ヴァーカス 終
『事情あって引き取ることになった、養女のクリシェだ。隊長――私が敬愛する元上官、ガーレン隊長の孫娘と言えば分かるものもいるだろう。今後は軍にと決まった訳ではないが、ひとまずの顔合わせとして連れてきた。……クリシェ』
『……初めまして、クリシェです。よろしくお願いします』
頭を下げる少女はまさに子供であった。
セレネよりもまだ小さく、華奢。
美しい銀の髪と、幼いながらも半ば完成された美貌。
どこぞの姫君かと思うような容姿の持ち主で、むさ苦しい男が大半の軍では明らかに浮いている。
セレネもまた美しい娘であったが――ただ、直感的に何かが違うものだと感じた。
大きな会議室――大隊長から上は全員この場にある。
その視線が自分を向いているにも関わらず、緊張や怯む様子もなかった。
平然と、その紫色の無機質な瞳が静かに男達をなぞり、見返す。
『言っておくべき事としては……あまり好きではない言葉だが、クリシェは天才と表現する他ない娘だ。単なる手合わせでは既に私が負け越すほど、争いごとを好まぬ性格ではあるが武勇の神に愛されている』
室内に僅かなどよめき。
ボーガンは戦士としての実力も王国有数。
子供に負けることなど想像も出来なかった。
先ほど感じたものはそれが理由か。
グランメルドが感じたものは純粋な戦士としての警戒心であろう。
見た目通りではないと経験と直感が語りかけていたのだ。
『その点では子供として扱わなくていい、基本的なことは説明すればすぐに理解してくれるだろう。特に学術的な事に関しては恐らく、この場にある誰よりも優れる』
隣に立つセレネが僅かに唇を尖らせると、ボーガンは苦笑し頭に手を置く。
『まぁ、それ以外のところではまだまだ子供。妙に生真面目で冗談が通じないところもあるし、会話も得意な方ではない。大抵側にはセレネがいるだろうし、困ったことがあればセレネに。……どうにも妹が出来て嬉しいようでな、張り切っている』
『お父様……っ』
『くく……まぁ、今日は挨拶程度。訓練の見学に顔を出すだろうがいつも通り、特に気にせず見せてやってくれ。……以上、解散』
クリシュタンド軍が安定した頃にやってきた少女――特に劇的なものがあった訳ではないが、その時の記憶は妙に残っている。
部屋を出て行きながら副官に尋ねた。
『ベーギル、どう見る?』
『……既に完成されておりますな』
ベーギル=サンディカは真面目な顔で頷いた。
大隊長になってからの副官――暴走しがちなグランメルドに付けられたお目付役とも言えるだろう。
兵卒からの叩き上げで、ザイン式剣術の達人。
単純な戦士としての実力は大隊でもグランメルドに次ぐ。
軽装歩兵隊から手柄を重ねただけは有り、後ろを任せれば乱戦下でも上々に大隊を指揮する切れ者だった。
『現時点でさえあのような……この先を想像するとこの身が震えてきます』
『ほう……?』
正統剣術を修め、その上実戦経験も豊か。
その目は時にグランメルドの目よりも信用出来るものであったが、
『まるで妖精の如く、後二年もすればどれほど美しくなることか。……セレネ様だけでなく、新たな神秘の花がクリシュタンド軍に現れるとは思いませんでした。楽しみが増えましたな、大隊長』
『……、お前に聞いた俺が馬鹿だったな』
その目はよく濁っていた。
――思えば大隊長となり、その辺りからだろう。
それまで好き放題にやっていたグランメルドだったが、周りに面倒な連中が増え始めた。
ノーザンは丸くなったと笑ったものだが良い迷惑で、うんざりとすることが増えたように思う。
阿呆の副官はその最たるもの。
軍団長副官の地位を蹴り、是非ともあの美姫の下で剣を振るいたいなどと言い出した時は呆れ果て、その有能さを鑑みてもいっそ清々しい気分であった。
そんな阿呆と姫君を気に入っていたらしいファグランと共に放り出したのも、随分と昔のこと。
「遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました、クリシェ様」
