水兎

『語り部:うさちゃん流剣術師範代カルア』


ん? 頑張ったら水の上を走れるかって?

走れる走れる。あたしは見たことあるからね。

ほら、うさちゃん分かるでしょ? 時々来るエプロンドレスの。

結構前だね……解体戦争だっけ、統一戦争だっけ、まぁどっちでもいいんだけど、追っかけてた敵の偉い将軍が船の上に逃げちゃってね。

こう、すっごくだだっ広い――そう、水平線が見えそうなくらいの広い川だ。

え? 嘘? 違う違う、本当にそのくらい大きな川があるんだって。

あたしは基本的に嘘を吐かないからね。

何、ミア、その目は。子供達と戯れてるんだからミアはあっち。書類仕事あるんでしょ?


まぁ、ともかくだ、そんなところを想像してよ。

あたしとうさちゃんが来た時にはもう結構遠くまで逃げちゃっててね、どうしようか、とか言ってたんだけど、うさちゃんは問題ないって言ってね。

本当に兎みたいにぴょんぴょんぴょんって川の上を跳ねて行っちゃったんだよ。


嘘じゃないって、ほんとほんと。お姉さんを信じなさい。

誰かな、お姉さんに文句がある子は。カルア先生に失礼なことを言う悪い子は尻を叩くからね。


まぁともかく、頑張れば出来るっていうのが結論かな。

今度うさちゃんが来たら聞いて見るといい。同じこと言うと思うから。

うさちゃんくらいちゃんと練習すれば人間、水の上だって走れるんだ。

分かったらまずは文句を言わずに剣を振るところから。


うさちゃん流の道は険しいからね。

この程度で文句を垂れてるようじゃ奥義うさちゃん跳びはマスターできないよ。

そうそう、うさちゃん跳びはうさちゃん流の奥義だからね。道はすっごく険しいのだよ。


あ、ここだけの話なんだけど。……他の子達に言っちゃ駄目だよ?

うさちゃん跳びはすっごく難しいから、実はあたし達の中でもうさちゃん跳びが出来る人間はいないんだけど、ああ見えて唯一、ミアだけが奥義うさちゃん跳びをマスターしててね――








『語り部:元船頭ボズ』


――知ってるだろうが、この辺りは当時エルスレンという大きな国の一部でね。

今のアルベランと戦争になっていたんだよ。

お偉方の話、俺達下々の者にゃ関係ない話だ。

精々巻き込まれなきゃいいなぁ、税が重くならなけりゃいいなぁ、なんて近所の村の連中と言いながら、俺は倅達と一緒に、このだだっ広いセルシェ川で船を漕いでた。


戦争なんてどこか遠い世界の話。

主要な橋は遥か北か南でよそ者も来ない僻地だからね、使う連中もいつも同じ。昨日はあそこの何々さん所で子供が産まれた、だなんて話を聞きながらのどかなもんだ。

俺達のお上はエルスレンってより領主様だったし、これまた領主様ものんびりとした方だったから、何事もなく。

人口も少ないし、ほとんどが小さな畑を耕して、森で実りを手にする連中。

徴兵なんてされりゃ村が潰れちまうってことで、この辺りは作物だけを供出した程度だった。


民衆の気持ちを汲んで下さる良い領主様だった。

わざわざこの辺りの辺鄙な村にまで自らお越しになって、心苦しいが実りを少し分けて欲しい、だなんて。

戦後しばらくして亡くなっちまったんだが、その長男も領主様に似て良い方でね。今も同じく、この領地の――ああいや、管理領地って言うんだったか。まぁ分からねえが、この辺りを治めていらっしゃる。

