まどろみ 三

『ねえさんの髪、とっても綺麗です』

『んー、そう? わたしは正直、長くて邪魔だから切りたいんだけれど……』

『……だめです』


――子供の頃はいつも、姉の側。

ちょっとした用事で外に出る時も、家で勉強している時も。

三人いた姉の中で一番好きだった理由は単純。

間にいた次女と三女は、状況を考えずにいつでも纏わり付いてくる、そんなエルヴェナを時折邪険にしたためだろう。

随分可愛がってもらった記憶はあったし、決して悪い人達ではなく――それは単にエルヴェナの問題。


ただ、それが余計に色々なことを悪くしたのかも知れない。

元々次女と三女は、綺麗だった母に似ている姉に嫉妬を覚えていて、可愛がってくれていたエルヴェナも、そんな姉にべったりで。

二人は年々、姉を敵視するようになった。


父は王都南の豊かな村、ベリュースを代々纏める村長の家に生まれ、母はベリュースと付き合いも深かった商人の娘。血筋を辿れば貴族の血を引いていたらしい。

それもあってか美しい人で、老いも遅く。

そんな母に似たのが、姉とエルヴェナ。

次女と三女は茶色の髪で父に似ていて、それでも美人と呼べる人ではあったが、大抵家に訪れる客人は姉の美しさに見惚れて頬を緩めた。

姉はその上、頭も良く、立ち居振る舞いも絵に描いたような令嬢のそれ。

そんな姉にずっと比較されて育った二人――姉を嫌うのも無理はなかったと思う。


姉は器用に顔を変えて、普段は快活。

細かいことを気にしない大雑把な性格なのに、客人が来るときには令嬢の顔に。

薄く口元に笑みを浮かべてお淑やか、些細なことにも気を配り、姿一つでどんな人間にもころころと変わる姉を指して、次女と三女は悪し様に。

エルヴェナはただ、すごいすごいと憧れた。


あの当時はきっと憧れ。

理想の存在として、自分がなりたい未来の姿として、そんな姉を眺めていた。

大げさに言うならばそれは、神に抱く崇敬だろうか。

姉という人間を見ていたのではなくて、姉がそんな存在であると思っていた。

だから姉が家を出て行くと聞いて、冷たくされたときには、それが世界の終わりのように感じてしまったのだ。


エルヴェナは、ただただ姉に執着していた。







特にクリシェとベリーの関係は有名であったし、竜の一件以降、二人が単なる主人と使用人以上の関係であるというのは兵士達の共通認識。

貴族達の多くもそのように見ていたし、民衆の間でも知られる話であった。

そして婿を取らない元帥と女王。

ちょっとした雑談の中で、クリシュタンド家は男子禁制の花園だと、そういう話題はよくあるもの。

無論女王やその重臣、クリシュタンド家の話題で盛り上がるなど、不敬と取られて罰せられることもあるため、表だって話されるようなことではないものの、とはいえ雑談とはそのようなものだろう。


アーネが王領使用人であった頃は、同僚の多くが誰かの色恋話で盛り上がっていたのだと聞いたことはあったし、実際仕事で彼女らに接したときはそういう探りを入れられた記憶も何度かあった。

ロランドや別の所にいた頃も、人目のない所では奴隷同士もあれこれと、愚痴やそのような話をしているのを聞いたことはある。


口にしてはいけない秘密の話。

そう思うからこそ楽しいのか。

それとも色恋話そのものが人の関心を引くものか。

黒旗特務でもまた例に漏れず、クリシュタンド家や行きつけの酒場にいる女性、隊員の誰がどこぞの女性とくっついた、などという話は何度も耳にした。


あるいは、娯楽というものはそういうものであるのかも知れない。

誰もが理解できる共通の話題――色恋事に一切興味がない、という人間は稀であったし、そうした話題には誰もが参加できる。

そうした話題を共有していくことで、連帯感と共感も強まっていくのか。


とはいえ表向き、そうした話題は慎むことが望まれる。

森を使った野営の訓練――丁度通りがかったミアもそういう話を聞いて注意しようと思ったようだが、話題はすぐに彼女と姉のことに。

姉に懸想をしているという比較的新入りの隊員がいたようで、その隊員を止めるように誰かが口にした言葉が、要約すれば『カルアとミアは恋人である』という内容であったらしい。


