レイネ 八

――アルベラン王国歴203年。

大陸を支配する大国アルベランの分裂と、エルスレン共和国の誕生。


グラバレイネに臣従してまだ日が浅いアルベラン東部――大陸中央にあった諸勢力はアルベランに対立する国家の樹立を喜んだ。

正式な設立までは蜘蛛の巣のような防衛協定が結ばれた集合体、反アルベラン連合という体を成していたが、エルスレイネは彼らとの関係を強固にするため中央議会を設立。

各地の有力者を議員として組み込み、アルベラン王国が分裂で発生した内側の問題に対処する間に、驚くほどの早さで国家としての形を整えた。


これには記憶に新しいアルベラン内乱において、圧倒的な軍事的才覚を見せつけたエルスレイネの武功、そして国家樹立に際する諸問題を神懸かり的手腕で解決して見せた彼女の才覚によるものが大ききかった。

彼女は未来を見通す魔眼を持っていたとも語られ、集まった資金を元手に僅かな期間で莫大な利益を上げると、寄る辺のなかった反乱軍に、国家としての土台を財力によって築き上げたのだ。


ひと月を食んでは国一つ、ふた月食んでは大国一つ。

エルスレイネは極めて僅かな期間の間に大陸中央の経済を掌握し、各地の大商人達は彼女の『錬金術』に驚愕しながら、我先にと首都レナリアに集った。

有力なる二大勢力――後にエルスレン神聖帝国の三大公となるナートリアス家、リーバスレーベ家がこれに参加を表明した理由もそこにあるとされている。


「議長のお気持ちは称賛されるべきもの……しかし、現状は国内の安定、そして間違いなく起こるアルベランの侵略に備えるべきです。孤児院の設立は見送るべきでしょう、時間と予算は別の事に用いるべきです」

「それは確かにそうなのですが……」


レナリアの中枢、第一会議場。

大きな円卓の机を囲み、椅子に座る男達はエルスレンでも有力な貴族達。

大きな周辺地図が飾られる奥の上座に腰掛ける黄金の髪の少女――レイネは困り顔を浮かべて、どう口にするかを考え込む。


エルスレンは元々、アルベラン領にも最近組み込まれたばかりの土地。

アルベランの侵略で戦災孤児は多く、治安は乱れ、安定からはほど遠かった。

元々、反乱後はそうした問題を解決するため手厚く保護し、治安を回復させていく予定で――それはエルスレン共和国となっても同じく、その予定に変わりはない。


ただ、状況が大きく異なるのは、ここにはアルベランという強大な敵対国家が存在していることだ。

議員達は軍拡を最優先に考え、そちらに資金を投じたがる。

その理屈は理解が出来るが、現状は防衛戦を考えれば必要十分。

彼らはどうにもアルベラン征服を目的にしているようで、意見の食い違いが起きていた。


レイネには母を殺そうだとか、アルベランを征服しようだとか、そういう考えはなかった。

この国を、皆が幸せになれる良い国にしたい。

ただそれだけ。


しかし、それはあくまでレイネの理屈。

多くはアルベランに征服された側――彼らが母を恨む理屈も理解は出来て、真っ向から否定は出来なかったし、その権利もなかった。

レイネは議長、国のことは皆で話し合って決めていかねばならない。


「まぁ、待て。議長が懸念しておられるのは十年、二十年先のこと――軍備拡大は最小限に留めなければ出費が嵩む。議長は現状で防衛力は十分……そうお考えなのでは?」

「はい、リーバスレーベの言うとおりです。防衛戦に限って言うならば、現状でかあさ――アルベランに対抗できる戦力は備えている、とレイネは考えています」

「私も他の者の言うとおり、若干の懸念こそはありますが……少なくとも議長はこの場の誰より軍事に関して長ける方、聞いている限りでもその意見に大きな間違いはないと考えている。これに異論がある者は?」


隣に座るキリアス=リーバスレーベは、痩せ身でひょろりとした男。

一見柔和な顔であるが、その目は鋭く、議員達を睨むようだった。


「諸君はどうにも感情に振り回されているように思える。アルベランはどうあれ強大……付け焼き刃の軍勢で滅ぼすことは難しい。全力を尽くして上手く行ったと仮定しても拮抗するのが精々だろう。……そしてそうなれば我々はいずれ、アルベランの国力を前に必ず負ける。長期戦を行えるほどの土台が我々にはないからだ」


