レイネ 十
セイル率いるアルベラン軍はその後、エルスレン西部軍を各個撃破。
アルベランの進軍は止まることなく、破竹の勢いで統制の取れぬエルスレンを打ち負かし、その喉元――レナリアに迫りつつあった。
状況の悪化によりエルスレイネの出陣が決定するも、セイルが集結させた八万の軍に及ばぬ六万。
その上、経験未熟な新兵が軍には多く混じり、経験を備える兵士達も年嵩な老人達が多く、破竹の勢いで勝ち進んできたアルベラン軍に対しては量と質で明確に劣っている。
過去のグラバレイネによる侵略。
エルスレンという土地はその戦によって蹂躙され、多くの若き兵士達は地に帰った。
そしてその後の締め付け政策によって、締め上げられたこの土地には軍人を養う余裕が存在せず、土地と人口からすれば軍事的な人的資源は劣悪。
そして限りある戦力も南方の遊牧民や南東――大陸東部からの侵略に備えるために多くが吸い上げられていた。
そうした影響は現在も根強く、劣勢を強いられることになった原因はそこにある。
三日目の夕暮れ――戦場の中央に青旗を掲げて現れたのはアルベラン軍総指揮官、第一王子セイル。
ゴルザリアスを伴って現れたエルスレイネに対し、彼は堂々と告げる。
「いかにお前の才覚が優れるとは言え、限界がある。……負けを認めよ、エルスレイネ。母上はお前との戦を望んでおられぬ」
会戦礼さえもなく始まった戦――エルスレン軍は防戦一方。
セイルは決して無理を犯さず、数による圧迫を続け、戦力を削ることに終始した。
押せば引き、引けば止まる。
将の首を狙う素振りを一切見せることなく、兵力と兵力の削りあい。
単純ながらも理に適った戦術であった。
母に匹敵する天才、エルスレイネに対して将としての知恵、技量で争うことなく、優位となる兵の質と量による単純な平押し。
それでもエルスレイネは一万の兵を削り取ったが、同様に一万を削られ、戦力比の上で差が開いていた。
そして互いの士気の差も大きい。
統制取れたアルベランの兵士と違い、多くの新兵が混じるエルスレン。
日に日に増える死者に、エルスレン軍では兵士達の間で動揺が広がりつつあった。
セイルが真っ直ぐとレナリアを目指してきたのは、戦略的な優位を勝ち取るため。
彼が率いる兵士達は複数の軍を打ち破り、敵の本拠に迫る状況――この会戦の前から士気旺盛であり、逆にエルスレンの兵士達は西部軍の敗北を知らされ、崖際に追い詰められた状況であった。
この日のためにセイルはレナリアの民衆の不安を煽るように噂を流しており、刃向かうものにグラバレイネは冷酷非道の存在であると伝え広めている。
セイル=アルベランはこの戦いのために、一切の驕りを捨てていた。
非凡な才覚を手にしながら、決して己を過信することなく、ありとあらゆる手段を是として、ただ一つの目的のために行動する。
その目的とは、この場にエルスレイネを引きずり出すこと。
言葉を交わすこと。
セイルの目的は、ただそれだけであった。
「全ては誤解が招いたこと……フィーリを殺したのは母上ではない。そこにいるルーカザーンだ」
「……何を――」
「このような場で話すのはどうか、とも思うが、少なくとも殺される前まで……母上は毎晩のようにフィーリを部屋に招かれ共に過ごされていたそうだ。夜番の使用人達では暗黙の了解になっていたと聞く」
「フィーリ、と……?」
セイルは頷く。
エルスレイネが国を出て、セイルは王城に。
母はセイルに会おうともしなかったが、あまりに状況がおかしいと調べて回った。
口を貝のように閉じる使用人達の一人から聞いたのは、そのような話。
色に溺れた女王。
母は淫蕩で知られる人物であったし、エルスレイネが生まれるまではセイルもそのように思っていた。
多数の貴族とそうした関係にあったことを知っていたからだ。
