クレシェンタと邪魔な置物 上

クレシェンタは激怒した。

必ず、悪辣非道の赤毛を除かねばならぬと決意した。


クレシェンタには事情など分からぬ。

クレシェンタは屋敷の主であり、日々を甘えてだらしなく過ごしてきた。

王者にして孤高、この世界に君臨する唯一無二、神と呼ぶべき存在である。

望めば世界の理すらをねじ曲げ、手を伸ばせば文字通り、あらゆるものを手にする力を持ち――しかし、仲間はずれには人一倍敏感であった。


真昼に一人目覚めたクレシェンタは一人で大変な着替えを終え、廊下に出ると階段を下り、畑に出る。

――寝起きの気怠い体を引きずるようにしてである。

屋敷の、世界の主たるクレシェンタが一人でおっきする。

これほどの苦行を己が味わうことが許されて良いものか。

いや、許されるべきではない。

己は世界で一番に優先されるべき存在であり、その己を置いて他のものが快楽に耽ることなどあってはならないのである。


クレシェンタは道の途上にあった黒髪の使用人を見つけると、語勢を強くして質問した。肩で黒髪を切り揃えた彼女はクレシェンタの様子を眺め、苦笑しながら質問に答えた。


「ベリー様はクリシェ様と共に、そちらの果樹園の方でしょうか」

「……わたくしを置いて?」

「クレシェンタ様はお目覚めにならなかった、と仰っていたのですが……」


クレシェンタは記憶を探る。

一刻ほど前に訪れたことは知っている。もう少し眠ると口にした記憶はあったが、それはそれである。己が一人で目覚める理由にはなるまい。


「驚きですわ。だから起こさなくても良いと思ったのかしら」

「申し訳ありません。わたしには……ただ、今日は何でもニルカナを収穫すると言っておられましたので――」


聞いて、クレシェンタは激怒した。


「なんて使用人かしら。今日という今日は許しませんわ……!」


クレシェンタは単純な娘であった。

聞いた瞬間には怒りのまま、果樹園へと入っていく。

ニルカナの果樹、その高さは平均すれば1.2クレシェンタ――迷路の如き果樹園に侵入したクレシェンタは耳を頼りに内側へ。

赤毛の声を耳にすればもはや駆け出し、たちまち彼女は近くにいた姉に捕縛された。

今日は許しませんわと騒ぐクレシェンタはすぐさま抱き上げられ、赤毛の前に引き出される。


「あら……クレシェンタ様。どうなさいましたか?」


赤毛は静かに、余裕を持った笑みを浮かべた。

その顔はいつも通りに笑顔を絶やさず、優しげである。


「緩んだ屋敷の規律を整えに来たのですわ」


クレシェンタは眉尻をつり上げ答えた。


「ようやくあなたに自分の立場というものを分からせる日が来ましたの! わたくしを放置しておねえさまを独占しようとするだなんて……!」

「まぁ」


赤毛は苦笑した。


「気付かれてしまっては仕方ありませんね。はい、あーん」

「んむ……」


口に押しつけられた小さな実を潰すと、広がるは濃縮された砂糖の如き、ニルカナの甘味。

それでいて甘ったるい後味は残らず、あっさりと雪のように溶けていく。

お屋敷では砂糖も精製され、使われるようになって久しい。

ニルカナ糖もまたお屋敷で精製される砂糖の一つ――料理や菓子、デザートに使われるようになってはいたが、精製される前、熟し収穫されたばかりのニルカナはそれそのものが最高級甘味というべきもの。


