月明かりの遺産 終

屋敷の側に併設されたそこはセレネの工房と呼ばれる場所であった。

いくつもの剣やナイフ、包丁が並べられ、汗を手拭いで拭き取りながら自慢げにセレネがクリシェを見る。

クリシェが手に持つものは細い長包丁――大陸東の島国で用いられる魚用の包丁であった。

両刃ではなく片刃、生で魚を切るときに用いられているらしい。


「ふふん、どうかしら? 今回は中々の仕上がりだわ」

「か……形は結構良いですね」


クリシェは同じくそれを眺めていたベリーにそれを手渡した。

ベリーは真剣な目で顔を近づけ、その刃を眺め、光に当てて透かして見る。

一瞬僅かに目を細めながらも、すぐに微笑みを浮かべ頷いた。


「ええ、実用に耐えるものではありますね。十分な出来でしょうか」

「……文句がありそうね」

「えーと、い、いえ……」

「正直に言いなさい」

「文句、というほどでは……」


ベリーは少し困ったようにクリシェと顔を見合わせ苦笑する。


「た……ただ、恐れながら最高級品とは言えないでしょう。肌が少し荒れてます」

「はぁ……?」


ベリーは刃のない側を見せ、指で示す。

言われて見れば非常に細かな粒子が不均質。

僅かながらの歪みを直した際のものだろう。

気付いたセレネは眉間に皺を寄せ、ベリーを睨んだ。

ベリーは微笑みながら包丁を抱く。


「もちろん、悪くない包丁。使う分には特に問題も――」

「……没」

「ええと……」

「それは没。作り直す」


セレネはベリーが抱きかかえた包丁を引ったくると作業台の上に。

それから見本に買った包丁と見比べる。


「お、お嬢さま……わたしとしては十分……」

「それ以上言わない。わたしは文句付けようが無い完璧な包丁が作りたいの。お嬢さまが打ってくれた手作り包丁だから、なんて理由で使って欲しくないの」

「はぁ……」

「時間はたっぷり過ぎるくらいあるんだもの。完璧な包丁が出来上がるまで駄目。あなたも高いお金を払って自分の包丁を選ぶつもりで見ること。いいわね?」

「……はい」


ベリーは困ったように笑って、クリシェはうぅ、と小さく唸る。

ここに来てからのセレネは物作りにハマったらしく、剣や槍、箪笥や小屋、釣り道具と様々な道具を作っていた。

先日旅行に行った先で包丁を見つけ、これは良さそうと購ったのだが、「わたしが作ってあげるわ」などとセレネがそれを見本用に没収。

包丁はこの『セレネの牢獄』に監禁されていた。


港街や島国では生魚を使った料理も多く、これで自分達も生魚を使った料理でも作ってみようと話していたのは五年も前のこと。

いつの間にか生魚を使った料理はセレネが打った包丁を使わなければならないという暗黙の了解が出来上がり、結局クリシェは謎のお預けを食らっていた。


ベリーの基準をクリアするには後何年掛かるものか。

想像するだけで途方もない。

セレネは凝り性であるが生来大雑把で不器用な気質である。

それなりのもの程度は作れるのだが、特に繊細なこの包丁を完璧に仕上げるセレネの姿がクリシェには想像できなかった。


「あ、あの……セレネ、今日はお試しでその包丁を……」

「駄目。こんなものを使わせられないわ」

「く、クリシェ様……あのお魚は焼き物にしましょうか。ほら、油が乗っていますから、焼いてもとても美味しいですよ」

「はい……」


今回は完璧だわ、と昨晩セレネが口にしたため、今日は港街で良い魚を仕入れたのだが――不安は的中である。

一年を掛けて六十点が六十五点になった出来であった。

そしてベリーの『良い包丁』基準は九十点。

生魚がこの屋敷で食べられるのは果たして何十年先であろうか。


セレネ=クリシュタンドは仕事がなくなれば作る人間。

仕事の中でしか生きられぬと言わんばかり。

やはり、セレネは面倒くさいことが好きというクリシェの評価は正しかったと改めて認識する。


「ベリー、夕方には屋敷に戻るわ」

「はい、畏まりました。……クリシェ様、クレシェンタ様を起こしに行きましょうか」