「お久しぶりですね、ぴよぴよ。わんわんとロシーネも連れてきましたよ」
またロシーネが小さく肩を揺らしてグランメルドを見る。
わんわんと呼ばれる度、ロシーネはこの調子であった。うんざりする。
ノーザンの屋敷はそう遠くない。
元エルスレン皇都レナリア、その城の側にどちらも居を構えていた。
城そのものは一貴族である自分には大層過ぎると住むには使わず、政務や会議にのみ使われている。
「ええ、準備は抜かりなく。グランメルド、お前もたまには泊まっていくといい。酔っ払いのお前をロシーネに連れて帰らせるのは不憫だ」
「そうさせてもらいます」
ぴよぴよ、わんわん。
まだ入って間もないらしい使用人は困惑したようにこちらとノーザンを眺め、クリシェを見る。
こういう目で見られるのにも既に慣れてしまったことが二重にうんざりだった。
「あ、ぴよぴよ。一応これ、クレシェンタの手紙です。セレネとは別に、ぴよぴよの方で適当にやっておいて欲しいことが書いてるそうです」
「……しかと」
ぴよぴよ呼ばわりにも平然と、ご立派な髭を生やし、ご立派な正装を身につけた東部方面軍総司令は恭しくそれを受け取る。
女王と元帥を平然と呼び捨てに、馬鹿にしたような愛称で部下を呼び、これで欠片の悪意もないのだから性質が悪い。
エプロンドレスで来なかっただけこれでもマシな方だろう。
「立ち話もこの辺りに。どうぞこちらへ、クリシェ様でも満足して頂けるように良い食材を取り寄せ、料理人達に腕を振るわせました。きっと満足頂けるでしょう」
「えへへ、はい。……ぴよぴよの所は料理がとっても美味しいので、ちょっと楽しみにしてました」
――ボーガン=クリシュタンドが天才と称したとおり、ノーザンさえ霞む飛び抜けた何か。
グランメルドは子供相手に手合わせを挑むことはなかったが、実力はすぐに知れ渡る。
ファグランは完膚なきまでにやられたそうであったし、一年もすれば王国一の槍使い、コルキスさえ手合わせでは歯が立たなくなった
互いに怪我を負わせない程度の手合わせ――実際の戦いとは違う。
重石のような鎧を着込んで、重量武器を扱うことに特化した人間には不利な条件ではあったものの、とはいえその相手が腰ほどの背丈の子供ともなればそれは言い訳にもならない。
実際に戦場で目にすれば、否応なく理解が出来た。
川の対面に布陣するエルスレン軍に背後から斬り込むその姿。
グランメルドはその時、再び目を奪われた。
第四軍団やセレネの隊からも離れた所で、一人戦列に斬り込む姿は荒々しさとは真逆。
姿はほとんど見えないのに、兵を指揮する首だけが戦列に沈んでいくのだ。
必要最小限、士気を崩壊させるためだけに行われる効率的な殺戮。
誇らしげに声を張り上げることなどなく、敵の群れ――そのど真ん中で本来あり得ざる単独奇襲。
そんなことを平然とやれるような人間は二人といない。
敵は何が起こっているのかも分からず次々に隊が崩壊し、グランメルドが川を越えた時には、戦列が戦列ではなくなっていた。
殺人を楽しむ訳でも好んでいた訳でもない。
執拗に、念入りに、淡々と自分の仕事をこなすだけ。
護身用にもならないような、曲剣の一本で。
ある意味では『殺しあい』を楽しむグランメルドの方が、まだ人を人と見ていた。
この娘に取ってあれは、単なる草刈りのようなもの。
思えばガーレンもそういう性質の純粋な軍人ではあったが、それをより純粋に――より軍人としての純度を高めたものがあれだったのだろう。
初陣で既に、クリシェ=クリシュタンドは完成された軍人であった。
そして完成された軍人とは、もはや人ではない。
それに比べれば、自分は実に真っ当な人間であった。
「えへへ、わんわんはぐるるんと一緒ですね。さっきからお肉ばっかりです」
「……翠虎と一緒にされるのは心外ですが」
軽く王国中央の話をセレネに伝えられたまま口にし、ジュースのような酒を飲み。
クリシェは顔を赤らめ、テーブルの上に所狭しと並べられた美食の数々を上機嫌に口にする。
