レイネ 二
――当たり前のことを当たり前にこなしては気味悪がられた。
世の中には当たり前のことさえ出来ないものばかりで、自分が異端であることにはすぐに気付いた。
誰も自分を理解出来ず、遠巻きに。
『お父様、ニルセとの貿易の件を考えてみたのですけれど、やはりあれでは将来的にもこちらの利益になりませんわ。この先鉄鉱石も――』
『五月蠅い! お前はいつから当主に進言する立場になった!? お前はそんなことより他の貴族に気に入られるよう、その耳障りな口を閉じることを覚えろ! 言っておくがレイネ、外では一切そのような話を口にするなよ。小賢しい小娘の戯言で恥を掻くのは俺だ』
『……、はい。申し訳ありません、お父様』
幼い頃には間抜けにも、その溝を埋める努力をしようとしたものだが、無駄なこと。
父は王として生まれた、矜持ばかりが取り柄の男。
知能も知性もなく、能力もない。
ただ、玉座を維持することだけに執着していた。
当時のアルベランは斜陽の王国。
建国王バザリーシェの築き上げた威光も輝きを失い、王家と領主達のパワーバランスは崩れていた。
バザリーシェの示した封建領主制度は悪くないもの――当時急務であった領土拡大を目的としたものとしては、家臣に領地という褒美を与えることは悪くない考えであったが、安定という意味ではいずれこうなる結果も見えていただろう。
焼け石に水を垂らすような改善は時折見られたが、それも限界。
良くて二十年、早ければ十年足らずでアルベランは分裂する。
強き王が求められるそんな現状において、あまりに父は無能であった。
そしてその無能は自分の身をも脅かす。
薄らとそれを考え始めたのは六つの頃。
決意したのは八つの頃。
父は保身のため、レイネが有力貴族から婿を取ることを望んでいた。
輝きを失ったとは言え王家は王家。
力しかない大貴族に取っては、王家という肩書きは今もそれなりに重要なもので、それを手にすれば名実共にアルベランの支配権を手にできる。
その嫡子が王子ではなく王女となれば婿入りが出来、元より王家の血が混じる公爵家に生まれたものであれば、継承権の順序を無視して王となることも難しくはない。
王子なき王家というものは、彼らにとって非常に魅力的なものとして映る。
父は王子ではなく、王女が生まれたことを大いに喜んだ。
王子であれば王位継承の筆頭、慣習的に父は王子を継承者に指名せざるを得なくなるが、当然ながら他の貴族にとってそれは面白いことではない。
名ばかりの王家を潰して新たな王朝を打ち立てる方が手っ取り早いと考えるものが多いだろう。
その場合は当然父を生かしておく理由もなくなるが、王女の婿として有力な貴族が王家に入ってくるなら話は別。
必然、アルベラン王として父の権威はその貴族によって守られる。
故に、娘の名前は輝けるもの――レイネという名は、父にとっての光であった。
あえて子を成さず、誰かを指名するという手もあったが、内乱を嫌ったのだろう。
現状の王位継承権第一位は王弟――しかし、力で言うと上から数えて五番目。
第二位以降を指名するにしても、現状頭一つ抜けた有力な貴族、ガスレ公爵家は第七位。
これを指名する理由を探すことは難しい。
父が最も望んでいるのは、ガスレ家の嫡男がレイネの婿として王家に入ること。
大事なのは建前であった。
どちらも本質的に変わりはないが、レイネとその嫡男が通じ合って結ばれ婚姻関係を結ぶのと、直接的に継承者として指名するのとでは大きく違う。
貴族は体面を重んじる。
継承権の順位を無視した指名に対して不満を口にするのは当然のことだが、王女が見初めた貴族と結婚するとなれば、少なくとも形の上では祝福されなければならない。
いかにそこに不満を覚えても、反旗を翻すには大義名分に欠けてしまう。
父の結論は少なくとも大きく間違ったものではなかった。
レイネはそれからガスレ家に取り入るため、擬態する術を学ぶ事に決める。
賢しい女を嫌うものは多い。
むしろ適度に馬鹿に見える方が良く、自分の考えを口に出すことはやめ、魅力的とされる女を観察した。
幸い容姿は優れていたし、後は仕草と作法。
可憐で純粋、心優しく、そう見えるように生活から改めた。
父や母、使用人達には気味が悪く見えただろうが、心根を改めたのだと語り、そのように接し、適度に喜ばせてやると次第にそんなレイネを受け入れる。
それは至極簡単なことであった。
時に笑い、時に悲しい顔を浮かべ、時に怒ってみせる。
