まどろみ 一
百花の香りが鼻をくすぐり、喧噪の代わりに鳥の囀り。
空を見上げれば不可思議な濃淡に輝く空と世界樹が映り、周囲を見渡せばただただ深い木々が映った。
深い森は恐怖をかき立てる。
子供の頃には度々何かを想像しては泣いて、姉によく慰められていた。
けれど不思議とこの森は柔らかく穏やかで、例えるならば童話の森。
森を見て想像するような余人を受け入れぬ厳しい色はなく、ただただ幻想だけを濃くしていた。
無論、それは己がこの童話の世界の住人になったからこそであるのかも知れないが、どうあれ恐ろしさを感じないのはそれだけが理由ではあるまい。
――幻想の楽園クリスネイト。
誰よりも美しい少女達の作り上げた、世界で最も広き檻。
世界で最も美しい、小さな鳥籠。
まどろみの内側に存在するような、不思議な世界。
「釣れますか?」
「……釣れないわね」
その言葉に、肩で揃えた髪を揺らし、くすくすとエルヴェナは笑って隣に腰掛ける。
小川に釣り糸を垂らすのは、優美な金の髪をした、ワンピース姿の少女であった。
皆見た目通りではない。少女と語るは正確ではなかったが、ともあれ老婆と語るのもおかしいだろう。
三人を除いて老婆であったことは確かであるが、とはいえ今は異なった。
言いながらも釣り糸を垂らしたまま。
魚影は見えず、魚自体いるものか怪しいものだ。
囀っている鳥はいても数は少なく、見えたとしても見覚えのない鳥ばかり。
植生もまたあちらとは所々異なる。
この世界は幻想の内側にあって、それ故に異常なことが正常であった。
伝説上の植物が野花のように咲いていて、見たこともないような巨大な鳥が時折空を。
湖には屋敷のような大きさの蛇や魚がいて、かと思えば蝶のような小人のような、妖精染みた生き物が世界樹の周りを漂っている。
何度かの散策旅行では一生目に掛かることのないような不可思議なものを多く目にした。
この先もそうだろうし、変化していくのだろう。
人々がぼんやりと想像し、思い浮かべる存在は大抵この世界に生まれ落ち、あるいは滲み出る。
そしてエルヴェナ達が目にしたものは大抵、明確な形となって数を増やした。
認識することが彼らを確かなものにするのだろう。
ここに来て八十年ばかりか。
人生をもう一度繰り返すような、そんな時間を過ごしてなお理解は及ばない。
きっとこの先、その全てを理解することも出来ないのだろう。
この世界はまどろみの中。
日常は夢現の狭間にこそある。
「……エルヴェナ、あなたクリシェ達にお馬鹿なこと吹き込んでない?」
「……? お馬鹿なこと、とは?」
セレネはじーっとエルヴェナを睨んだ。
思い当たることはあったものの、気づかないふりをして首を傾げた。
セレネは眉間に皺を寄せたまま唸り、気のせいならいいわ、と再び釣り糸に目を。
そうですか、とエルヴェナは微笑む。
酔っ払い問題を言っているのだろう。
クリシェ=クリシュタンドという少女は何とも愛くるしい生き物で、普段から甘ったるい砂糖菓子のように二人にべったり。
半ば本能のままに生きているような存在なのだが、彼女の中にも一応理性と呼ぶべきものがあるらしい。
お酒を飲むとお馬鹿になってしまう自分(個人的にはあまり普段と変わらない)が少し悩みであったようで、エルヴェナはそんな彼女に助言を。
『酒精は理性を鈍らせるもの。わたしやベリー様もセレネ様も、お酒を飲めば少なからずそうなりますよ。お酒を飲むというのは普段我慢していることを自然に行うための一つの儀式のようなものですから、お酒を飲んで普段より甘えてしまうのも仕方のないことです』
『なるほど……』
『我慢は体に毒ですから、時折はそうして羽目を外すことが大事だとわたしは思っているのですが――』
その後しばらく毎日のように酒を口にして、酔っ払いのふりをして甘える彼女と、それを羨ましがって真似をするクレシェンタの姿が日常に。
理性と本能の狭間で揺れるセレネ達の姿は中々に楽しめるもので、何やら爛れた退廃的な空気は何とも言えない良さがあった。
ほどなく禁酒令が発令されたが、抜け道を探るように試飲を勧めた結果に再発し、今はその騒動が一段落したところ――魚のいないところで釣りをしているのも精神修養のようなものであろうか。
この鳥籠にあるのは可愛らしい方ばかりであった。
まどろみは夢と現の、欲望と理性の狭間でもある。
