レイネ 四
第一王子であったセイルが生まれてから約三十年――母の部屋に入ったのはそれが初めてのこと。
母の部屋にはどこか、寒々しさのようなものを感じた。
部屋には人柄が表れるものだ。
例えば武人の部屋であれば鎧や剣が、壁の絵画には英雄譚が描かれる。
賢者の部屋には本棚が並び、羊皮紙が書き物机に積み重なり。
しかし母の部屋には、その個性や人格を示す何かが存在しなかった。
質素、という訳ではない。
置かれている調度品は全てが名品で、一見優雅に見えたが、ただそれだけ。
それぞれの中心として繋がるはずの、その部屋の主人の姿が見えてこない。
あるとすれば天蓋付きの大きなベッド、その頭の上に飾られた大小二本の剣だけだろう。
刃渡り一尺の小剣と、二尺半の長剣。
――母は人を信じない。
最も安全な場所であるはずの女王の居室に飾られたその剣が、ただの飾りでないことだけは理解していた。
母が外に出る時には、必ず側の使用人が剣を一本抱えて持つ。
使用人が振るうためではなく、母が振るうための剣を。
美しく聡明な女王は、将軍としても神懸かり的な指揮官であった。
女王の率いた軍は無敗。
その強さを恐れた多くの者は戦わずして城を明け渡し、母に臣従――僅か数年で斜陽の玉座に輝きを取り戻した。
誇張であると疑う者がいるとすれば、それは母を知らない者だけだろう。
その紫の瞳には、それが嘘偽りない真実であると信じさせるだけの、得体の知れない力があった。
「……つまらない話ね。ベヌーレはわたしにこんな無駄な時間を過ごさせるために自殺したのかしら。愚かを通り越して呆れてしまうわ」
言葉通り、美しい顔には落胆があった。
深紅のドレスに身を包み、優美な黄金の髪を揺らして。
五十を超えているはずの母は今なお、老いなど欠片も感じさせることはなく、その美貌にも陰りはなかった。
女と言うには若々しく、少女と言うほど幼くもなく。
その曖昧な境界で揺蕩うような蠱惑的な美貌に、老成された色香を纏い、仕草の一つ一つに吸い寄せられるような引力を。
そして輝くような、けれど暗い紫の瞳が言葉に出来ない斥力を。
誰もが母に目を奪われ、そして同時に膝を突かされる。
例えるならばそれは、神を前にしたような感情だった。
神聖、魔性。
魅力的というよりも、魅了の魔法を掛けられたよう。
その体が放つ全てが人の心を狂わせて、そしてその瞳が、言葉もなく人を平伏させる。
こうして同じテーブルで椅子に腰掛け、紅茶を口にし、この光景は現実でしかないはずであるのに、絵物語に描かれる神との邂逅を想起させた。
アルベラン――神の子が統べる国。
それを驕りと笑う者があれど、母を目にしてそれを口に出来る者はいない。
数々の戦場を経験し、多くの戦士を屠ったセイルでさえ、母を前には只人であった。
己の矮小さに震えてしまうほどに。
「母上、ロウグラン達は本気です。今のうちにどうにかしなければ、大きな災禍が王国を脅かすでしょう。多くの民が死に、世が乱れ――」
「ふふ、疑問だったのだけれど……どうしてあなたはロウグラン達に与しなかったの? わたしはあなたがロウグラン達を率いるものだと考えていたのだけれど」
「は……?」
「折角第一王子のあなたには、そのための立派な領地を与えてあげたのに。第二王子のロウグランでは同調するものも限られているけれど……そこに人望あるあなたが協力すれば、図式は全王子とわたし。わたしの身近な所からも引っ張れるし、裏切らせることも容易いはずなのに」
母の顔には愉しむような、嘲るような色。
セイルは拳を握りしめる。
「……、母上はやはり、わざとロウグラン達に反乱を起こさせようと?」
「ええ、もちろん。……だから、つまらない話だと言ってるのよ。折角ゴミを纏めてくれようと懸命に集めてくれているのに、それをひっくり返すような真似はしないわ。ふふ、そういう意味ではロウグラン達も生まれて初めての親孝行ね」