面白くも悲しくも腹も立ちもしないことでも、そうして演じてみれば周囲はレイネを『自分の仲間』と錯覚した。
理解出来ないものを人は恐れる。敵意を向け、嫌悪する。
彼らに理解出来る範疇で、理解しやすいよう演じてやれば、それで多くの問題は解決した。
実際に動き始めたのは、十三。
理由は自分が十分に、魅力的な女として周囲から映っていると実感したから。
『お久しぶりです、ガスレ公爵』
『久しぶりですな、王女殿下』
『アルベル様も先日のご活躍を耳にしております。随分な手柄を挙げたとか』
『は。偶然の手柄……まだまだ父上には敵いません』
『ご立派なこと。お父様譲りですのね。……ガスレ公爵も腕に矢傷を受けたと聞いて心配しておりました。お体の方は?』
尋ねながら自然にドレイルの腕に触れると、ぴくりと反応する様子。
アルベルはまだ若く、初陣を終えたばかり。いわゆる誠実そうな好青年、と言うべきもので、特筆したところはない。
重要なのはその父ドレイル=ガスレであった。
武勇で知られる豪傑であったが、色狂い。
顔を合わす度、レイネに興味を示していたことは知っていた。
『はは、何、矢傷の一つや二つは傷の内に入りません。戦場で磨かれた頑強な体故、矢傷を受けたことさえ王女殿下に言われるまで忘れておりました』
『まぁ。でも、ご自愛下さいませ。ガスレ公爵ほどの武人のお体は金貨などでは購えないものでございますから……ぁ、失礼を』
羞恥を浮かべたように、ほんの少し頬を紅潮させて手を引く。
媚びる、という訳ではなく、純粋にその身を案じて触れた。
そのように、可憐で純粋に見える乙女を多くの男は喜ぶ。
アルベルがその様子に見惚れているのを感じ、ドレイルがほんの一瞬好色なものを浮かべたのが見えた。
『いえ、失礼など。しかし、王女殿下にそのようにねぎらってもらえるとなれば、戦の度矢傷を受けたくもなりますな』
『ふふ、お気遣いありがとうございます。……実はお父様に、ガスレ公爵は過酷な戦場帰り、特に羽休めして頂けるよう気を遣えと言われて……それでお怪我のことばかりが頭に。お父様はあまりわたしにそうしたことを仰らないので、もしかするとその矢傷も、大変な大怪我であったのではないかと』
『ほう、国王陛下が?』
ドレイルは父の方を見た。
少し離れたところで別の貴族と話していた父は、その視線に気付くと軽く手を上げて応じ、微笑む。
父が口にした訳ではないが、そう口にしておけば、それが父の意向であるとドレイルは勝手に察するだろう。
少なくとも父にとって、それは悪い話ではない。
『なるほど。宴の後にでも改めてご挨拶させてもらいたいものです』
レイネはそれを分かっていない振りをして微笑んだ。
ドレイルが察する父の意向とは、要するにレイネがドレイルへの貢ぎ物だということ。
食いついてしまえば、後はドレイルを籠絡するだけ。
レイネは己の才覚を疑わない。
好ましいか好ましくないかで言えば後者であるが、その見返りは十二分に大きい。
それくらいの価値は十二分にあった。
『ええ、ガスレ公爵がそう仰るならお父様も喜びます』
そうレイネが口にしたところで、姫様、と側付きから声。
この場で話すことはもう存在しない。
それではひとまず失礼を、と二人に挨拶し、側付きに手を引かれる。
息子のアルベルは最後までレイネに見惚れていた。
親子揃って頭が悪そうで、実に都合が良かった。
『どうかしたかしら、ベヌーレ?』
『……いえ、申し訳ありません、少し考え事を』
年嵩の側付き――ベヌーレは案ずるような目をレイネに向ける。
誰より近くで過ごしてきた使用人も、今ではレイネの『純真さ』を疑っていない。
哀れな姫君、とでも思っているのだろうと、それに気付かぬ振りで微笑みを浮かべた。
その日の晩、内密の話があるとドレイルはレイネの部屋に。
王家の状況についてじっくりと解説し、レイネが置かれている立場の危うさを説き、父からの許可も取ったと要求を述べた。
怯えた振りをして頷くと、ドレイルは獣のようにレイネを組み敷いた。
――表向きはアルベル=ガスレの婚約者。
実際はドレイル=ガスレの愛人。
使用人達に気丈な顔を浮かべつつ、それでいてアルベルには心からの好意を抱いているように。
少し前から父には薬を与え弱らせていたが、これで用済み。
与える薬も調整し、原因不明の病として病床に。
体が弱ると気も弱るのか、あれだけ高圧的であった父は毎日のようにレイネを呼び、自分がレイネにしてきたことを悔いては謝る。
