巫女と欲望の檻 終

世界で最も高き山、グラバヤールベの頂き。

そこに現れたのは一人の男であった。

分厚い防寒具を身につけ、魔術を用いて作られた数々の道具を身につけ、髭は氷点下を遙かに下回る外気で凍り付いていた。


麓から見れば途方もない、偉大なる大地の角。

そこに男はただの人間として体一つで挑み、そして勝利したのだ。


「……えーと、どうしましょうか」


気を失ったらしい男の体を魔法によって外気から隔離し、エネルギーを使い果たしたその体を癒やしつつ。

銀の髪をしたエプロンドレスの少女は困ったように振り返り、セレネを見た。


「寝てる内に近くの村まで運んでおきますか?」

「お馬鹿、それはあまりに可哀想過ぎるでしょ。折角こんなところまで頑張って登ってきたんだから」


セレネは呆れたように言いつつ近づき、腕を組む。


「登山かしら。こんな山を登ろうなんて物好きな人も世の中にはいるのね。気持ちは分からないでもないけれど、命知らずというか無謀というか……」

「……この人はこんな所まで一体何しに来たんですか? クリシェにはさっぱりなのですが」

「何って……山を登りに来たのよ、多分」

「えと……登ってどうするんですか?」

「……、わたしに聞かないでちょうだい。……ベリー」


クリシェは困惑を浮かべたまま、振られたベリーを見る。

ベリーは無茶な振りに困ったように考え込み、誤魔化すように苦笑した。


「そ、そうですね……多分、意味がないことに意味があると言いますか……」

「意味がないことに……」

「……あ、クリシェ様、クリシェ様の串が丁度食べ頃ですよ」

「あ、えへへ……はいっ」


単純である。

すぐにクリシェは男より串に興味が戻ったようで、ベリーのいる網の方へ。

堕落しかけていたリラは訪問客に理性を取り戻し、エルヴェナから離れてセレネの隣、男の側に。


防寒具の上からでも分かる鍛えられた体。

リラはかつてのクレィシャラナの男達の姿を思い出していた。


「すごい方ですね……こんな高い山を身一つで」

「まぁ確かに、すごいことには違いないんだけれど……どうしようかしら?」

「……そうですね、このままという訳にも行かないでしょうし……」


少し考えると頷き、失礼しますね、と眠る男のリュックを探る。

中には登山に使う道具なのだろう。

見慣れぬ様々な道具が入っており、その中に一つ、目的のものを見つめる。

小さな天幕が入った袋であった。

リュックの外に固定された竿と一緒に手を取ると、周囲を見渡し手頃な場所に突き立て始める。


「手伝う?」

「いえ、大丈夫です。お任せ下さい」

「ならいいけれど……」


セレネはそのままアーネの所に戻っていき、彼女と何かを話しながらこちらの方を見る。

代わりにエルヴェナが近づいて、一人では大変ですから、と手を出した。


「ふふ、お酒も入ってますし、細かい作業は大変でしょう」

「すみません……」

「リラ様はお優しい方ですね」

「い、いえ……ひとまず、目が覚めた時に寒空の下というのもどうかと思っただけで……」


放っておいてもクリシェの力で回復するのだろうが、やはりこの山頂でいきなり身一つで目覚めるというのも驚くだろう。

基本的に、普通の人はリラ達を認識出来ても思い出せないもの――彼の記憶にどう残るのかは定かではないが、