「……はい。お刺身……」


クリシェは小さくそう漏らし、そして不意に顔を上げて眉を顰める。


「……クリシェ様?」

「誰か来ました」

「誰か……とは、この世界に、でしょうか?」

「はい。ちょっと待っててくださいね」


クリシェは言って、とてとてと。

ちょっと行ってきます、と扉を開いて外に出た。










「……おう、いたのかエルゲインスト」

「ああ、どうだ、具合は」

「死にそうだ」


ベッドに横たわる老人は目を開けると、こちらを見て笑う。

魔力を操れなくなると、魔力保有者は転がり落ちるように体調が悪化する。

ワルツァは寿命だった。

百三十――彼の祖父と同じく、魔力保有者としてもそれなりに長生きな方だろう。


体を支えて起こしてやると、紅茶を淹れてやる。

先日倒れてから、ずっとベッドの上。日に日に体調は悪化しているようだったが、ワルツァは昔と変わらない。

笑顔を作って楽しげに、昔のことを懐かしむように思い出話を繰り返す。

エルゲインストは苦笑しながらその話に付き合った。


彼の時間があと僅かと思えば、些細で下らない馬鹿話も光輝くように。

あっという間に過ぎたように思えた時間には、語り尽くせないほどの思い出があり、ふと、歳を取ったのだ、と理解する。


「しかし、お前は本当に歳を取らんな、エルゲインスト」

「……そうでもないさ。僕も多少ながら老いが始まっている。もう数十年もすれば死ぬだろう」

「お前の見た目は老いても変わらなさそうだが。元々死体みたいな顔だからな」

「……お前」


ワルツァは笑って――咳き込み、慌ててエルゲインストは背中を撫でた。

それから体をベッドに寝かせてやる。


「……悪かったな、エルゲインスト」

「何を謝る」

「不自由な立場だ。……適任だったとはいえ、柄じゃないことをやらせた」

「らしくもないことを言うな。……必要なことをやったまで、僕も、お前も」


そうだろう、とエルゲインストは続けて笑う。


「だが、本心から納得は出来てないだろう。随分と酷なことを言った」

「お前はその分働いた。……そもそも、これは僕の願いでもある。アルベリネアに託された、僕の願いだ」

「どうだか」


笑ってまた咳き込み、ワルツァは言った。


「お前はどうしようもない陰気な引きこもりで頑固者。そんなお前が皇帝になって国を統治するなんてことに興味がある訳もなかろう。……お前は聞こえの良い言葉を口にするのが好きだが、全部所詮、受け売りだ」

「何……?」

「……お前自身の願いは何だ、エルゲインスト。この平和はアルベリネアに捧げたものだろう?」


エルゲインストは黙り込んだ。

それから目を伏せる。


「お前は最高の仕事をした。クラインメールは安定している。……平和になった世界で、お前は改めて何がしたいんだ?」


お前の人生だ、とワルツァは続ける。


「俺は見ての通りそれなりに楽しい人生だったが……ふと考える。お前がいつか死ぬときはどうなのかと思ってな。……自分を殺して平和な世界の皇帝として君臨するお前の最期が、唯一の心残りだ」


そしてエルゲインストを見つめた。


「……近頃はただでさえ陰気な顔が、更に陰気だ。お前はきっと、このままでは俺のように笑っては死ねんだろう」

「……僕はそれで構わ――」

「俺が嫌だと言ってるんだ、エルゲインスト。友の人生を犠牲に平和を勝ち取ったなどと、俺の人生に汚点を残させるな」

「……。お前は本当に勝手な奴だな、心底呆れるよ」


言いながらも不思議と笑え、エルゲインストは目を閉じる。


「人生最後の友の頼みと言えば、多少わがままでも許されるだろうさ」

「その言い分は卑怯だ。先に死ぬ方が得に過ぎる」

「くく、もう少し適当に、肩の力を抜いて生きてみろよ、エルゲインスト。仕事は十分にやった。お前にだって褒美の一つくらい与えられるのが筋だ。……多少好き勝手したって、どこにもお前を責める奴などおらん」


