ヴァーカス 四

「旦那さま、そんなところで毛布も掛けずに。体調を崩してしまいますよ」

「……ん?」


無駄に広い屋敷――二階のバルコニー。

そこにある椅子に座って酒を飲んでいる間に寝ていたらしい。

座り心地の良い安楽椅子――座っているとゆったり前後に揺れるせいか随分と寝心地が良い。


声のした方を見ると。華美さのない白いブラウスと黒のスカートを身につけた女。

栗毛の髪を肩で切り揃え――端正な顔もその性格が滲み出ていて、華やかさとは真逆。

いつぞやくれてやった紅玉のネックレスだけが、生真面目な女から浮いて見えた。


「お前は文句しか言わんなロシーネ。俺がどこで寝ようと俺の自由だろう。それに俺が戦場でどんな生活をしていたと思っているんだ、お前は」

「旦那さまが文句ばかりわたしに言わせるからです――っ」


近づいてきたその華奢な腰を抱き寄せ、膝の上に乗せると、頬を赤らめこちらを睨む。

いつまで経っても、すぐに顔の赤くなる女であった。


「……旦那さま」

「毛布代わりだ。文句があるか?」

「……もう」


頭を撫でてやると嘆息しながら、諦めたように力を抜き、甘えるように身を預ける。

生まれた頃から知っていた――まさか嫁になるとは思わなかったが。

ロシーネはノーザンの下で働いていた平民出身の能吏、ペイカスのガキで、グランメルドもそれなりに知っていた。


貴族というものは面倒ごとも多い。管理領地を与えられれば尚更だ。

金や土地の管理などを相談をするのはノーザンかその男で、度々何かを聞きに来るグランメルドを見るに見かねたノーザンがペイカスをよこしたのも随分前のこと。

元は商人か何か、ノーザンがその頭の良さを買って自分の配下にしただけあって、随分な切れ者。丸投げすれば丸投げされた仕事をきっちりこなした。

グランメルドも厚遇したし、酒の好みも合い、良い付き合いをしていたのだが――何の因果か今に到る。


それまで大した会話もしたことはなかった。

一応ガキの頃には随分と懐いていたが、物心ついてからは真逆。

大抵睨むようにこちらを見ていたもので、嫌われたのだろうと考えていたし、父親であるペイカスの仕事を手伝うようになってからもやりとりは事務的。

品の良い生真面目なお嬢さん、嫌われるのは性格的にも当然だと大して気にもしていなかったのだが、ある日唐突に、娘との縁談を受けてもらえないでしょうか、とペイカスに相談された。


