少年とおねえさん 下

入り口と裏口を除けば、壁には本棚がずらりと並ぶ。

カウンターにも修繕や手入れ中の本達が山ほど。


子供の頃には十五になれば兵士になろうと考えていたものだが、注意力散漫なキューリスには向いてない、絶対駄目だと散々止められたこともあり、十五になった今も実家の貸本屋を手伝っている。

いずれは自分がここを継ぐことになるのだろうと、半ば諦めの心地であった。


「本を読みたいなら借りたらどうなんだ?」

「店番の手伝いしてあげてるの。おばさんに頼まれてるし」


誰を真似しているのか。

茶色の髪を耳の後ろで二本に結び、顔立ちは綺麗と可愛いの中間。

すらりとした細身を不作法にカウンターの上に乗せたまま、修繕を手伝いもせず、開いた本に目を落としたままシェリシアは答えた。

見た目こそ変わったものの、シェリシアは昔から変わらない。


「いらっしゃいませ。……まぁ、エルカ様。本のご返却でしょうか?」


扉が開き鈴が鳴ると、途端にキューリスには見せない笑顔を浮かべて接客対応。

どういう客にどういう本を貸してるか、どういう本が好みかなど、キューリスよりも把握している。

本を受け取ってキューリスが片付けている間、エルカ様におすすめの貸本なのだと入ったばかりの本を貸し出し手続き。

キューリスよりも貸本屋をやっていた。


客が店を出て行けば、ふふん、と彼女は鼻高々。


「ただ本を読んでるだけじゃなくて、どういう本かを勉強してるの。読んでもない本をお客さんにおすすめできないでしょ?」

「わかった。俺が悪かった。……口喧嘩じゃお前に勝てん」

「口喧嘩でも、でしょ?」

「……剣もすぐに抜き返す」


楽しげにシェリシアは微笑み、キューリスは嘆息する。

肉体拡張を学び、師範達とまともに打ち合えるようにはなったものの、未だにキューリスは負け続き。

しかしシェリシアは既に、師範達から一本を取れるまでになっていた。

師範代となる日も近いと言われており、十代では一番の実力者である。

当然ながら手合わせも負け越し、キューリスは強く出られない。


「シェリシアちゃん、すまなかったね」

「いえ、お気遣いなく」


馬鹿にするような笑みを見て何かを言おうとすると、裏から母が顔を出す。


「もう用事は済んだからキューリスを連れてっていいよ」

「はい、でも……おばさん一人で大丈夫ですか? おじさん寝たきりで大変でしょうし……」

「ただのぎっくり腰、いつものことだよ。気にしなくていい。……キューリス、帰りはちゃんと送ってやんなよ」

「シェリシアに襲いかかれるような奴もそうそういないと思うけどな」

「……キューリス」

「はぁ、分かってるよ母ちゃん……」


くすくすと笑うシェリシアを横目で睨み、店を出る。


目と鼻の先、というほどでもないが、道場まではすぐだった。

上機嫌なシェリシアにからかわれながら道場に行くと、


「クリシェ様」


エプロンドレス、銀の髪の少女である。


「こんにちは。……えへへ、相変わらず仲良しですね。良いことです」

「えーと、その、はい、まぁ……」


普段は強気も強気、遠慮なくキューリスにはずけずけと言う癖に、こういう時だけ妙に恥ずかしがるのは何やらズルい。

顔を赤らめ目を逸らしたシェリシアを見て嘆息し、不思議そうに首を傾げるクリシェに目をやる。

今日は手提げの籠を持っていた。


「クッキーですか?」

「はい。この前はすぐなくなっちゃったので、今日は一杯作ってきたのです。前より随分子供も増えましたし……」


微笑む彼女の顔は、やはり近所のお姉さん。

アルベリネアをいまいち知らない子供などはクリシェ様ですらなく、クッキーのお姉さん、などと記憶している。

誰もまさか、このお姉さんが空前絶後の大剣士などとは思うまい。


キューリスも、実際に目にするまでは彼女のことをそう思っていたのだから。









百人を超える人の輪の中、長身の偉丈夫と、銀の髪の小さな少女。


――二人の距離は六間であった。


魔力保有者でも達人と呼ばれるものは一息の間に五間を潰し、相手に致命傷を与える。

魔力を扱えぬ者達からすればあまりに遠い間合いであるが、仮にそれが子供同士の手合わせであっても、必ず始めに五間以上の間合いを取ったところから勝負を開始するのが黒旗剣術指南所の決め事であった。


