クレシェンタと邪魔な置物 中

どれほど努力しても無意味であることを知っている。

認められぬことを知っている。

どれほど努力をしようと、いつだって目に映るのは結果だけ。


「キリクはまず刃の立て方が悪い。それじゃ繊細な彫刻には――」

「……もう黙っててくれ兄さん。俺には才能がないんだ」


キリクが放り出した彫刻を眺めて、兄が言う。

貴族や商人向けの馬車彫刻――箱馬車の壁や車輪に装飾を施す職人の家にキリクは生まれた。

不器用であった訳ではない。

単なる木工程度ならば得意であったし、人並み以上に出来る自信はあったが、ただ――芸術的な彫刻となれば話は別。

必要なのは何よりもセンスであった。

キリクは凡庸で、兄は十の頃から客に出す彫刻を行える天才。


幼い頃から比べられて来れば、嫌でも分かる。

そもそも、生まれ持ってのものが違うのだと。


「……十五になったら家を出るよ。俺には彫刻なんて無理だ」

「キリク……」

「兄さんがいれば家も安泰だ。俺はいらない」


父に溜息を吐かれるのが怖くて、必死で努力はしたつもりだった。

上達していないとは思わなかったし、あと数年努力すれば、それなり――客に出せる程度のものは刻むことが出来ただろう。

けれど最低限では、ここの職人として相応しくはない。


「そう言うな、お前だって上達してる。親父や周りの目なんか気に――」

「――残ったところで、一生兄さんに比べられて生きる事になるんだ」


そんなのはごめんだ、と吐き出すと、兄は目を伏せる。

兄は何も悪くなかった。それどころか、心から尊敬出来る立派で、優しい兄だった。

人柄も良く、才覚もあって、努力家で、絵に描いたような立派な職人。

ただ、そんな兄の隣で、一生比べられて生きるなんてことは耐えられない。

出来た兄の、落ちこぼれの弟――そんな目で見られ続けてこの先数十年を生きるだなんて、考えるだけで気が遠くなる。


「……悪い。兄さんが悪い訳じゃない。だけど、家にはいたくないんだ」


兄は首を振って、頭を叩いた。


「お前が誰より努力してることを俺は知ってる。ただ、根を詰めすぎているだけだ。……少し、何もせず休んだらどうだ? 親父には俺が――」

「……やめてくれ。いいんだ」

「それなら……他の職人の所はどうだ? 俺にも親父にも何人か心当たりが――」


首を横に振って、いい、と答える。


「しばらく、物作りからは離れたい。人夫仕事か何かを探してみるよ。家を出るための金は前からちょっとずつ貯めてたんだ」

「……キリク」

「戦続きで彫刻の仕事も少ない。外で稼げるなら口も減って、その方が家のためになる。余裕が出来たら少しずつでも家に金を入れるよ」


彫刻の仕事は戦が続くと一気に減る。

どこも余裕がなくなるし、戦の時期にはどこもそういう贅沢に金を使いたがらないためだ。

貴族も商人も外聞を気にする。

小麦から何からが高騰する時期に贅沢な彫刻などに金を掛ければ、民衆からの顰蹙を買う。

いくら金があっても、節制しているというポーズを取る必要があるのだ。


だからと言って民衆に金が回る訳ではないのだが、どうあれ、彫刻を主にするキリクの家には痛手。

今も簡素な彫刻ばかりで暇を持て余し、他の木工職人の手伝いが多い。

出稼ぎに出るというのは、理由としても丁度良かった。


魔水晶の鉱脈が見つかって人夫を集めているとの話もあったし、そうでなくともそういう仕事は選ばなければいくらでもある。

治水工事だなんだと、治安維持のためだろう。国は失業者対策に力を注いだ。

誰にも迷惑を掛けず、せめて一人で食っていけたならと考えていたキリクには丁度良い。


十五になると客の商人からの伝手で隊商に同行させてもらい、近くの街まで。

それなりの稼ぎになるという鉱山を目指し――その最中に、賊に襲われた。