『……も、申し訳ありません。このような……神聖なる宴を穢してしまうなど』


という言葉を聞く限り、リラ達を神か何かと勘違いした様子。

その上、全ての力を振り絞り辿り着いた極寒の山頂で、気を失った挙げ句に自分が息を吹き返したとなれば、自分は神に助けられたのだ、とそうした印象は余計に強まる。

それはあまり良くないことのように思えた。


彼は心身を鍛え上げ、己を限界まで振り絞り、身一つでこの山に挑んだのだ。

なるべくならその覚悟を穢したくはなかったし、それは余人が立ち入るべき領域ではないのだとリラは感じる。


「今の世にもこのような方はいらっしゃるのですね……」

「……、そうですね」


防寒用だろう、滑らかな感触の布を二人で張りながら、視線を感じてエルヴェナを見る。

彼女は何やらじーっとリラの顔を見ていた。


「……あの?」

「いえ、驚きですっかり酔いが醒めてしまわれた様子ですので。……クレィシャラナも今では寺院になっているのだとか」

「ああ、そのようですね。修行僧を何度か見掛けた記憶があります」


自分から調べよう、というつもりもなかったが、それでも勝手に意識してしまうのだろう。

クレィシャラナが今はどうなっているのかについても多少知ってはいた。


聖霊がいなくなり、多くのものは平地へ流れて行ったこと。

それでも留まり、伝統と教えを守ろうとする者がいたこと。

そんな彼らの在り方に惹かれる平地の者がいたこと。

いつからか、クレィシャラナは部族ではなく、思想を意味する言葉になり、かつてのその地には寺院が建てられたこと。


平地の民との融和のため尽力し、族長を継いで道を示した兄の功績も大きいだろう。

時間がいずれ全てを良い形にする。

良い教えは時代を経ても共感され、部族が消えても残っていくのだとリラに聞かせた通り、その通りとなった。

多くの教えは形を変えたようだが、それでも大切な教えは今も引き継がれている。


『……お前の信念も、覚悟も決して無駄にはしない。もしもお前にその先を見る機会があるならば、きっとお前が望んだクレィシャラナの姿がそこにあるだろう』


儀礼で会うと、兄が時折語って聞かせたクレィシャラナの変化。

あの頃に想像した未来と全てが一致する訳ではないが、それでもそれは、確かにリラが望んだクレィシャラナの未来であった。


「この方もその関係者でしょうか?」

「それは分かりかねますが……そうなのかも知れませんし、そうではないのかも」


苦笑し、続ける。


「どうあれ、己を研鑽し、心身を磨き上げ、それを良い、と感じる心は今の世にも変わらず存在しているということでしょう。……わたしは感動しました」

「感動……」

「……はい」


心にあるそれを表現するなら、感動と呼ぶほかあるまい。


「禁欲や節制、自ら苦行に身を投じる意味について、わたしは悩んでいました。果たしてそのようなことに何の意味があるのかと」


目を閉じて祈るように両手を胸に抱く。

毛皮と上下の布二つ、非常に寒いがそれもまた今は愛おしかった。

エルヴェナは非常に面白くなさそうな顔でじーっとリラを見ていたが、目を閉じている彼女は気付かない。


「けれど、そこに意味などはなくて良いのでしょう。快楽に溺れることも人の性であれば、こうして己を律し、鍛え上げようとするのもまた人の性というもの。きっと、ただ自分の心に身を任せ、為したいことを為せばよいのです」