言いたいことを言ってくれたとレイネは頷く。

キリアスは議会では最も発言力ある人間だった。

中々の切れ者で話し上手、レイネの意図もよく分かってくれている。


「この国は孤児で溢れかえっている。彼らは十年後、無頼に身を落とし治安を大きく乱す。彼らは借金のようなもの、膨れあがれば国を破綻させる。今支払うべき金貨一枚を拒めば、十年後には十枚、二十枚……あるいは百枚の金貨を要求するだろう。そうなってからでは遅い」


考えるべきはこの国の未来だ、とキリアスは続けた。


「今はこの国の土台を固める時期。国があればこそ、諸君の願う打倒アルベランも叶えることが出来るのだ。議長とて単純な憐れみの情から孤児院をと提案しておられる訳ではない。それを理解したまえ。……私は議長と同意見、賛成に票を投じる」


ありがとうございます、とレイネが軽く頭を下げると、彼は苦笑して首を振る。

次に声を上げたのは髭面の大男、オルロス=ナートリアスだった。


「俺も同じくだ。ただまぁ、軍備に不安という意見も理解は出来る。最前線になる西側に各地からもう少し兵力を出すというのはどうだ? 少なくとも現状で内輪揉めを起こしたい馬鹿はいないだろう。西部の連中もそれで多少は安心できると思うが」


内政に関してはあまり長けていると言えない人物であったが、求心力があり、多くの貴族達を纏めていた。

元々この地では最も大きな領土を持っており、その影響もあるだろう。


いくらかの問題はあれど、特に大きな問題はなく。

エルスレンの走り出しは順調であった。








第一会議室を出て、執務室へ。

副議長――ゴルザリアス=ルーカザーンは口を開く。


「会議はお疲れでしょう。慣れてきたのか、各々が勝手ばかりを口にする」

「確かにちょっと疲れますが……これで良いのです。レイネも色んな意見を聞きたいですし、レイネが王様だとやっぱり、言いたいことも言えないでしょうし」


ゴルザリアスはレイネが絶対的な権力を握る事が出来る国をと考えたが、レイネが望んだのは議会制の共和国であった。


アルベランは全てを母が考え、全てを母が決定する。

別の意見は封殺して、あるいはそれを語るものを処刑した。

独裁という仕組みは決して悪くはなかったし、母の理屈は理解も出来る。

分裂しかけたアルベランを纏めてあれだけ大きくしたのは間違いなく母の功績で、そして母が自分の権力を強め、自由に国を操ったからこそ。


母は国を大きくしたし、人口を増やした。

大きく安定している国が良い国であれば、母は良い女王である。

けれど、レイネが築きたいのは皆が幸せになれる場所。


『……社会とは何かと言えば難しいのですが……そうですわね。個々人が不足を補い合って作るものでしょうか』

『補い合って……』

『例えばわたくしの絵を見て、エルスレイネ様が何かを教えて欲しいと願うように、わたくしもエルスレイネ様の絵から、自分に足りないものを教えてもらう。お互いお互いに何かを与えて、もらい合う関係性も一つの社会でしょうか』


小さな社会ですけれど、とフィーリは言った。


『自分の得意は相手のために、自分の不得意を助けてもらい……この世界は皆がそうやって助け合い、その役割の中で生きてますの。軍人に職人、貴族であっても、所詮大きな社会の中にある役割の一つ。いつの時代も個人がやるべき大事な事は、その大きな社会で与えられた役割の中で、一体何を全うするかでしょうか』

『……、ちょっと難しいです』


告げると彼女は楽しげに。


『ふふ、でも既にエルスレイネ様は、きっとお分かりのはずですわ』


そんなことを口にして笑う。


レイネは彼女の笑顔を思い出して、ほんの少し目を閉じた。


「レイネは色んな意見を聞いて、教えてもらって、色んな考え方を理解したいです。レイネが得意なのは計算だけで……レイネ一人で頑張っても、出来上がるのはやっぱりかあさまのようなアルベランでしょう。……だからレイネは、色んな人と意見を交わして、沢山の人が幸せに暮らせるような国と社会を築きたいのです」


