月明かりの遺産 三

兵数1000に対し、1万5000。


劣勢側が勝利するなど本来あり得ぬ戦いであっただろう。

けれど彼等はその小勢に怯えていた。


『――降伏するがいい。無益な戦は私の好むところではない』


両軍の中央、宙を歩くは一人の男。

風に棚引く黒いローブには、三日月照らす都の紋章が描かれ、長い髪と髭を揺らし。

居合わせた全てのものの頭に響き渡るものは、音なき声。

頭の内側を掻き乱されるような感触に、誰もが背筋を凍らせる。


それが誰かは名乗らずとも、誰もが理解していた。

大陸全ての魔術師を率いる魔導皇帝エルゲインスト=ラミル。

――またの名を、アルベリネア。


「小癪なはったりを! 構うな、ただ空を歩いているだけだ、奴らは魔導兵器もジャレィア=ガシェアも持ってはいない! 弓兵は前に出よ!!」


対する将軍ゲニルアは叫ぶ。

極東に乗り込んできたクラインメール軍に対し、それを分散させることに全力を尽くした。

エルゲインストの片腕、ワルツァ=レーミンは遥か南。相手は他の軍とも連携は取れず、兵数僅か千人程度で孤立している。


しかし、千という数が異常であった。

まともな思考があれば、本陣をそんな小勢にするはずもない。

しかも背後の砦に籠城さえせず、相手はこの平野に打って出てきたのだ。


伏兵などには最大限の警戒を行った。

砦には何もなく、この戦場周辺の数十里に渡って敵の姿は無い。

あの千人が千機のジャレィア=ガシェアならばともかく、単なる兵士。

相手に勝ち目などないはずだった。

だが、クラインメールの指導者、エルゲインストはこうして、堂々と姿を現している。


ゲニルアは兵に生まれた動揺を掻き消すように指示を飛ばす。

クラインメールの脅威はアルベランから引き継いだ魔導兵器。

それを持たないならば、相手の条件はこちらとそれほど変わらぬはずだった。


エルゲインストの周囲に刻まれていくのは稲妻のような青き術式。

クラインメールの魔術師が操る、魔法と呼ばれる得体の知れない何か。

だが、それが放たれる前に終わらせる。


「――総員前進! 弓兵、目障りなあれを、っ、――」


――瞬間、青い光がエルゲインストと将軍を結んだ。

将軍の側にいたものはその音を聞いただろう。

まるで卵が割れるような音だった。

豹を模した兜が地に落ち、馬上から血の雨が降り注ぐ。

兵士達はこの場の最上位指揮官の首から上が存在していないことに気付いて硬直する。


宙に浮かぶ男は腕を振るい、更に無数のラインを空に描いた。

滑らかに、しかし稲妻のように刻まれていく術式は膨れあがり、生じるのは三つの光。

ただ男が掌を前に向けるだけで、それらは目にも止まらぬ速さで戦列に。

閃光はそこにあった軍団長をそれぞれ三人を地形ごと抉り、爆音と共に消し去った。


兵士達は唖然と、消えた指揮官の方へと振り返る。

――再び、頭に響くは音なき声。


『私は無益な戦いを好まない。兜を脱ぎ、剣を置け。……お前達に勝ち目はない』


硬直していた者達は宙に浮かぶ男を見上げた。

一人が跪き剣と兜を置けば、周囲のものもそれに倣った。


大陸で知らぬもの無き、アルベランの戦神。

彼女の名は遠く消え、既に失われたはずだった。


だが、今こうして、彼等の目の前にあるものは、アルベリネアを名乗るもの。

決して刃向かうこと許されぬ絶対者。

竜に等しき人世の神。