けれど実際にはそうではなく――エルスレイネが生まれてからは途端にそうした噂も途絶え、部屋に男を招くことはなくなった。
多くの噂と異なることは、母がエルスレイネに対する姿を見ていれば良く分かる。
優しげに愛おしげに、大切な宝物のように、愛娘を見つめる瞳。
どこか無機質な紫色が、熱を帯びるような――決してセイル達には向けられぬ瞳。
他の誰よりも、母から生まれたセイル達はそれを理解していた。
「そう。どのようなことがあったかは知らない。しかし、お前の愛するフィーリを受け入れることを決めていたことは確かだろう。あの母が、お前以外の誰かを部屋に招く理由は……それ以外にあるまい」
あの寒々しい――母の在り方を示すような部屋の中。
そこに母から招かれ、受け入れられるということがどれほどのことか、誰よりもセイルは知っている。
『……女王陛下がどれほど非道と蔑まれようと、わたくしは十年、二十年……あるいはそれよりもずっと先に、あのお方が望む世界が見えることを信じて願うだけ。そんな日が来るならば、そのためならば……わたくしは女王陛下のなさるどのようなことも受け入れますわ。少なくとも、わたくしは……その世界がどんなものより美しい場所であると信じておりますから』
語る彼女の、一切の濁りがない瞳の色を思い出せば、不思議ではないと思えた。
彼女の瞳に映っていたのは、二人のレイネ。
それ以外の全てを呆気なく切り捨ててしまうような、狂気に満ちた確信と愛情。
セイル達が決して越えられなかった壁の先に、きっと彼女は受け入れられたのだ。
妬ましく、羨ましく。
けれど、それを感じる間もなく、彼女は母の側から失われ。
「今も母上は……フィーリの部屋で、お前達の絵を見て過ごされておられる。お前が誤解に気づき、戻ってくる日を信じて」
エルスレイネは目を見開き、動揺したように左右に揺らす。
セイルは一枚の手紙を取り出した。
「……母上の手紙だ。私はただ、お前に直接、これを渡すためだけにここに来た」
目的はただそれだけ。
彼女に勝つためでも、武功のためでも無かった。
使者は切り捨てられるだろう。直接出向いても、顔を合わしてはくれぬだろう。
母の願いを伝えるためだけに、セイルはこの場にあった。
馬上から降り、鎧に身を包んだエルスレイネに手紙を突き出す。
『……人が手を伸ばせるものには限りがありますわ。女王陛下でさえも同じく。そして欲しいものは、身を投げ出してさえ手に入るとは限りません。……殿下は今一度、ご自身が本当に欲するものは何か……それをお考えになるべきだと思いますの』
民衆の為――そうではない。
セイルがこれまで重ねてきたものは全て、母のため。
ただ、敬愛する母に認めてもらうための、そのためだけの歳月を積み重ねてきた。
母は間違いなく、史上最高の名君として君臨する。
その母を支えること、助けることがセイルの望むただ一つであった。
この先、たとえその愛が向けられずとも構わない。
それでもセイルが、母を愛することに変わりない。
母の願う場所こそが、この世界で最も美しい場所であると信じて進むだけ。
惑うように揺れるエルスレイネの手が、セイルから手紙を受け取る。
――そして、響いたのは笑い声であった。
「……何を笑うか、愚物め」
肩を揺らして首を振り、ゴルザリアスは笑みを浮かべる。
「いえ、良く出来た脚本だと。実に素晴らしい……停戦の提案かと思えば、このような演劇を見せられるとは思いませんでした」
「演劇だと?」
「まさに、純粋なエルスレイネ様を謀る悪辣な演技……良くもそこまでなさるものだ」
「……こちらのセリフだ、ルーカザーン。欲望のために国を割り、エルスレイネを騙しているのはお前ではないか」
ゴルザリアスは両手を広げた。