そう、心のままに。

堕落し快楽に身を委ね、苦痛を避けようとする己の心。

研鑽し苦痛に身を投じ、禁欲と節制を尊びたい己の心。

そこに真偽、優劣がある訳ではなく、きっとどちらも真なのだ。


「ふふ、美味しいですね」

「おねえさまっ、ベリーばっかりズルいですわ! わたくしも……っ」

「わがままですね……クレシェンタがベリーに抱っこさせてるからクリシェが食べさせてるんです」

「まぁまぁクリシェ様。ほら、クレシェンタ様にも……」

「うぅ……」


訪問者に対し、既に興味の欠片も抱かぬ二人。

そんな欲望に忠実な姿がいけない訳ではなかったし、かと言って彼のように自ら苦行に身を投じ、己の研鑽に励む姿が絶対的に正しい訳でもないのだろう。

どちらも間違いではなく、そしてそれで良い。

正しいか、意味があるかなど些細なこと。

各々が己の望むことを――リラにとっては単に、それが研鑽の道であっただけ。


「……まるで悟りを開かれたようですね」

「悟り……いえ、ふふ、確かにそれに近いのかも知れません。少なくともわたしはこの方のおかげで、一つの真理を目にしたような気がします」


気絶し横たわる男を眺め、リラは頷く。

エルヴェナはそんなリラをじーっと、睨むように眺めていた。


彼を用意した天幕の中に移し、食事も一段落。

結局どうしようかしら、と告げるセレネの言葉もあり、お屋敷会議(出張版)が急遽開かれることとなった。


放って帰ればいいんじゃないかしら、と口にするのは実に満足そうに欠伸をするクレシェンタ(さっさと屋敷に帰ってお休みしたい派)である。

好き好んでこんな所に来たのだから、野垂れ死のうとどうでも良い、と言わんばかり。

心の底からどうでも良さそうな口ぶりである。

使用人に抱かれつつ告げる彼女の姿はどうにも発言力に欠けるものではあったが、語る言葉は意外にまとも。

普通の人間と深く関わるべきではないという方針は真っ当で、こうして一度死にかけた命を救ってやったのだからそれで十分すぎるほどである、という彼女の発言には、本心はどうあれ確かに一理あった。


仮に戦争があっても、表のことには我関せず。

望んで歴史から外れた自分達が関わるべき事ではないし、人の世界のことはあくまで人の世界に住むものが決める、というのはお屋敷方針の第一。

この世界を存続させるための予防策は打ってもそれ以外で介入はしないということは原則として決められていた。

その点彼女の言い分は原則に適ったもっともなもので、珍しくこの意見にはセレネ(放置するのも不憫派)やクリシェ(クリシェも抱っこされたい派)も若干の同意を示している。


ですがこのまま放置というのは夢見が悪いですし、とここで意見を出すのはアーネ(幸せな妄想に浸りたい派)であった。

会議で発言することも稀な彼女の意見は感情論であるが、心情としては真っ当なもの。

その発言にリラ(彼のおかげで悟りが開けた派)も、


『確かに無謀で愚か、本来はここで死ぬことになる方だったのかも知れませんが……偶然とはいえこうしてわたし達と巡り合わせたのも一つの運命。せめて無事に帰ることが出来るよう見送るくらいはしても良いのではないでしょうか』


と、同意を示し、ベリー(巡り合わせ論推進派)とエルヴェナ(???派)を味方に付けることとなり、意見は二つに。

しかし、夢見が悪いという意見に対する、確かにそうよね、というセレネの同意もあり、彼が無事下山できるように見守るという結論に達した。


樹海サバイバルツアー、大海漂流ツアー等々こうした人助けというのは特に初めてでもない。

屋敷の方針はあくまで大きな視点での話で、ちょっとした偶然で出会った個人は例外という見方もあり、その意見が全面採用。

彼が登ってきた南側に適当な寝床を作り、その帰路を見送る。


大気を安定させ、雪を固め、ちょっとした携行食をこっそりリュックの中に忍ばせ、それだけで十分であったらしい。

着実に一歩一歩、来た道を踏みしめ、時にロープを使いながら器用に彼は降りていく。


太陽に輝く白き山並み。

真白い斜面に足跡を刻む、茶色の防寒具。

男の姿はこの世界からすれば、どこまでもちっぽけであった。

雪崩で遊ぶリラ達とは違う。

どれほどの修練の果てであったとしても、やはり無謀であろう。

一歩踏み外せば、偶然雪が滑れば失う命を一つ握り、このような山に挑むのは。

だが、男はしっかりと真白い雪に、氷に自分の証を打ち込み、己のペースを乱さずにゆっくりと、ちっぽけなままに遠ざかっていく。


リラの目に焼き付く光景であった。

萎えていたはずの気力が再び力強くなるのを感じながら、雪だるまをまた一つ。


隣のエルヴェナは、男ではなくリラを見ていた。










そうして第五十七回クリシュタンド雪山遭難ツアーは終了し、リラ達はグラバヤールベを後にする。

極寒の地から一転、温暖な森のお屋敷まで戻り、ひとまずの片付けを。

使っていた天幕やソリ、椅子から何からそれなりの荷物を持って行っており、一つ一つを丁寧に磨いてお屋敷の横に作られた倉庫の中へ入れていく。


雪山で雪を溶かして即席の温泉を作ったり、山を滑った後に再び上まで登ったり、などということにはよく魔法が使われたが、こうした道具の手入れに関しては手作業で行なうのが常だった。