わしらは皆あの方には頭が上がらないよ。


ああいや、悪いね。すぐに話が脱線しちまうのは老人の悪い癖だ。


まぁ、そういう風にこっちはのんびりとしたものだったんだが、運悪く戦場が随分と近場になってしまったようでね。

ある日、わしの所へ馬に乗って訪れたのは五人。

皆ご立派な鎧甲冑を着込んだ、恐らくは貴族の方々だろう。

船の手入れをしていたわしを見ると、鬼気迫る様子で船を出せ、と吠えた。


あれは怖かったね。

断るどころか、もたついただけでも殺されるんじゃないかって、そんな雰囲気だ。

軍人の空気って言うものか――全員目が獣のように鋭くて、心臓がぎゅう、と鷲掴みにされたような気分だったよ。


馬は乗せられません、と慌てて言うと、分かっている、早くしろ、と馬を降りて、今にも剣を引き抜かんばかり。

八人乗りの船――まぁ鎧甲冑でも重量の方は問題なかったから、すぐに船へと男達を乗せて、それ以上文句を付けられる前に縄を解いて漕ぎだした。


そうして岸から離れてすぐ、森の小道から現れたのは同じく数十の騎兵。

この男達は彼等に追われてたんだろう。

あっちは卑怯者だなんだと罵声を浴びせつつ、悔しそうな様子だったさ。


『安心せよ。矢が飛んでくることはない。渡し船では流血が戒められる』


そこで一際立派な甲冑を着込んだ男が、怯えるわしに笑って言った。

そう言った男は軍でも随分と偉い方――将軍か何かだったんだろう。

他の四人も少しだけ安堵したように力を抜いたのが分かった。


『礼は弾む。このまま川を下ってなるべく距離を離してはくれんか』

『か、畏まりました……』

『怯えるな。向こう岸についたからとお前を殺しはせぬ。いつものように漕げば良い。アルベランの連中も後でお前に手出しをすることはない。そういう決まりなのだ』

『は、はい……』


少し浮き足だった他の男と違って、どっしりと前を向いて座って、それからは後ろを振り返りもしなかった。落ち着いたもんだったよ。

だがわしは漕ぎ出しで後ろ向き――ずっとその男の肩越しに向こうを見ていたんだ。

集まった男達が槍を投げようとしたり、弓を射ようとしたりして止められる姿が映っていたからね、本当に何か飛んでこないか冷や冷やしていたし、他の男達もそうだろう。

皆、半ば横向きになりながら、後ろを見て震えているものもあった。

ようやく安心出来たのは、船が流れに乗って、矢も当たらない距離になってからだ。

そこでわしも、ようやく冷静になれた。


物心ついた頃から船に乗ってる。

川の流れは全部覚えていたし、目を閉じたって船は渡せる。

どうあれ乗せちまったもんは仕方ねえと、要望通りにどの流れで川を下ろうかと川の下流を眺めて――そんな折り、アルベリネアだ、と男達の声が聞こえた。


ふと随分離れた岸を見れば、遠目に見えるのは馬鹿でかい翠の虎。

そしてそれに乗った女が二人――黒い髪をした女と、遠目にも輝いて見える銀の髪をした少女だ。


『……間一髪だな』


黙って座っていた将軍もそんなことを言って笑ったのを良く覚えている。

数十の騎兵が来た後で何が間一髪かはその時分からなかったんだが、どうあれ男達が顔を見合わせて安堵を浮かべている様子を見るに、よほどの相手なんだろうと思った。

遠目にも分かる魔獣の巨体は恐ろしかったし、そんなものに平気で乗ってるんだから、まぁ普通じゃないのは確かだろう。


『ぁ、あの……あの方が、どうか……?』


尋ねたのは多少気持ちが落ち着いてたのもあるし、多少状況くらいは知っておきたかったからだ。


『はは、船頭は知らんか。……アルベランの王姉、狂った忌み子だ』

『忌み子……』

『先日の大いくさは知っていよう。我等はアルベリネアを前に――』


そう将軍が説明してくれようとした時だっただろう。

カン、と鋼の音が響いて、水の弾ける音がほとんど同時に響いた。

ふと目を向けると、水しぶき。

その隙間から見えたのは黒外套と銀の髪――それがアルベリネア。

矢をも置き去りにするような速度で水の上を跳ねて、人間が飛んで来たんだ。


あまりにも理解を超えた光景だったからなんだろう。

人間、極限状態になるとすごい集中力や馬鹿力を発揮するとは言うが、その時のわしは丁度そういう状態でね、時間がゆっくりと過ぎていくように感じられた。

本当は一瞬のことだったんだろうが、全部はっきりと覚えているさ。


まるで水切りでもするように水面を跳ねて、ぱん、ぱん、ぱん、っと少女が跳んだ。

それから一際大きく水しぶきを上げると姿が消え、次の瞬間にはゴッ、と妙に鈍い音。

先ほどまで笑って話していた将軍の首から上が真下を向いて、船が少し揺れた。


目の前に立っていたのは随分と小柄な少女だ。

こちらを見ることもなく、外套と二つに結った銀の髪を揺らして、くるりと舞うように――まるで本当に舞いか何かのようだったよ。

同じく呆然とする男達の首が鈍い音と共に歪な方向に捻れていくのが見えた。

骨が折れる音って聞いたことがあるかい?

