少年とおねえさん 上
王都城下街にある黒旗剣術指南所では、子供に対しては無料で門戸を開いた。
当然ながら掃除や道具の手入れ、雑用程度は要求したりはするし、指導も基本的には剣の振り方を教える程度であったが、方針として来るもの拒まず。
それでも道場には十分なスペースがあった。
建てる時には隊員達が報奨金などを寄付したこともあって道場の大きさは王都一。
いかに民衆から人気の黒旗特務とはいえ、憧れだけで厳しい稽古を続けられる人間というものは少数。本格的に剣術を習いたいと考えるものは普通、歴史ある道場を好む。
知名度だけの黒旗剣術指南所は道場として軽薄なイメージもあり、剣術道場としては異例の入門数こそあれど、定着する門下生の比率は大きくはなかったのだ。
子供に対して無料で門戸を開く余裕があるのはその辺りの事情があってのもので、そして館長達もそうした『ゆるい』雰囲気を気に入っていることもあり、特に問題視もしていない。
この広い道場を赤字にしない程度の門下生がいれば十分で、元々平和な世界で顔馴染みが集まる場所として建てられた剣術道場――そんな居場所を何よりも愛していた。
それは、そんな道場隅の一角。
12歳以下、二十人ほどの子供はそこに集められ、今日子供達の指導を行うのは、百人隊設立当初からの古株ザーカ。
老人と言って良い見た目だが、随分な強面で左目を潰した刃傷。
体も未だ戦士のそれであり、クッキーを咥えつつ現れた少女が隣に立つと余計にその迫力が際だって見えた。
指導は厳しいが話が面白く、休憩中はとても優しい一番人気の師範である。
彼が今日の鍛錬についての説明を行い、質問がないかと尋ねたところで――意を決して少年、キューリスは口を開いた。
「あの、クリシェ様って、ほんとに強いの……いえ、強いんですか?」
ここのところ感じていた疑問。口に出すと、銀の髪をした少女は首を傾げた。
エプロンドレスの綺麗なお姉さん。
すごく美人で、だけど可愛くて子供っぽい。
実際は60だか70だか、ともかく結構な歳らしいのだが、今年11になるキューリスから見ても全くそんな風には見えない人だった。
剣を振ってるところを見たことはない。
道場でクッキーを食べながら、筆頭師範のカルアや館長、歴戦の黒旗特務隊員達と喋っているだけ。戦士というより近所のおねえさんである。
指導を行う屈強な元隊員達の方が明らかに強そうで、実際彼らは強い。
剣なんて見えないくらいに速いし、そんな隊員達をあっさりとあしらう筆頭師範――アルベリネアの黒猫という異名を持つカルアの力量もすごいものだと理解が出来る。
だが、この変なお姉さんがそんなカルアが相手にならないほどの強者であるとはあまりに信じがたかった。
その上普段のカルアとクリシェと言えば、その様子は叔母と姪っ子のようなもの。
彼女に甘えて膝に乗ったり抱っこされたりと、戦士としての覇気どころか、矜持の欠片もあるように見えない。
「キューリス! お前は――」
「ひっ」
「ザーカ、大声を出さないんです」
「は。しかし……」
キューリスの言葉を聞き、睨み付けた強面。
クリシェは隣のザーカに告げると、特に気にしていない様子で考え込み、唇を指でなぞる。
「んー……クリシェはまぁ、そこそこ強い方でしょうか」
「そこそこ……じゃあやっぱり、ザーカ師範やカルア師範の方が強いんですか?」
「馬鹿。俺どころかカルアでさえ足元にも及ばんと何度も言っているだろう」
「えと……でも、クリシェ様俺と変わらないくらい小さいですし、本当なのかなって……」
強いどころか、どちらかと言えば弱そうに見えるのだが、ザーカの手前気を使う。
アルベリネアと言えば、誰もが知っている大陸一の英雄であった。
どんな化け物も一刀両断。投げた槍は城壁を崩し、万の軍に対し一人で斬り込み敵将の首を切り裂いてみせるのだと、その武勇伝はいくらでもある。