――他人を理解しようと思う心が、より良き社会の種ですもの。


フィーリの話はいつも少し難しい。

けれど、多分そういうことなのだと思う。

好きなことや嫌いなこと、何を願って何がしたいのか。

頭の良い悪いではなく、大切なことはそういう部分なのだと思う。


それが良いことであれば、馬鹿な提案であっても良いのだ。

知恵が足りないなら、それをレイネが助けてあげれば良い。

そうやって色々な意見を聞いて、皆のことを理解して行けば、彼らの願いを叶えていけば、いずれきっと、より良い社会に繋がっていくだろう。


レイネにとって、他人は少し難しい。

けれど同じ人間――必ずどこかは繋がっていて、フィーリとレイネのようにいつか理解し合えるのだと信じていた。

そして、そうやって出来た場所を母にも見てもらいたかった。


「……そういう場所が出来れば、かあさまも、きっと……」

「あまり外では、そうした言葉は口になさいますな。多くは女王陛下への恨みを持ってます故……」

「ぁ……、はい。すみません……つい」


執務室に入るとゴルザリアスは苦笑し、首を振る。


「無論、お気持ちは分かりますが……エルスレイネ様のお気持ちが少しでも伝われば良いと思います。無論、死んだ者が生き返る訳ではありませんが……」

「……、はい」

「しかし、きっとフィーリはそんなエルスレイネ様を誇らしく思うことでしょう。恐らくは誰より、女王陛下の病を癒やしたいと考えていたでしょうから」


レイネが頷くと、ゴルザリアスは続ける。


「聞くところによると、どうにも……エルスレイネ様が出陣された後、フィーリは女王陛下に呼び出されていたようですな」

「……呼び出された」

「内容まで詳しくは……ただ、エルスレイネ様の出陣も、結果を鑑みるに彼女を始末するため、と考えるのが妥当でしょう。エルスレイネ様を遠ざけ、そのことが耳に入らぬようにしたかったのかも知れません」


目を伏せると、ゴルザリアスは嘆息した。


「……レイネに反乱鎮圧へ向かってもらう、という話をされた日は、丁度……フィーリのことで口論になってしまって」

「以前そう仰ってましたな。最終的な切っ掛けがそれとも断定は出来ませんが……やはり、彼女の命を奪ったのは女王陛下なのでしょう。もしやと考え、忍ばせていたものには可能な限り探らせてはいましたが……」

「……ありがとうございます。気持ちは嬉しいですが……でも、かあさまが密偵を放置するとは思えません。引き上げた方が良いと思います」

「……は」


――母は自分ではないと口にした。

レイネが冷静さを失っていたのは事実で、もしかしたら本当にそうだったのかも、という考えがちらついて、しかし、その後も調べてくれたらしいゴルザリアスの言葉を聞く限り、フィーリを殺したのはやはり母なのだろう。


「どうあれ、これからのことですな」

「……はい」

「重税に苦しんでいた分、孤児院は良い考えでしょう。民衆の支持を集めるには施しが必要です。女王陛下を悪とし、対立構造を強めるやり方には少し、レイネ様にも抵抗はあるかも知れませんが……」

「……いえ。必要なことなら仕方ありません」


暴君グラバレイネ――悪逆非道の大君主。

母を悪であると示し、レイネはそれに反抗する善として、広く民衆に伝え、大義名分を明確に、民衆の支持を得る。

ゴルザリアスの提案に多少の抵抗はあったが、国を作るには当然、多くの民衆の支持を得る必要があった。

善と悪という対立はその点、無学なものにも分かりやすかったし、善と悪であれば大抵善の側へと人は入りたがるもの。

彼の考えは合理的で、心情的な問題を除けば異論はなかった。


母は立派な女王であると、レイネは今も疑っていない。

悪であるとも思っていない。

レイネには優しい母で、賢く、少なくとも母の考える良い国を作ろうとしていた。

もしもこんなことが起きていなければ、フィーリを認めてくれていたなら、十年に二十年の先には皆で幸せに過ごせていたのかも知れない。


ただ、レイネにはレイネの考えと立場があって、母には母の考えと立場があった。

それだけの違いなのだと思う。


『……善悪とはとても怖い言葉ですわ、レイネ様』

『怖い……』

『どういう視点でそれが正しく見え、それが間違って見えるのか。誰かを悪だと決めつけることは考えることをやめ、相手を理解することをやめること……自分を善だと決めつけることは、自分の過ちを正す心を失うこと。……人は何かを決めつけることで、どこまでも愚かにもなりますの』