わたしも鼻が高いわ、と肩を揺らして母は笑う。
何がおかしいのです、とセイルは言った。
「……ロウグラン達は民を救おうとしているだけです。確かに短慮、直情的で愚かなのかも知れません、ですが……母上から王位を簒奪しようなどと、そんなことを考えている訳ではありません。母上が一言伝えてくださるだけで、己の愚かさに気付きます。これはロウグラン達に取っても、苦渋の決断であるのですから」
周辺諸国をねじ伏せた母は、突如悪法を敷き、重税を課し、民を締め付けた。
セイルもロウグラン達も最初こそ、母に考えがあるのだとそれに従ったが、貧困に喘ぐ民の姿を見て、それに耐えられなかったのだろう。
無骨ながらも心優しいロウグランには、民の苦しみが耐えられなかったのだ。
母は苛烈ながらも、紛れもない名君であった。
贅を好み、財を肥やして悦に浸る人間でもなく、無意味なことは決してしない。
母は膿を出そうとしているのだと、セイルはロウグランを何度も説得し、思いとどまるように口にしたが、ロウグランはそれに理解を示しながらも首を振った。
膿を出すのが目的であれば、膿が出るまで続けられる。
膿が出さない限りは、民の困窮が続くのだと――母は平気でそうする人間なのだと。
母は冷酷で、容赦がない。
事実、諫言した多くの心ある臣下を更迭し、あるいはその首を切り落とした。
皆が母を恐れ、何も口に出来ず、国中が母に怯えている。
そんな状況ではセイルさえ、ロウグランに傾きかけていた。
ベヌーレは、そんなセイルのために命を捧げてまでこの場を作ってくれたのだ。
早まった真似はなさりませんように、とセイルに言って、このどうしようもない殺し合いを止めるために。
「母上の理屈は分かります。しかし……ロウグランも、フェニレイスも、トーラジアも、シェアルズも、決して膿ではありません。私と同じく、母上を誰よりも敬愛する、母上の子です。……どうか、ベヌーレが命を捧げた理由をお考え下さい」
「敬愛……ふふ、敬愛ね」
くすくすと嘲るように笑い、目を細める。
少女のような笑い声だった。
「女王陛下のためを思い、だなんて口にした能無しを何人殺したかしら。……理解していない、あなたも含めて本当に……愚か者ばかりだわ」
母は立ち上がり、セイルの頬を撫でた。
優しげに、けれど見下すように。
「わたしに従うか、従わないか。あなた達に尋ねるのはいつもその二つ。従うならわたしを不愉快にさせない限りは飼ってあげるし、従わないならそもそもいらない。……でも、あなた達はどうしようもない無能ばかりなのに、自分が賢いと思い込んでしまうから、小賢しい理屈でそうやって、いつも煩わしい雑音を響かせるの」
とても不愉快だわ、と母は笑う。
「各地の財政からちょっとしたことまで、例えばある街の住人にどういう名前の人間が住んでいて、それがどんな仕事をしているかまで、わたしの頭には知りうる限りの全部が入っているわ。そこから軽く計算すれば、今後どのように世界と経済が動き、発展、あるいは衰退していくか、誰が台頭してくるかまで理解出来るの。……あなた達がやるべきことは、わたしへの報告と、命じられた仕事だけ」
その紫色の瞳が放つ圧力は、呼吸を止めてしまうほどに重苦しい。
鍛えたはずの心も体も、母を前にするとまるで子供のようであった。
「思い上がりも甚だしいわね。わたしの理屈が分かると口にするなら、どうしてそれに従わないのかしら? 飼われている羊が羊飼いに口出しするようなものよ。わたし達をもっと上手に飼うにはこうした方が良いと思います、だなんて……」
声は優しげで、憎悪に満ちているように思え。
セイルは思わず、目を伏せる。
