かつて神の座にて

その窪地は世界樹の根が張り巡らされ、空を覆うは世界樹の枝葉。

満ちる魔力は大気を輝かせ、終わり無く舞う花弁は陽光に虹色の輝きを。

降り注ぎ、地に落ちる前に青き粒子として霧散する。


世界樹の花舞う季節は春であった。

春は世界を幻想色で満たし、風精が喜ぶように花弁で遊び、世界樹が根を張る大地でもその隙間で忙しなく、地精が走り回って小さな花々に手入れを行う。

世界樹の要求する莫大な水を集めるように、水精は窪地に滝を――湖も川もなく、だというのに窪地の上からは不可思議な水が大量に注ぎ込み、世界樹はそれを飲み干すようにその枝葉を震わせた。

火精は水精の努力を無に帰そうと集まり踊り、滝壺からは湯気が舞い。

空気はどこか霧が掛かるようで、その幻想的な色合いを更に不確かに、複雑なものにする。


そしてその幹の側で小山を作る青灰色は四つ。

あらゆるものが神と崇める獣――竜がその巨体を丸め、その前には一人の少女。

長い黒髪を緩く束ね、巻布と腰布だけを身につけた彼女もまた、そこに溶け込むように根に腰掛ける。

口を開かず踊る精霊達に苦笑を浮かべ、頭上に浮かぶ数百の魔力球を眺めた。

不規則に並んでいるように見えて、規則的な配置。

日の傾きから、そろそろかと振り返り、窪地の隅に建物もなく存在する、不可思議な扉に目を向ける。


――少しして扉が開き、顔を覗かせるのは赤い髪の美しい使用人。

彼女が入ってくると悪戯好きな風精が彼女の所へ飛び向かい、対する彼女は、どこか幼い美貌に大人びた笑みを零して指を振るう。


周囲にあった水気が集まり、宙空に生じるは小屋のように大きな水猫。

二、四、八、十六――水猫はぴょんと跳ねる度に分裂し、瞬く間に百を超える小さな水の猫が窪地を駆け回るようにして空へ。

羽を生やした風精達は楽しげに声を響かせ、そんな水猫達を追い回して行く。


使用人もまた軽く跳びはね、風に押し出されるように四頭の前――聖霊巫女リラの隣に優雅に着地し、緩やかな一礼を。

そして浮かぶ魔力球の一つに指先を向け、ほんの少し動かすと、それで仕事は終わりとばかり。

リラへと目を向け一歩近づく。

使用人から漂うのは、誘惑の甘い香り――リラは僅かに目を泳がせる。


「リラ様、今日はエルヴェナ様の希望もあって、様々な果実を用いたタルトを作ってみたのです」

「そ、そうですか……」

「はい。試食した感じではとても良く仕上がったと」


桃色の唇で柔らかな微笑を。

色も厚みも薄く、存在を主張する訳でもなく。

けれども何とも色気のある唇であった。

唇が艶めかしいのは甘いタルト――恐らくはたっぷりと蜂蜜が掛かっていた――を口にしたせいであろう。


――ここは誘惑の園。

何とも退廃的に思える屋敷での生活には際限がない。

望めばおよそ、地の底までも堕落できる世界であった。


自制心なくばどこまでも転がり落ちる楽園――欲望の牢獄。

その内でクレィシャラナの巫女として理性を保つことは並ならぬことである。

屋敷ではなく小屋で寝起きし、森の果実のみを口にする生活を行うと決め、直近ではそれで五年を過ごしたが、それも数日前に破られた。

――ちょっと一手間を加えてみたのですが。

そんな誘いを聞いてしまったことが理由である。


森の食材のみを使った料理。贅沢ではない。一手間加えるととても美味しい。

そんな言葉に誘われ、口にし――気付けばいつの間にか、森が産地だからと告げるクリシェの誘いに肉にまで手をつけて。

五年ぶりの肉はみっともなく涎を垂らしかねないほどに美味であった。


このまま行けばいつの間にか、禁欲、節制などという言葉が頭から失われることは間違いない。

そしてまた、何度繰り返したかも分からない堕落の日々を過ごすことになるのだ。

――ここは早めに止めておかなければならない。


そう意を決するリラであったが、しかし、何かを口にする前に使用人の手が頬を撫でた。

それからくすりと、蠱惑的な笑み。


「……少し先に、宴を予定しているのです。クリシェ様は是非に、リラ様の修行が終わったお祝いも兼ねてと……」

「お、お祝い……」

「ふふ、リラ様は本当に美味しそうにお料理を食べて下さいますから、作る側としても嬉しいのですよ。……もちろん、節制を大事になさるリラ様には、少し悪いとは思っているのですが」


