レイネ 七
馬を乗り継いで王城に。
まともに食事も取らず、睡眠も取らず、一目散にフィーリの部屋に。
フィーリの部屋には誰もおらず、そして棚や絵画に埃が少し積もっていた。
物こそ多いが、フィーリは綺麗好きであった。
その光景は少なくとも、彼女の不在を示している。
「……エルスレイネ様」
「……、フィーリは?」
開け放たれたままの扉から、顔を覗かせるのは側付きのリビニア。
彼女は静かに栗色の髪を揺らして首を振る。
その顔は暗かった。
「二週間ほど前、花壇の手入れをなされている最中……胸をナイフで」
「犯人は?」
「王領屋敷の使用人、ナセルです。ただ、自害を……生家のリセルニア家はお家取り潰しとなり、厳しい調べがなされたようですが、理由は……」
顔は知っている。
会話をしたことはなかった。
「……どうして、フィーリが?」
「わかりません。……フィーリ様が何故、殺されねばならなかったのか、わたしには……」
顔を覆って泣き顔を隠し、膝を突く。
分からなかった。
フィーリは使用人で、政治にも無関係。
誰かに恨まれるようなことをする人間ではなかったし、出来る人間でもない。
偶発的なものであればまだしも、ゴルザリアスから聞いた内容、そして彼女の口ぶりからすれば、明らかに彼女を狙ってのものだった。
レイネは涙を流す彼女の隣を抜けて、階段を上がる。
使用人達は怯えるように、憐れむように、あるいは悲しむようにレイネを見た。
執務室をノックすると、入って、と声がする。
母は執務机で仕事をしながら、入ってきたレイネを見つめる。
「……随分早かったのね」
「かあさまが、殺したんですか?」
母は疲れたように、困ったように嘆息して、それから微笑む。
そして立ち上がると近づいてきた。
「そんなことをして、わたしに何か得があると思う? あなたに嫌われたくはないわ」
「かあさまは、フィーリを嫌ってました」
「それは、確かに事実ね」
母が伸ばそうとした手から距離を取る。
それから、母を睨んだ。
母は困ったような顔で、手をさまよわせた。
「レイネ、かあさまの言うとおりにしました。ロウグランにいさま達を全員始末して、反乱も終わらせて、これまでだって、良い子にして来ました。なのに、なんで、フィーリを殺したんですか?」
「どうして、わたしだって思うの?」
「……かあさま以外の誰が、どういう理由でフィーリを殺すのですか?」
母はまた、ため息を吐く。
落ち着いてちょうだい、と母は言った。
「誰かに馬鹿なことを吹き込まれたのね。……今の状況がその理由。わたしとあなたをこうやって、仲違いさせるのが目的になるんじゃないかしら? 確かにどうにかして、あの子をあなたから遠ざけようとしたわ。殺すことも考えたけれど、それならずっと前に殺してるし、こんな杜撰なやり方はしない」
「……先日、セイルにいさまがフィーリと話をしたと言ってました。かあさまは、それも不愉快だったのではないですか?」
「……わたしを疑うばかりね」
「じゃあ、誰がそんなことをするんですか?」
堂々巡りだわ、と嘆息した。
「仮にわたしが殺したとして、それでどうする気? あの子の仇だからとわたしを殺してみるのかしら?」
「それは……」
「……少し休みなさい、レイネ。疲れていてちゃんと頭が回っていないでしょう? 酷い顔をしてるわ。それから改めて、ゆっくり話をしましょう」
いつもの優しい声。
いつも母は、レイネに優しい。
レイネを愛してくれているという言葉を疑ったことはなかったし、こうなってさえ、それを疑ってはいなかった。
――けれど、他の人間にはそうではない。
母はレイネ以外の全てを嫌っていた。
これも母にとっては愛情なのかも知れない。
レイネを悲しませたかった訳ではないのかも――けれど。
「……、レイネ、かあさまのことがよく分かりません」
一瞬、母の顔が強ばった。
「レイネが生まれる前は、ずっと大変だったって聞いてます。だから、誰も信じられなくなったって……」
王の病なのだ、とゴルザリアスは言った。
母に諫言して処刑された臣下達も同じようなことを言っていて、多分、フィーリもそれをどうにかしたいと思ってくれていたのだ。
母を変わって欲しいと口にするレイネを見ると、フィーリはいつも嬉しそうで。
「でも、世の中にはフィーリみたいな良い人もちゃんといて、レイネはただ、そんな人達と一緒に、かあさまがいつか言った小さな楽園を作りたいって、それだけで……いつか、かあさまと、フィーリと……みんな仲良く、暮らしたいって」
それだけだった。