事の善悪を軽々しく口にするのはいけないことだ、とフィーリは言った。

言葉にすれば言葉に縛られ、いつかそれは思い込みに。

相手が悪である理由ばかりを探そうとし、自分が善である理由ばかりを探そうとする。


「……ただ、そのやり方はあまり良いものとは思えません。国が安定して来たら、なるべく皆には、毎日を幸せに過ごしてもらえるようになってもらいたいです」

「は。無論エルスレイネ様のお気持ちは理解しておりますし、私も同じ気持ちです。民衆の支持を集めていけば、いずれは徐々に、それも変えていけるでしょう」


レイネは頷く。

ゴルザリアスはいつも、レイネの気持ちを汲んでくれていた。

そういう信頼出来る人間が側にいてくれたことは、レイネにはとても心強い


「孤児院に関しては色々と考えておきましょう。これからリーバスレーベ殿やナートリアス殿とも少し意見を交わして、舵取りを任せられる信頼出来る人間を考えてみようと思います。何かご意見があれば先に窺いますが……」

「最低限の能力があれば特には……ルーカザーンの言うとおり、信頼出来る人を探して下さい。結構なお金を任せることになりますし……」

「ええ、期待に応えましょう。それでは」


ゴルザリアスは執務室を出て行き、レイネは執務机に。

机に重なるのは報告書――母が処理していた量より随分と少ない。

国の大きさというより、形の問題。

各地の領主はあくまで議員として名を連ねているだけで、土地は現状、彼らの所有物。

その財政状況などはアルベランにいた頃と違って不透明になっていた。


アルベランにいた頃に提出されていた土地の状況と、レイネの管理する周辺地域から予測を立て、今後の動き方については考えていかなければならない。

全部の情報が頭に入っていたレイネが資金を稼ぐことは容易であったが、これからはより難しくなっていくだろう。


自分で淹れた紅茶を口にし、目を伏せる。

茶葉や淹れ方、温度までフィーリと同じように調節して、けれど、記憶にあるような味ではなかった。


――彼女と飲んだあの紅茶は、もう二度と飲めないのだ。

口にする度、それをレイネは理解する。













レナリア郊外の一角にある古い屋敷。

最初の孤児院はまず、そこを利用して建てられた。

広さは十分で治安も悪くなく、劣化はあったが丈夫な造り。


完成記念の視察ということでレイネはそこに足を運んだ。

これからの事も兼ねて、顔合わせという意味合いもある。


華美と言うほどではない白いドレスに、頭からは白いヴェール。

王国ではなく議長、顔を隠す必要はないのではないかと思ったものだが、ゴルザリアス達の希望もあって顔を薄布で隠していた。

レイネの役割はどうであれ、エルスレンの象徴。

軽々しく衆目の前に姿を晒す訳にはいかないし、顔を広く知られると護衛上の問題も大きいと口にされれば聞くほかなかった。


「その……孤児院開設のお祝いにどうかと思ったのですが……どうでしょう?」

「いやはや、これは素晴らしい……このような美しい絵画を頂けるとは」


孤児院の談話室にはゴルザリアスもいて、レイネが持ってきた絵画を眺める総院長、ナルコー=リベニラスはその隣で感嘆の息を吐く。

痩せ身の長身、まだ若く、穏やかそうな顔をした黒髪の男。

リーバスレーベ分家の生まれで、芸術の類も好むらしい。

アルベラン時代の知識から名前程度は知っているが、特に何かをやっていたという情報はなかった。

貴族、として名簿に載るだけの人間は多くいる。


描かれた絵は、楽園の絵。

幸せに暮らす民衆をイメージして描いたものだった。


「……美しい絵です。エルスレイネ様の願いが伝わるようだ」

「……本当ですか?」

「ええ。エルスレイネ様が作りたいエルスレンとはこのような場所なのだと、一目見た時に分かりました。……本当に素晴らしい絵です。無論、技巧の上でも未だかつて見たことないほどのものですが……技術だけではこのような絵は描けないでしょう」