生ける伝説のアルベリネア――空前絶後の英傑。
その偉業からは全く想像も出来ない姿に、それを初めて見る使用人達は困惑を示しつつも、すぐに慣れ、まるでどこかのご令嬢のように世話を焼いた。
グラスにおかわりを注いでも食事を取り分けても、いちいち礼を言う彼女がおかしいらしい。
会食の雰囲気は明るく朗らか。
平和なものだった。
この美しく愛らしい少女が、その実そう見えるだけの怪物で、今と同じ笑顔を浮かべながら平然と数百人を斬り殺すなどと想像も出来ないのだろう。
礼を言いながら微笑むその顔は、人のはらわたを抉り出しても変わらない。
目的のためならば手段を選ばず、全力を尽くすべきだ。
そんなことを偉そうに口にする人間はごまんといるが、事実それを行える人間などこの世にこの娘くらいのものだ。
他人の目など気にも留めず、徹頭徹尾目的のためだけに純粋に。
自分が望む目的のためならば、世界中の人間を殺し尽くしてもそうして笑っているに違いない。
純粋さとはそういうもので、狂っているとはそういうことであった。
そもそも人は不純物の塊で、純粋な何かに憧れた所で、それをそぎ落とせはしない。
何の因果か、この少女の純粋さは失われていったが、本質的に狂っている事には違いない。
グランメルドがこうして華やかな場所で食事をしていること以上に、この娘がこうして楽しげに食事をしている事の方が不自然なのだと、多くの者は気付いていないだろう。
誰より自由でありながら、人の檻に好んで入ってくる獣。
グランメルドには違和感しかない。
食事を終えるとクリシェとロシーネはノーザンの妻達に呼ばれてそちらへ向かい、グランメルド達はノーザンの執務室に向かった。
「……手紙の内容は?」
「いつものリストだ。武器の不自然な流通や、報告書の改竄の恐れがある地域の。……女王陛下は大陸中の経済を頭に入れておられる」
各地から管理領地の財政状況が、季節ごとに報告書としてアルベナリアへ送られる。
そうして集めた膨大な情報を病的なまでに細かく精査し、女王クレシェンタは『不自然な流れ』を見いだすと、クリシェやその部下――元黒旗特務の人間に走らせ、リストとしてノーザン達に送ってくる。
クリシェがこちらに来た理由は、セレネからの軍備に関する話を伝え、ノーザンに女王の手紙を届けさせに来ただけ、という言葉通りの意味ではない。
東部に潜む部下と共に、誰かを摘発するためにやってきたのだ。
「クリシェ様は北東のビルシンサーネで仕事をされるらしい。王国中央に摘発者を連れて行くから混乱のないよう適当に処理せよと。……お二人には頭が上がらんな」
「きな臭いと言ってた所か?」
「ああ。既に突き止めておられたようだ」
くろふよ隊がぱぱっ、しゅたんっ、と色んな事を解決する組織――通称くろしゅたん。
誰もが呆れる間の抜けた名前であるが、その実情は非常に高度な特殊任務部隊。
あらゆる地域の反乱を未然に防ぎ、摘発までを瞬時にこなし、戦後は大陸各地に潜み諜報活動と摘発を繰り返している。
遠隔地から情報をやりとり出来る極秘機密の術式が組み込まれた送受信機を所持しているようで、大陸の端から端でもタイムラグさえなく命令が行えるらしい。
仮に軍事転用されれば戦場そのものが変わるであろう発明であったが、『アルベリネアの発明』というものは常にそうしたものだ。
彼女が何かを作り始めた五大国戦争から大陸統一まで、開戦から終戦までに掛かった時間は延べで考えても二年に満たない。
内容が内容だけに詳しくは聞いてはいないが、それも極一部。
他にも諜報用の道具をいくつも作っているのだろう。
その上、黒旗特務中隊はクリシェ=クリシュタンドの崇拝者の集まりと言え、戦場で磨かれた魔力保有者部隊。
荒事にも慣れ、貴族の一人や二人を捕縛、摘発することなど容易いし、応援にあの娘が出るならもはや、逃れられる人間などこの世にいない。
大陸という広大な土地のほとんどを制圧して、目立った反乱一つないカラクリはこれだった。
