レイネ 十二

晴れやかな午後。

教会の大聖堂に並べられた数々の絵を見て、人々は驚きを浮かべていた。


素人でさえ疑う余地もないほど、真に迫る絵画達。

色の濃淡、細部の描写、光の美しさ。

現実離れした楽園が描かれているにも関わらず、いずれも現実そのものを切り取ったかのように描き抜かれ、その迫力はもはや絵の域を超えている。


人の手で描かれたとは思えぬ絵画達。

天才と呼ばれるものがその生涯を費やしてなお、その内の一枚とて描けるとは思えなかった。

描き手――神聖皇帝エルスレイネが神に等しき存在であると語られても、反論しようと思う者さえ出てこないそれは、まさに神造の絵画であった。


十数枚の『楽園』が並べられ、入場者は寄進を行ないながら列を作り、感嘆の声を上げながらそれらを眺める。

なんと美しい、絵画とは思えない、という言葉が場に響き、楽団の響かせる荘厳な音楽も相まって、感涙する者さえ存在した。


「……エルスレイネ様は天の国からこの世に舞い降りた、我らの導き手。苦しみに満ちたこの地から、我らを救いださんがため、こうして絵画によって我らに進む先を示されておられる。楽園には心清らかなるものでなければ旅立てんもの――」


司祭達は繰り返し、そのような言葉を彼らに聞かせた。


「飾りなく、ささやかな宴を尊ぶ楽園の天使達。その笑顔を見れば分かるだろう。この俗世に満ちた物への執着もなく、薄布を纏い、ただ、隣の者と笑い合う……無欲な赤子の如き純真に満ち、穢れのない姿。エルスレイネ様は言葉ではなく、絵画によってお前達にそれを示されておられる。……楽園の天使として迎えられるための、正しき姿を」


