巫女と欲望の檻 三
翠虎に乗せられ、聖霊の窪地に。
彼女が思いついた『良いこと』を聞いたリラは必死にクリシェを説得しようとしたが、彼女は大丈夫の一点張り。
森を駆け抜け窪地に降り立ち、
「リーガレイブさん、リラが寂しがってますよ。ちゃんと構ってあげてください」
開口一番そう告げる。
――リラは硬直した。
魔水晶で出来た巨大な岸壁の前――聖霊は無言。
首を持ち上げるでもなく、その赤紫の大きな瞳でクリシェを見て、リラを見る。
そしてしばらくすると魔力を響かせた。
『何の話だ、クリシェ』
「折角リラがリーガレイブさんの最後の巫女……とかいうのになるために、寂しい思いをしながら一人で森の中に暮らしているんです。リーガレイブさんからも積極的にリラの所に訪ねて、お話相手になってあげたらどうなんですか? どうせ暇なんですし」
「あ、あの……クリシェ様、そもそも、そのお話も、その、まだ……」
「……? リーガレイブさんに話してないんですか?」
聖霊の巫女などというものは、そもそもクレィシャラナにおいての話。
聖霊にしてみればどうでもよいことであろうし、あえて口にするのもどうか、聖霊に対して若輩の己が最後の巫女になどと驕りと思われるのではないか、とずるずるここまで来てしまっている。
自分が本当にその覚悟もあるのかと問われて、そうだ、と胸を張って言えるのか。
そんなことも考えて。
「まぁいいです。実はですね――」
まぁいいです、の言葉に、良くないです、と答えたかったが、あまりにも畏れ多い状況にリラは顔も真っ青に、ほとんど固まっていた。
そんなリラの様子にも構わず、恐らくは兄に聞いたのであろう説明を、ぽややんとした気の抜ける口調でクリシェは説明し始める。
表情の分からない聖霊は黙ってそれを聞き、リラは何を思われているのかと気が気ではない。
里の事情、いずれ訪れる信仰の喪失。
クレィシャラナの未来を見据えて最後の巫女となることを決めたリラであるが、やはりその点において、聖霊とは無関係。
謁見もリラの代から二年に一度から年に一度に変わったし、時々問いを投げかけられたり、聖霊が言葉を発することが増えたものの、それもリラが特別なのではなく、あくまでクリシェのことがあったため。
別に自分が聖霊にとって特別な存在だというわけではない。
覚悟を決めて己が口にするならまだしも、クリシェの口から説明されるとやはり、それは驕りも甚だしい内容に思えた。
そも、永遠にお仕えするため、などと考えたのも、聖霊が寂しい存在なのだという考えからで、その考えからして畏れ多いものなのである。
「……細かいところはともかくですね、大事なのはこの先もずーっとリラはリーガレイブさんと一緒にいようって思ってくれてるってことです。リーガレイブさんはそんなリラにもっと優しくしてあげるべきだとクリシェは思うのです」
うんうんと、とても良いことを言ったという顔である。
黙って聞いていた聖霊は、大きな瞳でリラを見る。
『事情は大体理解したが、好きにすれば良かろう。その小さきものが森で暮らそうが群れで暮らそうが些細なこと。お前の友ではあるのだろうが、その小さきものは我の友ではなく、興味もない』
魔力の響きに、リラはまた硬直した。
『我をどう思おうと、それは我の関知することではない。特に拒みもせぬが、あえて我がその小さきものに付き合う理由はどこにある?』
「んー……」
唇を指でなぞり考え込む彼女を見て、慌ててリラは外套を引く。
「っ、クリシェ様、お気持ちはありがたいのですが……大丈夫ですから……」
「でも、リラは大丈夫じゃなさそうですし」
「え、と……」
振り返った少女は柔らかく微笑み、大丈夫ですよ、とぽんぽんと頭を撫でた。
それから再び、聖霊に目を向けた。
「クリシェにはいまいちリーガレイブさんが何にこだわっているのかわからないのですが……」
『こだわる?』
「対等だとか、能力で劣る相手とは仲良くなれない決まりなのでしょうか? 例えばクリシェ、今ならリーガレイブさんと勝負したってあっさり勝っちゃいますし、リーガレイブさんと対等なんかじゃないですが、でも、そんなことは些細なことだと思うのです」
理由なんていらないと思うのですが、と彼女は続けた。
