レイネ 一

「ようやく……ようやく生まれたのね」


最初に聞いたのは声。


「……わたしの、わたしだけのレイネ」


――ずっと待っていたのよ、と、それが母の声であることを知ったのは少し後のこと

レイネが光を意味する言葉であること。

レイネが自分の名前であることを理解したのも、少し後のこと。

その時は単に、音として捉えただけであった。


暖かい場所から抜け出たばかりの体を拭われて、胸は苦しく、肺に入れようとした空気に小さくむせる。

けほ、と咳き込む度に、抱かれたレイネは撫でられた。


ぼんやりとした視界に世界は目映い。

生まれたばかりのレイネはただ、その目映い光に目を細めた。









母譲りの黄金の髪と、紫の瞳。

アルベラン王国第四王女としてレイネは生まれた。

兄は五人、姉も三人。随分と産んだ方だろう。

けれど母は、妹や弟を作ることはなかった。


「……あなたは特別なのよ、レイネ。他は失敗作なの」


明るい金の髪。同じ名前をした母は微笑みながらレイネに言った。

ベッドの中でレイネの頭を撫でながら、いつも色んな話をレイネに聞かせる。


「失敗作?」

「そう、失敗作。……わたしが望んだのは、あなただけだもの」


母は女王。

大陸の大部分を支配するアルベラン王国の女王で、忙しい。

一日中色んな仕事をしていて、城で眠る日はそれほど多くなかったが、城で過ごす夜はいつもレイネを呼び、優しく抱いて話を聞かせた。

レイネは特別なのだといつも母は口にする。

実際、客観的に見てもそうだろう。

母はレイネにとても優しくしてくれたが、他の兄姉に対してはそうではない。

母の寝所がある階に兄姉達が立ち入ることはなかったし、少なくともレイネ以外が呼ばれているところを見たこともなかった。

この階に踏み入れるのは極少数の使用人とレイネだけ。

母がレイネを特別な存在として認識しているのは確かであった。


他の兄姉達にとってもレイネは特別。

兄姉達は仲が良く見えたが、レイネのことは避けている。

嫌われているのだと判断したが、理由はいまいち分からない。

使用人達、貴族達にとってもそうで、他の兄姉達には笑顔を浮かべる人達も、レイネを見ると表情を硬くし、避けているように見えた。

レイネのことが嫌いなのかと尋ねてみれば、慌てたように否定する。

けれど少なくとも、好かれてはいないのは確かだろう。


レイネは多くのものにとって特別であったが、あまり良いことのようには思えない。

母はレイネが特別であることをとても良いことであるかのように語るが、レイネにはいつもそれが不思議であった。


「世界には二人だけなの。わたしとレイネのね」

「二人だけ……」

「そう。同じ姿形をしているから仲間のように見えるだけ。でも本当は違って、わたし達は彼らと同じじゃないわ。彼らはわたし達よりずっと劣っていて、わたし達とは同じものが見えないの。同じことも出来ないし、同じように考えることも出来ない。……犬や馬、ああいう獣と変わらない」

「けもの……」


首を捻ると母は苦笑した。


「レイネはその点、とても賢いわ。きっといつかわたしと同じものを見て、同じことが出来るようになって、同じように考えることが出来るの。……ふふ、まぁレイネは少しお話するのが苦手だから、少し時間が掛かるかも知れないけれど……不思議なものね、そういう所も可愛く見えてしまうのだから」

「はぁ……」

「まだ分からないだろうけれど、他の人間のことを気にする必要は無いわ、レイネ。その内、気にすることも馬鹿らしくなるもの。考えるべきは彼らをどう躾けるか、どういう風に利用するかだけ。ティーカップに会話を求めたりはしないでしょう?」

「……? はい、ティーカップは喋れないですし……」


同じよ、と母は笑う。


「他の人間も言葉を話すけれど、それは鳴き声のようなもの。会話したいと望んだところで相手は同じ姿をしているだけの獣なんだもの。ティーカップがフォークの代わりにならないように、全てのものには用途があって、それ以外には使えない」


優しくレイネの髪を指で梳かしながら、柔らかい表情で。


「……あなたは他の人間なんて気にせず、わたしだけ見ていればいいわ。あなたが欲しいものを与えられるのはわたしだけ……わたしが欲しいものを与えられるのも、あなただけ。それだけで十分で、それ以上は必要ないの」


