レイネ 六
戦場に作られた兵士達の輪の中、戦うのは二人の男。
「どうした兄者! 下がるだけでは俺の首は取れんぞ!!」
「っ……!」
鈍色の大盾を左手に、右手には身の厚い大鉈の如き刃。
筋骨隆々の体躯を金属で纏い、振るわれる剣を弾き、岩を断ち割る一閃を放つ。
――その姿は鋼の巨像。
第二王子ロウグランは王子達の中で、最も戦士としての力量に優れた。
踏み込みは大地を歪ませ、大盾の一撃は鎧の上から人体を圧壊する。
その大剣はもはや剣とも思えぬ速度と威力――魔獣、狼藍を両断したという逸話の通り、いかなる鎧で身を包もうと真っ向から防ぐことなど叶わない。
長剣で、あるいは手甲、鎧の肌を使って大剣の軌道を逸らし、滑らせる。
大盾の一撃を蹴って跳び、距離を稼ぎ、仕切り直す。
セイルの身につける優美な鎧は歪み、無数の傷跡。
押されているのはセイルであった。
ロウグランの鎧は魔力保有者が身につけるそれとしても分厚い。
セイルにそれを真っ向から貫く技量がない訳ではなかったが、そのような『溜め』を作る余裕などロウグランは与えない。
大盾を構えたロウグランはまさに鋼の岩。
セイルがロウグランの一撃をいなすように、ロウグランも鎧の利点、扱い方を熟知していた。
技量においてセイルはロウグランを僅かに上回るが、ほぼ互角。
そうなれば、持って生まれた体格と筋量が明確な差として生じる。
セイルは比較的長身と言えたが、ロウグランは六尺半を超え、そしてセイルと比べ頑強な骨格、丸太のような手足。
巨大な剣と盾を操り、分厚い鎧を身につけることを前提として鍛え上げられた肉体は、単純に生物としてセイルに勝っていた。
試合であれば技量の差でセイルが勝る。
しかし殺し合いとなればそうではない。
両者が有する質量の差が明確に、両者の間に優劣を刻み込んでいく。
「ぐっ!?」
避け損なった大盾に弾き飛ばされ、大地を転がり、セイルは膝を突く。
対するロウグランは大鉈を肩に、告げる。
「……俺の勝ちだな兄者。手合わせを含めて負け越しだったが……」
「随分前からお前の勝ちだよ、ロウグラン。子供の頃の貯金が多いだけだ」
右腕が恐らく折れたか、ヒビが入ったか。
内臓にも衝撃、立ち上がることは出来ても、もはや戦えまい。
セイルの負け――戦士としても、将軍としても。
両軍の戦いも拮抗していた。
少なくともセイルは勝つことを前提に戦術を練り、少なくともこれが盤上の戦いであれば間違いなくセイルの勝利であっただろう。
しかし、戦場はそうではない。
兵士達の士気――それが明確な差となった。
圧政に苦しむ民衆。
それを救うために立ち上がったロウグランには大義名分が存在し、兵士達は死に物狂いで戦った。
対する王国軍は――セイルでさえ、何のために戦っているのかが分からない。
セイルにはそれでもまだ、母のためという理由があった。
しかしこちらの兵士達にあるのは、金への欲望か、母への恐怖だけだろう。
誰の目からも、どちらに大義があるかは明確であった。
押し込めるはずの一歩を押し込めず、押し込まれぬはずの一歩を押し込まれ、こうしてロウグランは本陣に踏み込み、立っている。
これが物語であればロウグランは兄を討ち取り、そして新たな王となるのだろう。
きっと、良き王として君臨したに違いない。
ただ、これは英雄物語ではなく、残酷な現実であった。
こちらの背後――味方の列が割れて、現れたのは馬の尾のように高く結われた金の髪。
腰に長剣、手には白兵槍――兜を身につけず、王国紋の銀甲冑。
小柄な体に似合わない、鎧姿の少女が兵士達を伴って現れる。
今日の戦いが始まって少しして、後方から彼女の軍が現れたことに、セイルもロウグランも気付いていた。
