嘆息 三

『ふふ、わたしの勝ち。もう一勝負どうかしら?』

『……、い、いえ。……ありがとうございました』

『……?』


子供の頃の稽古。

大人を相手に手合わせ出来るようになり、新兵程度には勝てるようになり、そうではない兵士にも勝てるようになった。

大抵は驚いた様子で、あるいは流石です、と笑いながら、セレネ様は天才だ、と褒め称えた。

けれど時々、そうではない反応もある。

この世の終わりのような顔をして、泣き出しそうなほどに悔しげな顔をするのだ。


負けて笑う姿を見て、どうして悔しがらないのだろう。

あるいは、高々一本取られたくらいで、どうしてそこまで悔しがるのだろう。

その頃のセレネに彼らの気持ちは分からなかった。


自分は多くのものに恵まれていた。


美人であるし、髪もさらさらと美しい金の色。

宴に出れば視線は自分に集まったし、ドレス選びのセンスも良い。

骨格も良く、どんなものでも着こなせた。

容姿の評価は主観的――好みが分かれる点はあるだろうが、少なくともセレネを醜いと語るものはいないだろう。


頭も人より優れている方。

同年代で比べればセレネは頭一つ抜けていたし、努力も出来た。

大人が話す政治の話題も理解は出来たし、才女であると誰もが語った。

無論世辞もあっただろうが、客観的に上の方。

天才でなくとも優秀で、教師のおかげで知識も豊富。


剣才にも恵まれ、子供の頃から大人の兵士を相手に出来た。

振れば振るほど剣は見違えるように進歩したし、努力がそのまま結果となった。

そして父は名声名高い北方将軍、辺境伯。大貴族と言うべき家柄。

総合的に評価すれば、セレネ=クリシュタンドは全く凡人では無かった。


人から羨ましがられる側にいることは確かで、客観的に見れば自分は多くのものに恵まれていたし、自分のようになりたいと思う人間もいただろう。

ただ、セレネもまた、敗者の気持ちが分からない人間であった。


人にはその人なりの誇りがあって、そして誇りとは傷つけば痛い急所である。

例えばセレネに破れ、セレネを天才だと褒め称えたものは、自分の誇りが傷つかぬようセレネをそうやって定義した。

自分とは異なり、才覚に溢れている将軍令嬢。

だから自分が負けるのは仕方が無いことだと、そう考えることで痛みを避けたのだ。


腰ほどの高さしかない子供に敗れれば、面白くないのが普通であって、悔しがるのが普通であって、己が努力していたなら尚更であろう。

彼らは彼らなりの努力をしていたし、多かれ少なかれ鍛錬を重ねたという自負もあるはずだった。

あの頃のセレネはそれを単なる足場のように考えていて、そんな彼らにも人生があり、誇りがあり、目指すべきものがあるのだという簡単なことすら分からなかったのだ。


けれど不思議なことに、そんな敗者の気持ちを知ってからは、勝者の気持ちを忘れていたように思う。


例えばベリーは最も身近な『勝者』であった。

剣の稽古をしている姿など見たことがないのに、手合わせすれば歯が立たない。

少なくとも子供の頃はそう――もしクリシェが現れず、彼女と手合わせを続けていたなら、彼女はそのちょっとした『稽古』でセレネの上にあり続けたのかも知れない。

彼女は普通では考えられないほどに頭が良かったし、あらゆるセンスに恵まれていた。

母が口にしたように彼女は天才で、セレネは決して敵わない。

大した努力もしないで何もかもが手に入る彼女を、セレネはずっと羨んでいた。


例えば父やその戦友のように、鍛え上げた戦士に負けるのとは話が違う。

屋敷の仕事を毎日こなして、剣も振らない使用人。

だというのに、どれだけ鍛えても歯が立たないのはどうしようもないくらいに悔しかったし、どうしてそんな才能が自分にないのかといつも考えた。


けれど同じ事――きっと、子供のセレネに破れた多くの兵士もそう思っただろう。

セレネがセレネなりに努力をして手にしたものがあるように、彼らも彼らなりに努力して手にしたものが当然あったはずなのだ。

セレネがベリーをずるい、と思ったように、彼らもセレネをずるい、と思っただろう。


セレネが手を伸ばせば、大抵のものが手に入った。

けれどそれが手に入らない者も当然いて、あるいは手を伸ばす必要も無く手に入ってしまう者もいる。

そして往々にして、人は努力の果てに手にできるもの以外に、何かの価値は見いだせない。


ベリーに勝てないセレネの才能はセレネにとって無価値であったが、セレネに負けた兵士にとっては喉から手が出るほど欲しいものであっただろう。

ベリーも同じように、自分の才能など無価値に思っていただろうが、セレネにとっては喉から手が出るほどに欲しいものであった。

ないものねだりが人の常。人は自分が手にできないものに強く焦がれる。


そんなベリーさえ足元にも及ばない才能を持った少女もまた、日々才能を無駄遣いするベリーに憧れて、誰かを喜ばせる、だなんてあやふやな目標のためにその才能を無駄遣いして、そうはなれないことに苦しんで。