自分が踏み込めるか否かではなく、相手がそれだけ踏み込める可能性を感覚で理解しておかなければならない、というのは師範達の言葉。

最初こそやりにくい、一々面倒くさいと思っていたものだが、実際にカルアのような人間が世の中にいると理解してからは大人しく従った。

五間が相手の刃圏にある可能性を認識出来なければ、問答無用で瞬殺である。


相手が長物であれば更に、体格も同様。

ウェスリアルのような長身であれば、そして先ほど見た限りでは、五間は優にウェスリアルの刃圏。

メルケスが後ろにじりじりと距離を開いていたのは、気圧されたというだけではない。

恐らく、無意識に選んだ五間という距離が、相手の刃圏の内側であると理解したためだ。

だが、何も考えず距離を取ったように見えたクリシェは、メルケスが取った間合いよりも更に一間ばかり遠い。


あまりに強気な発言。自然体な姿。何も考えていないかのような表情。

しかし彼女はどこまでも冷静に相手の間合い――その限界を捉えているように思え、キューリスは息を飲んだ。


「……いくら手合わせとはいえ、真剣ではまかり間違って大怪我となることもありましょう」

「大丈夫ですよ。クリシェは怪我をしませんし、仮にぐさーっと剣が刺さっても……えーと、名前に誓って文句は言わないのです」


何の気負いもない笑顔。

ウェスリアルはクリシェを見て、そう仰るならば、と腰から長剣を引き抜いた。

刀身は三尺半。全体として細身に見えたが、重ねは厚く、不思議な重厚感と鋭さを兼ね備えている。

それを右半身――切っ先を前にして構えればもはや、その間合いは槍にさえ匹敵するように思えた。


空気が更に、重々しく冷え切ったものに変わる。

この場の状況に気付いたか。

他の所からも人が集まり始めていたが、誰も騒ぐことなく、黙ったまま二人を眺めていた。

少なくとも、雑談を行えるような雰囲気ではない。


「はぁ……うさちゃん、手甲は?」

「んー……ちょっとしたお稽古ですし、今はいいです。……あ、いつでもいいですよ、ザインさん」

「……いつでも、とは?」

「クリシェ、特に構えたりしないので」


火に油を注ぐような言葉である。

キューリスは目眩がした。


ウェスリアルが更にその目を鋭くさせ、場がもはや凍り付く。

その静かな怒りをこの場にある誰もが感じていただろう。

冷え切った血流が足元から背筋、頭の先まで昇ってくるような悪寒があり、ふと、左袖をつままれる。

見ることもなくその小さな手を握りしめて、もう一方の手でズボンをぎゅっと握りしめた。

そうしていないと、立っていられなくなるような重圧がこの場にはある。


ただ剣を構える、それだけのことでまるで首筋に刃が突きつけられたかのよう。

そして周囲の者達も皆、同じものを感じているように見えた。

カルアでさえ、呆れたような顔をしながらもその瞳にどこか真剣な色を宿している。


「恐れながら……それはあまりにも、侮りと油断が過ぎるのではありませんか?」

「侮る……?」


繰り返して、桜色の唇に指先を。小首を傾げた。

銀の髪が揺れて、紫の瞳が不思議そうにウェスリアルを見て、違いますよ、と答える。


「クリシェは何事にも適当に、過剰にしないだけ。……必要なことを必要な時に、十分に足る最低限を施す。これがクリシェが教わった偉大な使用人の流儀、家事から料理、戦いに到るまで何事にも通ずる理念というものなのです」


指を立て、実に真面目な顔で彼女は何度も頷く。


「ちょっとした汚れのために物置からモップを持ち出し、全ての廊下を掃除する必要はないのです。常に周囲を意識して、その場その時、雑巾で拭えばそれで終わり……それが必要十分な最低限というもの。……この場合で言うならザインさんはちょっとした汚れ。クリシェは雑巾で拭えばそれで終わりますから、モップいらずです」


侮っても油断してもいないのです、などと、自分がとても良いことを言っていると言わんばかりの表情である。

ただ、どう好意的に解釈しようとしても怒りを煽っているようにしか聞こえず、ひたすら火に油を注ぎ続けるクリシェに、見ているキューリスの胃が痛くなった。

カルアもまた額を押さえ、首を左右に振っている。


「そこまで仰るならば、もはや語る言葉もなし。……では、遠慮なく」

「はい、どう――」


それが見えたものは、剣達者の集まるこの場でもそうは多くなかっただろう。

ウェスリアルは内に秘めた怒りを解き放つように踏み込んでいた。


ザインの剣は構えに非ず。

先ほど彼が語った言葉は所詮、表層概念でしかない。

その真なる本質は肉体の内側における静かな魔力運用とその発露にある。

肉体拡張――身に纏い形作る仮想の筋肉へと、体内で密かに練り上げた多大な魔力を瞬時に流し込むことによって生まれる、爆発的な運動エネルギー。

それを余すことなく推進に用いることで、動を飛ばして静から静へ。

矢の如くと呼ばれる瞬間的な加速、踏み込みを行なう。


ザイン式の深奥を学ぶものは、その爆発的な魔力の圧送に耐える強固なる仮想筋肉の構築に長い年月を費やし、そしてそれを常時維持できるようになってようやく、一人前のザインの剣士と扱われる。