剣を振ったこともなかったが、職人として鍛えられていたおかげもあるのだろう。

あるいは無意識に、肉体拡張を行っていたのかも知れない。

襲い掛かってきた男二人を殴り飛ばし、奪った剣で一人の頭を叩き割った。

それを見ていた商人に感謝を告げられ、鉱山などではなく、護衛として雇われないかと言われたのが始まり。

そこからキリクは隊商護衛として働くことになった。


ツルハシの代わりに剣を持ち、予定とは大いに異なった。

元兵士だという古株から剣を教えてもらい、鍛え、周囲に目を光らせる日々。

神経を研ぎ澄ませ、肉体的にも精神的にも慣れぬ生活――辛くはあったが、家にいた頃に比べればずっと良かった。

命の危機など両手両足の指の数など優に超える。

人の目からは逃れられなかったが、数度の修羅場を潜り抜けると皆がキリクを頼り、あんたがいれば安心だと笑みを浮かべ、肩を叩く。

誰もが、キリクという個人を見てくれていた。


もらえる金も随分と増え、懐にも余裕が出来ると、不要な分は兄の所へ。

時折顔を出すと兄は嬉しそうに迎えて、ささやかな宴を。

帰ってくる度この身を案じて、帰る気はないか、とキリクに尋ねた。

何年経ってもキリクを心配してくれる兄のことは嬉しかったが、断った。

これが一番良い関係なのだろう、と。


けれどやはり、隊商護衛も不安定な仕事には変わらない。

賊との戦いの最中、片目を失い大怪我をしたことで、しばらく休むことになり――それから、以前ほどの仕事はもらえなくなった。

見舞金もくれたし、身を挺して守ってくれた恩義にと世話も焼いてくれたが――護衛としては不安が残ったのだろう。

片目のキリクに以前ほどの働きが出来るのだろうか、と。


体が動くようになってから必死で鍛え直し、前と変わらぬ力量を取り戻そうと、どれほど努力をしようと、賊に大怪我を負わされた護衛という結果が纏わり付いた。

北部の将軍に英雄クリシュタンドが据えられたことも理由だろう。

賊の数も随分と減ったこともあり、仕事は奪い合い。

なまじ食っていける最低限の稼ぎがあったことが不幸だろう。

離れられず、キリクはそこにしがみつくことに必死で過ごす。


――いっそ、自分が護衛する馬車が襲われてしまえばいいとさえ思った。

賊が現れて、それを打ち負かし、実力を証明し、また以前のように周りから頼られる自分に戻りたかった。

どれほどの努力をしようと証明できなければ意味がない。

結果こそが全てであって、その結果を持たない者に世界は残酷であった。


内戦――王権戦争。

疲れ果てたキリクが兵士になろうとしたのは、それが理由。

キリクは己を求めてもらうために、認めてもらうために、そのための何かが欲しかったのだ。


「んー、キリクとカルアはこの中だとマシでしょうか。ダグラ、二人はとりあえず訓練より教導に回していいです」

「は」

「後多少マシなのはコーザ、ダズ、キーニッツ、ザーカ、バグ、アドル、ケルスですね。必要に応じてこっちも使っていいです」


黒の百人隊――クリシェ=クリシュタンドの特殊部隊。

子供のような少女が指揮すると聞いて、多くの者は何の冗談かと思ったようだったが、選別の時点で彼女の力量は理解していた。

流れるように数千人の選別を行なう姿――あれを見ただけで、彼女がどのような実力者であるかは察することが出来る。

平原に立ち、兵士達の前で堂々とクッキーをつまむ威厳のない姿――しかしその立ち姿には一切の隙がなく。


「キリクは軍務経験がないはずですが、わりとしっかりとしたロールカ式です。誰かに習ったものですか?」

「は。隊商護衛をやっていた、元軍人の方に……」

「基本的な事は一通り学んでいるようですね。選別の時に見た限りではそこそこちゃんと鍛えてますし、実戦経験も結構あるように感じます。他の人も剣はなるべくキリクに教えてもらうように……カルアでもいいのですが癖が強いですし」