エルスレイネの絵画は大抵、宴を描いた。

草原や森の中、自然に囲まれた場所で、食事や茶を楽しむ姿。

煌びやかな装飾はなく、薄布だけを纏った人々が果実を分け合い笑顔で過ごす。


楽園は食うに困らず、あらゆる物を分かち合う穏やかな天使ばかりが過ごすとされた。

皆が無欲で思いやりに溢れ、争う心を捨てた存在であり、故に世界は穢れなく。

楽園は自分達が想像する以上の美しい世界であると司祭は語る。


言葉だけならば鼻で笑う者も、その絵画の美しさを見れば言葉には出来ない。

本当にそのような場所が存在するのかも知れない。

そう思わせるほどに、『エルスレン』は真に迫る絵画であった。


定期的に複数の絵画が集められて展示される『天使の会』は、非常に多くの人を集め、教えを広める。

貧民に対する教会のパンの施し――そこで司祭達が行なう説法もあり、エルスレンでは貧民を中心に驚くほど『レイネの天国』の信者が増えていた。

今ではパンではなく、その説法を聞くためだけに教会に集う者も現れ、教会の聖堂、その外で司祭の言葉を拝聴しようとする者もいた。


銅貨が中心に捧げられた器に、金貨を放り込む男が現れる。

彼は一通り絵画を眺めた後、そのまま出口ではなく、教会の奥の談話室へと誘われた。

しばらくして現れたのは司祭。

軽く世間話を交わした後、商人から切り出されるのは寄進について。


供の者がずっしりとした箱をテーブルの上に置いて開き、中からは大量の金貨。

大商人は教会への寄進として受け取って頂きたい、と語った後、全く別の話のように、絵画についての話を口にする。


何とも美しい絵画。

あのような絵画を毎日見られれば自分の信仰も深まっていくだろう。

しかし、忙しい身――こうして教会に中々足を運べないのは残念だ。


司祭は笑顔でそれを聞き、あなたの信仰の深さはこれを見れば十分に理解出来ます、と金貨を目にしながら、どの絵が一番気に入られたのかとそれとなく尋ねた。

飾られていた一点を口にすると、あれは中でも美しい、人気の高い絵ですね、と答え――商人はなるほど、と口にする。


それから、忘れていたようだ、と、これもどうか、と更なる金貨を袋で手渡す。

司祭はその重みを確かめ、あなたのようなお方のためならば、エルスレイネ様もお許しでしょう、と頷いた。


――これも信仰です、と笑みを浮かべながら。








描きかけの絵画がいくつも並ぶ、レイネの部屋。


「いつものことながら、素晴らしい絵……民もお喜びなるでしょう」


絵画を手にした法王ナルコー=リベニラスを見送り、目を伏せる。

法王庁は定期的に訪れて、教会に飾りたいと絵画を持って行く。

民衆を導くため、教えを広く伝えるためには多くの絵画が必要なのだと。

人々はこれを見ては喜ぶのだと。


本当にそうなのだろうか、伝わっているのだろうか。

疑う気持ちばかりが近頃は滲んで、けれど縋るように楽園を描いた。

百枚、二百枚。千枚を超えて二千に届く。


次第に議会での発言力を失って、レイネは彼らの言葉に頷くだけ。

間違っていると思っていても口には出せず、ゴルザリアス達を通じて代わりにレイネの意見を述べてもらうだけ。

レイネはここ数年、議会で言葉を口にしていなかった。


国の内情はほとんど分からない。

少なくとも孤児院に向かう道中――このレナリアは豊かに見え、しかしそれ以外の街はどうなのだろうか。

ゴルザリアス達でさえ、レイネに何も教えてくれない。

現状は何も問題ありませんよ、と当たり障りのない言葉を口にするだけ。


それを信じるべきなのだ、と思う気持ちがあって、けれど信じられない、とも思ってしまう。

多くの貴族達はあまり賢くなかったし、理解の出来ない意見も多い。

1と1を足せばどうなるか、という問題に、3や1と答えるような解決を度々口にした。

それで国に問題がないはずもない。


地域によっては貧困の問題もあるだろう。

失職者が増え、治安が乱れているだろう。

容易にそれは想像が出来、けれど、問題はないのだ、と口にされる。


もしかしたらナルコーの言うとおり、民衆は想像よりもずっと穏やかに、平和に助け合って暮らしているのかも知れない。

そうであればこれは正しい形であるのかも、とレイネは思う。

けれど、そうではない可能性の方がずっと高く感じられた。


「……お茶、お代わりはいかがでしょう?」


頷くと、フェネラは笑顔を浮かべて紅茶を注ぐ。

口数がめっきり減ったレイネを気遣うように、フェネラは明るい声で、何かとお喋りだった。

今日は良い天気だということを語るのにさえ小半刻。

些細なことを楽しげに笑って語る。


「……フェネラ、この国は良い国になっているのでしょうか?」

「えと……」

「リベニラスは、本当のことを言ってると思いますか? レイネの気持ちは絵を通して伝わって、それで……良い国になっているのでしょうか? 施策はちぐはぐで、おかしいものばかりなのに」


注がれた紅茶を眺めながら告げると、フェネラはしばらく黙り込む。


「皆、問題があるはずなのに、問題がない、と口にします。その言葉を疑うレイネがおかしくなっているのでしょうか? レイネは――」


そしてフェネラは膝を突き、レイネをそっと抱く。


「……、フェネラも少し、おかしいとは思っています。正直……法王様もあまり、信用出来る方ではない気がしますし……」


少し扉を気にしながら、小声で囁くように。


「どうにも、エルスレイネ様が自由に動けないようにされているのではないかと、少し。そうなると、ルーカザーン様もということですし……フェネラもあまり想像したくはないですが」

「ルーカザーン……も?」

「フェネラは……ルーカザーン様からエルスレイネ様の様子に変わりがあれば伝えるようにと、いつも。はじめは……エルスレイネ様を気遣われているのかと思っていたのですが、現状を見ると、そうではないような気がして」


