巫女と欲望の檻 一

夜の洞窟では、焚き火が一つと天幕が一つ。


赤毛の少女はエプロンドレスの上から毛布を羽織り、更に二人の少女を包んでいた。

外套の内側で丸まっているのは銀の髪と、赤に煌めく金の髪。


「おねえさま、わたくしはもうだめですわ……」

「駄目ですよクレシェンタ。……雪山で眠ってしまうと死んでしまうのです」

「うぅ……」


銀の少女はむにむにと眠ろうとする妹の頬をつまみながら、赤毛の少女の腕に抱きつく。

彼女もまた眠たげに目を狭めながら、しかし何やら幸せそうに頬を緩め。

二人に抱きつかれる赤毛の少女――使用人ベリーは膝の上にクレシェンタを乗せると、くすくすと笑い頬をその頭に擦りつけた。

クレシェンタもまどろみの狭間でぬくぬくとする快楽に溺れ、瞼を開閉させている。

対面には巨大な翠虎が欠伸をし、それにもたれ掛かった金の髪の少女――セレネが「あなた達も飽きないわね」と欠伸を一つ。


世界一高い山を使いソリや板を使って雪山下りを丸二週間ほど楽しみつつ、天幕や洞窟で生活するという一見過酷な旅行であった。

とはいえ、遊んでいる間はクリシェが風を山肌から浮かしているため、見た目は吹雪でも気候は穏やか。

この山の北側は雪崩が多いが、その度コースが新鮮なものに変わるため飽きがない。

欲を言えば海に行きたかったところではあるが、雪山は雪山で悪くなかった。

雪崩と共に山を下る快感は何とも言えないものがあり、雪山下りはセレネも中々気に入っている。


夜はこうして適当な場所を選んで食事し就寝。

クリシェとクレシェンタはこちらの方がお気に入りらしく、『遭難ごっこ』を実に楽しんでいた。

寒いのが嫌いな二人であるが、寒いという口実でべったり張り付きぬくぬくするのはお気に入りである。

張り付くとそのまま一切動こうとしない二人の甘え具合は際限ないもの。

セレネは大体三日目になるとベリーに押しつけるのだが、ベリーは引っ付き虫二人の相手を何ら苦に思っていない様子で、やはり大分頭がおかしい。


「……リラ、見てる方が寒いんだけれど、本当に大丈夫なの?」

「す、少し寒くはありますが……ふ、ふふ、やっぱり時々はこういう場所も良いですね。雪山というのも楽しいです……」


身が引き締まる思いです、などとぷるぷる震えながらリラは答えた。

流石にブーツは履いたものの、いつも通りの格好に毛皮を巻き付けただけ。

リラは雪だるまの量産に勤しみ、エルヴェナがその様子を面白そうに眺めつつ雪を外から運んでくる。


多少気温を調節しているとは言えそれなりに寒いのだが、彼女はいつも通りのヘソ出しルック。

病気にはならない体と知ってはいる(時々熱を出したふりをするお馬鹿はいるが)が、やはり見ているだけで寒い。

だらしのない己を戒めるため雪だるまを千体作るつもりであるらしいのだが、彼女の思考は時々よく分からない。


真剣な顔で外の景色を眺めながら紙束に何かを書き留めているアーネの方が見た目としてはまともに見えた。

書いているのは何やら不健全な物語であったが、少なくとも修行と称して雪だるまを量産するよりはまともだろう。

彼女もやはり、少し頭が変である。


変な人間ばかり――きっと、何年経っても理解出来ないに違いない。

再び欠伸をして外を眺める。

洞窟の外ではごうごうと音を立てて、舞う白雪が世界を満たしていた。












『第五十七回クリシュタンド雪山遭難ツアー』














幻想の楽園クリスネイト――お屋敷にて。


そこはこちらに来てから屋敷に設けられた会議室であった。

壁際には棚が並び、馬の彫刻や壺、剣や甲冑などが飾られ――中央には大きなテーブル。

世界樹の枝を切り落として作られた一枚物の大きなテーブルである。


長方形の短辺、上座には一人。

屋敷の主セレネ=クリシュタンド。

歴史に名を残すクリシュタンドの姫君は黄金の髪を輝かせ、腕を組む姿は威風堂々。

少女の姿をしながらも、常人では放てぬ覇気を有していた。


彼女から右手にはかの大陸統一王、クレシェンタ=アルベランが同じく腕を組み、そして史上に比肩することなき英雄アルベリネア、クリシェ=クリシュタンドもまたその隣に並び、腹部に手を当てながら真剣な顔で成り行きを見守っていた。