頬を撫でると親指で唇をなぞり、額へゆっくりと唇を。

レイネは微笑み、顔を胸に押しつける。


母を怖い、と思う人間が多くいた。

誰もが皆、怯えるように母を見ては語る。

けれど母は、レイネにはとても優しいし、立派で優秀であった。

レイネは母を怖いと思ったことがなかったから、いつも少し不思議に思う。


母はいつも明確で、迷わない。

正しいこと、間違っていることを、そうであると断言した。

大抵それはレイネにとっても受け入れられる論理であって、なるほど、と思えることなのだが、しかし多くの人はそう思わないのだろう。


例えば、無能は排除するべきである。

それは正しい。

不利益をもたらすものは除去するべきであるし、利益をもたらさないのであれば不要である。

明確な母の指標はレイネにも受け入れやすいものであったが、多くの臣下は母があまりに苛烈すぎると陰で不満を口にした。


やるべきことをやっていれば、母も特に処罰はしない。

ただ、やるべきこともこなせない人間ばかりであるから、母も処罰せざるを得ない。

それだけのことで、母が悪い訳ではない。

それどころか国を良い形で維持し、大きく豊かにしているのだから、母はむしろ褒められるべきであって、悪く言われるのが不思議であった。


母はレイネよりずっと優秀であったし、レイネのように口下手でもない。

レイネが嫌われるのはともかく、母が嫌われる理由がよく分からなかった。

でも、母でさえそうなのだから、きっとレイネが母のようになれたとしても、やはり嫌われてしまうのだろう。


「……でもレイネはやっぱり、かあさまが嫌われたりするの嫌です。みんなで仲良く出来ればもっと素敵だと思うのですが」

「ふふ、レイネは優しい子ね。まぁでも……わたしもそんなことを考えていた時期があったかしら」


母はレイネの頭を優しく撫でて、くすくすと肩を揺らした。


「レイネはまだ、この世界が分かっていないだけ。いつかレイネもきっと分かるわ。それからその内、わたしと同じものを欲しいと思うの」

「レイネも……かあさまは何が欲しいのですか?」


そうね、と母はレイネの頬を挟み込み、紫色の瞳でじっと見つめた。


「わたしとレイネだけの、とても平和で幸せな……小さな楽園。何かに脅かされることなく、何かに悩まされることない、そんな場所を作りたいの」


レイネが小首を傾げると、また母はくすくすと肩を揺らした。

心の底から楽しそうに笑みを浮かべて頬に口付け、もう寝なさい、とレイネに告げる。

はい、と頷きレイネは母の胸に顔を押しつけ目を閉じる。


「よく分からないですけれど……レイネ、頑張ってかあさまのお手伝いします」

「嬉しい。……でも、急がなくていいわ。まずはレイネがもっと大きくなってから、かしら」

「はい。頑張ります」


レイネが告げると、母は笑って。


「ふふ、おやすみなさい――わたしの愛しいレイネ」


いつも母は眠る時、幸せそうにそう囁いた。





少なくともレイネにとって、母はとても優しい人。

その母が言うのだからと、その『お手伝い』をすることに疑問はなかったし、母が自分に与える多くのものの対価は支払うべきだと考える。

勉強をして、剣の稽古、食べて寝る。

そんな日常を繰り返す。


生まれてからは多くの家庭教師が訪れた。

高名な学者であるとか、魔術師であるとか、剣術、槍術、馬術の達人であるとか――ただ、そんな家庭教師達ではなく、レイネのお気に入りは側付きの使用人、フィーリ。

赤みがかった金の髪。

母の親戚であるらしく、母もそれなりに評価をしていた。


家庭教師達の説明はレイネにとって色々と回りくどく、不純物が多い。

けれどフィーリは察したように、授業の後で要約をレイネに聞かせてくれた。

大体のことをフィーリは知っていて、母にフィーリに教えてもらう方が分かりやすいと告げると、それから武術を除いた家庭教師もフィーリになった。


フィーリは不要なことを口にせず、必要なことだけを説明する。

自分が分からない事を質問されると家庭教師は嫌がるものだが、フィーリは特に気にした様子もなく、書庫から適当な書物を持ってきてはレイネに読ませた。

彼女の膝の上で、頭を撫でられながら本を読むのがお気に入り。

分かりにくい書き方をされている本も、フィーリは理解しやすいよう噛み砕いて説明してくれる。