彼は背を向け、階段を下るように自らの配下達の所へ向かう。

僅か千人の歓声が、高らかに一つの名を叫んだ。

彼等の主君を讃えるように、ただ一言、アルベリネアと彼に向け。


けれど、その歓喜と讃美を眺めた彼はただ、その呼び名を誇るでも、喜ぶでもなく。

何も言わずに目を閉じた。








寝起きに使う大天幕の内側。

エルゲインストは羊皮紙にペンを走らせ――馬の音と共に現れたのは一人の老人。


「ワルツァ、どうだ、首尾は」

「上々だ。南はこのまま流れで行けるだろう、孫に任せた」


皺が刻まれ、後ろに撫で付けられた髪は真白に。

けれどワルツァは昔と変わらぬ笑顔を見せ、老いなきエルゲインストの対面に腰掛けた。

髪は座れば地に着きそうなほどに伸ばされ、髭は鳩尾の辺りまで。

けれど齢百を随分前に超えたにしては未だに老いがない。

開いているのか閉じているのか分からない細い目と、眉間に深く刻まれた皺、その髪や髭の長さが老成した雰囲気を見せていたが、彼の姿に変わりはなかった。


「随分無茶をしたらしいじゃねえか。一軍を持って来た、お前は皇帝らしく俺の後ろにいろ」

「無茶ではなく演出だよ。相手が間抜けのようだったからな。……魔術師相手に止まったまま長口上。対策を練られる前になるべくああやって始末しておきたい」


知らぬものにとって、大気に刻む魔術――魔法は理不尽な力であった。

とはいえ人間が使う以上万能ではない。

精々が威力の高い城攻弓、威力も総合的に言えば魔力結晶を爆発させるバゥムジェ=イラの方が高いもの。

魔法刻印を学んだ魔術師は単に機動力ある攻城兵器というべきもので、決して無敵な訳でもないし、高速で動き回る魔力保有者へ正確に狙いを定めるのは難しい。

回避行動を取る魔力保有者を一方的に消し飛ばせるような魔術師はそう多くない。


『現在は』最高峰の魔術師であるエルゲインストですら、所詮人間の枠を出ないもの。

仮にあの1万5000がそのまま死に物狂いでこちらに向かってきたならば、エルゲインストも死んでいただろう。

だが、人は未知を恐れるもの。

ただ一人の個人が呆気なく、戦列から将の首を取り除いて見せる。

ああいう演出が与える士気への打撃は凄まじい。


戦いとは数の減らし合いではなく、士気の削り合いであった。

戦う気力さえ折れるなら、相手が仮に何十万の大軍だろうと取る首は一つで済む。


「捕虜を解放したのもそういう理由、僕が恐ろしいと勝手に向こうで騒いでくれるだろうさ。……勢いを止めずに行こう。魔法刻印という目眩ましが効いている間、戦いは一方的だ」

「そうだな。アルベリネアは今もここにいるのだと、奴らも今は思ってくれているだろう」


エルゲインストはその言葉に反応し、ワルツァを睨んだ。


「……僕はまだ納得していない。納得することもない」

「理解しろ。お前がアルベリネアだ。そう民衆達に理解させろ。……お前が納得するかどうかはともかく、俺は軍人、必要なことを要求するだけだ」

「アルベリネアの名は、凡百が名乗って良いものではない」

「そのアルベリネアが全部放り投げて俺達に任せたんだ。文句はないだろうよ」


老人は呆れたように言って、いい加減慣れろ、と腕を組んだ。


「その名前のおかげで多くがついて来た。……お前はともかく、若い連中は皆お前をアルベリネアの後継者として目をきらきらさせてる。お前の語る平和のためにはそういう支持が不可欠だ。象徴なくして国は成り立たん」

