嘆息 一
寝室であった。
窓際のベッドで大柄な老人が横に。
その隣には年老いてなお美しい、金の髪をした女が椅子に腰掛ける。
赤を基調としたワンピースドレスは、だというのに華美ではなく、彼女が身につければむしろ落ち着いて見えた。
半生を王国元帥として過ごした女傑には、それだけの風格がある。
「大陸一の戦士も歳には勝てないものね」
女の声には凜とした張りと落ち着きがあった。
苦笑交じりの声に、応じる老人もまた苦笑。
「果たして俺が大陸一の戦士であった時期があったかと言えば悩ましいですな。あったとしても、クリシェ様の初陣前の僅かな時間くらいでしょう」
「あの子は戦士じゃないもの。今も昔も」
「あれで使用人だと言われても困るものがありますが」
また二人は笑い、老人が小さく咳き込む。
女はその厚い胸板に手を乗せ撫でた。
「欲を言えば後一年ほど持てば良かったのですが。アレハに負けたまま終わるというのは何とも始末が悪い」
「ふふ、負けず嫌いね。でも、あなたの勝ち越しでしょう?」
「そうですが……あいつはあの歳でまだ剣に磨きが掛かっている。例えば今十度戦ってみれば、俺の勝利も危ういかも知れません」
「戦もなくなったというのに、本当好きよね」
呆れたように女が言う。
老人は微笑を浮かべたまま目を細めた。
「クリシェ様は時代を変えました。俺やアレハ、ノーザン達のような戦士はこの先出てくることもない。……それを考えればこの勝負は史上最高の二番手を決める戦い――アレハに譲るのは少し悔しい。そんな下らん意地です」
「意地ねぇ……」
「とはいえ、名誉ある史上最高の二番手はもしかするとセレネ様かも知れませんな」
「……わたし?」
唐突な言葉に首を傾げると、老人は頷く。
「そうでしょう? 何せ、時間は永遠……セレネ様には十分才能がありますし、これ以上ない稽古相手も側にいますからな。遠い未来には俺すら足元にも及ばん大剣豪になっている可能性も十分にあるでしょう。俺としても二番手をアレハに取られるよりずっといい」
「…………」
「……? ああ、もしや、まだ迷っておられるのですか?」
黙った女を見て、老人は呆れたような顔をした。
「迷って……は……一応は決めてるわ。覚悟がまだ、ちゃんと出来てないだけ」
「……今更何の覚悟が必要だって言うんです。これまでの人生全てをクリシェ様に捧げておきながら」
「……だって、わたしはベリーじゃないもの」
女は言って、嘆息した。
「きっと楽しいわ。百年だって二百年だって。でも、永遠だもの。わたしがちゃんと、そんな幸せを永遠に過ごして笑っていられる人間かって聞かれれば、不安なの。わたしはベリーみたいに、あの子の幸せが自分の幸せだって心の底から思えない」
それから、吐き出すように続ける。
「……わたしの幸せの基準は、あくまでわたしでしかないもの」
呆れたように女を見ていた老人は、それを聞いてまた笑う。
女が眉尻をつり上げて睨むと、失礼を、と笑いを堪えて誠意のない謝罪を。
「何よ。馬鹿な女だって言いたいなら笑えばいいわ」
「いや、いや。まさかあれから何十年経っても、未だにベリーに嫉妬してるのだと伝えられると、どうにも笑いが……本当、セレネ様は真面目に過ぎるというか、誠実に過ぎるというか」
「……うるさいわね」
老人は目尻に涙まで浮かべて、笑いに咳き込み。
女は不快そうな顔をしたままその胸を撫でた。
「俺からすれば、どうしてそこまで自分を信じられないのか不思議で仕方ありませんな」
「……知らないわよ」
老人は昔のまま、優しげに主君の娘を見つめ。
「そんな歳になっても、ベリーに嫉妬するほどクリシェ様を愛しておられるというのに……あなたの心に疑う余地が一体どこに残されていると仰るのか」
是非とも俺にそれを教えて貰いたいものです、と笑って静かに口にする。
――セレネの目覚めは明け方。
遅くはなかったが、順番で言えば五人目である。
朝日が昇るか昇らないか。
その辺りの時間に誰よりも早く起きるのはベリーであり、クリシェ。
そして彼女らが活動し始めた辺りでエルヴェナとアーネも動き始め、セレネが目覚めるのはその少し後。
色々な面での事情もあり、一年の大半は自室で寝起きを行なっていたが、彼女達の響かせる微かな物音がセレネの目覚まし。