話すだけ無駄ですな、とゴルザリアスはエルスレイネを見つめた。
「……殿下の用件は以上のようだ。戻りましょう、エルスレイネ様」
「ルーカザーン……」
エルスレイネは迷ったように、手紙とゴルザリアスを交互に見る。
「王子は女王陛下に仕え、私はエルスレイネ様にお仕えする。……求めるもの、立場が違えば語る言葉が変わるも必然。言葉などというものは、望めばいくらでも飾り立てることが出来るものです。私はそのような繰り言に付き合い、己の無実を声高に叫ぶつもりはありません」
ゴルザリアスはそう語り、馬をくるりと自陣の方へ。
エルスレイネも慌てたように彼を追い――セイルは声を掛ける。
「エルスレイネ! ……今生一度の願いだ、必ず、その手紙を読んでくれ」
エルスレイネは一瞬声に反応し、しかし何も言わず自陣へと戻る。
セイルはじっと、その小さな背中を見送った。
自陣に戻り、兵士達には野営を命じる。
エルスレイネに割り当てられているのは徴発された牧畜家の家であった。
この平原でも少し高台に位置し、見通しが良く、中には暖炉も置かれている。
レイネの鎧を外していたゴルザリアスは先ほどの話ではなく、今日の戦いについて。
相づちを打ちながらも、レイネの視線はただ、母からという手紙に向かう。
地に突き立てた剣の封蝋。
本当に母の手紙なのだろう。
母がそれをレイネ以外に使わせているところを見たことがなかった。
「……気になりますかな?」
「……、その」
フィーリを殺したのは母ではなく、ゴルザリアス。
セイルはそう口にした。
そんなセイルが渡した手紙を見ることは、彼に対する裏切りのように思える。
「正直に仰れば良い。少し動揺しておられるのでしょう?」
「……はい」
「無理もない。エルスレイネ様の心は今も確かに女王陛下の所にある。その手紙だと言われれば気になるのも当然のこと……仕方のないことです」
それを目的としたものですから、とゴルザリアスは告げる。
「きっと、この手紙にはエルスレイネ様の期待するような言葉が記されているでしょう。フィーリを殺したのは女王陛下ではなく、全ては誤解が招いたもので、今もエルスレイネ様を愛している、戻ってきてもらいたい、と」
「っ……」
「女王陛下がエルスレイネ様を愛しておられることは間違いない。エルスレイネ様さえ取り戻せれば、以前よりずっとエルスレイネ様のお気持ちを気遣い、エルスレイネ様の悲しむようなことは二度となさらず、以前よりずっと、その願いも聞き届けてくださるのかも知れません」
それも良いでしょう、とゴルザリアスは言った。
レイネは目を見開いてゴルザリアスに目を向ける。
「私はフィーリを殺してはおりません。女王陛下も、フィーリを殺してはいないとエルスレイネ様に語ることでしょう。言葉にすることは容易いこと……何とでも言い繕うことが出来、弁解は容易く、故に無意味です。なればこそあの場で私は弁解などは行ないませんでした」
ゴルザリアスは堂々と、真っ直ぐとレイネを見ていた。
「私と女王陛下、どちらをエルスレイネ様が信じるか……ここにあるのはそうした二択ではありません。重要なのは真実ではなく、エルスレイネ様が何をお求めになるかであると思っています」
「レイネが……」
「私が望むのは、エルスレイネ様が望み、願い求めるエルスレン。ですが、それはこの国という形ではなく、いつかこの世界に訪れる場所。女王陛下と共にその場所が築けると仰るならば、その手紙と共に、女王陛下の所へお戻りになるとよろしいでしょう」
右の掌を心臓に。
ゴルザリアスは敬礼する。
「エルスレイネ様が心からそう思うと仰るなら、私はここで逆賊として死ぬことも本望……私の命はエルスレイネ様の願うエルスレンの礎となりましょう」
「っ、それは――」