溺れようと思えばどこまでも溺れることが出来て、けれどそれを良しとはせず。
夢にまどろんだかと思えば、時折現実に戻って、規律を整え。
この曖昧な具合が気に入っていて、退屈しない。
「……ああ、もしかしてお酒のことでしょうか? 確かに少し、相談に乗った記憶はあるのですが」
「……相談」
「はい。……とはいえ難しい問題ですね。適度なお酒は良いものではあると思うのですが……ふふ、クリシェ様達は味を占めてしまわれて」
それはそれで可愛らしいのですが、とエルヴェナが笑って言うと、セレネは嘆息した。
「お馬鹿過ぎるのも困りものだわ。見てるあなたは楽しいのかも知れないけれど」
「否定は出来ませんね。……このようなことで悩んだり出来るというのも平和で何よりですし」
「……まぁ、そうね」
後ろに回り櫛を取り出すと、セレネの髪を静かに梳かした。
あちらにいた頃は痛んでいた髪も、今はさらさらと心地よい。
「……どうかしら、ここでの生活は」
「不満は特に。退屈はしてませんね」
「そう。それは良かった」
セレネはそう尋ねたきり黙り込み、エルヴェナも黙ったまま、さらさらとしたその髪を弄ぶ。
長い髪は指通りもよく、癖がない。
長い髪に触れるのは好きだった。姉の髪を思い出すからだろう。
束ねたり、編んだり、括ったり。
髪一つでいくらでも楽しめて、雰囲気も変わって。
さらりと流せばお嬢様、高く束ねれば活発で、緩く編んでみせると淑やかで、ころころと変わる姿は魔法のよう。
だから、子供の頃は伸ばすと癖が出てしまう自分の髪を、エルヴェナは随分と嫌っていた。
自分はそんな魔法を使えないのだと。
とはいえ結局、自分を嫌っていただけ。
髪型一つ変えれたところで、他の嫌いな部分を探していただろう。
そう気づけたのは姉と再会して、このお屋敷に招かれてから。
「……正直、ちょっと意外だったわ」
「……?」
「あなたがここに残ったこと。……もちろん、悪い意味じゃなくてね」
彼女は振り返ることなく、釣り糸を眺めたまま。
エルヴェナもまた、止めた手を動かして、弄ぶように編んでいく。
「気になってはいたのだけれど、何だか尋ねるのもどうかって気がして……あなたはどうして残ったのか、聞いてもいいかしら?」
「ふふ、何十年も気になっていらっしゃったのですか?」
「実はね。……ここにあるのは本当に、小さなものだけだから」
彼女もまた釣り竿を弄ぶように上下に揺らす。
「目標もなくて答えもなく、結末もなく。あっという間に一回分の人生を繰り返して、けれどこの先途方もなくて、よく分からない何かの過程を永遠に」
まるで魚を誘うようで、けれど意味もないのだろう。
何となくの手遊び――釣れぬと分かっていながらも、釣りを続けて。
「そこに何かを見いだせなければ辛いだけ……でも、あなたにもそれがあるから楽しめているんでしょう?」
無意味で無価値で、何でもなく。
ここにあるものは、何でもない何かだけだった。
「……そうですね、わたしは意外とセレネ様と似てるかも知れません」
「似てる?」
「ええ。単に意地っ張りなのです」
「あのね……」
セレネはこちらを睨むように振り返り、エルヴェナは苦笑する。
「セレネ様は人間の定義が何か、と考えたことがありますか?」
「……定義?」
「はい。獣と人を分けるものは何か、です」
唐突に問われて考え込む様子の彼女を眺め、エルヴェナはまた笑う。
「いつぞやベリー様に尋ねたときは、無駄で非合理的な生き物が人間なのだと」
「……、ベリーらしいわね」
「はい。ふふ、わたしは意地の有る無しだと。……まぁ言葉遊び、言わんとすることはどちらも同じですね」
彼女の髪を編み込みながら、空を見上げる。
不確かでぼんやりとした――全てが叶う、夢が如くの幻想色。
「手に入らないものに憧れて、無い物ねだりを繰り返して、魚が大空を飛ぶことを願うようなものでしょうか。……傍目からはすごく愚かなことにさえ、平気で手を伸ばしてしまうのが人の性」
けれど夢は泡沫。
手が届くように見えて、決して手の中には収まらない。
湖面に浮かぶ月の光を捕まえることなど出来ないように。
「……姉を愛しているのです。今も変わらず」
「……カルアを?」
「はい。姉はこの先、永遠に手に入らない方ではありますけれど」
おかしいでしょうか、と尋ねると、セレネは当然のように首を振る。
驚いた様子もなく。