文句を言うのはクレシェンタくらいのもの。

その彼女でさえ文句を言いながらも、実際こうした作業は嫌いではないらしく、文句を言いながら丁寧に小物を拭き、雪山での不満をぷりぷり口にしながら上機嫌であった。

このような作業を面倒くさがる人間は一人もここにはいなかった。


お屋敷や別荘、小屋の手入れから何から基本的には手作業。

思えば退廃的と感じるこのお屋敷での生活でさえ、全てが全て快楽一直線というわけではない。

あっという間に終わらせてしまえるであろう作業に時間を掛けて、無駄に無意味に――考えてみればそれはある意味、リラのやっている日々の修練と同じ理由なのだろう。

お茶一つにも手間暇を掛け、今では茶葉から手作り品。

色んなものにこだわり、些細で下らないことに誰もが真面目に取り組んでいた。


「……思えば千数百年もここで過ごしておきながら、わたしは表面しか見えてなかったのかも知れませんね」

「表面……ですか?」


手入れを終えたテーブルをエルヴェナと小屋に運びながら、リラは告げる。


「お屋敷での生活そのものがまるで堕落的なものであるかのように、わたしはそのように感じていたように思います。でも実際の所、お屋敷の生活とわたしの普段の生活に大きな違いがないんだと気付きました。こうやって本来不要なことを手作業で行なう意味を考えると、やはり近しいものです」


リラがようやく気付いたことを、彼女達はずっと前から気付いていたのだ。

無論、無意識であるのかも知れないが――とはいえ、ただ快楽を追求するだけではいけないと感じていたのは確かだろう。


「エルヴェナ様が口にされた、人はバランスを取る生き物、というのは恐らくそういうことなのではないですか? 人は苦痛にいつまでも耐えられるものではなく、けれど快楽だけに溺れるようにも出来ていない、ということをわたしに教えて下さろうとしていたのですね」

「えと……」

「確かに考えてみればわたしは、快楽に溺れて逃げることから目を逸らそうとするあまり、物事をあまりに極端に考えすぎていたのかも知れません」


快楽に溺れることはいけないこと。

禁欲節制は正しいこと。

表向き、幸せならばクリシェ達のように過ごすのも良いと口にしながら、きっと内心でリラはそんな考えに凝り固まっていたのだ。

禁欲節制はあくまで、未熟な己を律する手段であって目的ではない。

堕落しやすい自分のバランスを保つため、リラが勝手にそうしているだけであって、それはリラの中にあるリラだけの問題。


セレネやベリーは言わずもがな。

クリシェにもクリシェの美学があって、それを守った上で日々を過ごしていた。

自分は立派な淑女、使用人になるのだと日々精力的に働いていたし、クレシェンタでさえちょっかい――いや、その能力を考えればあっさりと解決出来るだろう、セレネやベリーの仕事を手伝っている。

イチャイチャと甘えて堕落しているような姿ばかりが思い出されるのはきっと、リラが彼女達のそういう部分だけを見てしまっていたからに違いない。

自分が我慢しているのに、などと、そのような感情は理不尽な嫉妬でしかあるまい。


エルヴェナを見ると、彼女は少し考え込む様子でリラの顔を眺めていた。

肩で揃えた黒髪を揺らし、切れ長の瞳を細め、それからふと、柔らかい笑みを浮かべる。


「リラ様に教えるだなんて、それほどわたしは立派な人間ではないのですが……ふふ、でも、息抜きの意味合いはそのようなものですね。リラ様はご自分に厳しいあまり、穏やかで心地よいちょっとした日常さえ、堕落と感じてご自身を追い詰めてしまっているのではないかと、少し心配を」