反乱のために動き出そうとした段階で首根っこを押さえられるのだから、あちらも信じられない気分だろう。
本来目の届かない大陸の端であっても、王都と変わらず監視されている。
女王クレシェンタは弱者への愛に満ちた人民の擁護者であると民衆は崇めているが、その実態が絶対的な監視社会であるなどとは誰も思ってはいまい。
どうあれ、戦を期待していたグランメルドとしては拍子抜け。
起こることは間違いないと考えていた反乱など起きることなく、世界は急速に平和へと向かっていた。
「それなりにエルスレンも安定させたつもりではあったが、まだまだ。また少し忙しくなりそうだな。お前が動くことにはなるまいが」
「そりゃ残念ですね。……退屈凌ぎになるかと思ったんだが」
「ロシーネは喜ぶだろう。良い妻だ。日々の生活を大いに楽しむといい」
「……何をどう楽しめって言うんだ」
呆れたようにグランメルドは言った。
「何人も嫁のいる色男様とは違うんだ。毎日代わり映えがない」
ノーザンは苦笑する。
正妻一人に妾が三人――ノーザンは貴族らしい貴族だった。
見た目もそうだが紳士的、その上に戦果を挙げ、能力まで伴うのだから、社交界での人気はまるで白馬に乗った王子様。
未婚の頃は立ってるだけで、目を輝かせた女が寄ってきた。
没落貴族の令嬢を嫁に迎え、妾を取らなかったボーガンに代わり、北部と中央の良家を結ぶ政治的な意味合いもあったのだろう。
とはいえ、嫁を一人迎えるかどうかでうだうだ考えていたグランメルドには、どうにも理解が及ばない。
「そう言うな。むしろお前が羨ましいぞ。……昔はノーザン様と甘えてきたものだが、今では俺が疎外感を覚えるほどだ。妻同士の仲が良いのは嬉しいことだが、子供も出来れば俺のことなど見向きもしない」
「そりゃ何とも贅沢な悩みですね」
言いながらワインを口にし、瓶の銘柄を眺める。
ワインはアルベランよりエルスレンのものの方が上等なものが多い。
「お前はもう少し素直になるといい。……ロシーネのような良い娘に愛を囁かれるのは悪い気分ではあるまい?」
「良い妻であることは同意するが、男の趣味が致命的に過ぎる。俺は毎日むず痒い」
「くく、前から思っていたが本当、そういうお前は顔に似合わず真面目な男だな」
「何……?」
誠実に過ぎると言った方がいいか、と笑ってノーザンはワインを口に。
「向こうが勝手に寄ってきたんだとは考えず、大方お前なりに、ロシーネを幸せにしてやりたいと思っているんだろう? 何とも優しいことだ」
睨み付けると、馬鹿にしている訳じゃない、とその目を緩めた。
「粗野で荒くれ者を気取ってはいるが、実際の所、お前は不義理を嫌う誠実な男だ。そして俺はお前のそういうところが気に入っている。……そしてロシーネも、きっとお前ならば自分を幸せにしてくれると見抜いていたのだろう」
俺も意外だったが、と部屋の壁を眺めた。
調度品の並べられた壁の先のどこかに、ロシーネもいるのだろう。
「軽く接する程度にはわかりにくい、お前の美点を見つけてくれるような女はこの世にそうそういるものではない。素直にその幸運を喜べ、グランメルド。……今ある退屈な日々こそが」
そして楽しげに、からかうようにノーザンは告げる。
「……ようやく見つけたお前のヴァーカスなのだから」
客間のソファに転がってワインを飲んでいると、扉が開く。
「あら、早かったのですね。もうお部屋にいらっしゃるだなんて」
随分と飲まされたのか、頬は真っ赤になっていた。
言葉こそはっきりしていたが、足元は少し危うい。
頭を掻いて立ち上がると入り口まで向かって抱き上げ、そのままソファに座らせる。
恥ずかしそうにしながらも、上機嫌に礼を言って、グランメルドの腕を取った。
「ふふ、すみません。美味しいお酒でしたので、つい飲み過ぎてしまいまして」
「そりゃ、随分楽しめたようで何よりだ」
「そういう旦那さまは何か? お顔がいつもより険しいです」
ぺたぺたと頬を触り、まさしく酔っ払いであった。