ここに来る前のキューリスはアルベリネアに憧れていたし、そんな戦士になりたいと思ったものだが、ここで目にしたアルベリネアはそんな逸話とあまりにかけ離れていた。
一致しているのはその美しい容姿くらいのもの。
正直、憧れていただけに落胆した、という気持ちが大きい。
「確かにクリシェは小さいですから、そういう意味では強くないと言えますね。やっぱり体が大きい方が有利なことは確かですし……クリシェに勝てない人は単純に技術と経験が足りないだけで……んー、改めて強いかと聞かれればそこまで強くない気も……」
「く、クリシェ様……自信を持って下さい。そうでないと我々の立場がなくなりますので」
「でもキューリスの言葉は事実です。例えばあと一尺大きいクリシェがいればクリシェよりずっと強いですし、そう考えると身長が五尺もないクリシェはあんまり強くないとも……」
「……あ、あのですね、そんなあり得ない想定は――」
うーん、とクリシェは首をひねり、ザーカは困ったようにクリシェにあなたは間違いなく強くて最強なのだと何度も言い聞かせる。
そんな様子を見ていると、キューリスの中でますます疑念が募っていく。
彼女がすごく優しい人であることは見ていれば分かる。
女王の姉で元帥に次ぐ地位の軍人。とんでもなく偉いはずなのに誰に対しても丁寧で、腰が低く親しみやすい姿はとても立派なことだと理解も出来る。
隊員達がそんな彼女に対し強い敬意を向けているのも見れば分かるし、彼らは平民出身者で構成された黒旗特務中隊。
その出世がクリシェのおかげであることは間違いなく、その恩義に報いるため、彼女がすごい人なのだと過剰に周囲へ語ることはおかしくないように思えた。
優しいお姫様で師範達の主なのだから、キューリスのような子供達にも好きになってもらいたい、敬意を持ってもらいたい、という気持ちは理解できる。
その上、実際に戦争では常勝不敗のすごい人であるというのは事実――何万という人間を指揮する立場にある彼女の剣の強弱などというのは些細なことだろう。
強い方が良いにしろ、別に弱くてもアルベリネアはアルベリネア。王国の英雄である。
そこにちょっとした尾ひれを付けるくらいは許されるべきで、むしろそんなことをこうしてわざわざ、人前で指摘するのは良くないことなのではないだろうか。
あなたはとても強い、最強、比肩するものなしと繰り返しクリシェを納得させようとしているザーカを見て、キューリスは頭を下げる。
「あ、あの……すみません。失礼なことを……」
「……? いえ、気にしないでいいですよ。キューリスの言うとおり、大きい人が強くて有利なのは当たり前の事で、戦闘術というのは弱い人が強い人に勝つためのもの。客観的に見て、小さいクリシェは強くないですし、同じくらいの力量があって大きい人には負けるでしょう」
うんうんと真面目な顔で頷き、クリシェはちゃんと自分の弱さを認めることが出来る大人なのです、などと一人納得したように続ける。
ザーカは隣で額を押さえていた。
「ザーカ、どーしたの?」
「はぁ……いや、キューリスの馬鹿がな……」
そこに現れたのはこの指南所の筆頭師範、カルアである。
整った顔には小皺が刻まれていたが、老いてなお凜とした美しさ。
アルベリネアの黒猫と呼ばれた彼女の髪には若干の白髪が交じり、けれどその柔らかな立ち姿、動き一つに強者の風格がキューリスにも透けて見えるような気がする。
彼女の振るう剣の速さを知っていることも理由だろう。
この緩んだ立ち姿から、瞬く間に剣の嵐を巻き起こす様は思い出すだけで背筋が凍り――エプロンドレスのお姉さんとは雰囲気からして違う。
ザーカは今の話を掻い摘まんで伝え、聞いたカルアは楽しげに笑いながらクリシェの頭をぽんぽんと叩いてキューリスを見た。
クリシェは何やら嬉しそうに微笑みながらカルアの腕を取り、恥ずかしげもなくすぐさま抱きつく。
