月明かりの遺産 二

その後の二十年はエルゲインストに取って最も幸福な時間であった。

日々を研究に打ち込み、時折訪れるアルベリネアと話をする。

術式刻印を組み合わせによってパズルのように暗号化する手法、あるいは異なる効力を持った魔水晶への組み替えのギミック。

注がれる魔力に反応し、選別する魔力鍵。

その頃には魔術師としてのエルゲインストに誰もついて行けなくなっていたが、他の誰も理解出来ないような質問さえ、子供に足し算引き算を教えるように答えて見せた。


彼女はかつて魔術師が追い求めた真理そのものであった。

想像した全てを想像のままに成り立たせる、途方もない知性。

人の姿をした神に等しく、そんな彼女に教えを請うことが出来ること以上に幸福なことはない。


未知は知れば知るほど未知が現れ、時折壁に閉ざされる。

けれど彼女とほんのひととき語るだけで、目の前にあったはずの壁が取り払われ、新たな神秘への道が生まれる。


壁には本棚と魔水晶が並び、作業机が三つ。

羊皮紙が雑に積み上げられたエルゲインストの個人研究室。


「……アルベリネア、聞いて良いものか迷うのですが」

「なんですか? ねむねむ」


随分と昔にアルベリネアの背丈は追い越していた。

元帥セレネ=クリシュタンドと変わらぬ年齢とされる彼女は九十を超えているはずだったが、けれど、彼女はその美しさに一切の陰りはなかった。


変わらぬ銀の髪と、美しい大きな瞳。

少女のままの白い肌。


肉体の完全なる魔力掌握――彼女は人であって、ある意味人ではない。

エルゲインストのような凡百とは違い、彼女は肉体の操作その全てを余すことなく魔力によって代替している。

彼女ほどの力量であれば、それこそ生は永遠だろう。

エルゲインストがいつか死に到っても、彼女という目標は遥か高みにあるのだと、そのことをどれほど嬉しく思ったかは分からない。


「あの魔力塔の膨大な魔力は一体、いかなる原理で生み出されているのでしょう?」

「んー……」


アルベリネアは困ったように、指先で桜色の唇をなぞる。

考え込む時の彼女の癖であった。

少し大人びたような、どこか幼いような、そうした仕草。


「秘密です。ねむねむはそこそこ賢いですし、もしかしたらいつか分かったりするかも知れないですけれど」


それから微笑み、エルゲインストを見上げた。


「では、理解出来るよう努力します」

「そうですね、頑張って下さい」


素直にそう告げると、アルベリネアはエルゲインストの雑に伸ばされた髪を撫でた。

見た目で言えばエルゲインストの方がずっと年上であった。

けれど彼女に取ってはきっと、初めてあった頃のまま、エルゲインストはねむねむという少年なのだろう。

エルゲインストも今では多くの魔術師から敬意を向けられる立場となっていたが、彼女はいつまでも変わらない。

エルゲインストも、彼女に対する気持ちは変わらない。

そうして無知な子供のように扱われることが何より嬉しかった。


「ねむねむはまだお料理で言うとカボチャをそこそこ上手に切れるようになったくらいですからね。魚やお肉の切り方はまだまだ、それなりに奥が深いのです」

「はい。……しかし、カボチャをそれなりに切れるようになったと聞けただけでも私にとっては大きな進歩です」


エルゲインストは苦笑する。

彼女はよく、物事を料理に例えた。

本当に料理が好きであるらしく、どうしてか、と尋ねると、答えがないからだと彼女は語った。

相手によって、日によって、体調によって、気分によって変わる美味しい。