その甘さはもはや暴力、それでいてクドさはなく、豊かな魔力を養分に楽園の気候でぬくぬくと甘やかされて育てられたニルカナの実はもはや麻薬であった。


「ふふ、どうでしょう? 今年のニルカナもとても良く仕上がったと思うのですが……」

「こ、小賢しいことを……こ、こんなものでわたくしの怒りが治まるとでも……? うぬぼれも甚だしいですわ、わたくしの怒りはこの程度では――」


いつのまにか緩んでいた頬をキリ、と引き締め、クレシェンタは赤毛を睨み、


「はい、もう一つ」


だが、クレシェンタの唇を割り開くようにニルカナの実は内側へ。

雪解けの甘露というべきニルカナを無理矢理に味わわされ、目にするのは無駄に大きい二つの贅肉。

その下で抱えるように持つ籠の中にぎっしりと詰まるニルカナの実である。

ゆさり、と贅肉を揺らしつつニルカナを見せつけ、わざとらしく困り顔を浮かべた。


「困りました。クレシェンタ様は何やら随分とお怒りのご様子……ニルカナ程度ではお許しにならないのかも。火に油を注ぐようなものでしょうか……」


ニルカナの実をつまみあげると、それをふりふりとクレシェンタの眼前へ。

そしてぱくり、と自らの口に。

とっても甘いですね、と微笑みながら続ける。


「仰るとおり、まさに小賢しい使用人の浅知恵。まさかクレシェンタ様ほどの方が甘味一つでお怒りを静めるだなんてことはございませんでしょう。……使用人に甘えることが大好きな、甘えん坊のわんちゃんならばいざ知らず」

「っ……――むぐ」

「困りました。……これでは使用人失格。お怒りとあらばしばらくクレシェンタ様の前には顔を出せませんね。膝に座ってお茶など飲んでは頂けないでしょうし、お風呂でお世話などもっての外でございましょう。添い寝も同じく……困りました」


