まどろみ 二

『申し上げたとおり積み木ですから、頭の中で一つ一つ、作業を俯瞰的に積み上げていけば良いのです。お嬢様やクリシェ様、クレシェンタ様が今日なさる仕事についても見当をつけておけば、お帰りの時間もお世話する時間も積み木の一つですよ』


ただ一日の仕事をこなすのではなく、その一日全てを手のひらの中に。

使用人というのは単なる雑用係。その程度に考えていたエルヴェナは、彼女を見てから考え方を改めた。

無論彼女が特別であることは確かであろう。

切れ者であるとか、賢いという言葉では不足であった。

ベリーは何でも出来るのです、というクリシェの言葉は真実その通りで、クリシュタンド家の帳簿管理から個人個人のスケジュールを完全に頭に入れ、広い屋敷の家事を片手間にこなしてゆとりがある。

あの姫君の使用人に対する異様に高い評価は、単なる『雑用係』ではなく、彼女という使用人を見てきたからに違いない。


本当に何でも出来る人なのだろう、と素直に思う。

何よりも、仕事に対する考え方そのものがエルヴェナとは異なった。

仕事を単に『こなすべき作業』などとは考えていないのだ。

彼女は使用人である前にベリー=アルガンであって、ベリー=アルガンとして使用人をしていた。

与えられたからではなく、己の意思で。


エルヴェナと根本的な部分で異なるのはそこであった。

彼女は自分からクリシュタンド家の使用人として、自らを置いたのだ。

自分があるべき場所がそこであるのだと。


――使用人などというものは単なる過程なのだと思っていた。

大抵は嫁入り前の娘がなるもので、作法を学ぶ修行の場で、出会いの場。

生涯を使用人としてある女性は単に、そういうことに縁がなかっただけの話で、大抵どこかの家に嫁ぐことが目的だろう。

ここに来る前のエルヴェナとて、大きくは外れない。

客に気に入られるか、若さを失えばいずれ放り出されたであろうし、運が良ければ自由を得て、別の仕事をしていたのだと思う。


そのうち、いつかは――そう考えて日々を過ごす惰性の時間が使用人。

エルヴェナには心地よく、けれどそれはエルヴェナが単に、そういうだらしない人間であったから。

意思の一つで仕事の在り方さえも変わるのだと気が付いて、今の環境に心地よさ以上のものを感じ始めたのもその辺りからだろう。


セレネは真面目であるが大雑把。読み終わった本を机の上に重ねて片付けるが、元あった書庫には中々返さず、放置していると読み終わった本が無限に積み重なる。

クリシェは几帳面な綺麗好き。彼女の中にある『ベリー基準』なるものを満たさないと気が済まないようで、手を出すのが遅れると一人であれこれ片付けてしまう。

クレシェンタは意外と一番の面倒くさがり。むしろ適度にだらしない雰囲気がくつろげお気に入りであるらしく、几帳面さはベリーに文句を口にするときだけである。


お茶の好みもそれぞれで、クリシェとクレシェンタにも微妙な違い。

二人とも甘ったるいくらいに蜂蜜を入れ、ミルクをたっぷりと注いだものを好むが、ベリーに好みを寄せたいらしいクリシェは彼女に合わせてストレートもよく口にする。

ストレートは彼女的に大人な淑女の飲み方であるらしい。

無条件にミルクを注ぐとやや不満げな様子を見せることから、紅茶を淹れる前には尋ねるのが良く――対するクレシェンタは必ずミルク。

ミルクティーではなく、蜂蜜ミルク(紅茶割り)がお気に入り。来客の際もそれとなくミルクティーを客に勧めるのが側付きとして働く際の最も重要な仕事である。


掃除やお茶一つでもその相手を考えて。

あれこれを想像すると、それだけで少し楽しい。

きっと彼女も、それがただただ楽しいのだろう。

もちろん、そこに愛という理由があるのだろうが――果たして己と彼女の違いはどこにあるのだろうか、と考える。


