嘆息 終

『全く、確かにお酒は許可したわ。でも、許可されたとはいえ節度というものを少しは考えたらどうなの? 所構わずあっちでイチャイチャこっちでイチャイチャと――』

『えへへ、セレネもお酒飲みますか?』

『あのね、分かってるかしら? 説教中なんだけれど』


などと、注がれたワインを口にし――記憶にあるのはそこまで、という訳ではない。

この状況についての記憶ははっきりとしている。

酔い潰れることはあっても、セレネは基本的に酔って記憶がないなどという何とも幸せな特殊技能を持ち合わせてはいなかった。


それ故、朝目覚めれば理性を取り戻した頭は寝ぼけながらも明瞭である。

もぞもぞと動き出した隣を眺めると、豊かな乳房。

視線を上げて顔を見ると、少しばかり眠たげな使用人の顔があった。

小さな欠伸をしていた彼女は、ほんの少し照れたように苦笑して、触れるばかりの口付けをセレネに。


「おはようございます、お嬢さま」

「……、おはよう」


身を起こした彼女は裸体のままベッドを抜け出し、タンスを開いて下着を身につける。

その間もセレネはしばらくそれを眺め、気持ちよさそうに眠る妹の頬を指でつまんで弄びながら欠伸を一つ。


「せれね、おはようございます……」

「……おはよう」


少しして目を開いたクリシェはゆっくりと身を起こし、伸びを一つ。

華奢な裸体がしなやかに伸びて、横になったままのセレネに触れるばかりの口付けを。

未だ目は眠たげであったが、そのままベッドを抜け出し、ベリーの隣に。

同じように挨拶と口付けを交わし、あっという間にエプロンドレスに着替え終えたベリーが彼女の下着を取り出し、着替えを手伝う。


ぼんやりそれを眺め、更に欠伸を一つ。

それから、はぁ、とため息をついた。

残るは桃色頭のだらしないお馬鹿――頬をつつくと「やぁですわ」などと甘えた声で背中を向け、今日も起きるつもりはないらしい。

大抵彼女は昼前までだらだらと二度寝三度寝。

一時期は改善させようと考えたものだが、そうして千年を超えると諦めもつく。


「お嬢さまはどうされますか?」

「……もう少ししてから起きるわ」

「畏まりました。それではお先に」


エプロンドレスの二人組は揃って部屋を出て行き、また嘆息。

実に普通であった。

一般的には爛れた関係、非常に退廃的でもあったが、なるようになったまで。

もはや今更であり、セレネでさえ慣れきっていて、自然な形と言えばそうだろう。


正しいことは正しいこと。

間違っていることは間違っていること。

そのように何となく考えていた倫理道徳とは結局、社会を円滑に進めるための道具であって、方便である。

社会的に正しいことを奨励し、社会的に間違ったことを否定するもの。

そしてそれは、同時に人を縛り付ける鎖であった。


『セレネ様はクリシェ様に対する愛情がどんなものか、区分けすることが出来ますか? 例えばベリー様への、クレシェンタ様へのものも含めて』


そう口にしたのはエルヴェナか――随分と前のことであったが、記憶に残っている。

セレネの区分けは結局、一般道徳の上でそれらしい価値観に合わせたものであったし、クリシェを愛するようにベリーやクレシェンタも愛している。

配合率が多少違っても鋼は鋼と称するように、愛もまた愛であった。

たらればの話、あの頃にもこうして肌を重ねていたならば、セレネの苦悩などほとんどが消えていただろう。


重要に思えた線引きなど、セレネの中の線引きでしかない。








――セレネの目覚めは明け方。

遅くはなかったが、順番で言えばやはり五人目である。


朝日が昇るか昇らないか。

その辺りの時間に誰よりも早く起きるのはベリーであり、クリシェ。

そして彼女らが活動し始めた辺りでエルヴェナとアーネも動き始め、その日もセレネが動き出すのはその少し後。

色々な面での事情もあり、一年の大半は自室で寝起きを行なっていたが、時々はこうしてクリシェの部屋で寝起きする。


まずは上体だけを起こして伸びを一つ。

それからしばらくはすやすやと寝息を立てるお馬鹿の頬をつつき、意地でも起きるつもりがないことを確認すると諦めながら、体の気怠さを取り除く。