多くが学ぶ型など所詮入り口でしかなく、表の技。

その高度な仮想筋肉構築、魔力運用をこなして初めて表裏が備わり、ザイン式剣術はその真価を発揮するのだ。


逃れられるものはない。

人間の反応速度を上回る踏み込み――放てば必殺、致命となる。

何故ならば、仮に気取られたとて捉えられることなき剣。

距離を取るが精々でしかなく、追いすがる次の一閃を躱すことが出来る人間などあるはずもない。

この刃は一度取った先の機を、相手の死まで手離しはしないのだから。


相手の認識を超える踏み込みと刃の速度を以て、問答無用の勝利を手にする。


――それこそが、極みに到ったザインの剣というもの。


無論、ウェスリアルとて、これだけで完全無欠とは思ってはいない。

『完全無欠の使い手』がいない以上、後手を取らざるを得なくなる状況は存在する。

ザインの血族でないにも関わらずその深奥を極め、エルメル=ザインに後継として選ばれたウォルター=ザーガン。

その死もまた、アルベリネアの奇襲を受けた結果のものであったと聞いた。


戦場という混沌の世界。

状況や疲労、精神状態など、そこではありとあらゆる条件が課せられる。

ザインの剣は必殺であれど、その必殺剣を放つまでの機を作れるか否かはその個人の力量次第。

誰もがザインの剣、その表裏を極めてからも終わりなき研鑽の途上にあるのだ。

ウォルター=ザーガンの死は彼個人が敗れただけのことであり、だからと言ってザインの剣が敗れたことを意味しない。


とはいえ世間の評価はそうではなかった。

ザイン式剣術、その正統後継者はアルベリネアを前に為す術もなく討たれたのだと語られ、所詮本質は道場剣であり、貴族達の決闘遊びの剣術なのだと民衆は語る。

王弟ギルダンスタインにウォルターが荷担したことで、一時は女王の不興を買うことを恐れた貴族達も離れ――評判も落とした道場は一時、風前の灯火であった。


『学びに罪があるはずも無し』とする女王の言葉。

そして戦場を潜り抜けたザイン式剣術の達人、べーギル=サンディカを外部から招き、それを喧伝することでようやく持ち直すことに成功したが――だからこそ、これまでの努力を鼻で笑うようなアルベリネアの言葉には耐えかねるものがあった。


彼女に悪意がないことは理解している。

才覚故の無自覚な驕りは誰にでもあるもの。

――しかし、この場でそれを口にした以上は看過することは出来ない。


立ち姿、歩く姿一つとっても静謐。

アルベリネアがウォルターを討ち取るほどの剣士であることは疑ってはいない。

強者としての風格は十分に備わっていた。

あらゆる才覚に恵まれ、経験を積み、その剣技もまた卓越したものなのだろう。


だが、ザインの剣を前にして、無防備に先手を許した。

それは侮り以外の何ものでもない。

放たれたが最後、反応など出来るはずもない必殺剣なのだから。


手心など加えていない。

刃は首の真横を貫くようにずらしていたが、最大の加速、最高の一撃を放っていた。

万が一にも傷つけることはない。

なぜならば、人間の反応を超越した剣。

気配を読まれた様子はなく、踏み込む瞬間に動きはなかった。

だからこそ、アルベリネアは棒立ちで、首の真横を貫かれて気付くことになる――はずであった。


「っ!?」


ウェスリアルですら正常に認識出来ぬその一瞬――刃が放たれた後にアルベリネアは動き、


「ぐ、っ!?」


感じたのは、剣の引かれる感触。

そして足が掛けられ、気付いた時には正面から地面に倒れ込み。


「えへへ、こんな感じでしょうか」


――うつぶせに倒れ込んだウェスリアルの首に、補強されたブーツの踵が乗っていた。


「クリシェくらいの体重でも勢いよく、ぐいって踏めば首の骨も簡単に折れるので、こういう風に転ばせた相手の首を踏む、というのは中々効果的です。血も飛び散らなくて汚れませんし、剣も汚れませんし」