わしはその時が初めてだったが、ぞっとする響きだったよ。

筋肉に包まれた内側の骨が折れると、何ともこもった響きになるんだ。

声をあげる間もなく、さっきまで乗っていた男達全員の首が曲がっちゃいけない方向に曲がっていて、代わりに一人、子供みたいな銀色の髪の少女だけが平然と立っていた。


くるり、と振り返った彼女は困ったような笑顔だったよ。

まるで何事もなかったように、だ


『すみません。クリシェもちょっと、船に乗せて欲しかったので……駆け込みで乗船を』


思い出せば、随分美しい方だったんだろう。

だが、ほとんど記憶に残ってないんだ。

宝石みたいに冷ややかな、紫色の瞳だけが目に焼き付いてな。


『他のお客さんはいなくなりましたしキャンセルということで、出来れば船を元の岸に戻して欲しいのですが……荷物の死体が五体分と、クリシェ一人。運賃はこれで足りるでしょうか?』


そう尋ねながら小銀貨を一枚、呆然とするわしの手に握らせて、彼女が現れた岸を指さした。

震えながら十分過ぎるほどです、と伝えると、そうですか、と将軍の死体の隣――わしの正面に行儀良く座って景色を眺め、子供のように笑ってな。


『えへへ、クリシェ、船に乗るの初めてです。結構乗り心地良いものですね』

『そ、そうですか……』

『ずーっと渡し船を漕いでいらっしゃるんですか?』

『は、はい……子供の頃から……』


そんな調子で世間話だ。

その隣や後ろには、虚ろな目をして口を開き、首を歪な方向に曲げた男が五人。

五人を殺してその死体に囲まれながら、アルベリネアは一人子供のように笑って、初めての船にはしゃいでたんだ。


その光景を眺めていたわしの気持ちは恐らく、他の誰にも分かるまい。

大した距離でもなかったはずだが、丸一日船を漕いでいるのではないと思うほどの気の遠くなる時間でな、何を話してたのかも覚えちゃいない。


岸についても笑っていたのは、アルベリネアと共に現れた女一人。

他の者は皆、唖然としながらアルベリネアを見ておったし、憐れむようにわしに目を向けていた。


『船頭さんもありがとうございました。えへへ、機会があればまた乗せてもらえると嬉しいです』


そんな様子も気にせず、平然としているアルベリネアはそんなことを笑顔で言ったが、その丁寧さが余計に怖くてな。

狂った忌み子だ、というあの将軍の言葉の意味がわしにはよく分かったよ。


それから二度とその機会が訪れなかったことを、何よりわしは感謝したい。










『語り部:元騎兵隊員マグナス』


――エルスレン解体戦争って言えば、若いお前さんでも知ってるだろう?

当時大陸を支配してたと言っても過言じゃねえ、属国もわんさかあって、まぁとんでもない大きさの大国を、文字通り解体した戦争だ。

丁度その戦が俺の初陣でな。

初戦は大勝利って言うより、呆気なかったもんだ。

敵も十万を数える大軍勢、俺も馬に跨がりながらぷるぷる震えて、突撃の命令が下されるのを待ってた訳だが、最後まで声が掛かることもなかった。

半刻も掛からず圧勝だったからな。


騎兵ってのは通常予備に使われるもんで、普通は勝負の分かれ目、ここぞというタイミングで投入されるんだが、こっちの軍を率いるは我等がアルベリネア。

大人と子供で軍を作って戦ったみたいなもんだって言えばいいだろう。

敵の弓騎兵に対する色々な対処で――ああ、機動力を活かしてこっちの輜重を狙ってくるんだ。まぁ、それで軍が割かれてその戦いに参加したこっちは三軍6万程度だったんだが、数なんて無関係。