そこでは父を愛する娘の顔。
仕方のないことであった、愛していると囁けば、父は安堵したように笑顔を見せる。
王位を自分に継承させるよう仕向けるのも簡単であった。
ドレイルもまた色狂いだが、本質的には慎重で臆病。
寝台で囁けば、王位を奪うのではなく安定を取る方向へとすぐに気持ちは流れる。
ドレイルはレイネの体に満足していたし、多少の加虐趣味はあったが、その頃にはレイネも行為に慣れ、従順を演じることにも苦労はない。
ドレイルに逆らえないのだと言葉と態度で示してやると、ドレイルも父と同じく、大して考えることもなくレイネに女王の座を許した。
実権を与えたところで、レイネには何も出来ない。自分の言うとおりに動いてくれると彼は錯覚していたし、レイネは彼の傀儡を装った。
レイネに誘導されているとは知らぬまま、彼は己が手にしたつもりになった錆びた玉座を復活させるため、ガスレ家の莫大な資産を王家へと注ぎ込んだ。
その時には既に、自分が王になったつもりだったのだろう。
親子揃って愚か者。
ドレイルにはレイネを自分の女と思い込ませて操るように、アルベルにはレイネがドレイルに弄ばれる哀れな妻と、そう思い込ませて操った。
落ちぶれた王家の悲劇の姫を演じて見せ、涙を見せて不貞を詫び、愛しているのはあなただけだと口にすれば、アルベルは容易にそれを信じ、レイネを助けるためにどんなことでもしてみせる、とその名に誓って愛を囁いた。
頭の中に詰まっているのは夢物語の英雄譚――親子揃って脳がない。
内心ではおかしくて堪らなかった。
ドレイルは大金を王家に注ぎ込み、アルベルもまたドレイルに見つからぬよう、水面下で王家を肥やす。
レイネが十分に力を手にしたところでドレイルを暗殺し、ガスレ家を吸収し終えると更に用済みになったアルベルも始末した。
流石にその頃にはレイネを疑うものも現れたが、準備は終わり。
女王という肩書きとそれに相応しい権力を手にしたレイネに勝てるものはなかった。
寝てやるだけで尻尾を振る相手は腐るほどいたし、レイネの指揮する軍に勝てる領主などいはしない。
反乱を力尽くでねじ伏せ、権力を己の手に集約し、王家は盤石。
もはやこの世に、レイネを脅かすものなど存在しない。
――ふと気付いたのは、それに気付いた時のことだった。
果たして自分はこんな世界で、一体何がしたいのだろう?
何が欲しくて、こんな世界で生きているのだろう?
「かあさま、こっちの書類は終わりました」
「そう。偉いわね、レイネ」
「えへへ……」
執務室の椅子に座り、膝に乗って甘えてくるレイネに微笑みながら、彼女の持ってきた書類にパラパラと目を通す。
彼女は間違えない。レイネは己がそうであるように、娘の優秀さを疑わない。
単純に、記憶するための作業であった。
眺め終えると娘を抱き上げ、抱きしめて、その背中を撫でてやる
輝けるもの。光。
自分と同じ『レイネ』と名付けた娘は、レイネと同じように高い知能を有していたし、一部ではレイネよりも優れているように思えた。
ただ、ある意味では期待外れ。
十四を数えるようになったというのに、融通が利かず、思考は幼いまま。
純粋、と言えば聞こえも良いが、少しばかり『お馬鹿』であった。
人がペットを飼うような気持ちであろうか、とレイネは思う。
多分それに近しいものである気がしたが、けれど少なくとも、甘えてくる様子に可愛いと思え、こうして抱きしめてみると気持ちが落ち着く。
娘はある面で決定的にレイネより劣っていたが、けれど娘のそんな欠点は嫌いではなく、愛しく思えた。
娘が自分を理解出来るようになるまでには、もっと時間が掛かるのかも知れない。
レイネと違い、安全な環境で育ったせいもあるだろうか。
だからと言って、無理に娘をどうにかしようとは思わない。
不思議なもの、とレイネは思う。
他人の無能を誰より嫌うレイネであるのに、娘のそんな部分にだけは不愉快を覚えないのだから。
知能だけが取り柄で知恵がなく、間抜けで幼い。
かあさま、かあさまとすり寄って、無防備に愛情を示す。
その場その場の欲求に流されて、短絡的で無邪気で脇が甘く、けれどそんな娘と過ごす時間だけは、レイネは何も考えず、娘のそんな姿だけを愛でることが出来た。
頭の中で渦を巻く、陰鬱とした暗い感情に――ふと、光が差すように。
ノックの音が響いて、入室を許可する。
現れたのは古株の使用人長、ベヌーレだった。
「失礼致します、女王陛下」