その隣には何とも言えない顔をした聖霊巫女、リラ=シャラナが腰掛け、そしてそんな彼女たちの対面に筆頭使用人、ベリー=アルガンを含めた三人の使用人達が席に着く。


セレネ=クリシュタンド、そしてベリー=アルガンの前には伏せられた札が十枚並べられ、セレネが一枚札を押し出せば、応じるようにベリーが一枚。

何も言わず互いがカードをめくり――眉間に皺を寄せるのはセレネであった。


セレネが出した札は騎兵。

そして、ベリーの出した札は長槍である。

必然、敗北するのはセレネの騎兵。

セレネの札はそのまま墓場に置かれ、ベリーは自分の札を表のまま手前に引き戻す。

ベリー=アルガンの幼げな美貌、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。


「まだ始まったばかりよ、ベリー」

「すみません。……山に何を持って行こうかと考えていたら、つい」

「……何を言ってるのかしら。今回は海よ」


行われているのは決戦札なる遊びであった。

三種の歩兵と騎兵、弓兵、兵器、そして将軍からなる絵札を用いた少し高度な石拳というべきもので、純粋な札の相性によって勝敗が決定。

引き分け、あるいは負けた札は墓場へ行き、勝った札はそのまま手元に残る。

負ければ負けるほどに不利になるゲーム――この一敗の影響は大きいものであったが、しかし、最初の一勝負に負けただけ。

十分この状況は巻き返すことが出来る。


まだ慌てるような状況ではない、とセレネは紅茶を口にし、ベリーを睨む。


「早く出しなさい」

「ええ、では――二枚で」

「っ!?」


ベリーが前に押し出すのは伏せられた二枚。

実に強気。ベリーは勝負を決めるつもりであった。


二枚出し――これはある種の博打である。

同じ種類の札、あるいは将軍を組み合わせることでのみ行え、これに対して一枚出しで応じて勝つならばその二枚は墓場行き。

仮に引き分けであってもベリーはその二枚を墓地へ送ることになり、こちらは一枚のアドバンテージを得ることになる。

しかしセレネが負ければ出した札を失った上で、相手が指定する二枚を追加で墓地に送られてしまうのだ。


八枚中の二枚となれば痛手だが、それ以上の問題は、偶然であっても将軍が墓場に行くことはゲームの敗北――つまり1/4の確率でこちらの負けることを意味する。

こちらも二枚出しで応じればそのリスクは避けられるものの――とはいえ、どうするべきか。


相手は初手槍。

三枚もデッキに槍を加えるというのは考えにくいが、相手はベリー。

こちらが強気に再び騎兵を出すことを見越している可能性は十分にあった。

二戦目で二枚出しという博打じみた動きは、ベリーの性格を考えるなら周到な罠と見た方が良い。


以前のセレネであれば、長槍三枚はないと見て騎兵を出していた。

壁際にある置物を見る。

何故か妙に目につくのはセレネの作った馬の置物――無意識への刷り込みであった。

ベリー=アルガンは目的のためなら手段を選ばぬ女。調度品を用いてセレネの思考を誘導するなど序の口。悪辣で邪智に富むどうしようもない女である。

初手に騎兵を選んだのは直感であったが、しかし、おそらくそれさえも誘導されていたに違いない。

彼女の誘導に引っかかり、無意識にセレネは四枚も騎兵をデッキに組み込んでしまっていた。


間違いなく、壁際に並んだ馬の置物はセレネに馬を意識させるためのもの。

いや、そもそも口論の末、この決戦札をやろうとセレネが言い出したのも、この部屋に置かれた剣や甲冑を見てのことである。


いつもとは違う調度品――最初からセレネは、この使用人の術中にあった。

偶然を装いながらセレネに決戦札を選択させ、そして初手騎兵を出させるために、ベリーは自分に有利な戦場を作り上げていたのだ。


そして初手で敗北した動揺に畳み掛けるような二枚出し。

危うく、セレネはベリーのまやかしに惑わされるところであった。


ベリー=アルガンへの数えきれぬ敗北。

原因は純粋な思考能力の差とも言えたが、決してそれだけではない。

勝利に対する貪欲さで、セレネは敗北していたのだ。

類い希なる才覚を手にしながら努力を怠らず、その上卑劣と呼ばれる手段でさえ、勝利という目的のため平然と正当化する図太さ。


ベリーは強い。何度その前に膝を突かされたことか、数えきれるものではなかった。

だが、それを超える日は今日の他あるまい。


「周到に戦場を整え、わたしの無意識まで誘導する。あなたの勝利への貪欲さは本当に賞賛するわ。……ここで騎兵を出すのが以前までのわたしよね」


騎兵は攻めにおいて、重装、兵器、弓兵に有利な強い札であったが、受けにおいては有利を失い、長槍に不利なだけの凡庸な札へと変わる。

とはいえ引き分けに持ち込めば一枚で二枚と交換出来る状況――以前のセレネなら相手が長槍を三枚組み込むことはないと見て堅実に、相手に奪われたアドバンテージをイーブンに戻すべく、先ほど敗北したばかりの騎兵を使っただろう。

