まどろみ 四
人には色んな顔があるものだと思う。
けれど後にも先にも、そんな姉の顔を見たのは一度きりだろう。
「わたし、カルアに恋してるの」
「……は?」
翌日姉と共に家に向かうと、彼女は一人、椅子に座って待っていた。
姉とエルヴェナが入室すると、エルヴェナが紅茶を淹れるのも待たず電光石火――開口一番の直球である。
「だから、一生わたしと一緒にいて欲しい」
ミアの顔はこれ以上ないほど真っ赤で、寝付けなかったのだろう、潤んだ目の下には隈。
姿勢正しく――けれど両手をぎゅっと握りしめて、何かを堪えるように全身に力を込めている。
いつもは軍で着るシャツとズボンを身につけていて、けれど今日は滅多に着ない砂色のワンピース姿。よく寝癖のついている髪も丁寧に整えられていた。
「え、えーと……」
姉は唖然とした様子――しかし次第に理解が追いついた様子で、頬が赤くなり。
それからエルヴェナに視線を向ける。
エルヴェナは黙って微笑むと頷いて、ポットに湯を注いでいく。
「はい、か、いいえで答えて」
「あ、あのさ……普通は考える時間とか――」
「それは、わたしじゃ嫌ってこと?」
「いや、そうじゃなくてさ……」
「はい、って答えてくれたら、時間はいくらでもあげる」
「……、えと、そこで時間をもらっても意味ないと思うんだけど……」
――まさに姉が口にしたとおりだろう。
彼女は時々すごくて、よく分からない力があった。
これと決めたら迷わないのだ。
ミアは顔を真っ赤にしながらも、一切姉から視線を外さない。
目を逸らしたら負け。
そう言わんばかりに真っ直ぐ睨み、対する姉は頬を染め、視線を左右に。
「……正直、時々カルアのことやらしい目で見てるし、ドキドキする」
堂々と彼女は宣言した。
姉は何とも言えない顔である。
「カルアの前から逃げてたのは、怒ってる訳じゃなくて、少し前にそういう好きって自覚しただけ。……そしたらもう、カルアと一緒にいるだけで平静じゃいられなくなったの」
「そ、そう……」
「でも、わたしは黒旗特務の副官で、カルアはわたしの部下。どう考えてもこの現状は速やかに改善しないといけないし、戦場なら命にだって関わるから、今のうちにはっきりさせておかないと駄目だと思う。だから選んで」
紅茶を二人の前に置くと、姉は何かを言いたげにエルヴェナを見た。
視線にはこちらを責めるようで、エルヴェナは何も言わず、肩を揺らして苦笑した。
そんな姉に構わずミアは指を立てる。
「選択肢の一つ目はカルアがわたしの恋人になって、わたしの悩みを根本から解決してくれること。この選択はわたしも希望してるし、関係改善としては現状、最高の選択だと思うの。速やかな関係改善が期待できるし、わたしのモチベーションも向上するし、メリットも大きい」
「う、うん……メリット……」
「二つ目はカルアがこっぴどくわたしを振ること。脈なんか一切なくて、この先も一生好きにならない、って宣言してくれるなら、わたしも諦められる。デメリットとしては失恋のショックでわたしがしばらく立ち直れないこと。この場合隊長にお願いして、わたしは休暇をもらって気持ちに整理をつける」
中途半端は駄目、とミアは続けた。
「保留という形は状況の悪化が懸念されるし、好きだけど受け入れられないって答えならわたしは絶対諦め切れないから、隊に迷惑を掛けることになる。だから選択肢は二つ。理解できた?」
「え、えーと、ミア副官、理解はできたんですが……全体的にカルア隊員への気遣いって抜けてない? 全く考慮されてない気がするんだけど」
「カルア隊員は冷静に公私を分けて考えられるから考慮に値しないの。対してミア副官は公私を分けられないから、重要なのはそっち」
「……、それズルすぎない?」
告白どころか、まるで作戦会議である。
聞いていたエルヴェナは我慢できずに吹き出してしまい、姉がこちらを睨み付けるのを見ると、余計におかしくなって下を向く。
「……ほんと、ミアってミアだよね」
「カルアは普段わたしに一杯迷惑掛けてるからおあいこ」
「一発の大きさがうさちゃんと一般人くらい違うと思うんだけど……」
はぁ、と嘆息して、頭を掻き。
姉は少しの間、目を閉じた。
それからしばらくして、ミア副官の意見に同意します、と姉は答える。
「そ、それって……その……」