セレネにはセレネの苦しみがあって、ベリーにはベリーの、クリシェにはクリシェの、クレシェンタにはクレシェンタの苦しみがある。

他の人だって同様、父にも父の、母にも母の苦しみがあったのだろう。

恵まれているから幸せとは限らない。

例えば生活に困っているものが王族の豊かな生活を手に入れたしても、それが全ての苦しみからの解放を意味する訳ではない。

足るを知らねば、永遠に何かを求めるだけだった。


重要なのは己を認めて受け入れること。

ないものねだりをやめること。

些細な幸せを大事にすること。


王族だろうと貴族だろうと、職人だろうと狩人だろうと、その日暮らしに生きるものでさえ、自分を受け入れ、小さな幸せを喜べる心が一つあれば、それだけで幸せなのだ。

それを分かち合える誰かと出会えれば尚更。

馬鹿らしいことで嘆息出来る日常に満たされるなら、それ以上など必要なかった。






市場の露店――店に構えた長椅子の上。


「えへへ、美味しいですね」

「……、あなたは本当食べることばっかりね」


露天を構え雑貨やワインなどを売りながら、クリシェは近く屋台で買った串を囓り、いつものように脳天気。

訪れたのは西の外れにある山間の田舎町ライナレセリア。

世界樹が生えたことで話題になり、千年ほど前に開拓されたものであるらしい。

魔水晶の鉱脈が存在し、当然ながら魔力も豊富――小さいながらも魔導学院が存在することもあって、険しい土地であるにも関わらず人の往来は少ないというほどではない。


世界樹を南に周囲四方を険しい山。

竜の顎門のように山と山の隙間を道が一本通るのみ。

日も当たらず暮らすには不便な土地のはずであったが、世界樹の葉は陽光を散らして木陰を照らした。

不思議なもので、世界樹の枝も葉も、定着した後は普通の木々と変わらぬものであったのだが、いつ頃からか太陽の光に輝くようになったらしい。

その側で暮らす人々がそのように願ったからそうなったのだろう、とクリシェ達は語り、世界樹一つ一つに特色もある。

アルベナリアの世界樹は数十年に一度、虹色の花びらを舞い散らせる。

アルビャーゲルでは空色の花が咲く。

こちらでは魔竜と名高いクシェナラース――その寝床であったドーガルアズでは高枝に一輪、藍の大花と朱色の果実。

いつぞやもいで食べてみると、非常に美味。

竜の血が如く濃密な魔力を秘めた、いわゆる不老長寿を叶えるような伝説の果実であった。

場所によっては文字通りの『飛び蜥蜴』が飛んでいたり、あちらでは頻繁に見掛ける精霊達が踊っていたりもして、個性は豊か。


伝承伝説、各地の信仰。

そうしたものが混ざり合って、人の訪れぬ世界樹ほどに神秘を強める傾向があり、逆に人の集まる土地の世界樹は華やかなものが多い。

クリシェとクレシェンタは特に個性を持たせた訳でもないようで、勝手にそうなったものであるらしく、それを見ては毎度の如く、ほへー、と間抜け顔。

歩けば伝承が転がっているあちらの世界で過ごしていると、どんなものを見てもありがたみも感じないのだが、こうしてこちらでそのようなものを目にすると不思議なもので新鮮であった。