悪戯に、優しげに、あるいは困ったように。

彼女の笑みには色んなものが混じり合い、それが何とも目を惹きつける。

クレシェンタやセレネのような煌びやかさとはまた異なったもので、


「……よろしければ、もう少しお付き合い頂けますか? クリシェ様も随分と張り切っておられるのです」


そんな微笑みでお願いされると、断る言葉が浮かばない。

実際、断ろうとしても、知らぬ内に行かざるを得なくなっているのがいつものこと。

リラは静かに唸り、頷いた。


「うぅ……も、もう少しだけ、なら……」


彼女はリラの事をいつも気遣ってくれる優しい人ではあるのだが、主の意向に必ず応える使用人中の使用人。

リラが望む望まずに関わらず――彼女の主が誘いたいと言った時点で、もはや逃げ場などはないのである。


「ふふ。はい。……もう少し、です」


悪戯な笑みで肩を揺らして、それからリラの体を眺めた。

巻布と腰布――簡素にして最小限の布を眺め、考え込むように指先で唇をなぞる。


「……あの、何か?」

「いえ、少し寒いかも知れないと思いまして」

「寒い……宴はどこでやるのでしょう?」


赤毛を揺らし、目を細め。

それから、ベリー=アルガンは微笑んだ。


「今回は――」












――見渡す限りの大雪原。

そのまま踏み込めば腰まで埋まるであろう雪を、膝で踏み固めるようにして進む。

吹雪は止み、けれど雪は延々と降り注ぐ。

周囲に広がるは全てが白と藍に包まれた世界であった。


神聖なる処女地に、己だけが足跡を刻む。

誰も触れたことのない未踏の地。

ここは世界のどんな場所よりも神聖な場所であった。


グレイビャルベ――世界で最も高き山。

誰も足を踏み入れたことのない、神の領域。


そして、そこに足跡を刻む最初の一人が己であった。


「……雪が締まってきた」


グレイビャルベの南側。

ようやく足元が確かになったことに安堵し、凍り付いた髭を撫で、ボロク=アンドルゼアは息をつく。

頭からつま先までを毛皮と布の防寒具で覆い、厚い手袋、ブーツには鋼の爪。

指には十個の魔水晶の指輪が、そしてブーツにも魔水晶。

体のあちこちに身につけた魔水晶――そこに刻んだ術式が体温を維持するが、しかしこの山の高みへの道を阻むのはそれだけではない。


一万尺を超えて続く、なだらかな大雪原。

二十歩ほど進むだけで息が荒れ、深呼吸を繰り返し、それを整えながら前に。

空気は薄く、しかしまだ序の口であった。

二万尺を超える山の高みに登ったこともある。

そしてここは三万尺を超えるだろう神の領域。

およそ生物の生存を許さぬ高みを、この山は貫いているのだ。

これまでの生涯で味わったことのない苦難がこの先待っていることは、ボロクにも容易に理解出来た。


大陸最北東の山々を越えるのに、麓の街からは片道で半月。

そこまでの道のりを何往復もして荷物を運び、準備には何年も掛けた。

金銭面でも、これが失敗すれば二度目の機会はない。

途中で下山することなどは考えなかった。

頂を踏んで帰ってくるか、あるいは帰らないか。

この挑戦はそういうものだ。


ただ、大雪原を前に足を進める。

雪を加熱水筒に放り込み、温め溶かして口にする。

周囲には雪が――水気が満ちているというのに、山では驚くほどに水分が奪われる。

大気中の水気すら凍ってしまうことが理由だろうか。

喉が潤っていても水を飲んだ。

繰り返し、繰り返し――どれほど口にしても、奥底の渇きは止まることない。


そうして丸一日を歩いて進めば、大氷壁の前に出る。

近づけば圧倒される巨大な壁。

岩と氷が組み合わさった壁の上部は大きくオーバーハングしており、ある種の屋根となっていた。

ここが最初の休息拠点。

逆に傾斜した大氷壁の屋根は上部から落ちてくる氷塊を防ぎ、雪崩を防ぐ。

ここでなら大きなテントを張っても問題なく、その気になれば大の字ですら眠ることが出来た。

多くの食料はここに貯蔵してあり、あらゆる装備が保管され、好天に恵まれるまで一季節を過ごすことさえ可能だが、ここはそうして休むことの許される最後の場所でもある。


事前に張ったテント――布張りの外に分厚く雪を固めて盛ったもの――に入ると、空気穴が通っていることを確認して火を付ける。

焚き火の明かりが部屋を照らし、温もりを。

どれだけ防寒をしたとしても、寒いことには変わりない。

体の内側が発する熱をなるべく逃がさないようにするのが限界。