「はいはい、そういうことでいいよ、もう。……今日から恋人、それで満足?」
「な、なんか違うの。もっとこう……」
ミアは立ち上がると、姉の隣に。
それから深呼吸を二つ繰り返して告げる。
「……あの、わたしの恋人になってください」
呆れたように姉はミアを見て、エルヴェナを見る。
微笑みながら頷くと、姉は目を背けながら、顔を赤くして答える。
「……はぁ。剣と名に誓ってお受けしますとも――っ」
答えた瞬間、彼女は姉に抱きついて、それから体を震わせ嗚咽を漏らした。
よっぽど不安で、怖かったのだろう。
ますます姉は呆れたように、照れたように頬を掻いて、そんな彼女の背中を撫で、頭を撫でた。
「ミアってほんと、どーしよーもないお馬鹿だよね」
「……ぅるさい」
「あたしが慰めて欲しいよ全く……」
姉はまるで子供にそうするように、彼女を撫でて。
そうでいながら満更でもないように、頬を染めたまま――逃げ場を捜すように視線をこちらに。
「……、裏切り者」
「すみません。……でも、ふふ、とってもお似合いです」
そのまま近づいて、姉の背中から二人を抱いた。
「今日の夜はご馳走ですね。美味しい夕食が作れたら許して下さいますか? ……昨日の今日となると、流石に多少手心は頂きたいですが」
「言い分を認めよう。あたしは肉一杯ね」
「……はい」
姉の彼女はお似合いで、その時は一層、そう思って。
そんな二人を見るのも、幸せなこと。
屋敷の食堂――中央には一枚板の大きなテーブル。
長方形の短辺、上座には一人、屋敷の主セレネが座り、彼女の左手にアーネとエルヴェナ。
そして彼女の右手から、クリシェ、ベリー、クレシェンタ。
ベリーを隣に座らせたいクリシェと、クリシェを隣に座らせたいクレシェンタで配置に揉めていたのも今は昔。現在はこの形で落ち着いていた。
クリシェが真ん中に座るという時期もあったが、そうなると今度はベリーの方にばかり話しかけ、自分の方を向かないことが気に食わなかったようで、時々二人の膝の上で食事をすることで女王陛下は妥協――もとい満足したらしい。
口ではともかく、セレネもベリーもお気に入り。
構って欲しくて仕方が無いようで、時々拗ねて怒った振りをして、食事をしないとわがままを言い、膝に乗せられなだめられながら食事をするのがお気に入り。
エルヴェナも体調が悪い振りをして、同じようなことをした記憶があって、見る度少し笑ってしまう。
「……あの子も変なところで真面目なのね」
夕食の話題は二人の話であった。
彼女はよく分からないところで真面目な人。
翌日、隊長であったダグラに報告し、隊員達の前で恋人関係であると報告したらしい。
しかしこれは私的なものであり、隊の副官としては公正に。贔屓を行うことは一切ない、などと彼らに宣言したそうで、当然ながらクリシェにもそのように――屋敷の皆が知る話となっていた。
「そうですね……ダグラ様はともかく、別に改めて宣言する必要もなかったように思うのですが」
呆れた様子のセレネに苦笑しながら、エルヴェナは答えた。
昨日彼女がそんな話を姉と相談していた様子もない。突如の『公開恋人宣言』に姉が唖然と、顔を真っ赤に染めている様子は見ずとも想像が出来て、くすりと笑う。
どちらにせよ、半ば公然の秘密となっていただろうに、あえて口にするのが彼女という人間。
「えへへ、でも仲良しなのは良いことです」
「おねえさま、言っておきますけれど真似してお馬鹿なことをなさらないように」
「……お馬鹿なこと?」
「アルガン様、おねえさまが真似をしたらあなたのせいですわよ」
「それは何やら理不尽なような……」
「そう思うなら良く教育しておくべきですわね」
クレシェンタはベリーを睨み付け、確かに、とセレネが同意を示す。
「知ってるかしら? 兵達の間じゃ王国を裏で支配しているのは使用人、だなんて笑い話になってるそうよ。所構わずイチャついてるからそうなるの」
「え、えぇと……気をつけているつもりなのですけれど……」
「気をつけるの基準が甘すぎるの」
「そーですわ、あなたは本当に悪評の温床ですわね」
「……言っておくけれどクレシェンタ、あなたもよ」
「わたくしが? それはどういう意味ですの――」
隣にいたアーネが静かに笑いを堪えているのを見て、エルヴェナも微笑む。
