レイネ 三
フィーリの部屋は二人のアトリエになっていた。
絵を描くだけではなく、様々な塗料を集め、新たな技法を探って研究を。
柔らかな水彩から明暗美しい油彩まで、今では様々な絵画が並び、別の部屋を丸々一つ保管庫にしていた。
描き方、色の使い方。
毎日のようにこれはここが良い、あれはこういう所が美しいと、そんな話題に花を咲かせる。
「ふふ……本当に素敵な絵ですわね」
「えへへ、ありがとうございますっ。でも、もう少し色んな色を乗せてみた方が良いでしょうか……?」
二人の座る正面。
レイネの描いた油絵には、フィーリや使用人達と、笑顔を浮かべる二人のレイネ。
森の広場にテーブルと椅子が、木々の隙間からは木漏れ日が。
いつかフィーリが描いた水彩画を参考に、レイネが描き上げたものであった。
「どうでしょう……ここまで来ると、もはや好みと言えますわね。このまま仕上げてしまってもよろしいでしょうし」
その絵は架空の光景とは思えぬほど。
まるで現実の光景を切り取ったかのように美しく、はっきりとした色使いで描かれる。
完成として十分――他の誰にも真似は出来ないだろう。
彼女の描く絵画は常にそういうものであった。
「けれど、色を加えてみるのも面白いと言えますね」
レイネは完璧なものしか描けない。
けれど、彼女が求めるものは少し別の所にある。
「……色」
「例えば……光。光の表現を強調してみるだとか」
レイネははっきりとした油彩を好み、精緻な描き込みを行なう。
けれどフィーリは、どちらかと言えば柔らかな曖昧さを残した水彩を好んだ。
レイネはフィーリの描く曖昧さに魅了され、フィーリはレイネの描く世界を切り取ったような鮮やかさに魅了され。
今では技量の上でレイネの方が明確に優れていたが、それでも二人の関係は変わらない。
隣の椅子に腰掛けながら、筆の後ろで唇を叩きながらフィーリは考え込み。
レイネもまた同じように、筆の後ろで唇を叩いて首を捻る。
「光、でしょうか」
「はい、もっと光の表現を強調してみても素敵かも知れませんわね」
フィーリは絵を眺めて微笑む。
「レイネとは輝けるものを意味する言葉。……きっと女王陛下は、エルスレイネ様に沢山の想いを込めて、ご自分と同じレイネという名前をお付けになったのでしょう。エルスレイネ様のこの絵画にも、そういうものが表現出来れば、もっと素敵なものになるのではないかと思って……」
「沢山の想い……ですか?」
「ええ、もちろん感情というものは言葉で表現することが難しいものですけれど」
フィーリは宙空に筆を走らせる。
緩やかに、優しく。
「でも、ちょっとした筆のタッチや何かに、そうしたものが表現出来ることもあると思うのですわ。……わたくしが絵画に惹かれるのも、言葉に出来ない何かを表現したいから……そういうものが描ければ、きっと一枚の絵画は言葉を交わすよりもずっと雄弁に、様々なものを表現出来ると思いますの」
言って、渋面を作って考え込むレイネの顔を見ると苦笑する。
「ふふ、申し訳ありません。よく分からないことを口にしてますわね」
「……いえ、レイネがお馬鹿なだけなのです」
「まぁ。そのようなことはありませんわ」
言いながら綺麗な筆先で、レイネの頬をフィーリはくすぐる。
くすぐったいです、と笑みを零してレイネはのけぞり、それから腕を掴むとフィーリの膝へと横乗りに。
それから自分の絵画を眺めて考え込み、頷く。
「んー、レイネ、もう少し考えてみます」
「ええ。でも……本当に好みの問題、わたくしとしてもこれ以上ないくらい素敵な絵画ですもの、あまりお気になさらぬよう。今ではエルスレイネ様がわたくしの先生……ふふ、これは弟子の戯れ言ですわ」
「フィーリの絵はすっごく綺麗です。レイネ、まだまだあんな絵は全然描けません」
「嬉しいお言葉……でも、技術がない分、色々と誤魔化しているだけですもの」
「レイネはその誤魔化しがまだまだ全然分かりませんから、やっぱりフィーリがレイネの先生なのです」
唇を尖らせるレイネに苦笑し、頬を膨らませると頬をつついて肩を揺らす。
確かにフィーリはレイネほど細かく描けなかったが、それでもフィーリの絵は不思議な魅力があった。