二人の仲の良さは周知のもので、これまでもそういう話はなかった訳でもない。

姉といる時に冗談交じりに面と向かってからかわれることも良くあったそうだが、大抵姉がミアと相手を馬鹿にして、笑って終わるのが常。

一種の冗談だとミアも思っていたそうで――けれどその時は真面目に言っている様子であったそうで、ミアも普段の自分を振り返ってみると思い当たり。

それが切っ掛けとなって彼女はそれから、姉を妙に意識してしまうようになってしまったそうだ。


「そ……それで、何だかこう、顔を合わせるのが恥ずかしいというか……うぅ、その、本当に好きなのかもって……」

「……なるほど」


後日時間を作って貰い、家で話を聞くと、大体はそのようなことであったらしい。

姉と彼女の話も何度か聞いたもの――実際の二人が親友と呼ぶべき関係だと考えていたため、よくある話と特に気にもしていなかった。

とはいえ、己の気持ち一つ理解出来ないエルヴェナが、他人の好意がどのようなものであるかと理解した気でいたのがおかしな話。

小さなテーブルを挟んで、彼女はどこまでも辿々しく。


「……もちろん、好きだから一緒に暮らしてたんだけど……親友っていうのはこういうもの、って何となく思ってて、でも……」

「そういう好きかは分からなかった、ですか?」

「……、うん」


誰にでも存在するものなのだろう。

エルヴェナの感じるような、まどろみは。


線引きは理性と意思でなされるものだろうか。

それとも、もっと奥深くでなされるものなのだろうか。

どうあれ彼女は目が覚めて、己の内側と向き合っていた。


「……区別はどこで付ければ良いのでしょうね」

「……?」

「例えば……口付けてみたくなるのが、体を重ねてみたくなるのが、そういう好き、なのでしょうか」


告げると彼女はますます頬を紅潮させて、エルヴェナはそれを眺めた。

愛らしい顔。綺麗な瞳。純粋で、一生懸命で、努力家で。

例えば、彼女のことも愛しいと思う。

今ここで口付けてみたらどんな顔をして、迫ってみたならどんな顔をするのだろうと考える。


綺麗で、愛しいと思えばいつもそう。

姉も彼女も、クリシェやベリーも――その他にも。

ではその区分けをどこで行うべきかと問われて、明確な指標は己になく、理解できるのは一般論。


「ふふ、ミアさんはクリシェ様のこと、お好きですか?」

「え、と……うん」

「ねえさんに対する好きとは、違うものだと感じますか?」


彼女は少し考え込んで、結構違う、と頷いた。


「わたしに対するものとも?」

「……うん」

「ではきっと、そういうことですよ」


愛は特別なものだと感じて、些細な切っ掛けで、特別なものだと意識できて。

そうであればきっと、迷う余地などないのだろう。

羨望だけが、ただただ滲む。


「……素敵なこと。ふふ、でも家を出るだなんて早計ですね」

「そ、早計……」

「例えば家を出たとして、確かに過ごす時間は減るのかも……でも、仕事では毎日のように顔を合わせることでしょう。その度に、そんなその場しのぎをされるおつもりで?」

「それは……そ、その……」


エルヴェナは肩を揺らして微笑んだ。


「そもそも、どうして恥ずかしいのでしょう? ねえさんに恋をしてしまったことが? それとも、そんな真剣な気持ちを馬鹿にされると思っているから? ……良くお考えになってください」

「…………」

「ミアさんはねえさんが、そんな方じゃないと知っておられるから、そのような気持ちを抱いたのではないのでしょうか」


頬に手を触れると、ほんの少し目を見開いて。

それから静かに頷いた。


「ねえさんはとても立派で、素敵な方です。優しくて、明るくて、強くて……そんなねえさんに恋心を抱いてしまったとして、それがどうして恥ずかしいことになるのでしょう? 姉が恋するに値しないと仰るならば、それはわたしへの侮辱です」

「エルヴェナへの……?」

「……はい。わたしはねえさんを、ミアさんがそんな気持ちを抱いてなお、決して後悔させない方だと自信を持っておりますから」


笑って告げると、ミアは頬を染めてまた頷き。

でも、と目を泳がせて嘆息した。


「カルアがエルヴェナの言うとおりで、ほんとはすっごく優しいのも分かってる。……でも、わたしはそんなカルアと違って普通だもん。機織りも出来ない不器用な田舎娘で……やれば出来るカルアと違って華やかさなんて欠片もないし、釣り合わないし……」