そうだろうか、と告げると、そうだ、と力強くワルツァは返した。


「……お前の願いはなんだ、エルゲインスト」


エルゲインストはしばらく目を閉じて、首を横に振る。


「……叶わない願いだ」

「言え。お前がガキの頃からの腐れ縁、その上もう明日明後日にでも死ぬような人間に、何を恥じることがある」


ワルツァはそう言って、言葉を待つように天井を眺めた。

エルゲインストはその顔をしばらく眺め、考え込み。

しばらくの間を空けて口にする。


聞いたワルツァは、お前はガキか、と楽しげに笑った。

そして、


「……お前らしい願いだ」


――お前なら出来るだろうさ、エルゲインスト。

そう、根拠もなく口にした。






アルベリネアがどこに消えたのか、エルゲインストには見当すらつかなかった。

空いた時間を使い、研究ではなく地道な聞き込み作業から。

アーグランドやヴェルライヒなどの彼女に近しかった貴族や、黒旗特務中隊員の孫や曾孫など、そうした者達へは身分を隠して自ら話を聞きに行った。


彼女と会ったことのある者もいたし、その人柄についての話などは聞いていたようだが、しかし彼女がどうして消えたのか、と知る者は当然いない。


その足でアルベナリアを歩き回り、元黒旗特務中隊の隊員達が剣を教えていた黒旗剣術指南所。そこから『夜明けの三日月』という料理屋を紹介された時のこと。

店じまいの時間であったが、銀貨を手渡すとすぐに店主の男は笑って、仕方ねえとカウンターで酒を注ぎながら口を開いた。


「俺の曾爺さんは長生きで、コーザって言うんだが……黒旗特務でも弓兵隊長をやってたんだ。それで、統一戦争が終わった後に――」


男は軽く店の歴史から。

黒旗特務中隊員、コーザとベルツが始めた店であることを説明し、当時はアルベリネアもよく訪れていたらしいと語る。

記録や書物で調べられるものは調べ尽くした。

その名前も当然知っている。

二人ともアルベリネアが率いた黒旗特務――その前身、黒の百人隊からのメンバーだった。

大貴族が一料理屋を訪れるというのは驚きであったが、アルベリネアならばさもありなん。

特に不思議な事とも思わなかった。

お忍びで女王陛下も食べに来たこともあったそうだ。


「あんたは魔術師だろう? 実際に知ってるかも分からねえが、当時の騒ぎは凄いもんだったそうで、俺の爺さんと親父は慌てて曾爺さんの所に行ったそうだ。アルベリネアともクリシュタンド家からも言ったとおりひいきにされてたし、何か知ってるんじゃねえかって」


店主は頭上を指で示す。


「空は真っ昼間のように光輝いて、雲まで届かんばかりの塔が大樹に変わって虹色の花弁を舞い散らせ、それは大層な騒ぎだったとか何とか。……でも曾爺さんは驚きもせず愉快そうに笑ってたそうだ。……百年後も店をひいきにしてくれるといいな、ってな」


そして店主は酒で舌を湿らせる。


「曾爺さんも歳だったし、爺さんも親父もボケてんのかと思ったそうで……まぁ、その話はそれで終わりなんだが、ちょいと妙な事があってな」

「……妙な事?」

「まぁ、こういう店だ。元々あんまり女の客なんかは来ねえんだよ、恋人連れなんかはあるんだが」


『夜明けの三日月』は城下街にある庶民向けの食事付き宿。

酒も出し、客層も衛兵や隊商護衛のような人間が中心で、それほど品が良いという訳ではない。

クリシュタンドの簡略紋を許されただけあり料理も美味だが、確かに女性が入りやすい店ではないだろう。


「……だってのに、この前の戦が落ち着いた後、使用人を何人も連れた女ばかりの客が来たって給仕が言っててな。どう考えても貴族様、普通そんな客が来れば俺も挨拶に出て行くんだが、忙しいって理由で顔も出さずに料理だけ出して……後で思い出して聞けば、どんな方達だったかも思い出せねえと来たもんだ」