他の使用人達はレイネの絵を見ると驚いたような顔をして称賛するが、フィーリの絵を見ると、レイネの絵を見た時とは違った反応を見せる。
風景画一つに、故郷を思い出したのだと目を潤ませる者もいて、きっとそれをすごいと感じるものはレイネだけではないのだろう。
言葉を交わすよりも雄弁に。
言葉に出来ない何かが確かに、フィーリの選ぶ色には、筆遣いには、描き上げる絵には存在していた。
それに比べればレイネの絵はずっと単純。
記憶からそのまま映像を抜き出し、パズルのように組み合わせているだけなのだから。
フィーリが描こうとしているものはきっと、レイネよりずっと深いところにあった。
「まぁ……何にせよ、女王陛下はきっと、お喜びになると思いますわ。この絵にはエルスレイネ様の色んな気持ちが宿っているように思えますもの」
「……そうでしょうか?」
「ええ。正直、エルスレイネ様が女王陛下に絵を贈りたいと仰った時には驚きました。これまではずっと、わたくしを喜ばせるような絵ばかり描いてらしたのに」
レイネが頬を赤らめると、フィーリは静かに笑みを零した。
「女王陛下は絵画に興味がお有りではないでしょう。でも、エルスレイネ様はそれを承知の上で、こうして女王陛下に喜ばせたいと、女王陛下に贈るための絵を描こうとしていらっしゃる。それはとても難しいことで……だからこそ、素敵なことだと思いますの」
「……素敵」
「ええ、とても。きっと、この絵画に込められたエルスレイネ様のお気持ちは、女王陛下に伝わりますわ」
はい、とレイネが頷くと、フィーリは優しくレイネを撫でる。
伝わればいい、とレイネは思う。
きっとボタンの掛け違いなのだ。
母は今も立派で、優秀で、尊敬もしていて大好きだった。
けれど残念なことに、母はレイネ以外を嫌っている。
母とレイネ以外は皆、愚か者達ばかりで、違う生き物なのだと口にした。
母の理屈が一切分からない訳でもなかった。
世の中には悪い人間もいて、酷い人間もいると今ではレイネも知っている。
勝手に税を増やして私腹を肥やす人間だとか、罪をでっち上げて周囲を蹴落とし、足を引っ張ろうとする人間だとか、他者を虐げることで喜ぶ人間だとか。
母の仕事を手伝うようになって、外の世界を知る度に、色んな人間がいることをレイネは知ったが、けれどそんな人間ばかりではない。
少なくともフィーリはそうではなかったし、ここにいる使用人達もそうではなかった。
そしてきっと、そうじゃない人は世界中に沢山いるのだろう。
母は勘違いしているだけなのだと思う。
掛け違えたボタンを戻すだけで、きっとそれは解消する問題で――そうであれば良い、とレイネは思う。
レイネだけではなくて、フィーリ達、レイネの周りの人達とも仲良く出来れば、きっと母はもっと幸せになれるだろう。
少なくとも今のレイネは幸せであったし、母もそうだと考えた。
「かあさまは大変なのです。ずーっと先のことまで考えてお仕事をしようとしていて……でも、かあさまのそういうお仕事を理解していない人が沢山いて」
でも、とレイネは続ける。
「レイネはもっと、かあさまがやろうとしていることを皆にも理解してもらえるようにしたらいいんじゃないかと思って……もちろん皆は分からないかもですが、きっと分かってくれる人もいて、だからそうやって仲良くして行けばずっとかあさまの大変なお仕事も少しは楽になるんじゃないかなって、少しだけ」
そんな言葉にフィーリは微笑んだ。
レイネが国や仕事、母の話をする時、フィーリは良いとも悪いとも言わなかった。
いつもそうやって微笑むだけ。
フィーリは、彼女が描く絵画のように曖昧だった。
レイネのように明確な何かを描くことなく、けれどいつも、曖昧な何かを表現する。
肯定するでも、否定するでもなく、自分は単なる使用人。
主人を信じて同じ道を歩むことが自分の仕事なのだと、微笑を浮かべて。
「きっとその方がずっと、かあさまも楽しくなると思うのです。だからまずは、フィーリ達ともっと仲良くするところから始めたらって、その、レイネはフィーリと違って口下手なので、そういうことを言うと叱られてしまうのですが……でも、そういうのがかあさまにも伝わればいいなって、それで……」
フィーリはくすくすと肩を揺らして頬を撫でる。