愛とは多分、そういうものなのだと思う。

誰かのちょっとした幸福を、心から喜べること。

自分の心に誰かの心を混ぜ込むこと。


姉を愛している。

三人の主人も愛している。

良くしてくれた同僚も愛していたし、姉の親友もその中に。

愛の境界線とは、一体どこにあるのだろう。

その線引きはどこにあるのだろう。

どう証明すれば良いのだろう

考えるほどに分からない。


例えば口付けがそうだと、肌を重ねることがそうなのだと答えられれば、エルヴェナはその内の誰にだってそう出来た。

ちょっとしたスキンシップの一つのように。

例えばその内の誰かを救うために自分の命が必要だとするならば、エルヴェナは望んで命を差し出せる。

ちょっとした世話を焼くように。


確かに愛と呼ぶべきものは己の中にあるはずで、けれど表現の仕方が分からない。

あるいはクリシェのように突き抜けていれば幸せであったのかも知れない。

なまじ普通や常識を知っていることが、エルヴェナを縛っていた。

愛の表現が口付けなのだと、心から信じることが出来たならばどれほど良かっただろうか。

彼女は何のてらいもなく、己の内側をさらけ出すのだ。

あまりに愚かで、美しいとエルヴェナは思う。

どこにも踏み出せないエルヴェナには、彼女が輝かしく――きっと、ベリー達が彼女を愛する理由もそこにあるに違いない。


「エルヴェナ様っ、一息入れませんか?」


洗濯物を乾かしていると、元気の良い声。

振り返ると黒髪を束ねた、可愛らしい同僚の姿。


「アーネ様。お掃除の方は終わりですか?」

「はいっ。実は空いた時間にクッキーを焼いておりまして……」


ふふん、と何やら自信ありげな顔。

エルヴェナは苦笑する。

ベリー=アルガンが敬愛する上司ならば、アーネ=ギーテルンスは楽しい同僚。

少し思い込みが激しく、ちょっとした失敗を積み重ね、いつも誰かに叱られてばかり。

隙のないベリーとは真逆で隙だらけ――けれど、不思議と場にあるだけで、雰囲気を明るくしてしまう人。

他人より優れて最低限。

そんな完璧主義者の集まりと言えるクリシュタンド家において、彼女は変わった存在であった。


「ふふ、ではお茶の用意はわたしが。……アーネ様のお部屋で?」

「ええ、お待ちください。すぐに用意してきますから」




ベッドと書き物机、クローゼットが一つ、タンスが一つ。

後はお茶をするための小さな机と椅子が二つ。

基本的にはエルヴェナの部屋もアーネの部屋も変わらないが、少々異なる点は本棚があるかないかだろう。


魔導兵器関連の手伝いから、興味はそちらに。

エルヴェナの部屋には、魔術関係の本から要点を書き写し、あるいはその考察を記した羊皮紙の束がタンスの上に置かれている。

本は買うと高かったし、女王側で仕える特権と言うべきか――王宮書庫からその類の本はいくらでも借りることが許されていたし、娯楽はそれで十分。

特に己の本として購い、手元に置くことはなかった。


そんなエルヴェナとは違い、アーネの部屋にはしっかりとした本棚が置かれ、給金の多くを注ぎ込んでいるという見事な装丁の本がずらりと並ぶ。

古今東西の話が纏められた童話集や、詩人の詩集。

基本的には学術的なものより物語が好きなのだろう。


こういうところも彼女の人柄と言えるのかも知れない。

買った本は繰り返し読むそうで、その度新たな発見があるのだと彼女は語る。

手垢のついたページを捲って涙を流すところも何度見たことか。

そこに閉じ込められた物語を繰り返し、彼女は愛おしげに視線でなぞった。


二人の姫君は、書物なんてものはパラパラと捲ってあっさりと暗記した。

ベリーもまたそれに近く、一度目に通した本の内容は要点を抜き出し、当然のように頭に入れた。

セレネはエルヴェナと似ていて、重要な部分を別の羊皮紙に書き留める。