この戦いに意味はない。
セイルとロウグランの戦いはほぼ拮抗していたし、そこに一軍――それも、エルスレイネが率いる軍が新たに現れたのだ。
もはやロウグランに勝機はなかった。
この状況、軍を退く他なく、けれどロウグランは踏み込み、そしてセイルも時間を稼ぐでもなく、応じるように真っ向から戦いを。
願わくば、誰よりも気高き弟の死は己の手で。
しかし、その願いは叶わず時間切れ。
「お久しぶりです、ロウグランにいさま」
「……ああ、久しぶりだな、エルスレイネ」
「状況から言って、ロウグランにいさまに勝ち目はありません。戦うだけ無意味――無駄な死人が出るだけです。降伏してはいかがでしょう?」
エルスレイネは気負いもなく、平然と告げる。
「……三人とも死んだのか?」
「はい、後はロウグランにいさまだけですね」
「……そうか」
ロウグランは目を細め、男らしい顔に微笑を。
「ロウグランにいさまは反乱の首魁――本来は四肢裂き、妻や子供も絞首刑ですが、家族はレイネがかあさまに助命をお願いしてみますし、ロウグランにいさまも絞首刑で済むように言ってみます。どうでしょう?」
「……ありがたい話だ」
「まぁ、ロウグランにいさまが死ぬのは変わりませんし……決闘という形で死んでもらっても良いのですが。レイネとしては正直、兵士に無駄な死人が出なければどちらでも良いです」
ロウグランは苦笑し、背中を向けて距離を取る。
そしてエルスレイネに向き直り、構えた。
「……意外だな、お前がそんなことを気遣ってくれるとは。だが……母上は甘くない。ラスリアも息子も理解している、俺が負けたと聞けば自ら命を絶つだろう。俺がこの場に立つことを決めた時点で、全てを覚悟している」
「……そうですか」
「決闘に応じよう。――第二王子、ロウグラン=アージェ=ヴェル=ニルクリネア=アルベランが告げる! この場にある全ての兵士は振るう刃を止めよ!! この名、王家の血に誓って、正々堂々たる決闘を第四王女、エルスレイネ=アルベランと執り行うッ!!」
天に吠えるような大音声。
大気が呼応するように震え、未だ鳴り響いていた戦場音楽が、その声に弱まっていく。
「神聖なる王家の決闘、そこに流れる王家の血を以て、この戦場、最後の流血とし、何人たりともこれを穢すことなく、生き残ったただ一方に臣従せよ!! これを穢す者は武勇の神、コレイスの神罰が下ると知れ!!」
高らかに宣誓を歌い上げると、再度ロウグランはエルスレイネに。
「兄者との決着もそうだが……お前とも一度、戦ってみたいとは思っていた。母上が唯一愛した妹、エルスレイネよ」
「……レイネはあまり、楽しくはないのですが……なるべく痛くないようにしますね」
「大層な自信だ。しかし、侮るな――ッ!!」
猛牛の踏み込みよりも速く。
重厚な甲冑を着込んでいるとは思えぬ疾走。
大盾を前面に、それはまるで鋼の塊が放たれたかのようだった。
ロールカ式と呼ばれる剣術は、本来守勢の剣である。
相手の踏み込みを左でいなし、後の先を取って斬り伏せる。
しかしその肉体を戦士としてこれ以上ないほど鍛え上げ、重厚な鎧で包んだロウグランはもはや、正面から踏み込んでなお、魔獣のそれにさえ引けを取らない。
どのような反撃をも大盾ではじき返し、後ろに退けば大盾で圧殺され、躱せばその豪腕から大剣が繰り出される。
僅かな隙間を狙う余地などない。
大盾で視界が封じられ、そしてロウグランは巧みに鎧の鋼を用いて相手の刃を封殺する。
ロウグランは鋼の巨獣。
もはや人の域になく、技巧の一つでどうにか出来る戦士ではなかった。
見ている誰もが、小柄なエルスレイネが彼に勝利する未来など見えはしなかっただろう。
