レイネ 十一

エルスレン共和国がエルスレン神聖帝国と名を改めたのは、それから二年後のこと。

アルベラン大攻勢に対し、自ら精鋭を率いて打破。

そして南方で度々暴れ回っていた遊牧民族を臣従させたことで、民衆からエルスレイネの名声は高まり続けた。


アルベランの侵略であれほどの被害を出したのは功を焦った貴族達によるもの。

最初からエルスレイネの出陣が認められていればあのような被害は生まれていない。

そういう意見は民衆の中に多くあり、エルスレイネは議長ではなく、王としてこの国を導くべきなのではないかと語られていた。

議会においても同様――それまであまり発言の多くなかったゴルザリアスが主導となり、今回の反省を活かしてエルスレイネにより多くの権利を持たせるべきである、と意見を口にし、これに真っ向から反論出来る者はいない。


貴族と民衆というものは難しい関係であった。

貴族は彼らを支配し上に立ち、大きな権力を持つものの、その権力の土台となるのはあくまで民衆の支持である。

民衆からの支持が失われれば優秀な人材は他の貴族のところへ流れていくし、最悪の結果に到れば蜂起、暴力によって貴族という権力者を追い出しに掛かる。

民草の一人は貴族に対し何の力も持たない存在であるが、ひとたび集団として結束した民衆は、貴族の首など簡単に切り落としてしまう恐ろしい存在に変わるのだ。


そして現在のエルスレンにおいて、民衆は異様なほどに事情通である。

議会ではこのような話があった、あの貴族はエルスレイネの出陣に反対していたらしい、などという、本来外には流れないはずの内容を多く知っていた。

絶大な武勲を挙げたエルスレイネに権力を与える――それに対し真っ向から否定意見を述べれば、恐らく翌日にはその貴族の名が民衆の耳に伝わることはもはや、暗黙の了解として理解され始めており、不満がある貴族であっても消極的な否定に留まるしかない。


これに対して懸念を口にしたのはキリアス=リーバスレーベ。

エルスレイネ個人ではなく、その腹心であるゴルザリアスの権力が強くなりすぎることの問題を提起した。

そこで少し揉めたものの、オルロス=ナートリアスもまた、これまでのエルスレイネを見る限り指導者としてはまだ精神的に未熟。グラバレイネのような独裁を可能とする権力をまだ与えるべきではなく、同時にそれを補佐、監督する人間が必要であると口にした。


