まどろみ 終
「……後悔してる? 口に出来なかったこと」
川のせせらぎとちょっとした昔語りを聞きながら、セレネはエルヴェナにされるがまま。
誘導すると釣り竿を放置して、エルヴェナの太ももの上に頭を乗せて、時折優しく、エルヴェナの頬を撫でて――セレネはいつからか、肩の力を抜くようになった。
ベリーがいなくなってから、十年か二十年かが経ったあたりだろうか。
「不思議なことに、あんまり。……姉はずっと幸せそうでしたから」
正直に言うならば、少し怖い人であった。
愛情深く、面倒見が良く、優しく親切。使用人としてではなく、家族の一人としてエルヴェナを受け入れてくれていたが、誠実に過ぎる人、というのが彼女の印象。
常に糸を張り詰めさせて、緩ませることがないように――エルヴェナよりも更に少し年下であるにも関わらず、王国元帥、大貴族クリシュタンドの当主として、誰からも文句の一つも言わせないように、重責に見合った己の姿を常に示した。
気持ちの全てが理解できる訳ではなかったが、察することくらいは出来る。
二人の姫は言うに及ばず、使用人さえ難事などないと言わんばかりの超人で、少なくとも能力だけを見るならば彼女の周囲は完全無欠。
平気な顔で無理を容易く成立させる彼女たちの前では、努力などあって当然。
常人が死ぬ気で努力して、それでようやく最低限。
毎日夜も遅くまで部屋の明かりは消えず、それでもセレネはいつも、彼女たちの前では余裕を見せて、屋敷の主として笑顔で過ごした。
クリシェは困ったように。
ベリーは心配するように。
クレシェンタは期待などしていないと言わんばかりに。
どうあれ三人とも、もう少し肩の力を抜けば良いといつも彼女のことを気遣って――優しさは時折残酷であると思う。
必死に足掻いて彼女たちの隣に立とうとする彼女にとって、その言葉はきっと受け入れられないものであったに違いない。
いつか張り詰めた線が切れてしまうのではないかと、エルヴェナがそう感じてしまうくらいに余裕などはなく見えて、事実一度はそうなって。
だからこそだろうか。
「そう。……ふふ、でも人間って案外そういうところがあると思うわ。必死に色々悩んでみせたって、結局誰かの楽しそうな笑顔一つで全部、どうでも良くなったり……満たされるってことなのかしら」
「……かも知れません」
肩の力を抜いた彼女は、どこまでも穏やかに映った。
例えば昔の彼女にこんな話をしていれば、エルヴェナの感じていた何かを、エルヴェナ以上に受け止めていたに違いない。
彼女は常に、誰かに寄り添おうとする誠実な人で、情に厚く、情に脆い人であったから。
エルヴェナもベリーも、多分感情の扱いが下手な人間で、心のどこかが醒めていた。
感情の前に論理があって、論理があって初めて、心の内を表現できる。
彼女やアーネのような人は真逆で、論理を通り越して感情が先んじて――多分それが彼女たちを愛しいと思う理由なのだろう。
ベリーは彼女たちを心の底から羨んで、憧れているように見えたし、エルヴェナも同じくそういう感情を持っている。
心の外に論理と無関係な己の感情を表現されることはこそばゆく、もちろんそれが重かったり、煩わしいと思う気持ちも時にはあって、あの日打ち明けたのは相手がベリーで、彼女がエルヴェナの理解者であると思えたから。
同情ではなく、心の中を落ち着かせるための時間を与えてくれる人だと思ったから。
「あえて自分を傷つけて、何か意味があるわけじゃないもの。仮に都合の良い屁理屈だって、自分が納得できれば強いもの……だからってベリーみたいに屁理屈ばっかりなのもどうかと思うけれど」
「……ふふ」
けれど今の彼女も同じく、欲しいものを欲しい分だけエルヴェナに。
繊細な感情の満ち欠けを捉えて、その隙間に入り込むのがベリーなら、彼女のそれは全てをあるがまま受け入れて、包み込むように。
その柔らかな感情が心地よくて、目を閉じる。