一枚と二枚の交換なら悪くない、などと――彼女の狡猾な餌に食いついて。


「でも、今日は違うわ」


す、と札を一枚押し出し、めくって告げる。


「あなたが出したのは長槍、でしょう?」


赤毛の使用人はその札をじっと見つめ、それから嘆息した。


「はぁ……流石です、お嬢様」


出した札は弓。長槍、軽装歩兵に強く、騎兵に弱い。

攻めでは軽装歩兵に弱くなるが、受けにおいては二有利一不利の優秀な札である。


「……以前と比べて成長なさいましたね」


しかし、それを見たベリーは微笑み、


「成長していて良かったです」

「……は?」


めくられ現れた騎兵と将軍を見て、セレネは目を見開く。

将軍は単独で戦えない代わりに、どのカードとも組み合わせることが出来る札。

引き分けを勝利に変え、そして有利札での勝利の場合、更に一枚を墓地に送る事が出来る。


「ではその弓と……右手から三枚、墓地に送ってもらえますか?」


自ら将軍の位置という情報をセレネに与える代わりに、ベリーが手にするのは絶大なアドバンテージ。

仮に騎兵であっても裏を掻いた弓であっても、どちらを選択しようと勝つための博打をベリーは打っていたのだ。


セレネの将軍はかろうじて死なず、しかし残るは十枚と五枚。

――僅か二戦でもはや、趨勢は決していた。


「……うわぁ」


いつものように硬直したセレネを眺めつつ、リラは呆れたようにベリーを見る。

今回は雪山で宴ですね、などと、既に行き先は決まっていたものかのようにリラに伝えていたのだが、実際は彼女の中で決まっていただけであったらしい。

セレネは海を希望していたらしく、この『クリシュタンド会議』では例の如く、山行きを前提に話を進めようとするベリーとセレネの口論からスタートとなった。

雪山に行くと聞いていたリラにあったのは困惑である。


勝敗はもはや決まったようなもの。

結果としてベリーの宣言通りに雪山へ行くことになるのだと思われるが、彼女の自信は一体どこから来るのだろうかと不思議であった。

最終的に運で勝敗が決まるように見えるゲームでさえ謎の圧勝をすることが多い。

無論いつでも必ず勝利するという訳ではないのだが、この千数百年、重要そうな(個人的にはどちらでも良さそうに思えるものの)戦いで彼女が敗れたところを見たところがなかった。