だがそれでも、ボロクは頬を緩めた。

外の雪の中に貯蔵した食糧を中に入れ、鍋の中に雪を詰め焚き火に。

朝に食事をした後は行動食で過ごしてきた。

栄養価の高いニルカナの実を干したもの――活力には変わるが、空腹そのものは癒やせない。

しかしここでは少なくとも、腹一杯に食物を詰め込むことが出来た。


肉と野菜を鍋に放り込み、岩塩を。

凍り付いたパンも割って、そのまま放り込む。


ボロクは鍋が煮えるのを待ち、外に。

雪の上に大の字に転がって空を見上げた。


暗い藍の海に、星々の生み出す薄青の川。

そして光を放つ青――空を漂う魔力の流れが蠢くのがはっきりと見えた。

それはかつて、偉大なる女王が行った大魔法による結果であったらしい。

天変の大法と伝わるもので、その結果に世界が魔力で満たされ――今も天空を莫大な魔力が包み込んでいるのはそれが理由であるという。

高い山に登り、夜空を見上げれば、肉眼ではっきりとそれが捉えることが出来た。


初めてその存在を感じたのは、十八の頃。

世界樹に登った時のことであった。

あの時見上げた夜空――そこに流れていた大いなる魔力の流れ。

ボロクはただ圧倒され、世界樹を征服したと誇っていた己の矮小さを知ったのだ。


千五百年も前に、世界そのものに魔法を掛けた偉大なる女王。

片や、小さな頂点一つを誇る自分。


――それから、ボロクは世界中を旅した。

山の頂を踏み、そして各地の世界樹を。

一部の地域では問題となり諦めたものの、多くの場所では大いなるものに挑んだ冒険者として称賛された。

しかし所詮、名声は次なる高みに到るための道具や足場でしかない。

それまでの旅路を本に記し、名を売って資金を集め、多くの山を攻略し。


全てはこの山の頂きに足跡を刻むため。

これはボロクの集大成であり、これまで刻んだ足跡の全てがこの登山の途上であったとも言える。


グレイビャルベは大地の角。

周囲の山々の連なりから外れ、大きくせり上がった独立峰。

緩やかな大雪原を上がっただけであったが、まだ入り口のここからでも周囲の山々を見下ろす高さ。

そしてグレイビャルベはここから更に大きく、角のように天へと氷岩壁を突き出した。


多くの冒険者、修行者がここに挑み、帰らぬものとなった。

雪崩と嵐の如き暴風、人の生存を許さぬ氷と大気。

いかに魔力保有者と言えど易々と駆け上がれるようなものではない。

体を岸壁から離し、その瞬間に風が吹けば、人の体など遥か下方へと叩きつけられるだろう。

これまでの経験から来る確かな想像は、この山の難しさを体に震えと恐怖の形を取って刻み込んでくれる。

そしてその恐怖に真っ向から立ち向かい、飲み込める人間でなければ、この山の頂を踏むことなど許されまい。


ボロクは空を見上げ、浮かぶ月に手を伸ばした。

そしてそれを握り締めると目を閉じ、雪を落とすと天幕の中へ。


煮えた鍋では溶けた肉の油と野菜が濃密な香り。

濁ったスープには栄養と旨味が溶け込んでいた。

肉と野菜、それだけでスープは美味い。


器にとって熱いスープを啜ると、喉から胃袋へと焼けるような旨味。

ニンニクを放り込んでおいたのが良い。

冷えた体が内側から火照っていくのを感じた。


肉の味を噛みしめながら、持って行く荷物を広げていく。

魔力糸のロープは伸縮自在、重量はあるが、大きな負荷を掛けないなら尺にして千は伸びる。

アックスは魔力との親和性を高めた人工のキュイリス鋼。アイゼンも同様であった。

どちらも熱を操作するための刻印が刻まれ、氷壁に突き立て魔力を通せばそれを溶かし、すぐさま凝固させることで容易に支点確保が行える。

この先の氷と岩の壁を攻略するにはこれ以上の道具はない。

数十年を費やし改良してきた道具達はボロクの人生そのものであった。


言葉にすれば、やることは単純。

足の爪とアックスを常に壁に食い込ませ、暴風に体を剥がされることないように這い登り、荷物は安全を確保した後ロープで引き上げる。

天候と雪崩の問題さえなければ、必ずやり遂げられるという自信があった。

それだけの経験を積んで来たし、実力もある。

歴史を眺めてすら、登山においてボロクの右に出るものはいないと断言が出来た。

しかし、それでも確実ではない。


自然というものはおよそ人が立ち向かえるようには出来ていない。

自らを鍛え上げたボロクは魔獣を相手にしても生き延びられる自信もあったが、だからと言って雪崩に勝利することなどあり得ない。