長年彼女の『殺人術』を間近で見ていたカルアを除けば、誰一人何が起きたかも分からず硬直していた。

彼らの目に映った情報は、消えたウェスリアルが突如、彼女の側で転倒して現れたようにしか見えなかったし、カルアでさえ彼女が何をしたのか、はっきり見えた訳ではない。

ただ、経験から知っていただけだった。


「見ての通り突きというのは速くて威力は高い攻撃なのですが、軌道は分かりやすいですし、踏み込んだ足の位置からどこまで伸びてくるのかが予測しやすいもの」


足を離すとクリシェは、そのまま唐突に、素手で突きの構えを見せた。

ウェスリアルと同じザインの構えから、剣を突き出すように。


「こういう風にどしゅー、と相手の剣が伸びきった所で、相手の剣を捕んで引っ張ってあげれば、おっとっと……」


そして、突いた剣を引っ張られるかのように、そのまま前のめりに一本足でぴょんぴょんと跳ね――そこでようやく、見ていた者達もそれが解説であることに気付いた。


「って感じにバランスを崩せます。そこにちょん、と足を引っかけて転倒させてやれば、大体こんな感じですね」


皆さんも気をつけるように、などと、ウェスリアルを指で示しながら平然と。

目を見張る必殺剣に対し、欠片の驚きさえも見せることなく少女は告げる。


言葉を聞いてなお、その場で理解できたのは一握りであった。

そもそも、ウェスリアルの突きに反応できたものがいないし、転倒させられ首を踏まれたウェスリアルでさえもが混乱の最中にあった。


ザインの剣。人の反応を超越した、神速の必殺剣。

それに対し、アルベリネアは至極当然のように刃をつまんで引っ張ったのだ。

彼女は手甲すら身につけていない、全くの素手である。

つまりは、足のつま先から全身のバネを使って全力、限界まで集約され、解き放たれた最速の切っ先に対し――その『速度に合わせて』手を操ったということ。


少しでも遅れれば、触れた手など吹き飛んでいるだろう。

人の限界を目指すウェスリアルから見てなお、人間業とは思えなかった。

塵一つほどの微かな狂いさえない動作の正確さと、時間さえ超越するが如き反応速度がなければ届きもしない、神の業。

己の剣技への自負があればこそ認識出来る、その途方もない隔たり。


竜に等しきその紫眼――アルベリネアは人の身をした天意の具象。

挑むなかれ、抗うなかれ。決して試すことなかれ。

人は嵐に身を隠すほかなく、雷光に身を伏せるほかなし。


彼女を讃え、畏れ敬うそんな歌を思い出し、ウェスリアルは全身から汗を吹き出させる。

己が挑み、抗おうとした者が何かを、ただの一度で理解して。


「突きはやっぱり一瞬体が伸びきってしまいますから、相手が対処不能な、必ず殺せる、というタイミングで放たなければなりません。戦場だと敵も多いですから、クリシェが使うのも拾った剣で適当にぐさーっと刺す時くらいですね」


ニコニコと語る彼女の言葉を聞いたキューリスもまた、朝にバックから聞いた言葉を思い出していた。

振り下ろした腕を引かれ転倒した子供と、目の前の達人の姿が重なる。

二人の技量という比べものにならない隔たり、違いはあれど、原理は恐らく同じものなのだろう。

相手の運動を利用して、体勢を崩す。

言葉にすれば単純明快。

しかしそれを、まるで同じことであるかのようにクリシェはやって見せたのだ。


達人は目の前で、まるで子供のように転ばされていた。


筆頭師範のカルアであっても、クリシェの前では大人と子供。

何度も聞いたし、その度に疑った言葉。

――その言葉をようやく理解して、背筋がぞっとする。


「ザインさん、どうしました?」

「ぃ……、いえ……」


混乱から立ち直っていない様子のウェスリアルがゆっくりと立ち上がり、


「さ、もう一度です」

「……は」


その言葉に一つ深呼吸、もう一度構える。

内心の動揺をかき消すまでには僅かな時間。

再び凍り付くような圧力が場を満たし、一拍を置いて、次の刹那。


「っ……!?」


キューリスの目にはやはり、ウェスリアルは消えて見えた。

瞬時に間合いを潰して、伸びるは切っ先。

しかし、剣は虚空を貫いていた。


二本の尾のような長い髪を揺らしながら、ウェスリアルの背後に立つはアルベリネア。

ウェスリアルの硬直は一瞬――振り向きざまに放たれた、旋風の如き一閃を彼女は鼻先で躱し、二閃、三閃目にはもはや、剣をすり抜けるようであった。


少女の笑みを浮かべる何かは、まるで幻影。

常人であれば十人が十人、何が起きたかも分からず両断されているであろう剣閃に対し、その動きはゆらゆらと揺れるように、いっそ緩慢にさえ映った。

だというのに髪の一本、ひらひらと踊る外套さえ触れさせることなく、毛の先、衣服の端にまで、まるで神経が通っているかのような滑らかさ。


「突きはそこそこ良いですね。他も一つ一つはそこまで悪くないのですが――」


剣閃が十を超えたところで、ウェスリアルが振るうは凍り付くような横薙ぎ。

胴から上を跳ね飛ばされるはずのアルベリネアは、それをすり抜け地を這うが如く、ウェスリアルの足下から伸びるように曲剣を。


「繋ぎ目がちょっと甘いでしょうか」


くの字に折れ曲がったその刃が、男の首筋に這わされる。

どこまでも滑らかに、柔らかいその肉を愛撫するように。


その顔はやはり変わらず、『近所のお姉さん』のような笑顔。

手に持った歪な曲剣と、達人と呼ぶべき男の首を刃で弄ぶ姿だけが歪だった。


くるくると曲剣を手の内で回しながら離れ、それから向き直り、


「動作に一々溜めがあるのが良くないですね。速い剣なんて振らなくても人を殺すのは簡単ですから、過剰な速度は不要です」


そう口にして、踏み込む。

ただそれだけのこと――しかし、その動作が恐ろしいほど滑らかで、それが踏み込みだと気付いた瞬間には既に、クリシェの体はウェスリアルの前にあった。

咄嗟にウェスリアルは後方に跳躍したが、容易く追いすがったクリシェが胸ぐらを掴んで押し倒し、同時に首筋へと刃を押しつける。


「それに速く動こうだとか、速い剣を振ろうとすると慣性が強く働きますし、それに縛られてそこからの選択肢が限られます。剣なんて刃筋さえ立ってれば勝手に斬れるんですから、速さにこだわる必要なんてありません」