七つの頃には王宮書庫の本も読み終わり、勉強の時間というより会話の時間。

レイネには分からず本にも書いていない事について尋ねると、これが正しいとは言えない、と前置きながらもフィーリは必ずそれに答えた。

どうしてフィーリは答えを出せるのかが不思議で、段々と彼女に興味が湧いてくる。

質問を重ねていけば行くほどフィーリが理解出来るような気がして、毎日あれこれと質問を考え、フィーリに尋ね、フィーリは頭を捻りながらそれに答える。

そういう質問に対するフィーリの答えは曖昧で難しいところがあったが、それを理解しようとする作業は本を読むよりずっと楽しい。


いつものように部屋で、椅子に座るフィーリの上。


「かあさまも子供の頃はレイネみたいだったのでしょうか?」


レイネが尋ねると、フィーリは少し困ったように考え込んで、口を開く。


「さぁ……でも、そうですわね、エルスレイネ様のようにとても優秀なお方であったと窺っておりますわ」


レイネを『レイネ』と呼ぶのは母一人。

母と同じレイネの名前を呼ぶのは不敬に当たるそうで、他の人間は皆、エルスという言葉を頭に付けた。

小さな、という意味合いの古語。

対する母は、偉大な、大きな、という意味合いのグラバを名前の頭に付ける。

聞き間違えや記録上の問題を生まないための理由もあるそうだが、名前に関してはどうして自分と同じ名前を付けたのか、それが少し不思議であった。

何事にも合理的で、レイネよりずっと賢い母であるのに、名前という個体の呼称にそうした面倒を持ち込んだ理由だけはよく分からない。


尋ねれば、レイネはわたしにとってのレイネだから、とよく分からない答えが返ってくるため、随分昔に考えることもやめていた。


「レイネは優秀ですか?」

「ええ、びっくりしてしまうくらいに」

「そうですか……」


フィーリは不思議そうな顔をして、レイネの頬を撫でた。


「どうかされましたか?」

「……優秀なのは良いことだと思うのですが、何だか皆そうは思っていない気がするのです。さっき、ダーカルと稽古して勝ったのですが、ダーカルは変な顔をして今日は終わりって……これまでのお礼もありますし、レイネが稽古を付けましょうか、って言ったら何だか、すごく嫌そうな顔をされて、怒らせてしまったみたいで」

「まぁ、レーミン公爵に……」


週に一回の剣術稽古。

要領を掴めばそれほど剣は難しくない。

避けきれない剣が振るわれる前に、先に相手が避けきれない剣を当てる。

単純にそれだけ。

人によって異なる背丈やリーチの違いを頭に入れておけば、予測し剣を先に当てるのは簡単であった。

剣術指南役は五人目――ダーカルはそれなりであったが、少なくとも手合わせの条件でレイネが負けることはないと確信できる相手。

昼から三刻ほど手合わせする予定であったが、小半刻足らず。

五本を取った段階で、今日はこれまでに、と中断された。


「皆、最初は褒めてくれるんです。でも、段々と何だか……」


最初の指南役も、始めた頃は筋が良いと褒めてくれたが、次第に褒めてくれなくなり、変な顔でレイネを見るようになった。

その次も、その次も、家庭教師達もそう。

怒っているような、怯えているような、あるいは不快そうな顔でレイネを見た。

他の使用人達もそう。

フィーリのようにいつも笑顔で接してくれる人は、昔から母に仕えているという古株くらいで、ほとんどいない。


「どうお答えするのか難しい問題ですわね……」

「難しい?」

「ええ、少し。言うなれば……そうですわね、びっくりし過ぎている、と言えばよろしいのかしら」

「びっくりし過ぎている……」

「そうですわ、ふふ、エルスレイネ様が優秀過ぎて。自分とあまりに違いすぎると、その人が何を考えているのだとか、そういうことが分からなくなってしまいますのよ」


そう言うと、レイネの目をフィーリは両手で隠した。

視界が塞がれ真っ暗になる。


「例えば、こうやって目を塞がれると怖くありませんか?」

「……いいえ?」

「では、これではいかがでしょう?」


言ってフィーリはレイネの首に両手を巻き付ける。

レイネは首を傾げ、怖くないです、とフィーリに告げる。


「どうしてでしょう? わたくしは今、エルスレイネ様のお命を握っておりますの。いかにエルスレイネ様と言っても、この状態から首をきゅーっと絞められれば死んでしまいますわ」