共通点は本を単なる知識として扱っていることで、けれど彼女だけは少し違う。

きっと本そのものを愛しているのだ。


彼女の不思議なところはそういうところ。

きっと、世界の見え方さえも自分とは違うのだろうとエルヴェナは思う。


「……気になっていたのですが、何か書かれておられるのですか?」


干したラクラを使ったらしいクッキーをつまみながら、アーネに尋ねた。

書き物机の上に積み重なった羊皮紙の束――先日から随分と量が増えている。


「ええ。実は少し、エルヴェナ様に軽く目を通して頂けないかと思っていまして……」

「わたしに?」

「はい。実は父に手紙を贈ろうと思っていまして……そ、その、いつの間にか手紙という枚数ではなくなってしまったのですが」


恥ずかしそうにアーネは言った。

彼女らしいと言えば彼女らしく、エルヴェナは肩を揺らす。


「それは構わないのですが……わたしでお役に立てるでしょうか? ベリー様の方がそういうものに関しては良くご存じだと」

「いえっ、その……アルガン様はご多忙な方ですし、わたしが更に余計な仕事を作るのはなんと言いますか……」


それほど堅苦しいものではなくてですね、とアーネは続ける。


「……わたしは終生、クリシュタンド家にお仕えしたいと思っているのです。それで手紙を父に出そうと……ただ、その気持ちが伝われば良いなぁ、とそれだけの手紙で」

「……終生」


はい、と彼女は頷き、両手を胸に抱くように。


「人生は川の流れのようなものだと、わたしにいつかアルガン様が。何を決めるでもなく、何を成し遂げるでもなく……それでもただ毎日を惰性で過ごすだけでも、わたしは流れていくことが出来るのでしょう」


アーネは薄く笑みを浮かべて目を細める。


「人生において、人が選べるのはきっと些細なこと。選ぶ選ばずに関わらず、大して変わりなどないのかも知れません。今もわたしは十二分に幸せでございますし、答えを出す必要などないのかも知れませんが……敬愛するガーレン様がお亡くなりになられて、色々と考えておりました」


クリシェの義祖父――昨年亡くなられた方であった。

エルヴェナ自身が接する機会はそれほどなかったが、色んな人から尊敬される人格者で、アーネも深い敬愛の情を向けていたことは知っている。

彼を祖父として愛していたクリシェ以上に一時期の彼女の落ち込みようはひどいもので、空元気を見せながらもそのことを随分と長く引きずっているようであった。

きっとそこにある羊皮紙の束も、そういう気持ちに整理をつけるためのものなのだろう。


「ガーレン様はドジばかりのわたしが、クリシェ様のお母様に似ていると楽しそうで……わたしのような人間が、真面目で優秀な方ばかりのこのお屋敷にいてくれることが喜ばしいと。……そのお言葉の真意は分かりかねますが、それでも、わたしがわたしとしてここにあることを、そう仰ってくださったことが嬉しかったのです」


目を閉じて、大切な何かを思い返すように。


「そんなガーレン様はいつもクリシェ様やお屋敷のことを……わたしがその代わりに、などとおこがましいことではありますが……微力であっても、何かをもたらすことが出来るのであればとそう思って、それで、その手紙を父に出すことに」


クリシュタンド家とは、特別な場所であると思う。

少なくともそこにあるのは立派な人間ばかりで、誰もが己の意思を明確に持っていた。

きっとこの中で、一番エルヴェナがだらしない人間。


「……アーネ様は、立派な方ですね」

「そ、そのようなことはっ。言葉も受け売りでございますし、口で大層なことを口にしてもドジばかり……立派と仰るならエルヴェナ様の方でございましょう。……わたしのようなドジなど踏まず、すぐに色んなことを覚えて、何でも簡単にこなしてしまわれますし……」