真正面からぶつかって、エルスレン軍はまるで熱したフライパンに落とされたバターみてえなもんだった。

戦列崩壊全面突破。

例の黒旗特務を率いたアルベリネアが呆気なく敵将を討ち取ったって話だ。


その時ジャレィア=ガシェアを初めて見たが、俺はつくづくアルベリネアと同じ国に生まれて良かったと思ったぜ。

全身が鋼で出来た巨人が馬鹿でけえ剣を両手に振り回して突っ込んでくるんだから。

ありゃ間近であの巨体を見たやつしかわからんだろうが、刃向かおうなんて思える奴がいたらそいつはどこかイカレてる。

だって見上げるような八尺の巨人だぞ?

軽く剣を振り上げりゃ、俺らの身長の倍の高さに鉄板みてえな大剣だ。

それが信じられないような速さで振り下ろされるんだから、誰だって一目見りゃ目ん玉飛び出るさ。

まぁ実際、それを正面で見た奴は目ん玉どころか頭の中身までぶちまけちまうんだがな。


普通物語の巨人なんかは愚図でのろまって弱点があるもんだが、奴らは馬より速く走って、目にも止まらねえ速さで剣を振るう。

その上いくらでも替えが利く鉄人形、お伽噺の英雄さえもお手上げさ。

頭が弱点だってのは知られた話だが、八尺の高さにある頭を狙える奴なんて、仮に魔力保有者であっても一握り。

その上飛んで来た矢でさえへし折る反応速度だ。

それが秘蔵の一体だってんなら相手も死に物狂いで挑む気にもなるんだろうが、そんな完全無欠の人形が端から端まで並んでりゃ、まともな奴なら無理だと悟る。

初陣は勝利に興奮したっつうより、敵が可哀想に思えたくらいだったな。


まぁ、そんな話はいいだろう。

俺はその戦の勝利を目にして、アルベリネアは天才発明家なんだと思ってた。

空前絶後の剣士だって噂は聞いちゃいたが、アルベリネアはなんつうか……どえらい別嬪のお嬢さんって感じでな。

背丈なんざ俺の胸くらい。女にしても小柄も小柄、剣なんて振れるのかって思うような華奢な体だ。

戦場でも外套を羽織ったくらいで、下に着てるのはワンピースやシャツにスカート。

申し訳程度に手甲とゴツいブーツを履いていたが、ほとんど街を歩くような格好だ。

どこをどう見ても戦場の戦士って雰囲気からはかけ離れてる。


良く翠虎に腰掛けてるところは見ていたし、翠虎って言えば一頭で百人隊をぺろりと平らげる怪物中の怪物。率いる黒旗特務中隊は王国最強。

その戦果もそういうのが大きいんだろうって思ったし、本来であれば王姉殿下。周りはみんな持ち上げるに違いない。

色んな噂に尾ひれが付いて天剣様、超絶剣士だなんて呼ばれてるんじゃねえかって俺は勝手に思ってた訳だ。


まぁ実際、天才だってのは学のない俺でも事実だと思っていたし、そこに色々噂が乗っかろうと大した違いもない。

戦意高揚のために流されたのか、勝手に尾ひれがついたのか――そりゃ分からなかったが、どうあれ戦に勝ってくれるなら誰にだって文句はないからな。

阿呆がそんな噂話を真に受けて、士気を高めてくれるなら悪くはないと思ってたし、特に気にもしてなかった。


それからエルスレンを東に進み、最初の戦いのような大いくさはしばらくなかった。

恐らくアルベリネアに真っ向から挑むのは馬鹿げてるってあちらのお偉いさんも思ったんだろう。

散発的な戦いが多くなったこともあって、一軍ではなく一軍団――5000人に分かれて、それに対応することも多くなり、俺も同じく。

俺達の軍団はその時、逃げる敵軍の追撃役を任されていたんだ。


あれは……何日目のことだったか。

相手をでけえ川にまで追い込んだのは良かったんだが、敵の指揮官が護衛と一緒に渡し船に乗り込んじまった。

これが問題でな、一応聖霊協約にも書かれちまってる古い規則で、敵であっても渡し船に乗った相手には攻撃を仕掛けちゃいけないってことになってるんだ。

面倒くさい決まり事、領主と領主が小競り合いしてた頃の名残だろう。