根底にあるものはきっと、近しい感情に違いない。
しかし全く違うもののようにも感じて、不思議なもの。
柔らかなベッドか、陽気に満ちた草原か。
どちらにもそれぞれの心地よさがあって、全くの同じものではなく――愛も同じく。
その生き方や、経験一つで変わっていくものなのだろう。
「愛はきっと箱のようなものなのだと」
「……?」
「……名前を付けてみると、愛という箱の内側は多彩で豊か。人の箱の中を覗かせてもらうと人それぞれで楽しいです。クリシェ様やミアさんみたいにはっきりとしたものがあれば、セレネ様やベリー様みたいに複雑なものまで。……ここにいるとそれを眺めるのがただただ楽しくて……それで多分、後悔を覚えないのでしょう」
外観も、中身も、時に名前さえも違う箱。
人それぞれで、個人の中にある箱の中身でさえ、相手によって少し異なり。
「宝石でも眺めているような感覚でしょうか。……わたしの中の姉への愛は、今も美しいままで、この先もずっと永遠に」
――それをこの先も愛でていたいのです、とエルヴェナは微笑んだ。
セレネは考え込むようにこちらを見つめ、エルヴェナはそんな彼女の額を撫でる。
「ある意味では、手に入らなかったからこそ美しい、という見方も出来るのかも。……今もあやふやなまま、わたしはまどろみの中にいて、けれども美しいと思えるものが胸の中にもあって……見える全てが綺麗に見えて」
姉はエルヴェナを必死で捜し続けて、だからこそエルヴェナは今このときを手に入れた。
宝石箱のような、けれど輪郭さえ不確かな日常。
エルヴェナが過ごすそんな今の日常は、全てが姉の愛で出来ていて、姉への愛で出来ていた。
これ以上美しいものはなく、そしてきっと陰ることもないのだと思う。
「……それはきっと、はっきりとさせなかったからこそでしょう」
この世界は永遠に続く、夕暮れの来ない朝のまどろみ。
そこに作られたもので――そしてそうであることを許される場所であるから。
「……、あなたはベリーと一緒で言うことがちょっと難しいわ」
「セレネ様ならそう言うだろうと思って、わざとです」
「……意地悪なの?」
「かも知れません」
くすくすと笑うと、セレネは少し嫌そうな顔をして頬をつまんだ。
つままれているのに、伝わるものは痛みではなく愛情が。
呆れたようにセレネは告げる。
「でも、わたしにだってちょっとくらいは分かるわよ。わたしがいくつだと思ってるの」
「……セレネ様ならそうも言ってくれるだろうと思ってました」
「……あのね」
ぐに、と頬を伸ばされて、それから少しして離される。
不満げにセレネは眉間に皺を。その皺を伸ばすように額を撫でて、肩を揺らす。
「結局、手に入らなかったから意地を張っているだけなのかも知れません。……でも、それが幸せだと感じるなら、意地を張るのも悪くはないと……ふふ、屁理屈というのは同意見、やっぱりちょっと似てますね」
「……わたしも同じだって言いたい訳?」
「違いは現物が側にあるかないか、でしょうか」
「…………」
「セレネ様を見ていると、違うわたしが二人いるみたいでちょっと楽しいです」
一番愛した人には、一番愛する人がいる。
だからと言って、それは不幸の証明ではないし、愛する人が誰かを愛して幸せそうに笑う姿は、そして笑いかけてくれる姿は決して辛いばかりではない。
それに限りなく近しい愛情を、己に向けてくれるのならば尚更。
「……わたしは別に、ベリーに負けを認めた訳じゃないわ」
「それを言うなら、わたしもでしょうか。……ミアさんに負けを認めた訳ではないです」
不機嫌そうに睨む、表情豊かな少女の顔を眺めて笑う。
何年経っても、変わらぬものは変わらない。
「……何となく、ねえさんはわたしを受け入れてくれたと思います。ミアさんにはちょっと悪いですが、嫌だ、なんて言わなかったはずで、やきもちを焼きながらねえさんに文句を言いつつ、それはそれで楽しい日常があったのかも」