立ち上がるとタンスの中から下着を取り出し身につけて、腰を捻って軽く柔軟。

なおもすやすやと寝息を立てるお馬鹿の頬をつねると、いやいやをするようにそっぽを向く姿を眺めて苦笑。

練習着となっているシャツとズボンへと着替える。

セレネの服や下着はこちらにも常備されていた。


廊下に出ると自分の部屋に。

愛用の剣を手に持ち部屋を出ると、出会ったエルヴェナと挨拶を。

何とも楽しそうな顔である。


「おはようございます、セレネ様。今日はとても良い朝ですね」

「…………」


無言で近づくと頬をつねった。

彼女は笑みを浮かべたまま、痛いです、などとこちらを見つめ、そしてそのままセレネの頬に両手を添えると、まるで口付けするかのようにゆっくり顔を近づける。

セレネが飛び退き距離を開くとエルヴェナは益々楽しげ。


「ふふ、傷ついてしまいますね」

「嘘ばっかり。あなたでしょう、クリシェ達に余計なこと吹き込んだのは」

「……余計なこと?」

「あ、あのね……」


クリシェとクレシェンタに酒を飲ませると、それを口実に一日中甘え出す。

そのため屋敷では許可なき飲酒を禁じる飲酒禁止法が制定されていた。

しかし、特に料理において酒は調味料としても必需品であるため、そのもの自体を禁止することは断念せざるを得ず、そしてセレネも酒はそれなりに好きである。

そのため彼女達がきちんと飲酒禁止法を守るならば、節度ある飲酒に関しては段階的に緩和。

現在夕食時には一杯のワインが許され、三日に一度は晩酌も許可することになっていた。


締め付けを強めすぎるのも逆効果。

クリシェはベリーのような立派な淑女の使用人を目指す、などと口にして、普段は真面目(比較対象:クレシェンタ)であるのだが、お子様である。

基本的にその理性の器は小瓶程度、常に甘えたい欲求が溢れかえる寸前であり、そしてクレシェンタにはそもそも我慢という概念が存在しない。

お酒を飲んだら好きに甘えても良い、という口実はそんな二人のガス抜きにもなっており、それを奪ってしまうと二人はあの手この手でベリーの理性を崩しに掛かる。


『新しいお料理を考えている最中に色んなお酒を試していたら酔ってしまって……えへへ、事故は時々起こるものです。ね、ベリー』

『えと……は、はい、そ、そんな感じで……』


そしてベリーの理性も大抵欲望が氾濫寸前である。

生まれるのは混沌とした退廃だけ。

そのため近頃は緩和方向に舵を切っていた。


その甲斐あってか最近のお屋敷は安定を見せていたが、少し前から三日に一度の晩酌が守られなくなり、昼に酔っ払いツインズが発生する事態が頻発。

こういう場合、原因は九割九分エルヴェナである。

しかしエルヴェナは空々しく首を傾げ、何のことでしょう、とわざとらしい独り言。


「セレネ様が近頃お疲れの様子だと、いらぬお節介を口にしたことを言っておられるのでしたら謝ります」

「……絶対それだけじゃないでしょ。じゃあ、わたしが大好きなお酒を我慢してるせいで疲れが取れないだなんて誰が言ったのかしら?」

「……すみません。わたしの記憶にはそれくらいで……歳でしょうか」

「歳のせいにしないの。本当にあなたは……」


セレネのために酒の風味がするクッキーを作った、などと、何やら近頃そうした菓子作りに凝っているのは知っていたが、恐らくはエルヴェナの差し金。

リラという玩具を手にして満足しているのかと思いきや、裏でこそこそと別な謀略も張り巡らせていたらしい。


セレネは嘆息した。

エルヴェナは大抵頃合いを見計らい、一滴の雫を落とす。

場合によってどうとでも取れる、遠回しなちょっとした一言。

クリシェ達を悪い方向に導く一言である。

非常に性質が悪い。


「ふふ。湯の準備をしておきますね」

「……はぁ」


エルヴェナは微笑みながら階下へ逃げていき、セレネは目頭を指で揉んだ。

そしてセレネも階段を降りて屋敷の外に。

雑念と邪念を振り払うよう準備体操に軽く剣を振り、徐々に本格的に刃を鋭く。


袈裟からの斬り上げ。