ペイカスは特に野心的な男ではない。

娘を差し出し立身出世を、などという男ではなく、良くも悪くも平凡な感性の男。

娘のことは随分可愛がっているように見えたし、それを嫁にしろなどと何の冗談かと尋ねたものだが、ペイカスはペイカスで混乱している様子であった。


『……失礼ながら私も、ロシーネは、その……旦那さまのことを嫌っているものと思っていたのですが……あの性格の娘ですし』


娘にそろそろ縁談を、と良い相手を探したものだが、ロシーネに断られ続け、好きな男がいるのかと尋ねれば、旦那さまが好きなのだと涙ながらに口にしたそうだ。


グランメルドはまず疑った。

ロシーネは賢い女である。家のため、グランメルドの所へ自分が嫁ぐことが最良だと考えたのではないかと。

グランメルドは女好きだが、あくまで互いの了解があればこそ楽しめる。

そうでなければ白けるだけ――見目が良くとも、内心嫌々な女を嫁にしたところで愉快なはずもない。


ひとまずロシーネと直接話をしようと呼び出し、それを告げるとポロポロと泣き出してしまい、グランメルドは途方に暮れた。

なだめていると子供の頃からずっと好きだったのだと語り始め、あれほどうんざりする時間も両手の数あるかないかだろう。

それなりにアピールしていたつもりであったようで、そのように言われた事が非常にショックであったそうだが、その内容があまりに控え目。

一体、何のことを責められているかも分からない。

延々と泣き続け、慰めさせた挙げ句に寝てしまうのだから始末に負えなかった。

睨んでいるように見えたのは、どうにも緊張していただけらしい。


それからもしばらく迷ったものだが、決して後悔しないしさせないと告げるもので、ひとまず嫁に迎えることにした。

良くもなく、悪くもなく――毎日のように小言を口にし、時々甘える女が隣に増えたくらいで、生活はそれほど変わらない。

惚れているかと言われれば疑問ではあったが、気に入ってはいた。

利発で可愛げはあり、良い女であることは確かである。

男の趣味は悪かったが。


「……何の夢を見ておられたのですか?」

「知るか。昔のことを思い出していたら寝ていただけだ」

「まぁ、それこそ珍しいですね」


ロシーネはグランメルドの髭を指で弄ぶ。


「旦那さまは昔のこと、全然わたしに話してくれませんから」

「ろくでなしの面白くもない話だからな」

「でも、わたしは聞きたいです」


少しだけ恥ずかしそうに頬を染め、ロシーネは睨むように告げる。


「……旦那さまばかりわたしのことを知っているのはずるいですから」


そして、グランメルドの頬の傷に手をやった。

指で愛おしげにその傷をなぞる。








――勝負は呆気ないものであったと言っていい。

右手の剣をこちらに振るうと考えていたノーザンは突如、そのままこちらに背を向けた。

くるりと大きく右回りに回転し、その遠心力を用いての一閃。

全ての力を剣へと集約するかのような動き。

その刃が狙うのは、グランメルドの振るった鉄棍であった。


この鉄棍を剣で弾き返す気かと正気を疑い、しかし眼前の光景に目を疑う。

鉄棍の鋼に食い込んだ刃はそのまま止まらず、鋼の柄をまるで木の枝か何かのように真っ二つに両断する。

そしてそのまま、刃の切っ先はグランメルドに。

頬骨と共に左頬を切り裂き、ノーザンは容易く背後に回った。


咄嗟に振り向こうとしたが、突如鉄棍の先端を失ったせいでバランスを失った体――体勢を崩して出遅れ、そして背中に強烈な一撃。

三間を転がり立ち上がる前に、首に直剣が突きつけられていた。


「得物に頼りすぎだな。力も体力もあるが、まだまだ技術が足りない」

「てめえ……」


これで蹴られた借りが増えたな、とノーザンは笑う。


「単なる力任せでは、お前より体格で勝り、力で勝る相手には勝つことも出来ない。そして相手に多少の技術と知恵があれば、勝てるはずの相手にも負けるだろう。今日まで生き延びられたのは、単にお前の運が良かっただけ――まぁ、相手が賊ならそれで十分だったのだろうが」


軍においてはそうではない、とノーザンは剣を引き、己の剣を眺め、眉間に皺を寄せると、それを捨てて転がっていた死体の剣を手に取る。

鋼を真っ二つに――剣が傷んだのだろう。


「お前はまだまだ未熟な俺にも負ける。仮に相手がクリシュタンド兵長やアーグランド、魔力を使えぬ隊長であったとしても同じことだ。……何故ならば軍人は力を誇示するためではなく、ただ勝利のためだけに振るう」