朝はあまり強い方ではなく、覚醒には多少の時間を要した。
まずは上体だけを起こし、伸びを一つ。
それから目を閉じ静かに呼吸を繰り返し、両手足を開いては閉じ、しばらくをそうして過ごす。
体の気怠さをそうして取り除いた後に立ち上がると、もう一度伸びを繰り返し、腰を捻って軽く柔軟。
ネグリジェを脱いで練習着となっているシャツとズボンへと着替える。
愛用の剣を手に持つと廊下に出て、出会ったアーネと挨拶をしながら階段を降りて屋敷の外に。
準備体操に軽く剣を振り、徐々に本格的に刃を鋭く。
どれだけ鍛えた所でクリシェに勝てる日が来ることはないだろうし、さりとて今の世界にセレネと互角に戦えるほど剣を磨いている者もいない。振るう機会もない。
剣の腕を磨いた所で大して意味もないのだが、それを言い出せばこの永遠自体無意味なもので、数十年を過ごした辺りでもはや、考えることもやめていた。
こうして朝に剣を振るのは習慣であり、そして単なる趣味。
コルキスの言うような史上最高の二番手になりたいと思っている訳でもなかった。
それに永遠――今は無意味でも、この先意味が生じることもあるだろう。
例えば今のところはそれほど興味を持ってはいないが、ベリーが暇つぶしにと再び剣を取ることは十二分にあり得た。
彼女の底意地の悪さ、勝利への執着は並々ならぬものがある。
何かの勝負事の際にセレネの油断を誘うため、あえてセレネが得手とする剣で挑むということはこの先十二分にあり得たし、流石に十年二十年で追いつかれるとは思っていないが、セレネに取っての永遠は彼女に取っての永遠。
この先も追いつかれることはないなどとは思っていなかったし、せめて優位である内に差を付けておきたいと考えるのは自然なこと――いや、今も興味のない振りをしながら、頭の中でこっそりとセレネの攻略法を組み立てている恐れも十分にあった。
ベリーは恥知らずで卑怯でどうしようもない女。
油断は禁物なのである。
「お帰りなさいませっ」
「いつもありがとう、アーネ」
そうして素振りを終えると部屋に戻り、そこにはアーネ。
桶に湯を入れ、手拭いを用意して待っていた。
服を脱ぐとアーネが手拭いを絞って背中を清め、セレネは前を自分で拭う。
基本的にこれはアーネの役目であった。
時々冷たい、熱いと用意される湯の温度調節に問題はあるものの、色々な意味で信用できないエルヴェナよりは随分と安心が出来た。
エルヴェナはベリー同様、何でもそつなくこなす実に有能な使用人であったが、性質の悪さもベリーと同じくである。
ナチュラルに性質の悪いベリーとは対照的、意図的に人を貶め堕落させることを生き甲斐にしている女であり、一度気を許そうものなら、いつの間にか雪山の頂きから突き落とされる勢いで堕落させられるのが常。
現状はリラを屋敷に軟禁、玩具にして満喫しているようだが、油断は禁物である。
はぁ、と嘆息すると、どうされました? とアーネが尋ねる。
「いえ、悩み事が尽きないと思って」
「ふふ、そうですか」
アーネが楽しげに笑うのを聞いて、笑い事じゃないんだけれど、とまた嘆息。
屋敷には捕食者と被捕食者の関係が構築されていたが、アーネはそういう意味で最も信頼できる使用人であった。
大体やることが斜め上と斜め下、ドジの多い使用人であることには変わりはないが、究極のマイペースであり、浮き沈みがない。
毎日アーネはアーネであって、そういう意味では安心できた。
色々と難点はあったが、屋敷を料理で例えるならアーネはパンのような存在である。
「……あの」
体を清めて下着を身につけていると、じーっと真剣な視線を感じて声を掛ける。
「ああっ、失礼を……つい、鑑賞に夢中に……」
裸体を晒すことに抵抗もないが、さりとてまじまじと見られるのは恥ずかしい。
アーネは慌てて桶を片付け始め、セレネはまた嘆息。
彼女が趣味で書いている何やらいかがわしい物語の登場人物には、屋敷の住人をモデルにしたと思われる人物が頻繁に登場する。
癖から容姿、微に入り細を穿つが如くの妙に力の入った描写。
セレネは自身の左太ももと尻、その境目辺りにある小さなホクロの存在を生まれてから数百年知らずにいたのだが、それを知ったのは恐ろしいことにアーネの本からである。