「食べて、寝て、交わって、ふふ、あなた達の頭の中には結局、目の前のことだけ。獣に獣が飼えると言うなら、今頃世界はきっと、とても平和で幸せでしょうね。それが出来ないから、わたしがこうしてあなた達を管理してあげているのに」
そこで質問、と母は尋ねた。
「あなたはわたしに従うのか、それとも従わないのか。……愚かなベヌーレに免じて、答える機会は与えてあげる」
セイルはその言葉に拳を握り、それから、力を抜く。
「私は……母上に向ける刃を持っていません」
「そう」
「……ただ、私も、ロウグラン達も、ベヌーレも、母上を愛しております。そのことだけはどうか、信じて頂きたいのです」
告げると母はセイルを見つめ、また嘲るように。
「ふふ、うふふ……」
心底おかしいといった様子で肩を揺らし、口元に手を当てた。
伝わりはしまい、と理解しながら、口にせずにいられなかった。
ロウグラン達も、ベヌーレも、あまりに哀れに思えて。
「ねぇ、セイル」
「っ……」
唇が押しつけられ、セイルは一瞬硬直する。
目を見開いたセイルを愉しげに眺めながら、舌を差し込もうとして――咄嗟に飛び退くように離れた。
「な、何を……」
「だって、面白いことを言うんだもの。……愛している、だなんて、どういう風に愛してくれるのか興味深くて」
母は少女のような微笑で近づき、腕に手を添え、セイルを見上げる。
色香を纏った蠱惑的な美貌を見せつけるように。
「寝てあげましょうか? ふふ、ベッドの上でならあなた好みのわたしになってあげる。愛しているわ、だなんて恋人のように囁きながらしてあげればあなたも満足かしら? 気兼ねするなら命じてあげてもいいわ」
「っ……母上!」
その手を振り払い、距離を取る。
母は笑った。無邪気な、あるいはどこまでも悪意に満ちた笑みで。
「あなたはわたしの気を引いて可愛がられたいだけ。いっそ押し倒して見ればはっきりすると思うわ。欲望と本能を聞き心地の良い言葉で誤魔化しているの。わたしは魅力的な女には見えても、あなたからは到底魅力的な母には見えないはずだもの。あなたの感じている愛とやらは肉欲の錯覚……確かめてみたらどうかしら?」
「違います、私は……母上は、歪んでしまっただけだ! それだけが愛だとするなら、ベヌーレは何故命を絶ったと仰るのです!」
「そんなに怒鳴らないでちょうだい。ふふ、そんなにムキになるだなんて、図星だったかしら?」
「母上!」
睨み付けるも、母は美貌に嘲笑を。
無意味であった。セイルの言葉は、母の耳には届かない。
ベヌーレから、母がこれまでどうやって生きてきたのかは聞いていた。
その何十年を、言葉一つでどうにか出来るとは思わない。
己にもっと才能があれば、力があれば、母を失望させないだけの何かがセイルにあれば、届いたのかも知れない。
けれど、母が唯一愛する末妹のような才覚を、天はセイルに与えてはくれなかった。
セイルは踵を返し、扉に手を伸ばす。
「……どれほど愚かと言われようと、出来損ないだと思われようと、私は母上を愛しています。……想いが届かずとも、あなたの息子として、この名に誓い」
返答はなかった。期待もしていない。
扉を出ると、そのまま廊下を進み、階段を降りていく。
これ以上の用はなかった。
「すっかりお昼寝してしまいました……」
「お気になさらず。絵の続きはいつでも描けますよ。……リビニア様、後はお願い致します」
「はい、フィーリ様」
その途中、踊り場にいたのはエルスレイネと使用人が二人。
王城詰めの使用人達が過ごす階――普通、王族は立ち入らない場所であった。
エルスレイネはセイルを認めると、声を掛ける。
「セイルにいさま、お久しぶりですね。お仕事でしょうか?」
金の髪を揺らし、美しい一礼をしながら、エルスレイネは気安く自然体。
王子と王女の中にあって、唯一特別な――母がレイネと名付けた、末の妹。
母と同じ名前、母と同じ美しい紫の瞳。