少なくともエルスレイネが勝つには機動戦、小柄な体躯を活かし、粘り強く隙のないロウグランから背後を取るほかない。
だが、エルスレイネは真正面から、その場で槍を構える。
エルスレイネの実力を知るセイルでさえ、彼女の侮りであると感じていた。
ロウグランに対し力業など、正気ではない、と。
だが――エルスレイネは緩やかな前傾。
それに、思考の一瞬を抜けるような鋼の多重音が重なった。
気付いた時には鋼の巨獣をすり抜けて、エルスレイネは無手でロウグランの背後に立っている。
「っ、ぁ……」
膝を突いた巨体――鋼の大盾をまるで布か何かのように白兵槍が突き抜け、鎧の胴を貫き、そしてそのまま、ロウグランの背中まで槍の穂先が貫通していた。
特別な槍ではない。
頑丈とは言え、兵士が使うものと変わらぬ数打ち、八尺の白兵槍。
それが、セイルの刃を弾き続けた鋼の大盾、そして鎧を呆気なく串刺しにしている。
誰もが言葉を失っていた。
ロウグランは呆然と自らの胸に突き刺さった槍を見つめ――それから一瞬、セイルを視線を向ける。
口元に僅かな笑みを浮かべ、槍に貫かれたまま倒れ伏す。
エルスレイネの副官がその勝利を声高に叫ぶ中、セイルはただ弟の姿を眺め、静かに佇むエルスレイネの姿を眺めた。
彼女は勝利の喜悦も、兄を殺した悲哀も滲ませない無表情。
母に似た、冷ややかな眼差しを周囲に向けていた。
お前は現状をどう思っているのか、と尋ねれば、彼女は曖昧に答えを濁した。
エルスレイネが兄弟を殺すことになると告げれば、そうですわね、と悲しげに。
ベヌーレからは誰よりも信頼されていた。
頭が切れ、セイルよりも母に近い。
母のことはきっと、セイルよりも深く知るだろう。
けれど彼女に、何かを成そうという意思は見えない。
姿勢正しく椅子に腰かけ、几帳面な姿と裏腹に、水のような女であった。
強く押せばどこまでも引き、掬い上げれば手の中に。
セイルに答える言葉は皆不確かで、曖昧であった。
『……お前は現状を変えたいとは思わないのか?』
『失礼ながら……先ほどから殿下は不思議なことを仰いますわ。フィーリは使用人……主の幸福以外に望むものはありません』
『母上が、狂っているとしても?』
尋ねれば、また曖昧に彼女は微笑む。
困った子供を眺めるような、そういう目だった。
『どうして女王陛下が狂っていらっしゃると?』
『……そうでなければ、あえて息子に反乱を起こさせ、始末しようなどと考えまい。人の情があるなどと……私には思えない』
『そうでしょうか? 女王陛下はとても、純粋なお方なだけ……むしろ狂っているのはわたくし達の方であるのかも』
フィーリは目を細めて、ティーカップの縁をなぞる。
『あれだけお会いにならなかった殿下を部屋に招かれたのは、恐らくベヌーレ様の願いを聞き届けられたからでございましょう? 女王陛下がまことに情のないお方であるならば、そのようなことをなさいませんわ』
『それは……』
『情のないお方がエルスレイネ様をあれほど溺愛なさるでしょうか? 心を閉じていることを狂っていると表現なさるならば、わたくしも、殿下も、他の方もそう。理屈で心を閉じていることに変わりありません』
度合いの違いだけですわ、と彼女は続ける。
『きっと、エルスレイネ様のようなお方だったのでしょう。理屈や論理で身を守ることなく無防備に、見るもの全てに心を開かれるような。……けれどこの世界は、そのように純粋なお方がお過ごしになるには辛い場所。人が心を閉じてしまうのは、傷つく痛みを知っているから……それを狂っていると称するのは、少し乱暴な物言いでございましょう』
『……だが、だからと言って――』