文武両道に長ける腹心、ゴルザリアス=ルーカザーン。

エルスレン軍の中核、オルロス=ナートリアス。

知恵のある切れ者で議会のまとめ役、キリアス=リーバスレーベ。

しばらくの話し合いの結果、彼ら三人が三大公としてエルスレイネに次ぐ権力者として立つことに決定する。


そして皇帝さえを縛る法の管理者、中立な存在としてエルスレンにおける公共福祉を任されていたナルコー=リベニラスが選ばれた。

俗世を捨て、エルスレイネの願う善意の象徴――その孤児院を任される彼の存在は権力とは遠く無縁で、法の管理者として相応しい。

そのような理由で彼は、新たに立ち上げられた法王庁の長、法王として就任することになる。


故に神聖帝国。

王が絶対的な権力を有し、その権力を望むままに操れる王国ではない。

神聖なる正しき法に縛られた皇帝が、それに則った統治を行ない、優れた臣下達と協調しながら運営していく国としての名が新たに付けられた。

民衆はこれを喜んで受け入れ、新たなエルスレンの出発を祝福し――しかし一説には、実際は傀儡の皇帝を掲げた三大公の国であったのではないか、と語られる。








――城に作られたレイネのアトリエ。

描き終わった絵を眺め、息を吐く。

いつものように、レイネが描く楽園では、皆が笑顔を浮かべている。

一筆一筆に願いを込めて、その変わらぬ光景が無地の白布に浮かび上がる度に安堵した。


「本当、いつ見ても惚れ惚れする絵ですね。素敵です……」

「……えへへ」


隣でじっとその絵を眺めるのは、一人の女。

栗毛の髪を肩まで伸ばし、顔はその性格が表れるようにいつも笑顔が浮かぶ。

元は孤児院にいた子供で、名はフェネラ。

レイネの側付きであった。


アルベランを出てから、レイネは側付きを置かなかった。

自分で茶を淹れることを面倒に感じたことはなかったし、特に必要性も感じない。

全てを自分でしなければ不安という訳ではなかったが、側付きのない生活に慣れていたこともあるだろう。


ただ周囲からするとレイネが側付きを置かないことは不自然に見えたようで、皇帝となってからは尚更、形式の上でも側付きを置くべきだ、と何度か言われていた。

しかし、側付きは特別な立場。

側付き自体は政治的な権力を持たないが、直接レイネに口利きが出来る存在であり、誰を側付きにするか、という選択にはそれなりに面倒が多い。

側付きも貴族であれば必ず主家が存在したし、何かを選ぶということは何かを選ばないと言うこと。

自分の血筋から側付きが選ばれた貴族はそれをレイネからの信頼として喜ぶが、選ばれなかった貴族達には不満が生じる。


レイネは正直、彼らのそうした関係性には疲れていた。

そんな折り、ゴルザリアスに孤児から側付きを取ってみてはどうか、と提案され――フェネラがレイネの側付きとなったのはそういう理由。

子供の頃から知っている良い子であった。

少しばかりお馬鹿で何かとドジが多い娘ではあるが、いつも楽しそうに働く彼女と過ごす時間は気に入っている。


「……エルスレイネ様は本当に絵がお好きなんですね」

「……?」

「ふふ、こうして絵を描いておられる時はいつも楽しそうですから」


少しの間を空けて、レイネは答える。


「そうですね。でも……最近は、描く前……ほんの少し、怖いのです」

「怖い……?」

「ちゃんと、自分が描けるのか、って……ちゃんと、自分が伝えたいものが伝わるのだろうかって」


近頃はそうだった。

何もかもが裏目に出るような、そんな気分。


「良い国にしたい、と思って、努力してるつもりです。でも、何を言っても問題ばかりで、この前も貴族達を怒らせてしまって、上手く行かなくて……レイネの絵も、そんな風になってしまうんじゃないかって、思ってしまって……」


この国が共和国から帝国となって五年。

国としては安定し始め、多くの内政問題を解決することが現状、議会の主題。

レイネは国内全ての経済状況を把握出来る訳ではないが、それでも手にする情報から、いくつも仮説、推論を立て、解決するための提案をする。


決定的ではないものの、各地で汚職が蔓延っている、ということは現状間違いなく、金銭の流れが不自然に見える場所が散見されており、国として各地でそうした公正な調査を行なうべきだとレイネは考えたが、貴族達は反発。

彼らに与えられた領地の問題は彼ら自身が解決処理する問題であり、国に税が納められている以上、国がそこに干渉することは越権甚だしい行為であると怒りを示した。

そして、そうした言葉が出てくること自体、彼らに対するレイネの不信と同義であると口にする。


この国は帝国。

領地を有する複数の領主、小国の王と言える存在が集まり、形成される国。

その頂点としてレイネという皇帝が座るが、あくまでレイネは彼らを束ねているだけに過ぎず、彼らの領地のことに直接口出しする権利は持たなかった。

彼らから帝国に対し一定額の納税が行なわれる限り、彼らがそこでどのような統治を行なっていてもレイネの側からは口出しすることは出来ないし、領地を取り上げることも出来ない。


彼らの言い分はある意味正しいこと。

しかしそれを踏まえた上で、レイネは善意のつもりであった。

現状戦後の混乱もあって帝国への税は軽いものとしていたが、本来納めさせるべき税へと引き上げるための話し合いにおいて、彼らは『未だ先の戦の影響が強く、領内が乱れているため難しい』と口にしている。