剣を見せたのは三週間も前の話であったが、当然のように彼女は口にして、キリクは静かに拳を握った。

自分の半分も生きていない少女に覚えられ、認められたことが誇らしかったのだと言えば、きっと馬鹿にされるだろう。


少なくとも彼女は、今のキリクをそう評価してくれたのだった。

片目を失い大怪我を負っても、努力を重ねて取り戻したキリクのことを。


他人が聞けば、高々それだけのことで、などと思うのかも知れない。

ただその言葉は少なくとも、この少女について行こうと思うに足るものであった。

何も、彼女はキリクが積み重ねた努力を見てくれた訳ではない。

キリクの能力を評価しただけ。

その異様なまでの才覚と、絶対的な瞳によって。


それでも、その一言がキリクにはどうしようもなく嬉しく、誇らしかった。


期待される限りの、求められる限りのことを。

そのためにとそれからも鍛練を惜しまず。


――ベリーとクレシェンタがアーナに行くので、キリク、あなたに護衛を任せます。


そう告げられた時のことも、良く覚えている。

お前が最も適任で、一番安心出来る――そう彼女に伝えられて。

そうしてその後は、女王陛下の護衛役までも任されて。


順風満帆、というには出来すぎていただろう。

つい一年前には隊商護衛としてすらどうかと思われていた己が、今では女王陛下の護衛なのだ。

今度は喜ぶ以上に恐ろしくなる。


可能な限り鍛えたとはいえ、キリクは凡人であった。

単なる隊商護衛として、一兵士として見れば己は他より優れていたが、竜の顎での戦いで己のことは知っている。

キリクより腕の立つ人間は両手両足の指で数えきれぬほどにいたし、少なくとも、王国そのものと言うべき女王の護衛としてはあまりに能力不足だろう。

自分の守る馬車を襲えとさえ考えていたのも、いつのことか。

キリクは何事もなく一日を乗り切れるようにと、毎日のように神に祈った。


「……今日も大変なお務め、ご苦労様でしたキリク様。クレシェンタ様は明日お休みされるようですし、たまにはゆっくりなさって下さい」

「……は。ありがとうございます、アルガン様」


日暮れに屋敷の前で――三国との戦が始まる前のこと。

彼女が刺されて、その騒動が落ち着いてしばらくした頃だろう。

再び彼女は女王の側付きとして王城に訪れるようになった。


普段の公務はアーネという黒髪の使用人が側付きとして女王の側にある。

アーネは人柄良く皆から好かれるような使用人であったし、元々王領の使用人と聞いていたとおり立ち居振る舞いも立派なもの。

ただ、少し抜けているところがあり、それを懸念したのだろう。

他国から使節や賓客が訪れたり、普段と異なる公務がある場合には大抵彼女――ベリー=アルガンが側付きとして女王に付き添った。


彼女は王家の使用人というイメージを、そのまま形にしたような使用人。

例えば戦場のクリシェのように、誰の目にも分かるような優れた存在と言う訳ではない。

アーネと比べても特別素晴らしい働きをしているようにも見えなかった。

けれどいつの間にか全ての準備が整っていて、その日起きる全てが決められたスケジュールに組み込まれているかのように淀みない。

長引いたと思った話し合いも、後で振り返ってみれば枠の中。

明日は忙しいと考えていたスケジュールにさえ、不思議と茶を飲み、のんびりと昼食を取る余裕すら生まれているのだ。

彼女があって生じた問題など、彼女が刺されたあの時くらいのものだろう。


注視しなければ誰も疑問に思わず、気付けもしない。

理解出来るのは仕事柄接する機会の多い、キリク達くらいのもの。