その都度の最適解を見いだす作業が楽しいのだと。

それは恐らく、こうしてエルゲインストが魔水晶に魅了されている理由と近しいものなのだろう。


決して届かず、果てがないこと。

全ての答えを知る彼女に取って、残された未知はきっと心そのものなのだ。


「……まずは、あの魔水晶を解けるようになります。まだその糸口も見つけられていませんが」


研究院に置かれている一つの魔水晶であった。

アルベリネアが置いたそれは勉強用と題されており、ある種のパズルのようなもの。

中心部分へ魔力を流し込むことで解けるそうなのだが、外から魔力を流し込むと内側の術式が変化し、道筋が組み変わる。

魔力の挿入口や分岐路は数百あり、正しい量を正しい順序と組み合わせで流すことで、中心部分へ到る道筋が生まれる仕組み。

ギミックは恐らく大きな三重構造と思われ、二段目まで何とか解いたものの、その三段目がエルゲインストでは全く歯が立たなかった。


しばらく寝る間も惜しんでそれに向かっていたものの、素直に自身の実力不足であると諦め、今は再び彼女の魔水晶の模倣や研究を行っていた。


「分かれば簡単だと思うのですが……まぁでも、今のねむねむじゃまだまだ分からなさそうですね」


アルベリネアはまた、指先で唇をなぞり考え込んだ。


「でもまぁ、もしかしたら解けるのは何百年も先かもって思ってましたから、ねむねむがそんな感じなら丁度良いかも知れません」

「分かれば簡単……」

「はい。簡単です」


アルベリネアの感覚は人からかけ離れ過ぎている。

彼女の簡単は大抵、常人にとっては想像を絶する難しさであることが多い。


「……頑張ります」

「えへへ、だからって無理しちゃ駄目ですよ。……難しく考えないで、適当で良いのです」


告げると彼女は微笑み、


「大切なことはもっと沢山他にもありますから」


そう言って頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「ねむねむみたいに良いお仕事のために頑張るのは良いことですし、上達のために熱心なのも良いこと。……でも大事なのはきっと、そういうことではないのです」

「大事なこと……」


アルベリネアは頷き、持って来たクッキーを袋から取りだし口にし、それから一つをエルゲインストの前で振る。

エルゲインストは頭を下げて両手で受け取り、それを口にした。


「……美味しいです」


ほんの少しの塩気、舌の上に広がる蕩けるような甘味は蜂蜜だろう

それでいて、サクサクとした食感は一級品。

時折アルベリネアから与えられるクッキーはいつもどこか優しい味がして、頬を綻ばせる。


「ふふん、それですっ」


それを見たアルベリネアは、びしっと指を立てた。


「……?」

「こういう美味しい一つ、クッキーの一つで誰かをちょっと喜ばせたり出来る訳です。そういうちょっとしたことで誰かを喜ばせたり、良い気分にさせたり……」


そして微笑む。


「そうやって、誰かのちょっとした幸せのために頑張るのが、一番大事なことなのです」


アルベリネアは美しい、といつも思う。

それでも、どうしようもなく美しく感じる時は、決まってこういう微笑みを見る時であった。

そう感じるのはきっと、その容姿の美しさだけではない。


「だから、適当に、です。ねむねむはそこそこ優秀な方ですから、適当にやってれば自然と上達しますし、焦らなくても大丈夫です。……それより周りの人に心配とかをさせない方が大事。ほら、目の下に隈が出来てますよ」