雪山に行くと宣言した時点で、既に勝利は彼女の中で既定事項。

悔しげなセレネとニコニコと微笑を浮かべる彼女――彼女の頭の中では多分、この状況自体が計算されていたのだろう。


公平で平等な勝負に見え、かと思えば勝利を前提に仕組まれた戦い。

自分の主人を平然と罠に誘う使用人。

このお屋敷における力関係は複雑怪奇、千年経っても謎である。


理解できる日はきっと、この先も来ないのだろう。









聖霊とは寂しい存在なのではないか、とふと思った。

時折訪れるクリシェと話す聖霊の姿はとても楽しげで、ほんの少し空気が違う。

彼女が訪れてからの聖霊は少し変わったように思え、リラに対しても、何かを尋ねては魔力を揺らして笑うことが多くなった。

きっと、そんな姿を見たからのことだろう。


口を開かず、ただ眠る聖霊の姿をクレィシャラナの人間達は究極の存在であると語る。

時折その赤紫の一瞥を向けることはあれど、その言葉を聞いたものはほとんどいない。

他人を求めず、ただ個としてそこにあり続ける聖霊の姿を見て、クレィシャラナの人間達は皆が目指すべき『強き在り方』であるのだと敬意を向けた。


人は何も持たない不完全な赤子として生まれ落ちるもの。

それ故、人は多くの感情と欲望に振り回される。

誰もが元は母親から、社会に生まれ落ちた赤子であり、仮にどれほど過酷な生であったとしても何の庇護もなく大人になるものはいないのだ。

他者との繋がりを求めることは人にとっての本能と言うべきもので、感情と欲望とはその内側で育まれるもの。

どれほどの修練を重ねても全ての感情と欲望を捨て去ることは不可能で、いくら孤高を気取ったところで完全にそれを断ち切ることは出来はしない。


個として己を磨き、己を個として鍛え上げるクレィシャラナの人間達が、かつて聖霊に向けた感情はきっと、決して自分たちが至れぬ境地を知っての憧れであったのだろう。

欲を捨て、孤独に耐え、心身をいじめ抜いても、決して届かない場所があると知ったが故に、聖霊に憧れの目を向けたのだ。

それでもいつかは届くのかも知れないと、聖霊を手本として、代を重ねて。

そんなクレィシャラナの教えをリラも当然のものとして学び、特に疑問に思うこともなく育った。


生まれながらに聖霊は完全な存在。

不完全な人間とは違い、あらゆる感情や欲望とは無縁で、無駄がなく美しい。

人間は皆その在り方を見習うべきで、それを目指し、近づく努力をすべきである。

それが叶えば世の中からあらゆる争いの種は消えるのだから、と。


確かに立派な教えであるとリラは考えていたものだが、けれど意外なほどに柔らかい聖霊の言葉を聞いて、魔力を揺らして笑う姿を見て、ぼんやりと疑問を覚えた。

聖霊は何故、眠り続けていたのだろう、と。

根本的な考え違いをしているのではないかと思えたのだ。

聖霊が完全だと語るそれも、所詮は人の論理でしかあるまい。


アルベランという豊かな国を見て、人の輪の中で楽しそうに無邪気に笑う『聖霊の友』の姿を見ると、重ねてリラは困惑した。

クレィシャラナにおける『立派な人』とはかけ離れていたものの、少なくともそれはとても幸せそうな姿に見え、いつも自然体な彼女の姿は誰よりも聖霊によく似ていた。


聖霊を目指すべき姿であると語るのは悪いことではあるまい。

ただ、聖霊が完全無欠の存在であると決めつけることとイコールではない。


誰かに甘えることは心地よいし、言葉を交わすことは楽しい。

ただただ当然のことで、それ自体は別に悪いことなどではないだろう。

聖霊が楽しげに言葉を交わすのもまた不思議ではなく、そもそも聖霊が完璧な存在であると語るのは、単なる人間の決めつけ。

憧れがいつの間にか、真実を遠ざけていたのではないかと考えた。


それまで見ていたものが、人間の頭の中で考えた『聖霊はこうあって欲しいという偶像』であったように思え、言葉を重ねるごとに色んな姿が見えてきて。


『リーガレイブさんは寂しいってことがわからないだけです。クリシェとこうしてお話しするのだって、きっと寂しいからなのに』


ああ、と思った。

そもそも聖霊が生まれながらに完全な存在であるならば、他者を必要としないのなら、言葉を語ることなどありはしまい。


『……願えるならばわたしも、連れて行っては頂けないでしょうか?』


自分が聖霊の永き孤独を和らげる一助になれればと、彼女に願ったのはそう考えて。

父や兄には反対されながら、一応自分なりに悩みに悩んだ末のことであったのだが――こちらに来てからというもの他の聖霊達が度々訪れ、周囲は随分と賑やかに。

悩み抜いた末の覚悟に対して、遊戯に雑談、聖霊は実に楽しげである。


――自分は酷く間抜けでおこがましい心配をしていたのではないか。

過去の苦悩を思い出す度に何とも言えない気分であったが、あまり考えないようにしていた。

当時の悲壮な決意を思い出すと何やら恥ずかしいが、この先も恥ずかしい思い出が無限に積み重なることを考えれば、見て見ぬふりが今は正しい。

永遠とは厳しく見えて優しいもの。

結論を急ぐ必要なんてどこにもないし、望めば永遠に先送りが出来るのである。

そして少なくとも、聖霊は結論を急がない。