すぐに離れ、再び驚愕を浮かべて立ち上がるウェスリアルに微笑む。


「今みたいに自分で制御できる範囲で踏み込めば、相手がどんな剣を振ってもクリシェは後の先を合わせることが出来ます。だからと言って相手が距離を取ればそれで詰み――後ろに進むより前に進む方が速いように人間の体は出来てますから」


今度は踏み込みながら、右の曲剣を大外から内に払うように。

横薙ぎも不思議と緩やか。

遅い訳ではなかったが、だからと言って速い訳でもない。

ウェスリアルが瞬時にその曲剣を弾こうとするのが見え、


「っ……」


その瞬間、クリシェの剣はそれをすり抜け――いや、彼女の体さえウェスリアルの体をすり抜けるように、一瞬の内に後ろに回る。

膝の裏を蹴り跪かせながら、背後から首に曲剣を、掻き切るように押し当てる。


「速い動きが必要な場面はこういう風に、それで間違いなく相手を殺せるときだけ。戦いで考えるべきは、こちらの選択肢を可能な限り多く残しながら、いかに相手の可能行動を減らし、そのままゼロに導いて殺すか。速い動きは相手の体勢が不十分――物理的に対処できない状態の時にだけ使うというのが基本です」


ほんの少し力を込めれば、それだけでウェスリアルは死ぬのだろう。

強い、という言葉では語れぬほどの絶望的な実力差が、両者の間に存在していた。


また彼女は離れて指を立て、解説を。


「皆さん瞬間的な速度ばかりに気を取られてしまいますが、重要なものは速度ではなく到達時間。速い剣も到達時間の短縮、小さな隙で殺せるという点で悪くはありませんが、結局重要なのは致命的な隙を相手に生じさせること――」


ザイン式の理念も基本的にこのようなものではないでしょうか、とクリシェは尋ねる。


「っ……、仰る、とおりです」

「……軍運用の場合は相手の状況が見えず、死角が多くて難しい部分もありますが、こうやって一対一で対峙する分には死角なんてないですし、全部見えてますからとても簡単。相手の可能行動を全部計算して、段階的に排除し、崩してやればそれで終わりなのです」


当然のように言い放ち、何が楽しいのか、笑顔を絶やすことはなく。


「相手が手も足も出せなくなるよう追い詰めて――」


再びウェスリアルが構えるのを眺め、踏み込む。

ウェスリアルが振るった高速剣を当然のように踵で蹴り、跳ね上げ、


「――無防備にしたらぱぱっと首を裂いて、次に行くのが理想ですね」


すっと首筋に剣を押し当てる。


達人を相手にした、一方的で作業的な殺人術の講義。

首は致命的な部位であり、そこを守るというのは基本中の基本であった。

ウェスリアルが知らぬはずもなかったが、問答無用。

ただただ、彼女は繰り返す。


アルベリネアはその歪な曲剣が痛まぬよう、柔らかい首の肉をそぎ落とす事を病的なまでに好み――付けられた異名が首狩人。

それに関する多くの逸話を、キューリスは思い出していた。

一兵卒から豪傑、達人、勇者英雄に到るまで無関係――アルベリネアは首を狩る。

麦穂を鎌で刈り入れるように、人の首を無造作に。


「余裕があれば殺しながら次に殺す相手をどうやって殺すかを考えておくというのが良いです。クリシェは剣が痛むので好きじゃないですが、とりあえず手足を切り落とすというのも――」


逸話通り――あまりにも自然に、剣豪ウェスリアル=ザインは殺されていた。


その剣は、キューリスがこれまでに見たどんな剣とも違う。

圧倒されるような迫力はなく、身構えさせられるような圧迫感を覚える訳ではない。

例えるならそれは、気付けば足元から首筋にまで纏わり付いている、蛇のような何か。

ふと身を委ねたそよ風に、突如首を裂かれているような――そんな理不尽で突拍子もない想像を、キューリスにさえ抱かせる。


『さっき言った理不尽でも最たるものだろう。……戦場ではあの方の前に立つこと以上の理不尽はない。下生えを蹴分けるように易々と戦列を抜け、果実をもぐように将軍首を落とすのだから』