そうでなくても、屋敷のような大きさの氷塊が直撃すれば呆気なく死ぬ。

頂きを踏めるかどうかは結局、天運であった。


可能な限り最善を尽くし、神経質なまでに失敗する要因を消していき、限界まで己を鍛え上げ、その上で運に身を任せる。

それが山に挑むということ。

狂っている、とは理解していて、それでも踏み出すのが人の性なのだろう。


スープは美味だった。

しかし、下界で食う料理の方がずっと美味い。

金銀財宝が頂きにある訳ではない。

この先には楽園がある訳でもない。

何故、己はここに登ろうとしているのか、と考える。

何故山に登るのかと問われて、適当なことを語ったこともあったが、どのような答えも真実ではない。


ボロクは、己の挑戦を終わらせるために登るのだ。

高いところに登っても何もない、と己に理解させるために登るのだ。

あの日ボロクが取り憑かれてしまったものから、解放されるために登るのだ。


――いつか世界で一番高いところに行きたい、と。

あの時、漠然と思ってしまったから。


鍋一杯のスープを余すことなく胃袋に入れ、果実を食らい、紅茶を淹れた。

蜂蜜をたっぷりと混ぜ、活力へ変える。


世界樹の頂きで見た景色は、祝福であり、呪いであった。

己の人生を定めてしまうほどの感動とは、やはりそういうものだろう。


天候が安定するのを待ち、天幕を出たのは五日後の事。

岩壁に張り付くようにして、より高みへとよじ登る。

登るときにはただ、登ることだけを考える。


壁の形状から、どこを通る時、落石に遭いやすいか。

雪崩が起きた際、どの位置が最も安全か。

考えるのは常にリスクとリターン。

危険であっても一瞬で抜けられるならば、安全であっても時間が掛かりすぎるなら――そうして危険度を管理し、ルートを選択する。


絶対に安全な場所など山には存在しない。

どのような場所であっても氷や岩が上から頭を叩き潰す可能性はゼロではないのだ。

最終的に早く登ることが、総合的なリスクとしては軽くなる。


事前に頭の中に進むべきルートは叩き込んでいた。

体感には垂直に近い壁から、一歩一歩、どこに足を掛け、どこに踏み出すかまでを明確に。

後はイメージをトレースするだけ。

三日を掛けて更に一万尺の壁を征服し、到達するのはグレイビャルベの大顎。


天に突き上げるような岩山が無数に突き出すそこからは、再び傾斜なだらかな大雪原であった。

この先は未知の領域――雲と岩山のせいで、周囲の山からでさえこの先がどうなっているかははっきりと視認できない場所なのだ。

知っているのは、雪崩の巣であるということ。


正面――随分遠くに角のような頂きの姿が映り、その手前に広がるは大雪原。

雪で覆い隠されているが、時折突き出すような無数の岩山の穂先が見えた。

本来は起伏の激しい岩肌なのだろう。

雪がそれをなだらかな平面に見せているだけ。

間違った場所へ足を踏み出せば、クレバスの牢獄へと永久に閉じ込められることになる。

あちこちに見える雪面の襞。

貴婦人のスカートのように優美なそれは、クレバスに降り重なった雪が形作る天然の落とし穴であった。


先で休むかを少し考え込む。

日暮れ、というにはまだ早い。

少し先に見える岩はしっかりとしたもので天幕を張るには丁度良く、そこまでは日が暮れるまでに辿り着けるだろう。


ここは少しでも距離を稼いでおくべきだ。

そう考えるも、足を踏み出せない。

何故行かない、と己の行動に視線を惑わせ、先に見える岩に目をやる。


「っ……!?」


――その瞬間、大雪原が割れていた。


今足を踏み出そうとしていた場所に亀裂が入り、ずるり、と。

咄嗟にボロクは側の岩にしがみつく。


思わず目を閉じたボロクに聞こえたのは、日常では決して聞くことのない轟音であった。

小さな町一つを軽く飲み込むほどの雪が、雲の高さから滑り落ちる途方もない響き。

岩壁を登り火照っていた肉体が、芯から凍り付くようだった。


崩壊の音はしばらく鳴り止まず、遥か下方から。

その反響が落ち着いたのを感じて、浅くなった呼吸を整えながら目を開く。

上に積もっていた雪が滑り落ちただけなのだろう。

しかし、景色は一変していた。

左手にあった雪が大きく失われ、右手の大雪原との境目には高さ五十尺はあろう雪壁が生まれていた。


ボロクが踏み出そうとしていた雪原など存在せず、今、一歩を踏み出していたならばボロクもそれに巻き込まれていたことは間違いない。

死んでいたと言うことだ。