それはここに来て、聖霊から学んだことの一つである。


永遠とはいかなるものかと当初は少し身構えていたものの、劇的な何かというものはなかった。

いや、劇的な何かがないからこそ永遠と呼ぶべきなのか。

朝目覚め、一日を過ごしては夜に眠るを繰り返し――何が変わった、ということもない。

途方もない一日が繰り返されるのだろうとは漠然と理解していて、それはある意味恐ろしいことであるようにも思えたのだが、だからと言って何かが訪れる訳ではない。


永遠であろうとなかろうと、過ごすのは結局、今日という一日、今という瞬間。

そこに過去が連なっていくだけで、百年生きようと千年生きようと、明日の食事は何か、程度の未来さえも知ることは出来ない。

悟りが開ける訳でもなく、結局の所、リラ=シャラナはリラ=シャラナである。


千年も生きた存在ともなれば、普通は天啓が如き知見と大樹の如く揺らがぬ精神を持つ賢者という姿を想像するものの、大して自分が変わったという実感もない。

もう二度と、などと考えながら定期的に堕落し、過去の記憶にもだえる意志の弱い女と未だにリラは付き合っていた。

恐らく百年先も千年先も変わるまい。


今日の労苦が明日の実に、とは父や兄が好んだ言葉であったが、アルベランには『同じ根からは同じ花』なる言葉があるらしい。

性根はいつまでも変わらない、という意味合いであるそうで、どちらかと言えばこの言葉の方が自分にはしっくり来るものがあった。


日々を過ごすほどに自分の進歩のなさが――いや、そう思う心がいけないのだと首を振り、雪を丸める。

更に丸めた雪を二つ重ねて、震えながら雪だるまを新たに一つ。


顔を上げると、どこまでも見事な青と白。

世界で最も高き場所、グラバヤールベの景色であった。

高く険しい山脈がこの山を囲むようにして眼下に連なり、遠くには海が見えるのだろう。空の青と海の青が交わり溶けるように、その境目がぼんやりと輝いて見えた。

正面を見れば静寂そのものと言った景色であったが、下では盛大な雪崩が繰り返され、途方もない轟音と地響き。

板の上に乗って雪崩と共に雪面を下る、何とも豪快な雪山下りが行われていた。


楽しげな声が合間に聞こえ、滑っていたアーネが雪崩に飲まれるのを眺めつつ、目を逸らして雪だるま作りに集中する。

今回は堕落を繰り返す己を戒めるべく、心身の修練を行うために来たのだ。

気温が多少調節されているとはいえ、この冷気の中で雪だるまを作り続けるのは中々の苦行であったが、だからこそ己を鍛え直すには良い。

数日前から旅行の準備にと屋敷で過ごし、流されるまま美食に舌鼓を打ち、お風呂で体を洗われつつ、ぬくぬくとふかふかベッドで熟睡である。


今朝などはまどろみの中毛布から抜け出せず、エルヴェナに着替えさせてもらう始末。

堕落もここに極まれりであった。

父や兄はリラの現状を見れば大いに嘆くに違いない。


『死を恐れた訳でもなく、永遠の生への誘惑に囚われたのでもありません。……わたしはただ、クレィシャラナ最後の巫女として聖霊の側にお仕えしたいのです』

『だが――』

『……これよりは森で一人、誰とも会わず、誰の助けも借りずに過ごします。わたしが天寿を迎えるまで。それをわたしの覚悟として受け取って頂けるでしょうか?』


ここに来る前は反対する父と兄に覚悟を示すために、森で一人、数十年を過ごした。


豊かなアルベランを見れば、いずれその交流によってクレィシャラナが変わっていくことは確かであるように思えたし、それが自然な形であるように思えたのだ。

厳しく心身を鍛え上げるクレィシャラナの在り方は美しいものであったが、それが誰にとっても幸せな生き方かと思えばそうではない。

体の弱いものは蔑視を受けたし、『クレィシャラナの美しさ』に当てはまらない者は平地へ逃げて、あるいは里の外れでひっそりと暮らした。


聖霊巫女も栄誉とされながら、そうなることを望む女は少なくとも、リラの代にはいなかった。

兄でさえ本当にそれで良いのかと何度も心配してくれていたことを覚えているし、先代は立派な方であったが、彼女も本心からそれを望んだ訳でもなかったと聞く。


その身を飾らぬ聖霊の如く。

クレィシャラナに生まれたものは『正しい在り方』を教えられて育つ。

リラはそうした在り方を美しいと思っていて、けれどクレィシャラナにおいても自分が変わった人間であったのだろうと理解していた。

聖霊巫女になりたがる変わり者だと、そう思われていることは知っていたし、皆クレィシャラナの教えを正しいもの、立派なものだと口にしていたものの、正しいことや立派なことが幸せなこととは限らない。


正しく立派であることは難しいことで、辛いことの方が多いのだ。

辛いからこそ、不完全であるからこその教えであるのだから。


聖霊巫女を己で終わりにしたいと思ったのは、これからの時代にそぐわないと思ったから。

自分のように変わった人間がいつもいるとは限らない。

この先豊かになればきっと、もっと少なくなるだろう。

巫女としての生き方を望まずに強いられ、選ばざるを得なくなるのは悲しいことに違いなく、それがいかに正しく立派であっても、その人にとって幸福な生き方ではあるまい――などと、崇高な理念で清貧禁欲を己に課したのも今は昔。