その原因が汚職であれば、少し領地の財政に目を通すだけでレイネは誰がどのように私腹を肥やしているかを見つけることが出来るし、解決も出来た。


彼らに能力が足りないなら、それをレイネが補えば良い。

レイネの考えはそういうもので、特に彼らを処罰した訳でも疑いたい訳でもなかったのだが、レイネの気持ちは上手く伝わらなかった。

そうやって皇帝としての権力を強め、母のような独裁を強いるつもりなのではないか――そう問われれば、否定する言葉も出てこない。


ゴルザリアス達もレイネは性急に過ぎると語り、そして社会は合理的なものだけでは成り立たないもの、乱れた国においては必要な悪も存在するのだと語った。

10の悪事を行なう人間を処罰し、12の悪事を行なう人間が出てきては無意味で、そうならないためにも慎重に事を運ぶべきで、その点レイネは軽率であったのだと。


ここしばらく、レイネが議会で何かを口にする度、場が荒れた。

そしてその問題についての議論で必要な決議が遅れ、問題は悪い方へと転がっていく。

それに気付いたレイネが口を閉ざすと、ゴルザリアス達が代わってレイネの考えを幾分譲歩した形で提案し、そうすることで場は淀みなく。

レイネが何かを指摘しようとすると、ゴルザリアス達はやんわりと押しとどめ、困ったような視線が向けられた。


皇帝であるレイネの言葉は重く、そしてそれが反感を買えば国が割れる。

そうならないためにも発言は慎重にするべきだと繰り返し注意され、そして事実、レイネが口にする言葉はいつも貴族達を怒らせていた。

繰り返される内に言葉を紡ぐのが怖くなり、ゴルザリアス達に任せるばかりで、居心地の悪さを感じながら黙り込むのが常。

このところは椅子に座り、彼らの話し合いを眺めるだけであった。


フェネラはそう告げるレイネを眺め、考え込み。


「なるほど……近頃浮かない顔をされておられたのはそういうことだったのですね」

「……そうかも知れません」


答えると、フェネラは腕を組んで、うーんと唸り、眉間に皺を寄せる。

謎の険しい百面相――眺めているとうーんうーんと苦しげにフェネラは唸り続け、レイネは小さく笑みを零した。


「すみません。愚痴なんて良くないですね。気にしないで忘れてください」

「いえ……側付きとしてはこう、何かお慰めする良い言葉を掛けるべきなのですが……軽々しく何かも言えず、何というか……」


申し訳ありません、とフェネラは肩を落とす。


「ルーカザーン様にはエルスレイネ様がお一人で何かを抱え込まぬよう、お世話を焼くのがフェネラの仕事なのだとお教え頂いたのですが……」

「ルーカザーン……?」

「はい。フェネラを側付きにと、エルスレイネ様がお選びになった時に……エルスレイネ様が真面目に過ぎるお方だから、お一人で思い詰めることのないようにと」


フェネラは思い出すように答える。


「フェネラは学もありませんし、頭もその……悪いので、まつりごとのお悩みに気の利いた言葉を口にする事も出来ませんが……ですが、エルスレイネ様のお気持ちはちゃんと、伝わる方には伝わっているのではないかと思います」


それから、レイネの描き上げた楽園を見て目を細める。


「僭越ながら……フェネラもエルスレイネ様のお気持ちの一欠片くらいは理解しているつもりです。この国がいつか、エルスレイネ様の願うような場所になればと心から願っておりますし……そのための、ほんの小さな力になれればと思っております。ですから愚痴の一つや二つ……いえ、百や千でも仰ってください。それで少しでもエルスレイネ様のお心が軽くなるのなら、フェネラも本望ですから」