「ふふ、そのようなことは些細なことだと……アーネ様のお言葉を借りるなら、わたしは惰性で過ごしているだけですから」


何かを決めることなく、何かの狭間で。

自分がどうあるべきかを決められず、どうしたいかも決められない。

そんなエルヴェナにとって、彼女たちは朝日のように目映かった。


自分がどう生きたいか、どう在りたいか。

それを意思一つで決められるということが、どれほどすごいことかを彼女たちは気付いていないのかも知れない。

世界中には数え切れない人達がいて、ほとんどはきっと、エルヴェナのように惰性で日々を過ごしていることを知らないのだろう。

心地よいまどろみの、瞼の先。

その隔たりが、どれほど遠いか知らないのだろう。


羨ましいと心から思って、彼女たちのような人を見るといつも思う。

果たして自分はこのままで良いのだろうか、と。


「アーネ様のそんなお話を聞いてしまうと、我が身のことを考えてしまいますね。……この先、どうして行くべきか、だとか」

「……エルヴェナ様もそのようなことを?」

「はい。……アーネ様と同じく、今をとても幸せには。ただ、この先をと考えるといつも、あやふやなままで」


いつまでもこのままではいけないように思う。

かと言って、今日変わるべきかと考えれば、それほど急く必要もなく思え。


とはいえ、そういう考えのままではきっと、一生変わることもないのだ。

来年も、再来年も十年先も、きっとエルヴェナは同じことを考えているに違いない。


明日の自分が何かを決めてくれることなど、期待するだけ無駄なのだろう。

何かを選んで決めるのは、明日であっても明後日であっても、『今この時のエルヴェナ』なのだから。

静かに笑ってアーネを見つめた。


「でも、アーネ様のおかげで少しだけ、勇気が出てきた気がします」

「勇気……」


はい、と頷き立ち上がり、書き物机の羊皮紙に手を伸ばす。

そして再び席について、拝見させて頂きますね、とアーネに言った。


「は、はい。……お願いしますっ」

「でも、あまり期待はしないでくださいね。手紙の良し悪しを語れるほどわたしは――」


言いながら羊皮紙に目を落とす。

序章――ギーテルンス家のアーネが、王領使用人に至るまで。

一章――理想と現実。そして永遠の目標、偉大なる使用人との出会い。

二章――王権戦争と気高き鷹の姫君達。

三章――


「……、しょ、章分けされてるんですね……」

「はい、その……色々と書こうと思ったら随分長くなってしまったので、目次も作っておこうかと……」


恥ずかしそうにアーネは両手を頬に当て、エルヴェナは微笑を硬くした。








手紙という内容からあまりにかけ離れた羊皮紙の束。

エルヴェナがそれを返却するには二日を要した。

何とも評価しがたい実に迂遠な文章で、大部分が不要に思えたが、それを突っ込むべきかどうかをエルヴェナに長い時間迷わせた。

本筋は10ページほどで終わりそうなものだが、合計すれば400ページを超える文の量。

まさか、390ページほどは不要なのでは、などと告げるのはあまりに失礼だろう。

一つを突っ込めば、必然的に九割を超えた部分に突っ込むことになる文章達。

最終的には文章の誤りなど、簡単な指摘をするに留めることにした。


同僚として軽く語られる程度の自分の描写でさえ、読んでいるエルヴェナが赤面するほど――容姿や性格、些細な癖、口癖までが私見を併記し克明に記されていた。

意外に恥ずかしがり屋であるらしいベリーが見れば、絶句するところが容易に想像でき、その点彼女はアーネの気遣いに救われたといっても良いかも知れない。


ただ、やはり性格か。

彼女が周りの人間をどのように見ているのか、それだけでその人柄が垣間見え、悪い内容であるとも思わない。

心から周囲の人間を尊敬し、愛情を向けているからこそ、何のてらいもなくあのような文章が書けてしまうのだろう。

言葉の端々に敬愛や親愛が顔を覗かせ、仮に彼女を知らない人が見たとしても、その人柄を察することが出来るに違いない。


――女王陛下は普段露悪家を装いつつも、性格も含めクリシェ様と瓜二つのとても優しいお方である。

そんな言葉を平然と語れてしまうところがアーネという女性。

他人の見え方や、世界の見え方――彼女は世の中の複雑な全てを、意図的かどうかはともかく単純に解釈していて、まっすぐに捉えていた。

彼女が周囲から愛される理由が『あの手紙』からは窺えて、きっと、彼女の父にもそれは伝わる。

だからきっと、あれはあれで良いのだろう。


話を聞いて、そんな手紙を眺めて、思い立ったのはそういう理由。

頭の中にはあやふやなまどろみの感情。

それでもいいから口にしてみるべきではないかと、そう考えた。


アーネは手紙の中でエルヴェナの良いところや、尊敬すべき点を褒めちぎり――それが正しいかどうかはともかく、どうあれ、エルヴェナが思うエルヴェナだけが、正しいエルヴェナなどでないと思うのだ。