体を回転させながら、更に踏み込んでの横薙ぎ。

動作に繋ぎ目はなく、板金鎧を両断できる一閃も今では偽攻のレベルで振るえていた。

体も全てがイメージ通りに動いている。


『んー、もしゃもしゃはもうちょっと強かったでしょうか? 微妙にですけれど』


老境に差し掛かったアレハの剣技は、もはや剣聖と呼ぶべきもの。

コルキスが口にしたとおり、彼がいなくなった後もアレハの剣は更に磨きが掛かった。

偽攻にすら体重が乗り、剣閃はぶれず、それでいて不思議と柔らかく。


鋭く速く、致命となる一閃を振るえること。

そこまでは単なる入り口――例えるなら、パズルのピースを作る作業。

最速の剣を振るえることなどは大前提であった。

その上で仕留められる隙を相手に生み出すべく、パズルを組み上げるための瞬発的な判断力を己に染みこませることこそが重要。


極みに近づくほど剣が柔らかく感じるのはそのため。

勝負を決める一撃を除けば、速ければ速いほどに剣の速度はリスクとなる。

加速度運動の剣は速度という一点で優れているが、その分必ず重心を崩す。

そこに働く遠心力は決して人の身が耐えきれるものではなく、それを知ればこそ最速の剣を振るう危うさを自然に理解していく。

互いに最速の剣を振るえる前提であれば、その僅かな重心の崩れが致命傷になりかねない、と。


振るうべきは最も速い剣ではなく、最も短く早い剣。

生じる遠心力に重心を崩されぬよう、己の掌握できるギリギリのラインに抑え、そうでありながら体重移動と重心制御によって剣に威力を持たせる。

故に剣は一見柔らかく、緩やかに映りながらも、最速の一閃が振るわれる間に致命の二閃を組み立て、瞬きの間に刃の檻を形成する。


随分と前から、かつて己が目指していた境地に到っていると感じていた。

磨ける部分は磨ききり、剣士としてのセレネ=クリシュタンドにこれ以上の大きな一歩はあるまい。

きっと、満足そうだったというアレハが感じたのと同じものだろう。


けれど、道の終わりを感じてなお、セレネは剣を振る。


永遠にいつか終わりが来るのだろうかと想像した時、昔はそれがまるで不幸で悲しく、恐ろしいことのように思えた。

けれど、終わりとは何だろうかとセレネは思う。

以前には死という結末がはっきりと存在していたから、何となく始まりと終わりを意識していたことは確か。

けれど、そんなものはきっとくだらない考えだろう。


例えば父の後を継いで立派な将軍になるという目標。

母のように愛する人と一緒になるという目標。

少なくともセレネは父の後を継いで形ばかりは立派な将軍になったし、母のように愛する人――達、であったが――と一緒になったものだが、そうした目標を叶えたところで死ななければ人生は続いた。

それは単に人生の過程で考えた、過程の目標でしかないからだ。

目標に到達することは人生の終わりを意味しなかったし、人生の大半は目標など何もない惰性の時間にこそあった。


そもそも、人生の始まりなど感じたこともあるまいに、何故それに明確な終わりがあると思うのだろう。

生まれた時の記憶を持っているのはクリシェ達くらい――そのクリシェ達でさえ、自分がいつから始まったのかなど答えられまい。

人間はある日ふと、自分が人生の中にあることに気付くのだ。

あなたは何歳で、何年前のいつに生まれたのだと伝えられて、曖昧に。


昔は物事を難しく考えすぎていた。

自分はもっと立派になるべきなのだと考えて、人生に始まりと終わりがあると感じて、何か深い意味を見出そうとしていた気がする。


けれど、意味というものは幻想であった。

誰より立派であった父もその部下達も、歴史の過去に霞んで消えた。

史書の記述で、民衆に慕われる素晴らしい将軍であった、などと語られただけで、ボーガン=クリシュタンドがどんな人物であったかなど分かるはずもない。

あちらに住む多くの人間に取ってはそもそもあの時代ですらが大昔の記録でしかなく、彼らがどれだけ立派な人間であったかなど、どのような信念を持ち、何のために戦い、どれほどその心身を鍛え上げたかなど理解できるはずもなかった。