「え、と……?」


レイネは考え、答える。


「……フィーリはレイネを殺したり……その、そんなことしないと……」


質問の意図がよく分からず、言葉は少し辿々しく。

フィーリの手は愛おしげに首から頬へと動いた。


「ええ、もちろん。わたくしはそんなことを致しませんわ。エルスレイネ様を愛しておりますもの。でも……こうやって首に手を巻き付けたのが他の方だったらどうでしょう? 例えばその方は、エルスレイネ様と仲が良くない方です」

「それは……怖い……?」

「そうですわね。エルスレイネ様はフィーリをよく知っているから、そんなことをしないと安心できる。でも、知らない人に同じ事をされたら怖い。……その方達も同じくです」

「同じ……」

「きっとエルスレイネ様をよく知らないから、何をされるか分からなくて怖い、と思っていらっしゃるのですわ。エルスレイネ様はとても優秀でお強いですもの、他の方からすれば、いつ殺されるか分からない、よく知らない相手というわけです」


くすくすと笑みを零して、フィーリはぎゅう、とレイネを抱く。

豊かな乳房の感触が柔らかく、頬を緩めた。


「それにエルスレイネ様は王女殿下。この方が嫌いだとか、この方が自分に酷いことをしただとか、そんな告げ口を女王陛下にするだけでもその相手は罰せられ、あるいは殺してしまえますの。だから皆、そんな風に怯えてしまっているのですわ」

「怯える……」

「ええ。もちろんそれは、エルスレイネ様がお優しい方だと知らないからこそ。それにエルスレイネ様はすごく優秀ですもの、例えばちょっとした失敗で嫌われたり、疎まれたりするのではないかと不安になって、そんなことばかりを考えておられるのではないかしら」


損な方達ですわ、とフィーリは告げる。

レイネがまた首を傾げると、フィーリは微笑む。


「エルスレイネ様がこんなに可愛らしい方だって理解出来ないだなんて。……ふふ、でも、それも単に、ちょっとしたボタンの掛け違えでしょうか」

「……?」

「ふふ、こんな感じですわ」


言ってフィーリはレイネの首元のボタンを外し、ずらして留めた。


「あの……?」

「変な感じがしますか?」

「はい、その……」

「このくらいのちょっとしたことだと言うことです。正しい場所に留め直せばすぐに解決する問題……」


再びフィーリはボタンを直して笑う。


「理由に気付いて直してみれば、あっさりと解決するものかも知れません」

「はぁ……」


フィーリはいつも、少しだけ難しい。

でも半分くらいは理解出来るような気がして、だからもっと彼女を理解したいと考える。

全部があっさり分かるなら、そんな風には思うまい。

一切分からないなら、そんな風には思うまい。

フィーリは少し不思議で、だからフィーリの話は楽しい。


「まぁ、他の方とも仲良くなっていく内に、きっとなくなってくる問題ですわ」

「そうでしょうか?」

「そうですとも。エルスレイネ様はとっても優しい、フィーリのご主人様ですから。他の誰がなんと言おうと、わたくしはそう思いますの」


そうやって、毎日のようにレイネはフィーリと色んな話をした。

あれはどういうことなのだろうか、これはどういうことなのだろうか。

レイネが質問する度に、フィーリは困り顔を浮かべて、でも、何故だか嬉しそうに微笑んで、楽しそうに。

レイネはフィーリのそんな顔を見るのが好きだった。


そうして彼女と過ごすほどに、他の使用人達とも仲良くなる。

以前はレイネを見ると強ばっていた顔も、柔らかく、笑顔を向けるようになって――きっとそれはフィーリのおかげ。

フィーリは使用人達から尊敬されていたし、好かれていて、彼女達と仲良くなれる機会を度々設けた。

例えばレイネからの質問を、偶然居合わせた使用人に尋ねてみたり、お茶の時間に誘ってみたり。

困った様子の使用人達も次第に慣れて、緊張も薄れ、表情も柔らかく。

挨拶だけではなく、誰々がお馬鹿な粗相をしでかしてへこんでいるのだとか、ちょっとした日常の事件についても楽しげに語ってくれるようになっていた。

彼女と過ごすほどに、生活はずっと楽しいものになっていく。


ただ、母はそんなフィーリについて良く思わなかったらしい。


ある日、側付きがフィーリから別の人間に。

王宮から追い出された訳でもなく、今も王宮で働いていたが、レイネの部屋には来てくれなくなった。

家庭教師の役目も終わったため、別の仕事に回されたのだとフィーリは残念そうに言い、使用人長に側付きをフィーリに戻してくれるようお願いすると、女王陛下の命じたことだと困った風に。