どこまで見られているかと思えばアーネもアーネで油断ならない。
もう少しモデルに対する配慮を考えて欲しいと思うが、やはりアーネはアーネ――良くも悪くも彼女をどうにか出来る人間はこの屋敷に存在しなかった。
彼女唯一の趣味であれば尚更である。
「朝食後はどうされますか?」
「工房で彫刻の続き。しばらくはそれをやってるから好きにしてていいわよ」
「わかりました。何か雑用が出来たら呼んでください」
――そうして二人で朝食に。
上座に座るセレネの右手。
「大体あなたは――むぐっ」
「いかがでしょう? クレシェンタ様」
「……ん、まぁまぁですわね。悪くないですわ」
文句を言いながらベリーの膝の上に腰掛けるのはクレシェンタ。
自分を起こして連れてくるのがベリーの仕事と言わんばかり、朝食に大人しく一人で座っていることは極めて稀である。
「えへへ、ピルシュの実が利いてますね。ちょっとぴりっとして良い気がします」
「そうですね。明日はもう少し――」
クリシェはベリーの椅子にぴったりとくっつけ、今日の朝食はここが良いと毎日三食飽きることなく褒め合っていた。
毎日朝から晩までお子様二人を相手に嫌な顔一つ見せず、心底楽しそうなベリーはやはり大分頭がおかしいのだと思う。
人間、距離感というものは大切なものであるはずだが、二人にはそもそも存在せず、ベリーもまた、そういう機能が壊れていた。
触れあうことは確かに幸せなことで、セレネとて何も考えずそうしたい時間はもちろんあるのだが、いかに好物のミートパイでも毎日三食口にすれば流石に苦しい。
一日中イチャイチャしていれば三日もしない内に飽きるのが普通の人間。
しかし、平気でそうして千年を過ごせるベリーはやはり化け物であった。
毎日三食ミートパイでも苦にならない女――ここに来てから薄々と感じてはいたことだが、彼女は言うなれば知恵がついたクリシェである。
多分、中身がセレネよりずっとお子様なままで止まっているのだ。
そこで張り合おうとするのは、どちらがよりお子様かを競うようなもの。
馬鹿らしいことだと気付いたのはいつの話か。
大人が本気でままごとをやっても、子供の体力は無限である。
勝ち目もなければ無意味であった。
子供になりたい時はあっても、ずっと子供のままというのは理性が痒い。
左を見るとアーネがおり、そしてリラとエルヴェナ。
リラはお嬢様風の白いワンピースドレス姿で、食事に頬を緩めつつ、時折自分の服を気にして恥ずかしそうに。
ほとんど下着姿と言える普段の格好の方が恥ずかしいと思うものだが、リラには布が多い方が恥ずかしいという良く分からない感性があるらしい。
生まれ育った文化の違いと言うべきなのだろう。
エルヴェナは非常に満足そうに着心地を尋ね、お似合いですと褒め称え、次の服はどのようなものにしようかなどと、実に愉しそうな様子。
リラも褒められると満更でもないようで、まだ作るんですね、などと言いつつも、出来ればこういうのが、などと希望を出していた。
スカートは短いものが良いだとか、お腹周りは出ている方が良いだとか、リラの希望は大抵セレネの常識の真逆を行くものである。
またエルヴェナに釘を刺しておかないといけない、と眉間を揉む。
文化の違いは悩ましい。
リラが満足するであろう衣装はセレネ的には実に破廉恥、完全なアウトであったが、それを強く指摘するのは彼女の生まれ育った文化を否定するようなものである。
エルヴェナがリラの服を、などと言い出した時はそういう口実でリラを堕落させようとしているのだと軽く考えていたもの。
だが、その建前こそが本命であったのだろう。
リラの手前、セレネが表だって口出し出来ない衣装作り。
そして、それはリラだけを目的としてはいない。
恐らくはリラの好み――露出が多く、セレネ的には卑猥な衣装で屋敷を満たそうとしているのだ。
『ふふ、良いですね。これくらいならわたしも普段と変わらない感じで……』
『すごくお似合いですリラ様。……ふふ、クリシェ様もいかがでしょう? 動きやすくて快適ですよ』
『なるほど……良いですね。暑い時期にはぴったりかもです』
『ええ、ええ。よろしければ皆様の分も縫いましょうか? 裁縫にもなれてきましたから――』
などと、エルヴェナの計画が手に取るように想像出来た。