「……理解したくない」

「……お前のそういうところはガキの頃から変わらんな、エルゲインスト。見ろ、お前はともかく俺は曾孫までいる爺だぞ。いくつになると思っている」


ワルツァは自分の皺だらけの顔を指で示した。


「お前が俺を誘ったんだ、エルゲインスト。代わりにお前は俺の出す条件に従う。そういう話だったはずだが」

「……卑怯な奴だ」

「軍人は結果を求めるものだ。あいにく俺はお前と違って目先のことしか見えん」


立ち上がると背中をしならせ体を回す。


「俺も歳だな。長旅は堪える。……俺がさっさと休めるようになるためにも手早く終わらせよう。この戦が終わればしばらく平和だ」

「……そうだな」

「……どうあれお前が動いてくれて感謝してるよエルゲインスト。爺様達にも顔向けが出来る、気持ちよく余生を送れそうだ」


俺は寝るぞ、と来た時と同じようにワルツァは天幕を出て行った。

エルゲインストはそれを見送り、胸元から首飾り――『フライパン』を眺める。


「……平和、か」


そこに今も輝く刻印は変わりなく、子供の頃のまま。

――今では、何十年と経ったにも関わらず。


「……僕はそれから、一体何をすれば良いのでしょう……アルベリネア」


エルゲインストはただそれを眺め、呟いた。

その声は誰にも聞こえることはなかった。







――あの魔水晶を解き明かしたのは、彼女が消えてから三十年経った日のこと。

ワルツァの言葉を聞いて最低限のことは行い、魔術研究院の院長になると、それからは日々、彼女の残した魔水晶と向き合い続けた。


最初は一人で誰の手も借りなかった。

それは仕事ではなく、エルゲインスト自身の問題であったからだ。

エルゲインストは院長としての仕事をこなしつつ、空いた時間をそれに費やして日々を過ごしていたが、けれど知らず知らずのうち、自分の仕事を終えた魔術師達がエルゲインストの所を訪れるようになっていた。

金を出せる訳でもないと拒んでいたが、彼等はそれでも良いと手伝い、次第に作業へ加わり、まるでそれが彼等の仕事であるのだと言わんばかりに精力的に。


ふと、アルベリネアは彼等にとっても掛け替えのない存在であったのだと気付いた。

エルゲインストと同じように、彼等も彼女がいなくなったことを深く悲しんでいたのだ。


それはあくまで仕事ではなかった。

けれど、エルゲインストだけの問題ではなかった。

気付いてからは彼等と語る時間も増えていく。


以前は、彼等と話が合わないのだと一人で思い込んでいた。

エルゲインストの問いに答えられるものはいなかったし、彼等はエルゲインストよりずっと後ろを歩いていた。

けれど彼等と自分は変わらない。

エルゲインストがアルベリネアを理解しようとしていたように、彼等もまたアルベリネアを、そしてエルゲインストを理解しようとしてくれていたのだ。


それに気付いた時、感じた全てを、一体どのように表現すれば良いのだろう。


それからエルゲインストは振り返ることを覚え、彼等に一つ一つ、子供にそうしてやるように段階を踏んで講義を行うことに決めた。

アルベリネアが己にそうしてくれたように。


彼等は少しずつエルゲインストの言葉を理解出来るようになり、魔水晶の解明においても有益な意見を出すようになった。

特に魔導解析機は、彼等なくして存在し得ないものであっただろう。


アルベリネアと自分達の違いはどこにあるのか、と改めて考えた時のこと。

純粋な思考能力に途方もない隔たりがあると誰もが思っており、その内の一人がふとぼやくように、それにほんの少しでも近づける手段があれば、と語った。

エルゲインストに取っては、天啓のような言葉であった。


エルゲインストは絶対に己が届かず、追いつけない存在であるとアルベリネアを見ていたのだ。

永遠に理解出来ない相手だと彼女を月に重ねて眺めていた。

けれど、それは個人において。

足りないならば今ある技術の全てを駆使して、彼女に届かぬ思考能力を補う何かを作れば良い。


ジャレィア=ガシェアの信号処理を応用し、計算処理を代替する術式を組み込む。

いくつもの高純度魔水晶を並列的に組み合わせ、処理能力を高め、彼女の残した魔水晶を解析する。

製作から解析まで、十年掛けて行った結論は、不可能、というものであった。

理論上決して解き明かすことの出来ないパズルだと解析器は語る。


誰もが失意に沈んだが、エルゲインストだけは違った。

従来の、現有手段では決して解き明かす事が出来ないという事実を、魔導解析器は明確に教えてくれたのだ。


アルベリネアの魔水晶が台座に置かれ、周囲には数十の魔導解析器。

魔術師達は顔を俯かせ、エルゲインストだけがその台座に近づく。


「……そういうことだったのか」

「院長……?」


エルゲインストが思い浮かべたのは、あの日見たもの。

周囲の空間に術式が刻み込まれ、踊り、自身が魔水晶の内側に閉じ込められたような感覚。


「昔、分かれば簡単だとアルベリネアは仰った。……そういうことだったのかも知れない」


魔水晶を一つ砕き、魔力へ変える。

そしてその魔力を掌握し、その内側に術式を刻み込んでいく。


「っ……それは」

「アルベリネアが旅立ったあの日、見せてくれたものだ。……もしや、と思ったが……濃密な魔力を掌握し、その内側に術式を刻めば、魔水晶に刻むそれと同じく魔術は効力を発揮するのだろう」