フェネラはレイネに向き直ると、自分の胸を力強く叩く。

レイネはそんな彼女をしばらく眺め、黙り込み――そうしているとフェネラは不安げに眉尻を下げ、視線を泳がせた。


「ぁ、あの……いえ、フェネラでは愚痴の相手としても不足していることは重々承知しているつもりではあるのですが……」

「……そんなことはありませんよ。ふふ、そんなこと言ってくれるの、ちょっと嬉しかったですから……頑張らないとって改めて思って」


ほっとした顔のフェネラを眺めて微笑み、自分の頬を軽く叩く。

きょとんとした顔でフェネラはこちらを見ていた。


「争いもなくて、誰もが笑顔で幸せに暮らせる場所……フィーリはとっても賢かったのに、そんなお馬鹿なことを夢見ていたのが不思議だったのです。でも、ちゃんとフィーリもそんなことは分かっていて……」


孤児院の子供達の笑顔を見るとそう思う。

ちょっとした喧嘩はしてもすぐに仲直りして、次に来た時には仲良く遊んでいて、何もかもが単純だった。

もしかしたら本来、そういうものなのかも知れない。

大人になるほど色んなものが複雑になって絡み合い、何かがおかしくなってしまうだけで。


「孤児院の子達が良い子のまま大きくなって……争う必要がないくらい、そこにみんなが幸せに過ごせるような社会が作れたら、いつかはそういう世界に近づけるんじゃないかって思います。もちろん、夢のままのエルスレンを作ることは、とっても難しいと思うのですが……でも、ちゃんとそんな場所は存在するんだって」


フィーリの描いたエルスレン。

夢のような楽園の幸福。

あの絵は今も、頭から離れなかった。


「……フィーリはもういませんけれど、でも、フィーリが生きてたら喜んでくれた場所を作ってみたくて、ただ……それだけで。フィーリが教えてくれた色んなものにちゃんと、意味があったって……レイネは証明したいんです。……フィーリがいたから、こんな幸せな場所があるんだって」


フェネラはそんな言葉を聞いて微笑んだ。


「……はい。フェネラには応援しか出来ませんが……ですが、エルスレイネ様ならいつかきっと出来ると思います。いえ……出来るというか、エルスレイネ様はもう、作っておられますし」