ニルカナを味わうクレシェンタの唇をすりすりと親指でさすり、頬を撫でつつ。

困りました、と赤毛は繰り返し、目を細める。

クレシェンタは目を泳がせた。


「昨日一昨日とわたしの不始末でクレシェンタ様をないがしろにしてしまいましたから、今日はうんとその埋め合わせをさせて頂くつもりであったのですが――」

「く、口先ならばいくらだって言えますわ。わ……わたくしにはあなたが何を考えているだなんてお見通しで――」

「――でも、早とちりや勘違いということもありえますね。もしかすると寂しがりなわんちゃんが起こしてもらえなくて拗ねてしまったというだけの可能性も……」

「な、何を仰って……」

「……ふふ、だとすればきっと、すぐにニルカナを欲しがって甘えてくるはずです」


ふりふりと目の前で揺らされる、指につままれたニルカナの実。

それを追うように視線が揺らぎ、赤毛の顔にはからかうような愉悦である。

まだまだ沢山ありますからね、と贅肉の下、ニルカナのぎっしり詰まった籠を揺らし。


「もう一つどうですか、クレシェンタ様。ニルカナの実でございますよー……?」


――屈辱と羞恥。

クレシェンタは口惜しく、地団駄を踏みたかったが姉に抱き上げられていた。

ろくでなしの赤毛を正すという己の崇高な目的。

それをへし折らんとする悪逆非道の使用人は、姉を利用しクレシェンタの動きを封じた挙げ句、あろうことか再びニルカナの実を己の口に。


甘くて美味しいですね、などともう一つ――もはや我慢の限界であった。


「わ……」

「わ……?」

「……わん」


小さく鳴くと赤毛は何とも勝ち誇った顔で楽しげに、ニルカナを与えて頭を撫でた。

その身に満ちるは屈辱と多幸感。

すりすりと手に頭を擦りつけると、もはやそこに反抗の色など消え。


この間ずっと妹を抱き上げていたクリシェはそんな妹を見て、いつまで経ってもお馬鹿な子ですね、と呆れたように嘆息しつつ。

ぴょんぴょんと小さく跳ね、ねだるようにベリーへと口を開く。


「ベリー、クリシェも……その、あーん……」

「はい、あーん……」


無論、自分は棚上げである。






『クレシェンタと邪魔な置物』





――クレシェンタは実に忙しい。

何故ならばこのお屋敷、そしてこの世界を統べる支配者なのである。

楽園と呼ぶべきこの世界の秩序を守るため、常に休まる時間などは存在しない。

堕落の兆候を見過ごさぬよう、常に監視する必要があるのだった。


他の者より遅く目覚め、他の者より早く眠るのもその一環。

堕落を見つけるためにはまず、彼女らが監視から逃れたと思い込んだその瞬間――そこに芽生える堕落こそを見極めなければならないのである。

そしてこれは仕事の遅い無能な使用人達へ時間を与えてやるという意味もあった。

彼女らに完璧な仕事を行うための時間を与えているのである。


「ふふ、お上手ですね。ぴかぴかです」

「……わふ」


拭き上げた壺を見せつつ、すりすりと身を寄せ頭を撫でられ――いや、違う。あえて頭を撫でさせてやっているのであった。

クレシェンタは飴と鞭の使い分け方を心得ている。

クレシェンタから使用人への直接指導。

少なからずプレッシャーを感じるであろう状況でも、普段通りの仕事をクレシェンタに見せられるように、あえて頭を撫でさせるという過程を挟む。

本来格上の者が格下の者に行うもの。

この赤毛がクレシェンタの頭を撫でるなど本来許される行為ではないが、あえて支配者たる己の頭を撫でさせることで一時的に主従を逆転。

赤毛に精神的な余裕を作ってやっているのだ。


軍においてそうであったように、その場での最上位者を明確にするのは重要なこと。

例えば戦略会議で女王たるクレシェンタが元帥や将軍を最上位者として指名してやるように、使用人業務における最上位者はこの赤毛であると示してやることで、赤毛はこちらを気遣うことなく普段通りの仕事を行えるようになる。


良き指導者というものは下の者に最高の能力を発揮させるためには労力を惜しまないもの。

仮に犬の真似などという屈辱的な行為であったとしても、それが必要だと感じれば躊躇などはないのである。


じーっと上目遣いに赤毛の顔を見つめると、頬を撫でられそっと唇を押しつけられる。

これもご褒美の一環であった。

少なくともここまで悪くない仕事振り――仕方なく何度か押しつけ返してやると、赤毛は困ったように微笑み、親指で唇を塞いでさする。


「……おしまいです。ふふ、次の所に行きましょうか」


折角のご褒美だというのに、実に生意気な赤毛である。

唇を尖らせるとそんな赤毛の首に手を回し、くぅんと鳴いてぴょんぴょんと小さく跳ねる。

赤毛は苦笑して、そのままクレシェンタを抱き上げた。


抱っこをせがんだ――いや、違う。

これは立場を明確にするための躾、その一環である。

無能な赤毛に普段通りの能力を発揮させるため、あえてこの場の主導権を握らせてやってはいるが、だからと言って増長はさせるべきではない。

立場を明確に、あくまで本来の主人はクレシェンタであると明確にするため、適度にマウント(物理)を取ってやる必要があるのだ。


この赤毛には多くの改善すべき点があるが、その一つがクレシェンタを下に見るような態度である。

そんな赤毛にどちらが上かを示してやるには、クレシェンタを抱き上げさせて物理的に上を取るという行動を繰り返させることが望ましい。

実に動物的なマウンティングであったが、頭の悪い赤毛にはこれくらい分かりやすくしてやらないと躾にならないのである。


「わん……っ」

「まぁ、今日はとっても甘えん坊さんですね」


すりすり、すりすりと頬摺りしてスキンシップを取ってやり、ご褒美を与えてやることも重要である。

赤毛がちゃんと立場と状況に見合った行動を取れた時には、しっかりとご褒美を。

飴と鞭――躾で肝心なのは何よりご褒美である。

躾に対して褒美を習慣づけしてやれば、犬畜生でもお手くらいは覚えるもの。

覚えの悪い駄犬の如き赤毛ではあるが、とはいえそれを躾けてやるのがクレシェンタの役目。そしてそれが飼い主の甲斐性というものだろう。


ここの所(注:直近二日)赤毛の態度は目に余るものがあった。

あろうことか下らない業務に時間を掛けクレシェンタを放置していたのだ。

昨日はクレシェンタに対する奉仕も忘れ、わざわざ奉仕を要求させた挙げ句、今は手が離せないから後でなどと言い訳まで行う始末――常に赤毛の味方をするよう洗脳を受けたお馬鹿な姉がセレネの所に行っている間に厳しい躾を行ってやる必要があった。


「申し訳ありません。……昨日は荷車へ商品の積み込みで忙しかったものですから……今日はしっかりその埋め合わせをしなければなりませんね」


分かっているなら良い、と赤毛の首にぎゅうと抱きつく。

幸いながら無駄な贅肉が胸に二つもあるため、赤毛のクッション性、乗り心地は悪くない。

この辺りは赤毛の数少ない長所であると言えよう。


小さな欠伸をすると、終わったら少しお昼寝にしましょうか、などと赤毛は告げる。

悪くない提案であった。


朝(注:真昼である)から一人で目覚め着替えるという苦行。

心身共に酷使しながら果樹園まで向かったクレシェンタは、赤毛の躾という業務に神経をとがらせ休息を求めていた。

今すぐでも良いところ――しかし赤毛は不満げなこちらの様子を捉えると、あと少しだけお付き合い下さいませ、と微笑んだ。

クレシェンタの広い心(注:小瓶程度の容量)に甘えるような態度には言いたいこともあったものの、とはいえ良き赤毛は一日にして成らず(※:無能を育てるのは大変の意)である。