母の愛が向けられる、この世でただ一人の存在。
「……母上に用があった。それと、ベヌーレの墓参りにな。……エルスレイネ、こんな所で何をしている?」
「フィーリに絵を習いに行っていたのです」
「絵?」
「はい。フィーリ、とっても絵が上手ですから」
赤みがかった金の髪。
頭を下げる使用人――フィーリのことは知っている。
ベヌーレからの信頼も厚いエルスレイネの側付きで、教育役。
「絵を教えること自体を否定はしないが……感心はしないな。王女に使用人の部屋に足を運ばせるなど」
「……申し訳ありません」
「ベヌーレがいなくなったのであれば、お前が使用人達の範となるべき立場。お前がそのような態度を取れば、エルスレイネが、王家全体が侮られる。王女が使用人にさえ、そのような態度を取られるような国だと――」
「……セイルにいさま」
冷ややかな声。
エルスレイネはフィーリの前に立ち、セイルを睨んだ。
「フィーリに絵を習っていいって、レイネはちゃんとかあさまに許可をちゃんともらってます。それに、レイネがお願いしてフィーリに教えてもらっているのに、どうしてフィーリを怒るんですか?」
「それとこれとは話が別だ。フィーリはお前の側付きだろう? そのフィーリがこのようでは――」
「フィーリはもう側付きじゃありません。だからレイネがフィーリの部屋に行ってるんです」
「……側付きじゃない?」
フィーリに目をやると、彼女は頭を下げ、はい、と答えた。
「行事の際を除けば、普段はこのリビニアが。エルスレイネ様が本格的に女王陛下の政務を補佐されるようになり、わたくしは不要と……ですがどうあれ仰る通りでございます。エルスレイネ様を使用人の部屋に招くなどと驕り甚だしいこと……お許し下さいませ。ご不快であれば罰を――」
「フィーリが謝る必要はありません。セイルにいさまの言い分は一方的で理不尽です」
「……エルスレイネ様」
困ったようにフィーリはエルスレイネに目を向けるが、エルスレイネは母と同じその瞳で、刺すような視線をセイルに向けていた。
背筋に冷ややかなものを感じる、得体の知れない圧力。
子供のような――真実、セイルは子供に気圧されていた。
セイルとエルスレイネの様子を見てか、フィーリが再び、深く頭を下げる。
話を打ち切ろうとする意図を感じて、嘆息した。
どうあれ、彼女は聡い使用人であった。
少なくとも彼女がそうするならば、セイルの体面は傷つかない。
「……確かに、私の気が立っていたかもしれない。ただ、エルスレイネ。お前は王族なのだ。お前の立ち居振る舞い一つ一つが、王家の、母上の権威が軽んじられる原因となる事は理解しなさい」
エルスレイネは頭を下げるフィーリを見て、少し迷った、不満そうな様子を見せながらも静かに頷く。
「気を悪くさせた。……少し話をしたかった所だが、機会を改めよう」
「……はい、セイルにいさま」
不快を残したままエルスレイネが頭を下げるのを見て、セイルは階段に。
レイネは母によく似ていた。
視線を合わせるだけで、他人に寒気を覚えさせる紫の瞳。
ただの見た目ではなく、唯一彼女だけが母の娘であった。
違うところは唯一、使用人の存在だろう。
母は自分とエルスレイネ以外の全てに興味がなかったが、エルスレイネは自分と母以外にも執着を見せていた。
依存か、愛か――ただ、それを分かるほどエルスレイネをセイルは知らない。
そういう意味でも失策だった。
一人母から認められ、愛される妹への粘ついた感情。
確かにエルスレイネの言うとおり、これでは八つ当たり。
唯一母に何かを伝えられるとすれば、きっと彼女だけ。
その彼女に敵意を向けられることで良いことは何もない。
エルスレイネは母に似ていたが、母ほど他人に失望している訳ではなく、少なくともその才覚を除けば純粋な子供であった。