『殿下とわたくしとでは立場が違います。女王陛下からの愛を向けられぬ苦しみを分かるなどとは申しあげることは出来ません。……現状に対する歯がゆさも、感じる理不尽さも、それは殿下のもの。見ている世界の広さも、居る場所も、何もかもが違いますもの。それに……』
わたくしは使用人でございますから、とセイルに告げる。
透き通るような青い瞳で。
『もちろん、いつか女王陛下が閉じてしまわれたお心が、再び開かれる日を望んでおりますわ。エルスレイネ様のようなお方が傷つくことなく、この先を過ごされることも。……ただ、願うのは、身の回りにある、そうした幸福だけ。そのためにお二人を見守り、信じることだけがわたくしの役割……』
セイルは口にしようとした言葉を留め、目を伏せる。
口を付けてもいない紅茶が、己の顔を映していた。
『……女王陛下がどれほど非道と蔑まれようと、わたくしは十年、二十年……あるいはそれよりもずっと先に、あのお方が望む世界が見えることを信じて願うだけ。そんな日が来るならば、そのためならば……わたくしは女王陛下のなさるどのようなことも受け入れますわ。少なくとも、わたくしは……その世界がどんなものより美しい場所であると信じておりますから』
彼女の微笑を眺める。
赤に煌めく、金の髪――そこから覗く瞳は宝石のようだった。
『……何故、そう言い切れる?』
『わたくしは女王陛下がエルスレイネ様に向ける愛情を疑ってませんもの。……女王陛下がエルスレイネ様を愛するのであれば、エルスレイネ様の幸福を望むのであれば、そうして作られる世界はきっと、とても優しい、素敵な楽園ですわ』
超然としたその姿に、想起するのは母。
少なくとも、セイルとは見えているものが異なっていた。
彼女は、誰もが恐れ平伏する――そんな母のことを恐れてなどいないのだ。
そして打算的に冷酷に、その他の全てを切り捨てていた。
民の苦しみを知らぬ訳ではないだろう。
母によって殺された心ある者達のことも、母のために命を捧げたベヌーレのことも、犠牲という言葉一つで片付けて、母とエルスレイネの幸せを平然と願う。
彼女は、セイルの側の人間ではなかった。
『殿下は何をお望みなのでしょう?』
『……私は』
『苦しむ民衆を救いたいのでしょうか? ロウグラン殿下達を救いたいのでしょうか? それとも女王陛下を……もしくは、殿下ご自身を?』
ティーカップに艶やかな唇を――静かに口付け、視線を落とす。
隙間から覗く、艶めかしく踊る舌に、視線が惑う。
言葉が繰り糸のように、体に纏わり付いて。
『……人が手を伸ばせるものには限りがありますわ。女王陛下でさえも同じく。そして欲しいものは、身を投げ出してさえ手に入るとは限りません。……殿下は今一度、ご自身が本当に欲するものは何か……それをお考えになるべきだと思いますの』
『……、切り捨てろ、と?』
それを望むならば、と苦笑した。
『世界は不公平で、理不尽で、残酷なものですわ。……その中で誰もが持ち合わせるのは唯一、幸せを願う権利だけ。殿下には殿下の、わたくしにはわたくしの……その問いに答えるべきは、わたくしではありませんもの』
そして日の傾き始めた窓の外に目をやり、立ち上がる。
『……願わくばその道の先が、同じ場所に繋がりますように』
――ただ、そう祈っておりますわ。
そう続ける彼女の目には、何が映っているのか。
少なくともその時のセイルには分からず、そして今も惑っている。
「……どうぞ?」
天幕の入り口で立ち尽くすセイルを見て、エルスレイネは筆を置き、首を傾げた。
何でもない、と首を振ると、中央の椅子に腰掛け、あちこちに置かれた美しい絵画を眺めた。
人の手で描かれたとは思えない、神造の絵画。