人間というものは随分と都合良く出来ているものであるらしい。


ベリーとクレシェンタは東の端。

アーネ達はナウトアーナ。

同じ街を回る事もあれば、こうして分かれて各地で商売をすることもある。

大体は気まぐれ――今頃クレシェンタが文句を言いつつベリーに甘えていることだろう。

エルヴェナもリラを虐めようとしながらアーネに邪魔をされているのではなかろうか。

それを想像するだけでも楽しめて、セレネは小さく肩を揺らす。


「……?」

「何でもない。ちょっと下らないこと考えていただけ」


クリシェは不思議そうな顔をしながら食べ終わった串を置き、小さな欠伸。

セレネは苦笑すると自分の膝を叩き、クリシェは長椅子の上で横になると嬉しそうに頭を乗せる。

人前で無作法な、と昔ならば思っていただろうが、色々回れば色々な文化があった。


例えば露店の椅子一つでもそう。

乾燥した地域では絨毯を敷いてただけ――店主は直にそこに座る。

商品も絨毯の上に適当に並べて大雑把。

対して湿度の高い土地ではきっちり台を設け、椅子に座るのが一般的。

この土地も例に漏れずそのようで、特に長椅子が好まれた。


ここの露天商は長椅子に毛布やクッションを敷く。

だらしなく横になりながら客を迎えるのも一般的で、どうにもそれがこの土地での露天商の流儀。

自分の店の商品は必死にならなくても売れる良品である、ということを示すために、わざとやる気のない姿を見せるのが良いらしい。

そうした常識を知らず、必死に声を張り上げて客を呼び込む露天商はみっともない、自分の商品に自信がない、と地元の客に捉えられる。


客が仮に商品を手に取り眺めても、すぐに声を掛けるのは無作法ではしたない。

しばらく待つか、客が口を開いてから声を掛けるのがこの土地の常識であった。

のどかな土地で治安が良いのも理由だろう。


こうして色々な土地を回ると、色んな文化と常識に触れる。

自分にあった常識など、本当に小さな世界の常識であったのだとセレネは感じた。

男はかくあれ女はかくあれ、貴族とはこうあるべきで、商人とはこうあるべき、職人はこのようで、礼儀礼節とはこのようなもの。

生まれ育ったアルベランの常識が今なおセレネの主体――面食らうことはもちろんあったが、そうして様々な世界に触れることは楽しい。

クレィシャラナのように着飾ることが恥ずべき事、最小限の布を美徳とする土地に行った際のベリーの顔は見物であった。

あれは二百年前だったか、三百年前であったか。

屋敷に逃げようとするベリーを引き留め、珍しくエルヴェナと共同戦線を張ったことが懐かしい。


すやすやと早くも寝息を立て始めたクリシェの頭を撫で、寝顔を眺める。

この土地の露天商はだらしないことが美徳である、などと都合の良い部分だけを抜き出して、クリシェは自由気ままである。

寝てるか食べるかのどちらかで、仕事はセレネに任せっぱなし。

露店をやるのは意外に好きなようなのだが、やはり彼女は食う寝る遊ぶ。

好きなようにさせると本当に好きなことしかしない。


「少し商品を見せてもらうよ」

「ええ、どうぞ」


魔導学院の関係者だろうか。

上等な外套とローブを着込んだ黒髪の青年は、術式の刻印された魔水晶を一つ手にする。

魔力を注ぐと熱を帯びる、シンプルなものであった。

エルヴェナの作品――完璧主義に過ぎるベリーは食材を除けば、自分で作ったものを商品として売りに出すことがない。


男は真剣な顔で術式刻印を見つめ、そしてその様子を見ていた連れ合いらしき男も同じく別の魔水晶を手に取り眺める。