例えば彼女たちのように――セレネは『もしも』のエルヴェナであった。
愛が純粋なものだと思うほどに、信じるほどに、入り込む余地などないように見えて、けれど本来、愛とはそれほど窮屈なものではないのだろう。
少なくとも、エルヴェナの周囲にある人たちの愛とはそのようなもの。
ゆとりがあって、余裕があって、柔らかく――際限なく、色んなものを詰め込んでなお輝いていて、窮屈さとは無縁であった。
「でも、愛の形は人それぞれで、それぞれの美しさがあって……わたしは多分、それを眺めて、時々触らせてもらうくらいがお気に入りだっただけなのだと思います」
その愛で方もきっと、人それぞれ。
満足したいという欲求も一つの形で、味わいたい、眺めたいと思う形も間違ってはいない。
たった一つの宝石を自分のものにしたい人がいれば、色んな宝石を眺めて楽しみたい人もいて、エルヴェナは単に後者であっただけ。
そしてここはエルヴェナが招かれた、そんな宝石達の美術館。
全てエルヴェナのものでなく、だからこそ全てがエルヴェナのものだった。
「どういう形であれ、美しいものに優劣なんてないと思いますし……それが気に入るかどうかの違いだけで、結局それを楽しんだものが勝ちなのだと」
透き通るものもあれば、複雑な色合いのものもあり。
彼女のそれも、いつか自分が欲したものに似ていて――しかし手に入らずとも、目の前で、手の中で、どこまでも美しく輝いていた。
視点を変えれば色が変わり、飽きることなく。
そしてそれを眺めるエルヴェナもまた、そんな輝ける幸福の中に溶け込むように。
「ねえさんはわたしを愛してくれて……そんなねえさんに与えてもらったこの場所の幸福も、ねえさんがわたしにくれたもの。ニュアンスはともかくそんな感じで、だからこうしてセレネ様達のお側で過ごす日々は楽しくて、幸せなのです。……そしてそう感じることが、ねえさんに対する愛の証明、でしょうか」
またセレネは難しい顔で考え込んで、それからまた、溜息を。
「あなたって、ベリーと一緒で変な人よね。ようやくそれだけ理解できた」
「ふふ、それを言うならセレネ様も十分、変な人だと思いますけれど……」
また嫌そうな顔をしたセレネを見て笑う。
実際変な人ばかりであった。
目的もなく、終わりもしない。
ともすれば下らない、浮き沈みもない平穏な日常を、心の底から永遠に楽しもうと考える人間達が普通なはずもなかった。
そしてだからこそ、エルヴェナには心地よく、純粋にそれを楽しもうと思えるのだ。
ふと、表情を笑みから一転、悲しげなものに。
「……でもやっぱり、わたしも時折寂しい気持ちになることも」
「寂しい……?」
「はい。……そうは言っても、仲睦まじく過ごされるセレネ様達を見ていると、その……人肌恋しくなってしまう時もないわけではありませんから」
「そ、そう……」
セレネが目を泳がせるのを眺めつつ、エルヴェナは頬を撫でて、唇をくすぐる。
「時折、わがままを言ってしまうことがあっても、お許し頂けるでしょうか……?」
「わがままって、その……」
「……説明した方がよろしいでしょうか?」
「い、いや……いいけれど……」
何を想像しているのか。
顔を再び紅潮させ始めたセレネを眺め、内心で微笑む。
「いえ、こういうやり方は卑怯ですね。……忘れてください」
「ぁ、あのね、卑怯とかじゃなくて……えぇと……か、考える時間が――」
「大丈夫です。困らせてしまう気はありませんから」
親指で唇を押さえると、話題を変えましょう、とエルヴェナは続けた。
「もう一人の自分を見ているようだ、と口にしたとおり……わたしはセレネ様を他人とは思えないのです」
口を押さえられたセレネはひとまず無言で頷いた。
「セレネ様が好敵手として選んだベリー様は手強いお方。セレネ様があの方を破るためには並大抵の努力では難しいことは確かでしょう。……わたしもミアさんに負けた訳ではないと思いながらも、そのように感じておりました」