レイネは紅茶を眺めたまま、目を伏せる。


「エルスレイネ様が何かを口にする度、貴族の皆様は声を荒げ、度々それをルーカザーン様達がお諫めになり、乱れた場を落ち着かせると仰ってましたが……エルスレイネ様が知らない所で、そういう話になっていたのではないでしょうか?」

「そういう話……」

「エルスレイネ様の提案に対してはどんなものでも反発するように、という取り決めです。そういうことが繰り返されればエルスレイネ様も発言が難しくなるでしょうし……それが目的、ということも考えられるのではないかと」


フェネラの言葉は、なるべく考えないようにしていた内容と一致していた。

もしかしたら――そんなはずはない、と何度も繰り返した内容。

もしゴルザリアスがレイネを騙しているのなら、全てがすんなりと噛み合うように思えた。


ゴルザリアスを筆頭に、三大公。

ナルコーもまた彼らが選んだもので、繋がりも深い。

西部の支配権もゴルザリアスが持ち、三大公が協力するのならばこの国に刃向かえるものはなく、この国の実質的な支配者はレイネではなく三大公と言えた。


それが目的なのだと考えれば、現状はしっくり来る。


『――私にはこの戦で死んでいった者達への責任があります。彼らの死を悲しむ者達には、その憎悪を向ける相手が必要なのです』


ただ、いつからなのだろう、と考えた。

ゴルザリアスを疑いたくはなかったし、良くしてくれたゴルザリアスを信じたかった。

もしかしたら途中から、そういう心を忘れてしまっただけのかも知れない。

そうであれば、レイネが叱れば、もう一度彼も心を入れ替えて、やり直せるのかも知れない。


それ以前に、レイネが分かっていないだけ。

もしかしたら本当に、この形でこの国は良い国に向かっているのかも知れない。

レイネは今、何も知らない状況だった。


「……、ちょっと調べてみようと思います」

「調べる……?」

「はい。……調べてからでないと何も言えませんし……やっぱり、疑うようで、あまり気が進みませんが……でも、はっきりすれば、レイネの考えすぎだって分かれば、レイネもそれで安心出来ますから」