間違って船頭を殺してしまうと、それを頼っていた地元民の生活が成り立たなくなるだとか何とか――だから渡し船の上で流血沙汰は禁止なんだそうだ。


書かれてないことじゃ無法も無法。

村を襲えば陵辱の限りを尽くす軍隊も、聖霊協約に一言書かれりゃぴたりと止まる。

大陸の支配権を争う大戦で渡し船一つが何だって話だが、特にアルベランは圧政に苦しむエルスレンの民を救うため、だとかのお題目を掲げていたもんで、その辺りには厳しかったし、俺達も目の前で悠々と逃げていく手柄首を指を咥えて眺める他なかった。


それに元帥セレネ=クリシュタンドは高潔で知られていたし、アルベリネアは冷酷で有名。

村を襲った百人隊をその翌日に、悪質な命令違反として纏めて四肢裂きだ。

俺は幸いそれを見ることはなかったが、その百人隊が所属していた軍じゃその百人が流れ作業でジャレィア=ガシェアに四肢を斬り落とされる姿を見せられたそうだ。

これは嘘じゃあない。三、四人実際に見た奴を知っている。


大隊長も部下を掌握出来なかったとして爵位を剥奪されたという話――何でも本来処刑の所を、他の百人隊長達から助命を嘆願されて軽い罰に留めたらしいが、それでも十分過ぎる罰だろう。

見逃さざるを得なかったのはそうした話が広まっていたことも理由にある。

同様の処罰を行うようにと各軍団長に改めて通達されていたようであるし、聖霊協約違反は基本的に軍内規則を破るよりも遥かに重い。

四肢裂きされたい奴なんてどこにもいないからな、俺達騎兵隊はその川の前で馬と共に徐々に遠くなっていく敵将の姿を眺める他なく、そうして歯噛みしていた訳だが――そこに現れたのが翠虎に乗ったアルベリネアだったって訳だ。

後ろに黒塗り鎧の美女を乗せて――後で知ったんだが、あれがかのアルベリネアの黒猫、カルア=ベリュースだったらしい。


『……ぁ、アルベリネア、申し訳ありません。一足遅く、渡し船へと逃げ込まれてしまいました』


隊長がそんなことを言って頭を下げると、馬鹿でかい翠虎から飛び降りた二人は随分遠くになった船を眺めていた。

遠目には何度にも見たが、間近で見たのはその時が最初で最後。

不思議な紫色の目をした、妖精みたいな銀の髪の美少女だ。

お前さんがこれまで目にした美少女を百倍綺麗にしたのがアルベリネアだと思えばいい。実際、現れた瞬間にまるで絵画の世界、空気が変わったようだった。


『結構遠いけど、うさちゃんなら槍で狙えるんじゃない? 船頭を殺さなきゃ別に――』

『駄目ですよカルア。聖霊協約違反なのです。いかなる状況であれど、渡し船の上では血を流させたらいけないとか……? んー、でも、ああ……そうですね。血が出なければいいのです』


ってなことを言って、アルベリネアはぽんと手を叩いた。

あの時のことは数十年経っても焼き付いてる。


『カルア、ちょっとあそこまで行きたいので、こう……思いっきり剣のお腹でクリシェを叩く感じで』


アルベリネアはそんなことを言って、両手で素振りのジェスチャー。

黒猫はおもむろに大曲剣を引き抜いた。


『あいさー、お尻くらい?』

『そうですね。適当に振ってくれれば適当にクリシェも合わせますから』


そんなことを口にする二人を見て、俺達は何を言ってるのか理解出来ず顔を見合わせていたさ。

いっくよー、だとか黒猫が声を掛けながら、アルベリネアの背後で思いっきり大曲剣を振りかぶったときには唖然としていたし、次の瞬間に遠慮なく、それをアルベリネアに叩きつけた時には硬直した。

剣圧なんて言葉もあるが、俺はアルベリネアが粉々になったと思ったくらいだ。

突風で一瞬目を閉じちまったからな。


見えてた奴の話じゃ目にも止まらぬその剛剣に合わせて、アルベリネアは跳びはねたらしい。

カン、って金属音が響いたのは、アルベリネアがその大曲剣の腹を蹴った音。


水切りって知ってるか?