「……それは」

「何とも不思議なこともあるもんだ、と思ったんだが……そん時にふと、親父達の話を思い出して、もしかするとありゃあ、アルベリネア御一行だったんじゃねえかって……まぁそういう下らない話だ」


男はエルゲインストが渡した銀貨を手に取り、それを眺めながら言った。


「……別に高いもん出してる訳じゃねえ。酒も安酒、食材も良いもんを揃えてるが高級品って訳じゃねえ。よほどの大所帯でもなけりゃあ食事代を銀貨で支払う奴は多くない。……その日もきちんと売り上げに銀貨が混じっててな。その客も釣りはいらない、相変わらず美味しかったって帰ったそうだ」


意味深だろ、と男は笑い酒を煽る。


「相変わらずも何も、そんな客が来た覚えなんて俺の知る限り一度もねえんだ。だから俺は、勝手にあれがアルベリネアがいらっしゃったんだと何となく思ってるんだが……まぁ、銀貨までくれたあんたには悪いが、俺が話せるのはこれくらいだな」

「……いいや。ありがとう。聞きたい話は聞けた」


切っ掛けはそんな話であった。

アルベリネアがずっと遠くへ行ってしまったのではないか――エルゲインストはそう考えていたが、果たしてそうであろうか。

アルベリネアはそもそも遠くへ行く必要などない。

彼女はきっと、何にも縛られない穏やかな日常を過ごすため、社会を離れただけなのではないか。


「――聖霊は既に、ここにはいらっしゃらない」

「いない……?」

「理由は知りません。……随分と前のこと、アルベラン女王の不在が伝えられた年の頃の話です。それからお姿が見えなくなった」


外交も兼ねて自らクレィシャラナを訪問し、竜の謁見を願うと、告げられたのはそのような言葉。


「……ヤゲルナウス様はあなたの仰るよう、アルベリネアに真名を許され、アルベラン女王陛下とも懇意であったと聞く。謁見が叶えば何かお話を伺うことが出来たかも知れないが……我々でさえ、長年ヤゲルナウス様のお姿を見ていない。諦めた方がよろしかろう」

「……そうですか」

「これをお教えしたのはあなたがクラインメール皇帝だからではなく、あなたという個人を信用してのこと。くどいようですが、くれぐれも、決して口外はなされぬよう」


エルゲインストは頷き、尋ねる。


「理由は一切、見当も?」

「……聖霊が御心を私の如きが計ることは出来ません。とはいえ――エルゲインスト殿はクレィシャラナの聖霊巫女をご存じでしょうか」


クレィシャラナ最後の聖霊巫女、リラ=シャラナ。

彼女は統一歴の半ばに死ぬまで一人、禁域で過ごした。

彼女を最後の聖霊巫女とし、未来永劫聖霊に仕えるための行であったのだという。


何故数百年続いた聖霊巫女を彼女が終わらせたのか。

そして彼女が亡くなり、数十年後に聖霊は消えたことには何か理由があったのではないか、と彼は語った。

その本当の理由については伝えられておらず、聖霊に身を捧げた、としか彼も聞いていないそうであったが、ただ、こうも語った。


「まだヤゲルナウス様がいらっしゃった頃、子供が森の深くへ迷い込んだのですが……その子供が語るには美しい女性に助けられ、道案内をしてもらったのだと。……聖霊も、巫女様も、もしかするとお姿がないだけで、今もどこかから、我等を見守られているのかも知れません」