知るか、と告げるとくすくす笑い、グランメルドの太い腕に頬を寄せた。
「もう、フィーレ様達ったら、旦那さまとの生活はどうかとあれこれ聞いてくるものですから。酷いです、黙秘するならお酒を一杯、だなんて」
「まんまとハマった訳か」
「ええ、でもすぐに興味がアルベリネアに移ってしまったみたいです。以前から思ってはおりましたが……本当に可愛らしいお方なのですね。目上の、しかもアルベリネアには失礼かも知れませんが」
「そう思っているのは、戦場での姿を知らん奴だけだ」
呆れて告げる。
「花畑で蝶と戯れるような子供に見えるだろうが、虫を潰すように敵を殺して、小石を蹴り飛ばすように敵将を仕留める化け物だ。俺でさえ足元にも及ばん」
「……そのようには見えませんけれど」
「それは幸いなことだな、まぁ、この先見ることもなかろうが」
じっとロシーネはこちらを見上げて、栗毛を揺らして静かに笑う。
「どうあれ、それだけが真実ではございませんでしょう。……あの方が花畑でちょうちょと戯れるような子供に見えたとして、それ自体が間違いであるとは思いません」
「……?」
「日常においてはそのようなお方ということです。少なくとも普段の日常でお会いして、あのお方を悪く言う方はいらっしゃらないでしょう。お屋敷の庭にお花が咲いたのだとか、お料理についてだとか、そんなお話ばかりを楽しそうにする方ですもの」
それからグランメルドの頬を撫でた。
「わたしの好きな旦那さまも、戦場で輝かしい武勲を挙げた大狼グランメルド=ヴァーカスではなく……そんなアルベリネアにわんわんと呼ばれて困ったような顔をなさる、優しい旦那さまでございますから」
愛おしげに、酔いで潤ませた目を向けて。
「……酔っ払いはさっさと寝ろ」
「ふふ、お許し下さいませ」
くすくす、くすくすと楽しそうにロシーネは笑う。
普段は小言が多くてうんざりだが、酔うと酔うで面倒な女であった。
「どうして旦那さまを好きになったのかと根掘り葉掘り尋ねられて、思ったのはそんなことだったのです。子供の頃はいつもいつも旦那さまにわがままを言って困らせたものでしたけれど、旦那さまは面倒くさそうにしながらも付き合ってくださって」
「……お前の父親には世話になっていたからな。子供好きな訳でもない」
「お嫁さんになるだなんて子供ながらに言った時も、面倒くさそうな顔でわかったわかった、妻にして下さいとお願いしたときもそう。……子供好きかどうかはともかく、旦那さまが優しい方なのは事実でございますよ」
「ああ……はいはい、そうだな。優しい旦那で良かったな」
相手をするのに疲れて再び抱き上げると、またロシーネは楽しげに。
甘えるように首に手を回しては、大人しくベッドまで運ばれる。
乱暴にベッドに降ろすと靴を脱ぎ、肩を揺らしてこちらを見上げる。
「旦那さま、ふふ、照れておられるのですか?」
「……そういう風に見えるか?」
「見えます」
「お前に呆れてるんだ」
いつもは生真面目な顔を、何が楽しいのか緩ませて、ロシーネは目を細める。
わしわしとその頭を無理矢理撫でると、そのまま無理矢理ベッドの中へ押し込み、枕に頭を押しつけさせた。
もう寝ろ、と告げると、はい、と答え、グランメルドはため息をつきながら再びソファへ。
ワインを注いでベッドを見ると、まだロシーネはじっとこちらを見つめたまま微笑んでおり、
「お休みなさいませ、旦那さま」
「ああ、さっさと寝ろ」
言葉を返すとまた笑いを零し、酔っ払いはようやく目を閉じる。
それを眺めて嘆息し、ワインを煽るとソファにそのまま身を沈めた。
他人に何かで振り回されて、いつからこういう風になったものか。
自由を求めていたはずが、いつからか何かに縛られて。
歳を取るごとに面倒ごとは増えていく。
『――北部の古語が由来の言葉だ。意味は集団とも言われているが、実際の意味合いとしては……一家や家族、といったところだろうか』
『は……?』
『……くく、弱味を持たない一匹狼には、実にお似合いの名だろう?』