「……そうでしたか。心配掛けてしまいました」


テーブルを置くとリラは頭を下げ、エルヴェナは苦笑する。


彼女が自分を堕落させようとしているのではないか――これまで何度も繰り返してきた疑念。

しかし、やはりそれはどうしようもなく失礼な疑念であった。

エルヴェナはずっとリラを心配してくれていただけ。

それをそのように感じてしまうなどやはり、恥ずべき事であった。


「……実は、その……エルヴェナ様はわたしを堕落に誘って楽しんでおられるのではないかと、そんなとんでもなく失礼なことを何度か思っていたのです」

「まぁ」


恐る恐る顔を上げると、思っても見なかった、と言わんばかりの驚き顔である。

想像通りの反応に安堵しつつ、自分の失礼な考えと物言いに頬を染め、目を泳がせる。


「でも、そうですね……確かに言われてみると、わたしはリラ様の邪魔ばかり。すみません。気を遣っているつもりで、わたしはちょっとお節介焼きなのかも知れませんね……」

「いっ、いえっ、その……、エルヴェナ様が悪いのではなく、わたしが人の好意を素直に受け止められない人間であったというだけで……エルヴェナ様は全く」


困ったように、少し悲しげな顔のエルヴェナを見て、慌てて否定する。


「いえ、正直に口にしてもらえれば構いません。ちゃんと改善します」

「改善だなんて。その、本当に、わたしがひねくれていただけで……気持ちはすごく嬉しいですし、これからは平気です。あくまでこれまでは、という話で……今はすごく感謝していまして」

「……無理をしてませんか?」

「はい、嘘はつきません」


リラは言って、エルヴェナを真っ直ぐ見る。

エルヴェナはじーっとリラを見つめ、それからほっとしたように微笑んだ。

魅力的で可愛らしい笑みだった。


「……良かった。でも、もし何かあればちゃんと言ってくださいね。実は人との距離感が分からない方で……失礼があってはいけませんから」

「大丈夫です。エルヴェナ様にこれまでそんなこと、されたことありませんから。むしろわたしの方が知らず失礼なことをしてしまう方が多分多そうです……」

「ふふ、そんなことはありませんよ」


エルヴェナは言って、倉庫に整理された物を眺めた。


「ひとまず片付けはこのくらいですね。リラ様はリーガレイブ様達の所に?」

「はい、ご挨拶に」


現在は四頭があの場に居合わせている。

ベリーと最古の竜、リナセラの七番勝負、第五戦が三ヶ月前から行なわれており、その観戦にクシェナラースの他もう一頭が訪れていていた。

毎日一度は魔力の駒を動かすためベリーは顔を出していたが、特に変わりないらしい。

聖霊達は盤上遊戯に夢中で、子供のように議論を交わしたり交わさなかったり。

リラも聖霊も彼女達も同じく、ここでは全てが自由であった。


あの登山者のおかげで、凝り固まった心も解れている。

修行の再開には良いタイミングであった。

やらなければならないのではなく、自分から望んで禁欲節制の日々を過ごすのだ。

意味があるからではなく、心のままに。

大事なことはきっとそれだけ。


「それからその後は――」


――もう一度自分を鍛え直すべく、以前の生活に戻ります、と。

決意し、そう口にしようとしたところで、


「はい、約束通り、衣装作りのお手伝いをお願いしたいのですが」

「え?」


エルヴェナが微笑み口を開いた。


「……? どうされました、リラ様」

「い、いえ……すっかり忘れてましたね。そうでした」

「もしかして、何かやることが?」

「そのようなことは……もちろん、お付き合いします」


それは良かったです、とエルヴェナは両手を打ち鳴らした。

稀に見るような、満開の笑みである。


「羽休めも兼ねて、今日からはしばらく、何でも申しつけて寛いでくださいね」

「は、羽休め……」

「はい、裁縫は多少練習したのですが、一から全部となるとやはり、素人仕事ですし不慣れなこともありますから、ご迷惑を掛ける事になるかも知れませんが……その分精一杯、他の部分でお世話をさせて頂きます。お任せください」


ずい、とエルヴェナは笑顔のままで近づいた。


「あ、あの……」

「やっぱりリラ様の好みや、採寸、試着と色々考えると結構拘束してしまうことになるでしょうし、お嫌でなければリラ様の部屋ではなく、わたしの部屋でお過ごし頂くのはどうでしょう? わたしとしてはその方が色々と都合も――」


決意に踏み出した一歩目は、そうして矢継ぎ早な言葉に流されて。


今日も巫女は、欲望の檻に。

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