今では老婆というべきベヌーレは、少し気にするように娘を見る。
レイネは若干の不愉快を覚えながら、娘を撫で、仕事は終わりよと声を掛けた。
「はい、じゃあレイネはフィーリの所に行ってきますね」
「……、ええ」
フィーリ=ネーラス。ガスレ家の分家出身。
母親は病死、父親は内戦で戦死、兄弟姉妹はなし。
容姿に優れており、貴族への褒美にする予定の女であったが、才覚が惜しいと告げるベヌーレの希望で使用人として働かせることになって、二十年。
使用人の出自については自ら軽く調査するが、白であればある程度はベヌーレの好きにさせていたし、最低限の信用さえ出来れば誰でも良い。
わざわざベヌーレが希望しただけあり、働きは悪くなかった。
ベヌーレからの信頼も厚く、実質的には使用人のナンバー2。
娘の側付きを誰にするかを考えた際、決めた理由はそんな所で、それなりに評価してやっていたのだが、今は随分と後悔している。
気に食わない小賢しい女。
娘に悪影響だと離したが、今でも娘のお気に入り。
下らないことばかりを娘に教えた。
『あの子に余計なことを吹き込まないでちょうだい。……明日から側付きを変えるわ。王宮から追い出されないだけありがたいと思いなさい』
『……ご厚情、感謝致します。女王陛下の仰せのままに』
何より目が気に食わない。
平身低頭を装いながら、まるで憐れむような目で、レイネを見た。
『何かしら、その目は』
『……いえ』
『言いなさい。わたしの気が変わって、あなたの顔を見たくなくなる前に』
その言葉に怯えるでもなく、困り顔。
目の前にいる自分が何者かを理解出来ていないのかと、そう思えるような反応。
『では……僭越ながら質問をお許し下さい。……女王陛下は、一体エルスレイネ様にどうなることを望んでいらっしゃるのでしょう?』
『どう……?』
『エルスレイネ様は聡明で、けれど危ういほど純粋なお方。日々、多くのことにご興味を持たれ、そして様々なことに悩まれておいでですわ。フィーリが良かれと思って答えたものが、女王陛下のご意志にそぐわないものであったのならば、もちろん非はこのフィーリにございましょう』
己の立場さえ弁えていなかった。
一言命じれば、己の首を飛ばせる相手を前に。
『ですが、そうであるならば女王陛下がどのようにお考えであるのか……それをフィーリに教えて頂ければと思いますの。このフィーリ、名に誓ってレイネ様の幸福こそを願い、そのためならば身命を賭す覚悟……使用人風情が御心を問うなど、不遜極まりないこと。されど、それがレイネ様の幸福に通ずるものであるならば、必ずやそのお役に立ち、それをもって忠誠を示したく思います』
深く頭を下げる顔に、浮かんでいる表情は何か。
『わたしからあなたへの命令は、余計なことを吹き込むな。……行きなさい』
小賢しい女。不愉快な女。
ただただ、気に食わない。娘に怯えていたはずの使用人達ですら、いつの間にか娘を普通の子供のように扱っていた。
気安く、まるで自分達の『仲間』のように。
娘もまた、そのように錯覚していた。
あの女の入れ知恵だろう。
娘には打算的に人間関係を構築できるような器用さはなかった。
裏で操っているのは、あの女。
王女を籠絡して、手にしたいものが権力であればまだ可愛げもあった。
そうではないから始末が悪い。
「……何かしら、ベヌーレ」
考え事をやめ、口を開く。
あの女のことを考えると苛立たしさが募るだけであった。
「……は。セイル様が女王陛下へお会いしたいと」
「用件は?」
「女王陛下に直接、と」
「言わなかったかしら。興味がないの。適当に聞き出しておいてちょうだい。多少の希望程度は叶えてあげると伝えておいて」
「……女王陛下」
セイルは名目上の第一王子。
一応は息子であったが、一番最初の失敗作というのが正しいだろう。
行事を除けば血縁上の息子や娘と顔を合わせることもなく、こちらから会いに行くこともなければ、住む場所も離していた。
言葉通り興味もなかったし、王子や王女としての生活はさせているが、面倒な存在。
反乱を起こさせて始末しようと随分前に考え、それなりの領地も与えてやったものだが、中々動き出してはくれなかった。
「……もう少しだけ、エルスレイネ様に向けるような愛情をセイル様達にもお与えてになっては下さいませんか? ベヌーレにはあまりに、不憫に思えてなりません。セイル様達は女王陛下を愛して――」
「あなたの小言はうんざりよ、ベヌーレ。……それに、愛だなんて」