その言葉を聞いてレイネは嬉しそうに微笑む。


「大切に飾らせて頂きます。皆が見られるよう、ホールが良いですな」

「えへへ……はい。沢山の人に見てもらいたいです。レイネはその……口下手なので、あまり上手にお話は出来ないのですが……こういうものなら伝わるんじゃないかって」

「これだけ見事な絵……きっと伝わりますとも」


頷いたレイネは、それから今後のことを。

ここが一応の起点、本部となるが、院長は別に居て、これからは基本的にナルコーが新たに建てられる他の孤児院を含めて舵取りを行なう。

改めて軽く大枠を話し、細かな部分を詰めていくため考えを聞いてみると、彼が用意していた案はレイネが考えていたものと非常に近いものであった。


ちゃんとした人で最低限の能力があれば、足りない部分はレイネが補おう。

そう考えていたレイネではあったが、能力は十分。

彼の話を聞く限り、中々安心が出来た。


「……リベニラスは優秀なんですね。レイネから言うことはあまりなさそうです」

「いえ、そのようなことは……総院長の話を頂いてから、エルスレイネ様の期待に添えるようにと必死だったもので。まだまだ及ばない部分をお見せしてしまうかも知れません」

「大丈夫です。無理はしないで下さいね、もし何か問題が起きればいつでもレイネに相談して下さい。お話をして少し、安心が出来ました」


レイネの言葉にゴルザリアスが頷き、告げる。


「貴族には家の問題がありますからな。優れた人材が埋もれていることも多い。リーバスレーベ殿のように見る目のある方が上にいたことが幸いでしょう」

「リーバスレーベは色々とよく考えてくれますし……ルーカザーンが骨を折ってくれたおかげですね」

「まさか、エルスレイネ様のお力ですよ。……話もひとまずこの辺りでしょうか」

「ん……そうですね」

「私も少し、リベニラス殿と話があります。……いかがでしょう、エルスレイネ様。少し孤児院の様子を見てきては?」


それも良いですね、とレイネは頷き、立ち上がる。


「もしかしたら見てみないと分からないこともあるでしょうし……子供達の様子も見てみたいですし」

「そういうことならば是非。子供達も喜びます。院長が案内してくれるでしょう」

「はい。ルーカザーン、終わったら声を掛けて下さい」

「ええ」


レイネはそうして部屋を出て行き、それを見送ったナルコーはゴルザリアスに深く頭を下げた。


「どうだ、リベニラス。言ったとおりのお方だろう?」

「ええ、ルーカザーン様。随分と純粋な方のようだ……しかし、これはどうにも驚きますな」


ナルコーの視線は机に置かれた絵画に。

精緻かつ微細、明暗はっきりと鮮やかに描かれた絵画――未だかつて見たことがないような神品であった。

人の手で描かれたとは思えない、別の世界を切り取ったような一枚。

多くの芸術を見てきたナルコーからしても、比類するものなき絵画であった。


「技量もさることながら、顔料も未だ見たことがないものが使われている。話に聞いてはおりましたが、実物を見ると何とも……驚愕の一言ですな」

「そのおかげか、お前の反応も実に良かった。中々に期待が出来る」

「……は」


ゴルザリアスはレイネの出て行った扉を眺めた。


「エルスレイネ様は随分と絵画にご執心で、聞いている通りお前の役目はその遊び相手……子供のような方だ。少なくともこの孤児院はいつも、エルスレイネ様がお喜びになるよう清潔に保て」

「ええ、理解しております」

「あの女王の娘ではあるが、随分と善良に育ったらしい。ただ、中身は同じく……もしもの時の手綱として、この孤児院はエルスレイネ様の願う楽園であってもらわなければならん。……お前はまず、この場所をエルスレイネ様に気に入ってもらえるよう最善を尽くせ」