黒旗特務でも彼女の事は、クリシュタンドの筆頭使用人、クリシェ様のお気に入り、という程度にしか認識もされていなかった。


美しくも愛らしい童顔。

背丈も低く小柄で華奢――見た目には少女のようで、柔らかい笑みは優しげで、しかしその薄茶の瞳だけが理知的な輝きを帯びていた。

誰かに似ていると思うのは、いつも女王の側にあるからだろう。

赤毛を揺らして、首を傾け。

そうしてその隙間から見つめる瞳は、気遣うようで探るよう。

女王が女王として完璧であるように、使用人としてあるときの彼女もまた完璧な存在であった。


「この数日、少し難しい顔をなさっていましたけれど……何か、気に掛かることが?」


特に警戒している訳でも、疑う訳でもないのだと思う。

僅かな表情や雰囲気から綻びを眺めるように、意図を察して糸を手繰る。

可憐な花と頬を緩めていると、いつの間にか森の奥へと誘い込まれているような――ツタで絡め取られているような、何とも言えない感覚。


香り一つで旅人を惑わせる、お伽噺の花だろう。

彼女は呼吸をするように、小さな綻びを目に留める。


「……いえ。もう本当に、お怪我の具合はよろしいのですか?」

「はい、おかげさまで。キリク様にも随分な心配をお掛けしました」


脇腹をなぞって微笑み、お気になさらず、と続ける。


「全てわたしの軽率な行動と油断が招いたことです。……キリク様のお役目はクレシェンタ様をお守りすること。わたしの不手際に心痛める必要も、責任を感じる必要もありません」

「ですが――」

「結果的にはどうであれ、使用人が少し離れた程度の事で人手を割くのは合理的ではありませんし、わたしが刺されたことはキリク様のお仕事と無関係ですよ」


くすり、と指先で唇をなぞり、ほんの少し首を傾け目を細める。


「キリク様は本当に武人らしい、真面目なお方ですね。……クリシェ様もクレシェンタ様も、きっとキリク様のそのようなところを見て、護衛役にとキリク様をお選びになったのでしょう」

「……私には、荷が勝ちすぎるお役目です」


キリクは嘆息するように言った。

キリクはあの時も護衛として側にあり――侵入者があったと聞こえた瞬間、何よりもまずクレシェンタを安全な場所へ避難させることを考えた。

状況が分からなかったためだ。

しかしクレシェンタはベリーの所へ向かう旨を告げて駆け出し、キリクはその間、気が気ではなかった。

いざ刺客があった場合、自分が女王を守り切れるかどうかだけを考えて。


ナイフやベリーの状態からすぐさま処置を始めたクレシェンタと違い、精々出来たことは部屋を固めて、近くにいたネイガルを報告へ走らせたくらい。

結果は、女王の側付きであった彼女が刺されるという失態のみだった。


「女王の護衛役を何よりの栄誉と思っております。身命を賭す覚悟も。しかし、これから先の戦、女王陛下の身辺にはより大きな危険があるかも知れません。……己の非才は誰より理解しております。どなたか別の――信頼出来、より腕の立つ誰かにお任せするべきなのではないかと」


頭を下げる。

どこかから溢れるように、言葉は流れた。


「アルガン様が刺されたのも、やはり、どうあれ責任の一端は私に。女王陛下もクリシェ様も、アルガン様もそのように、ありがたいお言葉を掛けて下さいますが……私は精々が剣達者な男です。本物の刺客と相対した時、私では……」

「……それも踏まえて、きっとお二人はキリク様をとお選びになったのだと」


顔を上げると、彼女は微笑んでいた。


「……そのように重く、その責務をお受け止めになるのは、クレシェンタ様を深く案じておられるが故。わたしも僭越ながら、クレシェンタ様の護衛役にキリク様のような方がいらっしゃることを心強く思っておりますよ」