その場にしゃがみ込み、意識的にゆっくりと、呼吸を繰り返す。

薄い空気――興奮は肉体に深刻なダメージを蓄積させる。


その日はそこに天幕を張ることに決めた。

安定していたはずの空が、嫌な風音を響かせ始めた。





順調に見えた道程が切り替わる瞬間というのは不思議と、感覚で理解が出来る。


それは人が獣と変わらぬ頃から持っていた本能と言うべきものなのだろう。

あの瞬間がそうであった。


持って来た小天幕を強固に固定し、氷と岩に穴を空けていくつもアンカーを取った。

雪を固めて風よけのため、天幕の外側を覆い――順調であった行程からは一転。

結局ボロクは、その中で二週間を過ごす事になった。


中は熱源として用いる魔水晶の薄明かりを除き、光はない。

あれから空は荒れ狂い、外は吹雪き始めた。

山を駆け上がるように逆さに降った雪の嵐。

天幕の入り口など既に雪で覆われ、空気孔は煙突のように伸ばされていた。

そこを覗き込んでも空は薄暗く、今なお吹雪が続いていることをボロクに知らせている。


持って来た食料は合計で二週間分。

切り詰めているとは言え、頂点を踏んで降りられる量は残らない。


――失敗だった。

それでも、次に晴れ間が覗いた時に山を降りれば助かるだろうか。


そう考えながらも、嵐が止んだ後、ボロクは迷うことなく上を目指した。


雪崩のおかげで微かに視認できる岩肌の稜線を上下し、足を滑らさぬよう、這うようにして。

これは一生に一度の機会であり、ボロクの人生、その全てであった。

大雪原――グレイビャルベの顎を丸一日掛けて抜けると、その角に取り付いたのは夜のこと。

小天幕を張って、干し肉と干しニルカナを口にし、体を休め、翌朝、その氷壁にアックスを突き立て始めた。


風は嵐が常であった。

油断をすれば体を吹き飛ばされる、そんな暴風の中で、岩肌に体を張り付けながら。

右、左、右、と規則正しく、時には股が裂けるほどに足を上げる。

あるいは足元からの上へ押し上げる風に勢いを付け、跳躍すると更に高みへ。

一回一回が命を賭け金にする跳躍

しかし、そうでもしなければ体力が持たないことが分かっていた。

既に、余裕を持って登れるだけの食料はボロクにはない。


こう言うとき、自分が魔力保有者として生まれたことを両親に感謝する。

常人なら不可能であっても、魔力保有者であれば無理が利く。氷では無く岩に無理矢理アックスを突き立てることも出来たし、跳躍の一つで大幅に高度を稼ぐことが出来た。

この極寒で動けるのも魔力保有者故。


死を間近に不思議と湧き上がるのは、生まれたことへの感謝。

父と母を想う。

両親には長く会ってはいない。会いたいと思ったことはなかった。

向こうも家を飛び出した自分に、会いたいなどとは思っていないだろう。

冒険家として自分の名前は聞こえているはずだが、便りの一通もなく、ボロクも出すことはなかった。


不思議なもの。

厳しい教育と求められる責任に嫌気が差し、若い頃は恨んでいた。

だから家を飛び出したのだ。

なのにこうして、こういう極地に立つと思い出すのは決まって両親のこと。


古くから続く名家とは名ばかり。

小さな領地の領主として、家を守る父。

そしてそんな父を支える母。

カビ臭い習わしを守り続ける二人の姿。

そこに自由は無く、閉塞的で、息苦しく――両親はそれでも、先祖から受け継がれてきたものを守るため、代わり映えの無い日々を過ごした。


二人のことを思い浮かべると、何故山に登るのか、と考える。

本当は、高尚な理由でも、何でもない。

ただ、そんな両親に認めてもらいたかったのではないか。

考え方が違っただけ。

けれどそれでも、自分はあなたたちの息子なのだと――あなた達が他人に、先祖に誇れる息子なのだと、そう思ってもらいたかったのではないか。


自分にも他人にも厳しかった両親を思う。

節制に努め、無駄を許さず、まるで意思のない魔導人形のようだった。

その生き方は少しも幸せそうには見えず、けれどささやかな日常の中でふと笑みを漏らす姿は幸せそうで、領民達からは深く愛されていた。

飢饉の時には躊躇なく溜め込んだ私財を吐き出して彼等を守り、昔はどうしてそのような愛情を自分に向けてくれないのか、といつも考えた。


『我等は管理者だ。彼等が汗を流して手にしたものを預けられ、必要に応じて彼等に返す。この屋敷も食事も服も、あくまで彼等に与えられたものだと忘れぬように。……領主とは誰より、自制心を持たねばならない役職だ』