お前との違いはそれだ、とノーザンは上体を起こしたグランメルドに告げる。


「俺達が剣を振るっている場所は、どちらが強いかを示す野良犬の喧嘩ではない。ただ唯一、勝利を手にするために己の全てを賭ける戦場だ」


そしてこちらに近づくと、笑みを浮かべた。

伸ばした手で頭を掴み、まるで血に飢えた狼の如く頬を吊り上げて。


「賊などと下らないことをしていないで、俺と共に来い、グランメルド」


――お前には犬の群れより、狼の群れが相応しい。


そう告げる目は滾り、その端正な顔は野卑なけだものが如く歪んでいた。


後に、ノーザン=ヴェルライヒは凶悪な狼を飼うと、グランメルドを指してそう言われることがあった。

飼い主と飼われた狼なのだ、と。


しかし、それは正しくない。

この男は飼い主などと上品なものではなく、その人皮を剥いだ下にあるのは狼の顔。

ノーザン=ヴェルライヒはグランメルド以上に凶悪な狼であり、そしてその群れの長だった。


「何をしている、ノーザン」


掴まれた頭が離され、ノーザンは剣を鞘に。

そしてこちらに、あっさりと背を向け敬礼する。


後ろから殺されるなど思ってもいないのだろう。

舐めている訳ではなく、賊のグランメルドを信用しているのだ。

――後ろから殺しに掛かるならば、とっくの昔にやっている、と。

既にノーザンは、グランメルドが己の部下であると態度で示していた。


「隊長、兵長。少し新兵の補充を」

「新兵……?」


二人は兵士を連れ、グランメルドと、まだ残っていたファグラン達を見た。


「恐らく第二軍団の敗残兵でしょう。あそこは酷くやられたようですし……どうにも我々の勇戦を見て奮い立ったようだ」


ガーレンとボーガンは呆れたように顔を見合わせ、グランメルドに尋ねる。


「……だそうだが、そうなのか?」

「……、文句はねえよ。負けは負けだ」


一瞬考え、そう答えた。


「聞いての通り口の利き方は分かっていないようですが、中々腕の立つ男です」

「それは頼もしいことだ。……説教は後にする。面倒はお前が見ろ」

「は」


再びノーザンはこちらを向き、右手を伸ばした。

また少し考え右手を伸ばし、それを掴んで立ち上がる。

そして、逃げ出しもせずこちらを見ていたファグラン達の方に目をやると、


「見ての通りだ。お前達は好きにしろ」


そう一言告げた。

奴らもまた顔を見合わせ、そうさせてもらいます、と剣を鞘に、こちらに近づく。


「丁度、賊にも飽きていたところです。これはこれで悪くない。……でしょう?」


ファグランは笑って言い、グランメルドも静かに笑った。

深い頬の傷が酷く痛んだ。





賊が加わったことに多少の警戒を見せるものもいたが、それだけ。

隊の古参は特に気にせず、同じ隊の兵士としてグランメルド達を迎え入れた。

元々この隊は強引に補充した敗残兵や逃亡兵が大半を占めているらしく、新顔も大して気にならなかったらしい。

逃亡兵など見つかれば普通は死罪。

同じく普通は死罪の賊が混じっても、文句を言えない奴が多かったとも言えるだろうが――決闘による結果というものは少なくとも、規律を重んじる軍人の中にあっても大きな意味を持っていた。

良くも悪くも軍に根付いているのは戦士の文化と呼ばれるもので、部族時代のような信仰が存在している。


混乱している敵を奇襲し、あるいはすり抜け。

禊ぎをさせる意味も兼ねていたのだろう。

ノーザンに率いられて先頭で戦えば、すぐに誰も不満を見せなくなった。


そうして隊に混ざり本隊に戻っても、文句を付ける奴はいない。

孤立し死んだと思われていた百人隊が、手柄を挙げて死地を潜り抜け、血まみれになりながらも単独で帰ってきたのだ。

兵士達は喝采でガーレンと隊を迎えたし、軍団長さえ士気高揚を兼ねて兵達の前で隊を称賛し、ガーレンを嫌っているらしい大隊長も、表向きはその活躍を称賛せざるを得なかった。