知性に透き通った、薄茶の瞳は真っ直ぐと。

長い睫毛の隙間から、どこまでも静かにキリクを捉える。


「忠義、忠誠だなんて言葉を口にされる方は多くいらっしゃいます。けれど目にも見えず、形もない、そんなものを確かに響かせるような方は本当の一握りでございましょう」

「アルガン様……」

「そこに一切の疑う余地がないと思えることほど、心強く、頼もしいと思えるものはありません。キリク様のように、真に信頼出来るお方が側にある――クレシェンタ様はそのことに安心して、だからこそお任せになっているのだと思います」


クリシェ様もわたしも同様、と美しい一礼を見せた。

白波立たぬ水面の如く静かに、音が吸い込まれるような所作であった。


「護衛があろうとなかろうと、事を起こす者がいるならそれを踏まえて策を練るでしょう。仮にアーグランド辺境伯がキリク様に代わったとして、だから安心とはなりません。……主導権を握るのは常に、事を起こす側にありますから」


――大事なのは心構えであると思うのです、と。

キリクの臆病さを嘲るでも笑うでもなく、優しげに。

周りの空気ごと包み込まれるような錯覚すらあり、


「事なきが常。そんな代わり映えのない日々を繰り返してなお、神経を尖らせ緩ませることなく、常にそうやってご自身の責務と向き合える方がどれほどいらっしゃるでしょう? ……わたしなどはそのお心こそ、王国の宝であると思っておりますよ」


ただただ、不思議な方であった。


「他ならぬクリシェ様やクレシェンタ様がキリク様をお選びになったのです。……もう少し自信をお持ちになって下さい。……このようなこと、先日同じことで叱られたわたしが言えた義理ではないのですけれど」

「……アルガン様が?」


恥じらうように、困ったような微笑を浮かべて、静かに頷く。

全てを見通す賢者のように、けれど時折、彼女はまるで、少女の顔を覗かせる。


「……ふふ、クレシェンタ様は知っていらっしゃる通りの厳しい方ですけれど、キリク様の仕事振りに対しては何一つ、これまで口にされたことがないのです」


わたしが見習いたいほどですね、と楽しげに肩を揺らして。

こちらに近づくと、見上げるように。


「無論、護衛の大任は霧の中を歩むが如き難事。道標も終わりもなく、お務めのご苦労全てをわたしの如きが理解出来るとは思いません。けれど……少なくともわたしはそのように感じておりますし、側で誰よりキリク様を見ておられる、クレシェンタ様もきっと同様」


心地良い風音のように、そんな言葉を響かせた。


「……キリク様がどれほど日々の仕事と真剣に向き合っておられるか。それを理解し、信頼していらっしゃるからこそ、キリク様であればとその大役をお任せになっているのだと」