堕落の一途を辿る己の姿を見ると、過去は羞恥に早変わり。

ぺたぺたと雪を固めながら、大昔のことを思い出し――


「ひゃっ」


頬に押し当てられるのは温かい何か。

尻餅をついてひっくり返ると、楽しげに肩を揺らすのはエルヴェナであった。

肩で切りそろえた髪を揺らしながら悪戯な笑みを浮かべ、その両手には湯気を漂わせるコップが二つ。


「ふふ、お寒いでしょうし紅茶をと」

「あ、ありがとうございます……」


彼女は紅茶を手渡すと、そのまま厚手の外套の内側にリラを包んだ。

その上で身を寄せて、隣に座り込む。距離が近い。

修行のためと震えていた体もあっという間にぬくぬくである。


「随分と沢山作られましたね」

「……まだまだです。近頃は堕落の一途を辿ってましたから、この程度では……」


リラは言いながら、自分の髪を梳かし始めるエルヴェナを見た。

基本的に距離が近く、過剰に思えるスキンシップがお屋敷スタイルというべきもの――郷に入りては郷に従いと違和感も覚えなくなったのだが、彼女の場合は無邪気というかどこか作為的。

どことなく他の人とは雰囲気が違って、何とも言えないものがある。


視線に気づいた様子のエルヴェナは不思議そうに、美しい顔を傾け微笑む。

この人もまた賢い人で、他人の機微に聡いように見えるのだが、だからこそこうした仕草が何やらわざとらしく思えて警戒してしまうところがあった。


またいつものように修行の邪魔を――いや、それは失礼というものだろう。

これだけ自分に良くしてくれる人に対して疑うとは、人としてあるまじき事である。

確かに少し茶目っ気というか、悪戯心のある方ではあったが、何でもかんでもそのような風に捉えるのは良くないことであった。

むしろ数えるのも馬鹿らしくなるくらい恥ずかしい場面を見せておきながら、以前と変わらぬ付き合いをしてもらっていることを感謝するべきである。

今朝も間抜け面を晒しながらベッドから引きずり出してもらい、挙げ句子供のように着替えさせてもらったのは一体誰だと言うのか。


「け、今朝はその……」

「お気になさらず。昨晩はわたしも、ワインを随分勧めてしまいましたし……あまりお強くはないと知っていたのですが、つい」

「いえ、いえ……弱いだけで、お酒自体は……」


昨晩エルヴェナが部屋に持ってきたワインは実に美味であった。

正直、クレィシャラナにいた頃は酒も美味しいと感じたことはなかったのだが、クリシェとクレシェンタの好みが大きいのだろう。

本格派ワインという売り物はともかく、お屋敷用に作られるワインはさっぱりとフルーティー、子供舌なリラでも楽しめる美酒である。

途中で果実とのカクテルを勧められ、美味しい美味しいと飲んでいる内に記憶は胡乱に――何を話していたかもはっきりとは覚えていない。


「でも、さ、昨晩も、その……酔って失礼なことを口にした気が……」

「まぁ、失礼だなんて。……でも、随分お疲れだったようですね。禁欲節制のあまりか不満が溜まっておられたようですし……」

「あ、あの、わたし……何か変なこと言いましたか……?」


そんな中、うっすらと記憶に残るのはエルヴェナに寄りかかり説教を垂れるリラである。

思い出して、耳が熱くなるのを感じた。


「そうですね……お屋敷の人間はもう少し節制を学ぶべきだと。餌をぶら下げられているようで堪らない、我慢している自分の身にもなって欲しい、だとか……」

「ぅぐ……」

「それはまぁ、ふふ、拗ねた時のクレシェンタ様のようなご様子で……わたしとしてはとても楽しかったのですが」


我ながら何と情けないことを口にしたものであろうか。

拗ねた時(基本的に拗ねているか甘えているか偉そうにしているの三形態である)のクレシェンタを思い出し、二重に羞恥が駆け巡る。

偉大なる女王としての重責から解放された彼女はまさに、その姉と同じく見た目通り。

彼女がかつての如く真剣な話をしている(真剣そうに話をしているではなく)姿など、少なくともこの千年は見た覚えがなかった。

その場その時の快楽に忠実な欲望の権化――お子様なのである。


「す、拗ねたクレシェンタ様に……」


禁欲と節制という言葉からは誰より遠い存在、クレシェンタ。

酒は本性を暴くというが、己の内に彼女と同じ本性が宿ると言われれば否定は出来ず、リラは硬直した。

エルヴェナは楽しげに微笑を浮かべながら告げる。


「リラ様もたまには羽目を外してみてはいかがでしょう? わざわざこんなところで修行だなんて……ソリで遊ぶのも楽しいですよ」

「い、いえ、そういう風に流されていると、わたしの場合、いつの間にかどうしようもない人間になってしまいそうですし……いえ、現在が立派とはとても言えないのですが、既に羽目を外しすぎていると言いますか……」