母もフィーリも大好きで、だから、仲良く暮らしたかっただけ。
母がフィーリの良いところに気付いてくれればいいと思って、それを伝えたかっただけなのだ。
視界が歪んで、嗚咽が零れた。
胸が苦しくて息が上手く出来ない。
どうして伝わらなかったのだろう。
母に伝えたかったのは、ただそれだけであるのに。
「レイネが、そんな風に考えてるのが、嫌だったのでしょうか? そんなレイネがお馬鹿だから、かあさまと同じように考えられないから、だから……」
「レイネ、違うの、わたしは――」
「いいです。……もう、かあさまと話したくありません」
「っ……」
レイネ、と呼びかける声を無視して、執務室を出る。
そのまま走って、馬に乗り、王領から飛び出し王都の外へ。
どうして、と繰り返す。
『――訳が、わかりません。どうして、フィーリが?』
『……、残念ながら、女王陛下の他ないでしょうな。王領で殺人……しかも、女王陛下を狙うならばまだしも、わざわざ使用人を狙って殺すなどと、そのように無意味で馬鹿げたことをする者はいるとは考えにくい』
ぐるぐると、問答が頭の中で繰り返される。
『殿下からのお話を聞く限り、女王陛下はフィーリという使用人を疎ましく思っていたのでしょう。お二人が口論なさるのはいつも、その使用人のこと……女王陛下は殿下が愛するフィーリに危機感を覚えておられたのではないでしょうか』
『危機感……』
『殿下がご自身から離れて行ってしまうのではないか、と。女王陛下に取って殿下は掛け替えのない唯一の存在ですから、それを奪われることを恐れるのは必然です』
『フィーリはそんなこと……レイネも――』
『ええ、ですが……女王陛下は病んでおられます。殿下以外の誰も信じられないほどに深く。殿下のことすら、心の底では疑っておられるのかも知れません』
王都に行く前、レイネのための馬を用意しながら、ゴルザリアスは沈痛な面持ちで、答えづらそうに。
嘆かわしいことだ、と嘆息しながらも、呆然とするレイネに様々な事を語り聞かせる。
信じられない、というには確からしく、あり得ないと切って捨てることも出来ない。
彼の言うように、母はフィーリを嫌っていたし、フィーリから影響を受けるレイネを見る度、ため息を吐いた。
先日も口論したばかりで――フィーリを側付きから外したように、レイネは母が彼女に罰を与えることが怖かったし、そうならないようにと気をつけて来たつもり。
けれど心の中にはいつもそういう不安は存在していて、だから、彼の言葉を否定は出来ない。
『……誤報ではないのですか? その、フィーリじゃ、フィーリじゃなくて、他の人、だとか……』
『……私も聞いた話、自ら確かめ口にしている訳ではありませんが……こちらは私にお任せ下さい。ご自分で確かめられるのが、恐らく一番でしょう』
そして膝を突いて、ゴルザリアスは続ける。
『……私はあなたの臣下、ここでお待ちします。――エルスレイネ様』
頭がくらくらとして、体が重い。
戻ってどうするのだろうと思い、けれどただ、王都から離れたかった。
馬を走らせて、乗り換えて、ただ東に。
馬上で睡眠を取り、食事をして、そうして何日か。
「レイネ……」
「……セイルにいさま」
数名を連れて、馬に乗って現れたのはセイルであった。
険しい顔で眉間に皺を寄せ、セイルはレイネを睨む。
「……どこへ行くつもりだ?」
「セイルにいさまには関係ありません」
「無関係ではない。……母上を裏切るつもりなのか?」
レイネが答えず、脇を抜けようとすると、護衛の騎兵もまた、険しい顔で前に立ち塞がる。
「……、どいてください」
「落ち着け。お前は混乱しているだけだ。ゴルザリアスに何かを言われたのか? あの男は信用するな。私の命令も聞かず、軍を私物化し、お前を何かの企みに利用しようとしている」
セイルは、落ち着くんだ、と繰り返す。
「お前が動けば、王国は二つに割れる。泥沼の戦争になるぞ。……それは少なくとも、フィーリが望んだものでは――」
「……セイルにいさまは、フィーリに何を話したのでしょうか?」
「……?」
「ベヌーレはセイルにいさまのためにって……フィーリにも、セイルにいさまが下らないことを吹き込んだんじゃないですか? だから、こんなことになったんじゃないんですか?」
セイルは固まり、レイネは馬上から跳躍するとセイルの馬上に。
「っ、ぐ……!?」
襟首を掴まれ背中から地面に叩き付けられると、その首筋に抜き身の切っ先が。
眼前で見つめるレイネの紫の瞳は冷え切って、憎悪に満ちていた。