「作ってる?」


フェネラはええ、と答えた。


「少なくともフェネラは既に、エルスレイネ様の仰るエルスレンの住人と言いますか……今この場所が既に、フェネラにとってのエルスレンのようなものですから」


いつか聞いた言葉。

レイネは静かに目を見開いて、それを見たフェネラは恥じらうように頬を染めた。


「ああ、いえ、変な意味はなくてですね……ただ、こうしてエルスレイネ様のお側で過ごせる日々が本当に、幸せだと……その……」

「……いえ。フィーリも、昔、そんなことを言ってましたから、少しびっくりして」


――ある意味、今この場所が、わたくしにとってのエルスレン、ということですわ。

よく分かっていないレイネに、楽しそうなフィーリの笑顔。

部屋に響いていた、幸せそうな笑い声。


「エルスレイネ様……?」

「え……?」


慌てたようにフェネラはハンカチを取り出して、レイネの頬と目元に当てる。

そこが濡れていることに気付いて、戸惑い、首を傾げる。


「ぁ、あの……」

「だ、大丈夫です、お気になさらず……」


言いながらフェネラはレイネを抱いて、胸に押しつけ。

困惑したままレイネは頷き、彼女に抱きつく。

じわじわと、エプロンドレスの胸元が涙で滲むのが分かり、どうして泣いているのかと困惑しながら、身を任せる。

少なくともそうすることで、波立つような心の中が落ち着いていく。


「ご安心ください、フェネラはここにいますから……お気持ちが安らぐまではお好きなだけ」


案ずるようなフェネラの言葉。

ただ頷き、押しつけた。








アルベランには、十二の神々を祀る教会が存在している。

王家はこうした神々の末裔で、それ故にその血は特別なもの。

アルベラン貴族もまた、王家の血の加護を受けるもの――特別な存在であり、それ故民衆は彼らに守られ、彼らに尽くさなければならない。


王家や貴族へ向ける敬意は神への信仰と同義であり、そうした構造は愚かな民衆を支配するための大義名分。

アルベランという国が蛮族であった頃の名残であるのだと母は言った。

宗教というものは愚かな集団を操るに長け、神の教えという名目で都合の良い倫理観を植え付けるに『便利』であり、大抵はどこの国でも使われているシステムらしい。


土地によっては強く信じられ、それが半ば法と化していたが、アルベランにおける十二神の信仰は比較的緩く、王家の威信を担保するために使われるのが主。

他の土地で信仰される神々に対しても寛容で、あくまで偉大な十二の神々という形――他の神々が存在することを認め、時には受け入れる。

未開の土地を侵略しても、彼らの信仰する神々を否定することなく傘下に加え、彼らの信仰する神々の上に立つ、偉大な十二神の存在を伝えて文化的に恭順させた。


例えば武勇の神を信仰する土地を征服した際に、それを否定はしない。

紛れもない神の一柱として彼らの健闘、信仰を讃えながらも、偉大なる十二神、武勇の最高神コレイスの前には劣る存在であったのだとただ示すのだ。

いかに偉大な武勇の神とは言え、武勇における最高神、コレイスには勝てなかっただけなのだと。


土地によって信仰は法と同義。

全てを砕いてしまえば当然、無法地帯の混乱が生じた。

しかし、その信仰を認めた上で、あくまで彼らがコレイスを知らなかったに過ぎないと語るならば、彼らの信仰、法と秩序はひとまず守られ、そして最も気高き武勇の神、コレイスの教えはこうである、とこちらに都合の良い教えを植え付けることが出来る。

母は非常に便利な『道具』として宗教を語り、『道具』として宗教の扱い方をレイネには教えていた。


特にそれが良いとも悪いとも思わない。

道具は道具で手段は手段――結果として良い方向に働けば良かったし、レイネは法秩序の一種として捉えていた。

十二神の教えは過激なものではなかったし、特に意識を置いていた訳ではない。

法王庁の管轄、ということになっていたが、あまり重要視もしておらず、気付いたのはしばらく経ってからのこと。


「……ただただエルスレイネ様の願い、いつか到る楽園を知ってもらいたいと願い、こうして代わりに教えを広めさせて頂いております。ルーカザーン様達の許可は頂いているのですが……」

「ルーカザーン達はこれで良い……と?」

「ええ、民衆には縋るものが必要であると……」


――孤児院の隣に、新たに併設された教会の大聖堂。

法王庁は孤児院と併設するように、あちこちに新たな教会を建てていたそうで、大抵は母の征服時に作られたものの流用。

今は生活に困る民衆に『教え』を語り、パンを配る慈善活動を行なっているようだった。


広い聖堂、台座に飾られているのはレイネの描いた楽園の絵。

『いつかエルスレンに導かれるための教え』がここでは語られ、そのためにどう生きるべきか、どうするべきかを民衆に伝えられていたらしい。


気付いたのは偶然。

レイネが足を運ぶ孤児院はいつも決まったところで、レイネがそこに行く以外で外に出ることをほとんどのものが嫌っていた。

護衛上の都合や、民衆に混乱を招き兼ねないという理由で、多少は理解出来ていたが、せめて自分で一度、街の様子を見てみたかったのだ。

いつも行っている孤児院は郊外であったが治安の良い場所。

レナリアには他にもいくつか同様の施設が建てられていることは聞いていて、孤児院の視察というのは建前――そうした地域のありのままの様子を見たかった、というのが本当の理由。


無理を言って、いつもと違う孤児院に向かわせると、孤児院の隣に大きな教会。

気になって入ってみると、聖堂で語られるのは『楽園の教え』なる聞き慣れぬ説法。


訪れたのがレイネであることに気付いたらしい司祭は驚いたように、エルスレイネ様、と声を上げ、長椅子に座り説法を聞いていた人々も驚いたように膝を突き、両手を組み始めた。