言い伝えや伝承にしては、ごく最近。

もはやエルゲインストにあったのは確信であった。


エルゲインストは空間転移に関する術式も知っている。

設置式――エルゲインストからすれば未だ効率化されていない完成度の低い術式であったが、しかし理論的な間違いは存在しない。

疑問はやはり、あの日エルゲインストを取り巻いた術式であった。


――世界中を書き換えるかのようなアルベリネアの刻印。

あれは空間転移などとは明らかに違うものであった。

そうであるならばあんな広範囲に術式を刻むはずもない。もっと小規模で済む。

アルベリネアは少なくとも術式刻印に一切の無駄を省く人間であった。


アルベリネアは今もこの世界にいるのではないか。

それは単なる推論の域を出ず、しかし不思議と、そうなのだ、と思える。


あの塔の原理はともかく、あれは間違いなく、世界を魔力で満たすためのもの。

後に『世界そのものへ魔法を掛けるため』に用意されたものなのだ。

突拍子のない話であった。

論理の飛躍もあった。

けれど、アルベリネアが真実、神に等しいと知るエルゲインストは確信する。


いつまでも変わらぬ子供のような純粋さ。

永遠に幼き神の末裔。

アルベリネアならば決して不思議ではない。

己の望みのために、世界そのものを書き換えてしまうことなど。


――早く会いたいです、と使用人を想い、微笑む彼女の姿を思い出す。

彼女の望みはきっと、死後も続く永遠の楽園。

あれがセレネ=クリシュタンドの亡くなったすぐであったことも偶然ではない。


そういうことなのだ、と繰り返した。

気付いた時には手足が震えた。


あるいは正気を失っていたのかも知れない。

エルゲインストのそれは、狂気と呼ぶべきものであるとも言えるだろう。

思いつきの推論で、行き先を定めてしまうことなど。


それでも、エルゲインストは進む事を決めた。





時間とは何かと思う。

途方もない時間のように思え、あるいは短いように感じられ、その都度長さを変える生き物か何かのように見えた。

普通の人間の人生ならば三、四回。

魔力保有者の人生でさえ二回。

それだけの時間を過ごしてなお不思議に思う。


皇帝になって贅沢もせずに引きこもり、何十年と熱心に研究を続けるエルゲインストに奇異の目を向けるものがあった。

探究心を失わない、魔術師中の魔術師であると語り、敬意を向けるものもあった。

彼等はずっと、エルゲインストよりも長い時間を過ごしているのかも知れない。

エルゲインストに取って、皇帝になってから――アルベリネアを追い求めてからの数十年は、あっという間に過ぎたものであったから。


同じ時間を過ごしているのに不思議なこと。

気付けばエルゲインストは老い、ワルツァの曾孫にさえ孫が出来ていた。


アルベリネアと過ごした時間など、二百年に及ぶ人生の内で考えればほんの僅かだろう。

数ヶ月に一度、ほんの僅かな時間。

彼女と顔を合わせた時間など、延べで一日にさえ満たない。

彼女がいた時期の三十年と考えても、二百年からすれば僅か。

だというのに、その僅かな時間は途方もない時間であったかのように感じられ、人生の大半であったかのようにさえ感じられる。


何故己が彼女にこだわるのか。

己に問いかける度、考えるのはそんなこと。

物理的な長さではなく、感じた時間こそが真実なのだろう。

エルゲインストの人生において、やはりアルベリネアはその中心にあった。


空間を学び、世界を構成する全てを網羅しようと試みた。

物質と空間を構成する全てを知ろうとし、それでも理解したことは、これではない、といういくつもの答えだけ。

エルゲインストと彼女にある隔たりは、きっと物理的な距離ではないのだろう。


肉体は日々老いて、けれどただ一つの未知はそれでもなお解き明かせない。

エルゲインストに取っては、あっという間の時間。

魔力を操る能力さえが、既に陰りを見せ始め、半ば諦めと共に、これではない、と口にする。


近くにあって、近くにないもの。

人にあるとされ、けれど決して見えないもの。

きっと、そのようなものなのだとエルゲインストは考える。

彼女がいるのは、死後も続く永遠の楽園なのだと。


盲目で無知な群衆のように、形なきものに祈りを捧げる者達のように。