――そう決めてから、レイネは夜毎に部屋を抜け出した。


まずはレナリアに集まる情報から精査していく。

窓から部屋を抜け出し、窓から窓へ。

あちこちの部署の書類を自らの目で確かめ、記憶し、情報を集め、孤児院に向かう頻度を増やすと、日が落ちた後に抜け出し、街中を見て回る。


表向きは活気あるレナリアにさえいくつか貧民街が存在しており、家もない子供達が集まり過ごす様子はいくらでも確認が出来た。

問題は至る所に存在していて、どれもレイネは耳にしていない。

家のない子供が盗みを働き、街角には痩せた少女が立ち、職務中――見回りのはずの兵士に買われ、路地で交わる。

対価を求めて殴られ、少女は泣きながら許しを乞うて、兵士は唾を吐き捨て立ち去る。

そしてしばらくすると、少女は再び街角に。


エルスレンが建国されて、二十年が経つ。

けれどレナリアにさえ無法地帯が存在し、警邏さえ規律を守っていない。

歓楽街として決められた場所以外でもそうした光景は広がっていた。

二十年前に想像した二十年後の国からは、遠い景色。


少なくとも、ここは『エルスレン』ではなかった。


気持ちの悪いものが、胸の内に渦巻いた。

自分は騙されて、利用されているのではないか、という不安は、徐々に真実味を帯びていく。

そんな混沌とは対照的に、教会は美しい。

治安の良い――土地代が安くもない場所に大きな教会が存在している。


貴族や商人の邸宅でもないにも関わらず、何を守っているのか。

教会は夜にも歩哨が立っていた。

忍び込むにも手間はあったし、帳簿の類は簡単に見つけられるものではない。

それでも教会をいくつか回ると、表向きの帳簿と別に、裏の帳簿が二つは目に出来た。


寄付、というには莫大な金銭収入。

大抵はレイネの絵を貸与する、という名目であったが、内の一つには孤児院の記録と奇妙な一致――孤児の少女の巣立ちと合わせ、美品一点。

商人との取引が行なわれていた。

額は丁度、非合法な奴隷一人と似た金額。

それ一点では疑惑に留まったが、数件同様の記述を目にすると確信に。

孤児を売っているのは確かだろう。


孤児院の子供達の笑顔を思い出して、胸の内で更に不快感が強まった。


証拠として手に取ると、翌日、孤児院からの帰りにそのまま法王庁へ。

その敷地の中にあるナルコーの私邸に踏み入り、もはや隠す事なく帳簿を探る。


レイネの絵が飾られた法王の書斎では、中身を放り出され、空になった本棚がいくつも並んでいた

転がる本と同様。

雑に端に寄せられた机の上には見つかった帳簿がいくつも広げられ、中央の椅子に縛り付けられるのは法王、ナルコー=リベニラス。

レイネが無断で私邸に入ったことで、ナルコーが慌てて駆けつけた時には既に裏帳簿を見つけ出していた。


母やレイネのように記憶で全てを処理出来るならばともかく、多くの者は帳簿で金の出入れを管理する。

不審な点がないように帳尻を合わせられた表向きの帳簿と異なり、裏帳簿はその実態。

法に触れる取引など、後ろ暗い金の出し入れがそこには記されており、実際的な計算に使われるのはこの帳簿。


ただ、他人に見られては困るもの。

書き手にしか分からないように簡単な符丁が使われており、これも例外ではなく。

それを聞き出すため、既にナルコーの左手の指は全て折られていた。

最初は何かの間違いだと語ったナルコーではあったが、左の指を次々に折られ、左腕を切り落とすために腕を縛り付けた段階でレイネが躊躇しないことに気付いたのだろう。

符丁についてを正直に口にした。


そこで訪れたのは、


「……ルーカザーン、どういうことです」

「少し落ち着いて下さい、エルスレイネ様」


ゴルザリアス=ルーカザーンであった。

先ほど兵士から奪った剣をすぐさまその首に突きつけるが、ゴルザリアスは両手を挙げながらも落ち着き払った様子。

視線は端の机の上に広げられた帳簿をちらりと認める。

レイネは眉を顰めた。


「レイネは落ち着いています。ただ、あなたは他の二人、そしてここに記された貴族達と同様、汚職に関わり罪を犯しています。……ナルコーから献金を受け取り何かしらの便宜を図っていたのは事実ですか?」

「ええ、認めましょう。……とはいえ、扉を開いたままこのような話もどうかと思います。ひとまず部屋に入ってもよろしいでしょうか? 逃げも隠れもしません」


レイネは警戒しながら距離を開き、ゴルザリアスは剣帯を外すと入り口横の棚に置いて、ナイフも同様に。

そして両手を挙げたまま奥に進んで、机と同様、雑に端へ寄せられたソファを動かし、そこへ腰を下ろした。

それからナルコーを見て苦笑する。


「……何がおかしいのですか?」

「いえ、実に遠慮がないと」

「場合によると、レイネはあなたにもそうせざるを得ません」

「そうはなりたくはないものです。しかし……剣を下ろされてはいかがでしょう? 無手――しかも老いた私にエルスレイネ様が不覚を取ることはない」


黒い髪は今や色素が抜けてグレーに。

大柄な体からは二十年前に比べて筋肉が少し落ちていた。

変わらないのは、こちらを堂々と見つめる、その隻眼。


「あなたはお変わりなく、美しいまま。女王陛下は今もそうであると聞きますが、神の子は老いるということを知らないのかも知れませんな。心も体も美しいまま、純粋だ。こうして私の話を聞こうとして下さることを含めて」