赤い髪が、動きと微風にさらりと揺れた。

彼女はもう一度、ゆっくりとキリクに頭を下げる。


「お心が軽くなればと差し出がましいことを。……お許しくださいませ」


事なきが常――はっきりと形に残る結果はなく。

あるいは、彼女の仕事も近しいものなのだろう。

淀みなく、滞りの一つを作らず、それこそが仕事の全て。

彼女は何一つ生み出すことなく、結果を求めず、ただただ流れを整えるだけ。


けれど彼女がこれほど重用され、信頼される理由はキリクにもよく分かる。

それは、彼女が口にしたようなものが理由だろう。

目に見えず、形にもない何かが、きっとそう思わせるのだ。


「……いえ。何より、ありがたいお言葉を頂きました」


同じなのだ、とキリクは考える。

己の役目は、己の役割は、決して剣を振るうことではない。

剣を振るわぬために最善を尽くすこと。

そして女王陛下に、変わらぬ日々をもたらすこと。


護衛として選ばれた日から、この身は飾りの剣であった。

必要なのは実用性などではなく、それと分かる輝きだけ。


無用の長物であることが、キリクの価値であるのだから。


「護衛にあるまじき言葉をお聞かせしました。……ご容赦を」

「こちらこそ、ご容赦を。……ふふ、クレシェンタ様には秘密にして頂けますか? このようなことを口にして、キリク様に対して一体何様のつもりかと叱られてしまいます」

「まさか……お願いしたいのはこちらの方です。……ここだけの話ということにして頂けるとありがたく」


頭を下げると楽しげに笑いを零し、無かったことにしましょうか、と彼女は告げ。

そうしましょう、とキリクも笑い、顔を上げる。


胸ほどの高さの、美しい使用人。

赤い髪と長い睫毛は薄茶の大きな瞳を隠して包み、口元に笑みを浮かべると、花が綻ぶようで、品が良く柔らかい。

美しい淑女と言うべきで、けれど低い背丈と細い肩が少女のようで――相反するものが合わさり、重なり合った姿は何と呼ぶべきだろうか。

一見完璧で、けれどどこか隙があり、その姿が彼女自身の内面を表していて。


あえて言葉にするならやはり、


「……それでは。今日はゆっくりとお休みを」

「ええ。……失礼します、アルガン様」


不思議で、魅力的な方であったとする他ないだろう。








――その日と翌日を使って、考えたのは配置の見直し。

護衛班は基本的に十名。

もう一人の元班長ナズルを副班長とし、状況に応じて交替しながら護衛に当たる。

基本的には五人が揃って女王に同行、その身辺警護を行っていたが、これ自体がまず無意味であった。


「そういえば少し気になっていたのですけれど……アークル様とバル様がさっきから離れていらっしゃるのは、今朝言っていた配置換えが理由かしら?」


王城の廊下を歩いていると尋ねられ、キリクは頷く。


「はい。先日の一件から根本的な見直しを。今後は側に置くのは基本的に二人から三人――他の者は側から離れて周辺配置としました」


護衛班を小さな軍として見れば、間抜け面を晒して本隊を無防備に進ませる事などもっての外だろう。

仮に敵との競合地域を進むのであれば、必ず斥候を出し、本隊周辺の安全を確保する――そうキリクは教わった。


キリクは隊商護衛などではない。

アルベランの女王陛下、その身辺守護を担う近衛兵。

馬車に続いて歩き、賊に襲われ剣を抜くような、対症療法的働きが求められているのではない。

不埒な輩に襲わせず、先手を取らせぬためにここにある。

女王の側で剣を引き抜かざるを得なかった時点で、キリクの仕事は失敗なのだ。


「一人は常に先行させ、もう一方は後方から広く、我々の周辺を含めて警戒を。以前は状況に応じて似た形を取っていましたが、改めて練り直しこのように」

「……なるほど」

「側で五人というのは見栄えこそ悪くありませんが、初動と状況把握に遅れるという欠点がありましたので、最低二人を斥候役にと考えました。無論、ご心配ならクリシェ様に増員を願い、側に最低四人をということも考えておりますが」


不要ですわ、と小さな女王は微笑んだ。

それから、紫色の瞳をこちらに向ける。


「本当に真面目な方。キリク様のような方が護衛にあって、本当に頼もしいですわ。……ですが、先日のことはあまり気になさらないで。あなたの不手際ではありませんし、悪い偶然が重なってのものですから」

「は。……お気持ちは何よりもありがたく。しかしやはり、私の考え足らずによるものです。以前から現在の形を取っていれば、少なくとも……アルガン様があのようなお怪我をされることもなかったでしょう」


キリクはそう言葉を返して、目を細める。


「私もこの者達も等しく、命に替えても女王陛下をお守りするつもりではありますが、情けなくもいかなる敵をも打ち破る剣腕を持ち合わせてはおりません。……そうであればこそ最善を尽くし、無用な騒動から女王陛下を遠ざけるために知恵を絞り、剣を振るう事態を招かぬよう周囲の安全確保に努めるべきだと考えました」