メルケスの言葉には、一切の嘘偽りも存在しなかった。

人の道理など成り立たなくなるからこそ、彼女は『天剣』と呼ばれるのだ。

だからこそ彼女は、ウェスリアルの語った必殺の刃さえ、真っ向から否定する。


「――まぁ、剣の基本というのはこんな所でしょうか。もちろんザイン式が悪い、という訳じゃありません。キューリス、木剣」

「え、ぁ……はい……」


クリシェは曲剣を鞘に収めると、キューリスが差し出した木剣を手に取る。

そして六間ほどの距離を取って、全身に汗を滲ませ、蒼白な顔になったウェスリアルに対峙する。

少女が構えるのは剣を前にした半身――ザイン式。


「剣を前にした半身、必然予備動作は少なくなりますから、場合によっては効果的。相手の反応速度を測った上で、これくらい実力差があるなら――」


動を飛ばして静から静へ。

ウェスリアルの首、その真横を木剣で貫くようにして、一瞬見失ったクリシェの姿。

舞った銀の髪と外套がふわりと、失った時間を取り戻すかのように一拍遅れて降りてくる。


――それは時間さえも跳躍するが如き、ザインの剣であった。


「最短最速で相手の先、先の先を取れるこの構えも決して悪くありません」


ザインの後継者たるウェスリアルでさえ、限界であったのか。

突如現れた木剣と彼女に怯えたように尻餅をついた。

一拍遅れて、キューリスの所へ届く微風が、奇妙なほどに冷たく感じる。


「クリシェとしてはきゅきゅっ、というよりゆるゆる、ふわーな感じで剣を振る方が一番だとは思いますが、まぁ大体の人はそもそもしゅぱんっ、びしゅっ、とザインさんのような最低限の剣も振れてないので、まずはザイン式で素早い踏み込みや剣の振り方を覚えるというのも一つの手ですね」


語り口は最初から最後まで変わらず、真剣さで言えば料理の方が真剣だった。

少なくとも彼女に取って剣など、その程度のことなのだろう。


「料理においても、包丁や調理器具の扱いなどというものは上手に扱えて最低限です。大事なのはその技術を美味しいお料理のため、どのように使うべきかという思索。これに答えはなく、クリシェの先生でさえ道半ばなのだと口にするくらいに奥深い、終わりなき探求が必要となりますが……その点、剣も似ているものと言えるでしょう」


うんうんと頷きながら、誰一人言葉を発せぬことに気付かず続ける。


「剣なんて所詮、突き詰めれば動くお肉に切り込みを入れる程度のこと。料理の奥深さとは比べるまでもありません。ですが、どちらもまずは最低限の技術を学び、自分の可能行動の幅を増やしていくというのは共通するところであり、そして一つの技術に拘らず、必要十分な最低限を意識し、考えることが大事なのです」


理解できましたか、とクリシェはくるりと向き直り、尻餅を突いたままのウェスリアルに目をやった。

威圧する様子などなく、穏やかな子供のような微笑。

雰囲気も何もかも、紫色の瞳も含めて全て、彼女はいつもの『お姉さん』。

子供と大人、素人と達人の区別もなく。

彼女はそのように、人を平然と見下ろして、それを許される存在なのだと気が付いた。

少年がいつも見るその優しげな紫色が、今は途轍もなく恐ろしいものであるかのように感じて、身を震わせる。


「ザインの、剣……」


唖然と彼女を見つめていたウェスリアルは腰を上げ、片膝を突いて頭を垂れた。


「……その先にある深奥を……見せて頂きました」


上擦った声音、地に突く拳が震えているのが見える。

アルベリネアが一体、どのような存在か。

それを知らずに挑んだ彼を誰も愚かとは思うまい。

一人残らず彼を憐れむように眺めていたが、その視線さえ酷だろう。


「……ん、よく分からないですけれど、まぁ、理解できたなら良いです。剣はそこそこ振れているようですし、これからはきゅっきゅきゅっ、って感じじゃなくて、ふわふわー、きゅっ、しゅびっという感じで全体的な組み立て方を考えていくように」

「……、畏まりました」

「頑張って下さいね。カルア、終わりましたし他の所見に行きましょうか」

「はぁ……あたしはうさちゃんのせいでこの交流会自体が終わりそうな気がしてきたよ」

「……? あ、キューリス、返しますね。キューリスには良い機会ですし、ザインさん達に色々教えてもらうように」

「は、はい……」


この状況で、何を教えてもらえというのだろう。

意気消沈のウェスリアルが、すぐさま指導を行える状態まで立ち直れるなどとは思わなかったが、キューリスには頷く他ない。


冷え切った中、それに気付かず一人だけ楽しげな上機嫌。

一人の男が恐らくはその人生を賭して、並々ならぬ研鑽の果てに手にしたものを自分が粉々に粉砕したなどとは露とも知らず、良い指導をしたと言わんばかりに満足げである。

カルアと共に翠虎に乗り、彼女がどこかへ消えていくと、唯一の賑やかさは場から消え――後にはどうしようもない重々しい空気だけが残された。







ザイン正統後継者の手も足も出ぬ敗北は、アルベリネア相手ならば仕方ない、と誰もが受け止めたらしい。

その調子で彼女が集まった道場の師範達の心をへし折って行ったことも大きな理由。

森となれば木も隠れる。

アルベリネアは勝負を挑む相手ではなく、指導してもらう相手。

負けることは決して恥ではないという空気が当然のように生まれていた。


翌年からも恒例となった交流会にも参加。

エプロンドレスの彼女(顔を出すとその悲劇もあってか、何故か剣術交流会で野外料理教室を開かせることになった)に対して平身低頭、まるで弟子か何かの如く教えを乞うている姿を見ると、あの悲劇を見ていたキューリスとしても何やらほっとする想いがある。