フィーリの存在がそれを証明していて、そして今後を握るのは彼女だろう。
少なくともエルスレイネは、フィーリを特別な存在として見ていた。
階段を下る途中で立ち止まり、呼吸を整えた。
そして通りがかった使用人の一人に声を掛ける。
見知った――昔王城にいた頃、世話になった古株であった。
「……私の部屋にフィーリを呼んでくれ。少し話があると……くれぐれも内密に」
母の部屋、ベッドの上。
ベヌーレが死んでからはしばらく呼ばれておらず、こうして一緒に眠るのも一週間ぶりのこと。
ベヌーレの自殺について、フィーリはあまり話したがらず、ベヌーレにはベヌーレの事情があったのだ、と、レイネには曖昧な説明をした。
フィーリに理由は想像出来ても、それは想像でしかないのだと。
あまり口にしたくない様子で、レイネも深くは尋ねず、残念だ、と一言告げると、悲しいことだとフィーリも返した。
フィーリは言葉通り、いつもより少しだけ暗い顔。
レイネが会いに行けば笑顔を浮かべてくれたが、あまり元気はなく、いつもは淀みなく流れるフィーリの筆も途切れ途切れに。
そのことばかりが気に掛かって、レイネもあまり集中出来ず、『エルスレン』の続きは描けなかった。
フィーリとベヌーレはレイネが生まれる前から、随分長い付き合いであったらしい。
フィーリは彼女を恩人だと語っていたし、他の使用人からは親子のような関係だとも聞いている。
だからフィーリはとても悲しいのだ、という程度の事は理解出来て、レイネの感じる残念がずっと強くなった気持ちなのだろう、とぼんやりながら共感も出来た。
そしてベヌーレは母が生まれた時から側にいた人。
フィーリがそうであるならと、あまり触れてはいけないことのような気がして、母に尋ねることもしなかった。
母も仕事中、特に口にすることはなく、そのことについて口にしたのは久しぶりに部屋に呼ばれたその日のこと。
ベヌーレは兄のセイルと話をさせるために命を絶ったのだと、母は笑って語った。
そして、下らない話を聞かされたのだと。
「要するに、ロウグランにいさま達との戦を止めたかった、ということでしょうか?」
「そうみたいね。ベヌーレがそこまで馬鹿だなんて気付かなかったわ」
呆れたように母は告げる。
反乱を起こさせて、不穏分子を排除したい。
それは以前から、母がレイネに聞かせていた内容であった。
民衆を生かさず殺さず、適度に締め付け、将来的な不安の種を取り除く。
以前からレイネはその『お仕事』を手伝っていたし、国力を低下させぬ程度に民衆を締め付けるための調節には中々に力を入れていた。
税を重くすれば税収が増えて国庫が肥える。
ただ重くし過ぎれば多くの餓死者が出るし、経済が滞る。
余裕があればこそ民衆は多くの者に金を使うもので、余裕がなければ今後のため、誰もが余剰金を貯蓄に回してしまうからだ。
職人達も買い手がいなくなれば死活問題、余裕のないところからは良い商品も生まれず、品質は低下し、他国との相対的な技術格差が大きくなる。
その調節は中々難しい所で、色々と将来的なことを計算に入れて頑張ってきたところ――レイネとしては今後のことを考えれば良い計画だと思っていた。
母は母が全てを掌握できる国造りをと考えており、レイネもそれを正しいと感じる。
母は誰より賢かったし、将来のことを考えていた。
貴族達の考えにはよく分からない部分が多かったし、失敗も目立つが、母に関しては失敗というものが存在しない。
最も能力のある人間――母が全てを支配すれば、この国は将来的にずっと豊かになることは間違いなかったし、誰にとっても『幸せな楽園』が訪れると信じていた。
確かに反乱を誘うために民衆を締め付けるというのは乱暴に見える手段ではあったが、けれど二十年、三十年の後にはずっと良い結果が待っている。