「女王陛下らしからぬこの手紙――エルスレイネ様が自らの側から離れたことで、もしかしたら女王陛下はこれまで行なってきた多くの過ちに、自らお気づきになったのかも知れません。そうであればこうして、私がエルスレイネ様と共に反旗を翻したことには意味があったのだと思えます」
エルスレイネは目を泳がせ、首を振る。
「それなら……っ、レイネが、かあさまにお願いします。ルーカザーンはそんな悪い人じゃないって……他の人達のことも――」
「何事にもケジメは必要です。邪悪なるルーカザーンが女王と王女を引き裂き、国を割って権力を手にしようとした……他の者もあくまで私に騙され女王陛下に剣を向けたのだと、少なくともそういう形を作らなければ民衆は納得はしない。誰かが死なねばならぬのであれば――」
ゴルザリアスは剣を引き抜き、その柄をレイネの手に握らせる。
そして膝を突き、刃を握って、自らの首を押し当てた。
「――私の首を差し出すのが最も良い。どうか、ご決断を」
レイネはふるふると首を振った。
高く結い上げた金の髪が揺れて、怯えるように瞳が揺れる。
ゴルザリアスは動くことなく、力強く刃を握っていた。
「私にはこの戦で死んでいった者達への責任があります。彼らの死を悲しむ者達には、その憎悪を向ける相手が必要なのです」
「ルーカザーン……」
「……後悔と言えばエルスレイネ様と共に、いつか来たるエルスレンを見られぬ事くらいでしょう。出来ることならば、妻子の命だけはどうにか、お助け頂くことを願いたい」
そうして少しの間が空き、レイネは首を振り、剣を手放す。
両膝を突くと下を向いて首を振る。
「……出来ません、レイネには、そんなこと」
「……、それでよろしいのですか?」
問いに頷くとゴルザリアスは、お優しい方だ、と口にして剣を納めた。
「この先は過酷な道となりましょう。しかし……それ故、この道を選ばれた以上はこの先、今日のように迷うことは許されません」
ゴルザリアスは机に置かれた手紙を取り、暖炉の方へ。
「ぁ……」
煌々と燃えさかる炎を中へとそれを投じた。
封蝋が熱で溶けて、手紙が炎の中に消えていく。
「我々と共に、ここにエルスレンを築くこと……その目的を果たすまで、迷う時間もありません。女王陛下のことをお考えになるのは、それからのこととして頂きたい」
呆然とそれを眺め、寒気を覚える。
母がレイネに何を伝えたかったのか――それを知ることなく、手紙は消えた。
それがどうしようもなく悲しいことのように思え、目を伏せる。
「食後、明日の会議に。兵士を呼びに行かせます」
「……はい」
「どうであれ、あちらには多少の油断があるでしょう。この機会を逃す手はありません。……決着を付けるには、明日ほどの機会もない」
頷くと、ゴルザリアスはレイネの頭を撫でた。
「会議まで少し時間があります。少し休んで、気持ちを落ち着けてください」
はい、と告げると、ゴルザリアスは外へと消える。
レイネはぼんやりと、炎の中で煤へと変わる母の手紙に目をやった。
――翌日の明朝であった。
まだ日が昇らぬ時間、敵に動きがあると伝えられ、セイルは慌てて飛び起きた。
すぐさま兵達を叩き起こさせ、布陣を整えるも、整いきる前に朝焼けの光。
地平線から縦列でこちらに近づくエルスレン軍の姿が映っている。
セイルは歯噛みし、部下達に急いで戦列を整えさせるように命じた。
敵の動きは早いが縦列。
動揺こそあれどあちらが隊列を組むまでの猶予は存在する。
エルスレイネ同様、小高い丘に野営地を設けていたセイルは前日までと同様――目の前の平原、丘の裾野に兵力を押し出していく。
高所の利を捨てること――本来そこに意味はない。
これが防衛戦であれば愚の骨頂であったが、攻め手はこちら。
こちらが丘に引きこもれば、あちらには待つという選択肢がある。