当のクリシェは道場に入るとすぐに子供達にクッキーをせがまれ群がられ、小言を言いながらも楽しげにクッキーを与え――やはりどう見ても近所のクッキーお姉さん。

これがあれと同一人物なのだから恐ろしいものである。

戦場でもあんな感じだった、というカルアの言葉を聞けば、この笑顔のまま首を刈り取る彼女の姿も容易に想像が出来たが、しかしこの先見ることはあるまい。

特に見たいとも思わなかった。


やはりキューリスには、王姉アルベリネアは優しい変なお姉さん。それで良い。

クッキーを配っている姿の方が彼女にはよく似合っていたし、クリシェが弱いのではないか、という疑問についても完全に氷解している。

その剣技は学べる域になかったし、それから学んだとするカルアの剣を教えてもらった方が少なくとも、キューリス達には分かりやすく、実りがあった。


「あ、シェリシア。キューリスも。今日は来ないと思ってたよ」

「すみません、館長。ちょっと家の仕事で……」

「ふふ、別に謝らなくていいよ。実は子供達の稽古頼みたくて……」


現れたのは館長、ミア。

いつもながらとても強そうな人には見えないが、彼女のことも、もはや『誤解』はしていない。

交流会の最終日。

折角の外、槍投げをしようとカルアが言い出したことで、槍を投げる館長という貴重な姿を見ることになり、そこで館長弱い説も氷解していた。


『ほら、剣を振る訳じゃないし、得意でしょ、槍投げ』

『……あのね、わたし、槍を投げたのとかもう二十年以上前なんだけど』

『へーきへーき、最後に投げたのが昨日だって二十年前だってミアの場合似たようなもんでしょ。……力任せに投げるだけだし』

『この……っ!』


カルアの鮮やかな投槍を見た後では見た目こそ雲泥。

力任せの言葉通り、ほとんど助走もなしの手投げである。

しかし、彼女がカルアに向かって投げた重い白兵槍は、その背後にあった木を容易く貫き、へし折ったのだ。

その威力の凄まじさに見ていた子供達は皆凍り付いた。

仮に命中していれば人間の胴体など軽く吹き飛んでいるだろう。

相手が超人カルアとは言え、その暴力を至近距離で平然と解き放つ姿はやはり、常人のものではない。

穏やかに見える彼女もまた、数多の戦場を潜り抜けた怪物なのだった。


『ミア、あなたが壊した槍一本でカボチャ何個分になると思ってるんです。いえ、お金の問題ではなく、自分のお金で買ったから乱暴に使っていいなんて考えは駄目ですよ。折角職人さんが一生懸命作った槍なんですから』

『……すみません。でも、一応木に突き刺す予定で壊すつもりは……久しぶりで力加減が、その……』

『言い訳は見苦しいですよミア館長。皆ちゃんと遠投してるのにあたしに向かって投げるなんて――』

『うるさい!』

『ミア、お説教してるんですよ』

『うぅ……なんでわたしが……』


こんこんとクリシェが説教を始めてしまったせいで槍投げ訓練は取りやめとなり、人間業ではないと言われるアルベリネアの投槍を見る機会を逃してしまったのは少し残念であったが、どうであれ、あれからキューリスも他の子供達も二度と二人を指して弱そうなどと口にすることはなかった。

二十年ぶり、助走も無しに雑な投槍であれだけの威力――本気を出した彼女の投槍が一体どれほどの威力かなど想像するまでもない。

それからは誰もが、彼女を決して怒らせまいと敬意を払っていた。

普段怒らぬ人ほど怖いものはない、という言葉通り、ミアもその一人だと理解して。


「分かりました。その……ザーカさん達はどうかしたんですか?」

「カルアもザーカ達も二日酔い。昼過ぎくらいまで出てこないと思う。……昨日久しぶりに皆集まって飲んでたから」


わたしは途中で止めたんだけどね、と不機嫌そうに語るミアの様子は他の武人達と比べて何とも普通の人らしい雰囲気だが、恐らく多くの者がそれに騙されるのだろう。

見かけで人を侮るなかれ、師範達の言葉は深く胸に刻まれている。

弱く見せるというのも技術の一つであると、今はキューリスも理解していた。


「なるほど。分かりました。……とは言ってもしばらく稽古って雰囲気じゃないですが」

「まぁ、クリシェ様が来てるとね。適当でいいよ」


クッキーに群がる子供達を見ながらミアは苦笑する。

自分にもそういう時期もあったものだとキューリスも笑った。

アルベリネアの手作りクッキーはまさに最高級と呼べるものであったが、贅を凝らした一品ではなく、シンプルでどこか素朴な、優しい蜂蜜の味わい。

誰もが彼女の持ってくる、そんなクッキーを喜んだ。


じゃあお願い、とどこかに行ったミアに頭を下げつつ、シェリシアと顔を見合わせ苦笑する。


「キューリスももらってきたら?」

「……俺がいくつだと思ってるんだ。もう十五だぞ」


そう言いながら道場隅に。

今日は何を主体に教えようか、と予定を組みながら、しばらくすると子供達をわらわらと連れてクリシェもこちらに。

すみません、と頭を下げると、気にしなくていいです、とクリシェは微笑み、クッキーを手渡してくる。

ありがたくそれを受け取り口にした後、手を打ち鳴らし、子供達を整列させた。


年々子供の数も増え、今では四十名近くがずらりと並ぶ。

腕白小僧だったキューリスのような子供もここに通って落ち着いた、などと、そういう評判が広まった結果であろう。

今日のように小学をやっていない日は特に多く、半ば子供預かり所であったが、やはり館長達は気にしていない。


「――実力が拮抗するほど戦いは長引き、疲労も溜まる。思ったような剣も振れなくなり、武器の喪失などといった状況にも直面する。そのため今日は簡単な、相手との取っ組み合いを制するための技術を教えていこうと思う」