仕方ないと諦めつつも、早くしろと急かすようにぐいぐいと腕に力を込める。


そうして訪れるのは屋敷の入り口。

ここには多数の無駄な物品が調度品として飾られていた。

セレネが壺だなんだと物作りを始めてからは増加傾向にあり、倉庫にも山ほど――時々アーネが掃除の際に破壊処分(この点では有能である)をしてくれるため、こうした仕事はアーネに任せるのが良いのだが、アーネは近頃その仕事をサボっているらしい。

また壺の類が増加傾向にあった。


「ふふ、では、キリク様の剣をお願いできますか?」


赤毛から降りると、当然のように布巾を渡され、その態度には言いたいこともあったが、時に手本を見せてやることは大事である。

玄関の棚に飾られた剣を仕方なく手に取り眺めた。

一応はクレシェンタの所有物。

アーネが間違って処分しようとしていないかを確かめ、頷き、布巾でそれを磨き出す。

場所を取る非常に邪魔な置物。

銀装飾は無駄に細かく、見る度思い出して後悔するものがあった。








――王城の執務室には十人の男。

護衛班の人間であった。

中隊に格上げされてから人員を増加し、十人体制でクレシェンタの身辺警護の任に彼等は就いている。


「あの、女王陛下。お話とは……?」


片目の潰す刃傷。

黒旗特務中隊、護衛班長キリクは不思議そうな顔でクレシェンタを見た。


「日頃の忠勤に感謝を込めて、あなた達に何か褒美を与えたいと思いましたの。他の黒旗特務中隊員はおねえさまと共に戦果を挙げ、多くの褒美を与える機会がありましたけれど……同行していないあなた方はわたくしの護衛ですもの」


彼を王城の執務室に招き入れるとクレシェンタは言い、尋ねる。


「日々神経を使う業務、だというのに華やかな活躍を見せた隊員達とは違って、特段栄誉もなく。ですから今回、個人的な贈り物をと。……アーネ様」

「はい」


アーネは執務机の上に並ぶ布包み――その内の一つを持ってくると、クレシェンタに手渡す。

布を開いて現れるのは銀装飾の優美な長剣であった。


「三代前のドールザ王は随分な剣の収集家だったのですけれど、これもその一つ。宝剣リベリス――刃は凪の湖面の如く透き通り、王都北東の湖の名から取ったものだそう。……実際の剣としても十分に実用に耐えるものであると思います」


鞘から軽く剣を引き抜く。

少し傷んでいた握りには、新たに滑り止めの革を。

鍔と柄頭にはリベリスの乙女という伝承の詩が彫り込まれ、それが装飾となっている。

華美という訳ではないが細工は精緻で、鞘もまたアルガナの木を用い、各部に銀の装飾。鞘自体にもリベリスの乙女をイメージした湖と乙女が刻まれた。

鞘から覗く刃の肌は均質で、きめ細やか。

随分前に掘れなくなったアーナの鋼、キュイリス鋼が使われ、刀身はほんのりと魔力を帯びて青味を帯びる。

魔力を含有するからと言って特殊な力を宿す訳ではないが、それなりに貴重な金属。

剣としても見るものが見れば一目で分かる上質な一振りであった。


売れば金貨五十枚は下らない名品であったが、大陸統一戦争も終わり、この先軍人に大した褒賞を与える機会も無かったし、宝物庫の中身は何もしなくとも貢ぎ物やら何やらで増えるばかり。