そしてエルスレイネは紛れもない戦の天才であった。
攻め手のこちらが防御に徹し、軍としての機動力を手放すのなら、セイル達をここに貼り付けにし、後方連絡線を遮断するだろう。
この地域において、地の利はエルスレイネが有する。
セイルにとっては敵地であるが、彼女にとってはそうではないのだ。
そして一直線に彼女の本拠地、レナリアを攻めた以上、後方連絡線は最低限。
それを遮断されれば打つ手はない。
エルスレイネを貼り付けにするには、この軍の機動力を決して手放してはならない。
そして後方の安定化のために軍を分けてもならない。
兵力優位なればこそ、ようやくエルスレイネを消耗戦に引きずり込めているのだ。
現状でぎりぎりの戦力比――これを割いては間違いなく、力業で圧倒される。
重要なのは主導権。
それを握るのは常にこちらでなくてはならない。
一瞬でもそれを手放せば、もはやこちらに勝ち目はない。
平凡か非凡かであれば、セイルは後者の人間。
多くの中の一握り、そういう才覚を手にして生まれてきたことを知っているし、そして血の滲むような努力を重ねて己を磨いてきた。
しかし、セイルは誰よりも知っている。
『セイル、行っていいわ。初めての砂盤演習にしては良く出来たわね、レイネ。ただ、右手の戦いをもう少し頑張れば兵士を削り切れたんじゃないかしら』
『んー、セイルにいさまの首を先に取ってしまった方が良いと思ったのですが……』
『想定するのは本当の戦。後々のことを考えると敵国の戦力を削ぐことも重要よ。聖霊協約があるから捕虜にしてしまうと殺せないし、捕虜を取るにも費用が掛かるわ。戦っている最中に始末しておいた方が後々のことを考えると――』
そんなセイルの道のりを、羽ばたくようにしてあっという間に飛び越えてしまうような――そんな存在がいることを、セイルは誰よりも知っている。
決して、エルスレイネには敵わない。
故に戦いは、鮮やかさも美しさもない、どこまでも泥臭い消耗戦。
必死でそこにしがみつくことこそが、セイルという非才が、エルスレイネという天才に勝つための唯一無二の道であった。
そしてセイルは、そのためだけに、彼女を母のところへ連れ帰るためだけに存在する。
あの手紙を受け取ってなお剣を取るのであれば、力尽くで行く他ない。
ここで何万の血が流れたとしても、それが最後の流血になるのであれば、どんな戦いよりも兵達に流血を強いる消耗戦をやり抜く覚悟でここにあった。
地平の彼方から暁。
その目映さに目を細め、そして異常に眉根を寄せた。
恐らく戦列を組むであろうと考えられていた一里先を越えて、縦列はなお進む。
「っ……縦列突撃か! 戦列は後回しだ! すぐさま中央に兵力を集めろ!!」
その先頭――馬上にあるのは、暁色に輝くもの。
黄金に髪を棚引かせる美姫、エルスレイネの姿であった。
――軍が横並びの戦列を敷くのは、長い壁を築くことで相手の迂回を封じるため。
戦列とは金床。
そこに相手を押しつけている間に、本命の槌をその背後から振り下ろす。
基本中の基本となるその戦術は単純ながらもあまりに効果的であり、集団の戦いにおいてまず最初に警戒されるものであった。
多少なりとも戦術を知ればこそ、無意識に取る布陣。
半ば無意識に選択してしまうほど、安定した基本形であった。
ここに仮に縦列で兵力をぶつければ弓兵の射撃によって衝撃力が失われ、通常は悪手。
縦列突撃においては弓兵による応射などは不可能で、一方的に矢を浴びせられることとなる上、的を絞りやすく、相手はこちらの先頭に弓兵の射撃を集中出来る。
完全に横列を組んだ戦列を前に縦列突撃などは焼けた鉄板に水滴を垂らすようなもので、下策中の下策であった。
ただしそれは、あくまで完全な横列布陣が整った場合において。