人によって見え方は違い、感じ方も違う。

だというのにエルヴェナはいつも己ばかりで、他人が自分をどのように見ているのか、どんなことを考えているかには無関心であった。


姉を困らせてしまうかも知れないと思って、けれど姉は、そんなエルヴェナを嫌ったりはしないだろう。

いつだって明瞭な姉は、何かしらの答えをくれる。

妹としてしか見られないと言われても構わない。

それでもエルヴェナは幸せであるし、気持ちは何も変わらない。

色々な感情を、ただ、はっきりとさせたいだけなのだから。


「……? 今日はミアさんだけなんですね」

「ぅ、うん、サンディカ軍団長が付き合ってくれるから、残って特訓したいんだって」


休日の前日――大抵は夕暮れ時に、訓練の終わった二人が王領に迎えに来る。

家は治安の良い一級市街とはいえ、仮にも女王の側で仕事をする使用人が一人で出歩くことなどはあってはならないもので、そういう決まりになっていた。

顔なじみとなっている王領の門番達に会釈をしながら外に出て、何やら渋面を作るミアに尋ねた。


「何かありましたか?」

「んー、何かって訳じゃないんだけれど……うぅ」


ああ、うう、と何やら頬を赤らめて、もごもごと。

苦笑して、家に帰ってから聞きましょうかと告げると彼女も頷く。


王領側は大貴族達の屋敷が並び、集合住宅はそれを抜けた先。

集合住宅と言っても猥雑なものではなく、地方から出てきた貴族の子女や商人が王都の別宅として使うもので、錬成岩の美しい住居であった。

その二階の一室がミア達の部屋。


鍵を開けて中に入ると、常魔灯を付け、ポットの湯温を眺めて紅茶を。

ミアもカルアも飲めれば良い、という感じで、基本的には入れっぱなし。

一々湯を入れ替える手間を掛けるよりは早めに出される方を喜んだ。

茶葉から何から屋敷で頂いてきた高級品で、雑な扱いは心苦しい部分もあり、ティーポットに湯を注いだ後、ポットの中身を新しい水に入れ替える。

それからカップに紅茶を注いだ。

この家ではミルクを使う習慣があまりない。


ありがとう、と彼女は言って、エルヴェナは微笑み対面に。

自らも紅茶に口付け、尋ねた。


「……それで、どうされました?」

「……あ、あのね……その、そろそろ一人で家を借りようかと思って」

「一人で……?」


エルヴェナは眉間に皺を寄せ、ミアは頷く。


「ほら、この前の戦争の報奨金でお金の問題も色々解決したし、わたしもカルアも十分お金に余裕出来たし……お給金も沢山出てるし――」

「……もしかして、ねえさんと喧嘩でもしました?」

「そ、そういうのじゃなくて……っ、こ、こう……普通に……」


ミアは何か言いにくそうに目を泳がせ、エルヴェナは首を傾げた。


「でも、突然のことですから。……確かにお金の心配はなくなりましたが、あって困るものではないですし……」


言いながらも、薄紅を浮かべたミアの顔に気付いて、そういえば先ほども、と思い出す。

ミアは年頃――可愛らしい女性であった。

貴族社会においてはともかく、彼女も20を超えている。

村の女なら結婚しているのが普通だろう。

そういう話に無縁なクリシュタンド家で過ごして麻痺していたものの、誰かしら思う相手がいたとしてもおかしくはない。