「畏まりました。しかし……楽園ですか」


ナルコーは言って、苦笑する。

笑うな、と言いながらもゴルザリアスも笑みを浮かべた。


「子供のような理想郷を、心の底からエルスレイネ様は信じておられるらしい」


口にしながら目を細め、机に置かれた絵画を眺める。

不幸なものなど何一つ存在しない、美しき理想郷。

幸福に満ちた楽園。


「王宮から出ずに育った故か、この世が花畑にでも見えておられるのだろう。機会が巡ってきたことを喜んだが……あそこまで無垢に信じられると胸が痛むというもの」

「はは、心にもないことを仰る」

「本心だとも。……私はエルスレイネ様に心からの忠誠を捧げているのだ」


ご冗談を、とナルコーは苦笑を深めた。

そして、顎に手を当て考え込みながら告げる。


「しかし、大丈夫なのですか? 未だグラバレイネに情を残しておられるとか……」

「純粋すぎるのも困りものだな。とはいえ、憎悪に囚われて暴れ回るよりはいい。……国としての対立を煽って小競り合いを繰り返す状況を作れば、大きな問題にはなるまい」


ゴルザリアスの言葉に、上手く行くことを願いましょう、とナルコーは頷いた。


「少々強引な賭けには勝った後だ。後はなるようになる。唯一溺愛する愛娘が作ろうとする『楽園』を、本気で攻め滅ぼそうとはグラバレイネも考えまい。どうやって始末するかは難しいところだが……しかしまぁ、現状は土台を固めるところ、妙な気は起こさずにやれ。エルスレイネ様の要望は今日と同じくなるべく事前に伝えてやる」

「は。不自然にならぬよう気を遣いましたが……少し拍子抜けでしたな」

「恐ろしいほどの才覚を持っておられるが……愚かで人を疑うことを知らんのだ」


いやはや、とゴルザリアスは笑う。

絵画の縁を愛でるように撫でながら。


「フィーリとやらには感謝せねばならんな」

「……それがエルスレイネ様の?」

「そう、よほど愛しておられたのだろう。口を開く度にその名が出てくる。お前もこの先は聞くことになるだろうから感謝しておくといい。……彼女のおかげで、今があるのだから」










――夜のアルベナリア王城。

使用人達の部屋が並ぶ廊下――常魔灯を点検していた使用人は、そこに並ぶ部屋の一つを眺めて口を開く。


「ねぇ、あのお部屋……あのままで良いのかしら?」


毎日のように掃除はされているが、帰って来る人間のいない部屋。

しばらくは放置されていたが、しばらくして昼に掃除がされるようになっていた。

部屋の主は、皆から敬愛されていた、事実上の筆頭使用人。

何となく、昼番の他の同僚には聞きづらく――夜の静かな雰囲気もあるのだろう。

彼女が尋ねたのはそれが初めてであった。


「……あなた、知らないの?」

「……?」

「ああ……まぁ、聞きづらいか。普段は昼番だし」


思い出したように同僚は言い、口を開き掛け。

人影を目にしてすぐさま、姿勢正しく頭を下げた。

それに倣うように二人揃って頭を下げ――視界に映るのは美しいネグリジェの裾。

その女性は何も声を掛けることなく、今話していた部屋の中へと消えていき、二人は顔を見合わせ、足音を立てないようにその場から離れる。


それから声を潜めて言った。


「……、夜に時折いらっしゃるの。エルスレイネ様も良く過ごされていた部屋だし、絵画もどうするかって、決めあぐねてたんだけれど……とりあえず、掃除はした方が良い、ということになって」

「どうして……女王陛下が」

「……わたしに聞かないで」


エルスレイネは王宮を出て、東にエルスレンという名の国を興した。

ここの使用人達は皆、その名前の意味を知っている。

ここを出る前の彼女は嬉しそうに、エルスレンという名の絵を使用人達に見せていた。

この絵が完成したら母に贈りたいのだ、と子供のように笑顔を浮かべて。


「……本当に、女王陛下なのでしょうか?」


同僚は少し迷ったような素振りを見せて、口を開く。


「……お亡くなりになる前の少しの間、フィーリ様は女王陛下のお部屋に招かれていらっしゃったの」

「招かれて……」

「……内容が内容だから、夜番だけの暗黙の了解になっていたんだけれど」


遠くに見える、彼女の部屋を眺めて告げる。


「エルスレイネ様のお部屋は上の階。……その噂が本当なら、わざわざここまでいらっしゃるかしら」

「じゃあ……」

「口外はしないでちょうだい。あなたを信用して話したんだから。……それに、わたし達に出来ることはないんだもの」


仕事の続きよ、と同僚は声を掛け、目を伏せた使用人は頷く。

笑顔で見せられた王女の小さな楽園が、遠い記憶のように輝いた。


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