それからレイネの唇を親指でなぞり、それが絵画というものですわ、とフィーリは言った。
「エルスレイネ様は買いかぶっておられますわね。……わたくしも随分な口下手。頭の中にあるものを言葉で表現出来ている訳ではありませんわ。ですから、こうやって言葉以外で何かを伝えられれば良いと、こうして絵を描いてますの」
レイネ様と同じくですわ、と楽しそうな笑みを浮かべて。
それからフィーリは筆を取り、パレットの上に赤い円を描いた。
「例えばこれは何でしょう?」
「……赤い円?」
「では、頭の中で円というものを想像してみて下さいませ。……本当にこれは円と言えるでしょうか?」
「え……?」
質問の意味が一瞬分からず、首を捻り。
フィーリは苦笑して、円を筆の先で示す。
「線と線も繋がってませんし、そもそもこれは線ではなく、板の上に乗った赤い顔料ではなくて? どうしてレイネ様はこれを線で描かれた円だと思ったのでしょう?」
「それは……」
パレットの上に描かれた赤い円を見つめる。
円は円――しかし、彼女の言うとおり、確かにそれは線ではなく、板の上の顔料。
仮にそれを線だとしても、円と言うには始点と終点が繋がっていなかった。
「ふふ、意地悪でしたわね。でも……例えばエルスレイネ様は、頭に思い描いたその本当の円を、ここで何かに描くことが出来るでしょうか?」
少し考えて、すぐに首を振る。
描いてしまった時点で、それは立体であった。
極論を言うならばレイネはそもそも『線』というものを描くことを出来ない。
「誰しもそんなものですわ。図形に限らず、それが善悪であれ、愛情、憎悪、怒りや悲しみ喜びさえ、どのような思考も感情も何一つ、自分の頭で思う何かをそのままの形で表現することなんて誰にも出来ませんの」
「誰にも……」
「ええ、誰にも。……でも、わたくしはここに円を描いて、エルスレイネ様はこれを円であると認識した。この間に挟まった媒体はなんであれ、わたくしは円だと思い、エルスレイネ様も円だと思う。大切なことはただそれだけ……」
筆を置いて、レイネの腰を優しく抱いた。
温かくて心地よい感触。フィーリは優しく微笑んで、目を細める。
それから、レイネの描いている絵を指で示した。
「わたくしには少なくとも、エルスレイネ様があの絵で伝えようとしているものが伝わりましたわ。少なくともそう思いますの、わたくしが描いた円を、エルスレイネ様が円だと受け取って下さったように」
フィーリの話は、いつも少し難しい。
自分の解釈が正しいのかどうかも分からない。
ただ、それでも、フィーリがいつも伝えようとしてくれる何かがとても大切なもののように思えて、同じものを見えていれば良いといつも思う。
「ですからあの絵はとても素敵な、素晴らしい絵。……きっと、女王陛下にもエルスレイネ様が伝えたいものが伝わると、わたくしは思ってますわ」
「……はい」
完成するのが楽しみですわね、とフィーリは言って、レイネは頷く。
上手でなくて良いのだと、伝われば良いのだと、いつもフィーリはレイネに語る。
辿々しくても話しかけてみれば、使用人達はレイネが何を言いたいのかを理解しようとしてくれて、次第に笑顔を見せてくれるようになった。
伝えようとする気持ちが大事なのだと、いつもフィーリはレイネに語る。
そんなフィーリのおかげで少なくとも、レイネの日常は楽しくなった。
いつかの言葉を思い出して、口を開く。
「エルスレンにしようと思うのです」
「……エルスレン?」
「はい、この絵のタイトル……昔フィーリが描いた絵みたいに」
「まぁ……」
フィーリがいつか口にして、絵で表現したものを本当に理解出来ているのかは分からない。
けれど、そういうものを描いてみたかった。
いつか母も同じ言葉を口にしていて、だからきっと、そうした気持ちは母にも伝わるのだと考えて。
それを望む人は、決して母とレイネだけではないのだと。
「実はかあさまも前に、フィーリと同じ――」
そう言いかけた所で、ノックの音。
そちらを振り返ると、どうぞ、とフィーリが告げる。
「ベヌーレ様、どうされました?」
「いえ……ちょっとね。少し話をしたいと……」
入ってきたベヌーレを見て、レイネは困った顔でフィーリを見つめる。
先ほども母の部屋から追い出されたところであった。