「誰か、好きな人でも?」

「っ……」


顔を真っ赤にしたミアの反応を見て、なるほど、と頷いた。

性格も良く、努力家で、愛らしく――アーネと彼女は似ているところがあって、違うところは環境だろう。

彼女がいるのは軍であったし、男も多い。

彼女自身は気付いていないようだが、当然ながら彼女は隊員からも人気であった。

一般的に、魅力的、と呼ぶべき相手は隊員達にも多くいたし、苦楽を共にし命を預け合う戦場で過ごして来たのだ。

そういう感情を覚えるのも普通のこと。


「わ、わかんない……けど、そうなのかも。……こ、こう……前までは平気だったんだけど……何というか」

「……なるほど。ふふ、恋をされたんですね」

「うぅ……っ」


ミアがそういう感情を覚えることも同じく。


良いことだ、とエルヴェナは思う。

ミアのような相手に思いを打ち明けられて、断る相手もいないだろう。

仕事が恋人と言わんばかりに仕事に打ち込み、色恋などには興味も見せず。

そんな彼女が選んだ相手であるならば、悪い相手などではあるまい。


この幸福なまどろみが形を変えてしまうことには寂しさを覚えたが――これはきっとそういうこと。

エルヴェナも決意したばかりであった。

優しいまどろみの時間は、いつまでもある訳ではない。

いつまでも浸れる訳でもない。


「ミアさんからそんなお話が聞けるだなんて……わたしが知っている方ですか?」


応援しようと考えて、口にして。


「し、知っている方……というか――」

「たっだいまー」


玄関からそんな言葉が聞こえた瞬間、ミアは肩を大きく跳ねさせて、顔を真っ赤に染め上げた。

それから、忘れ物、などと口にして、入ってきたカルアと入れ違いに外へ。

エルヴェナは唖然と。カルアは呆れたようにそれを見送り、髪紐を解いた。


「……んー、やっぱり何か怒らしたかな? エルヴェナ、何か言ってた?」

「え、いえ……」

「今日もエルヴェナを迎えに行くって先に帰っちゃって……何なんだろ」


姉は腕を組み、首を捻って考え込み、エルヴェナは呆然と。

流石に誰のことかを理解して、姉を見上げた。


「……どうかした?」

「……いえ、ちょっとびっくりしただけです」


告げると姉はからからと笑って、ぽんぽんとエルヴェナの頭を叩いた。

エルヴェナはいつものようにその感触を確かめて、目を伏せ、いつものように微笑みを浮かべた。


「今日は怪我をしてませんか?」

「へーき。軽くだったしね」

「何よりです。……お腹は?」

「ぺこぺこ。ふふ、その前にエルヴェナのお茶が飲みたいかなー」

「はい」


紅茶を注いで、蜂蜜を入れ。

こういうものだ、と何となく思う。

まどろみに浸っている間にも、時間はゆっくりと流れていく。

どれだけ緩やかに感じても、確かに。


「……喧嘩であれば、仲直りのお手伝いしないとですね」

「ありがと。……でもミアのことだし、あんまり気にしすぎないようにね。何かと思い詰めるのがエルヴェナの悪い癖なんだから」


口にしようとしていた言葉は、瞼の裏に。


「そうですね。……悪い癖です」


あやふやなまま、まどろみに。

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