きっと居心地が良いと思うのは、こういうところなのだろう。
永遠という非日常さえ日常に変えてしまうのは、彼女らが随分な変わり者だからで、そしてエルヴェナも同じく。
この世界でエルヴェナは、とても普通の存在であった。
「セレネ様はクリシェ様に対する愛情がどんなものか、区分けすることが出来ますか? 例えばベリー様への、クレシェンタ様へのものも含めて」
「……それは、その……方向性の話?」
「はい、難しいですよね。……わたしはさっぱりです」
彼女の首筋から前へ。
柔らかい頬に頬を擦りつけ、唇を指でなぞる。
「最初からおかしかったのか、仕事でそうなったのかは分かりませんけれど……多分、ふしだらな人間なのでしょう。セレネ様でも、ベリー様でも、他の方でも等しく、姉と同じで……わたしの愛は多分、色んなものが混じり過ぎているのです」
「え、えーと……それはこういうことも含めて?」
「はい。ふふ……憧れだとか、家族としての近しさだとか、女としての欲望も含めて、全部」
硬直したセレネを離すと、笑って肩を揺らす。
振り返った彼女の美貌は紅潮していて、より一層綺麗に見えた。
「抵抗がないと言うべきでしょうか。……例えば口づけを交わすことにも、肌を合わせることにも――もちろん大小程度はありますし、一般的な倫理観程度は持ち合わせているつもりではあるのですが……でも、感情の上で区別は出来ていなくて」
普通ではないことは自覚していて、だからと言って内面自体は変わらない。
自分はいつも『まどろみ』の中にあって、境界線のどちらでもなく。
「……ですから姉との関係も、よく分からなかったのです。そういう相手として見るべきなのか、それとも、ただ姉として、家族として見るべきなのか。……悩んでいる内にミアさんに取られてしまいましたけれど」
そう笑うと、セレネはじっとエルヴェナを見つめた。
「わたしと似てるっていうのはそういうことかしら?」
「はい。……不快でしたか?」
「ふふ、もう今更のことよ、そんなの。……わたしはここに来る前に、自分の中で決着がついてるもの」
確かに似てるかも知れないわね、と彼女は手を伸ばし、エルヴェナの頭を撫でる。
その感触は、どこか姉を思い出した。
自分がない人間であったのだと思う。
少なくとも、自分で何かを決めたことがない人間であった。
子供の頃は立派で賢くて、何でも出来る姉に憧れてその真似を。
奴隷になってからは打たれないために、言われるがままに従順に。
いつもいつもそんな調子で、その場その時のことばかり。
将来をどうするかだとか、今の自分をどうかしたいだとか、そういうことを考えたことはなかった。
「うーん、惜しかった。もうちょっとで何か掴めそうなんだけどなぁ」
「ねえさん。……お気持ちは分かりますけれど、もう少し体を気遣ってください」
一級市街の集合住宅、その一部屋。
簡素なキッチンのついたリビングと、寝室が二つ――広くもなく、狭くもない家。
ソファと机が置かれ、棚の上には見る度枯れている花瓶が二つ、謎の置物がいくつか。
後は剣や鎧が棚に置かれ、少しの食器と調理器具。
謎の置物をミアが増やしていること以外はいつも通り、もはや見慣れた家の中。
ただ、普段は屋敷で寝起きをするせいか、自分の家、という感じもしなかった。
椅子に座って恥ずかしげもなく、裸体の背中をさらけ出した姉の背中には痣と擦り傷。
それほど怪我をすることは多くない。
姉は黒旗特務でも一番の剣の使い手であった。
そんな姉が手合わせでも負ける相手というのは数える程度。
今日はサンディカ軍団長に付き合ってもらったそうで、一本目を取った後、残る二本を立て続けに取られたらしい。
「わかってるよ。ふふ、でも流石に一枚も二枚も上手。わりと綺麗な剣を使う人だって決めつけてたんだけど、まだ引き出しがあったとは……経験の差だなぁ」
「そんなに強い方なのですか?」
「そだね。受けに回ったら手も足も出せない。一本目は上手く先手を取れたけど、後の二本は蹴り転がされてこのざまだ」
楽しげに笑って両手を広げる。
「とはいえ、一本取れただけでも前進した証拠。……ちょっとは強くなれてる気がするよ」
「……そうですか」
消毒して薬を塗って――傷だらけの姉を心配しながらも、同時にその体の美しさを眺めた。
しなやか、と表現するのが正しい体。
骨太ではなかったし、戦士と言うより踊り子のそれだろう。