積み上げた理論にて未知を解き明かそうとしたエルゲインストが、その最期、その身を預けることに決めたものは神秘であった。


書き記した個人的な書物を、積み上げた無数の本を譲り、あるいは焼いて処分する。

エルゲインストの積み上げたものはあっという間に消え去り、思い浮かべるのは死を迎え、肉体を捨てた先に存在する何か。

ただそれに賭けることを決め、ローブの他は『フライパン』一つだけを身につけた。


彼女は完璧な魔術師であり、偉大なる教師。

理屈を積み上げて見いだせるような、他人が解き明かせるようなものを作らない。

勉強用と与えられたあの魔水晶がもたらしたものは、そういう気付きであった。


視点を変えて見いだす術を、彼女は与えてくれていたのだ。


故に捨てるは、理屈の全て。

世界に刻み込まれた彼女の魔法を思い浮かべて、目を閉じる。


『――お前なら出来るだろうさ、エルゲインスト』


周囲に配置された魔水晶が光り輝き、己の肉体を分解していく。

感じたのは一瞬の苦痛。

己の姿をただ意識し、意思の力で痛みを焼き付け、保持し、歯を食いしばり。


そして――

















心地よい風が体を撫でる。

目を開いてまず目に入ったのは、光り輝くような空であった。

身を起こそうとして力が入らず、手足の感覚は不確か。

纏うローブさえ、滲んで揺れるようだった。


――ただただ心地よかった。

鼻をくすぐる草花の匂い。

温かい陽光と、涼しい風。

体の全てが溶けていくような、どこかに引き寄せられるような感覚があって、けれどそこに痛みもなければ恐怖もない。

それに身を委ねることに不安の一切もなく、それで良いとさえ思え。


ただ、そうしなかったのは空に人影を見たからだった。

翼を生やしてふよふよと、風に揺れるように舞い降りるもの。

白黒のエプロンドレス、太陽に煌めく銀の髪。

――紫色の、宝石のような瞳。


少女は側に降り立つと不思議そうにこちらを眺め、エルゲインストの眼前で手を振る。


「あれ……生きてますかー?」


目を開けているのに気付いていないのか。

指先でつんつんと頬をつつかれ、ふと、目に何かがこみ上げそうになり、努力して笑みを作った。


「はい……アルベリネア」


声にアルベリネアは小首を傾げ、考え込んでまじまじとエルゲインストを眺める。

しばらくは顔を。

そしてふとエルゲインストの胸元を眺め、魔水晶の『フライパン』に気付いた様子。


「おお……」


彼女は、ぽん、と手を叩き。


「誰かと思いました。久しぶりですね、ねむねむ」


微笑を浮かべて、エルゲインストにそう言った。


なんと表現すれば良いのだろう。

エルゲインストの内側で、例えることも出来ない感情が溢れていた。

久しぶり――時間にすればそうだろう。百五十年も経っている。

けれどアルベリネアは記憶のまま、まるでつい先日、顔を合わせたかのようで。


「……覚えて、おられたのですね」

「えへへ、ちゃんと覚えてますよ。……それより、平気ですか? 何だか死んじゃいそうですけれど」


問われて体のことを思いだし、僅かに視線を向ける。

体が崩れるような、けれど不思議と心地よい感覚は消えていない。

きっと自分は今、生と死の狭間にあるのだろう。

そして、だからこそここにある。


「ちょっと待ってくださいね、ひとまず適当に体を――?」


自分に伸ばされた手に触れる。

それから、いいんです、とエルゲインストは微笑を浮かべた。


「……最期に、一目お会いしたかっただけですから」


それ以上は過分であった。

アルベリネアが世界に掛けた魔法を解き明かした訳ではない。

これは全てを天と呼ぶべき何かに委ねて、だからこそ与えられた時間であった。

神頼みのような祈りによって与えられたものに、多くを望むは強欲であろう。

未知を未知として受け入れたからこそ、己はここにある。


アルベリネアは少し考え込み、指先で唇をなぞって、うーん、と唸り。

少しして、そういうことなら、と彼の隣へ腰を降ろした。


「美しい景色です。……あれからずっとここに?」


エルゲインストは微笑みながら、眠っているような瞳で空を見上げ、木々を眺めて告げる。

光り輝いて見えるのは、この世界が豊富な魔力で満たされているからだろうか。

どうあれ、不思議と学術的な疑問はすぐに消えた。