唐突に何を言っているのかと言いたげなセレネの顔を眺めつつ、続ける。
「……そこで、僭越ながらわたしにも、セレネ様のお手伝いをさせて頂ければと」
「て、手伝い……?」
唇を離すとオウム返しに。
エルヴェナの『わがまま』に対し、セレネは話を流され拒絶を取らされた体である。
何かを断らせてから、それより控えめなお願いを――必然、生まれるのは断りづらい空気。
「ええ。ベリー様は確かに一見完全無欠というべき方――少なくとも、主導権をベリー様が取っておられる限り優位に立つことは難しいですが、しかし弱点も」
「……弱点」
「はい。ベリー様はどうあれ、随分な恥ずかしがり屋――ご自分のことでは自信を持てず、そこをつつかれると弱い方です。セレネ様がベリー様に勝つにはまず、そうした弱点を攻め、精神的な優位を積み重ねていくことが大事なことだと思いまして」
「な……なるほど……」
先ほどの話題から逃れるため、という面もあるのだろう。
セレネは素直に頷く。エルヴェナはその様子を眺めつつ、ほんの少し目を細めた。
「そして主導権を握るならば、普段の日常生活を漫然と過ごすだけではなく、細かな所から色々と見直していく必要があるでしょう。わたしに許可さえ頂けるなら、それとなく、セレネ様の希望に添えるよう、ささやかながら協力をさせて頂きます」
「えと……あ、ありがたいんだけど、それは卑怯――」
「いえ、ベリー様はほとんど常にクリシェ様を側に置き、そしてクリシェ様を利用してセレネ様の追及を躱すことが多々――実質的には二対一です。これは正々堂々の戦いを行うための正攻法で、わたしもそれ以上の手出しはしません」
大丈夫です、とエルヴェナは続ける。
「わたしは何もセレネ様に荷担しようとしているのではありませんし、ただ、セレネ様がベリー様と対等に立てる状況を作るために協力するだけ。……ほんのちょっとの、『小さな』お手伝いです。例えば今日の夕食後にでも――」
今を精一杯楽しむために、笑みを浮かべて。
『……ほんと、うさちゃんは言い出すことがうさちゃんって感じ。永遠の楽園なんて』
『ふふ、でも……わたしは少しだけ安心を。その是非はどうであれ、ベリー様のいなくなった後のお屋敷がどうなるか、不安でいっぱいでしたから』
『まぁ、それはね。……それで、エルヴェナは決めてるの?』
姉は、うっすら察していたのではないかと思う。
それが彼女と恋人になった後なのか、それより前から気付いていて、それが切っ掛けで強まったのか、それはいまいち分からなかったが、何となく。
『聞きたいですか?』
『んー……聞き出しはしないかな。エルヴェナが素直に答えないってことは、あんまり言いたくないってことだと思うし』
ただまぁ、と姉は続けた。
『あたしにもミアにも気遣いは必要ないってことだけ伝えておくよ。……話したいなら話して、相談したいなら相談して欲しいと思うし、わがままを言われて迷惑を掛けられたって、あたしやミアはエルヴェナをちゃんと愛して、受け入れる』
姉の言うわがままが何を示していたのか。
答え合わせは出来ないけれど、少なくとも――例えば想いを伝えたのがミアではなくエルヴェナなら、きっと姉もあれほど驚かなかったように思うのだ。
それを含めてエルヴェナを、愛してくれる気がしていたから。
『それを考えた上で後悔ないって言えるなら、あたしは何も言わない。……それがエルヴェナの人生だからね』
もちろん、ぼんやりとそう感じるだけ。
根拠など何一つないけれど、それでエルヴェナは不思議と十分に思えた。
『……はい、ねえさん』
姉は多分、あの姫君と同じ道を選びはしないだろう。
それを分かった上で、エルヴェナはその時決めたのだと思う。
あえて違う道を選ぼうと思ったわけではない。
二人が共に来ることを望んだなら喜んだに違いない。