街や村で暮らす子供達の方が幸せに見えたのだ。

幼い頃から十分以上を求められ、眠る時間を削って鍛練と勉学を。

自分と同年代の子供が親に甘えるのを見ては羨み、褒めてもらうためだけに、認めてもらうためだけに努力して。

それでも与えられるのは、良くやった、の一言だけ。

両親はいつも、領民のために忙しかった。


岩に張り付き、呼吸を整え、右手を振るう。

よほどのことがなければ常に両手と両足、その内の三点を岩と氷に突き立てた。

そうでもしないと、暴風で体はすぐに吹き飛ばされる。


右手、左手、右足、左足。

右手、左足、左手、右足。

岩と氷に爪痕を残す。自分はここにいるのだと伝えるように。

誰も成し遂げたことの無いことをするのだ、と亀のような歩みで。


知識も知恵も、両親が与えてくれていた。

魔力の扱い方も、両親が与えてくれていた。

努力の仕方も、何もかもを、両親が与えてくれていた。

自分がここにいられるのは、彼等がいたから。

どれほど離れていても、自分は二人の息子であった。


呼吸が浅い。止まって呼吸を繰り返す。

薄い空気はいくら吸っても吸った気になれず、空を見上げた。

頂上まではもうそれほどもなかった。

頭が朦朧としてくるのを感じながらも、ただ上へ。


登山は苦行であった。

体中を酷使して、苦しみの果てに頂きを踏む。

朦朧とした頭で眺める高みの景色は、記憶にさえ残っていないこともある。

果たして頂きを踏んで何があるのか。

そこには何もなかった。期待などしていない。

ただ、登ったという結果があるのみ。


それでも、登るのだ、と思う。

高みへ、高みへ。

誰も到ったことのない場所に訪れた者として、その名前を刻むために。

その名を響かせ、伝わるように。


もう少し、もう少し。

頭は朦朧としている。

思考が纏まらなかった。

それでも体に刻み込まれた莫大な経験が、ボロクを高みへと導いた。


アックスを叩き込み、爪を突き立て、上へと這い。

最後の一撃を振るった瞬間には、体に痺れるような感覚があった。


――頂点の感触。

このグレイビャルベを征服したという、実感。

最期の力を振り絞って魔力を迸らせ、体を引き上げ――


「あの……何してるんです……?」


眼前にあったのは、肉を刺した串を囓る銀の髪の少女である。


その場違いな美貌に困惑を浮かべ、女神は首を傾けた。

ボロクはずるりと足を滑らせた。


思わず悲鳴を上げ、急斜面を滑り落ち、その体を突如包み込むのは浮遊感。

体は宙に浮き上がり、魔力の球体に包まれていた。


ふわりと重力を無視するように、体は再び頂きへ。

串を片手にこちらを見つめる紫の瞳と再び目が合う。


山の頂に到って、それほどの驚きはこれまでなかっただろう。

気温が一気に上がり、極寒であった大気には温もりがあり、風など吹いていなかった。

そして、そこにあるのは美しき少女達である。

何かの宴か。

油の滴る肉を串焼きにして手に持ち、ボロクのような防寒具らしきものを身につけているものは一人もいなかった。

むしろほとんどがエプロンドレス姿で、ズボンを身につけているものさえ金の髪の少女一人だけ。

毛皮の少女などは毛皮の他、胸と腰に巻布だけを着け、へそまで出していた。


焚き火の上に網が設置され、じゅうじゅうと音を立てる他、誰もが無言で困ったようにボロクを見ており、声を掛けてきた銀の髪の女神(彼女もエプロンドレスである)も不思議そうにボロクを眺めた。