立派であろうとなかろうと、時間は全てを過去にするし、いつかは全てが消えていく。

世界はずっと大きな流れの中にあって、人の歴史さえその一瞬にも過ぎず、そして竜でさえその大きな流れで見れば同様だろう。

この星以外にもセレネが認識さえ出来ないような数の星があるそうで、この星の一国家、その存亡を賭けた戦いさえも、一大陸の支配権を巡る戦いでさえも世界の広さから語って見れば、その砂粒一つ――いや、それ以下の小さな出来事。

どれほど崇高な哲学を語ったところで、どんな生き様を見せたところで刹那にさえ満たず、視認さえ出来ないほどの小さな事。


本来、意味などはどこにもなかった。


それでもあえてそこに意味を与えるとするならば、ほんの僅かな一瞬。

尊敬する両親や素晴らしい部下達と過ごしていた頃――その時代に生き、過ごした者達が感じた、刹那の感情だけが全て。

そしてそれが、セレネ達に取っては大きな意味があるものであっただけ。

それだけのことで、それ以上でもなく、それで良いと考えた。


多分、屋敷にいる人間は皆、同じようなことを考えているのだろうと思う。


明日死のうと永遠だろうと、今セレネが生きている。

それが全て。

その繰り返しに意味を語るなら、幸か不幸か、楽しいか楽しくないか――それだけのことで、やはり大した意味がある訳ではない。

毎日今日を終わらせて、毎日今日を始めているだけなのだから。


そして人間は多分だらしない生き物で、時間があればあるだけ浪費するもの。

今日をいくら自己満足に浪費したところで、今日は明日もやってくる。

好きなだけ浪費して許されるなら、こうなることも自明だろう。


剣を振ることに意味はなかった。

強いて言えば、剣を振ることは楽しい。

それだけのことで、それ以上のことはない。


永遠を生きることに意味はなかった。

強いて言えば、時間の無駄遣いは楽しい。

それだけのことで、それ以上のことはない。


毎日大した成長もなく、遊んでは寝て、一日を浪費して。

千年前から何も成長していないなどと、下らないことで文句を垂れながら過ごす今日という日々を、不幸だと思ったことはなかった。


この先も、今日という日が続く限りはそうだろう。

永遠がどうだ、終わりがどうだ、なんて難しいことは、『明日のセレネ』が考えればいい。

少なくとも、『今日のセレネ』はそう思う。






ですわですわとうるさい声が響く果樹園。

クレシェンタは少し離れたところでクリシェの後ろに引っ付いていた。


ラクラの果樹は背丈が低く、精々十尺。

横に広く枝を伸ばし、太陽の光を独占するように緑の屋根を作る。

同じく地中にも広く根を張り、ラクラの下には下生え程度の草花が覆った。

空の陽気と地中の栄養を独占し、縄張りを作り、そのためラクラの果樹がある場所には他の木は育たない。

地域によっては欲深い木であると嫌われ、別の地域では逆に、結束を示す木として信仰され国旗のシンボルになっている所もある。