「リーガレイブさんはクリシェに殺されたくないからお話ししてるんじゃないはずで、クリシェもリーガレイブさんが自分と対等の力を持つから、なんて理由でお話ししてる訳でもないです。単に仲良くしたいからこうして会ったりお話してるだけで……」
違いますか? と彼女が訪ねると、どこか興味深そうに目を細め、違いはせぬな、と。
それから静かに、断続的に魔力が揺れる。
「能力の優劣だなんてくだらないことです。色んな人に色んな考えがあって、それが違うから、色んな事が考えられたりして、色んな楽しいだとか幸せに気づけて……きっとクリシェとお話するのが楽しいと思うなら、リラとお話したって楽しいですし、他の人とお話したって楽しいです」
クリシェという少女の尊敬できる部分は、聖霊と似ているのは、きっとこんな所かも知れない。
思ったことを思ったままに、どんな時でも自分の言葉で――彼女は自分の意思と考えを、誰に対しても堂々と伝えられる。
彼女は自分のことを、大きくも、小さくも見せようとしなかった。
「小さきものは下らない、だなんて一括りにして言いますが、世の中には色んな考えを持ってる人が沢山いて、お馬鹿なクリシェやクレシェンタより立派ですごい人も沢山いて、そうじゃなくたって一緒にいて楽しいだとか、幸せだって思える人がいて、好きになってくれる人がいるんです」
「ぁ……」
彼女はリラの背後に回ると後ろから抱きしめ、聖霊の前に。
「折角リーガレイブさんとこれからも仲良くしたい、お話したいって人がいるんですから、そういう変なこだわりは勿体ないです。もちろん、リラが嫌いって言うならともかく、そうじゃないならこれも一つの巡り合わせ……大事にしないといけません」
半ば固まったまま、恐る恐る聖霊を見つめる。
その赤紫の瞳は更に細められ――しばらくして、断続的に魔力が揺れた。
聖霊のある、この巨大な窪地を満たす魔力の振動。
――それは、人が笑うによく似た響き。
少しして、聖霊の窪地に静寂が生まれ、再び魔力が大気を揺らす。
『なるほど、お前の言葉にも一理はあろうか』
「そうです。例えば自分の他にもう一匹、完全に対等で同じ考えのリーガレイブさんがいても、だからといって楽しくお喋りなんて出来ないでしょう? 自分と違う人とお喋りするからお話は楽しいのですよ。そういう意味でリラは適当です」
『適当?』
リラを抱きながらうんうんと頷き、指を立てた。
「リーガレイブさんと違ってすっごく弱々で、リーガレイブさんからすれば無駄なことに一生懸命。でも優しくて素直な良い子ですから、素直じゃないリーガレイブさんとは色々正反対でぴったりです。……クリシェも自分と全然違う人達から沢山のことを教わりましたし、リーガレイブさんだってリラに教わることも沢山あるはずです」
『ほう。この小さきものに我が?』
視線の圧力が増して、呼吸が止まりそうであった。
思ったままに口にしてくれる――彼女の気持ちは嬉しくあったが、とはいえ時に、それは純真という名の暴力である。
「はい。リラも寂しそうですし、お話相手には丁度良いでしょうか。リーガレイブさんだってどうせ一人で考え事しながら寝てるだけなんですから、リラとお喋りしてる方がずっと建設的です。……ですよね、リラ?」
「え、えと……」
問われて困惑し、言葉に迷う。
「リラが一人寂しく暮らす理由がリーガレイブさんと一緒にいるためなら、リーガレイブさんの考え事やお喋りに付き合うのだって、リラの大切なお仕事だと思うのですが」
「それ、は……」
彼女は良いと思うことを良いと思うままに語ってくれているだけ。
リラのようにあれこれと、無用なことなど考えず、問題を単純明快に。
どうあれ、ここまで言ってもらって迷うことは、もはや不義理だろう。
リラは深呼吸を一つ。
「……僭越ながら」
そして覚悟を決めると、静かに深く頭を下げた。
「諸々の儀礼とは無関係に……ヤゲルナウス様がご不快でなければ、時折わたしがこの場を訪ね、口を利くことをお許し頂けるでしょうか?」
心臓が激しく脈打ち、体が汗ばみ。
だというのに体中は冷え切って震えていた。
「だそうです。どうですか?」
彼女が告げるとまた笑うように、断続的に魔力が揺れる。
それから少しして、魔力を緩やかに震わせた。