ただ、綺麗だ、と思う自分の心を眺めて、頬を綻ばせる。

――神秘に満ちたこの世界は、きっと彼女のためにあるのだろう。


「はい。みんなで一緒にお引っ越ししたのです。ねむねむはクラインメールとかいう国を作って皇帝をやってたんだとか……えへへ、二代目アルベリネアだって聞きましたよ」


当然のようにアルベリネアは言って、エルゲインストは頬が火照るのを感じて首を振る。

エルゲインストが歩んだ道のりも知っていたのだろう。

彼女は自分になど興味はないのではないか。

覚えてさえいないのではないか。

そう思ったこともあり、そして、そう思った自分を恥じた。


「……お恥ずかしい話です。お許しを」

「別にクリシェ、そういう名前はどうでもいいので気にしなくていいですよ。その名前もクレシェンタが適当に作ったやつですし……名乗るのに丁度良いから使ってただけで」


今は使いませんし、とアルベリネアは平然とそう告げて。

お変わりない、とエルゲインストは口にし微笑む。


「……ん、まぁ確かに、クリシェは背が伸びたりしてないですし、老化もないですが……」

「そういうことではないのですが……ふふ、そういうところですよ」

「……? えーと……?」


アルベリネアは難解そうに首をひねり、エルゲインストはそれを見て肩を揺らした。

彼女は知っていたとおりの姿で、思い出から一切変化もなく。

初めて会ってから二百年近く経って、今もあの頃のまま。

エルゲインストがいつも頭に思い描いていたアルベリネアは、やはりアルベリネアであった。

解き明かせぬ未知の象徴。

けれど、エルゲインストは彼女をよく知っている。


まぁいいです、と諦めたようにアルベリネアは言って、エルゲインストの髭を指でつまんだ。


「そういうねむねむは随分変わりましたね。髪だけじゃなくて髭をこんなに伸ばして。……男の人は髭を伸ばさないといけない決まりでもあるのでしょうか」

「そんなことは……そうですね、願掛けのようなものでしょうか」

「……ベリーみたいなこと言いますね」


昔はこんなに小さかったのに、と手で出会った頃のエルゲインストの高さを示す。

いつの話をしているのだろう、とおかしくて更に笑う。

まるで昨日のことのように話すアルベリネアは、やはりアルベリネアであった。


「それにしてもちょっとびっくりしました。普通は死んだ人もここには入って来られないようになっているんですが……」

「……お会いしたいと、ずっと願っていましたから」

「クリシェに?」

「はい」


不思議そうにクリシェは首を傾げる。


「むぅ……そういう意思の影響が魂を保持しているのでしょうか」

「魂……」

「ねむねむは今ほとんど魂の状態なのです」


それから昔のように指を立てた。

大貴族にも関わらず、王姉殿下にあるにも関わらず、彼女はまるで村娘のよう。

近所のお姉さん、といった調子で、それでいて恥じることなく、当然のように堂々と。

そんな彼女だからこそ、色んな者たちが彼女を慕ったのだろう。


「……普通はそうなったら、根源って呼ばれるすっごく大きな魔力の塊みたいなところに旅立って、そこに溶けて生まれ変わったりするのですが」


彼女はそこまで言って、クリシェもよくは分かりません、と口にする。


「アルベリネアでも分からないのですか?」

「ん……というより、調べてないのです。一回調べようかとも思ったのですが、ベリーが知らないままの方が色々想像できて楽しいって言ったので」


エルゲインストは細い目を僅かに大きく。

それから笑って、目を閉じた。


「……素敵な考え方です。まさに、知る楽しみが全てではない」

「えへへ、ベリーと同じ事言ってます」


エルゲインストは苦笑する。


「僕が理解したのは、先ほどのことですが……」


随分と回り道をしたように思う。

けれどその回り道が、エルゲインストをここにいざない、答えをくれたのだ。


アルベリネアは思い出のままの姿で、エルゲインストの知るままの微笑みを。

そこに未知など一つもなく、あるいは全てが未知であり。


彼女は夜空に浮かぶ月のような存在であった。

何もない虚空にあったなら、きっと途方に暮れるだけ。

けれど大地があればこそ、木々があればこそ、山があればこそ、雲があればこそ、初めて己の居場所を知ることが出来、初めて空の高さを知ることが出来――そして彼女は道標。