夜明けの奇襲――相手の戦列が整うまでの虚の間に行なわれるのであれば、縦列突撃はその弱味を晒すことなく、金床をバターの如く。
狂気に満ちた戦力集中、敵将首のみを目掛けた正面突破を可能にする。
東から昇った太陽の輝きは敵弓兵の視界を封じる。
長い夜の暗がりから、その暁に目を焼かれ、奇襲による動揺と整わぬ布陣。
優秀なる弓兵指揮官は辛うじて射撃を開始するが、そのほとんどが見当違いの方向へと矢雨を降らせ、レイネの進む縦列は無傷。
「ルーカザーン、ナートリアス。レイネが先頭、脇を任せます」
「は!」
「了解です! 滾りますな、縦列突撃の先頭とは!!」
ゴルザリアス=ルーカザーン、オルロス=ナートリアス。
レイネが左右に率いるのは、エルスレンで最も武勇に優れた二人。
縦列突撃は速度が全て。
少しでも足を止めれば挟み込まれ、戦列の中で圧死する。
そのため先頭集団には極端なほどに戦力を固めていた。
兵士か指揮官かは問わず、武勇に優れた戦士を配置し、その多くは魔力保有者。
勢いさえあれば良く、統制は不要であった。
ただただ真っ直ぐ敵陣へ突っ込むだけ――直接兵士を指揮する百人隊長があればそれで良く、軍団、大隊などという単位は必要ない。
そしてレイネ達先頭が敵中深くに切り込めば、士気の落ちた兵士であっても後に続く。
士気の高い隊を前方に、士気の低い隊は後方に続かせ、極端なまでに初動を重視して隊列を組んでいた。
後ろはキリアス=リーバスレーベが指揮を執り、こちらの縦列を遮断しようとする敵を制圧する手はず――しかし、それが必要になることはないだろう。
勝負はこの初動で終わる。
先頭集団で乗れるものは皆馬に乗せている。
魔力保有者にとって馬はただの足に過ぎぬもの、戦うならば徒歩が良い。
しかし、戦列への突撃のみを考えるならば馬は非常に有用だった。
人体の十倍以上の質量――戦列という『柔らかい肉の金床』に与える衝撃力は魔力保有者の単純な突撃に比べて圧倒的な威力を有する。
正面には長槍の姿が見えたが、その顔には動揺。
隊列は未だ乱れており、目前に迫るこちらに対して無数の指示が飛んでいた。
槍を構えろ、あるいは隊列を整えろ――戦場において兵士とは無脳の駒であった。
明確な指示があってこそ、初めて彼らは行動が許される。
混乱によって錯綜した指示は、駒としての彼らから封じたはずの思考と感情を引きずりだし、集団ではなく別個の人間としての情念を宿らせる。
驚愕と動揺、恐怖に包まれた兵士はもはや兵士ではなく、馬に合図を。
「ひ――っ!?」
疎らな針山を縫うようにして、その暴力的な質量を叩きつける。
骨と肉のひしゃげる鈍い音と、悲鳴が重なり周囲を満たす。
無造作に槍を振るって理性を持った兵士を貫き、あるいはその首をへし折った。
一度亀裂の入った戦列は非常に弱い。
状況さえ整っていれば修復力が働くが、まだ完全に組み上がる前に貫かれれば尚更。
レイネ達の乗る馬の動きを止めるどころか、それに跳ね飛ばされないように彼らの腰は引け、真正面から正対することを避けていた。
当然引け腰になった兵士達に馬の質量を跳ね返せるほどの力はなく、後続の騎馬がそうして出来た道を左右に大きく押し開いていく。
跳躍してきた魔力保有者――大隊長を刺し殺すと槍を手放した。
顔を見て記憶から情報を抜き出し、この持ち場の軍団長が誰かを推察する。
ダルコスだろう、経験豊富な軍団長で重装歩兵の指揮に秀でる。
少し先に構えを見せる弓兵の列を認めると、馬から跳躍。
馬の前方にある兵士を腰の剣で切り裂き、一足先に集団を抜け、弓兵指揮官を始末する。
数人素早く斬り殺すと悲鳴を上げて彼らからは戦意が失われた。
その間に後続の騎馬が戦列を抜け、頭上で剣を振ると彼らもまた馬を乗り捨て徒歩に。
最初の衝撃力が失われた時点で馬の役目は終わり。
