただただ気分が悪くなる。
「ぃー、り……」
名前を呼んでもここにはいない。
彼女はどこにもいなかった。
もうずっと、彼女はいない。
何十年も前からずっと、彼女はいない。
レイネの描くエルスレンには、もう誰も存在していなかった。
光り輝く景色もなく、暗い色があるばかり。
目の前が滲んで、しゃくり上げるように胸の内側が痙攣する。
多くのことを教わって、けれど、レイネに出来ることは何もなかった。
他の人間の言いなりになり、人々を苦しめただけ。
国は歪んで、絵も歪み、こんな自分をフィーリが見たら何と口にするのだろう。
自分はもう、彼女のようなエルスレンを、思い浮かべることも出来なかった。
――ただ、伝えたかっただけなのだ。
フィーリがいてくれたから、こんな場所が出来たのだと。
ただそれだけで、それ以上の願いはなかった。
もうフィーリに会えないことは知っていた。
だから、せめてそんな彼女に誇れる何かを描きたかっただけ。
フィーリがいたならきっと褒めてくれただろう、と、そんな想像を思い浮かべて、そんな幸せな想像に満たされて、過ごしたかっただけだった。
けれど、こんな自分をフィーリはきっと褒めてはくれない。
そんな想像さえ、思い浮かべることさえ出来なかった。
何十年もの時間を掛けて、何もかもが上手く出来ず、フィーリが褒めてくれた絵さえも描けなくなって、フィーリが笑う姿も浮かばない。
――ある意味、今この場所が、わたくしにとってのエルスレン、ということですわ。
あの頃に帰りたかった。
フィーリがいつも、レイネの側にいた頃に。
どうしてこうなってしまったのだろう。
ぐるぐると、頭の中でそんな言葉が繰り返された。
これなら、フィーリが死んだ日に、自分も死ねば良かったのだと思う。
ふと、視界の端に、果物用のナイフが映る。
半ば無意識に手に取って、鋭い刃をじっと眺めた。
本当にもう会えないのだろうか。
教会で教えられる、よく分からない天の国の話を思い浮かべて、もしそんな場所があるならば、フィーリはそこにいるのだろうか。
でも、そこに招かれるのは良い人間だけ。
そんな場所があったとしても、きっとレイネは行けないのだろう。
「…………」
周囲を眺めて、暗い絵の具の絵画を眺める。
どの絵も輝きを失ったように、暗く淀んで、気持ち悪い。
どちらにせよ、ここにいたってもう会えはしない。
もう思い浮かべることさえ許されないのだと気が付いて、震えて、首に刃を押し当てる。
首が裂けて、倒れ込み、真っ赤な血が広がるのを眺めた。
母のように、もっと賢ければ良かったのだろうか。
フィーリのように、もっと賢ければ良かったのだろうか。
そうであったなら、こんな風にはなっていなかったのだろうか。
ぐるぐると、後悔ばかりを巡らせて、ゆっくりと目を閉じる。
終わりのない思考から、逃げ出すように。
――暗く淀んだ闇の中へと、その身と心を投げ出すように。
――エルスレン神聖帝国初代皇帝、エルスレイネは病に命を落とした。
その数日後、名君であり、暴君であった、アルベランの強き女王、グラバレイネも命を落とした。
王位を継いだ長子、セイルは恐怖の時代の終わりであると臣下に語り、浮き足だった臣下達を纏めると、五年後に王位を甥に譲位。
王ではなく、その相談役として、その後の生涯を費やした。
グラバレイネの死について、セイルは多くを語らず、様々な噂に肯定も否定もしなかった。
彼自身が王位を簒奪したというもの、女王を殺した何者かを庇ったというもの、王国の最高権力者、女王の自害を覆い隠したというもの――様々な噂が人々の間で語られたが、敵の多かった女王、グラバレイネ。
心ある何者かによって誅されたのだと、人々の間では語られた。
グラバレイネの恐怖政治を知る多くのものは、彼女の絶大な功績に対し一定の評価を与えながらも、結果的に乱れ、分裂した王国について、同じ悲劇を繰り返してはならぬと口にする。
王家に古から伝えられる、泣かぬ赤子と呼ばれる存在――今後は彼女たちを忌み子として、その命を奪う取り決めが内々に設けられた。
特に有名なる泣かぬ赤子は、建国王バザリーシェと、女王グラバレイネと王女エルスレイネ。
――そして大陸を統一し、統一歴をこの世に刻んだ偉大なる女王とその姉もまた、そんな泣かぬ赤子の姉妹であったのではないかと語られている。