兵だけではなく王宮でも――クレシェンタは公務の場においてまさに女王と呼ぶべき姿を使い分けるが、彼女が側にいるときは文句を垂れつつ良く甘える。
毎日のように顔を合わせる使用人や貴族達となれば、雰囲気で分かるものなのだろう。
無論単なる笑い話であるのだが、それを言うならセレネも同じく。
一般的な観点で見るならば十分すぎるほど彼女も麻痺していて、周囲の目からは五十歩百歩。外とは異なるこの小さなお屋敷世界は誰もが興味を持つようで、クリシュタンドは噂話に事欠かない。
「一昨日カルア様がお泊まりになられたのも、それが理由だったのですね」
「ええ。ミアさんから相談を受けておりまして……アーネ様にもベリー様にも、ご迷惑をおかけしました」
「いえ……それを仰るなら、わたしは毎日ご迷惑を」
「そんなことは」
苦笑するとベリーと目が合い、頭を下げる。
「アーネ様の仰るとおり、迷惑だなんて。一昨日はカルア様がいらっしゃったおかげで随分賑やかでございましたし……」
「まぁ、そうね。二人にはいつもクリシェが世話になってるし……機会があれば二人で来るよう誘ってちょうだい。お礼もしたいしね」
「……はい、ありがとうございます」
姉と彼女がそうなったとて、大きく何かが変わる訳でもない。
普段通りお屋敷で過ごして、時折あちらに顔を出して、日常を。
屋敷の人達は優しくエルヴェナを迎えてくれて、姉と彼女も優しくエルヴェナを迎えてくれる。
これで良い、と思えることはきっと幸せなことなのだろう。
どこかに寂しい気持ちはあって、けれど冷静に眺められた。
――食事を終えて風呂に入り、部屋に戻って、それから各部の見回りを。
屋敷の廊下は常魔灯で照らされる。
普段これを灯すのはベリーの役目で、彼女は何事にも無駄がない。
常魔灯にはいつも必要最低限の魔力が注がれていて、皆が眠りに就く時間には一斉に魔力切れを起こし、その灯りが消えていく。
例えばある一つの常魔灯は、ほんの少しだけ質が悪い。
そういうものには他の常魔灯よりほんの少しだけ多くの魔力を加え、逆に品質の少し良い常魔灯には、ほんの少しだけ魔力を減らす。
先に灯す常魔灯から順々に、小刻みに魔力を減らして行き――時間が来ると一斉に消える屋敷の常魔灯には、最初の頃に随分と驚かされたものだ。
常魔灯は大抵、ある程度魔力を蓄える。
値段によって変わってくるが、一度一杯になるまで魔力を注いでおけば、点けっぱなしでも一週間。誰にでも使えるよう、別に取り付けられた点灯用の魔水晶に触れさせることでオンオフを切り替える仕組みがあって、普通はそれを用いて眠る前に一つ一つ常魔灯を消していくものだが、そうした手間さえ彼女には気になったのだろう。
常魔灯のスイッチに触れることなく、朝に直接魔力を注いで終わり。
送る魔力をコントロールすることで、彼女はあっさり自動化を行い――彼女はそういう効率化をとても好んだ。
技術で解決出来ることは、どれだけ高度なことでもやらないと気が済まないのだろう。
夜に灯りを消す手間を惜しむため、彼女は常人が考えもしないことを平気でやる。
非合理的な合理性の追求。
その行き過ぎに思える効率化を重ねた結果が、あの異様な仕事量なのだと最近では理解していた。
魔水晶の扱いにもそれなりに慣れてきたこともあって、やらせて欲しいとお願いし、屋敷の隅――物置前にある常魔灯で練習し初めて半年ほど。
流石に真昼に消えていたり、朝まで灯っていたりということはなくなってきたが、それでも微細な調整は難しい。
随分前に廊下の灯りは消えていて、残っているのはエルヴェナが灯したこの一角。
六つの魔水晶の内三つが消えて、残りの三つにも輝き方に濃淡が。
一つは光が消えかけていて、他の二つも恐らく、バラバラに消えてしまうことだろう。
ほんの少しの癖を読み取るのが随分と難しい。
単なるお遊びだと彼女は言って、実際その通り。大して重要なことでもない。
皆が眠った後に消えていれば十分で、神経を尖らせてやるほどのものではなかったが、寝付けないときはこうしてよく、消えてしまうまで灯りを眺めた。
ぼんやりと灯りを眺めていると、自然と昔のことを思い出すからだろう。
血筋のおかげか、素養もあったようだと後で知ったが、常魔灯のようなものに魔力を注ぐのは、村に住んでいた魔導技師の仕事。