見方は様々――とはいえ、あの二人に興味があるのは果実だけ。

どこまでも甘く、食感も良い果実。

セレネとしてはもう少し酸味も欲しいところだが、その辺りは好みだろうか。

少なくともこの世界では、甘さばかりが増すばかり。


足元にはうろちょろ何匹かの水の猫が歩き回り、口で咥えたジョウロからラクラのその根に水を注いでいた。

更にその周囲ではスコップやツルハシのようなものを持った、指先程度の小人が飛び跳ね、腰から下が魚になった小人が同じくジョウロで水をやる。

しゃがみ込んだベリーが生み出す水の猫を見る度、ぴょんぴょんとその周囲を飛び跳ね、あるいは背中に乗ってはしゃいでいた。


近頃はこの辺りでもよく見掛ける。

特に果樹園はお気に入りのようで、虫のように湧いていた。

恐らくベリーがこんな風に遊んでいるからだろう。


「ふふ、可愛いですね」

「……屋敷には近づけないでちょうだいよ」

「分かっておりますよ。流石にお屋敷に入れてしまうと大変です」


水分を好き勝手に運んだり、土をあちこち弄り回したり、一応何かを育てようという目的があるようなのだが、それぞれが好き勝手に動いていた。

クリシェとクレシェンタを更に短絡的にしたような生き物である。

果樹園にいる分には良いことだが、訓練に使う庭を耕されたり水たまりを作られたりするのは堪らなかった。

いつぞや森の別荘の屋根裏で謎のキノコを栽培されていたのは記憶に新しい。

森林キャンプの予定が胞子まみれになりながらの大掃除。

果樹園に湧く分には色々と都合も良いようなのだが、所構わず湧かれては困る。


「珍しいですね、お嬢さまがこちらにいらっしゃるなんて」

「気分転換。あのお馬鹿のせいで完成間近の石像が駄目になって、それからいまいち調子が出ないのよ。……それに、近頃だらしないあなたの働きぶりを見ておこうと思って」

「まぁ、クレシェンタ様みたいなことを仰いますね。感染ってしまわれました?」

「……話を逸らそうとしない。真っ昼間っからお酒を飲ませてイチャイチャと、どういうつもりなのかしら」

「あ、あはは……そ、それはですね……」


ベリーは困ったように目を逸らし、セレネはその頬をつまんだ。


「うぅ……」

「あなたの一番の仕事はあのお馬鹿達がこれ以上お馬鹿にならないよう教育することよ。あなたまで一緒にお馬鹿になってどうするのかしら?」

「……そういうお嬢さまも、お嬢さまの仰るお馬鹿になっていらっしゃったと――ぁ、あの、痛いのですが……」

「うるさい。怒ってるのよ」


全く、と指を離すとベリーは自分の頬をさすり、理不尽です、とセレネを睨む。


「お嬢さまだってお二人に強く言えないではありませんか。それにわたしはこれでも色々と努力しているほうでございますよ。……ただ、それ以上にお二人が愛らしいので時々魔が差してしまうと言いますか……」