こう、平たい石を回転させて川や湖に上手く投げると、水の上を何回か跳ねるんだ。まぁ、子供の遊びだな。

水が弾ける音を聞いて川を見ると、丁度アルベリネアがその石になってた。

消えたと思ったアルベリネアはものすごい勢いで川に飛んでいて、水の上を跳ねてたんだ。


冗談だと思ってるだろう?

俺もそう思ったさ。自分で見ているのに、見ているものが信じられないんだから。

ぱんぱんぱんっと水の上を大きく跳ねたアルベリネアはぴったりと船の上に。

着地しながら敵将の首を足でへし折って、護衛も同じく。

乗り込んでいた護衛の四人も同じように、立ち上がる間さえなかった。

その前に全員、足で首をへし折られたからな。


『うへぇ、やっぱりうさちゃんは頭が病気だなぁ……』


黒猫が呆れたようにそんなことを言ったのが耳に残っている。

上官――それも雲の上のアルベリネアを遠慮なく剣でぶっ叩けるんだ。

そっちもそっちで大分頭がイカれていると思ったが、とはいえ、水切りアルベリネアほどじゃあなかった。


あの船頭が帰って来るときの蒼白な顔は目に焼き付いてるぜ。

遠目にアルベリネアが船賃を渡し、こっちの岸に戻って欲しいと指で説明しているのが見えた。

それから戻って来るまで何が楽しいのか、ニコニコと笑みを浮かべるアルベリネアと、首がおかしな方向に曲がった五人が一緒だ。

さぞ楽しかっただろう。俺は頼まれたって代わりたくないが。


『クリシェ、初めて船に乗りましたけど馬車よりすごく快適ですね。……ぐるるんがもう少し軽かったら向こう岸まで送ってもらえたのですが』


可愛らしい声で言った言葉に、船頭は怯えていたさ。

アルベリネアは子供みたいに幼い雰囲気――笑顔を絶やさぬと言えば良く聞こえるだろうが、その笑顔で平然と人を蹴り殺せる人間を可憐だなんて誰も思わねえさ。

全員揃って不憫なものを見るような目で船頭を見るのがわかった。


きっと、子供が虫の羽を千切る感覚なんだろうよ。

アルベリネアにとって、人を殺すってのは。


『どうするの?』

『こっちは大丈夫みたいですし、セレネの所に戻りましょうか。……えーと、ピリク騎兵隊長、死体は適当に処理しておいてください』

『っ、は……』

『船頭さんもありがとうございました。えへへ、機会があればまた乗せてもらえると嬉しいです』

『ぁ、ありがたきお言葉です……』


敵将一味を平然と蹴り殺し、微笑みを浮かべて頭を下げるアルベリネアだ。

船頭の声は半ば裏返っていたし、二度と乗せたいとは思うはずもなかったが、そう口にする他なかったろう。


それでアルベリネアはとっとと帰っていった訳だが、とはいえ、冷静になって考えてみると、結局殺してるんだから聖霊協約違反じゃないのか、と内心思ってもいた。

まぁ、相手が相手だけにそんなことは口が裂けても言えなかったが、多分他の奴もそうだろう。

だが、更に驚いたのは死体を船から降ろした時でな。


――全員首がへし折られて、だってのに血の一滴さえも滲んじゃいないんだ。


アルベリネアが噂以上の存在だって、その時ようやく理解したよ。

後で調べたんだが、聖霊協約の文言ってのは正確には――平時、戦闘の最中を問わず、渡し船での流血を禁ず。

だからアルベリネアは、わざわざ五人の敵が乗り込む狭い船に水を切って跳び乗って、剣も抜かずに首をへし折って見せた訳だ。

それも文言通り、首の骨だけを正確に、一切の流血ないよう加減して。


聖霊協約には、命を奪うな、なんて一言も書いちゃいねえからな。

血を流すな、と書いてあるだけだ。

誰も文句は言えやしない。

アルベリネアはきちんとそれを守って行儀良く、敵将まとめて五人を一人で殺したんだから。


ほら、ぞっとするだろ?

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