裕福な家とはいえ、姉や自分も魔力には無知で、母も同じく。
常魔灯は各部屋に備えつけてられていたが、使い切ってしまうと魔導技師を呼ばねばならず、当然少しお金が掛かり、無駄遣いをすると叱られる。
けれど困ったことにエルヴェナは、暗い夜に姉に抱かれて、常魔灯を眺めるのが好きだった。
姉の部屋にあったのは本を読む程度の控えめなもので、ぼんやり眺めるのは丁度良く、まどろみの中で瞼を閉じたり開いたり。
姉が消していいかと尋ねる度、もう少し、と言葉を返した。
いつもいつも、告げる言葉はもう少し。その内に眠りへ落ちて、姉を随分困らせた。
思えば、迷惑ばかり掛けたと思う。
それでも姉は困ったような顔で、仕方ない、と許してくれて――もしかするとエルヴェナは、そんな姉の顔が見たかったのかも知れない。
困らせても笑って許してくれる、そんな優しい姉の顔を。
その瞬間はいつも、自分が特別な存在であるような気がしたから。
「温かいミルクはいかがでしょうか?」
「……え?」
廊下の角から赤毛を揺らして現れた彼女は、エルヴェナと同じく寝間着のネグリジェ。
その体を少し隠すように、肩からショールを羽織って、両手に持つのは湯気を立てたミルク。
礼を言って両手で受け取ると、木彫りのコップはほんのりと温かい。
彼女は常魔灯を眺めて静かに微笑む。
「少しばかり惜しかったですね。こっちの魔水晶は一見純度が低く見えるのですが、純度の高い所だけに刻印のラインを通してますから、見た目より高品質なのです」
「……なるほど」
「消えかかっているのはわたしのもので……ふふ、単純に腕の差ですね。そっちの二つはクリシェ様が刻んだものですから。わたしもまだまだでしょうか」
楽しげに笑って肩を揺らし、ミルクに口付け、エルヴェナも同じく。
優しい味わいに舌を湿らせ、揃ってミルクを窓枠に置いた。
ほんの少し間が空いて、少しして、彼女は告げる。
「……寂しいですか?」
「……、かも知れません。少しだけ」
正直に答えると、彼女は微笑んだ。
彼女がわざわざ部屋を抜け出して、ここに来た意図も分かっていた。
二人のことを嬉しいと思う気持ちもあれば、幸せなことだと祝福する気持ちもある。
感情は穏やかで、受け入れられて、疑問にも思わない。
自分は姉もミアも愛していたし、二人が幸せなら自分も幸せ。
けれど、寂しいとも感じているのだろう。
関係が変わる訳でも、別に離ればなれになる訳でもないのに、不思議と。
「姉妹って不思議なものですね。……他人と比べればずっと近くて深い間柄なのに、でも、何だかとても遠いような」
何かを懐かしむように彼女は言った。
エルヴェナは頷いて、尋ねた。
「ベリー様のお姉様は……どのような方だったのですか?」
「ん……、そうですね、雰囲気はカルア様と結構似ています」
くすりと笑って彼女は告げる。
「いつも明るくて、思いやり深くて、細かいことを気になさらない――ああ、こう言うと少し失礼ですね」
「……いえ」
エルヴェナは笑って、首を振る。
大雑把な性格、というのは事実であったし、彼女もまたそんな部分を良い意味で好きだったのだろう。
物事に対する明瞭さは望んで得られるものではなかったし、そしてそんな部分で彼女とエルヴェナは少し似ているのだと思う。
「……いつもわたしのことを気に掛けて下さる方でした。わたしが幸せになれるように、と。……ですから、ご当主様と結ばれた時はわたしも少し寂しかったです。自分だけのねえさまがいなくなってしまうようで」
エルヴェナは目を細めて、意地の悪い笑みを浮かべた。
「だからわたしを慰めに来て下さったのでしょうか?」
「え、あぁ……その、慰めるというほど、偉そうなことでも……」
慌てたように両手を前に、大きな瞳を左右に揺らす。
大人びた――というより実際に大人の女性であるはずなのに、時折初心な中身が顔を覗かせて、その隙だらけなちぐはぐが何とも可愛らしい。
「……ぃ、ぃえ、実際偉そうとも言えるのかも……」
「ふふ、冗談です。お気になさらず……失礼だとは思いつつ、意地の悪いことを言うとベリー様は本当に可愛らしい反応をなさるので、悪戯心がどうしても」
「い、悪戯心……」
くすくすと笑いを零すと、何やら真剣に思い詰めていた様子の彼女はますます顔を赤らめた。