「……本性が出たわね」


ベリーはこういう女であった。

その頭を割ってみればいつでも邪念が溢れ出すに違いない。


「本性だなんて。それに、考えてみてください。わたしも今ではお屋敷でも一番下の若輩……ちょっとした気の緩み程度は許されて然るべきだと思うのですが」

「……いつまでもお嬢さま呼ばわりしておきながら、都合のいい時だけ年下ぶらないの」

「あら、ふふ、お嬢さまという呼称はお嫌でしょうか?」

「そうやってまた話を逸らそうと……あなたのその手には引っかからないわ」


困りましたね、と言いながら、困った様子も見せずに笑い。

セレネは深く嘆息した。


「まぁ、幸せが逃げてしまいますよ」

「誰のせいだと思っているのか聞いてみたいわ」

「……お嬢さまはご自分に厳しいお方。きっと誰かに責任を押しつける真似はなさらないでしょう。わたしはよく分かっておりますよ」

「残念ながら大昔に、お嬢さまは真面目すぎると言われて考えを改めたの。……誰だったかしら、そんなことをわたしに教えてくれたのは」

「そうだったのですか……とても良い方と巡り合わせたのですね」

「そうね。その人はとても良い性格をしているわ」


くすくすと楽しげに、ベリーは少女のように肩を揺らした。

睨み付けると、怖い顔をしてはいけませんよと頬を撫でられる。


「クレシェンタ扱いしないでちょうだい。あなたはわたしを何だと思ってるのかしら」

「それはもちろん、愛するお嬢さまでございますよ」

「……あなたは一々愛するを枕に置かないと気が済まないのかしら?」

「事実にございますから」


言いながらほんの少し背伸びして、自然に口付け。その童顔に微笑を浮かべた。

呆れ果てると、ベリーはセレネの手を引き腕を組み、こちらに構わず引っ張るように歩き出す。

罵倒に耳栓、草に風。

毎日飽きることなくこんなやりとりを繰り返しているクレシェンタは、やはり尊敬するほどお馬鹿であった。


「それよりお嬢さま、実は丁度、お嬢さまの仕込んだワインが飲み頃なのですが」

「餌で釣ろうとしないの。……分かってやってるでしょ?」

「……飲まないんですか?」

「……飲むけれど」


試し飲み程度だからね、と続けて口にし、ベリーを睨む。

ベリーの漏らす、控えめな苦笑が何とも不愉快。

背丈は低く、目線は下にあるにも関わらず、いつでもセレネを上から見ていた。

使用人とは何とも都合の良い立場である。

お世話する、などと口にして、その実いつまでも子供扱いされているようなもの。

彼女はきっとその立場を良いことに、この先もずっとセレネのことを『お嬢さま』扱いするのだろう。


「あなたって本当、最低の使用人だわ」

「まぁ。やっぱりクレシェンタ様の病気が感染ってしまわれましたね。愛してる、と意訳してもよろしいですか?」

「どこをどうするとそういう意訳になるのか教えてほしいものね」

「そうですね……わたしの中の愛故に、でしょうか」

「……、恥ずかしくないのかしら」


セレネはぷい、と顔を背ける。

屋敷を取り巻く果樹園に、穏やかな風が吹いていた。










『――愛がどうだとか、純粋だとか、そんなものは人それぞれでしょう。俺には何も言えませんが、だからと言って一人で思い悩むのは健全じゃない。色恋に限らず、悩んでたって出る答えは下らないもんです』

『……あなたの性格ならそうでしょうけれど』

『はは、まぁ、こんなでもそういう時分はあったって言うことですよ』


老人は懐かしむように遠い目で、苦笑した。


『好敵手、と言いますか。いや、あっちがどう思ってるのかはともかく、俺はヴェルライヒの野郎をそう思っていた。でも、あいつは槍を振るしか脳がねぇ俺と違って、何をやらしても超一流。何かで勝てた例しがない。同じ釜の飯を喰らった戦友ですが、憎たらしくていけ好かない野郎だって今でも思ってます』


随分と嫉妬もしました、と言いながら、それでも恥じる様子もなく。


『一生勝てねえだろうって思う相手はいるもんです。俺はあいつの才能が妬ましかったし、どれだけ努力しようと、ボーガン様が一番に呼ぶのはあいつの名前。努力が報われなくても頑張り続けられる奴も中にはいるんだろうが、腐る時もあるのが人間ってもんでしょう。……俺もその例に漏れず、時々腐った』


老人はどこまでも愉快げに。


『あいつと比べなきゃ俺だって中々のもんです。俺はあいつみたいにはなれねえが、それなりにやれてる。高望みなんてしなけりゃいい、二番手でいいんじゃねえかって思う時は何度もあった。その内何かの拍子にあいつが戦死してくれりゃ、繰り上がりで俺が一番。……でも、感情ってのは理屈じゃない』

『……理屈』

『いくら自分が頭を捻って客観視して、そう思い込もうとしたって、顔を見ればムカつくし、吠え面をかかせてやりたくなる。一番がどうだ、二番がどうだ、じゃなく、俺は結局こいつの泣きっ面を拝みたいんだってことに気付いた。その時頭にあるのは一番の部下だとかそんなことじゃなくって単純に、こいつを負かしてやりたいって感情一つ。そこに小賢しい理屈や問答なんて必要ありません』


老人――コルキスはセレネを見て続ける。

その目は昔から変わりなく、敬愛する上司の愛娘を見るように。


『俺にとってのあいつがそういう奴なら、セレネ様にとってのベリーも似たようなもんなんでしょう。俺からすれば簡単なこと、迷っているならもう一度、ベリーの顔を見てみればいい。そうやっていじけてたことなんて忘れてしまうに違いない』