「……ふふ、人間というものは自分の悪いところばかり見えてしまうようですから」


くすくすと笑って、『お屋敷』の人達を思い出す。


「お屋敷の方達もみんなそう……誇って良いものは皆様沢山持っていらっしゃるのに、ご自分ではまだまだ未熟と……まるでご自分が、何も持っていないかのように仰います。ミアさんも、ねえさんも同じく……きっと、自分が持っていないものにしか価値を見い出せないのでしょう」


わたしからすればミアさんが羨ましく見えます、と。

そう告げると、彼女は少し驚いたように――それから僅かな疑念を瞳に宿す。


「わたしは自分の容姿が優れていることを知っておりますし、それなりに頭が回るとも。何事にもそこそこ器用で……わたしにとっては普通でも、客観的に見れば、人より秀でた方だと」

「……実際そうだと思うけど」

「でも、わたしはあまり、自分が好きではないです。……そんな自分の悪いところや、足りないところばかりが目に映って」


普通とは何でしょう、とエルヴェナは続けた。


「ミアさんだって黒旗特務中隊の副官――あのクリシェ様に精鋭部隊の副官を任されて、戦場で兵士達から命さえ預けられ、信頼される指揮官です。ミアさんがご自分の魅力に気付いておられないだけで、ミアさんに想いを募らせる殿方もいらっしゃいますよ」

「そんなことは……」

「ふふ、いつぞやの帰郷の時も、そのようなことがあったとか。……ミアさんが見ているミアさんと、わたしや他の方が、ねえさんが見ているミアさんは違います」


立ち上がるとそのまま、彼女の背後へ。

優しく抱きしめると微笑んだ。


「ミアさんの持っておられる普通の物差しは、他人にとっては特別で……少なくともわたしは、ミアさんがねえさんに釣り合わないだなんて全く思いません。……だって、ねえさんがあんなに毎日楽しそうなのは、ミアさんがいつも隣にいらっしゃるからですから」


姉は元々明るく笑っている人。

けれど村にいた頃よりもずっと、今の方が楽しそうに見えた。

間に負わなくていい苦労があったからだとか、他の仲間達だとか、忠誠を誓った主のことだとか――もちろん色々あるだろう。

けれどやっぱり、大きいのは彼女の存在なのだと思う。


決断力があり、面倒見が良く、快活な器量よし。

優れている人間は、憧れを向けられるか、あるいは嫉妬と憎悪の対象になるか。

村にいた頃からそうしたものは少なからずあって、姉が心を許せるような友人はいなかったように思う。

懐いていた妹もエルヴェナくらいのもので、他の姉妹は姉を疎ましく思っていたようであったし、同年代や少し上の女性はなおさら。


光は陰を作るもの――優れた人を前にすると浮き彫りにされる劣等感。

きっと多かれ少なかれ、誰もが持っている感情だろう。


そんな姉にとって対等な、彼女のような存在はきっと特別なものであった。


「……少なくとも、わたしはお似合いだと。信用できませんか?」


ミアは少し間を空けて、自信ない、と答えを返す。


「エルヴェナがそう言ってくれるのを疑う訳じゃないけど……その、た、例えばカルアに伝えて、迷惑に思われたらどうしよう、とか、距離を置かれたらどうしよう、とか……カルアがそういう風にわたしを好き、って、考えたこともないし」


――ちょっとしたこと、であるのかも知れない。

ミアであっても、エルヴェナであっても。

クリシェであっても、ベリーであっても。

人が悩むことにはどこか通ずるものがあって、その境界線は不安定。


「……、でも、そうやって悩んでいる間にも時間は流れてしまうものです」

「……え?」

「ねえさんは魅力的な方ですから。ミアさんが聞いた話の通り、ねえさんへの想いを秘めている方も結構いらっしゃるでしょう。……、ミアさんが決心した時、誰かが想いを打ち明けていて、既にねえさんの隣には誰かがいらっしゃるのかも」