近づいてきた自分の馬を軽く撫で、そのまま前へ。
「姫様、ここは我々が」
オルロスが告げ、ゴルザリアスが頷く。
オルロスは大戦斧、ゴルザリアスは鋼の六尺槍――数を殺すには適していた。
二人は返事を待たず前に出て、他の男達も同様、崩れた敵を食い荒らす。
縦列の利点であった。
後続は体力を温存し、先頭に疲労があれば入れ替わって道を切り開く。
仮に先頭が死んでも後続は遮断されない限り半ば無尽蔵。
背後で狂乱状態の敵兵を眺める限り、ここからの遮断はあり得ない。
前方では悲鳴と血煙が――野獣のようにオルロスとゴルザリアスが刃を振るう。
周囲に散らばる死体を眺め、ぼんやりと目を細める。
『いつか、その……大きくなったら戦場に出て、エルスレイネ様のために戦いたいって思ってて……』
何となく、ニールの顔が思い浮かんで、意識から追い出した。
ニール達が大人になる頃には、こんな戦いがない世界になっていると良いと思う。
ここはあまりに簡単に誰もが死ぬ世界だった。
無感動に殺しながら、フィーリの楽園を思い浮かべる。
剣も鎧も錆びていない。
鮮血を浴びて汚れ、戦の後は綺麗に拭うことになるのだろう。
剣は研がれて、切れ味を取り戻し、鎧は血で汚すために輝いて。
「王女、殿下……、っ……」
軍団長を斬り殺し、将軍の鎧を奪った槍で刺し貫き、そのまま手放す。
無駄なく殺せたと心の中に満足があって、死に顔を眺める。
馬の扱いが得意だということで、馬の乗り方を教えてもらった人。
お尻が痛いと言っているとクッションを用意してくれたり、色々と良くしてもらった記憶があった。
『本当に上手になられた。僅かながらでも王女殿下のお役に立てたなら幸いです』
『はい。えと……ありがとうございました。レイネもとても勉強になりました』
『は。馬は個性が強いですから少し難しいでしょうが……何が好きで嫌いかをしっかりと見てくれる主人にはよく懐きます。はは、これはまぁ、馬に限った話ではありませんが……』
『……難しいですが、気をつけてみます。それじゃあ元気で……子供も元気に生まれてくると良いですね』
『ありがとうございます。もし機会があれば、一緒にご挨拶させて頂きたいと思います』
子供は無事生まれたようだが、見る機会もなく。
一緒に挨拶されることも二度とない。今殺したのだから。
彼は死ぬ時、何を考えていたのだろう。
頭の隅に追いやって、再び先頭を走る。
少し休む度に色んな事が頭をよぎって、考え事をしないように。
理解を拒んで剣を振るい、槍で突く。
――他人を理解しようと思う心が、より良き社会の種ですもの。
フィーリの言葉とは反対のことをしていた。
作業的に斬り殺して前に。
右後ろの相手が剣を振り上げ、石突きで喉を突き、左斜め前の顔面に穂先を突き立て、その次の相手の首を剣で割き、左手から現れた相手の喉を手甲で潰し、前方に跳躍して背後に回って頭蓋を穿ち、また槍、刺しすぎた槍を捨てて新しい槍を取ってまた一人、また一人、剣で、あるいは槍で殺して――
「っ……」
不快感が胸元から込み上げて、飲み込み、また剣を振るう。
ゴルザリアスとオルロスは少し後ろ――獣のように歯を剥き出しに敵を殺していた。
何故だか楽しそうに見えて、けれど気にせず前へ。
部下のためには笑顔を浮かべなければならないそう。
レイネはあまり笑う気にはなれず、無心で敵を斬り殺す。
あまり他のことを考えたくはなかった。
「何故だエルスレイネ!!」
いつの間にか、正面にはセイル。
ようやく本陣、ようやく終わりだった。
それほど長い時間ではないのに、随分と疲れていた。
「母上ではない! お前はあの男に騙されているだけだ!」
その言葉に燃えた手紙を思い出して、何が書かれていたのだろうと考える。