『よかろう。以前とさして変わる訳でもなし、気が向けば我はお前に答え、お前に問う』
「っ……」
『話に付き合う程度は構わん。――リラとやら、それで満足か?』
頭に響いたその声に、リラは目を見開いて、更に深く頭を下げた。
思わず目が潤み、慌てて腕で拭って言葉に答えた。
「っ……ありがとうございます、ヤゲルナウス様」
『礼はクリシェに言うべきだな。我にとっては些細なこと、お前の如き小さきものに付き合ってみるのも、確かに悪くはないと思うたまで』
顔を上げるとその赤紫の瞳で、真っ直ぐとリラを見ていた。
『少なくともこれまで、我が問いに対するお前の答えも悪くはない。話に興じるにそれほど不便もあるまいし、単なる小さきものと問答を交わすのも、考え方によってはまた一興』
それから告げると、側のクリシェに目を向ける。
『あえて言葉を交わす気にもならんだが、確かにそれも下らぬ矜持と言えようか。言葉を交わして得るものがないと断じるのも、お前の言うとおり早計と言える』
「えへへ、そうですよ。意地っ張りは損なのです」
リラはその言葉に、もう一度深々と頭を下げると、顔を上げてクリシェを見る。
「良かったですね、リラ」
彼女はぽんぽんとリラの頭を叩き、柔らかい微笑みを浮かべた。
今日は泊まっていく、と彼女は告げ、その日の晩は彼女と寝床に。
ちょっとした家具が置かれた程度の小屋の中。
毛布だけの簡素な寝床に文句も言わず、リラの隣で幸せそうに。
「……クリシェ様は本当、すごい方ですね」
「ん……すごいでしょうか?」
聖霊を恐れることなく平然と言葉を交わし、リラが寂しいなどと言う下らない理由で説教までしてしまうのだ。
リラが言い出せずにいた事も、その悩みも、彼女は一日で嵐のように吹き飛ばしてしまった。
仮にリラが同じ力を持っていたとしても、リラの単なる話相手のために聖霊を説得しようなどとは思わないだろう。
聖霊にしてみれば理不尽な物言いである。
彼女のように強引に、あっさりとは物事を捉えられない。
神様のようだ、と考えて、実際近しいのかも知れない、と考える。
「ふふ、あんなに簡単に……まるで神様みたいなことをしてしまいますから」
「神様……」
彼女はついでとばかりに岸壁の魔水晶を砕き、雲を貫く高い塔を生み出した。
根源と呼ばれる場所から膨大な魔力を吸い上げ、空へと放つ魔力井戸。
大気を魔力で満たすことが『世界創造』の下地となるそうで、本来の用事はそこにあったらしい。
青空を満たす、輝ける術式刻印の集合と、音もなくせり上がる巨大な柱。
彼女はまさに、天地と聖霊、人を含めたあらゆる生物を創造したという存在。
その景色も、古より語られる創世神話の光景であった。
思い出すのは、彼女が愛する使用人の魂を連れ戻しに行った時のこと。
幼き少女はまさに神と呼んで誤りとも言えない、途方もない存在であった。
世界そのものを書き換えて、新たな世界をまるごと生み出す天地の創造――彼女がこれからやろうとしていることが一体どれほどのことであるのかと考えると、尚更、彼女はリラなどとは比べものにならない存在に思えてくる。
そんな彼女がリラとこうして同じ毛布に包まり、横になっているのが不思議であった。
「確かにクリシェはちょっとだけ計算が得意で、魔術の扱いも上手かもですけれど……大したことじゃないです。例えば包丁の扱いが上手だからって、お料理が上手ってことにもなりませんし……そんな感じでしょうか」
クリシェはまだまだ未熟なのです、と彼女は微笑む。
まるで、己が未熟さを喜ぶような声音であった。
「むしろ、リラの方が立派だと思いますけれど」
「えと、わ、わたしですか……?」
「はい。リラはクレィシャラナの人達のために、誰にも会わずに一人寂しく生活するなんて辛いことをしてるんでしょう? ……クリシェはいっつも全部、自分のことばっかりの悪い子ですから」
寝間着の薄ピンクのネグリジェ――胸元から魔水晶を取り出して彼女は眺める。
「悲しいのは嫌で、辛いのも嫌です。だからベリーと会いたくて……また、みんなでずっと一緒に過ごしたくて、でも、それはクリシェのわがままです。セレネを泣かせて、付き合いきれないって叱られて、まだちゃんと答えをもらってません」