百年後の幸せな世界より、二十年後の幸せな世界の方が良いことは確かで、長い目で見れば多くの人が幸せに暮らすことが出来るだろう。
多少の犠牲は仕方ないこと。
死ぬことになる兄達――ロウグラン達も含めてレイネはそう考えていたが、ベヌーレはそう思わなかったらしい。
セイルも納得できなかったようで、今日母に会いに来たのはそれが理由であったのだと母は言う。
「……でも、残念です」
「残念?」
「執務室に来た後、ベヌーレ、フィーリの部屋に来てたんです。珍しく楽しそうにお話していて、でも、フィーリもちょっと様子が変で……もしかしたら、ベヌーレが死のうとしてるの、気付いてたんじゃないかって」
母に背中を預けながら、その日のことを思い出す。
「レイネがちゃんと気付いてあげられていたなら、ベヌーレにちゃんとお話して、仕方ないことだって教えてあげられたかも知れないのに」
「ベヌーレにはちゃんと教えてあげたのよ。あなたのせいじゃないわ、レイネ。ベヌーレが馬鹿だっただけ……それに、ベヌーレのことくらいであなたが気に病む必要はないわ。言ったでしょう? 家畜みたいなものだって」
「……かあさまは残念だとか、悲しいとか、そういう風に思わないんですか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
その言葉に振り返り、母の顔を見つめた。
母は困ったような顔でレイネを見ていた。
「ベヌーレはかあさまが生まれた時から側にいて、お世話をしていたって聞きました。そんな人が死んじゃったら、そう思うのが普通じゃないのですか?」
「普通、普通ね。ふふ、面白いことを言うのね。フィーリに教えてもらったの?」
「……?」
首を傾げると、母はレイネの頬を両手で包む。
「そうね……使い心地が良かったティーカップが割れてしまった感じかしら。残念と言えば残念……でも、ティーカップなんていくらでも代わりがあるわ」
「……でも、それはティーカップの話で、ベヌーレにベヌーレの代わりはいません」
「それもフィーリに教えてもらったの?」
「あの、フィーリは関係ないです。レイネが――」
「だって、ふふ、レイネが変なことばかり言うんだもの」
母はくすくすと笑って、レイネの唇を親指でなぞった。
柔らかく、けれど言葉を封じるように。
「わたしはあなたに色んな事を教えてきたわ。でも、わたしが教えていないことはみんな、フィーリに教えてもらったことでしょう? あの子が教育役だったんだもの」
「それは……」
「あなたはあの子の受け売りを口にしているだけ。ねぇ、レイネ、わたしがおかしくて、あの子が普通なのかしら? わたしが間違っているの?」
「かあさま、違います。レイネはそういう事が言いたいんじゃなくて……」
「じゃあ、何が言いたいの?」
じっと母はレイネを見つめた。
瞳の中を覗き込むように顔を近づけて。
レイネは目を泳がせて、再び母に目を向ける。
「……その、レイネに怒っているのでしょうか?」
「怒ってないわ。だって、世界で一番愛しいわたしの宝物だもの」
言葉通りに微笑み、レイネの頬を撫でた。
「ただ、変なことばかり言うものだから、気になっただけ。……さ、話してみて」
レイネは少し考え込み、頷く。
「かあさまが間違っているだなんて、レイネは全然思ってません。でも……絶対に正しいとも、思ってなくて……ただ、それだけで。やっぱりレイネは、かあさまみたいに他の人が違う生き物なんて思えないのです」
「……そう」
「フィーリも……ベヌーレも、他の使用人だってレイネにすっごく優しくしてくれて、お喋りしたり、お茶をしたりするの、すごく楽しいです。だから、かあさまにも一緒に、そういうの、理解して欲しいって思って」
レイネの願いはただそれだけであった。
ほんの少しの、ボタンの掛け違い。
母が立派で素晴らしい女王であるということはきっと皆理解していた。