どうしてかと直接母に尋ねると、あなたに悪影響だから、と母は答えた。


「あなたのお気に入りなのは分かってるわ。確かにフィーリは他に比べてまだマシな方だけれど、レイネはあの子の話を鵜呑みにしちゃうから」

「……フィーリは本にも書いてないことをレイネに沢山教えてくれます。でも、フィーリは自分が正しいって言いませんし、自分の言葉が正しいかどうかはレイネが考えなさいっていっつも言ってます」

「あの子が口にするのはわたし達にはいらない理屈よ、レイネ」

「いらない理屈……」

「わたし達とあの子達は違うの」


理解してくれると思ったのだけれど、と困ったように告げる。


「例えばレイネ、豚の気持ちが分かるかしら?」

「……いえ」

「同じように家畜も人間の気持ちなんて分からないわ。それと同じ……根本的に頭の出来があの子達とわたし達じゃ大きく違うの」


母は自分の頭を指で叩いた。


「わたし達が簡単に理解出来ることがあの子達には分からない。あの子達は本質的に家畜と同じよ。わたし達の生活を良くするための獣。……もちろん、それを愛でてやることが全く悪い事とは思わないし、時には適度に愛でてやるのも大切よ。でも、入れ込みすぎるのは良くないわ。獣には獣の考えがあって、人には人の考えがある。それは決して交わらないし、理解し合えることもない」


母は優しくレイネを抱き寄せながら微笑む。


「レイネもちゃんと、本で学べる程度のことは覚えたもの。これからはそういうことについてのお勉強ね」

「お勉強……」

「ええ、家畜との上手な付き合い方かしら。統治について書かれた本の応用と言えばレイネには分かりやすいかしら」


頷くと、良い子ね、と母はレイネの頭を撫でた。

母はいつもレイネに優しく、問題はフィーリに関することだけ。

フィーリは母を悪く言うことはなかったし、尊敬していたが、母はフィーリをそういう風に思わない。

フィーリとの話を聞けば、いつも母は馬鹿馬鹿しいと呆れた顔を見せた。

母にもフィーリを認めて欲しかったが、レイネにはどうすればいいのか分からない。

いつか母もフィーリを理解してくれたらいいと考えながら、フィーリの良いところを口にするが、あまり上手くは行かなかった。


「頑張ります。それとですね、かあさま、フィーリが絵を描いているのです」

「……絵?」

「はい。側付きについてはかあさまの言いつけ通り我慢します。なので……フィーリに絵を習ってもいいですか? レイネも絵を描いてみたいのです」


母は少し考え込むように、困った顔。


「レイネは本当、あの子がお気に入りなのね。……ちゃんとレイネがわたしの言うことを聞くなら認めてあげてもいいわ」

「はい。レイネ、ちゃんとかあさまの言うこと聞きます」

「忙しくてわたしがちゃんと構ってあげられなかったのも悪いと思ってるわ。レイネが何かを教えてもらう相手もあの子しかいなかったでしょうし……明日からはわたしと一緒に仕事をしましょうか。ちゃんとお手伝いが出来たら、許してあげるわ」

「はいっ、えへへ……ありがとうございます」


レイネは母に抱きつき、母は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ、ええ。今日はお休みなさい」


――わたしの愛しいレイネ。

いつも母は眠る時、幸せそうにそう囁く。


どこまでも優しく、レイネを抱いて。







「すごくお上手ですわ。とても綺麗……」

「そうでしょうか?」

「ええ。あっという間に基本を覚えてしまって……ふふ、流石はエルスレイネ様ですわね」


――フィーリの部屋には無数の絵画が所狭しと置かれている。

彼女の部屋に入ったのは、フィーリが側付きでなくなってから。

初めて訪れた時は、普段のフィーリからは想像出来ない部屋の様子に驚いた。

掃除から何からフィーリは全部がきっちりとしていたが、部屋の中は絵画だらけ。

当然ながら整理はされていたが、性格的に不要なものを置かないタイプだと考えていただけに驚きは強かった。


子供の頃からの趣味だそうで、王宮に来てからも暇を見つけて続けていたらしい。

風景を描いたもの、使用人長を描いたもの、レイネを描いたもの。

丁寧でよくできていたが、彼女の絵は色合いが少し不思議であった。

見たままの色ではなく、違った色をよく使う。

やり方さえ分かれば見たまま描くことなどレイネには簡単であったが、彼女の色使いはどうにも不思議で、どうしてそんな色を乗せるのかと尋ねると、彼女はその方が綺麗に思えるからだと楽しそうに笑った。