やはり戦士の風格など皆無である。
「なるほどなるほど、キューリスもそういう時期かぁ」
「そういう時期……」
「バックやボジーも来たばっかの頃似たようなこと言ってたしね」
「バックさん達も俺と同じ事を……?」
バックとボジーは指南所でも師範代を任される高弟。
特にバックは魔力という特別な才能を持たず、技術のみで師範代として指導する側に回ったすごい人――門下生達のほとんどから尊敬されていた。
そんな二人と同じ指摘をした、ということにキューリスは何やら嬉しくなり、目を輝かせる。
「よしよし、うさちゃんが弱そうに見える人は挙手して。大丈夫、怒らないから」
カルアの言葉にキューリスの周囲にいた子供達も顔を見合わせ、一人、また一人と手を挙げて、最終的には殆どと言っていいほどの子供達が挙手した。
クリシェは、ほへー、と何とも暢気な顔でそれを眺め、カルアは肩を揺らして笑う。
ザーカは渋面を作って嘆息した。
「見た目に惑わされるなといつも教えているつもりなんだが……」
「まぁ子供だしね。シェリシアはうさちゃんが強そうに見えるの?」
茶色の髪をした可愛らしい少女――シェリシアは他の子の様子を見ながら、頷く。
「え、と……お父さんが戦場でクリシェ様を見たことがあって……その、敵を何十人も斬り殺すのを見たって……」
「なるほど、そういう方向か。他の手を挙げてない二人もそんな感じかな?」
手を挙げていなかった残りの二人も頷く。
シェリシアを含めた三人は軍人の子供。
特にシェリシアはいつも何やらクリシェを不思議そうに見つめていて、どうしたのかと思っていたが、そういうことだったのだろう。
確かに、この『お姉さん』が何十人と敵を斬り殺すようには見えない。
「じゃあ、続いて館長のミアが弱そうに見える人は挙手」
続けられた言葉に再びキューリスは手を挙げ、今度はシェリシア達も。
満場一致であった。
「むぅ、これは由々しき事態だね。ザーカ、教育をサボってたんじゃない?」
「……笑い話に寄せすぎたかも知れんな。受けは良かったんだが……」
「うさちゃん。うさちゃんはどうにもミアと同じくらい弱そうなんだって」
「うーん、ミアと同じくらい弱そう……」
「そう。ミアと一緒だよ? 王国のアルベリネアとしてここは認識を改めさせるべきだと思うんだけど……どーかな? ちょっとした合宿に付き合わない?」
「合宿……?」
「そーそー。丁度気分転換に近所の森で二泊三日くらいでやろうと思っててさ、ついでにうさちゃんから適当にその辺りの許可も欲しかったんだけど――」
カルアはそうして何かを話しつつクリシェを連れて行き。
ザーカは嘆息して頭を掻きながら、話は終わりだとキューリス達への指導を始める。
既に軽い準備運動は終えており、まずは素振りを百本ずつ。
振り下ろし、袈裟、薙ぎ払い、斬り上げ、そしてその逆。
とりあえずは剣を振ることに慣れることが子供達の稽古の主体で、大抵これを終える頃には疲れ切り、休憩を挟んでからロールカ式――左手を前に置く戦場剣術の型の訓練が始まる。
子供は指導を無料で受けられるが、稽古自体はそれなりにハード。
延々と続く素振りで挫折して帰って行く生徒は結構多い。
指南所が開いている日はいつでも稽古に参加して良いということになっているが、それは逆にサボっても誰も文句を言わないということ。
強制されることなく、厳しい鍛錬に自らの意思で通うというのは中々に気力がいるもの。
外で他の子供と遊ぶ方が普通は楽しいし、初日でやめていくのが半数。
十人入ってきて、半年後に残っているのは一人か二人であった。
キューリスは既に二年、そしてシェリシアも同じく。
九歳からここで鍛錬を続けており、子供達の中ではそこそこな古株。
力量もトップクラスであり、型や実戦形式の稽古ではペアになることが多い。