困惑している内に、今日の話はここまでに、と司祭は口を開き、人々を追い出して――しばらくして駆けつけたのが法王ナルコー=リベニラス。


どうにも二、三年前から、こうした活動を行なっていたらしく、初めて聞く内容ばかりで驚きがあった。

パンを配り、教えを広めるというのも初耳であったが、『楽園の教え』なるものも初耳――けれど、まるでそれがレイネの作った教えのように語られていたのだから。

この大きな教会も『レイネの教え』に共感した商人達から寄付されたものであるそうで、特に後ろ暗いものはないのだとナルコーは語る。


実際、レイネは税を取ったり出来るような権利を法王庁には与えていなかった。

孤児院などの維持運営費が与えられるくらいで、寄付金に関しては基本的に任せており、きちんと孤児院が運営される限りは自由な裁量を与えている。

元々アルベランにおいても、教会に集まる寄付金というものがそれほど多くなかったためだ。

しかし、こうした教会がいくつも『寄付金』で建てられていると言われれば面食らい、困惑があった。


汚職という訳ではないし、特に責められることをしている訳ではない。

与えられた権利の中で良いと思うことを行なっているに過ぎず、その寄付金を使ってパンまで施しているのだから、立派なことのように思える。

ただ、何とも言えない気持ち悪さがあった。


「でも、レイネの言うエルスレンは……その、死後に導かれる場所じゃなくて……」

「もちろん、理解しております。しかしこちらでは元々、そうした土着の信仰があったそうで……まずは受け入れやすいものをと考えた結果そのように。まずは人々が平和な教えを学び、その結果としてこの地に楽園が出来れば良い。……解釈と過程は多少異なりますが、ここで教えられるものは決して悪いものではありません」

「それは……」


少なくとも、先ほど聞いたものはそうであった。

隣人を愛し、助け合い、争いを捨てて穏やかな心を。

ナルコーは微笑む。


「エルスレイネ様のご活躍も然る事ながら、そしてその絵を目にしたものは皆、人の手で描かれたとは思えない、その絵の素晴らしさに感動し、エルスレイネ様こそが天からこの地に降り立った神の如き存在であると信じております」

「神……」

「ええ。特別な存在……人々を幸福の地へ誘う存在である、と。エルスレイネ様はこの地に住まう民の希望なのですよ。そしてそう信じる限り、彼らはエルスレイネ様のなさろうとすることに身命を賭して協力し、秩序を守る良い民として日々を送ります」


これは素晴らしいことです、とナルコーは続ける。

しかし、レイネは首を振った。


「でも、レイネは神でも何でも――」

「真実がどうであれ、彼らがそう信じているということが重要なのです。今も聖堂の外では多くの人々がエルスレイネ様を天の使いとして、彼らをエルスレンに導く存在として祈りを捧げております。それが全て……結果としてこの地にエルスレンが築ければそれで良い、と私は思っています」


エルスレイネ様は素直にすぎるお方だ、と口にする。


「ルーカザーン様達も仰っていました。こうするべきだ、と考えた時に、何もかもを自分で何かを変えようとなさる。しかし……私もルーカザーン様達も、他の貴族も、各々で色々な影響を考え、この国を良い国へと導こうとしています。……私達のことは信じられませんか?」

「っ、いえ、そんなことは……なくて」

「エルスレイネ様は我々と共に、国を築こうと仰いました。ならば……もう少し我々を信じて、頼って頂きたい。ここのことも隠すようなつもりはなく、時期が来ればいずれエルスレイネ様にお伝えし、もっと良い形でお見せするつもりでした。きっと、お喜び頂けるだろうと……」