「……、レイネは、以前あなたが言ってくれた言葉を覚えています。あなたは……忘れてしまったのではないですか?」

「まさか。覚えておりますとも」

「……では何故、このようなことを?」


ゴルザリアスは顎に手を当て、少し考え込む。

困りましたな、と苦笑し、それから飾られたレイネの絵画に目を向けた。


「どう口にしても……どれも正しく、しかしどれか一つでは間違いとも言える。エルスレイネ様の絵画に、心から惹かれたから、というのも一つの理由でしょう」

「……絵画?」

「ええ、実に美しい絵です。絵画、芸術というものに魅力を感じたことはありませんでしたが……エルスレイネ様の絵を見てからはその魅力が分かる気がします」


それから、と続ける。


「エルスレイネ様を今も変わらず敬愛していることも、理由の一つでしょうし……賭け事が好きというのも理由でしょうか。今の状況も私にとっての負けの目ではない」

「……?」

「冷静にお考えになると良いでしょう。仮にどのような真実があったとして、エルスレイネ様にどのような正当性があったとしても、法によって私を裁くと言うことは難しい。あなたが狂を発したと思われるだけですし、議会においてはそのように扱われる」


剣を握りしめると、レイネは尋ねた。


「……議会のことも、あなたが仕組んだのですか?」

「エルスレイネ様の理想を叶えただけです」

「レイネの、理想……?」

「ええ、皆の意見を聞いた結果、こうなることが必然だった、ということですな。肥え太りたい貴族達にとっては、エルスレイネ様の願う、争いのない美しい楽園は邪魔であった。……そういう簡単な多数決を纏め上げただけのことです」


意味が理解出来ず、レイネは眉間に皺を寄せて、困惑する。


「皆と共に良い国を築きたい――そう仰ったように、この国は『皆』にとって良い国です。誰もが己のために欲望を満たして、裁かれることはなく……エルスレイネ様の夢見るエルスレンとは異なる形のエルスレン。彼らにとっての楽園です」

「……何を、言ってるんですか? こんなものは――」

「そうした帳簿を眺め、現実を見ればお分かりの通り……少なくともこの国ではそれが望まれていたということです。絶対的なアルベラン、神の子たる女王陛下への盾として、もう一人の神の子を象徴に、その甘い汁を啜る楽園……」


そうですな、とゴルザリアスは笑う。


「純粋なエルスレイネ様には難しいでしょう。しかし……これが人間というものです。他人を利用し、誰もが己の欲望を第一にと望み、そうした思惑が重なって生まれるものが国という集合体。……そして、これが皆で作ったエルスレン」

「これが……エルスレン?」

「ええ、私はエルスレイネ様の願いのまま、彼らの意見を聞いたまで。彼らとエルスレイネ様の、想像の楽園が異なったということでしょう。事実、民衆もエルスレイネ様のエルスレンは、この世ではなく天上、死後に招かれるどこかであると信じているのだとか……苦しみしかないこの現実の日々に耐えれば報われる、と」


残念なことです、と隣で怯えたように黙り込む、ナルコーを見て笑う。

堂々と、まるで自分は正しいことをしていると言わんばかりに。


「……ここは、ルーカザーンにとっても、エルスレン、なのですか?」

「難しいですな。不自由も不満も特にありませんが……」

「ルーカザーンは、レイネが願うような、誰もが幸せに、平和に暮らせる場所が見せることが出来れば、かあさまにも伝わるって……そのために、協力するって、言いました。……あれは、嘘だったのですか?」

「申し上げたとおり、ここはエルスレイネ様の伝えようとしたエルスレンを、各々が受け止めて作られた国……私は第一の臣下として、エルスレイネ様に今もお仕えし、より良いエルスレンを築こうとしているだけです」


気分が悪くて、頭が痛かった。

言葉がまるで通じないように思えて、額を押さえて、目を泳がせる。


『全ては誤解が招いたこと……フィーリを殺したのは母上ではない。そこにいるルーカザーンだ』


それから、そんな言葉を思い出した。


「……ルーカザーンが、フィーリを殺したのですか? 最初から、レイネを騙していたのですか?」


ゴルザリアスは呆れたように告げる。


「それも以前申し上げたと思いますが。……何とでも言い繕うことが出来、弁解は容易いもの。言葉というものは無意味なものです。そうだと答えれば今ここで、エルスレイネ様は私を刺し殺すのでしょうか? それは女王陛下の仕業であると、そう答えれば信じて下さるのでしょうか?」