仮に賊が混ざっていると告げ口されたところで、裁くことさえ出来なかっただろう。


そもそも賊が兵士に、兵士が賊に、などと良くあること。

募兵した兵士の管理も名前と所属を記入して終わりだ。

場所によっては杜撰であったし、前線で名前と所属が一致しない事など多々あった。

まともに書類で管理されるのは兵長や百人隊長からであって、万を超える兵士に何人か賊が混ざったところで大した問題もありはしない。


――そうして、グランメルドは軍人に。


楽しいかと聞かれれば、普通、楽しくはない場所なのだろう。

ただ、グランメルドに取っては退屈しない場所であった。

元々頭のどうかしてるファグラン達もそうであったようで、一ヶ月もすれば「は! 了解です!」などと軍人のように敬礼し、命令されては軍人のように戦った。

当時の隊は控え目に言っても、王国一と言えるものであったのも大きな理由だろう。


隊長ガーレンは魔力保有者ですらない男であったが、神懸かり的な狩人。

並の魔力保有者などものともしなかったし、頭脳に優れ視野は広く、森の中で乱戦にある隊のけだもの達を容易く掌握する飼い主。

その脇を槍使いのコルキスが固めれば、もはやその首を落とせるものもいない。


後に駆け上がるようにして将軍となるボーガン=クリシュタンドは一見冷静沈着な男ながら二面性が有り、ひとたび前に飛び出せば狂戦士のそれ。

隊長ガーレンに心酔し、その命じるまま敵を畏怖させ、己が部下を熱狂の渦に巻き込むカリスマというべきものを持つ。

常に誰より危険な任務を請け負い切り抜ける様は純然たる戦士であって、ノーザンが敬意を向けるのもよく分かる男であった。


ノーザンもまた同じく。

二人の美点を貪欲なまでに吸収し、戦う度に飛躍するこの男はあらゆる才覚に恵まれていた。

自ら剣を振るっても、後方で指揮を執っても、一切の欠点が存在しない。

普通ならば器用貧乏と呼ばれそうなものだが、全ての点が常人と比べて突出しているのだから文句を付ける所などないだろう。

隊全体の動きを補佐して周り、一見歪にも見える隊を安定させ、盤石のものに。


大隊とまともにぶつかり合ってさえ、負けるとは思えない。

後にあのイカレた姫君が作った黒の百人隊――魔力保有者のみで作られたそれとやり合っても、当時の隊なら悪くない勝負が出来ただろう。

二年近く続いたその戦にあって、その隊だけは常勝無敗であった。


あの大隊長も随分と苦悩したものだろう。

死地に送り込んでも、成果を挙げて平気な顔で返ってくるのだ。

気付かれずに敵地浸透、高度な作戦を遂行できる少数精鋭の特殊部隊として現状のまま運用したい――そう軍団長を説得し出世を阻んでいたようだが、それがより隊の名声を高めた。

百人隊中の百人隊として軍にある全ての兵士が憧れる精鋭部隊。

大隊長や軍団長、指揮官達さえ敬意を向ける最強の百人隊。


戦好きに取ってはまさに理想郷であろう。

グランメルドもまたファグラン達と同様、そこで己が戦うことに抵抗などなかったし、戦に明け暮れる日々を満喫した。


戦が終われば軍全体が再編成され、そのまま大隊へ昇格することは間違いなかったし、誰もがそう考えていたに違いない。

とはいえ、やり過ぎでもあった。

ガーレンは希有な軍人であったがあくまで軍人。

野心という意味では欠けていた。


戦が終わらずとも同じ軍団の大隊長が死ねば、それで戦時昇格は十分に出来たはず――窮地の大隊を助け、支援して助ければ、結果として出世は遠のく。

明確に公私を分けるガーレンはその辺りの考えが頑なで、友軍を見殺しにするという考えを持たなかった。

軍人や武人としては美点でもあるが、欠点にもなり得るものだ。

更に広い見方をすれば、どこかの大隊長を見殺しにしてガーレンが大隊を引き継いだほうが結果的にも戦果を挙げ、全体の死人も少なかっただろう。


『お前の理屈は分かる。だが、助けられる相手を見殺しにして上に昇り詰めたとしても、その後悔は一生残るだろう。……誰がそれを許そうと、わしは卑劣な手段を用いたわしを一生許しはしない』