彼女が絵を描くことには驚きがあったが、描かれた絵画に驚きはない。
エルスレイネはその才覚で、容易く凡百の理想を体現する。
戦いの後始末を終えて、一段落。
死者の埋葬と捕虜の整理――本来はほとんど全てがこちらの仕事であった。
エルスレイネの率いた二万に損害はない。ここに来る前、二つの軍、三人の兄弟を殺して兵力損失は僅か3000。
この戦場へ増援として訪れた彼女の軍は兵力を補充し完全充足の状態で現れ、そしてロウグランの軍とはぶつかり合うことなく、決闘で戦いを終えた。
真っ先に帰ると考えていた彼女がここにいる理由は、どうにも彼女の副官の進言らしい。
ロウグランとの戦いでセイルの軍は疲弊している。
戦いは終わったとは言え、ウルフェネイトから遠く東に離れたこの地は元々不安定な土地。
大半はロウグランと共に立ち上がったものの、安定したとはまだ言えない。
万が一のないよう両軍協力して戦後処理に当たるべきだと語られれば、多くの戦力を失ったセイルに否とは言えない。
彼女の副官、ゴルザリアス=ルーカザーンは勇猛と聞く男であったが、意外に慎重派であるのか。
少なくともエルスレイネが彼を副官として重用している様子はこの数日で見て取れたが、どうにも今ひとつ信用は出来ない。
特に何が、という訳ではなかったが、あるいはある種の苦手意識や嫌悪感か。
心ある貴族の多くは、母に諫言し殺されている。
今いる貴族の多くは日和見の俗物ばかり――少なくともそれを、黙ってみていた者達。
だからと言って大して知りもせず、彼もまた俗物であると語るのは暴論であったが、とはいえ少なくとも、あまり良い印象を持てなかった。
政治から距離を置く無骨な軍人――そう語るには少し立場が強い。
元が男爵家の生まれにしては良く出世していた。
――いや、こんなことを考える時ではないだろう。
嘆息すると切り出す。
「……先日のことを改めて詫びに来た。お前の言うように八つ当たり……少し、母上のことで気が立っていたようだ」
「レイネは別に……ただ、フィーリを責めるのは酷いと思いましたから、それだけで。レイネもセイルにいさまと喧嘩をしたい訳じゃないです」
「……私もだ。道理では分かっていても、時にああなる。今後はないよう努力しよう」
エルスレイネは紅茶を用意しながら頷く。
若干の不機嫌を残しながらも我慢している様子――こうして見ると彼女は子供そのものだった。
少なくとも無邪気で、優しい娘であることは知っている。
あえて狂っているとするならば、兄を四人殺してなお、無邪気な子供のように過ごせる娘、というところくらいだろう。
無感動にロウグランの命を奪い、それを引きずる様子もない。
根本的な価値観がセイルとは異なっていた。
それを狂っていると感じるのは、己の雑念から来るものだろうか。
戦場で敵将を討った。
彼女がしたことはただそれだけで、本来それは正しく、決闘の結果となれば称賛されるべきことで、悲しまないことを責めるのは理不尽でしかない。
理屈の上では理解出来て、けれど感情は納得できず――彼女や、母に感じるのはそういうもの。
将来の安定の一言で、息子の命を使う母。
それでも、結果的に王国へ刃を向けたロウグラン達は悪だろう。
その後、王国の安定があるのならば、希有なる名君に逆らった反逆者でしかない。
少なくとも、民の苦しみが永遠に続いたはずもなかった。
仮に誰もが反旗を翻すことなく、盲目な従属を母に示すならば、単純な損得によって国が疲弊しきる前に母はそれを止めたに違いない。
母はまさしくアルベランの名に相応しい為政者であり、この世界で最も優れた指導者であった。
最終的には全てが上手く行くように段取りが組まれていて――母はいずれ、完璧な王国を作るに違いない。