けれど、そういうことではなくて、ただ――その時感じた自分の感情を、きっと永遠のものに出来ると思ったから、決めたのだ。
そしてその後千年経とうと、後悔することもなく。
何でもない日常を繰り返して、飽きることなく過ごしていく。
食事に風呂に添い寝にと、彼女たちは何とも下らないことに全力で日々を費やして、そしてそれを疑問に思うものはいない。
王国の存亡だとか、人の生死だとか、そんな重大事で頭を悩ませることはなく、何とも馬鹿馬鹿しい内容で日々頭を悩ませるこの世界はまさにお花畑そのものだった。
子供が描いた理想郷をそのまま形に。
そしてそんな理想郷を尊んだ、お馬鹿な大人が何人も、毎日本気のおままごと。
真っ当とも健全とも言えないもので、そんなところで千年もそうして暮らしているのだと仮に歩く人にでも言ってみれば、エルヴェナ達の正気を疑うだろう。
狂っていると眉を顰めるのかも知れない。
けれどそんな反応を見せられても、少なくともエルヴェナは、ここが世界で最も幸せな場所なのだと胸を張って口に出来たし、他の人もそう答えるに違いない。
まともではなかったし、狂っていると言われれば否定も出来なかったが、どうあれ、感覚がズレてきているのは確かだろう。
エルヴェナ達は、今が何年かと数えることはあまりしない。
永遠を過ごすことが億劫になるから、などという理由ではなく、最初の百年ほどは律儀に一年を数えていたものだが、一年の感覚が無意味に感じてきたからだろう。
子供の頃の一年は途方もない時間に思えたが、今では一年などあっという間。
大抵、四、五年単位程度で時間を捉えた。
多分、竜の前で宴を開くのがそれくらいの間隔であるからだろう。
五歳児の一年は人生の五分の一を占めるが、千年経てば千分の一。
話題にも時折『そういえば二、三百年ほど前に――』などという言葉が出てきて久しく、水やり程度の感覚で作物を収穫し、誕生日のお祝いもちょっとした宴の口実。
昔と変わらず考えるのは昨日と今日と明日のことくらいで、その内『そういえば二、三千年ほど前に――』という言葉も誰かの口から飛び出るに違いない。
そのように曖昧なエルヴェナの歴で数えるならば、ここに来て千三百年くらいだろうか。
セレネとクレシェンタ、エルヴェナとアーネ、そしてクリシェとベリー。
いつものように皆で買い出しに。
その日は色々と買う物もあって、例によってくじ引き(姉とペアになりたいと駄々をこねる少女が一人いるため)でペアを作って別れ、エルヴェナもアーネの希望で本屋に寄ったり、洋服や下着作りでも始めてみようかと裁縫道具を仕入れたりしつつ、散策を。
大抵のものはあちらでも揃うが、掃除道具や食器類、洋服や紙など、あちらでは作らないものもそれなりにある。
無論その気になればクリシェ達が容易に複製(文字通り同じものを魔力で生み出す)することも出来るものだが、基本的にそういう『ズル』は行わない方針。
そのため世界中の色んな場所で買い物をしたり、作物やワイン、セレネの作った何かを売って金策をしたりということは日常で――けれどクリシェとベリーが各地の名産品を使って料理を作るのに凝っていることもあって、アルベナリアに訪れたのも十数年振りのことだった。
商店が多く、市場も大きいこともあって、アルベナリアは今も一番訪れる街であったが――それでもやはりそんなもの。
時間の感覚も異なった今のエルヴェナ達にとっては、奇跡のような偶然であったように思う。
買い物を終えて、集合場所に戻ったものの、時間になってもクリシェとベリーは集合場所に現れなかった。
そして彼女たちが向かった場所にもおらず、不機嫌さを増すクレシェンタをなだめながら捜し回って夕暮れ時、二人の女性を連れて、博物館から出てくる二人。
クリシェはベリーの手を引き、こちらに足早に駆けてきて、楽しそうに笑みを浮かべてカルアとミアだとエルヴェナに言った。
「……ねえさんとミアさん?」
「はい、その生まれ変わりですね。お話しますか?」