先ほど殺した将軍のように、それが分かることはもうない。
気分が悪くて、今はあまり考え事をしたくなかった。
踏み込むとセイルは剣でそれを防ごうとし、レイネはそのままセイルの右腕を両断する。
背後に回り込むと左腕を取り、うつ伏せに押し倒した。
そして、副官に告げる。
「……勝敗は決しました。速やかな降伏を」
「っ……」
「レイネはこれ以上、無駄な死人を出したくないです。……今から手当をするなら、セイルにいさまも助かるでしょう」
「っ……えるす、れいね……」
すぐに二人が追いついてきて、状況に眉を顰めた。
「……エルスレイネ様。その慈悲は後に禍根を残します」
ゴルザリアスの言葉に目を伏せた。
彼は嘆息すると、セイルの副官に告げる。
「これはエルスレイネ様のご温情である。この状況でこれ以上そちらに時間は与えられん。これに従わぬというのであれば、今すぐこの戦いの続きを始めるほかない。将を失った軍でどれほど持ちこたえられるか、確かめたいか?」
副官は躊躇の末、腰の剣を地面に捨てる。
そして、肩を震わせながら旗手に旗を降ろすよう命じた。
それを見た護衛もまた同様に、剣を腰から外していく。
「よろしい。――アルベラン王国軍総指揮官セイル=アルベランとの決闘にエルスレン共和国総指揮官、エルスレイネ様が堂々たる勝利を収めた! アルベラン王国軍兵士達は今すぐに剣を捨て、恭順の意思を示し、我が同胞、共和国兵士達もまたこれ以降、戦意なきものへの殺傷、その一切を禁ずる! ――此度の戦はこれを以て決着、エルスレン共和国の勝利である!!」
ゴルザリアスは同様の言葉を繰り返し声高に叫び、天地を震わせ。
周囲にあった悲鳴と剣戟音は少しずつ、その音を小さくしていく。
未だ、太陽は昇りきらず。
草原は血と暁で燃えるような朱色に染まる。
意識を失うセイルから降りると、副官がすぐさま手当を施し、エルスレイネはゴルザリアスとオルロスに告げる。
「……すみません」
「それがエルスレイネ様の決定であれば従うまで。ナートリアス殿?」
やや憮然とした顔でセイルを眺め、嘆息すると頷く。
「状況的に仕方ありませんな。ひとまずは後片付けと致しましょう。これだけの捕虜だ、早めに処理しておかねば反乱が怖い」
「……はい」
レイネは赤く染まった鎧と剣を眺めて、目を伏せた。
この機を逃さず、すぐさま失地回復を行なうべきである。
戦場の貴族においてはその意見が強くあり、ゴルザリアス達も同様。
そのままレイネは軍を率いて西へ。
未だ統制の残る軍を排除し、制圧された街を解放していく。
彼らは皆、レイネの武勇を讃えて感謝し、歓迎したが、多くの村はそうではない。
滅んでいる村があれば、子供が石を投げてくる村もあった。
そうでなくとも、歓迎されない場所は多くある。
レイネがこうしてエルスレンを作らねば、巻き込まれることもなかっただろう。
こうした村は自動的にエルスレンに組み込まれただけで、そして敵地であると無法な兵士の略奪や破壊の対象として被害に遭ったのだ。
彼らは別に悪くなかったし、それはレイネの責任。
罰することを求める者を黙らせて、後の復興のため、情報として頭に入れる。
レイネの凱旋でレナリアは沸き立った。
だが、それを眺めるレイネの心は重たく、胸は苦しい。
復興に力を入れたいレイネの考えとは異なり、戦勝に浮かれる貴族達はこの機会に後顧の憂いも断つべきだと、南方の遊牧民についてを語る。
アルベランとエルスレンの戦いに乗じて彼らが南方で暴れていたためだ。
ゴルザリアス達に議会と西のことを任せ、レイネは再び戦場に。
今後のためにと血と死体の道を敷き――『エルスレン』はまだ、遠く彼方に霞んで滲む。
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