もう少しだけでいいと思うのだ。
レイネに向けるような笑顔で接してくれるだけで、そういう感情で接してくれるだけで、それだけで皆もっと幸せになれる。
「かあさまがいつか欲しいって言った、小さな楽園……レイネも作りたいって思います。レイネだけじゃなくて、フィーリだって、他の人だってそう思ってくれてる人がいると思うんです」
どうしたら伝わるのだろう。
どうしたら伝えられるのだろう。
そのことばかりを考える。
ちょっとした、ほんの些細な事で、人は人を苦手に思ったり、好きになったり出来るのだ。
「レイネが小さな頃、かあさまも昔は、レイネと同じようなことを考えてたって言いました。みんな仲良く出来ればいいのにって」
母の頬を撫でて、その目を見つめる。
紫の、レイネと同じ色の瞳。
「その時は上手く行かなかったのかも知れません。でも、それが全部じゃないと思うんです。今は相手も条件も違います。今はかあさまと仲良くなりたいって人も一杯いて――」
「……レイネ」
母は静かに名を呼び、それから優しげに笑う。
「あなたはちゃんと賢いのに、利害関係が上手に理解出来ないのが欠点ね。わたしは女王で、あなたは王女、誰だって仲良くしたいと思うのは当然よ。わたしやあなたに好かれれば一生安泰、何の心配も不自由もすることもなく生きていけるんだもの」
「かあさ――」
「使用人達があなたに優しく媚びを売るのは、あなたが力ある王女だから。権力や力、頭脳で勝てないからこそ頭を垂れて臣従するの。何故ならあなたを敵に回しては生きていけないし、その庇護下にあることが安全だと知っているから」
レイネの口をまた、指で押さえる。
柔らかく、優しく、けれど先ほどよりも強く。
「わたしが落ちぶれた王家の王女だった頃、誰もわたしを助けなかったわ。何故ならわたしに媚びても見返りがないから。だからわたしはわたしを守るために随分と苦労して、他の人間がどういう生き物かを分析して、色んなやり方で軍事力と財力を手にして、権力を手にしたわ。……他の人間がわたしに媚びを売り出したのはそれから」
レイネ、と名を呼んだ。
愛しげに、深い音色で。
「わたしはあなたよりずっと、人間というものを知っているの。あなたは生まれた頃からわたしの庇護下にあったから、それを知る機会がなかっただけ。レイネの言うとおり、今はわたしに好意を寄せる人間も沢山いるわ。でもそれは、昔と違って今のわたしが力を持つから。勘違いしては駄目よ、レイネ」
母の言葉は体の芯を締め付けるようだった。
「……自分と相手の立場を理解して、相手が何を考えてるのか、何が欲しいかを探って行けば、答えは簡単に見つかるもの。それをちゃんと、自分で見つけられるようにならないと。……もしもあなたに力がなければ、好かれていると思っている使用人達もあっさりと掌を返すわ」
いつも優しく包み込むような、フィーリの言葉とは少し違う。
「……でも、フィーリは……」
「……レイネは本当にフィーリがお気に入りね。フィーリはあなたのことを愛してくれているの? ふふ、まぁでも、人の欲望は色々。あの子はあなたをそうやって、支配して、思い通りにするのが愉しい人間なの」
「支配……」
「そう。レイネは綺麗で純粋だもの。……こんな風にレイネを思い通りに操って、さぞ愉しいのでしょうね」
「違います、かあさま、フィーリは――」
「ほら、そうやってすぐに庇おうとする。どうしてフィーリはあなたのことが好きなの? どうしてそうだと確信しているの?」
言葉に詰まると、母は肩を揺らして笑う。
「理屈で説明できる理由もないでしょう? レイネはフィーリに依存させられているだけ、フィーリの言葉を刷り込まれて、思い通りに動かされているの。餌で芸を覚えさせられた犬みたいに、飼い主が何を考えてそうしているのか分からないまま、そんな風に尻尾を振って」