「リラ様は真面目ですね。もう少しクリシェ様やクレシェンタ様のように、肩の力を抜いてもよろしいと思いますけれど……」


誰も笑いません、とエルヴェナは空を指で示した。


「人間誰しも欲望を持つもの。それをさらけ出したとて、笑う方はここには誰もいませんし……それが正常。仮にそれを退廃と呼んだところで、そもそも永遠というものが退廃の極地、些細なことです」

「た、退廃の極地……」

「ええ」


更に身を寄せ、エルヴェナは吐息が感じられるほど顔を近づけた。

濃い茶の瞳はどこか、吸い込まれそうな色を帯びている。


「なるようになるもの、ひととき溺れてみたところで時間は無限です。一度、とことんまで溺れてみるのも一つの経験として良いものかとわたしは思うのですが……」

「け……経験……」

「心配なさらずとも人は駄目にならないようバランスを取る生き物です。本来ルールなどないはずのお屋敷にも、自然と社会と規律が生まれているように」


サイクルと言いましょうか、とエルヴェナは告げ、今度は雪山下りに興じるクリシェ達を示した。

セレネがボードで雪崩と共に雪面を下り、鮮やかに白い飛沫を散らし、遙か下方ではベリー達が先ほど雪崩に飲まれたアーネの救出作業――丁度、雪の中からアーネの体が浮かび上がっているところ。

何とも平和、楽しげである。


「全てが許される力を手にしながら、やることは雪山遊び、実に健全なものです。堕落も贅沢もただひたすら繰り返せば飽きるもの……だから時に、自然と子供のような遊びにも興じたくなるのでしょう。セレネ様などは分かりやすいですね」

「セレネ様……?」

「はい。知っての通り真面目な方ですが、三十年に一度くらいは疲れて自堕落に過ごされますし……そういう息抜きも大切なもの。そこから立ち直って、お屋敷の規律を改めると仰る所まで含めて、お屋敷の一つのサイクルとなっています」


セレネ様のような方でもそのようなもの、とエルヴェナは言い、リラの頬を撫でた。


「心身を理想のものとして継続できる完璧な人間などおりません。肩の力を抜くべきときに抜くというのも時には必要なことでしょう。……リラ様のような方ならば尚更、ひととき怠惰に溺れて羽を休めても、時期が来れば以前の通りに戻るはずです」

「……、その、全然自信がないのですが……」


その場合、永遠に自堕落に耽ってしまう気がしてならなかった。


「いえいえ。多分、リラ様は不安なだけ……一度、目一杯溺れてみれば案外、一、二年で自堕落にも飽きて他のことに興味が移るでしょう。何事も経験です」

「あ、あの……エルヴェナ様はわたしをどうしたいのでしょう……?」

「どうしたい、と言われますと、困りますね……」


エルヴェナは言葉通り、困った様子で考え込む。

そして、可憐に微笑んだ。


「もう少し気楽にお過ごし頂きたいと、そのくらいでしょうか。……同じお屋敷に住む家族としても、お客様に対する使用人としても」


それから、恥ずかしそうに続ける。


「それに実は、客人もいらっしゃらないこのお屋敷に使用人が三人。ベリー様は見ての通りの方ですし、仕事という仕事も作ろうとしないとありませんから、今のようにリラ様がお屋敷でお過ごし頂けると、その分お世話が出来て楽しいのです」