セイルの中にそういう確信があって、けれど、感情だけが納得を許さない。
苦しみはただ、そこにあった。
「……私にはお前や母上が分からない」
「……?」
「分かる部分はあるんだ。この内乱を起こさせた理由も、それ以外も、その理屈はある程度理解が出来るつもりだ。ただ……感情で、納得ができない」
紅茶をティーカップに注ぎながら、エルスレイネは不思議そうにこちらを見やる。
金の髪の隙間から覗く紫色が、曇ることなく輝いていた。
「……私は母上の息子として生まれたことを誇りに思う。母上はそれに足る名君で、きっとこの国をこれまでにないほど豊かな、輝ける国にして見せるだろう。それを疑うつもりはないし、そして、お前はそんな母上の隣に立つには誰より相応しい。それだけの力があると、ずっと以前から知っていたつもりだ」
セイルは人より才覚に恵まれた。
そして、それに驕ることなく血の滲むような研鑽を重ねた。
けれど、そんな何もかもを、目の前の少女は息を吸うように飛び越える。
エルスレイネはまさに、神の系譜の一柱――母の子であった。
どれほどセイルが願って望んでも手に入らないものを、彼女は生まれた時から手にしている。
「本当は、お前のように私が母上の隣に立ちたかった。……だから、母上を理解出来るお前が羨ましく、妬ましい。それが私の正直な気持ちだ」
「……レイネが羨ましい?」
「ああ。……少なくとも、お前を嫌っている訳ではない。お前には私や兄姉達が冷たく感じただろう。他の者もそうだ、と断定は出来ないが……少なくとも根本にあったものは似たような感情だろう」
悪かった、と一言告げる。
別に、エルスレイネが悪い訳ではなかった。
彼女は持っていただけ――母の求める才覚を。
「先日のことだけではなく、だからこれまでのことも許してくれ、などと都合のいいことは言わない。だが……母上が求めるもののために……私は出来る限り、力を尽くしたいと思っている。……犠牲となったロウグラン達のためにも」
エルスレイネはセイルを見つめ、考え込む素振りを見せた。
たっぷりとミルクと蜂蜜の注がれた紅茶をティースプーンでかき混ぜながら、視線を落とす。
「そう言われても……レイネはそうですか、としか言えません。何故、今になって言うのでしょう? そう思ってるならセイルにいさまは最初からそれを態度で示すべきでした。そうしたら、ベヌーレだって死ななかったかも知れません」
「……ああ」
「セイルにいさまがどうしても話がしたい、ってお願いしたから、その願いを叶えるためにベヌーレは死んだってかあさまから聞きました。セイルにいさまはどうしたかったのでしょう?」
エルスレイネはセイルを睨んだ。
「仮にかあさまがセイルにいさまの言うことを聞いて、税を引き下げ、仮にロウグランにいさま達の反乱がなくなったとして、それではそのためにやってきたことが全て無駄になります。沢山の民を今回の締め付けで犠牲にしたのは、今後それ以外の人達を犠牲にしないため……彼らを犬死にさせることが望む結果だったのでしょうか?」
自分はどうしたかったのか。
彼女の言うとおりだろう。
『――どうしてあなたはロウグラン達に与しなかったの?』
嘲るような母の顔を思い出す。
セイルがしたことは、場を掻き回しただけ。
意味があったかと言えば、自己満足でしかない。
内心で母がセイルの願いを聞くつもりなどないことは気付いていた。
セイルが本当に民のことを思うならば、ロウグラン達を率いて立ち上がるか、それとも最初から母に従属を示し、彼らの死を最大限意味あるものにするか。
そのどちらかしかなかったのだ。