レイネはおかしくて肩を揺らし、ベヌーレを見た。
「雛鳥が鳴くのと同じ理由かしら。あの子達は媚びを売っているだけ、わたしにより多くの餌を与えてもらうためにね。餌は十分に与えているし、十分な住処も与えているわ。それ以上のものを鳴かれたからと与えていては際限なく付け上がるだけ」
ベヌーレは白くなった金の髪を揺らし、顔を伏せる。
「レイネのような能力もなく、餌を求めるだけの生き物。それに施しを与えてあげているのだから、十分に可愛がってあげている方だと思うのだけれど……そういう施しを、あなた達は愛情と呼ぶのでしょう?」
「……姫様は、間違っておられます」
ベヌーレはぎゅっと拳を握る。
その目には、薄く涙を滲ませていた。
「幼き頃から姫様のお側に仕えて来ました。……姫様がどれほど過酷な道を歩んで来られたか、そのために心を殺し、どれほど多くのものを捨てざるを得なかったかもベヌーレは誰より知っております」
「ふふ、知っていると錯覚しているだけよ、ベヌーレ。あなた達は都合良く物事を考えすぎなの」
嘲るようにレイネが頭を指で示すと、ベヌーレは首を振る。
「少なくとも幼い頃、姫様が先王陛下に向けたそれは、錯覚などではなく確かな真実でございました。……その時の姫様を知ればこそ、わたしは生涯を姫様に捧げようと、名に誓い、こうしてお側に」
「同じように、餌をせがんでいただけのことよ。愚かだったわ」
「そうではありません。決して、愚かでもありません。……姫様が求めていたものは、そのように打算的なものではなく、紛れもない先王陛下からの愛なのですから」
呆れて笑うと、どうして笑うのでしょう、とベヌーレは尋ねた。
「己の保身しか考えない先王陛下のような方が、鳴いたからと姫様に何かを与えて下さると思っていたのでしょうか? 姫様は聡明な方です、きっとそんなことは無意味であるとすぐに気づけたでしょう。それでも続けたのは、期待したからではないでしょうか? 先王陛下が、姫様を愛して下さるのではないか、と」
「ベヌーレ」
レイネは嘆息すると、ベヌーレを睨む。
「耳障りよ。……あなたは使用人、わたしが女王。あなたが何を言おうとわたしがあの子達にこれ以上何かをしてあげることはないし、その意見は変わらない。興味がない、だなんて遠回しな言い方も良くなかったわね。……はっきり言うと不快なの」
「……不快?」
「そう。あんな出来損ない達がわたしから生まれただなんて、人生の汚点だわ。……わたしが欲しかったのはレイネだけ。……あなた達のような愚か者ばかりの世界で、唯一わたしを理解してくれる、あの子だけ」
そう、あの子だけは、きっと自分を理解してくれる。
誰より愛しい、わたしのレイネ。
世界で唯一の宝物。
それだけあれば、他の何もかもがどうでも良かった。
「これ以上わたしを不快にさせない内に出て行くことね。……次に同じような下らない言葉を吐くつもりなら、もはやここにあなたの居場所はないと思いなさい」
告げると、再び書類に目を落とす。
まだ処理しておく仕事がいくつも残っていた。
王宮内も含めて火種があちこちに転がっている。
この先の大陸東部侵略を前に一度大きく燃え上がらせて、不穏分子を一掃しておきたかった。
そのためにわざと民衆を締め上げ、納税を行えなかった村をいくつか見せしめに焼いている。
民衆をどれだけ苦しめようとレイネこそが王であり、臣下に求められるのはレイネの命令に従うか、従わないか、ただその二択。
正義や大義などという下らない理屈で刃向かう愚か者もこれで多くが刈り取れる。
セイルの話というのはその関係。
他の王子達が間違いなく、反乱の中核になることも理由だろう。
王位継承などあり得ず、王位を争う関係にもないからか、王子達は仲が良く、セイルが反乱を未然に防ぐ方向で動いているのは分かっていた。
それでは問題が解決しないと言うことも分からず、滑稽に。
レイネが欲しいのは邪魔な王子達を殺すための大義名分――反乱を起こらなければ長引くだけ。
むしろ問題を長引かせているのだから、面倒極まりなかった。
「ベヌーレ、気が散るわ。……馬鹿な話を聞かされて不愉快なの」
「……、はい」
レイネがこれ以上話す気がないと理解したベヌーレは、少しして部屋を出て行く。
そちらにはもはや、目も向けなかった。
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