「……、二度と、レイネの前に姿を見せないで下さい。これ以上邪魔をするなら今すぐ全員、この場で殺しますから」
「っ、レイネ……」
言い切るとレイネは馬上に。
幼く見える少女の瞳は凍り付くほどに冷たく、道を塞いでいた歴戦の騎兵でさえ、小僧のように背筋を震わせ、思わず道を空ける。
レイネはそのまま再び走り出し、セイルはただ、拳を大地に叩き付けた。
圧政を敷き、多くの心ある者達を処刑し、ただ恐怖によって世界を掌握せんとする暴君グラバレイネ。
そんな母の側で唯一、狂った心を正そうとしていたエルスレイネは、民衆の為に立ち上がった兄達と望まぬ戦いを強いられ嘆き、そして挙げ句に愛する使用人さえを殺される仕打ちを受ける。
もはや女王グラバレイネに心はない。
そうして王女エルスレイネは立ち上がり、女王グラバレイネに反旗を翻した。
そのような話は瞬く間に広がり、王子達の大敗に打ちのめされていた者達の耳に届くと各地から東部へ多くの民衆が押し寄せる。
常勝不敗のグラバレイネに対抗しうる唯一の存在は、彼女の他にない。
武勇猛々しい王子達との戦でその才覚を見せつけており、そして彼女は反乱という大逆に参加した兵士達に対して寛大な処置を下していた。
即時処刑もあり得る彼らに対し、扇動された民の罪は重くないとその多くを解放し、速やかなる本陣急襲、四度の決闘によって自ら兄を討ち取った理由もそこにあったのだと語られた。
元より反乱鎮圧後に考えられていた税の引き下げによる国内安定――寛大で人道的な処置はこれまでの鞭に対する飴であったが、エルスレイネに付き従った者達はそれを王女の温情と慈愛の心によるものであると語り、善と悪という図式を広める。
僅か一ヶ月足らずの間に、王子達の反乱に参加しなかった者達さえもが立ち上がり始めていた。
「エルスレイネ様、いかがでしょう。少し、外の空気を吸っては?」
「ルーカザーン、一人にして欲しいです」
「……そういう訳には。民衆も集まって来ています。東部の者達からも恭順を示す者達が随分と出てきました。そろそろ、エルスレイネ様にも前を向いて頂きませんと」
アルベラン反乱軍、本拠地レナリア。
東部では最も大きな都であり、かつてグラバレイネに滅ぼされた王国の王都。
その城の中、部屋のベッドで眠り続けるエルスレイネの所に、ゴルザリアスは毎日のように足を運んでいた。
「前を向いて、どうするのでしょう? ……レイネ、何もしたくないです」
「エルスレイネ様がそのようでは、フィーリも悲しみますな」
「……フィーリは、もういません」
「確かに、生きてはいないのかも知れませんな」
エルスレイネは、眉を顰めて身を起こす。
ゴルザリアスは窓の外を眺めながら告げる。
「しかし……彼女の言葉はエルスレイネ様、あなたの胸で生きているはずです。彼女が生きて過ごした日々は無意味なものだったのでしょうか? 彼女が生まれてきて、あなたに教えてきたであろう多くのことに、何の意味もなかったと仰るのでしょうか?」
「それは……」
「フィーリの死を悲しむあなたのお気持ちは分かります。彼女も道の半ばで死を遂げ……さぞ無念だったでしょう。ですが、あなたがそうして時間を無為に過ごすことは、そんな彼女の生を否定することに等しい」
レイネは目を見開き、ゴルザリアスは目を閉じる。
「我々軍人が何故、命を賭けて戦うと思われますか?」
「……え、と」
「多くはあなたのように強くはありません。私がこうして生きていることさえ運……博打としても釣り合わない、エルスレイネ様からは愚かに映るでしょう」
少し考え込み、頷く。
「皆、あなたからすればとてもか弱い存在です。なのに、戦うことを選ぶ。……商人や職人、畑を耕すのもいいでしょう、生きる道はいくらでもあるのに、命を賭けて戦う理由はどこにあるのか」
ゴルザリアスは向き直り、真っ直ぐと目を見つめる。
「……それは願いです、エルスレイネ様」
「願い……」
「それで己が死してなお、それで守るべきものが平和に暮らせれば良い。そういう願い……だからこそ、時に己が捨て石になり、死ぬことさえ許容出来るのです。生き残ったものが、きっと自分の願いを叶えてくれると信じて」
それから、優しく微笑んだ。
「己の命よりも大切な願い……フィーリにもきっと、それがあったことでしょう。死の間際もきっと、そのことを考えたはず……それを叶えることなく、あなたはこうしてただ、フィーリの死を一生嘆き悲しんで暮らすのでしょうか?」
「レイネ、は……」