「それ、は……」

「どちらにせよ、過ぎたこと。エルスレイネ様は女王陛下を疑い、そしてあの手紙を読むことなく……エルスレイネ様がそう選ばれて、最終的にご自分の意思で選んできた」


その隻眼で、真っ直ぐと、恥じることなく。

ゴルザリアスは常に、堂々とした態度でレイネの前にあった。


「常に私はあなたに選択を委ねてきたはずです、エルスレイネ様。議会が掌握されていたなら、あなたには力業で従わせる道もあったでしょう。我々の言葉に耳を貸さず、権力を手放すことなく、あくまであなたのやりたいようにすれば良かったのではありませんか? 女王陛下のような国を作ることは、あなたにとって容易かったはずだ」

「っ……」

「しかしあなたは貴族達の批判を恐れ、口を閉ざし、自分で何かを決めることをやめ、我々に選択を委ねた。そうして出来上がった以上……ここは紛れもなく、あなたの選択によって生まれた国ですよ、エルスレイネ様」


その上であなたがこれからやれることは三つでしょう、と口にする。


「あなたには時間がある。それでもいつか理解してもらえることを願い、これまでと同様に日々を過ごすか。もしくは腐敗した貴族達を力でねじ伏せ皆殺しに、内戦によって改めて、己の国を築き上げるか。あるいは、疑っていた女王陛下を信じてアルベランへ帰り、これまでのことを謝罪するか」


立てた三本を指折りに、ゴルザリアスは笑う。

どうして笑っているのか、レイネには分からない。

理解出来なかった。


「一つ目以降は多くの者に取って不幸ですな。多くの者が死ぬことになるでしょう。無論、孤児院でようやく、幸せを掴めた子供達も含めて……アルベランへと逃げ出せば、彼らはあなたを恨むでしょう。彼らを捨てて裏切ったのだと」


びく、と肩が跳ねて、目を伏せる。

ゴルザリアスの顔が見られなかった。


「多くの民衆もそう思う。異なるものであったとしても、あなたの描いたエルスレンに希望を託していた者は皆そうでしょう。その上で、ご決断されると良い。少なくともどの選択も、あなたにとっては簡単なもの……いつかのようですな」


ゴルザリアスが立ち上がるのを感じて、レイネは身を退き、そして背中がドアに当たる。

そのままゴルザリアスはレイネの前に。

跪き、レイネの剣――その切っ先を掴むと、自らの首へと押し当てる。


剣を掴むレイネの手は、震えていた。


「少し力を込めるだけです、エルスレイネ様。抵抗もしません。自ら死ねと仰るなら、この切っ先に自らこの首を押しつけましょう。……私は今でもあなたの臣下、あなたが必要とする限り、と名に誓ったとおりです」

「っ……」

「何を迷われているのです? ……私に騙されたと思っているのであれば、やることは一つでしょう? 怒りがあるならそのまま突き出せばいい。気が引けるならばご命令を……私はあなたに従いましょう」


どうしてこんなことが出来るのか、レイネには分からない。

理解出来なかった。

言葉通り、少し力を込めれば死ぬ状況にも関わらず、恐れた様子は欠片もない。

まるで、自分が殺されない。

自分が正しいと思っているかのように。


剣を引くことも、押し込むことも、言葉を発することも出来なかった。

ただ、剣から力を抜き、それを手放す。


「……本当に呆れるほどお優しい方だ」


剣を手にすると、そのまま棚の上に。

そしてゴルザリアスは少し離れ、レイネの絵画に目を向ける。


「心から、美しい絵ですな。穢れもなく、純真で……歳を取るほどにそう思う。あなたに様々なことを教え、こんな絵を描かせたフィーリには本当、感謝しています。……博打程度の楽しみしかないこの世の中に、これほど見事なものがあるとは思っておりませんでしたから」