しかしベヌーレは首を横に振る。
「お気遣いなく、エルスレイネ様。先ほどは申し訳ありません」
「いえ、いいのですが……あ、お茶淹れますね」
立ち上がったレイネを見てフィーリは苦笑し、同じく立ち上がるとそれを手伝い、そちらに、と窓際の席をベヌーレに勧めた。
ベヌーレもまた、王女らしからぬレイネの姿に微笑みながら、礼を述べて中へ――その途中で描きかけの絵画を認めて、立ち止まる。
「これは……エルスレイネ様が?」
「ええ、女王陛下に贈りたいと」
「そう……」
ベヌーレは絵に近づくと、目を細めてそれを眺める。
グラバレイネとエルスレイネ、笑顔の女王と王女を中心にした宴の席。
ベヌーレとフィーリはそれぞれ、二人の側で笑顔で控え、他の使用人達も楽しげに。
鬱蒼とした木々が端を覆いながらも、明るい陽光がテーブルと彼女達を照らし、その鮮やかで華やかな世界との対比を描いていた。
現実感のないシチュエーションと、まるで現実のように精緻で克明なタッチ。
そこに描かれた己の姿を見つめると、ベヌーレは何かを堪えるように目を閉じる。
「どうですか……?」
「とても……素敵な絵ですね。本当に……すごく」
「えへへ、そうですか? かあさまも喜んで下さると良いのですが……」
少しの間、絵画を前にベヌーレはそうして。
それから立ち上がって振り返ると微笑んだ。
「ええ、本当に。……いつの間にかエルスレイネ様が、こんな素敵な絵を描けるようになっていただなんて知りませんでした」
そうしてベヌーレは勧められるままに椅子に座り、部屋の絵画を眺めた。
レイネはそれを見て楽しそうに、これまでの作品を彼女に見せる。
使用人達の中には絵を見に来るものもいたが、ベヌーレは忙しい。
一度か二度顔を出した程度で、あまりレイネの絵を見せる機会はなかった。
レイネの絵を見る度に嬉しそうに頬を綻ばせ、もっと足を運んでおけば良かったと苦笑する。
そうしてポツポツと、ベヌーレが語るのはレイネの昔話。
レイネが生まれたばかりの小さな頃から、これまでの。
話をしたい、と口にしていたため、真面目な話だろうかと考えていたものだが、特にそういうつもりでもなかったらしい。
使用人達のことも交えて、あの子はいつまでもドジが治らないだとか、そんな愚痴まで零しながらも、楽しそうに笑って。
普段は真面目で厳しいベヌーレであったが、その日は不思議と柔らかく、笑みを絶やさず。
紅茶を二杯口にして、立ち上がるまでその調子であった。
「そろそろ夕食の時間ですね。レイネ様、わたしはこれで」
「はい、えへへ……ベヌーレも今度、一緒にお絵かきしませんか? とっても楽しいですよ、フィーリはすっごく教え上手なのです」
「ありがとうございます。……ですが、わたしは不器用ですから」
ベヌーレは言って、レイネの描いた楽園を眺めた。
ほんの少し目を細めて、口元に笑みを浮かべて。
「これから新しいものに手を出すには、歳を取り過ぎました」
レイネにはそれが不思議と寂しそうに思えて、首を傾げ。
フィーリが口を開く。
「……ベヌーレ様」
「何かしら、フィーリ」
「まだその絵は未完成ですわ。……きっと、素晴らしい絵になると思いますの。わたくしもエルスレイネ様も、ベヌーレ様にご覧になって頂きたいですわ」
ベヌーレは答えることなく目を閉じて、そのまま扉の方へと向かう。
「心から、完成するのを楽しみにしてるわ」
そして、エルスレイネ様をお願いね、と一言残し、扉を開いて出て行った。
「……? フィーリ?」
フィーリはしばらく扉を眺めて、それから目を伏せる。
もう一度レイネが呼びかけると、苦笑を浮かべて首を振った。
「……わたくしの考えすぎであれば、良いのですけれど」
「えと……?」
「いえ、ひとまずお片付けをしましょうか。もうすぐお食事の時間ですもの」
「はぁ……分かりました」
そんなフィーリの言うままに、レイネは彼女と片付けを。
その後はベヌーレを目にすることもなく――翌朝、ベヌーレは女王への手紙を残し、自室で遺体となって発見された。
自分の首へと、小さなナイフを突き立てて。
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