――そんなものを知らないお前だからこそ、皮肉で運命的な名だ。
小悪党のクラーゼは、そんな言葉にどういう意味を込めたのか。
きっと、小悪党らしい――人間らしい下らない願いなのだろう。
自由を得たはずのグランメルドも、いつの間にかそんな言葉の檻の中、
まさに何とも言えない皮肉であった。
立ち上がるとつまみが欲しいと部屋を出て、
「あ、わんわん」
廊下で風呂上がりらしい少女と出会う。
酔っているのかのぼせているのか、使用人に連れられながら、顔を赤らめ眠たげに、目元を揺らしてこちらを見つめる。
「ロシーネ大丈夫でしたか? なんだか随分酔ってたみたいですけれど」
「……仰るとおりでもう寝かせました。随分な酔っ払いだ」
迷惑そうに告げると、アルベリネア様は途端、顔を真面目に。
偉そうに指を突きつけ口にする。
「そうそう、ロシーネから聞きましたよ。何でもわんわんは洗濯物をあちこちに放ったらかしだとか、仕事を放り出してお酒を飲みに行ってるだとか、泥だらけの靴でカーペットの上を――」
ろくでもない酔っ払いは二人目であった。
くどくど、くどくどとまるでお目付役か何かのつもりか。
グランメルドの普段の行状を延々と繰り返す。
部屋へ案内していた使用人は困惑しつつ、右往左往。
グランメルドは頭痛が痛い気分である。
その上段々と自分で何を言っているのか分からなくなってきたようで、アルベリネア様のありがたいご説教はループし、小半刻近くも相づちを打たされた。
「ともかく、自分のお屋敷でゆっくりするのはともかくです、あんまりロシーネに迷惑を掛けたら駄目ですからね。わんわんはわんわんでも他の人からすればとっても立派な貴族のわんわんなんですから、他のわんわん……じゃなくて、人々の模範になるようにしないといけないのです」
「はぁ……わかりました。肝に銘じておきますよ……そろそろ行っていいですか?」
「……分かったならいいですけれど。まぁ、クリシェもあんまり長いお説教はするつもりはないのです」
その言葉に頭を掻いて、ようやく終わりかとため息をつく。
十分長かった上に、わんわんわんわん延々と繰り返され、うんざりどころの騒ぎではない。
この娘がどの口で貴族を語るのかとも思ったが、言いたいことは心に留めた。
酔っ払いを相手にするだけ無意味である。
「でも……えへへ、ロシーネ、わんわんはとっても優しい素敵な旦那さまで幸せだって言ってました。とても良いことです」
「……そりゃどうも」
「折角戦争もなくなって平和なんですから、わんわんもこれからはもっと家族を大事に、ロシーネも幸せにしてあげるんですよ」
言いたいことをようやく言い切ったのか、すっきり満足げにうんうんと頷き。
クリシェは朝早いので寝るとしますと眠たげに部屋へと入る。
どこまでも勝手な生き物だった。
戦場にあれば誰より頼りになる化け物は、日常の中においてははた迷惑な子供。
誰より自由でありながら、好んで檻に囲まれた人の社会に入り、人の嫁まで気にして説教。
何とも変わり者の化け物だと考え――あるいは、自分も似たようなものかと考える。
結局自分も野良犬の自由を捨てて、自分から檻に入った阿呆には変わりない。
つまみを取りに行く気も失せると、部屋に戻って靴を脱ぎ、ベッドの中へと潜り込んだ。
ロシーネは眠ったままに幸せそうに身を寄せて、グランメルドの腕に頭を乗せる。
そんな寝息を聞きながら、対するこちらは溜息を。
戦場でどんな相手も黙らせてきた剛腕も、ここに到っては枕であった。
あれだけ自由を求めていたはずが、どこまでも不自由に。
野良犬だった頃の自分が今の自分を見たならば、一体なんて口にするだろうか。
あのクラーゼが見たならば、一体何を思うのだろうか。
『――ここが今日からお前の家で、俺が今日からお前の兄貴だ』
考えるのにもうんざりして、
『……ヴァーカスへようこそ、グランメルド』
ふと、笑いが零れた。
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