使用人がそうであるように、事なきこそが護衛の誉れ。

淀み滞ることのないよう、道中の霧を払うことが己の仕事。


「しばらく気になるかも知れませんが、ご容赦を」

「いいえ。そういうことならばわたくしからは何も」


霧の中を歩むが如きと彼女は言った。

その通りだとキリクも思う。

主君の歩く道の先――その霧を払うことこそが、護衛に求められる役割なのだ。

先が見えないことを恐れるからこそ、キリクにはここに立つ意味がある。

キリクが恐れるからこそ、守るべき主が気兼ねなく道を歩めるのだ。


「先日の事をまだ気に病んで、無理をされておられるのではないかと少し、気に掛かっただけ。あなたの真面目な働き振りには本当、感謝してますわ、キリク様」

「は」


働きを評価されることなど求めてはいけない。

当然のように、そうであるべきことをするだけ。

安全な屋敷の中を歩くように、気兼ねなく主君が歩けるように、ただそれだけのために全ての能力を使うことがキリクの仕事。


見習うべき姿を、キリクはいつも目にしていた。


「クレシェンタ様、ある程度纏めておきましたが、どうしましょう? 先に少し休憩されますか?」

「……自分の紅茶も注いでおいて何を言っているのかしら。本当不真面目でろくでなしな使用人ですわね」


執務室の扉を開くと、当然のように書類が執務机の上に仕分けされており、応接用の机の上にはクッキーと紅茶。

赤毛の使用人は楽しげに肩を揺らし、彼女の主を迎え入れる。

味覚を失ったと聞いていて、けれど彼女はそれを感じさせぬほどにいつも明るく。


「ふふ、今日のクッキーはアーネ様にこれまでで最高のクッキーだと評価して頂いたので、是非にクレシェンタ様にもご賞味頂きたいと思いまして」

「ワインの売り文句より信用なりませんわね。あなたは隙を見ればお茶に昼寝と、少しはキリク様の真面目さを見習ってはどうなのかしら」


女王陛下は荒々しく、文句を言いながらソファに座り、自分の隣をパンパンと叩き。

彼女もまた苦笑しながら、ゆっくりと腰を。


「物は考えよう。クレシェンタ様とキリク様が真面目な分、使用人は多少不真面目な方が帳尻が合うかも知れません」

「本当屁理屈ばかりですわね。あなたは素直に謝ることも出来ないのかしら」

「……困りました。これでも日に十回はクレシェンタ様に申し訳ありませんと謝っているつもりなのですが」

「あなたの言葉には誠意と重みがないのですわ」


くすくすと笑って――赤毛の隙間から、大きな薄茶の瞳がこちらに向けられる。

こちらの顔を眺めた彼女は、何も言わずに微笑んで、ほんの少し頭を下げ。

キリクもまた苦笑しながら一礼し、扉を閉めた。

中は賑やか。

文句を言いながらも楽しげな、少女の声が響いていた。


今日は普段なら彼女ではなく、アーネが側にあっただろう。

謁見も大きな公務もなく。

それでも彼女が訪れた理由はどうしてかと考えて、ほんの少し、口元を緩める。


些細な気遣い、心配り。

例えば護衛の役目が霧を払うことなら、使用人とは道を照らす者だろう。


朝目覚めた時、窓から雨音ではなく小鳥の声が響いているような。

夜に倒れ込んだシーツから、太陽の残り香を感じるような。

気付いた次の瞬間には忘れているような――そういう些細な喜びを。


「班長、どうしました?」

「いや。……昼に商人が来ると聞いている。今の内に少し、交替で休憩を取っておこう。アークルとバルに伝えてこい」

「了解です」


努力を重ねて、無意味であっても構わない。

気付かれずとも構わない。


棒に振るため最善の努力を――心構えは、ただそれだけ。

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