『……いくつになると思っているの。いじけてなんてないわ』

『自分は成長したなんて思っている内はまだまだ。いくつになっても性根なんて変わるものじゃない。そうじゃなきゃ死に際に、いくつになっても嫉妬してるセレネ様を見せられている俺なんてここにはいません』


返答に窮したセレネは唸り、不機嫌そうにそっぽを向く。

何年経っても変わらない、そんな姿に苦笑して、身を起こし、その頭を軽く叩いた。


『セレネ様はご自分のことが分かっていないのでしょうが、生まれた時から知ってる俺には簡単に想像が出来ますよ。……きっと千年経ってもセレネ様はそんな風に時々拗ねて、嫉妬して、クリシェ様達に文句と愚痴を言いながら溜め息を吐いてるんです』


それはもう幸せそうに、とコルキスは笑い、セレネは睨んだ。

しかし尚も楽しそうに、優しい目でセレネを見つめるコルキスを見て、セレネは静かに嘆息し――それに気付いて益々眉間に皺を寄せた。


『……あなたには一体、わたしがどんな人間に見えているのかしら』

『そりゃ、あなたの羨むベリーと同類、随分な変わり者ですよ。逆に、それなりどころか引く手数多の華やかな人生を放り出して、クリシェ様に捧げるような奇特な人間が、そう何人もいると思っているんですか?』


頭を撫でる手は大きく、優しい。


『……、いないでしょうね』

『その通り。俺は上手くやれると思ってますよ。その内、そんなこともあっただなんて笑っているに違いない』


手を離すと軽く咳き込み、またベッドに仰向けに。

両腕を枕に天井を見上げた。


『一人で考え込むとろくな事がない。……倅ともこういう風に、意地を張らずもっと話をしておけば良かったと、歳を取るほど思います。会話することも減って、いつの間にかグランのことが分からなくなり、グランも多分、俺のことが分からなくなった。生まれた時から見ていたつもりでも、人間はそんなもんです』

『…………』

『顔を合わせて真っ向から向き合ってみれば、例えば喧嘩の一つでもしてみたらあっさり解決出来る問題だって、いつの間にか頭の中で複雑に、大きくしちまうもんなんでしょう』


それから、己の手を翳し、それを眺める。


『……ベリーはセレネ様を愛していたし、セレネ様もそう。死んで嫌いになった訳でもないはずで、嫉妬がどうだなんて今更語るようなものでもないはずだ。その上で、あんなに楽しそうに毎日を過ごしていたんです。……考えてみればそんなことは小さなこと、仮にベリーが生きてた頃にそんな話になっていたとしたらどうでしょう?』


そしてその手を再び枕に。

目を閉じて苦笑する。


『きっと多分、そこまで深く思い悩むことなんてなかったに違いない。ベリーに対してムキになって、売り言葉に買い言葉。一週間もすればクリシェ様の言う『お引っ越し』に文句を言いつつ、きっとそれを手伝っていたでしょう。あの子はお馬鹿で、ベリーはどうしようもないのだとか、俺に会う度に愚痴を聞かせて』


俺に言えるのはこれくらいです、とコルキスは告げ、目を閉じたまま口元に笑みを。


『……そうかしら?』

『ええ、きっと。セレネ様は自分がまるで真っ当で普通の人間かのように仰るが、言ったとおり俺からすれば、あなたもベリーも似たもの同士ですよ。……今更何を仰っているのかと笑ってしまうくらいには』