セレネが興味を持って欲しいのはどちらかと言えば自分の打った剣であったが、年々普通の剣は売れなくなってきていた。

品質が悪い訳ではなく、並べるのはクリシェ基準の『結構良い剣』を超えたものばかりであるが、近頃の流行は魔力合金の刻印剣。

剣から魔力の刃が飛び出したりというギミックが人気で、高級志向になればなるほどそうした傾向は強まった。


術式刻印については勉強中――当然ベリーやエルヴェナのような刻印をセレネがあっさり刻めるはずもなく、基礎から学んでいるところ。

無論二人の力を借りれば傑作も出来上がるのだが、何やら悔しく、今は夜に書物から学んでいた。


「……どれも素晴らしい。これを刻まれた方は?」

「旅の途中で出会った魔術師の方から譲って頂いたもので、お名前までは……」

「流浪の導師か……残念だ。ロッズ」

「ええ。これで買えるだけ頂きたい」


連れ合いの男が袋から取り出すのは、小金貨が十枚。

一瞬面食らいながら、そこまでは、と首を振る。

並べてある同様の魔水晶は七つしかない。

銀貨十枚でも多すぎた。


「え、ええと……熱操作の魔水晶なのですが」

「はは、君には価値が分からないか。これは主流の四象二元の刻印ではなく、非常に高精度な始原刻印が施された貴重な品だ。それだけで学術的な価値がある」

「は、はぁ……」

「とはいえ、そう言ってくれるならこちらもありがたい。七つとも頂いていくが、構わないか?」

「……はい、構いませんが……」


男の連れは宝石でも扱うように、一つ一つを丁寧に布で包んで鞄に。

男達は良い買い物が出来たと言わんばかりに笑みを浮かべ、セレネは何やら悪いことをしているような気分になる。


『あら、珍しくエルヴェナも売り物を作ったのね』

『ええ、軽く練習ついでに刻んだもので……実用品としてはまぁ、問題ないレベルだとは思うのですが』

『ん……まぁ並べるだけ並べてみるわ』


こちらとあちらで考えている価値が釣り合わないことはよくあった。

銀貨一枚、あるいはもう少し安くで売るつもりが小金貨。

元からそういう値段で売ろうとしていたならまだしも、まるで詐欺をしているかの如くである。

エルヴェナも大して力を注いだ訳でもなかっただろうし、魔水晶自体あちらでは無限に転がっているもの。

ちくちくと胸が痛んだ。


「……良い買い物が出来た。私はイグラ=ヴィンデスール、このライネレセリアで学院長をやっているものだ。もし、この先その方に会うことがあれば、是非ともこの魔導学院を訪ねるように言ってくれ」

「は、はぁ……」

「それでは。行くぞ、ロッズ」

「は」


男は外套を翻し歩き去って行き、セレネは小さく嘆息した。

エルヴェナは器用であったし頭も良い。

片手間とはいえ、それが千年超えて魔術の研究を行なっているのだから、その技術は普通の魔術師などとは比べものにならないもの。

それは理解していたつもりであったが、簡単な熱操作のものであるし、と軽く考えていたのがいけなかったのだろう。

クリシェ達の刻印で目が肥えていたせいで、セレネも一般的価値観というものを見失っていたらしい。


「……エルヴェナにも注意しておかないと」


正直、こうした商売もどちらかと言えば観光の口実。

金を稼ぐことが目的という訳ではなかったし、それも単なる遊びの一環。

作ったものが売れると楽しい、それだけのことである。

そういう意味でやはり、こちらにとってあまりに影響が大きい魔水晶関連は不適当なのかも知れない。


大昔に売り言葉に買い言葉、『最高級品がどんなものか見せて差し上げますわ』などとクレシェンタが適当に打った剣は、今も出所不明な奇跡の一品として博物館に飾られている。