背中から抱いたまま、顔を見ないまま。

こちらの顔も、彼女からは見えないまま。


「明日であろうと、明後日であろうと、三年後であろうと……結局、勇気を出して想いを伝えるミアさんは、別人でも誰でもなくて、そうやって悩む今のミアさん」


惰性であっても時間は流れて、悩んでいても時間は流れて。

誰も、過去には戻れない。


「既に十分なくらいミアさんはねえさんのことを知っていて、ねえさんも十分なくらいミアさんのことを知っていて。……答えをもらうには十分な時間をお過ごしだと」


エルヴェナが悩んだのは、決して無意味ではなかったのだと思う。

自分が悩んだからこそ、こうして悩む彼女の背中を押すことが出来るのだ。


彼女は静かに頷いた。

その感触やぬくもりを味わいながら、ゆっくりと離れる。


「とはいえ今日の今日、というのは少し、気持ちの整理もあるでしょうし……今日はひとまず、ねえさんをお屋敷に。……実はもう、セレネ様達に許可は頂いているのです」

「……ありがと」


言ってミアは顔を上げて振り返り、エルヴェナを見つめた。

それから恥ずかしそうにため息を。


「はぁ……わたしの方がおねえさんなのに、何だかエルヴェナの方がしっかりしてて……情けないというか、何というか……わたしが妹みたいというか」


頬の熱を冷まそうとするかのように、両手で挟み。

エルヴェナは笑って首を振る。


「ふふ、わたしはミアさんのことも、もう一人の姉のようにお慕いしてますよ。……まぁでもこれからは名実共にミアねえさんとお呼びするのが正しいのかも知れませんね」

「う……」


恥ずかしそうに彼女はエルヴェナを睨み付け。

エルヴェナは彼女の顔を眺めて笑い、自分の茶器を台所へ。

少しして片付けを終えると、そのままエルヴェナは家を出た。







『どうしたんだい、お嬢ちゃん』

『ぁ……あの、ねえさんを捜してて……クーリアさんという商人さんの所に向かったはずなのですが……』

『おぉ、クーリアさんところか。知ってるぞ、案内してやろうか?』


何とも分かりやすい獲物だっただろう。

初めて訪れた街は村などとは比べものにならないほど広く、歩き回っているとすぐに日は傾いて。

衛兵にでも声を掛ければ、それでも姉の所に連れて行ってもらえたのかも知れない。

ただ、衛兵に不審者と思われると大変なことになるような気がして、避ける内に雰囲気の良くない通りに出てしまったらしい。


声を掛けた男は親切そうな笑顔を浮かべて、あれこれと尋ねた。

エルヴェナが事情を説明すると、貴族の生まれでないことを確認して安堵したのか、それは大変だと微笑み、もう安心だと繰り返す。

姉に会えず、日が落ちてきて、怖くなっていたエルヴェナはすがるように男の言葉を信じ込んで、案内されるまま――売り渡される直前まではそのままだった。


良くある話の中でも、随分馬鹿な娘だったと思う。

同じように売り物になってしまった人は大抵、親の借金であったりだとか、村や馬車が襲撃されただとか、自分ではどうしようもないことに巻き込まれて、そういう境遇に身を落とす。

自分も不幸と言えば不幸であったが、エルヴェナよりもずっと不幸な人がいて、その中でさえ自分の運命を受け入れるように毅然とする人もいて――どんな状況にあろうと美しい人は美しく、曇りのない宝石のよう。