「違いますっ、そういうのじゃなくて、フィーリは――」
「……困ったわね」
呆れたように母は言い、苦笑し。
この話はやめましょう、と母は続けた。
「レイネと口論したい訳じゃないの。だからそんな顔をしないで」
「……、はい」
「ずっと狭い世界で過ごしてきたから、まだまだ分からないことが多いんでしょう。どうしようか迷っていたんだけれど……そうね、大事な機会だもの」
「……?」
母は微笑む。
「今度の反乱鎮圧で、レイネにロウグラン達を始末して来て欲しいの」
「ロウグランにいさま達を?」
「ええ。一応セイルに行かせようと思っているんだけれど、あの子が裏切らないかだとか、ちゃんと殺してくれるかだとか、色々な懸念もあるもの。わたしが行ってもいいけれど、レイネが行ってくれるならわたしも安心できるし、あなたの勉強にもなるわ」
レイネは少し考え込んで、頷いた。
兄達の実力は知っている。それなり程度、殺すことは難しいことではないだろう。
元々その予定であった。
レイネが直接殺すかどうかの違いで、そこにあまり躊躇はない。
「そういうことなら……全員殺せば良いのでしょうか?」
「ええ。良い子ね。一応第一王子としての体面もあるからセイルも行かせることになるけれど、信用しちゃ駄目よ。場合によっては裏切る可能性もあるし、その時にはセイルもついでに始末するの。出来る?」
「……はい」
母は嬉しそうに笑ってレイネの額に口付ける。
「誰も信用しちゃ駄目よ。食事も毒を盛られる可能性を考慮して、誰かに任せちゃ駄目。王宮ではわたしがきちんと管理しているけれど、外の世界はそうじゃない。誰がレイネの命を狙っているか分からない場所よ。慎重に行動するの」
「慎重に……」
「そう。それが勉強……わたしの側にいるレイネに手を出そうとする人間はいないけれど、わたしの側から離れた時はそういう人間にとってはチャンスだもの。レイネはもっと人を疑うことを知った方がいいわ」
「人を疑う?」
頷いて、レイネを胸に押しつけた。
「アルベランの女王が唯一、特別に愛している王女だもの。外に出ればあなたに取り入ろうとするもの、亡き者にしようとするもの、色々と出てくるわ。わたしやレイネを疎ましく思う者も多いもの。本当はそんな場所とは無縁に過ごさせてあげたいって思ってたのだけれど、やっぱりそういう環境で勉強することも大事だと思って。……もちろん、レイネがもし嫌だって言うなら無理にとは言わないわ」
「いえ。かあさまが必要だって言うなら、レイネはちゃんとお勉強します」
勉強が必要だと言うならするべきで、色んなものを見て、色んな角度から捉えることが大事なのだとフィーリもいつも言っている。
母が知って欲しいというなら否はない。
それに意見の食い違い――口論のようになってしまった。
母が気分を悪くしていないか、それが少し不安に感じる。
「……その、レイネ、かあさまのことが嫌だとか変だとか、そういうのじゃなくて、かあさまのことはすっごく尊敬してて、大好きです。だから、その、さっきのお話も……」
「もうその話はやめましょう、って言ったのに。……大丈夫よ。わたしはちゃんと、レイネの気持ちも分かってるわ。怒ったりなんてしてないの」
「……本当ですか?」
「ええ、本当よ。だって、レイネはわたしの可愛い宝物だもの。……今日はもう休みなさい。ごめんなさい、意地悪なことを言って」
首を振ると、ぎゅうと抱きつき頬を緩め、身を任せると目を閉じる。
「いえ。……大好きです、かあさま」
「ええ、わたしもよ。……わたしの愛しいレイネ」
安心すると力が抜けて、すぐに意識が遠ざかる。
そんな娘の頭を愛しげに撫で、『レイネ』は静かに目を細めた。
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