「……ロウグランにいさまと仲良しだったのは知っています。ロウグランにいさまが悪い人だともレイネは思いませんし、ベヌーレが自分を犠牲にしてまでお願いを聞こうとしたセイルにいさまが悪い人だとも思いたくありません。……でも、セイルにいさまは言っていることとやっていることがあべこべです」
立ち上がろうとするロウグランを押しとどめたことで、民の苦しみは長引いた。
そしてセイルのために、ベヌーレを無意味に死なせてしまった。
「少なくとも、その無意味な行動で死ななくていいベヌーレがセイルにいさまのために死にました。……レイネは正直、あんまりセイルにいさまが好きにはなれません」
「……言い訳は出来ない。お前の言うとおり……ベヌーレが犠牲になったのは私の愚かさが原因だ」
どっちつかず、卑怯で愚かであった。
どうにかしたいなら最初から、死んでいった多くの忠臣達のように、死を覚悟で進言するべきであっただろう。
公の場でロウグラン達と協力し連名でそれを提案したならば、利益と不利益を考慮して上手く行けば聞き入れてもらえたかも知れない。
進言した忠臣だけではなく、王子達を全員処刑する合理的な理由が見つからず。
セイルは迷い、何も出来ぬまま踊っていただけ。
母と兄姉達の間を。
胸の中には後悔しかなかった。
「……、先日、あの後フィーリと話した」
「フィーリと……?」
エルスレイネは眉根を寄せ、セイルは頷く。
「こうして改めて話をしようと決めたのは、それが理由だ。私は――」
セイルが言いかけると、馬の駆けてくる音。
殿下、と天幕の外から声が響き、二人は立ち上がる。
「……ルーカザーン? 今はセイルにいさまとお話中……」
「火急の用なれば」
「火急の……入ってください」
エルスレイネは入り口に近づき、中に入ってくるのは火傷顔の大男。
片膝を突いたゴルザリアス=ルーカザーンは重々しく告げる。
「王城で騒ぎがあったと、報告のため残していた部下から連絡が」
「騒ぎ……?」
「……まさか、謀反か? 女王陛下はご無事か、ルーカザーン」
「は。女王陛下はご無事です。ですが、聞いた話では、その……殺されたのは城仕えの使用人」
ゴルザリアスは顔を上げて、エルスレイネを見つめた。
「フィーリ、という名の使用人であると」
「……え?」
――エルスレイネが王城をでた翌日のこと。
優美で、けれど寒々しい――女王の居室。
一礼をして入室したのは赤に煌めく金の髪。
エプロンドレスに身を包み、美しい使用人であった。
一人紅茶を傾ける、白いドレスを纏った女――女王グラバレイネはその姿を認めると、いらっしゃい、と声を掛ける。
微笑を浮かべる彼女の動きに合わせ、金糸のような髪がさらりと揺れた
「お召しにより参上致しました、女王陛下」
「ええ、どうして呼び出されたと?」
「……お茶のお相手をさせて頂くため、でしょうか?」
使用人もまた微笑み、それとも、と尋ねた。
「それとも、いよいよフィーリが目障りとなり、始末なさろうと?」
女王は目を細め、その紫の瞳で冷ややかに見つめる。
「へぇ、分かっていて来たのね。やけになったの? それとも、自分はレイネのお気に入りだから殺されないと、高を括っているの?」
不思議な事を仰います、と使用人は返した。
「フィーリは女王陛下の臣下であり、その身も命も、女王陛下に捧げたもの。お呼びとあらば馳せ参じ、全てを捧げて忠義を尽くすが職分ですわ。……ご命令とあらば今すぐにでも御前にて、この首を裂いてお見せしましょう」
いかなご用命にございましょうか、と使用人は再び微笑む。
対照的に不快を浮かべた女王は、視線で対面の椅子を示した。
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