そんな人達を見ていると、泣き続けている自分の間抜けさが際だって、半年ほど泣き続けたエルヴェナは、次第に現状を受け入れた。

何一つ非もなく、理不尽にこんなところに連れてこられて、それでも涙を見せずに耐える者があるのに、どうして自分が泣いているのだろう、と。

考え無しに飛び出したのも、捕まったのも、自分が招いたこと。

エルヴェナよりもずっと不幸な境遇で、それでもじっと我慢している者もいるのに。


みっともなく泣かないように、嘆かないように。

そういう風に意識していくと、客観的な視点で色んなものが見えてくるようになった。

例えば罰を受けないようにすることは、特に難しいことではない。

この客はどういうタイプで、どういうことを好むのか。

視線や態度、言葉から、相手の望む人間になれば良い。


怒りも悲しみも、そういう感情は不要なものだった。

怒ってみた所で折檻を受けるだけであったし、嘆いたところで出られる訳でもない。

エルヴェナは商品であって、人間ではないのだから、多くの感情は不要なものだった。

従順な態度で過ごしていれば食事はきちんと与えられて、休ませてもらえる。

自分の感情も遠くに置けば、段々と気にならなくなっていく。


人形遊びのようなもの。

『エルヴェナ』は嫌がっている。

『エルヴェナ』は怖がっている。

『エルヴェナ』は悲しんでいる。

そんな感情を俯瞰して、上手に『エルヴェナ』を動かして――なるべく負担がないように。

感情と切り離されていくほど気持ちは楽になっていく。

けれど時折、それを眺めている自分が誰なのか分からなくなって、勝手に動いている『エルヴェナ』をぼんやりと眺めていることもあった。

そういう時には何とも言えない不安が湧いてくる。

何が不安なのかも分からずに。


愛していると囁かれれば、同じ言葉を囁いた。

そういう相手は大抵良い客で、『エルヴェナ』を優しく扱ってくれていたし、乱暴な客を相手にするよりずっと良かった。

彼らが語った言葉が本当に愛情であったのか、それとも単なる欲望であったのか、あるいは両方か――『エルヴェナ』なら分かったのかも知れないが、遠くから見ているエルヴェナには、その違いがよく分からなかった。


添い寝だけで終わらせようとする客を誘い。

こういう風に抱きたくないと告げる客には愛を囁き身を寄せて。

愛と呼ぶべきものがわからなかったから、情を誘って。

欲するものを与える術は身につけていたから、自ら望んで。


愛情と欲望は、元々近しいところにあったのだろう。

本当は、明確な境界線があったのかも知れない。

けれどその輪郭を何度も確かめている内に、潰れて混ざり合ってしまって、永遠に見失ってしまったような気がしていた。


『クリシェはエルヴェナが今やってるみたいに、誰かを喜ばせるようなお仕事が一番立派だと思います。クリシェはとても嬉しいですし』


ある日客として訪れた少女は、当然のようにそんなことを告げる。

狂った忌み子と聞いていて、けれど想像とは真逆。

少し接しただけで分かるくらい、無垢に過ぎる少女であった。

それは無邪気な言葉への苛立ちであったのかも知れないし、何かを確かめてみたかったのかも知れない。

それとも単に、自分の好みであったのか。


彼女は嫌がる様子も、抵抗する様子もなく、ただ、不思議そうに見つめるだけ。

口付けされても同じように、きょとんと首を傾げて。


『からかってちゅーするのは駄目ですよ。ちゅーはですね、とっても好きな人としないといけないんですから』


あげくの言葉に、それはそうだと笑ってしまって、おかしくて堪らなかった。

まさしくそれは正論だろう。

そんな正論を平然と振りかざして、エルヴェナのような人間に説教するところが本当におかしくて――本当に、久しぶりに笑った気がした。


姉は後に鍋の横で踊る鶏のようだと、彼女の警戒心のなさを語った。

だから放っておけないのだと。

本当にその通り、ちょっとしたマッサージだと口にしながら続けてみれば、そのままされるがままであったかも知れない。

けれど多分、そうだったとしても、終わった後には同じ言葉を口にしそうな気がした。


彼女の中にある愛は、きっと明確なものなのだろう。


――目を閉じても触れてみれば、はっきりそれだと分かるくらいに。


「いやー、やっぱりここはいいとこだね。料理は抜群だし、お風呂はすごいしベッドもふかふか、世界一贅沢してる気分……」


食事と風呂を終えて、エルヴェナの部屋――ベッドの上。


前日に姉を泊まらせても良いかと尋ねると、許可は即答であった。

流石に王領――しかも女王の住む屋敷となれば、普段の彼女らを知っていても少し緊張していたのだが、その必要もなかったくらいに事情さえ尋ねられなかった。

王国で最も高貴な屋敷であるはずだが、形式や作法の類は本当にどうでもいいようで、その辺りに一番厳しいセレネでさえ、カルアとミアならそんなに気を遣わなくていいわよ、と当然のように。