筋肉がうっすらと浮かび、日焼けのない白い背中に陰影を。
触れると柔らかく、弾力があった。
けれど彫刻のように美しい半裸の背中には古い傷跡がいくつも残る。
少なくとも、村にいた頃にはなかったもの。
再会するまでどんな生活を送っていたか、エルヴェナは特に話さなかった。
同じく、再会するまでに何があったのかとも、姉に詳しくは聞いていないし、姉も苦労話なんてものを語りはしなかった。
ただ、姉の傷はこの先もずっと残るもので、そしてそれはエルヴェナが付けたものなのだろう。
申し訳ない気持ちと、愛おしい気持ちが曖昧に。
心はいつも色んなものが混ざり合って、どちらとも言えない。
自分のせいで、と責める心があれば、それを愛の証と捉える愚かな自分もいる。
傷をなぞると、くすぐったい、と姉は笑った。
「……気にしなくていいよ。特に気にもしてないし」
「……はい」
両手を上に、姉は背中を向けたまま、エルヴェナの頭をわしわしと撫でた。
髪が乱れて笑いが零れ、そのまま背中に頬を当てる。
体温は心地よく、静かに響く鼓動が鼓膜を震わして、そのまま静かに目を閉じる。
その感情は言葉にすれば、愛ということになるのだろうか。
姉を愛していると言えばしっくりと来て、今の関係にも不満はない。
ただ、それがどのような愛であるかと尋ねられて、答えられる自信もなかった。
姉妹のものと決めてしまえば楽だろう。
それ以外だと決めてしまえば楽だろう。
けれど曖昧なまま、朝のまどろみのように、どろどろと斑にその感情は蠢いて、それを決める意思もなかった。
エルヴェナは楽な道に逃げるばかりで、何一つ選んでこなかった人間であったから。
三国との戦が終わって、平和になって、それでも姉は自分を追い込み鍛えている。
姉は強い人間だった。
間の抜けた妹など見捨てていれば、今頃穏やかな幸せを築いていたのかも知れない。
姉ならばきっと、何をやっても上手く行っていただろう。
けれどもエルヴェナのために剣を取り、傷だらけになってもなお、今もこうしてクリシェへの恩義にと剣を握るのだ。
そして選んだ道を後悔せぬようにと、心身を必死に鍛え上げて。
意思一つで生き方すらを決められる人間を見ると、心の底から憧れる。
昔から姉は、全てを自分で決めてしまう。
何かを決めることを恐れたりはしないし、目の前に茨があっても、その道を選ぶことに躊躇はしない。
そんな姉は輝いて見え、だから憧れて。
そんな姉を見ていると、本当に愛なのだろうか、と時折疑問に思う。
姉妹の情よりも強いものがあることは確か。
であれば愛を囁くことが妥当に思え、けれどもどこか疑わしく。
単なる憧れを愛と誤認しているのかも知れないと、時折内側の何かが囁く。
本心から告げてみれば、受け入れてくれる気もした。
けれどもエルヴェナには、本心というものが分からない。
主観的な感情を、いつも別の場所から醒めた目で眺める自分がいた。
玄関の扉が開いて、入ってくるのは栗毛の頭。
明るい声。
「ただいまー、あ、手当してくれてたんだ?」
「はい、もう軽く包帯巻いたら終わりです」
「ありがと。カルアそういうの雑だから」
「人には文句言うくせにミアはミアで一言多いよね」
「カルアのとは違うの」
ミアは机の上に置かれた籠の中――屋敷からもらってきた肉や野菜、果実を眺めて、美味しそう、と頬を綻ばせる。
苦笑して、作りましょうかとミアに告げると、嬉しそうに頷いた。
「うん。えーと……じゃ、包帯はわたしが……」
「えぇ……ミアはあたしより雑だからなぁ」
「ぅ、うるさい」
「ふふ、お願いしますね」
そのまま食材を取ってキッチンに向かう。
シンプルに塩気のあるスープが良いだろう。外は少し暑かった。
食材を並べながら横目に二人を見ると、何やらひたすらに文句を言い合い、罵り合い、それでいながら楽しげに。
屋敷と同じで、いつ帰っても、この家はいつも明るい。
エルヴェナがいない日も、きっとこんな雰囲気なのだろう。
自分はいつもまどろみの中にあった。
屋敷とこの家を往復して、何もかもがはっきりとしない日常はただ心地よく――だらしなくそれに溺れて、目覚めることなく。
いつまで自分は、まどろみの内側にあることを許されるのだろう。
答えはいつもあやふやで、ぼやけていた。
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