『ですがあんたは――』

『お前達には苦労を掛けて悪いと思っている。だが、わしはこれでも人の夫で親でもあってな。……似合わぬことだろうが、妻と娘に誇れる自分でありたいのだ』


けだものだらけの世界にあって、ガーレンは冷酷な軍人で有りながらも、下らないことにこだわった。

どこにでもいる田舎の狩人――クラーゼと同じで、極普通の人間。

グランメルドもそう言われては呆れてものを言えず、諦め――結果としてガーレンもまた、その甘さのせいで軍を去ることになった。


どうしようもなくなった大隊長のちょっとした嫌がらせだろう。

清廉潔白な男に命令したのは、逃げたエルスレン兵を匿った村への見せしめ。

反発すれば抗命として処罰する、と嫉妬で狂った男は告げた。


どれだけ名声ある軍人であれど、上官の言葉は絶対であった。

少なくとも軍という組織は、そういう狂った規則の上で成り立つものだ。

敵兵を匿うのは重罪――どうあれ村を焼くという命令に妥当性があったし、そうである以上逆らえはしない。

どんな過酷な状況さえ平然と潜り抜けた百人隊長であっても、その命令はどんな任務よりも厳しいものだったのだろう。


同じような村で育った狩人の出。

自分の命令で焼かれる村に、故郷のことを思い出していたのかも知れない

ガーレンはそれを最後に軍を退役した。

兵士達はそれを説得したものだが、長いエルスレンとの戦いの間に妻が病で死んでいたことを知り、泣きっ面に蜂だったのだろう。

――輝かしい武勲を挙げた百人隊長はそうして消える。


隊はボーガンに引き継がれ、次の戦でその大隊長も戦死。

実際どうであったかは知らない。

兵士達の英雄を権力を用いて追い出したのだ。兵士達がその男を見る目は冷淡であった。

周りの目に耐えきれなかった大隊長は手柄を挙げようと必死になっていた様子で、最終的に孤立して死んだものの、意図的に孤立させられた可能性もあるだろう。

ガーレンと同様、武功を挙げ続けるボーガンはそうして邪魔者がいなくなったこともあり、駆け抜けるように出世したが、皆、ガーレンがここにいないことだけが残念と漏らした。


とはいえ、脇が甘かったのは事実だろう。

クラーゼが死んだ時と同じく、そういう状況に追い込まれたのはガーレン。

人間として真っ当に過ぎたとグランメルドは考えた。

人間、弱味などはない方が良い。

一連の出来事を眺め、グランメルドの出した結論はやはりそういうものだった。


「確かに合理的な考え方だが、理屈ではないさ。兵士が憧れるのは物語の英雄だ」

「……英雄?」

「そう、誰より高潔で、死地に笑い、そうでありながら勝利を重ねる。狂っているだけでも、合理的なだけでもいけない」


ある日ノーザンに告げると、そんな言葉を返した。

ノーザンらしい、清潔感と上品さが肩を組んでいるような客間。

グランメルドには居心地の悪い部屋で、ワインを傾けながら思い出すように。


「ガーレン隊長は賊のお前ですら認める高潔な軍人。そんな軍人が多大な戦果を挙げるからこそ皆が憧れ敬意を向ける。ボーガン様も同じくだ。……だからこそ兵達は、この指揮官のためならばと一つしかない命を委ねてくれる」


単なる荒くれ者ではこうは行かない、とノーザンは笑う。


「皆が皆、お前のように命を投げ出せる訳ではない。大抵は臆病者――そんな男達に自分が英雄譚の登場人物であるのだと、そんな夢を見せるからこそ隊は精強なものとなり得る。お前も上に立つ身だ、これからはそれを良く理解しておけ。……お前が一人で一万人を殺せると言うなら俺も文句は言わないが」

「そりゃありがたいお話をどうも。肝に銘じて置きますとも」

「態度の悪さが変わらん奴だ。まぁ、それはともかく、用件があって呼んだ」


ノーザンは羊皮紙を取りだし机に置く。


「お前は略式ながらネアの叙勲を受けている。武勲を考えればリネアとなる可能性もあるが……ひとまずそれはいい。戦も終わり、正式に国へそれを提出するに当たってこれからは貴族としての姓を持つことになる。重要なのはそれだ、希望があれば聞こう」