認識が根底から少し異なっているのだろうと気付いた。

エルヴェナは彼女達を主人であると見ていたが、彼女達はずっと前から、エルヴェナを家族の一人として見ていて、そのように扱ってくれていたのだ。

アルガン様のようになっては困りますけれど、と前置いて、たまには気にせずわがままくらい言ってもいいですわよ、とクレシェンタ。

じゃあ明日はカルアの好きな料理にしましょうとクリシェは言って、楽しげに――お屋敷のお仕事はお任せ下さいと力強くアーネが言い、ベリーは静かに微笑んで。


知らない内に、いつの間にか。

まどろんでいたエルヴェナは、多くのものを手に入れていたことに気がついて。

それもきっと、理由の一つ。


「ふふ、毎日贅沢をさせて頂いてます。……少しばかりねえさん達には申し訳ないですね」

「……本当に。全く、あたしも人のことを言えないけどミアの料理なんか酷いんだから……すぐ焦がすし。エルヴェナがいない日の夕食を見せてあげたいくらい」

「ミアさんは少し不器用ですしね」

「少しじゃない」


くすくすと笑って身を寄せると、姉は優しく抱きしめた。

エルヴェナの髪を優しく撫でて、その上から口付ける。


「ミアはなんて?」

「……、ちょっとしたすれ違いでしょうか。明日お話しすれば解決しますよ」

「そう」


言いながら少し離れて、姉の顔を眺めた。

その頬に左手を伸ばして、撫でて。


「改めて分かったことは、ミアさんが可愛らしい方だということくらいでしょうか」

「……それは違いないね。うさちゃんと一緒で、お馬鹿で可愛い」


見てると安心するかな、と姉は続けて目を細めた。


「気持ちに真っ直ぐで、良い子だ。……思うに、お馬鹿なくらいの頑固さが重要なんだろうね。正しいかどうかよりも、これと決めたら我が道を行く、的な」

「ねえさんも、結構近い人だと思いますけれど」

「あたしは結構打算的だからね。駄目かな、って思ったら諦める方。……実際、諦めてた」


左肩――エルヴェナに刻まれた歪な星形。奴隷商の刻印。

それに手を伸ばして、優しく触れる。


「うさちゃんなら永遠に捜し続けるだろうし、ミアなら……そだね、途中で五回くらい死んでそうだけど、でも、死ぬまで絶対諦めないんじゃないかな。出来るかどうか、とか考えないし、可能性なんか考えない。やると決めたらやり通すの」


お馬鹿でしょ、と姉は言い、お馬鹿ですね、とエルヴェナも肩を揺らした。


「うさちゃんの大好きな巡り合わせ、ってやつなんだろーね。全部どうでも良くなって軍に入って、お馬鹿なミアの面倒を見て……お馬鹿なうさちゃんの面倒を見てたら、不思議とエルヴェナにも再会できて、救ってもらえて。……きっとああいう子達って、よく分かんない力があると思うよ」


あたしにはない、と苦笑して、古傷にでも触れるように、痛みのない肩を撫でる。


「奇跡だとか神様だとか、そういうのあたしは信じてないけど……でも、信じる信じないとか以前に自分の望みを疑わないでいられる人間はいて、多分そういう人間は自分のついでに誰かの願いもちょー簡単に叶えちゃうんだ」


長い睫毛が狭められ、夢を見ているかのように輝いた。

鏡で見たならば、エルヴェナも同じ目をしているのかも知れない。


「いつぞや田舎で達者で暮らせ、なんて言ったときもそう。幼なじみは優しそうな良い男だったし、村もすっごく良いところ。あたしは本気だったのに、でもどうしようもない運動音痴のへなちょこ剣士様には勝てなくて。……時々すごいの」


同じ気持ちを抱いているような気がした。


「あたしはそこまでお馬鹿になれないし、なりたいとも思わないけどね」


今このときは、お互いに同じ輪郭をなぞっているのだろうと、確信できて。


「……そういうところは姉妹でしょうか」


笑って告げると、姉も笑う。


「ふふ、エルヴェナがミアのことお馬鹿って言ってたって告げ口しようかな」

「……酷いですよ、ねえさん」


撫でていた頬を指でつまんで、それから胸に顔を。

その感触に目を細めて、頬を当て。


「……なりたくないというよりは、側で眺めて、支えている方がずっと幸せだと思うだけです。本人は気付いていなくとも、そういう生き方は大変ですから」


分かっていらっしゃる癖に、と唇を尖らせる振りして口付けを。

くすぐったいと姉は笑って、わしわしと頭を撫でる。


寝よっか、と姉は言って、はい、と答えた。

姉はそのままのエルヴェナの髪に口付けた。


しばらくすると姉の吐息は穏やかに、少しずつ寝息に変わる。

そのままじっとその感触を味わって、顔を上げると寝顔を眺める。

切れ長の目は閉じられて、すっと通った鼻筋と、どこか色気のある唇。

さらさらとした黒い髪が流れるようで、見慣れてもなお美しいものは美しい。


「――――」


声もなく囁いて、その唇に唇を。

意味も価値も求めずに、触れる程度に。


聞こえない言葉、気付かれない口付け。

それで良くて、それ以上も求めない。


何一つ変わらぬままで。

それでもエルヴェナは、幸せの中にいた。

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