流通が始まる前に何とかしなければならないが、文化という繊細な問題。
どうするべきかには細心の注意を払わなければならない。
食事を取りながら明らかに聞き耳を立てるアーネを眺めつつ、セレネは嘆息した。
小屋と言うには大きな工房の側。
槌でノミを打ち、大きな岩を削り出す。
悩み事を常に抱えるセレネにとって、工房で過ごす時間は心を無に出来る大切な時間であった。
最初は永遠という時間を過ごすため、永遠に楽しめる趣味を作ろうと考えて始めたものだが、それも昔のこと。
物作りは良い。
何かを作っている間は、自分の全てがそのことだけに集中する。
両手の感触、視界からそれ以外が消えるくらいに観察し、理想とする完成形を思い描いて投影する。
時にちょっとした失敗から、想像していたものより優れた何かが思い浮かぶ時がある。
そういう時にはその感覚に身を委ね、あやふやなイメージを確たるものにしていくようにゆっくりと。
恐らく、どれも同じなのだろう。
鋼を打ち、粘土を捏ねて、木を切り組んで、色々なものを作ってきた。
どれもまだまだ極めたとは言えないもの――とはいえ、刺身包丁を打っていた頃には見えていなかったものが今は色々と見えてきた気がする。
大切なものは観察力と想像力。
何事もまずは観察による模倣から。
そして模倣の過程で、悪いものが何故悪いのかを学び、精査し、一つ一つ品質に劣った部分を減らしていけば良い。
欠けた部分がなければ完璧、完成形が見えてくる。
あやふやな理想を思い描けばバランスを崩すだけ。
山を一歩一歩登るように、一つ一つ確かめて進むのだ。
そうすれば知らない内に、己の中の想像が、明確な形となって現れてくる。
後は、寸分違わずその形を浮かび上がらせるだけ。
工房に眠る刺身包丁――随分と前に大陸の東で購ったものだったが、あの繊細な芸術がセレネに物作りの奥深さを伝えてくれた。
何度繰り返しても、理想に到らぬ刃。
何故、同じレベルのものが自分に打てないのかと悩み抜いた末、息抜きにと回り道をしてきたものだが、今になってようやく理解していた。
例えるならそれは、子供がコルキスに決闘を挑むようなものだろう。
不要なものを削り取って、洗練させて、それで初めて最低限なのだ。
セレネは成長しないまま、ただその芸術の見た目を真似ようとしただけ――それが頭打ちの原因であった。
気づけた要因は二人にある。
クリシェやクレシェンタの優れている点は何より、その観察力の高さ。
二人は何かを見る時、それが何を目的に、どういう用途で、何を重視しているのかまでをはっきりと読み取ることが出来る。
そして模倣から、合理的に不要な点だけを正確に削ぎ落としてしまうのだ。
彼女達ほどあっさりと出来るとは思っていないが、時間はいくらでもある。
十年で届かなければ百年を、千年の時間を使えば良いだけ。
そこに価値を加えるのは、それからで良い。
今まではプラスアルファを求めすぎていたのだろう。
鳥を追いかけて崖から足を踏み外すようなもの。
まずは一歩一歩進むことが重要なのだ。
――これが終わったらもう一度、あの包丁を超える包丁作りに挑戦しよう。
そう考えて槌を振り下ろす。
カツ、コツと小気味良い音が響き、その音にも神経を集中する。
脆い部分と硬い部分、響く音によって変えるべきは、入れる角度と力加減。
この三十年ほどは石像作りに費やしてきたが、これまでやってきた様々なものに比べて手応えを感じていた。
自分が不器用で大雑把であるということは自覚しているが、家を建てたり石像を削ったり、ある程度大きな何かを作ることはそれほど不得手ではないのだろう。
大きな石塊から掘り出されていくのは、身を寄せ合う一対の幼い天使。
お互いに片方だけの翼を生やし、イメージするのはクリシェとクレシェンタである。
自分の物作りに対し、彼女達から学んだものを注ぎ込むよう、丁寧に。
振り下ろす槌の先端にまで意識を通わせ、掘り進める。
この調子なら、後一週間で完成出来るかも知れない。
一息ついて再び構え、
「――セレネ様っ! 聞いてくださいましっ!」
ゴツッ、と嫌な音が石像から響いた。
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