『……、失礼ね』


セレネはその顔を眺めて、静かに笑う。


『くく、確かに。不敬をお許しください、元帥閣下』


それから目を閉じ、静かに頷く。


『仕方ないから許して上げるわ』


これまでの忠義に免じてね、と言葉を続けて。


そんなセレネの千年後は、大体彼の想像通りであった。

時々拗ねて、時々嫉妬し、文句を言って愚痴を漏らし、毎日のように嘆息を。

溜め息禁止を何度か自分に課したことはあったが、三日どころか一日も持たず、溜息を吐かない日などは訪れない。


ただ、彼の言葉を一つ否定するなら、やはり少なくとも、セレネはこの中においては真っ当で、普通の人間であった。

そうでなければ、セレネがこれほど溜め息を吐くことはあるまい。

恐らく多分、などと曖昧枕をつける必要もなく、歴史上もっとも溜め息を吐いているのがセレネ。

ベリーと似たもの同士という評価は実に不名誉、セレネはもっと真っ当であった。


そんな事を思い出しながら、柔らかなベッドの感触を味わいながら、目を閉じたまま。

隣の僅かな動きを感じつつ、セレネは小さく嘆息する。


「……まぁ。朝から溜め息だなんて」


小声で囁くような声が響き、薄目を開く。

ほんの少し眠たげな、大きな瞳がこちらを覗き込むように見ていた。

吐息の混じり合うような距離で赤毛の女を眺め、何も言わず手を伸ばし、その柔らかい頬をむに、と引っ張った。


「……誰のせいよ」

「まるでわたしのせいだと言わんばかりですね」


むにー、と更に引っ張りつつ、また嘆息。


『……あのね、これは単なる試飲で――』

『言い訳ですわ! ズルいのですわ! わたくし達には飲むなと言っておきながら二人だけワインを飲むなんて!』

『うぅ……セレネ、クリシェ達にはあんなに説教するのに、自分の時はそうやって言い訳するんですね』

『あなた達と一緒にしないでちょうだい。わたしはね――』


などと、試飲していたセレネ達の前に現れたのはクリシェとクレシェンタ。

クリシェ達も試飲がしたいと騒ぎだし、駄々を捏ね――昨日は丸一日、二人は酔っ払いである。

途中で諦め、夜には深酒。

しかし、やはり自分の頭は深酒程度で都合良く記憶を失う便利な機能は備わっていない。

記憶は実に明瞭であった。


頬をつままれながらベリーが楽しそうに微笑み、セレネにゆっくりと口付けた。


「おはようございます、お嬢さま」

「……、おはよう」


ベリーはくすくすと笑いながら、自分の頬をつまむセレネの指を優しくどけて、豊かな乳房を揺らしながら身を起こす。

それから軽くセレネを撫でた後、ベッドから抜け出し、下着を身につけエプロンドレスを。

もぞもぞと動いていたクリシェはころころと転がるようにセレネに近づき、起きているのか寝ているのか、ぼんやりとしたまま、ちゅー、と告げる。

呆れたように嘆息しつつ、口づけると、えへへー、などとふにゃふにゃとした声でセレネに抱きつき、しばらく。


「おはよぅございます、せれね」

「……おはよう」


そう挨拶すると身を起こし、白い裸体をしならせるように伸びを。

そしてベッドを抜け出すとベリーの所へ。

ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねおはようのキスをせがみ、甘えながら着替えを手伝ってもらっていた。


ぼんやりそれを眺めていると、クリシェにエプロンドレスを着せ終えたベリーが近づき声を掛ける。


「お嬢さまはどうされますか?」

「……、もう少ししてから起きるわ」

「畏まりました。それではお先に」


エプロンドレスの二人組は揃って部屋を出て行き、また嘆息。

すやすやと熟睡する桃色頭の脇腹を、ベッドの中で足蹴にする。

「やぁですわ」などと甘えたふにゃふにゃとした声を上げつつ背中を向けた。

今日も起きるつもりはなく、また昼前までだらだらと二度寝三度寝するつもりなのだろう。

どうしようもなくだらしない生き物だった。


窓から差し込む光は暁。

ぼんやりそれを眺めている内に、クリシェ達以外も起き始めたのを感じ、身を起こすと軽く伸びを。

左右に体を揺らして捻り、それから大きく深呼吸。

その吐息すらが溜め息染みて、そのことに呆れたようにまた嘆息。


今日は溜め息ばかりが口を出る。

果たして今日は、何度溜め息を繰り返すことになるのか。


ぼんやりそんなことを考えて、


「……ふふ」


静かに一人、笑いを零した。

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