「…………」
手を伸ばして頬を撫でた。
青き魔水晶、その内側の赤い光が、彼女の瞳のように紫に輝く。
銀の髪も白い肌も、そんな光に照らされた彼女の美しい顔は完成されていて、けれど幼く。
いつも彼女は、子供のまま――初めて会った時から変わらない。
「……ベリーだって、本当にクリシェに付き合ってくれるか分かりません。流石にそれはわがままだって言われるのかも……でもクリシェは、それでもベリーに会いたくて、だからお馬鹿なことをしてて……えへへ」
何が言いたいのか分からなくなってきますね、と彼女は困った顔で微笑む。
寂しげな響き――実際、そうなのだろう。
神というべき力があってさえ、それでも全てが思い通りに行く訳ではない。
「……リラには悪いのですが、どうしてもセレネが駄目って言ったら、永遠なんて望むべきじゃないって言ったら、クリシェはこれで終わりにしちゃうかも知れません。もちろんリラが望むなら、リラだけでもそういう体には出来るのですが」
「……構いません。お任せします」
言ってから、続けた。
「でも、きっとクリシェ様のお気持ちは、セレネ様にも伝わっていますよ。……わたしはそれほど、あの方のことを深く知る訳ではありませんが」
黄金の髪をした、若く美しい元帥。
これまでちょっとした挨拶程度の会話しかしたこともなかったし、付き合いが深い訳でもない。
けれど、彼女がこの少女を見る目を思い出せば、確信を持つことが出来た。
この少女の側で、リラよりもずっと長い時間を過ごしてきたのだ。
少女が語る『お馬鹿』がどんなに美しいもので、どれほど愛おしいものか、きっと誰より理解しているに違いない。
「ベリー様も。ふふ、自分が死んだ後にその魂を連れ戻すためにと追いかけられて、ただ会いたかったから、だなんて……そんなことを言われたら、わたしだって嬉しくて、大喜びです」
「大喜びですか?」
「はい。そんなに愛してもらって怒る方なんてきっといらっしゃらないでしょう。あの方なら尚更です」
くすくすと笑うと、彼女は微笑み、だといいです、と魔水晶を両手で包む。
「……あっちに行ったらリラのお部屋も用意しないとですね」
「わたしの部屋……」
「はい。それまでこんな所で一人暮らしですし、頑張ったお祝いもしなきゃいけません」
「お祝い……」
「リラの大好きなお肉のフルコースですね。今日も折角ですし、リラ用にお肉を持って来ておけば良かったのですが……クリシェ、全然頭になくて」
リラは頬を染め、お気遣いなく、と苦笑する。
久しぶりに食べた誰かの手料理は、驚くほどに美味だった。
代わり映えのしない食材――もちろん彼女の料理の腕前もあるのだろうが、それだけではあるまい。
「ふふ、毎日クリシェ様やベリー様のお料理を頂くとなると大変ですね。美味しいものばかりで舌が肥えて、気をつけないと贅沢に溺れてしまいそうです」
「えへへ、リラはすっごく美味しそうに食べるので、お料理を作る方も楽しいのです。それに、ヴィンスリールさんにも昨日頼まれましたから」
「……兄さんに?」
はい、と彼女は頷く。
「巫女をやったり、こんな所で寂しく暮らしたり……リラは寂しがり屋で強くもないのに、誰かのためにならどんなに辛いことも我慢して、頑張ってしまう良い子だって」
そんな言葉を聞いて。
「だから、あっちに行ったら、その分リラが毎日幸せに過ごせるようにしてあげて欲しいってクリシェに言ってて……」
彼女にそう頭を下げる兄の姿が目に浮かんだ。
会う度、心配そうにリラを見つめる兄の表情を思い出す。
こうして一人で暮らすことにも、兄は必死で何度も止めようとしていた。
覚悟は理解したが、お前がそこまでする必要がない、そんなことをしなくともいずれ自分がどうにかすると。
リラの覚悟も結局、半分は意地。
兄に迷惑を掛けたくなかったし、父や兄の考えるクレィシャラナの未来を良いものにするために、自分も何かをしたかっただけ――立派な父の娘として、兄の妹として、彼らが誇れるリラでありたかったのだ。
だから失望されたくなくて、一度口にしたことだからと意固地になって、ここに来て。
それでも、多分兄はそんなリラの下らない意地を理解した上で、彼女にリラのことを頼んだのだ。
途端に視界が滲んだ。