一人はクラインメール後期に生まれた獣人と呼ばれる種族。
猫のような耳を生やして尻尾を揺らす黒髪の――エプロンドレスの女。
もう一人は金の髪をしたローブの少女。
声を聞いたわけでもなく、仕草を捉えた訳でもなく、けれど尋ねるまでもなく、立っている姿だけでどちらがどちらかはすぐに分かった。
どことなく懐かしい雰囲気がそう感じさせたのか。
それとも、その内側にある、魂というべきものを感じていたのか。
彼女の隣のベリーも視線で尋ね、聞いていたアーネはびっくりしたように。
クレシェンタは怒気を収めて興味深そうに遠くの二人を眺め、セレネはどこかエルヴェナを案ずるように。
彼女らの様子を眺め、それから苦笑して、エルヴェナは首を横に振った。
「いえ。二人ともわたしを知っている訳でもありませんし……お気遣いなく」
「いいんですか? 多分、すごい巡り合わせだと思うのですけれど……」
「ええ。……こうして遠目に見るだけで満足でしょうか」
この広い世界に住む何人もの人達の中から偶然、こうしてたった二人に再会する可能性とはどれほどのものか。
「ふふ、いつぞやのおまじないの効果でしょうか?」
これが初めての生まれ変わりなのか、それとも何度か生まれ変わった後なのか。
どうであれ些細なこと。
きっと、考えるまでもないくらいに小さな確率だろう。
「多分。えへへ、仲良しで雰囲気も二人にそっくりです」
「……何よりです」
――だからこそ、その出会いが少しだけ運命的なものに思えて、エルヴェナは頬を緩めた。
二人は今もこちらの世界に、あの頃と変わらず普通の人間として過ごしていた。
今も変わらずエルヴェナ達が、お馬鹿で幸せな毎日を過ごしているのだと知れば、二人は一体どんな顔をするのだろうか。
呆れた様が想像できて、苦笑する。
生まれ変わっても二人は変わらず、楽しそうに過ごしている。
そしてエルヴェナもまた変わらず、今も幸せに過ごしている。
それで十分で、そこにはそれぞれが選んだ姿があって、それ以上もなく。
二人を喜ぶ気持ちはもちろんあって、けれど言葉を交わしてみたい、とも思わない。
その先を思い浮かべるだけで、十分過ぎるほど満足で――ただ、お幸せに、と頭を下げた。
自分が胸を張って、そう思えることを喜びながら。
彼女たちも戸惑った様子で一礼を返すのを見て、また苦笑し。
「ありがとうございました。……行きましょうか、クリシェ様」
「はいっ」
クリシェもまた頭を下げて、ベリーも同じく。
そのまま背を向けて歩き出す。
「……良かったの?」
「ええ。……わたしが選んだねえさんは、ミアさんを選んだねえさんですから」
気遣うようなセレネに返して、微笑んだ。
生まれ変わり――あちらに記憶はなくても、姉とミアには変わりないのだろう。
けれどエルヴェナが愛した二人は今も、エルヴェナの心の中。
「それに、あのミアさんの知らないねえさんを、わたしだけはずっと覚えていて……ずっと愛しているのです。実質勝ったようなもの……でも仮に話して、羨ましい、だなんてちょっとでも思ってしまったら気分が台無しですから、これで良いのです」
曲がり角――そこには薄ぼんやりと、街と木々が混ざり合い。
くぐり抜けるとどこまでも、幻想を帯びた森のお屋敷。
何かと何かの狭間にある、永遠と言う名の夢うつつ。
「……この場所が、わたしの選んだ居場所ですから」
そこがエルヴェナの住む世界、過ごす日常。
ささやかな幸福に満たされた、永遠に覚めないまどろみの中。
はっきりとせず、不確かで、曖昧で、輪郭もなく、
「あなたも意地っ張りね」
けれどそんなまどろみで過ごす日常に、愛の証と名前を付けた。
「……ええ、意地っ張りみたいです」
千年経っても変わることなく、この先もずっと変わることなく。
線引きなどは、それで良い。
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