「姓?」

「親が姓を持っていればそれを用いるのが一般的だな」


ノーザンは笑いながら言い、グランメルドは睨んだ。

グランメルドがどんな育ちかくらい知っている。


「流石、大隊の副官様ともなればお優しい。ありがたい常識を教えてくれて嬉しいもんだ。あると思うか?」

「あるようには見えんな」


基本的にノーザンはろくでもない男であった。

何度殺してやろうと思ったかはわからない。


「後は自分で決めるか、生まれた村の名前を付けることも多い。街なら避けた方がいいだろう。特に駄目だという決まりもないが、そこを管理している貴族が嫌う」


自分の名前でさえ自分で決めなかった。

姓など当然、ぱっと思いつけるものではない。


それが思い浮かぶのも必然だったと言えるだろう。


「……ヴァーカスだ。グランメルド=ヴァーカス、それにしてくれ」


ノーザンは聞いて、何やら驚いたように目を見開いた。

それから良い名前だ、と笑いを堪えるような顔でさらさらと羊皮紙に書き記す。

グランメルドは眉を顰めた。


「……おい。何が面白い?」

「いや……弱味を見せるものが悪いと言っておきながら、中々愉快な名を付けると思ってな」

「……どういう意味だ?」


ノーザンは失礼、と顔を背けて肩を震わせて部屋を出る。

耳を澄ますと笑い声が扉の向こうから響き、そして少しすると何事もなかったかのように、「失礼した」と真面目な顔をして戻ってくる。

どうにも、おかしくて笑う姿を他人に見せるのが己の沽券に関わるとでも思っているのか、しかし全く隠せていなかった。

額の血管がぴくぴくと疼くのを感じながら、おい、と再び声を掛ける。


「ヴァーカス、どうしてそれを?」

「……昔いた小悪党のグループの名だ」

「なるほど。由来も聞かなかったのか?」

「興味なかったからな」


そうか、とまた笑いを堪えるようにグランメルドを見た。


「北部の古語が由来の言葉だ。意味は集団とも言われているが、実際の意味合いとしては――」


そして聞いたグランメルドは、呆けて間抜けに口を開いた。


「……くく、弱味を持たない一匹狼には、実にお似合いの名だろう?」








「――わんわんっ」

「……あら」


話をせがむロシーネにうんざりしていると、庭から響いたのは幼い声音。

ロシーネは膝の上から降りてバルコニーの欄干に、グランメルドもそれに続く。


翠虎に腰掛け、衛兵と共にこちらを見上げるのは銀の髪。


「……お久しぶりです、アルベリネア」

「えへへ、結婚式以来ですねロシーネ。元気そうで何よりです」

「はい、おかげさまで……」


ロシーネは深々と頭を下げつつ、わんわん、と小さな声で呟き肩を震わせる。

うんざりしていたところに、余計うんざりするものが現れたとグランメルドは嘆息する。

戦場以外ではそれほど顔を合わせたい相手ではない。


「お久しぶりです、クリシェ様。……今日は一体何の用です?」

「ぴよぴよの所にセレネのお使いに来たのです。通り道なので一応わんわんにも声を掛けておこうと」


ぴょんと跳びはね、軽々バルコニーに。

いつも通り変わりなく、礼儀正しいようで不作法。

バルコニーはどうにも、他人の屋敷の中ではなく外の扱いであるらしい。

大抵ノーザンのついでと何の脈絡もなく現れるのだが、今日も同じく。


グランメルドは気にしないものの、気にしたところでこの少女に何か文句を言えるものもないのだろう。

日常でも非日常でも傍若無人、グランメルド以上に勝手な人間は中々いないが、流石のグランメルドもクリシェ=クリシュタンドには敵わない。

美しく愛らしい人畜無害な容姿に反して、理不尽の塊のような存在であった。


「わんわんもぴよぴよの所に行きませんか? 何やら暇そうですし」

「……いつもながら唐突ですね」


一見思慮深いように見えて、短絡的。

基本的に何も考えておらず、動物的。

思いつくまま気の向くまま、勝手に決めつけ要求を告げ、恐らくは世界で最も自由な生き物だろう。

高貴な生まれで今も高貴な姫君のはずだが、感性は村娘。

まるで隣人をお茶に誘うが如く、貴族の作法や形式などお構いなしであった。


「えへへ、ロシーネも」

「わたしは……その、辺境伯にご迷惑が掛かりますし……」

「ロシーネも連れて来れば良かったのに、ってこの前ぴよぴよが言ってたので多分大丈夫です」

「は、はぁ……」


ね、わんわん、などとクリシェは微笑み、困ったようにロシーネもグランメルドを見上げる。

確かに言っていたが、多分大丈夫、の言葉で、はいわかりました、と答え、夫の上官の所に顔を出せる剛毅な女は中々いないだろう。


「あー、その、なんだ……閣下の所には連絡を?」

「多分セレネが送ってます。今日行くようにって言ってましたし」

「……、ああ、そうですか」


いまいち信用ならない言葉である。

大陸の英雄アルベリネアの来訪。

お忍びとはいえ一応体面というものはあるもので、それなりに準備はするだろう。

客が二人増えたところで実際構うことはないだろうが、多少の配慮はしてやる必要があった。


「ひとまずお疲れでしょう。まだ日も高い、行くにしても少しここで休んでからにした方がいい」

「……? クリシェは別に疲れて――」

「……ロシーネ、俺達も行くと手紙を書いて、誰か適当に走らせろ」

「ふふ。……はい、旦那さま」


何故俺がこんなことに気を使わなくてはならないのか。

溜息を吐いて頭を掻いた。

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