発想の転換だ、とエルゲインストは告げる。

アルベリネアは天極によって世界を魔力で満たした。

その理由がようやく理解出来た。

分かれば簡単な事――エルゲインストは知っていた。教えてもらっていたのだ。


決してあれは、アルベリネアだからこそ出来たことではない。

アルベリネア達はそもそも、魔水晶など使わなくとも魔術を行使できるのだ。

空で戦う彼女らのそれも、あの日見た術式も、そうでなければ成立しない。


どうして気付けなかったのか――己が思い出そうとしなかったからだ。

見捨てられたと思ったあの日のことを。

けれど、違う。

アルベリネアは自分を見捨ててなどいなかったのだ。

三十年も前に、次の道筋を照らしてくれていた。


「……この魔水晶はあらゆる干渉を拒絶する。新たに術式は刻み込めない。だが、術式は外に刻んでしまえば良いのだ」


目の前にあるものは、決して解けない魔水晶。

そもそも、解く必要さえない魔水晶なのだ。


魔力を分解する術式を組み上げると、緩やかに外側から魔水晶を分解する。

魔水晶は溶けるよう魔力へ変わり、小さくなり、エルゲインスト達を悩ませた無限のパズルが消えていく。

そして、中央部だけを残して、エルゲインストの前に。

エルゲインストが残そうとした訳ではない。そこに触れた瞬間、エルゲインストの術式を魔水晶が止めたのだった。


手が震えていた。

魔水晶に手を伸ばし、何の障壁もなくなった魔水晶へ魔力を流し込むと――光輝き崩壊し、青い靄を作りだして像を結ぶ。


「アルベリネア……っ」


魔術師達は硬直し、エルゲインストも同様だった。


『セレネ、いいですか? ん……これを見ているということはクリシェの魔水晶を解いたみたいですね』


可憐な声で変わりなく、美しきアルベリネアは微笑んだ。


『ふよふよに術式を刻めば簡単に解けるよう作りましたが、中々です。じゃらがしゃなんかはまともに解けないようにしてますから諦めて下さい』


エルゲインストを見るようで、エルゲインストを見ている訳ではない。

それがメッセージなのだと理解していた。


『――魔法は悪いことではなく、平和のために使うように』


びし、と彼女は指を立てて、悪いことに使っちゃダメですよ、と繰り返す。

少女の姿でお姉さんぶるように、随分と懐かしい姿。


『……あ、多分ないとは思いますが、クリシェがまだ近くにいるなら、言いに来てくれたらクリシェが直接褒めてあげましょう』


アルベリネアはそう言って手を振り。

メッセージは、ただそれだけで終わりであった。


像は薄れ、エルゲインストは手を伸ばし、けれどそれは何に触れることもなく宙を。

誰もが言葉を発することなく、数十年の努力が実を結んだにしては簡潔過ぎる結末に戸惑っていた。

まさか今の一言で終わりなのかと誰もが顔を見合わせ、エルゲインストは何にも触れることなかった手を眺めたあと、彼等を振り返る。


「……ありがとう」


そして、ただ頭を下げた。


「院長……」

「……君たちには肩すかしな結果であったかも知れないが、しかしそもそも、これはきっとそういうもの。……これは我等に魔術――魔法を与えるために作って下さったものだったのだ」


君たちがいなければ出来なかった、とエルゲインストは続けた。


「……僕一人ではきっと気付けなかっただろう。君たちと共に魔導解析器を作り上げたからこそ、僕は気付くことが出来た。三十年も前に、その答えを知っていたのに……随分と遠回りをしたものだ」