ここまでキューリスが続けて来れたのは半分、シェリシアのおかげと言えるだろう。
同じ時期に始め、同じように通い続けた彼女はちょっと不思議な雰囲気があるものの、頭が良くて可愛く真面目。
アルベリネアへの憧れで始めたこれも、いつの間にかキューリスの中で彼女と過ごすためという理由が半分を占めていた。
「シェリシアはクリシェ様、本当に強そうに見えるの?」
「……私語は厳禁」
「師範あっちに行ってるし、いいじゃんっ」
こちらの横薙ぎを姿勢を低くして躱し――シェリシアは目がいい。
動きも一つ一つが丁寧で、いつも落ち着いて見えた。
剣も無闇矢鱈には振らず、鋭く速い必殺剣。
大体いつもキューリスが押し切って勝つか、あるいは押しきれずに負けるか。
力量はほとんど五分であったが――
「うぇ」
「わたしの勝ち。……集中してないからそうなるの」
集中を欠いたキューリスが負けることの方が若干多かった。
剣を首に突きつけられて両手を挙げ、シェリシアはそんなキューリスを睨みつつ、全くもう、と嘆息した。
シェリシアは怒っていても可愛い。
仕方ない、といった様子でシェリシアはゆっくりと剣を振るい始めた。
キューリスもそれに合わせてゆっくりと動きながら、剣を避ける。
あえてゆっくりと剣を振るい、互いの動きを確認する――そういう趣向の稽古であったが、ちょっとしたお喋りにも都合が良い。
シェリシアはそうでなくともこの練習が好きであったし、彼女と喋りたいキューリスは言わずもがな。
機会を作るため、求められれば積極的に応じた。
「……道場でクリシェ様と会った、って前にお父さんに言ったら、すっごく怖い顔で絶対に怒らせるなって何度も言われたもん。わたしのお父さん知ってるでしょ?」
「ああ、うん……おっかねえ人だよな」
指南所には強面が多いが、シェリシアの父親も負けず劣らず。
軍に四十年近く――解体戦争の頃から従軍していたらしい兵卒叩き上げの百人隊長で、冗談など一切通じなさそうな人だった。
「お父さん嘘ついたりしないし、実際……例えばわたしがクリシェ様に斬りかかったらあっさり返り討ちにされそうな気がするの」
「そりゃ……強い弱いって言ったって俺たちよりは――」
「そーじゃなくてさ、例えばさっきみたいにカルア先生に抱きついてる時とかも、隙だらけに見えて、そうじゃないような気がするって言うか……他の師範達はそもそも隙なんて見せないでしょ?」
シェリシアは小声で言いながら剣を袈裟に。
キューリスはそれを左に流すように剣で受けた。
「隙がない人に返り討ちにされるのは当たり前だけど、隙だらけにしか見えない人なのに返り討ちにされそうなのって変だし、だから本当はすっごく強いんじゃないかって……」
「んー、そういう話を聞いてビビりすぎとか?」
「……かも知れないけど」
子供達は道場にいる間、いつでも師範や師範代に斬りかかっても良い。
稽古の一環として、そういう変な決まりがここにはある。
例えばさっきのような説明の最中だろうと、腕をクリシェに取られた状況であろうと、キューリス達が斬りかかっても怒られることはない。
実際にやるのは入りたての腕白小僧――キューリスもかつてはその一人だった――くらいで、そんな奴もすぐに師範達が隙を見せないことに気付いてやめるのだが、しかし今でもやるやらないはともかく、そういう目線で師範達を見ることが良しとされている。
とはいえ――
「……シェリシアはいつもそんなこと考えてクリシェ様見てんのか?」
「と、時々だよ。いつもじゃないし……」
それは師範や師範代限定。
流石にアルベリネアに斬りかかろうとするものは子供達にも存在しない。
とんでもなく偉い人だというのは理由の一つだろうが、隙だらけに過ぎる、というのが一番の理由だろう。
練習用とはいえ、仮に木剣が当たって怪我でもさせれば大目玉間違いなしだなんて子供でも分かることで、師範達に斬りかかれるのもある意味、師範達なら大丈夫という安心があるからだ。