処分ついでにやるのも悪くはないと選んだのがこの剣だった。


個人的にはまとめて商人にでも売り払いたい所であったが、王家の宝物というものはそう簡単に売れるものではない。

大した理由もなく在庫一掃セールなど開けば、歴史を軽んじているなどと騒ぐ輩が山ほど現れることになる。

宝物庫は入ったが最後の牢獄のようなものであった。

死蔵するしかない品というものに値打ちなどなかったし、であればこうして忠誠心を買うために適当に渡してやるのが良い。

特に身辺警護に当たる彼らを掌握することは重要なことであった。


「……こんなものを、私に?」

「ええ。受け取ってもらえると嬉しいですわ」


それなりに喜んでくれているらしく、キリクは片目を見開き、信じられないといった様子で尋ねてくる。

腕前は悪くはない、という程度。

優秀ではあるものの飛び抜けたものはなかったが、クレシェンタはどこから刺客が襲いかかって来ようがもはや、剣を振り上げる間もなく塵に変えてやること容易い。

そもそも護衛など必要なかったし、護衛に求めるのは単純な見栄えであった。


キリクは真面目な男で、黙って立っていれば風格があり、左目を潰した傷も武人らしくて良い。

護衛として働くようになってからは身なりにも随分気を使っており、シャツやズボンにも綺麗な折り目。頬には剃り刀が丁寧に当てられていた。

それでいて無愛想というほど堅苦しくは無かったし、中々空気の読める気の利く男で、己の役割というものをよく分かっていた。

人目がなくても側にべったりなどということはなく、自身がクレシェンタの『護衛というお飾り』であると弁えており、必要なときのみ現れ、必要がなくなれば何も言わずとも離れた。

クレシェンタの考える『良い護衛役』そのもので、部下にもきっちりと、その辺りの教育を施してくれているらしい。

多少贅沢な褒美の一つ程度は与えてやっても良いと思える男であった。


「……これまでの忠勤を考えれば、このようなもの一つでは対価として不十分ですけれど」


クレシェンタは微笑む。


「これでも、キリク様に似合うものを選んでみたつもりですわ。どうかしら?」

「……、過分の栄誉、謹んで」


キリクはその場に膝を突き、クレシェンタは苦笑しながら両手を、と声を掛ける。

膝を突いたキリクは両手を上げ、クレシェンタは告げる。


「乙女を守りし勇者の如く、これからもわたくしを守ってくださいまし。……これからも世話になりますわ、キリク様」

「……この名と剣に誓い、生涯の忠誠を。そのお役目を果たせる限りお側に」


その言葉を聞いて頷き、彼の両手に剣を置く。

立って下さいませ、と声を掛けた。


「本当は華やかな謁見の間で渡せれば良かったのですけれど」

「……いえ。このお心遣い、それ以上の栄誉であります、女王陛下。私の如き平民出に――」

「平民ではなく、わたくしの王国の民。……貴族と平民などと、そのような区別は些細なもの――単なる役割以上のものはありませんわ、キリク様」


クレシェンタは再び微笑む。


「私の如き、などと言わないで下さいまし。……わたくしはそんなあなたを信頼しておりますのよ」


キリクは再び片目を見開き、深く頭を下げた。

それを見て頷き、他の者達に目をやる。

キリクを誇らしげに、あるいは羨むように――そして敬意に満ちた目が自分に向けられているのを感じ取り、満足を覚えながら告げる。


「どうぞ、腰に」

「は」


腰の剣帯から身につけていた長剣を外し、与えてやった宝剣を。

質実剛健を意識しているのか。無骨さは悪くなかったがあまりに質素。

黒塗りの鞘に使い込まれた長剣に比べれば、銀装飾の施された宝剣は一点の華やかさとして実に映えた。

イメージしていた通りの姿に笑みを浮かべ、クレシェンタは手を叩く。


「ふふ、やっぱり似合いますわね。華美なものはあまり好まれない方だと思っていましたから、飾りがうるさくないものを選んでみましたの」


キリク様にはやはり銀が似合いますわね、と微笑むと、キリクは剣帯に提げられたリベリスを眺め、目を閉じ、深々と頭を下げた。


「この剣を、生涯の誇りとします。女王陛下」

「ならわたくしは、あなたのような護衛に仕えられることを生涯の誇りとせねばなりませんわね。顔を上げてくださいませ、口にしたとおり、これまでの忠勤を考えれば不足なくらいですわ」