自嘲するように言って、ああ、と理解する。


『――その女王陛下やアルベリネアは、何のために平和を作ったと思ってやがる。民衆が幸福に過ごすためだろうが』

『――そうやって、誰かのちょっとした幸せのために頑張るのが、一番大事なことなのです』


思えば己はいつも、己のためだけであった。

もっと大事なことを教わっていたのに、理解していたようで、理解しておらず。


十七人の魔術師達が、エルゲインストの前にあった。

人生の多くの時間を割いて、何年何十年とエルゲインストに付き合ってくれた者達。

道半ばで倒れたものからも願いを託され、この場に至り。

そしてそんな場所で、そんなメッセージを聞けたことは何よりも幸せなことなのだろう。


『……アルベリネアは我等魔術師に居場所と幸福を与えてくれた。我々は十分に受け取っている。だからこそ我等は、受け取った幸福を民衆に与えていく』


祖父が言っていた通り、


『……まずは魔術がそのための道具であるのだと理解なさい』


魔術の美しさとはそこにあるものなのだ。


「……魔術は人を幸せにするための手段で、道具。魔法と名付けられた先ほどの技術も同じものだ。ここに居合わせた君たちには、それをまず、理解して欲しい」


宙空に刻むことが出来る術式。

これまであった魔水晶という制約はもう存在しない。

天極の莫大な魔力があれば、可能性は無限に広がるものとなる。


「魔法は我等のためではなく、民衆のためにあるべき大いなる力。……そしてそう使ってくれるものと信じて、アルベリネアは未来の我等に託されたのだろう」


魔法の力は平和のために。

彼女が伝えたかった要点は、ただそれだけであった。


「女王陛下とアルベリネアがいなくなり――いずれ、道標を失ったこの国は滅びの道を辿る。再び世界に戦乱が訪れるのかも知れない」


そして、そのための道具を与えられたのだ。

やるべきことはただ一つ。


「この平和な世界を……月明かりの照らした遺産を、良い形で後の世に残すため。僕はそのために、これからも努力を重ねて行こうと思う」


それがアルベリネアの願いであるならば、考えるまでもなかった。


「僕にこれまでついてきてくれて、ありがとう。……それから改めて、ここで同じメッセージを受け取った君たちにも、協力をお願いしたい」


――僕には君たちが必要なのだ、と続けた。

決して一人では出来ぬ事だろう。

アルベリネアが多くの英雄達と築きあげたように、エルゲインストにも仲間が必要だった。


「……今更他人行儀な事を仰らないで下さい、院長。あなたは私達に多くの道を示した。……これからもそう。私達はあなたという道標を目指して進むだけです」


一人が前に出て、頭を下げたままのエルゲインストの肩に手を当てた。


「あなたはアルベリネアを、そして我々はあなたを。……これまで通り何も変わらず、我々はあなたについて行きますよ」


顔を上げると魔術師達は笑みを浮かべて頷き、同じようなことを口々に。

呆然とそれを聞き、こみ上げる何かを抑えるように手で目を覆う。


「……ありがとう。君たちとこうして、アルベリネアの魔水晶を解いたことを誇りに思う」

「我々こそ、あなたのような魔術師と共にあれたことを誇りに思います」


しかし良いですな、と彼は続けた。


「女王陛下とアルベリネアの作り上げた世界――月明かりの遺産を守るもの。……そのまま古語で、クラインメールというのはいかがでしょう?」

「……クラインメール」

「これから、我等の結束を示す名ですよ、院長」


――それから、エルゲインストは魔導兵器掌握を密かに進め、来たるべき日に備えた。

ワルツァとも計画を練り、時勢を見て事を起こしたのは統一歴百二十三年。

アルベリネアが旅立って八十年ほどが経った頃だった。


エルゲインストは彼等の求める指導者であり続けた。

アルベリネアを名乗り、その正統なる後継者であると民衆に語り、従う者達に語る。

己は民衆のため、アルベリネアのために。

己がアルベリネアを名乗るというその恥知らずな行為さえを除けば、そうして動き続けることはそれほど苦ではなく、使命のために進む時間は充実したものであった。