その額縁を手に取り、幸せそうに笑う人々の姿を眺めた。


「絵を通して伝わる内面……この絵はまさにエルスレイネ様。立身出世という博打に勝ってからというもの、思い浮かぶのはいつもこの絵のことだ。あなたの絵はほとんど目にしてきたものですが……いつも、どのようなものを私に見せてくれるのかと期待を抱かせてくれる」


きっと、壊れ方が近しいのでしょうな、と苦笑する。


「人も物も区別なく、全てが道具か何かのように感じていた。使い方を深く学び、利用するべく利用して、そこに何ら躊躇も抱かない。無論、あなたや女王陛下のような頭脳こそ持ち合わせておりませんが……生まれた時から私も壊れているのです」


その笑みには、邪気というものがなかった。

罪悪感もなく、ただ笑みを浮かべている


「……ある種の親近感や、憧れのようなものさえ感じていると言っても良いでしょう。戦場であれだけ無感動に人を殺せるあなたは、本来私よりもずっと壊れているはずなのに、このような楽園を描けるのが不思議で、これほどにお優しいのが不思議で、だから知りたいと思うのでしょうか」


あなたは実に愚かです、と責める調子もなく告げた。

変わらぬ笑みを浮かべながら。


「しかし、その愚かさが美しいと感じるのでしょうな。私が見てきた誰よりも、あなたは美しい。私が出会う前の女王陛下も、きっとそのような方だったのでしょう。あの方が絵を描かれるなら、どのようなものだったのか……まぁ、それはいい」


そう続けると、再び絵を壁に掛け、


「どうあれこれも、あなたの選択。あなたの答え。……続きを楽しみにしています、エルスレイネ様。私の今の生き甲斐はあなたの描く、この絵画ですから」


――この先も是非、筆を止めずに。

ゴルザリアスはそう続けた。








エルスレン神聖帝国、初代皇帝エルスレイネは美しき名君。

その神懸かり的な手腕によってエルスレンを築き上げた彼女はしかし、滅多に人前に姿を現さず、演説の類も行なわなかった。

代わりに彼女が示したのは、楽園の描かれた絵画。

老若男女が果実を分け合い笑い合う、そのような幻想的な楽園によって、人々を導いたとされる。


過去未来敵う者なき精緻な技法。

病的な描き込みと幾重にも塗り重ねられた絵の具が織りなす天上の楽園。

そんなエルスレイネの絵画から、大人の姿が失われ、そこには次第に、幼きものばかりが描かれるようになる。


その彼女が最期に描いた一作を除いて。


「エルスレイネ様……」


馬車の前で待っていたフェネラは、レイネを認めて駆け寄る。

レイネを案ずるように、大丈夫ですか、と尋ね、レイネは静かに頷いた。


事情は伝えてある。

けれど、この結果をなんて伝えれば良いのだろう。

どう言えば良いのだろう。理解してもらえるのだろうか。

そんなことを考えて、ひとまず安心させるためにと、大丈夫、と答えようとして、


「……?」


言葉が出ずに固まった。

目を泳がせて、困惑し、声を出そうと唇を開いては閉じ、喉を押さえる。


「……っ、エルスレイネ様、何かされたのですか?」


首を振って答えようとしても、声が出ず。

何とか答えようと口を開くも、空気を吐き出すだけ。

混乱して何度も繰り返し、不安に震え、それを見たフェネラが尋ねた。


「もしかして、声……が、出ないのですか?」


その言葉に頷きながら、動揺のまま視線を揺らす。

呆然とフェネラはそんなレイネを見つめ、顔を歪めて首を振る。

それから、レイネの体を抱き寄せて、


「っ……、大丈夫ですから……」


震える声で、無理はなさらないで下さい、と口にした。

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