両手で顔を覆うと堪えきれず、嗚咽が漏れた。
彼女はそんなリラを抱いて、大丈夫ですよと囁いた。
「きっととっても楽しいです。毎日お馬鹿なことを言ったり、お馬鹿なことをしたりして、きっとすっごく賑やかです。辛い事なんてなくて、悲しいこともなくて、毎日ずーっと幸せです」
頷くと頭が撫でられて、ただ、その感触が心地よく。
「寂しくなっても皆いますし、一人っきりになんてさせません。……だから、そんな風に泣かなくても大丈夫です」
頷く度に、優しく頭が撫でられた。
大丈夫、と繰り返す言葉は半分自分に言い聞かせているようで、彼女もきっと自分と同じなのだと理解する。
会いたいものに会えなくて寂しいのは、決して自分一人だけではない。
彼女も含めて、世界中のあちこちにいることだろう。
時々、自分が世界で一番不幸なのではないかと考えてしまうことがあって、けれどそんなことは決してない。
年に一度は兄達に会えたし、会えない時間もずっと、リラのことを心配してくれている。
彼女のようにリラを気遣って慰めてくれる人もいて、この孤独もこの先、永遠に続く訳ではないし、もしかするといつかは、こんなこともあったなと思い出して笑える程度のことであるのかも知れない。
そもそもこの孤独も、己で選んで決めた道。
自分はきっと、十分に恵まれていた。
――翌朝、彼女が王国へ帰ってまた一人になる。
寂しさがまた訪れて、けれど心の内は落ち着いていた。
彼女が用意してくれたのは、聖霊の窪地に繋がる一本の道。
魔獣を遠ざけるという薄らと青い刻印で彩られ、その存在がその後どれほどリラの心を助けたことだろう。
考えないようにと思っていても、感情は理屈でどうにか出来るものではなかった。
どうしても寂しくて我慢できなくなった時は、聖霊に会いに行けば良い。
そんな逃げ道があることは、袋小路で膨れあがった感情にゆとりを生んだ。
結局、それを使って聖霊に会いに行ったのは生涯で数えるほどであったが、それはきっと、その存在がリラの心に余裕を作ってくれたから。
寂しさを感じない時はなかったものの、けれど不思議とそれがあるだけで、心の中は以前よりもずっと平静を保つことが出来た。
人は欲を捨てることなどは出来ないし、耐えられることにも限界がある。
結局、数十年の生活で、学んだことは己の弱さ。
人は誰かを欲するのだという、ごく当たり前な事実であった。
山の頂上――外は吹雪であったが、網の上で焼かれる肉の匂いが立ちこめるこの空間は温かい。
少し肌寒くはあるものの、焚き火の側にいればそれほどでもなく、毛皮を纏えばぬくぬくと。
その上エルヴェナの外套で身を包まれ、彼女の膝の上に抱かれている現状、それほど寒さは感じなかった。
「美味しいですか、リラ様?」
「は、はい……とても……」
エルヴェナ手ずから串を口に運ばれ、肉を頬張り、嚥下する。
はい、あーん、と次の串――美味である。またもや串に齧り付いて頬を綻ばせた。
初日からかれこれ二週間、エルヴェナはリラの周りで何かと世話を。
しばらくは辛うじて耐え抜いていたが、段々と我慢が出来なくなるのが人の性。
何かある度、疲れているせいだ、と繰り返されると、本当に自分が疲れているのではないかと思え、寒い中この格好で過ごす事が苦行、寝る時くらいは良いのではないか、ちょっと一息を入れても良いのではないかと考えている内にずるずると。
結局毎晩エルヴェナに抱かれてぬくぬくと就寝、朝も彼女に起こして貰い、修行中も差し入れなのだと世話を焼かれ、この旅行の間、ちょっとしたお試しでエルヴェナの奉仕を味わってみるのはどうかという提案に頷いてしまい、この有様。
膝の上に乗っての、はい、あーんは実に羞恥をくすぐるものだが、それさえ気にしなければ極楽である。
体はぬくぬく、抱かれる感触は心地よく、好きなだけ誰かに甘えても良いという状況は格別で、なるほど、二人の姫君が溺れてしまうのも無理はない。
「ワインはいかがでしょう?」
「はい……」
顔の前の酒杯に口づけると、ジュースで割った甘いワイン。
酒精が入るほどに羞恥は麻痺し、理性は萎えて、頭の中には欲望と快楽。
お酒に酔っているからという言い訳は何とも都合の良いものである。