「……畏れ多いお言葉です」


顔を上げたキリクは険しく見える顔に笑みを浮かべ、クレシェンタは苦笑しながらその隣に目を。

不満が出ないよう、当然ながら全員分褒美は用意してあった。

ぱぱっと渡してしまおうと口を開き、


「次はセルトス様。全員が長剣というわけには行かなかったのですけれど……アーネ様、一番左の――」


振り返ると号泣するアーネである。

口を開いて固まるクレシェンタに、アーネは告げる。


「も、申し訳ありません……その、あまりの光景に、涙が止まらず……」

「……あなたが泣いてどうしますのよ」


ハンカチで目元を押さえるアーネをうんざりとした気持ちでクレシェンタは眺め、笑い声が静かに部屋に響く。


キリクもまた静かに笑いながら、腰の剣に触れ、目を細めた。


『キリクはそのままクレシェンタの護衛とかで働いてもらいましょうか』

『それはあまりに……クリシェ様、私は平民です。一時的なものならばともかく、女王陛下の護衛としては――』

『適当で良いのですよ。クレシェンタはクリシェと同じく、別にそういうの気にしませんし……ベリーも立派に頑張ってたって言ってましたし』

『て、適当に……』


思えば随分と長い付き合いになったもの――女王クレシェンタがどのような人間かは知っている。

――彼女が口にした言葉には嘘はないのだろうが、言葉通りというわけでもないのだろう。

ちょっとした、些細な気まぐれの一つであるのかも知れない。

女王クレシェンタは、裏表のなさ過ぎるクリシェとは真逆の人間であった。

見るもの全てに躊躇なく心を開いてさらけ出すような彼女とは違い、狭く小さな世界に閉じこもるような、そんな人間。


彼女はいつでも完璧な女王であって、まるでそういう役割の鋳型に流し込まれた完全無欠。

女王としての彼女は常に、女王としてあるべき姿、女王としてあるべき役割のみを担う存在。

だからこうして、宝剣を下賜されたことが意外に思えた。

特別褒美など与えられる必要もないくらいに十分過ぎる給金は出ているし、本来不要なものであったから。


どうあれ、嬉しくないかと言えばそうではなく――舞い上がるほどに嬉しかったのは事実であった。


木工職人の倅が受け取るには、あまりに過分な贈り物。

死んだ親父が聞いたならば目玉が飛び出すほど驚いたに違いない。

女王から直々に何かを下賜されるというだけでも、育ちからすれば信じられないことであろう。





「――これが、女王陛下に賜った宝剣か……」

「ええ、隊長。……素晴らしい剣です」


夜明けの三日月――コーザとベルツがやり始めたという店が黒旗特務の溜まり場。

とはいえ、護衛班を束ねるキリクは色々と忙しいためあまり顔を見せることはなく、剣を受け取ってから顔を出したのは三ヶ月後のこと。

女王が三日ほど屋敷で過ごすことになって暇が出来、ようやくであった。

護衛として飲酒は控えていたため、今では年に数度。

こうした機会にだけ、ゆっくりと酒杯を傾ける。


「キリク、もう私は隊長でも軍人でもないと言っているだろう」

「はは、しかし隊長には変わりない。今更ダグラさんと呼ぶのもどうにもしっくり来ませんからね」


告げるとテーブルに集まっていた男達が違いねえ、と笑い声をあげた。

シャツとズボン、見慣れぬ平服姿のダグラは鷲鼻の上――目頭を揉んで嘆息した。


そして、全く、と告げると鞘を眺め、剣を引き抜く。

おお、と誰もが感嘆の声。

最前線で戦ってきた黒旗特務の人間、一目見ればその質の良さは理解が出来る。

装飾や儀礼用の剣ではなく、実戦を想定されて鍛えられた刀身であった。


「……キュイリス鋼か」

「そのようです。もっとも、伝承にあるような不思議な力が宿っている訳ではないようですが……繊細に見えて頑強な造りです」


ダグラは引き抜いた剣を掲げて目を細める。

青味のせいで一見か弱く映る刀身であるが、細身ながらも厚みがあり、多少荒々しく扱っても折れはしないだろう。斬撃にも刺突にも適した形状で、魔力保有者の剛腕に耐えるよう鍛えられた実戦向きの剣であった。