剣の稽古をしているのだから怪我は付きものだが、だからと言ってわざと怪我をさせる奴は普通いないし、いたとしたら顰蹙もの。
隙のない相手が見せた僅かな隙に打ち込めれば大したものだと褒められるかも知れないが、隙しかない相手に打ち込んだところで誰もそんな人間を立派だとは語るまい。
だからこそ、シェリシアがクリシェを見ながら内心そんなことを考えているということに少し驚いた。
「いつも隙だらけすぎて、俺はそんな風に考えたことないな……すっげぇ偉い人だし……」
視界の端で道場隅――カルアの膝の上に座りつつ、いつの間にか出てきていた館長のミアと話しているクリシェの姿を眺め、自身がその頭を木剣で叩く姿を想像してみる。
不思議そうに首を傾げる彼女の姿が目に浮かび――キューリスは眉を顰めた。
「ちょっと。喋ってもいいけど集中して」
「あ、ああ……悪い」
怒った様子のシェリシアに言いつつ、キューリスも何故だか、痛がるクリシェの表情を想像できないことに気付いた。
あの美しい顔で不思議そうに、こちらを見つめる姿だけが想像に浮かぶ。
キューリスの振った剣は、想像の中でさえ何故か彼女に当たらない。
謎の力でキューリスの剣はあらぬ方向を斬っており、それをあの紫色が不思議そうに眺めるのだ。
――そう、不思議そうに。
怒るでもなく、驚くでもなく、どうしたのかと言いたげに。
何故かと考えても分からない。
ただ何となく、キューリスの剣が彼女に当たる想像がどうしても浮かばなかった。
それから、剣術交流合宿と呼ばれた催しは一ヶ月後。
黒旗特務が訓練に使っていた、王都北の小さな森で二泊三日。
黒旗剣術指南所のみならず、王都にある道場も合同で、という形で開催された。
軍の訓練所も側にあり、そこは厳密に言うと国――軍の所有地。
かつての私兵がやっているとはいえ、民間の一道場のためにそこを無償で開放するというのは公平性を失するという考えから、他の道場にも声が掛けられたのだ。
それに加え、希望者の現役軍人も参加を許され――剣術指南所自体百人を超える門下生を抱えるが、軍その他からも三百人近く集まることとなり、随分な大所帯での合宿となった。
お忍びでアルベリネアも参加するという話もあったからだろう。
特に軍人の参加希望者があまりに多く、希望者から抽選という形になったと聞いている。
館長のミアはカルアの思いつきから始まったこの企画で随分忙しかったらしく、目に隈を作っていたが、子供達の中でも親から許可を得て参加を許されたキューリス達はまるでお祭り気分である。
王都中の猛者が集まる剣術合宿。
心躍らぬような人間が、わざわざ剣術指南所になど通わない。
当日朝、門下生達は指南所前に集合し、それから王都の北通りを抜け軍の訓練所に。
他の道場の人間や軍人と合流したところで、シェリシアと歩いていたキューリスの所に現れたのは鎧姿の男。
「お、お久しぶりです、おじさん」
「キューリスか。……見ない内に随分と大きくなったな」
六十近いはずだが、未だ壮健。
たてがみの兜こそ被っていないが、誰も彼が一兵卒などとは思わぬだろう。
そこに浮かぶは歴戦の風格。
巌のように厳しい顔には複数の傷跡があり、背丈こそ高くはないが、筋骨隆々――革鎧と服の境目を見失うほどに、鎧が似合っていた。
可愛らしいシェリシアと一致するのは茶色の髪くらいだろう。
メルケスは白髪交じりの短い髭を撫でて笑い、隣のシェリシアの頭を軽く叩く。
「君にはシェリシアがいつも世話になっている。毎日のように君の話を聞かされている身としては、あまり久しぶりという感じもしないが」
「っ……お父さん」
シェリシアは白い肌を僅かに赤くしてメルケスを睨み、キューリスは聞いた言葉に心臓を跳ねさせた。
普段はどこか素っ気ないシェリシアが家でキューリスの話をしている。