これでいいんじゃないかな、と心の中のリラが囁く。
自分の弱さなど今更。リラはどうしようもない寂しがり屋で甘えたがり。
リラはリラ、かつてのあの数十年で修行など無意味であると理解したはず。
ここのところ我慢していた分、折角エルヴェナがそう言ってくれているのだから、一度溺れてみるのも悪くないと。
そんな声に、それでは駄目なの、ともう一人のリラが声を張り上げる。
確かに自分は弱い。でも、だからこそ普段から節制を尊ぶことに意味がある。
弱いからと溺れるだけでは底の底まで落ちるだけ、這い上がることも出来なくなって、どうしようもない人間になってしまう。
ここで気を張らないでいつ気を張るというのか、とそんな言葉を否定する。
「はい、エルヴェナ。リラとエルヴェナ用です」
「ふふ、ありがとうございます、クリシェ様。リラ様、新しいのが来ましたよ」
「う……」
「えへへ、まだまだありますからね」
リラの前にある小さな机に新たに盛られた串焼き達。
皿を入れ替えると、クリシェはベリーとクレシェンタの所に戻っていき、肉を焼くのに夢中でわいわいと楽しげであった。
いつかと比べて悩み事など一切ない、何とも幸せそうな姿である。
辛いことも悲しいこともない日常――彼女が口にした幸せな日々がここにある。
ここは彼女の楽園、理想郷。
ただただ幸福を追求する場所で、こうして意地を張ることに果たして意味はあるのだろうか。
これまで数え切れないほど繰り返してきた問いを、与えられた新たな串を囓りつつ、咀嚼しながら考える。
少なくとも、何も考えず身を委ねれば、リラの幸福はすぐ側にあった。
「アーネ、あなたの番よ」
「あ、はい……」
アーネは何やら、セレネと盤上遊戯に興じている様子。
聖霊が楽しむ複雑なものではなく、盤と駒のオーソドックスなもの。
盤上はセレネが圧倒していたが、アーネはどうにも上の空。
ちらちらとこちらを視線を送りつつ、光の加減か頬は赤く見え――視線が合うと咄嗟に視線を逸らされる。
対面のセレネを見れば、彼女も何とも言えない目つきでエルヴェナを見ていた。
気付いた様子のエルヴェナが尋ねる。
「どうかされましたか、セレネ様」
「……いや、いいんだけれど……あんまりリラをいじめちゃ駄目よ?」
「いじめる……?」
尋ねたエルヴェナは不思議そうに首を傾け微笑み、セレネは呆れたように嘆息し、首を振った。
何やら不穏なやりとりである。酒精でぼやけた頭でエルヴェナを見上げると、彼女は微笑みながら新たな串を口元に。
条件反射で齧り付くと、口に広がるは溢れる旨味と、蕩けるような脂の甘み。
疑問はすぐにどうでも良くなり、力が抜けた。
そもそも、どうして我慢しなければならないのだろう、と考える。
理由もなければ意味もない。単なる意地としか言えないもの。
快楽に溺れると言えば聞こえは悪いが、幸福を求めるというのは別に悪いことではない。
毎日楽しそうなクリシェ達の姿は微笑ましいし、ここに来てからは聖霊でさえも毎日娯楽に耽っているのだ。
その巫女たるリラが少しくらい溺れたって悪くはあるまい。
禁欲節制などと、意地を張っている自分がお馬鹿なのではあるまいか。
時には息抜きも必要である。
もぐもぐと肉を味わい飲み込むと、酒杯に口付け中身を飲み干す。とても甘い。
これまで我慢していたあらゆることから解放される瞬間というものは格別であった。
「ふふ、リラ様。何でも命じてくださいね、今のわたしはリラ様専属の使用人ですから」
エルヴェナは囁くように。
空になった酒杯にワインとジュースが混ぜ合わされるのを眺めながら、リラは頷く。
「気に入って頂けたなら、このまま帰ってからもお好きなだけ……朝から晩までお側でご奉仕させて頂きますよ。いかがでしょう?」
「好きなだけ……」
「はい、お好きなだけ。リラ様がお望みなら、十年でも二十年でも百年でも……喜んでわたしはお付き合いいたしますから」
何とも心をくすぐられる提案であった。
リラの中にいる誰かが何かを訴えたが、流されるように頷きかけ――
「あれ? 誰か来ましたね」
クリシェのそんな言葉にふと、リラは思考を取り戻した。
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