ですから少し残念です、とナルコーは目を伏せ、レイネは頭を下げた。

すみません、と告げると、ナルコーは慌てたように首を振る。


「決して責めているつもりでは……お気持ちは分かります。確かに、エルスレイネ様からすれば、我々はあまりに愚かなことをしているように見えるでしょう」

「そういう、つもりは……」


ない、とはっきりとは言えず、目を伏せる。

実際、多少なりとも疑ったのは事実であった。

教えられている状況と実際がどの程度異なるのか――それを見たくて、強引に、馬車の行き先を変えたのだから。


今では国どころか、このレナリアという街の事すら分からなくなっていた。

責任を分散させる、という名目で管轄が細かくなり、レイネが直接得られる情報があまりにも少なくなっている。

事実、法王庁がこうした教会を新たに建てていたことさえ知らなかったのだ。

レイネに伝えられる報告が本当に正しいものであるのか、それを確認するため――しかしそこに、彼らに対する疑いの念がなかったとは言えない。


「……すみません」

「いえ。ただ、お分かり頂きたいのは……人々の心を変えて行くには時間が必要なのです、エルスレイネ様。今日決めたことを誰もが明日受け入れられるような素直さを持てるならば、きっとこの世に争いなどありません」


はい、と答える。


「まずはこの国、エルスレイネ様を信じれば良い方向に向かうのだと、人々にそう思わせることが大事なのです。それがあればこそ人々は法に従い、そして誰もが法を重んじるようになれば、いずれは良い方向に向かうでしょう。……我々なりにこの国の未来を思ってのこと……もう少しだけ、エルスレイネ様には我々を信じて頂きたい」


すみません、とまた口にする。

このところ、口を出るのはそんな言葉ばかりであった。

何かをする度、レイネは謝っていた。

議会の議論を止めて、貴族達と不毛な言い争いで迷惑を掛け、今もそう。

後悔ばかりが浮かんでしまう。


「エルスレイネ様に限って小悪党の如きは危険の内に入らないのかも知れませんが……予定にない今日のような行動をされると護衛の者も気が気ではないでしょう。……今後は事前に連絡を、エルスレイネ様は皇帝、万が一のことがないようにせねばなりませんから」

「……、はい」

「エルスレイネ様は少しお疲れなのではないかとルーカザーン様も心配しておられました。実際、今日のご様子を見る限りそのようだ。しばらく政務をお休みになってはいかがでしょう?」


目を伏せる。

近頃、よく言われる言葉であった。

何もかもが上手く行かず、何もかもが裏目に出て、そうすると決まったように、『責任の重さに疲れているのではないか』と口にした。

責任を分散させた方が良い、国は皆で作っていくものと語られ、レイネの管轄を削って彼らは分け合い、いつの間にか色んなものが見えなくなる。

見えなくなれば知らない情報がいくつも出てきて、的外れなことを口にしてしまい、呆れたような顔をされ、溜め息が場に響く。

――エルスレイネ様はお疲れのようだ、と口にされる。


責任が重いと感じたことはなかった。

けれど本来は簡単に処理出来たことが段々と複雑に思えて、手も出せず。

自分は何をしているのだろう、と考える度、『フィーリの描いたエルスレン』が遠く離れていくように感じられて怖くなり、筆を取ることも怖くなった。

楽園を描く度に安堵して、けれど、いつかそれさえ描けなくなってしまうのではないかと。


「……エルスレイネ様はこの国の象徴であり、希望です。エルスレイネ様の示される楽園、この絵の伝える美しさに落涙するものも多く見てきました」


ナルコーは言って、台座に飾られた『エルスレン』を示し、微笑む。


「金と欲望に執着する商人達でさえ、心が洗われるようだと、エルスレイネ様の描かれる楽園を望んで身銭を切り、このような教会を与えるほど……無理をなさらずともエルスレイネ様は十分過ぎるほど、この国のために大切なものを与えておられます。それは我々には出来ぬエルスレイネ様の役目……それ以外の些事は我々にお任せ下さい』