秘密を打ち明けるように僅かに小声。

エルヴェナは視線を左右に揺らして続ける。


「ですから、リラ様がお屋敷で羽を伸ばされるのもわたしとしては嬉しいことで……すみません。決してリラ様の修行を邪魔したいなどと、そういうつもりはないのですが……」

「そ、そんなことは思っていませんっ。い、いや、ちょっとだけ、その、からかわれているのではないかと……」

「からかう……?」

「いえ……その、何でもありません……」


聞いてみれば単純明快な答え。確かにそれはそうだろう。

畑に果樹園ワイン造りと手広くやっているものの、クリシェとベリーが主体。

二人の仕事量は信じられないものであったし、エルヴェナやアーネも使用人という仕事を千年超えて続けているのだ。

限られた仕事に対して明らかに過剰な労力であり、普段と変わったちょっとした仕事が欲しいとリラを招きたがる理由も理解が出来た。


彼女への邪推を恥じてため息をつく。

何をどう考えたらエルヴェナが『禁欲しようとするリラを堕落に導き、その姿を楽しむような人間』に見えるのか、リラは自分が情けなかった。

己の弱さを棚に上げた挙げ句、『熱心に世話を焼いてくれようとするエルヴェナ』を疑うなど失礼極まりないことである。


「どうしました?」

「いえ……己を見つめ直していたところです。やはりこんなざまでは、父や兄に顔向けが出来ません」


ひとまず紅茶に口付け、一息をつく。

実に甘ったるい――リラの好みを知り尽くした紅茶であった。

誘惑に傾きかけた心を振り払うように首を振り、尊敬すべき父と兄の姿を思い浮かべて口を開く。


「その、ありがたいお話ですが――?」


しかし、その瞬間にエルヴェナが指先を振るっていた。

青いラインが流れるように術式を宙空に刻み込まれると、雪の中から小さな氷のソリが四つ浮かび上がり、巨大な氷の枠が遙か下方に構築された。

エルヴェナはソリの上にリラの作った雪だるまを乗せていき、


「リラ様はどの子が一番だと思いますか?」

「え?」

「あの氷の枠を一番に潜った子が優勝です。よーくお考えになってください」


などと口にする。唐突であった。


「あ、あの……」

「ちょっとした休憩に良いかと思ったのですが……折角の雪山、修行だけでは思い出になりませんし。いかがでしょう?」

「……、わかりました」


渋々頷き、ソリを眺める。

よくよく見ると一つ一つソリの形は微妙に異なっており、とりあえず言われるまま雪面を眺め、幅が広く安定感のありそうな一番右を指で示した。


「なるほど、安定を取りましたね。では、わたしは一番左の子を。……そうですね、手持ちは100枚からとしましょうか」

「100枚……?」


エルヴェナは更に指を振るい、氷で出来たコインをじゃらじゃらと生み出しリラの前に積み重ねる。


「やはり何かを賭けた方が楽しいですからね。ちょっとしたお遊び……優勝すれば賭けたコインは四倍。そうでなくても、わたしが選んだ子に勝てば賭け金はそのまま。ただしわたしが選んだ子に負ければ、支払いは四倍、という感じですね」

「……なるほど」

「このコイン1枚につき一日、わたしに何でも一つ言うことを聞かせることが出来る、ということにしましょうか」

「何でも……」

「はい。例えばそうですね……リラ様が修行に集中出来るような環境を提供したりだとか、ふふ、例えば三回回ってわん、と鳴くだなんて下らないことでも構いませんよ。何枚お賭けになりますか?」


ちょっとしたお遊びです、とエルヴェナは繰り返し、リラは考え込む。

何でも、という言葉に何やら不穏なものを感じつつも、しかし、最初からリラに100枚と随分有利な提案である。

賭けられているのはリラではなく、エルヴェナの『言うこと聞く権』である。


ニコニコと笑顔を浮かべる様子――本当にちょっとした息抜き、お遊びなのだろう。

さっきの話から今。

流石に無碍にするのもどうかと思え、少し付き合うくらいは良いだろう、と口を開いた。


「で、では……その、十枚で」

「十枚ですね。では始めましょうか」


エルヴェナが指を振るうと四つのソリは一斉に滑っていく。

エルヴェナの雪だるまはダントツのトップを独走――リラの雪だるまはビリであったが、強い傾斜とあまりの速度。

エルヴェナのソリは途中で大きく転倒し、上に乗った雪だるまはばらばらに。

そしてその残骸に巻き込まれる形で2位が吹き飛び、3位は雪の襞に突き刺さり、ゴールできたのはリラの雪だるまだけであった。


「んー、途中までは良い調子だったのですが、スピードの出すぎも考えものでしょうか」

「ふふ、豪快に吹き飛んでしまいましたね」


ええ、とエルヴェナは三十枚のコインを生み出し、じゃらじゃらとリラの前に重ねた。


「結構起伏も激しいですし、速そうなものも考えものかも知れません」

「そうですね……リラ様の以外、全部リタイアは中々予想外でした。……さて、第二レースです」


再びソリが浮かび上がり、その上に禁欲と節制の願いを込めたリラの雪だるまが乗せられる。

ではこの子を、と二十枚賭けてその内の一つを選び、エルヴェナも同じく他のソリを選ぶ。


ルール上借金が出来うることにリラが気付いたのは、13ゲーム後のことであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る