それから結構気をつけて来たものだが、それでもこういうことは時々あった。

いつの間にかエルヴェナまで、片手間で大魔導すら驚かせる魔術師に。

あちらで過ごしていると実感が湧かないことではあるが、こちらに来ると認識のズレをよく目の当たりにする。


セレネでさえ今この世界を歩けば天下一の大剣士。

考えてみればすごいこと。実際、多くのものはセレネの剣技を見れば驚くに違いない。

知らず重ねた年月と努力の成果を感じるものだが――しかし、だからどうだ、とも思えなかった。

エルヴェナとてそうだろう。

自分が魔術師として立派なもの、だなんて思っていまい。


かつてはあれほど願っていた大いなる力も、手にして見ればそんなもの。

なんて下らないことにこだわっていたのだろうかと考える。


能力などは本当に、その人間を示す付加価値でしかない。

父もその戦友達も、ただ強かっただけではない。

ガーレンに到っては魔力さえ使えない身であるにも関わらず、父達にもクリシェにも、心からの敬意を向けられていた。

優秀な部隊長、という程度であったダグラもそう。

コルキス達のような超人達と比べれば見劣りする。

けれど彼は己の任務に忠実に、己の信念に従って戦い、クリシェが信頼する一番の部下――その右腕となり、そしてそのことに誇りを持って尽くした。


人は決して平等ではない。

家柄も才能も見てくれも知能も、何もかもが違って生まれてくる。

そんな世界と己を知って、その上で腐らず、全力を尽くすそんな生き様――今も彼らの姿がセレネの胸に焼き付いていた。


何よりも美しく、輝ける姿。

千五百年から語ればほんのひととき、僅かな時間。

けれどあの一瞬を生きた彼らには、この先永遠を過ごしても、永遠に勝ることはないだろう。

セレネにとっての『すごい人』はそんな人達で、それは能力などとは無関係。

どれだけセレネが鍛えた所で、決して届かない所にいる。


それを悔しいとは思わなかった。

そんな人達と同じ時間を過ごせたからこそ――そんな彼らに鮮烈な憧れを向けたかつてのセレネがいたからこそ、セレネはセレネとしてここにある。

敵わない、と素直に思えることが、セレネが得た最も大事な財産であった。


「……間抜けな寝顔」


すやすやと寝息を立てる妹の頬をつまんだ。

眉間に皺が寄るのを眺めて苦笑して、その髪を撫でる。


あの頃はいつも劣等感に苛まれていた。

そう見るべきではない、と思いながらも、その能力で他人を眺めた。

愛しているのはその人格であるのに、自分より優れたところばかりを羨んで、妬んで、自分は彼女達に釣り合わないと自嘲して。


――永遠の鳥籠は、セレネに取ってもどこまでも優しい檻だった。

皆が皆、望むまま、求めるままに日々を過ごす。

能力などは無価値で無意味、誰も魅力を感じることなく、こだわることなく、誰もがあるがままに過ごして生きるのだ。

空前絶後の大英雄も名君も、甘えるのに夢中なお子様で。

その使用人達も伸び伸びと自由、竜さえ遊戯に夢中なお馬鹿であった。

誰が誰より優れている、だなんて下らない価値観は檻の外――遠く彼方に消えている。


永遠とは停滞。

今以上の人間になる機会などこの先もなく、死んだ彼らには遠く及ばないまま。

どれほど能力を磨いた所でセレネはセレネ。

目指す先なんてどこにもなく、向かう先なんてどこにもない。

目指さなければならない場所はどこにもなく、向かわなければならない場所もどこにもない。

それが幸せなことであるだなんて、きっと大昔の自分には思えなかっただろう。

幸せかどうかなど、心の持ちよう一つであった。


「……ふふ」


眠るクリシェの髪を撫でて、目を細め。

それから人の気配に顔を上げる。


「それは楽園の雫か……まさかこんなところで目にするとは」

「はい、偶然手に入りまして」


現れたのは品の良い老夫婦であった。

今度は魔導学院の関係者ではなく、この辺りの貴族か何かだろう。


老人が目を向けるのは、セレネが隣の箱に置いたワイン。

ベリーのワインはそれなりに有名――中々の高値で流通しているようだった。

クリシェを起こさないよう注意しながら毛布で枕を作ってやり、隣の箱から瓶詰めされたワインを取り出し、手渡す。


「……昔見たものに間違いない」


老人は蓋を眺めて頷いた。

千年ほど前から、瓶の蓋は鳥籠を模した魔水晶。

偽造は完全に不可能という訳ではないが、それなりに流通させており、そんな手間を掛けてまで偽造するほど希少品という訳ではない。


「父が一度、飲ませてくれたことがあってな」

「そうですか。わたし達も試し飲みをしましたが、非常に良い仕上がりでした」

「そうか。それは少し、興味がそそられる」


老人は蓋を眺めて口元に静かな笑みを。

老婆は品の良い笑いを零してセレネに告げる。


「丁度良かったわ。……来週、ずっと家を空けていた息子が帰ってくるのよ」

「まぁ。……それはおめでたいことですね」

「ええ。あなた、たまにはちょっと奮発するくらいはいいでしょう? ボロクも喜ぶわ」

「……そういうつもりで寄った訳ではない」

「本当、素直じゃない人。……お嬢さん、一本もらえるかしら?」


セレネは頷くと代金を受け取り、頭を下げる。

それから再びクリシェの頭を膝に乗せた。

クリシェはぼんやりと薄目を開いたが、起きる気はないのかそのまま目を閉じ、セレネは呆れたように溜め息を吐きながら再び頬を引っ張る。

クリシェは唸り、セレネは頬を緩め――見ていた老婆は苦笑していることに気付いて頬を赤らめた。


「可愛らしい妹さんね」

「え、ええ……まぁ……」

「うふふ、これからも仲良くね」


微笑みながら老婆は言って、夫を見た。

夫も仏頂面で頷き、老婆の手を取り歩いて行く。


落ち着いた二人の様子――かつては自分も今の二人より随分な老人であったはずだが、いつの話か。

見た目と同じくいつの間にか、頭の中まで子供のように。

数十年の大人時代を、千数百年の子供時代が侵食していた。


果たしてそれが良いことか、悪いことか。

ともあれ誇らしいことではあるまい。


またセレネは溜め息を吐き、


「うぅ……」


あなたのせいよ、と妹の頬を引っ張った。

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