それだけで飛び上がるほど嬉しかった。
シェリシアは父とキューリスを交互に睨み、そんなにキューリスの話してない、と頬の赤いままそっぽを向き――その様がまた可愛い。
「おじさんも参加するんですか?」
「流石に外泊でシェリシアだけというのは少し心配でな。……それに私も指南所の方達に改めて挨拶をしたかったところであるし、剣の達人達が集まるとなればそちらの興味もある。抽選に落ちた者には少し悪いが……」
軍人は基本的に抽選であったが、メルケスのように保護者であったり、直接的、間接的に指南所の人間と関わりのある軍人などは優先的に参加することが出来た。
そのことを言っているのだろう。
「稀な機会。その分多くを学んで隊に持ち帰ってやりたいところだな」
「……学ぶ」
「いくら経験を重ねても、それで足ると言うことはないものだ。歳を取ってからこそ意識的に学んでいかねば、人間は衰える一方……特に軍人が現状に満足することは許されん。僅かな驕りが仲間を死なせることになるからな」
歩きながら何かを思い出すようにメルケスは告げる。
実際の戦場を見てきた軍人の言葉には重みがあった。
「君は将来軍人になりたいという話だが、守る者のために剣を取るならば、どのような手段を用いても負けることは許されん。常に学び、研鑽を重ね、その上で十全以上の結果を出すための努力を怠らぬように」
「は、はい……」
「……戦場ではそれだけの努力を尽くした上でなお、理不尽な死がいくつも転がっている。肝に銘じておきなさい」
ありがとうございます、と敬礼して答えると、メルケスは苦笑する。
「まぁ、偉大なる女王陛下の治世。この先滅多なことで戦は起こるまいし、軍人となることが決まったわけでもないだろうが……とはいえ、日常にあっても、なまじ剣が立つが故に己に驕り、知らず危険に踏み込むことはあるものだ」
そしてキューリスの頭を撫でた。
「……真に強き者は、己の弱さを知るためにこそ研鑽を重ねる。学ぶほどに己の無知を知り、剣を振るうほどに己の弱さを知り、そうであればこそ成長できる。この先どのような道に進むにしろ、そうした謙虚さは忘れぬように」
「……はいっ」
まさにこれが武人。百人隊長と呼ぶべき軍人の姿であろう。
頭に乗った手は優しく、けれど重い。
常に謙虚であれというのは師範達の教えの一つ。
筆頭師範のカルアですら、笑いながら自分は未熟だと語っていた。
それほど話したこともないが、シェリシアの父メルケスはまさに絵で描いたような武人であり、キューリスの憧れの一人であり、そんな彼の言葉に身が引き締まる思いであった。
が、シェリシアは馬鹿にしたような顔でキューリスを見た。
「……キューリスと謙虚って言葉は水と油な気がする」
「お、お前……」
「くく、そう言うなシェリシア。無鉄砲さや失敗は子供の時分にしか許されんもの……時には驕りの一つもやる気に繋がれば悪くはない」
愉しそうにメルケスは笑う。
「偉そうに語った言葉もかつては受け売り、昔は私も意味を良く理解していなかった。……しかし覚えておけば、努力を重ねれば、いつか芯から理解できる日が来る。私のようにな」
「……キューリスがお父さんみたいになれるとは思えないんだけど」
「お前な……」
シェリシアは疑念をありありとキューリスを見つめ、キューリスはシェリシアを睨み。
――そしてその瞬間、悲鳴のような声。
咄嗟に列の後ろに振り返ると、そこにいたのは人の身の丈を優に超える、翠の獣。
「キューリス、シェリシア。今日も仲良しですね」
「クリシェ様――」
いつものエプロンドレスではなく、黒い外套とシャツにスカート。
答えかけたキューリスは一瞬にして空気が入れ替わるのを感じて、メルケスを見る。
先ほどまでの笑みは消え、半ば強ばるような敬礼で踵を打ち鳴らした彼と同じく、列にいた軍からの参加者は皆一斉に足を止めて敬礼を。