凍えているのもあったが声も出せずに呆然と彼女らを眺める。

傍らには大きな、けれど風が吹けば容易く飛ぶような天幕。

何故か無数の小さな雪だるまが周囲に並んでいた。


世界で最も高き場所で、さながら冬の街道か何かのよう。

嵐が常であるはずの世界は、ここだけが歪なほどに穏やかで、己が死んだのではないかと思うほどであった。


しかし身を包む球体は魔法によるものに違いない。

大魔導ともなればその身を宙に浮かび上がらせることが出来ると知っている。

そうした偉大な魔術師とも縁があったが、目の前にある存在は大魔導などという域を遙かに超えたものだろう。


串を囓りながら片手間に。

滑り落ちるボロクへ指先を向ける銀の髪の少女――それは一瞬のことだった。

魔法が使われたことにも気づかぬ間に、ボロクの周囲に刻まれ描かれた術式の精緻さと超越的速度はまさに神のそれである。


銀の髪の少女はぽん、と串を持ったまま手を叩き、とてとてと網の上から串焼きを一本持って来て、ボロクに差し出す。

同時に、浮かんでいたボロクの足は雪を踏んだ。


「えーと、食べますか?」

「っ、いえ……」


混乱の極地であったが、ひとまず膝を突く。

あまりに異常な状況――胡乱な思考であっても、この状況がどういうことかくらいは理解していた。

神々の宴。

己は恐らく、この山の頂でそこに迷い込んだのだ。


「……も、申し訳ありません。このような……神聖なる宴を穢してしまうなど」

「神聖……?」


美しき少女は小首を傾げ、考え込む。

観察すればするほどに、少女の美しさは神々しいものがあった。

全てが美として作られた彫刻の如く、美しい少女。

月明かりと焚き火の光に輝く銀の髪。

長い睫毛に包まれた大きな瞳は紫水晶のようで、その姿は紛れもなく、美そのものとして作られた存在であった。


今、己は、神々の御前にいる。


そう考えたところで意識が途切れ――


「……?」


――ふと目覚めると、天幕の中であった。

グローブに包まれた両手を眺め、確かめ、己が生きていることを確かめる。


身を起こすと、体は不思議と快調。


「何故、天幕の中に……」


無意識に天幕を張ったのだろうか。

あの朦朧とした状態で、あのような夢を見て。

眉間に皺を寄せ、咄嗟に天幕を出て表に出ると硬直する。

ここは山頂であった。


だというのに風はなく、大気が濃い。

眼下にある雲や白き山並みを眺め、不思議と無風の世界を眺めた。

外から見た小天幕は、風除けの雪で固めてすらいないにも関わらず、一晩無事に保っていたのか。

東の空からは太陽が輝き、ボロクのいる山頂を照らしていた。


ただそれを眺め、ふと、涙が零れる。

言葉では表現できぬ感情が、胸の内を張り裂かんばかりに膨れあがっていた。


「これは、女神の……」


ぼんやりとした記憶の中――美しき女神達の姿を思い出そうとして首を振る。

ただ美しかった。

それしか思い出せず、そしてふと周囲を見渡せば、周囲には無数の小さな雪だるまが残っていた。

自然に出来たものではない。


夢ではない。やはり、ここには女神がいたのだ。

そして、ボロクを助けた。


大気を吸い込み、目を閉じる。

そして再び目を開き、その景色をしばらくの間、目に焼き付けた。


天地が逆さになったよう。

雲は遙か下に。吸い込まれそうな青が天を埋め尽くす。

白い山並みが見え、遠目にうっすらと、人の住む世界が見えた。

グレイビャルベの頂点は、天気が良ければ近くの村からも見えるのだ。

同じく、グレイビャルベからもそちらが見えるのだろう。


――帰ろう、とぼんやり考える。


リュックから二つ、魔水晶を取り出した。

測量用の魔水晶であった。今回の登山、その出資者からの依頼でもあり、そしてそれが、グライビャルベ制覇の証拠。


最も高いその場所で、魔力を送り込むと、魔水晶はそれに反応して自壊。

光り輝く波を大気に伝播させた。


「……ここは、神々の地だ」


そしてもう一つを見つめ、リュックに戻す。

先ほどのものは送信用。

戻したものは受信用。

棒に取り付け、頂点に突き立てておけば、この魔水晶は半永久的に受信機の役割を果たしてくれる。

だが、それはしなかった。


この頂上は、人が荒らして良いものではない。

今こうして余裕があるのは、ボロクが彼女たちに救われたからに他ならない。

自分がここにあったという証拠は先ほどのもので十分。


両手を組んで祈りを捧げ、天幕を片付ける。

そしてリュックにそれを収納し――ふと、リュックの中に見慣れぬ小袋があることに気付いた。

中にぎっしりと入っているのは、干したニルカナの実。

ボロクが持ってきたものとは違うもの。


口にすると――それはまさに、天上の味わいだろう。

雪のように溶けていく甘味の味わい。

それは、楽園の果実であった。


誰がこの中に入れたのかなど、考えるまでもない。


「ありがとうございます、女神よ」