見たままに描いても良いし、見ないで描いても良い。

描きたいように描いて、それを綺麗に思えればそれで良い。


フィーリはいつもそう答える。

ただ、レイネには彼女の『綺麗』がまだよく分からなかった。


自分が描き終わった花瓶と花の絵を眺め、隣でフィーリが下書きをしている絵を眺める。

花咲く森の木漏れ日の下、薄布を纏った人達が食事をしている絵。

彼らの足元には折れた剣や、壊れた鎧がいくつも転がっていた。


「フィーリのそれは何の絵でしょうか?」

「……何の絵。何の絵と言われると、困りましたわね……」


フィーリは考え込むように首を傾げ、レイネも首を傾げる。


「フィーリは何の絵かも分かってないまま絵を描いているのですか?」

「そうですわね……ふふ、結構思いついたまま描くことが多いですもの」

「思いついたまま……」

「ええ。適当に線を引いてる内に、ぼんやり浮かんだものを形にして……自分がどういう絵を見たいのか、そんなことを考えながら描いてるのですわ」


フィーリは不思議だった。

時々、理解が出来ないと思う。

母が言った『理解出来ない』ということはこういうことだろうかと考えるが、けれどフィーリに対する『理解出来ない』はそういうものではないように感じていた。


きっとレイネに見えないものが見えていて、だからレイネに理解が出来ないだけ。

フィーリが自分に劣っているから、理解出来ないという訳ではないのだと思う。

レイネは確かに多くの面でフィーリよりも優れていたが、だからと言って自分がフィーリよりも優れているとは思わない。


多分レイネはフィーリよりも色んな部分が未熟であった。

レイネは1を1として捉えることが出来るが、フィーリは1を10にも100にも捉えることが出来て、それはきっとすごいことであると思うのだ。

フィーリの描く絵と、自分の描く絵の違いはそういうもので、彼女の描く絵にはレイネの描く絵にはない何かがあった。

彼女には、レイネにはない何かがいつもある。


「そうですわね。今描いているものにタイトルを付けるなら……小さな楽園、ふふ、エルスレンとでもしましょうか」

「エルスレン……」

「ええ。争いのない、どこまでも平和な世界。皆が皆、飢えることなく苦しむことなく、仲良く幸せな日常を繰り返せる、そんな世界」


くすくすと楽しそうにフィーリは笑った。

母もそんなことを言っていた気がすると、レイネは考え込み、うーん、と首を捻る。

経済的、文化的、個人的な利益と不利益。少なくとも世界は色々な事情が複雑に絡み合っていて、争いのない世界というものは想像が出来なかった。

母でさえ、この先世界を統一したって安全とは限らないと口にしていた。

世の中は屑ばかりで、下らない争いを起こすのだと。


「それは……その、とっても難しいと思うのですが」

「ええ。でもそんな世界の絵を描くのは自由ですもの……以前申し上げたとおり、絵は描きたいものを描けば良いのですわ。見えているものを描くのも絵なら、こうして想像の中の幸せな世界を描くのも、また絵の範疇」

「想像の中……」

「はい。夢だとか、理想だとか、願望だとか、そういうものも含めて」


フィーリの言葉にレイネは首を傾げ、彼女はくすくすと肩を揺らす。

少し難しかったですね、と頭を撫でた。


「この絵みたいな世界が、フィーリにとってのそういうものなのでしょうか?」

「そうですわね。こんな世界に住めたら良い、と時々思いますの」


フィーリは苦笑し、レイネを見つめた。


「でも、考えようですわね。もしかすると既に、手に入っているのかも」

「……?」

「……ある意味、今この場所が、わたくしにとってのエルスレン、ということですわ」


レイネが難しい顔をして考え込むと、フィーリはますます楽しげに。

くすくす、くすくすと、控えめで幸せそうな笑い声が部屋に響いて、レイネはそんな彼女を見つめた。


フィーリは不思議であった。

時々、フィーリは理解が出来ない。

そんなフィーリがどうして笑っているかも分からなくて、けれど、そんな姿を眺めていると、レイネも不思議と嬉しくなる。


フィーリはどうして笑うのだろう。

どうして楽しそうで、幸せそうなのだろう。

レイネはもっと沢山フィーリのことを知って、理解したいと思う。

そうすればもっと、フィーリを楽しくさせて、幸せな気持ちに出来るのかも知れない。


レイネが考えるのは、ただそれだけであった。

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