「楽に。歩いたままでいいですよ、今日のクリシェは軍人ではなくお忍びなのです」
「は!」
メルケス達は声を揃えて張り上げ答える。
そして答礼を返したクリシェが翠虎を歩かせるのを見て、皆再び歩み始めた。
先ほどまではどことなく朗らかな空気であったが、列全体が緊張した様子。
少し前まではいなかったはず――恐らくは翠虎を走らせてきたのだろう。
乗騎が翠虎ということは有名な話で、指南所にも稀に連れてくることもあったようだが、キューリスが実際に見たのは初めてだった。
肩の高さで八尺以上、腰ほどもある太さの腕は丸太のようで、そこにあるだけで臓腑の内側を凍り付かせるような威圧感。
一噛みでキューリスの上半分が消えるだろう。
翠の体毛には黒のラインが模様を作り、その瞳と合わせて実に獰猛な気配を漂わせる。
そんな化け物の上に乗る少女の顔は、道場で見るものと変わらず、普段通り。
当然のように横乗りになって、ぺちぺちと怪物の背中を叩いていた。
シェリシアが顔を真っ青にしているのが見え、恐らく、キューリスもそのように顔を青ざめさせているのだろう。
のほほんとした様子のアルベリネアはそんなキューリスとシェリシアを見て、メルケスに目を向ける。
「アレハの所の百人隊長ですね。見覚えがあります」
「っ、は。第二軍団第三大隊所属の百人隊長、メルケス=キルスベーグであります、アルベリネア。シェリシアからいつもお世話になっていると聞き、是非お礼を――」
「……あんまり似てないですね」
クリシェは率直な感想を述べ、じーっとメルケスの顔を眺める。
歩きながら視線を受けるメルケスの顔には若干の緊張が見えた。
「あぁ、もしかして、解体戦争の初戦で転んでた人ですか?」
「お、覚えておられるのですか……?」
「はい。……時間が経つとあなたみたいに髭を生やしたり筋肉付けたりするので、一致しないことも結構多いのですが……ちゃんと生きてたんですね。なんだかお馬鹿そうだったのでとっくに死んでるものだと」
「は。……その折りは醜態をお見せしました。アルベリネアがいらっしゃらなければ、あの日で既にこの世になかったでしょう」
キューリスは困惑しながらメルケスとクリシェを見て眉を顰める。
「まぁ何にせよ、今ではアレハの所で百人隊長、良いことです。同じように戦場で先走ってこけるお馬鹿さんを作らないよう、部下をきちんと教育するように」
「……は」
「キューリス、シェリシア、また後で。ぐるるん、ミアの所です」
ぺちぺちと翠虎の背中を叩き、一瞬であった。
翠虎はその巨体からは信じられないほどの速度で、瞬きの間もなく遙か先、列の先頭に。
キューリス達は唖然と見送り、そして、安堵するような溜息が聞こえてメルケスを見る。
「おじさん、今の話……」
「ああ、私の初陣でな」
メルケスは苦笑し、
「……功を焦って突出した挙げ句、敵の前で転んだんだ。アルベリネアがすぐ横を突破して、敵が引け腰になったから運良く助かったんだが……しかし、敵中突破のあの状況で、一兵士であった私の顔まで覚えておられるとは」
恐ろしい方だ、とメルケスは翠虎に乗るクリシェの後ろ姿を遠目に眺めた。
「さっき言った理不尽でも最たるものだろう。……戦場ではあの方の前に立つこと以上の理不尽はない。下生えを蹴分けるように易々と戦列を抜け、果実をもぐように将軍首を落とすのだから」
そしてメルケスは二人の肩に手を置いた。
「穏やかな方と聞くし、実際そうなのだと思う。だが、気安く見える方だからと言って、決して失礼なことをせぬように。……刃を向けた相手に対しては、誰より冷酷で無慈悲な方――命を奪うことに一切の躊躇もありはしない、そういう方なのだ」
酷く、真剣な声音で口にしながら。
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