「……まさに名工の品。装飾剣の鍛冶には打てん。私では腰に提げるのも落ち着かん名剣だな」

「私も慣れるまでは少し……狭い道を歩くにもぶつけないかと気を使う始末です」

「キリク、俺にも見せてくれ」

「ああ、そのつもりで持って来た」


厨房から出てきたコーザがダグラから受け取り、ベルツの方へ。

他の男達も目をきらきらとさせてそちらに向かう。

ここは平和なものだと苦笑した。


戦が終わって平和――とはいえ、黒旗特務は今も忙しい。

ここにいるのは精々二十人、来る度に顔ぶれが変わる。

多くは大陸各地に散っていた。


平和維持のため、今も各地で彼等は働いている。

護衛班のキリクは詳しく聞いていないが、女王の側にあれば流石に多少の事情は了解していた。


大陸を支配したのだ。

すぐさま旗色を変える国ばかりではない。

平和を維持するためには、それを影で守るものが必要となる。


「随分と女王陛下に気に入られたようだな、キリク」

「……悪くない護衛役とは思って頂いているようです。今もなお、私などが護衛で良いのかと思うところはありますが……何せ、隊商護衛から女王陛下の身辺護衛です」

「お前以上の適任はあるまい。……クリシェ様とて、全く何も考えずお前を護衛役にと選んだ訳では……まぁ、恐らくあるまい」


ダグラは断言しかねて苦笑し、キリクも笑う。

実際の所、クリシェがどうしてキリクを護衛班として身辺警護の任務を与えたのかは定かではない。

内戦中の護衛も大したことをやった訳ではなかったし、特に何もなかったのだ。


「……くく、あるとすれば、アルガン様が仰ったから、でしょうな。クリシェ様はそういうお人だ」

「ありえん話ではない」


つい先日のように思え、随分と前のようにも思える。

美しく幼げな、赤毛の使用人。

顔を合わせる機会は多い方だったと言えるだろう。

随分と不思議な方であった。


単なる使用人であったが、その彼女を中心に国が動いていたのではあるまいか。

そう思わせるのは二人の姫君が、いつも彼女のことを口にしていたから。

王国の英雄は隠すことなく彼女を第一に動いていたし、そしてそんな使用人を悪し様に罵りながら、女王陛下は子供のように。

甘えるように腕を組み、膝に乗り、悪戯な笑みを浮かべ、時折眉尻を吊り上げて。

彼女が側にいるときはいつも、女王の仮面が剥がれていた。


彼女はいつも子供を相手にするように二人に接し、幸せそうに。


政治に関わる立場ではなかったし、軍事に関わる訳でもない。

むしろそれらからは距離を置いているように見えたが、黒旗特務では王国を影で支配しているのは使用人なのだと影でこっそりと口にされていた。

半分冗談、半分は真面目に。

二人が彼女に示す姿を見れば、単なる笑い話とは思えぬほどのものであったから。

どこか大人びているようで、けれど少女の如く可憐。

そこにあるだけで少し華やぐようなあの空気は良く覚えている。


――随分と前、老いを見せる前に美しいまま亡くなった。


「女王陛下は今後現れることなき最高の名君であらせられる。……まさに完璧な指導者で、最高の指揮官であるクリシェ様と同じく」

「……そうだな」

「……けれどあの方が亡くなってから、より一層、隙も何もかもなくなってしまったようで……それだけが少し気に掛かります」


以前はずっと、彼女の名前を口に出していた。

何かある度に、あのアルガン様ですら、などと口にして、アーネに説教を。

素直ではない方――あの使用人を彼女がどれほど愛していたかは知っている。

その名前を口に出せないのは、今もそのことを引きずっているためであろう。


女王クレシェンタはどこまでも完璧な女王であった。

瑕一つない宝玉のようで、光輝き周囲を照らし、けれど、その内側はどうなのだろうと時折考える。

キリクのようなものが、その心中を案ずるなど思い上がりも甚だしいことであったが、それでも無用な心労を被らぬようにとただ思う。


「無論、私などがそんなことを気にしてどうなるものでもないでしょうが……隊長と同じく、役目を果たせる限りに身命を賭して、この役目を果たしたいと思っています。……与えられた剣に恥じぬよう」


ダグラは微笑み、頷く。

男臭い顔には老いが滲み、けれど今も力強い。


「お前のその心はきっと、女王陛下にも伝わっているさ。……女王陛下はクリシェ様の妹君でもあるのだから」


生涯の忠誠を誓った主の顔を思い出すようにダグラは言い。

それから、カウンターの上で男達が憧れの目で見つめる宝剣に目を向ける。


「……あの剣はお前の穢れなき忠誠心を示すもの。女王の剣たるお前にこそ相応しい。そうお考えになったからこそ、女王陛下が下賜されたのだ」


――でなければ、あのように見事な宝剣を与えられるはずもない。

退役したはずの老人はそう続けると、


「……きっとこれからも真摯に、お前の見えない働きを見てくださるだろう」


隊長の顔で笑って言った。

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