それは、アルベリネアの示した輝く道の途上であったから。


だが、大陸東部を平定すれば、再び世界に平和が訪れる。

アルベランは終わり、クラインメール。

神の子の治世の後に、彼女らの遺産を守るもの。

民衆達が不安がっていたこと、自身の考えもあり、エルゲインストは極力、アルベラン時代と国の在り方は変えなかった。


王宮議会はすぐに安定を見せ、地方政治も同じく。

アルベリネアがそうであったように、女王陛下は神の子と呼ばれるに相応しい名君。

彼女が作り上げたシステムは完成度が高く、王の存在がなくとも国の運営さえ問題なく、半世紀に渡る安定を続けたのだ。

エルゲインストは己を象徴として置くことに決め、それまでの規則通り、政治の主体は議会で行った。

次第に民衆達もエルゲインストを受け入れ、国は安定し、乱れた治安もすぐに落ち着きを見せる。


首が真綿で絞められるような閉塞感は、予感から確信に。

そもそもが完成された国家、アルベランを受け継いだクラインメール。

そしてアルベリネアから授けられた魔法という力を用いて、短期間での大陸再統一。


――世界は平和そのものであった。


では、己は次に何をすれば良いのだろうか。

考えるほどに、目の前が真っ暗になるような気がして、感じるのは息苦しさ。

それから逃れるように、エルゲインストは政務の傍ら研究を再開した。


悪くはない日々であるはずだった。

それどころか魔術師達からすれば、エルゲインストは楽園と呼ぶべき場所で過ごしていた。

潤沢な資金、天極――世界樹から与えられる莫大な魔力。

魔法という革新的な力を手にした今では、多くの未知を解き明かすことが出来、これまで理解の及ばなかったあらゆるものに手を伸ばせる。

一生を掛けても解き明かせぬ未知が、エルゲインストの前にあった。


人々はエルゲインストを讃える。

皇帝と、アルベリネアと呼び慕う。

エルゲインストが手に入れたものは、言うなればこの世界の全てであった。


それでもなお、エルゲインストが覚えるのは、閉塞感。

幸福に満ち溢れているはずの日々に、空虚を感じて途方に暮れる。

知る喜びはひとときエルゲインストを慰めたが、すぐにそれは虚無へと消えた。


「……知って、解き明かして、それでどうするのだ」


世界樹の枝に腰掛け、その眼下を見下ろす。

月明かりの白き都が目に入り、それを眺めて自らの座る枝に触れる。


知らないことを知ることは楽しい。

その喜びは知っていた。失われてもいない。

魔術師達の多くはただ、知の探究、その喜びに日々を笑顔で過ごした。

エルゲインストが新たな魔法を考案すれば歓喜し、何かを軽く教えてやれば憧れの目を向ける。

気持ちは理解出来た。愛しいとも思う。

かつてはエルゲインストもそう。彼等と同じ一人であった。


アルベリネアは未知そのもの――偉大なる先駆者であり、永遠の目標。

理解しようとして、理解し尽くせぬ何か。

探究するものにとってそうした存在ほど喜ばしいものはなく、今エルゲインストの目の前にある無限の未知は、それに等しいものであろう。


知の探究は魔術師にとって、ある意味食事に等しいもの。

目の前には極上の料理が並んでいる。

どれだけ食べても腹は減り、そして料理も無限であった。

フォークとナイフを与えられ、目の前に皿が並べられ――けれど何故か、手が止まる。

美味であり、満足感を味わえることが分かっているのに、手が伸びない。


指を振るって式を刻む。

魔力は形を変え、似姿を作る。

描かれた少女は変わることなく、優しい微笑みを浮かべてエルゲインストを眺めた。


「……あなたの魔水晶を解きました。あなたの望んだ通り、世界は平和なままです」


少女はただただ微笑みを浮かべていた。


「昔より、ずっと……僕も魔術が上手になりました」


答えは返ってこず、似姿は掻き消えて――雫が頬を伝って、俯く。


世界樹の高みから、眼下の街に小さな雨がこぼれ落ちた。

雲一つない夜空の雨に、誰一人気付くことはなかった。

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