キューリスもシェリシアも子供達の指導を任されるようになって久しく、慣れたものではあったが、隣に立つのがクリシェとなればやはり緊張はある。

求められぬ限り特に指導へ口出しすることはないが、まだまだキューリスは未熟も未熟。

それを究極の剣士である彼女の目で観察されるというのは中々のプレッシャーがあり、普段は堂々と、子供達の扱いにも手慣れたシェリシアの顔も若干硬い。


あれからシェリシアは彼女へ強い憧れを抱くようになったこともあって、余計にだろう。

みっともない姿は決して見せまいと張り切ることが常で、気迫が違う。


「――最初はこういう風に、ゆっくりと一つ一つ。大事なのは関節の動きと力の方向。上手くやればわたしでも簡単にキューリスを倒すことも出来るし、あなたたちでも十分に大人を倒すことが出来る。大事なのは十分に足る最低限。原理を学べば後はタイミングの問題、力任せにやろうとしないこと。相手の体を痛めちゃうからね」


シェリシアはキューリスの体で今日やる技を実演して見せ、子供達に語り、クリシェに尋ねる。


「どうでしょう? クリシェ様」

「ん……とても分かりやすい説明だと思います。十分に足る最低限……やはり、何事にも通ずる素晴らしい言葉ですね」


自分の言葉を引用されたクリシェは、シェリシアも成長しました、と満足げに何度も頷く。

それを見て、シェリシアも二本に括った髪を揺らしてキューリスに目をやり自慢げに微笑む。

キューリスは半ば呆れつつ、続きを口にした。


「さて、今の技を今から二人一組で。なるべく背丈の近い者同士、実力差のある者同士で組むのが良いだろう。質問がなければこのまま始めるが……ボルズ?」


ふと見れば、一人の少年――ボルズが思い詰めたような顔で下を向いていた。

真面目で稽古熱心、子供達のリーダーという立ち位置の少年で、問われたボルズは左右の子供達を見渡す。

子供達は頷き、期待の目でボルズを見ており、ボルズは何かを決心したように拳を握る。

キューリスは首を傾げた。


「どうした、何かあるのか?」

「いえ、その……く、クリシェ様に質問、いいですか?」

「……? 何ですか、ボルズ」


同じく首を傾げた『おねえさん』を見ながら、少年は実に真面目な顔で尋ねる。


「あの、クリシェ様って……本当に強いんですか?」


――いつぞや、耳にした覚えのある質問であった。


>おまけ<






「いつでもいいですよ、ふりふり」

「は。では、行かせてもらいます」


多くの兵達が輪を作り、中央にあるは二人。

『天剣』クリシェ=クリシュタンド。

そして、ザインの剣を極めし大剣豪、べーギル=サンディカである。


誰もが先日の噂を聞いている。

ザイン式正統後継者、ウェスリアル=ザインが手も足も出ず敗北したと。

アルベリネアに何故、べーギルが挑んだか――多くの新兵達はその敵討ちにあると認識していた。


『目にも留まらぬ神速の突き――その切っ先をアルベリネアは掴み、前に引き倒したのです。そしてその上で後ろ首を踏みつけ――』

『――足で、踏みつけたのか?』

『っ、……は。その通りであります』

『なるほど……試す価値はある』


交流会に参加していた大隊長の言葉に対し、稀なほど真剣な声音。

統一戦争を経験した年嵩の大隊長でさえ、震え上がるほどの真剣さであった。

べーギル=サンディカは九十を超えた老人であったが、今なお対峙すれば凍り付き、己が子供へ戻ってしまうかのような化け物である。

大隊長は身を強ばらせ、これは何かあるかも知れぬと部下達に語ったという。


右に剣を構えた半身――その踏み込みを目で捉えられたものなどいない。

まさに神速。

しかし、アルベリネアは動揺さえ見せず、前のめりで宙を浮くのはべーギルの体。


「っ!?」


その場にあった誰もが驚愕。

べーギルはその体勢にありながら、螺旋に体を捻ったのだ。

誰もが一瞬の攻防、そこに繰り広げられる超絶技巧に息を呑むが、べーギルはそのまま仰向けに倒れ込み――


「……、首ではないのですな」

「えと……スカートの中が見えてしまうので……これでも十分頭を砕けますし」


そんなべーギルの顔――目の辺りを踏みつけるようにして足を浮かせる。


「……あの、ふりふり? 今の、何か意味があるのでしょうか……?」


アルベリネアの顔にあるのは心の底からの疑問である。


「試行錯誤、その過程にある一つの失敗というものです」

「はぁ、なるほど……」


――失敗とは、これでは上手く行かないという検証における成功である。

べーギルはその後部下達に、真面目な顔でそう語った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る