悪意など微塵も感じさせぬような笑顔で、優しげに。


「皆、エルスレイネ様の願う『エルスレン』に向かう、船の漕ぎ手なのですから」


手で示すのは、エルスレンという名の天上の楽園。

人々を導く手段として用いられる、都合の良い架空の楽園。

フィーリが願ったものとは、違うもの。


話を終えると聖堂を出る。

現れたレイネの顔を案ずるように見つめるフェネラを伴い、祈るように頭を垂れる人々を眺めながら馬車の中へ。


「あの、エルスレイネ様……?」

「……すみません、少し、だけ……」


誰も見えなくなった狭く小さな箱の中で、そんな彼女に抱きつき、目を閉じる。

何も言わず背中に回された手がゆっくりと背中を撫でて、得体の知れない気持ち悪さが少しだけ和らいだ。


レイネの絵で伝えたかったものは、上手く伝わらず。

レイネの言葉も、気持ちも、上手く伝わらない。


『わたくしには少なくとも、エルスレイネ様があの絵で伝えようとしているものが伝わりましたわ。少なくともそう思いますの、わたくしが描いた円を、エルスレイネ様が円だと受け取って下さったように』


頭の中でただ、フィーリの言葉がぐるぐると繰り返された。









――絵画が並ぶ、一つの部屋。

使用人のために用意された王城内の私室で、部屋の主人がいなくなって何年も変わらず掃除がなされていた。


華美とは言えぬ、しかし上質な白のドレスを身につけ、少女と女――その境にある美しい女王が、部屋でただ、一人過ごす。

眺めるのは一枚の絵。

飽きることなくそれを眺め、今では昼夜を問わず、そうして過ごす。

近頃は自らの居室以上にその部屋で過ごす時間が多かった。


使用人が黙ったまま、空になったティーカップに、新たな紅茶を注ぐと、女王グラバレイネは口を開いた。


「……あの子らしい、お馬鹿な絵だと思わない?」


使用人は急な問いかけに驚き、女王を見つめる。


「何も知らなくて、分かっていない理想の世界……ふふ、優しくして欲しいと思えばそうしてくれて、良かれと思ってしたことが、そのまま綺麗に実を結んだりするの」


素敵な楽園ね、と女王は笑って、目を細めた。

使用人はただ、そんな彼女の横顔を眺める。


「ただ、わたしの側にはなかったわ。だから……あなた達の流儀でそうしただけ、利用されないように、利用してきただけ。わたしはあなた達よりずっと賢くて、それが上手だったから玉座を手にして――きっと、それは正しかったわ」


立ち上がると指先で、描かれた娘の顔を愛おしげになぞった。


「でも、こんなお馬鹿な絵を描いている愚かなあの子のことは、それでいいとさえ思うところがあって、結局、わたしもフィーリの思う壺だったのかしら」


それから隣のフィーリをなぞる。

それを見た使用人は、深く頭を下げた。


「……申し訳ありません。わたしはエルスレイネ様がお帰りになった時、女王陛下がフィーリ様を手に掛けたのではないかと、疑っておりました。……もしかしたら、エルスレイネ様をお止め出来たのかも知れません」

「そうね、リビニア。でも……今更あなたを責めるつもりはないわ。あなたを始末したところで意味がないし、あの子が悲しむだけだもの」


もしあの子が帰ってきた時に、と女王は続ける。


「……ねぇ、あの子は帰ってきてくれるかしら? わたしの所に」

「……きっと、そう思います」

「分からない、って言われたわ。わたしのこと……」

「一時の……気の迷いです。……エルスレイネ様は混乱しておられました」


そうかしら、と女王は続け、更にベヌーレの顔をなぞった。


「多分、少し妬ましくて、羨ましかったの。……あんなに幸せそうに、心の底から無邪気に笑うんだもの。こんなどうしようもない世界なのに、あの子にはお花畑に見えていて……だから、少し腹が立ったの」


――どうしてわたしはそんな風に思えなかったのかしら。


遠い楽園を眺めて、女王はぼんやりと呟いた。

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