はっきりと見えているのに、決して手の届かない場所にあり、けれどいつもそこにあって自分を照らしてくれる輝けるもの。


それを解き明かすことに意味などなかった。

解き明かそう、などとも思わない。


「……人は、愚かなまま幸せになれる生き物ですから」


皆がアルベリネアの後継者であるとエルゲインストを褒め称える。

最高の魔術師であると、女王陛下にさえ匹敵する為政者であると呼ぶ。


けれどエルゲインストは、十にもならぬあの頃から、何一つ変わっていなかった。

そしてアルベリネアも何一つ変わらず、エルゲインストをねむねむと呼んだ。

今もこうして、笑顔を見せて。


大いなる知性の先に、幸福が存在するのではない。

そもそも自分は、未知を解き明かすことを求めていたのではないだろう。

永遠に理解出来ないと知りながら、もっと近くで眺めていたかっただけなのだ。

エプロンドレスを身につけた、何よりも美しい神秘の姿を。


髪と髭を伸ばした老人は、満足そうにまた微笑む。

風が流れて銀の髪が揺れるのを眺め、それから紫の瞳を眺め。

老人はただただ優しげな目で、満たされたような笑みを浮かべた。


体が溶けてしまいそうな、心地よい感触。

体を引き寄せる不思議な力は強まって、抵抗する気も失せていた。

アルベリネアはそれを眺めつつ、尋ねる。


「……ねむねむはどうしてここに? ずっとクリシェに会いたかったって言いましたけれど」

「それだけです。――ああ……いえ、違いますね」


エルゲインストは空を見上げて言った。


「あなたの魔水晶を解き明かして、メッセージを聞かせて頂きました」


お前はガキか、とワルツァに笑われたことを思い出しながら。


「……アルベリネアがまだ近くにいらっしゃったなら、解いた者を褒めて下さるとか」


事実、子供であろう。

恥ずかしげもなくそう思い、それで良いのだと感じる。

彼女がそんなことで、自分を笑ったりなんてしないと知っている。


「あ、そういえばそんなこと吹き込んでましたね」


アルベリネアは、ぽん、と手を叩き、思い出したようにうんうんと頷く。

ただただエルゲインストは苦笑して、続けた。


「仰るとおり、平和のために魔法を使い……今もあの頃と同じく、世界はとても平和なままです。……僕もいつかの約束通り、うんと長生きをしました」


そう告げて、少し間を置き。


――褒めて下さいますか、と老人は尋ねた。


少女はそんな老人を見つめて微笑み、その額を撫でた。


「えへへ……ねむねむは偉い子ですね。わざわざ褒めてもらいに来たんですか?」

「……はい。ふふ、その通り……褒めてもらうために、ここまで」

「いつまで経ってもねむねむはねむねむのままですね。……ねむねむが国を作ったって聞いてちょっとびっくりしてましたが……なるほど、こんなに良い子になってたなんて」


クリシェも鼻が高いです、と少女は花が綻ぶように笑う。

老人はそんな少女を眺め、少年のように笑い、目を閉じる。

何やら自慢げな彼女の声が、どこまでも愛おしく。


「……、アルベリネアは今も、幸せでしょうか?」


尋ねると、少女は頷く。


「はい、とっても。気にせずあちこちにお買い物に行けるのも、そう考えるとねむねむのおかげですね。……ちゃんとお礼しないと」


少女の言葉に、少年は目元を緩め。


「……既に十分、受け取っておりますよ」


そうしてそのまま身を任せると、溶けるように、滲むように消えていく。


それでは、と声だけを響かせて。


おやすみなさい、と少女は返した。


少女はしばらく彼のいた地面を眺め、残された魔水晶の『フライパン』に目を向けて。

少し考え込むと、それを手に取って微笑んだ。





そうして、屋敷の側には魔水晶で出来た小さな墓。


墓の前には台座が置かれ、小さな『フライパン』が一つ置かれており、


『ねむねむ、ここに眠る』


墓には美しい刻印で、内側にそんな文言が刻まれた。


月日が流れて年月を経て、けれど彼女の側で朽ちることなく、果てることなく。

少年の墓に刻まれた刻印は、彼女と同じく陰ることなく。


――終わる事なき月明かりの日常で、変わらぬままに輝いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る