恥ずかしそうに、少し責めるようにエルヴェナを睨んで、それからほっとしたように息をつく。
「……少しだけ雰囲気が違ったように思えたので、それが気に掛かって」
「雰囲気、ですか?」
「……はい、それでいらぬお節介を、その……」
申し訳なさそうに告げる彼女をじっと見つめ、目を伏せる。
「結構、隠し事は上手なつもりでいたのですが……もしくは、下手になってしまったのか」
それから小さく笑みを零して、
「どうあれ……敵いませんね」
「ぁ……」
そのまま身を寄せ、抱きついた。
「……仰るとおり、慰めて欲しい気分なのかも知れません」
彼女はほんの少し驚いた様子を見せて、それからゆっくりと頭を撫でてくる。
心地よくて、安堵があった。
何に対する安堵なのかも分からない。
「……多分わたしは、ねえさんを愛しているのだと思います。姉妹としてなのか、それ以上のものなのか。……自分でも、あんまり良く分からないのですが」
彼女は頭を撫でたまま、しばらく考え込むように何も言わず。
それから少しして、苦笑するように。
「……わたしも未だに、ねえさまへの愛が姉妹のそれだったかと言われると悩ましいものがありますね。……境界線がどこかにあるかと問われると、とても難しいです」
彼女はそう語って、見ずとも困ったように微笑む顔が浮かんで見えた。
「例えば……ふふ、ねえさまに愛を囁かれたなら頷いていたでしょう。わたしはねえさまのことを、それくらい愛していましたから」
秘密を語るように、大切な何かを打ち明けるように。
そんな声音に目を細める。
「クリシェ様に対するものも、庇護欲なのか、独占欲なのか、支配欲なのか……あるいは性愛なのか、情愛なのか、単なる依存心であるのか。……きっとどれもが正解で、どれもが間違いであるとも思います」
「……間違い」
「ええ、どれか一つを選ぶのなら」
彼女は苦笑した。
「混ざり合ったその感情を、わたしは単に愛と名付けているだけ。……区分けしたところでどれかが消えてなくなる訳ではありませんから、細かく定義することに意味があるとも思えません」
そういうものでしょうか、と尋ねると、そういうものだと思います、と彼女は答える。
いつぞやお嬢様にも説教されました、と。
「必要なのはきっと、自分の中の納得だけ。……多分愛なんていうものは思い詰めるほど複雑で難しいものではなくて、すごく単純なものなのだと思いますよ」
頭を撫でられる感触に目を閉じて、心地よい言葉に耳を傾けた。
誰かに肯定されることほど、幸福なことはないのだろう。
「……そう、なのかも知れませんね」
他人として屋敷に招かれたエルヴェナは、いつの間にか家族のように受け入れられて、信頼されて、心配されて、慰められて。
自分が何を不安に思っていたのか。
うっすらと理解が出来て、薄目を開いた。
夜の深い闇に、灯りが三つ――眼前には薄暗い廊下。
抱かれる体にぬくもりがあって、優しい指先が髪をくすぐる。
姉のベッドに潜り込んで、常魔灯を眺めていた頃が目に浮かぶ。
自分はいつか、それが失われてしまう気がしていたのだろう。
経験を重ねて、色んな感情は遠く離れて。
けれど今も、子供のままのエルヴェナはここにいた。
「ねえさんを、愛しています」
はい、と彼女は頷いて、ほんの少しだけ力を込めた。
エルヴェナは力を抜いて、身を任せるように瞼を閉じる。
「だから……ミアさんに取られたような気がして、悔しくて、寂しいです」
言葉にしてみるとすんなりと、それはそうだと受け入れられた。
幸せを願って、祝福したくて、嬉しい気持ちは確かにあって、けれどそんなことも思ってしまう。
いくら輪郭を確かめたところで、仕分けたところで、それが消えて無くなる訳でもない。
「……もう少しだけ、こうしていても良いでしょうか?」
境界線もない無秩序を、無作為に掻き回すようにすくい上げ――あやふやで不確かなまどろみに、愛という名を付けてみる。
多分ではなく、恐らくでもなく。
そういうものだと決めつけて、区別もつけず単純に、大雑把に箱の中へ。
満点ではないように思えて、けれど不思議としっくりと来て、
「……はい、もちろんです」
少なくとも、箱の中には収まった。
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