再び両手を組んで礼を述べ、それをポケットに入れると歩き出す。


あれほど荒々しかったはずの山――しかし、帰り道は過酷なものとはならなかった。

山を下り始めればすぐに大気は薄まり、山の厳しさを思い出させたが、驚くほどに風はなく、天候は落ち着いていた。

雪は驚くほどにしっかりと締まり、雪崩の一つもなく。


きっと、女神が見送ってくださっているのだろう。

気を抜かず下りながら、胸の内にあるのは感謝の念のみ。

ボロクは女神に生かされたのだ、と、感じた。


怪我もなく、病もなく。

そうして無事に登山を終えたボロクは、その後一年で本を出し、全ての後始末を終え、生まれ故郷へと帰った。


己のためだけではない。

自分が生かされた理由はきっと、そこにあるのだと。








「きっと答えを得るために、人は無駄なことに時間を費やす。私は人よりずっと、長い時間を掛けて、ここが己の場所であると気づいたんだろう」


世界樹の側にある、山間の田舎町。

老人となったボロクは、そこを歩きながら、孫娘の頭を撫でた。

分かったような、分かっていないような顔で孫娘は頷きつつ、そんな顔を見ながらボロクは苦笑する。


「どうして山になど登っていたのかと聞かれても私には答えられないが……多分、私がここに戻ってくるには必要なことだったんだ」

「ふぅん……」


町の人間達はボロクを見ると、領主様、と嬉しそうに頭を下げた。

それに手を振り笑顔で返す。

決して豊かとは言えない町――けれども人々は幸せそうに笑っていた。


かつては竜がいたとの伝承が残り、世界樹の他は何もない町であった。

だが、何もない町ではないし、何もない町などない。

山よりもずっと、多くのものがここにはある。


――父に許しを乞い、頭を下げると、父は何も言わず肩を叩いた。

ボロクの部屋は出て行った時から変わらず、母が綺麗に手入れをしていた。

ボロクは登山に向けていた情熱を注ぎ込み、失われた時間を取り戻すよう、必死で努力した。


父はそんなボロクをことさら褒めることはなかったが、けれど死に際に、


『お前という息子を誇りに思う』


ただ、そう告げた。

その一言は、あの日グレイビャルベの頂上で目覚めたときよりも誇らしかった。


「時に回り道をすることもあるだろう。しかし人とは――」

「――あ、お爺さま、ニルカナ!」


孫娘は話の途中で駆け出し、唖然とし、すぐにボロクは苦笑する。

どうして山になんて登っていたのかと、せがまれてした山の話がいつの間にか説教に。

飽き飽きした様子の孫娘にも気づかず、歳を取ったものだと頭を掻き、孫娘の向かった露天に近づく。


世界樹の観光を売りに出し、旅人や行商もそれなりに集まるようになった。

市場には露天がいくつも並び、果実や野菜、ワインを並べたこの露天もその一つ。

背伸びをして商品を眺める孫娘を抱き上げると、ニルカナを少し、と商人の少女に銅貨を三枚手渡した。


「ええ。クレシェンタ、ニルカナを銅貨三枚分」

「どうしてわたくしが」

「文句言わないの。働かざる者食うべからずよ。たまには働きなさい」

「……絶対わたくしの仕事じゃないですわ」


顔を見ると随分と若い金の髪の少女が店主。

後ろではその妹か、赤味を帯びた金の髪を揺らしながら頬を膨らませ、ニルカナの実を袋に詰め込む。

二人とも驚くほどに美しく、華美ではないが品の良いシャツとスカートを身につけていた。

父親に店番を任されたのだろうか――妹らしき少女は不満をありありと浮かべながらもニルカナの袋をボロクに手渡す。

その様子に親に反発していた昔の自分を思い出し、苦笑しながらそれを受け取る。

ありがとう、と礼を言って、そのまま背中を。


「大体こんな仕事しなくたってわたくしなら――」

「はいはい。ほら、あーん」

「むぐ……、この……っ」


文句を言い合う少女達の声を聞きながらニルカナを取り出し孫娘に。

頬をほころばせて、すごく美味しいと笑う顔を見ながら、自分も一つ。

不思議と懐かしい味がした。


先ほどの露天を振り返ると、エプロンドレスの少女達がその前に。

大きな荷車に大量の荷物を載せて――ふと何か、違和感に眉間を揉んだ。


そう言えば、山の頂きで見たのもエプロンドレスの女神であっただろうか。

そしてニルカナ――思い出すのも必然かも知れない。

エプロンドレスに銀の髪、そんな少女を眺めていると、どうかした、と孫娘に髭を引かれ、やめなさい、と笑って首を振る。


目にした翠虎にも気づかず、少女達にも気づかず、ボロクは孫娘にニルカナをまた一つ。

山の上とは違う日常の景色に目を細めながら、平らな石畳に足跡を刻むように。

一歩一歩、孫娘の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。












『裏番組:第五十七回クリシュタンド雪山遭難ツアー ●REC』

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