「……そうか。ということは、しばらく戦にはならなさそうだな」
「皆エルスレイネ様の死にグラバレイネを恐れていたというのに……ルーカザーン大公は一人、落ち着かれておりましたな。こうなることが分かっていたので?」
「いいや、そんな気がしていただけだ。……失せろ」
「っ……は」
部屋から出て行った男に目を向けず、大きなソファに腰掛けたまま、暖炉の上の絵に目をやる。
飾られているのはどれも、彼女が描いた楽園。
笑顔を浮かべる人々の姿が映っている。
その精緻な描き込みや卓越した――いや、常軌を逸した技法。
一つ一つが、この世の終わりまで超えるものなき、究極の芸術であった。
グラスを傾けながら酒精の強い酒を口に含み、味わい。
そうして絵画を眺める男は、それらの表層的な部分にはさしたる興味を覚えない。
どれほど上質であっても、良く出来ている絵の一枚。
彼にとってはその程度でしかなかった。
多くの資産家が大金を払って買い求める究極の美。
そのようなものは彼にとって、どうでも良いもの。
彼はただ、この絵を描いた本人の姿を思い浮かべ、どのような願いを込めてこの絵を描き上げたのか――それだけをただ、味わうように眺めていた。
多くの者が目を眩ませる目映い技法ではなく、その絵が伝えようとしているものを真摯に見つめ、受け止めようとしていた。
彼の視線は端から順に。
最後には暖炉の上、その中央に描かれた一枚をじっと見つめる。
他の絵と比べて、美しい技法の欠片もない、落書きのような絵画。
様々な色が混じる暗い顔料が、端の方から無造作に白いカンバスを埋め尽くす。
彼女が最期に残した絵画。
表向きは、『暗夜の光』と名付けられたらしい。
大人達から子供達、そして最期に到る暗がりの光。
これは生まれ変わりを示すのだと――法王は民衆に高らかに語った。
笑いが出るほど愚かであったが、どうでも良い。
もはやゴルザリアスに、どうでも良いことが大半であった。
この絵画ほどの価値はない。
あれほど華やかな数々の楽園を描いた一人の少女が、追い詰められた末の一作。
技法も何もない、感情がそのまま滲み出たような、そういう一枚。
それを見た時、生まれて初めて心の底から震えが生じた。
壊れているのに、あれほど純粋に人を想えた少女がここに到る過程を思い出して。
こうして見るだけで、これまでの数十年が去来する。
ルーカザーン、と幼げな、信頼に満ちた声を思い出す。
「…………?」
頬を伝うものに気がついて、それを拭い、眺める。
拭った手の甲は濡れていて、ああ、と気付いた。
「……エルスレイネ様」
右の拳を左の胸に――あなたに命を捧げます。
それは、そういう敬礼だった。
得体の知れない感情は、最も馬鹿馬鹿しく、下らない感情であったのかも知れない。
少なくとも、胸を締め付けるような、痛むような何かは、きっとそういうものだろう。
妻もいる。子もいる。
人間らしいことは全てを行なってきて、しかし、人を愛したことはなかった。
自分は壊れた人でなし――金と権力、快楽以外に、楽しむものは何もない。
けれど、今感じるこれがそうなのだ、と彼は不思議と確信出来た。
「……あなたは、私にとってのレイネだったのですね」
数十年の果てに手にしたものは、あまりに切なく、息苦しい。
それがどうしようもないほど、ゴルザリアスに生の実感を与えてくれる。
もはや決して、手の届かない――遠く彼方へ消えゆくレイネ。
『……エルスレン、がいいです』
『エルスレン……』
『さっきの、その……名前』
彼女の優しい、控えめな声が、その情景と共に思い浮かぶ。
穢れなく、この世の誰より美しい、ただ一人。
「……愛しております、エルスレイネ様」
――来世があれば必ずや、エルスレンへと旅立てますよう。
心の底より祈りを込めて、ゴルザリアスは頭を下げた。
泣かぬ赤子、忌み子。
腹から出るとそうした言葉が繰り返された。
単語の意味はわからず、音として受け取っていただけだ。
胸は苦しく、暗い場所から抜け出たばかり。
――ぼんやりとした視界に、世界は目映い。
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