「少なくとも私からすれば、そのことの方がずっと悲しいことです。フィーリがエルスレイネ様に紡いだ多くの言葉は何の意味もなく、消えてしまうのですから」
それは、確かに悲しいことだった。
フィーリはきっと、レイネがこうしていることは喜ばない。
「……どうでしょう、エルスレイネ様。我々と、彼女の願いを叶えませんか?」
「ルーカザーン達と……?」
「平和で戦もない世界……小さな楽園、と仰いましたかな」
「小さな、楽園……」
浮かぶのは、いつかフィーリが描いたもの。
誰もが笑顔で楽しげに、使われなくなった剣と鎧が転がる場所。
「無論、それは難しい道でしょう。多くの者の心を一つに束ね、そうした世界を作るのは……しかし、決して叶わない願いではないはずです。少なくとも願い続ければ、少しずつでも近づくことは出来ると私は思います」
「…………」
「……名目上、今の我々は女王陛下に対する反乱軍。しかしエルスレイネ様は今も、女王陛下を憎みきれないでいるのではありませんか?」
頷いた。
兵士は十分なほど集まり、逆に王国側は不安定。
この機を逃さずこの軍勢を率い、王都を攻め滅ぼすべきだと語る者達は多く来ていたが、レイネは首を振っていた。
どうしてフィーリを殺したのか、とレイネは思い、けれど、母を殺したい、とは思えない。
母がレイネのことを愛しているのは知っていたし、レイネも母のことは大好きで、尊敬もしている。
ただ、悲しい。
レイネにあるのはそれだけだった。
取り返しがつかないことを、母がしてしまったことが、ただただ悲しいのだ。
「王都から戻られた時点で、私はそうなのだろう、と感じておりました。もしその気であれば、その時にそうしておられるでしょう。……エルスレイネ様はお優しい方、今もなお女王陛下を愛しておられるのですな」
頷くと、大丈夫です、とゴルザリアスは微笑む。
「感情で動く愚かな者達の言葉を聞く必要はありません。いずれ、落ち着くでしょう。そしてそのためにも、我々にはアルベラン反乱軍としてではない新たな名前が必要です」
「名前……」
「ええ、エルスレイネ様が作る新たな場所、新たな国として」
「……国、を……作るのですか?」
「はい。それがきっと、一番でしょう」
ゴルザリアスは再び窓の外へと目を向ける。
日差しの中、鳥の声が囀っていた。
「……武力を手にするため、女王陛下を悪、暴君であると喧伝し、多くの民衆や貴族を集めましたが……私も女王陛下がそのような方だとは思っておりません。あの方は多く悪意に晒され、誰もが信じられなくなっただけ……憐れな方です」
「……それは」
「私は女王陛下を玉座から引きずり下ろしたい訳でも、反乱を起こしたい訳ではありません。ただ……我らや、エルスレイネ様のお気持ちに、女王陛下に気付いて頂きたい……それだけなのです」
言葉だけでは足りますまい、とゴルザリアスは語る。
目映い光に目を細めて。
「……しかし、言葉は届かなくとも、エルスレイネ様の願うような国が出来上がれば……誰もが幸せに、平和に暮らせる場所を見せることが出来れば、女王陛下のそうした心を晴らすことが出来るのではないかと、そう思うのです。……エルスレイネ様の描かれた絵画のように、伝わるものがあると思うのです」
そんな姿をレイネは眺め、目を伏せる。
少しの間そうして、尋ねる。
「……本当に、そうでしょうか?」
「ええ。少なくとも私はそう信じ、微力ながら協力させて頂きます。……エルスレイネ様が私を必要として下さるのであれば、この名に誓い、身命を賭して」
レイネは立ち上がり、ベッドの上からカーペットの上に。
ゴルザリアスは片膝を突き、頭を垂れる。
「……エルスレン、がいいです」
「エルスレン……」
「さっきの、その……名前」
変でしょうか、とレイネが尋ねると、ゴルザリアスは苦笑する。
「小さな楽園……国の名前としては、少しちぐはぐなように思えますな」
「あの、駄目なら……」
「しかし……願いの込められた良い名です」
ゴルザリアスは剣を腰帯から外し、捧げるようにレイネに掲げる。
「……そのエルスレン、第一の臣下として、このゴルザリアス=ルーカザーンを加えて下さいますでしょうか?」
レイネは少し面食らったように、けれどすぐに微笑んだ。
それを受け取ると、はい、と告げて、頭を垂れる彼の両手へ剣を返す。
エルスレン――そう語った、フィーリの笑顔を思い浮かべて。
――忠臣の顔は、やはり見えなかった。
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