アルベリネアはエルゲインストの、閉じたような目の下を指でつついた


「たまには家でゆっくりとお休みするべきです。このままだとその内本当に、眠気で目が開かなくなっちゃいますよ。ただでさえ開いてるか分からないのに」


罵倒のようで罵倒でなく。

アルベリネアは真実、細かな一切を気にしない。

エルゲインストが自分の特徴的な顔を好きでいられたのは、彼女がいつも楽しげに愛称で呼んでくれるからだろう。

これもただの気遣いで、その心遣いが何よりも嬉しかった。


「……、はい。お気遣いありがとうございます、アルベリネア。確かにそれは困りますね」

「そーです。夜はちゃんと寝ないと駄目なのですよ、ねむねむ」


お話は終わりです、と扉に手を掛け、アルベリネアは振り返る。


「クリシェは夕食の仕度がありますから帰りますね。それじゃあねむねむ、長生きするように」

「……? はい、体に気を付けます」


その日はそんな言葉が付け加えられ、少し不思議に思ったが、話の流れだろうとそのまま流した。

それが別れの挨拶であったのだと気付いたのは、しばらく後のことであった。





エルゲインストはそれからも変わりなく、次に彼女が訪れるのを待ちながら研究室で日々を過ごした。


「またお前は今日も引きこもってその魔水晶と睨めっこか。たまには運動しないと体に悪いぞ、エルゲインスト」


整った顔。少しくすんだ金の髪。

いつものようにノックもせず、研究室に訪れたワルツァ=レーミンは呆れたように告げ、エルゲインストは嘆息しながら机から顔を上げる。


「魔力保有者にとって魔力を操る事は運動とそう変わらん。それに休息も十分取っている。ワルツァ、お前こそたまには魔水晶にでも触れてみるといい」

「そういう難解なものは性に合わん。実際に運用を考えるのは楽しいことだが……そういう研究は本職に任せるよ」


数少ない友人の一人であった。

彼のレーミン家は魔術研究院とラミル家に巨額の支援を行っており、その関係からラミル家とも深い付き合いがある。


彼と出会ったのは十の頃であった。

神経質なエルゲインストに対して大雑把。

素行は悪く、平民に混じって酒場を飲み歩くのを好み――性格は正反対であったが、不思議と嫌いではなく、そして向こうもそうなのだろう。

暇が出来ると度々、こうしてエルゲインストの所に訪れる。


「まぁ確かに、短絡的に目先の実用性ばかり考えるお前には向かないだろうな」

「軍人としては当然のことだ。むしろ目先を考えんお前のような人間を尊敬するよ、エルゲインスト。お前は半分夢でも見てるんじゃないのか?」


エルゲインストの細目を笑うと、ポットから勝手に黒豆茶を入れる。

そしてティルの座っていた机の上に腰掛け、机に置いてあった魔水晶を手に取る。

ジャレィア=ガシェアの本体コアであった。


「不用意に中を探ろうとするなよ。爆発する」


告げるとワルツァは机の羊皮紙に書かれている途中の研究メモを見て、眉を顰めた。


「……うげ、ジャレィア=ガシェアのコアか」

「そうだ。アルベリネアが魔導兵器全般の生産を中止して久しい。後々のため、理論程度は学んでおこうと思ってな」


このコア自体はさっぱりだが、と魔水晶を眺める。

使われているのは赤子の頭ほどある高純度の魔水晶。

複雑な術式が刻まれていることは理解出来るが、その内側の解明は不可能であった。

――ジャレィア=ガシェアコアの内側で蠢くのは、内側を埋め尽くす術式刻印。

何の干渉もなく、そもそも魔力すら注いでいないのに、内側の術式刻印はまるで生き物か何かのように揺れ、踊る。

中の術式刻印を判別することは不可能で、変に探ろうとすればバゥムジェ=イラのような爆発を起こす。その秘密を探ろうとした魔術師の一人が死んだとも聞いていた。

エルゲインストも、これに関する解析は諦めていた。

アルベリネアが解けないように作った術式刻印、常人が何百人集まろうが解けるはずもない。


「仕組み自体は本来単純なものだ。魔力の信号を受け取り、決められた魔力信号を各関節部位に返す。軍で使われる旗やラッパと同じ、この理屈自体はお前でも分かるだろう?」

「ああ、ジャレィア=ガシェアの使い方自体は軽く習ったしな」


軍の旗やラッパで軍全体に指示を出し、軍団長がそれを受け取り、そして末端の兵士達に伝えられて行動となる。


「それを使えば僕でも動く木偶程度は作れるが、現状実用に耐えるものではない。これの中身が覗ければ良いが、僕程度ではその一端も理解出来ない。アプローチを変えてみようと思ってな」

「アプローチ?」

「送信水晶から受け取った信号をコアがどう処理をしているかは不明だ。だが、コアから各関節部に伝えられる信号を解析することは出来る。その莫大なデータを集積していけば、いずれ出来の悪い模造品程度は作れるだろう」


暗号術式と呼ばれる蠢く術式刻印が刻印されているのはコアのみ。

そこから関節を動かす信号、仮想筋肉を都度構築する術式刻印は難解ながら、時間を掛ければある程度理解が出来る。

後はそのデータを元に、一からコアを作成できればエルゲインストにもジャレィア=ガシェアの劣化品程度は製作が可能であった。


「……模造品でもジャレィア=ガシェアだろう?」

「アルベリネアと僕では竜と蟻、頭の出来が違いすぎる。オリジナルのような怪物を作るには何百年の時間があっても足りないさ。考えているのは精々、戦列を構築し、兵士の盾に使える程度のものだよ」


君は理解していないなワルツァ、とエルゲインストは苦笑した。


「数十年の歳月を剣に捧げたような武人さえ平気で薙ぎ倒す怪物が、こんな時代に存在していることが異常なのだ。レーミン家に生まれてアルベリネアにも近しく、ジャレィア=ガシェアを見て育った君には分かりづらいかも知れないが……そもそもジャレィア=ガシェアは先を行き過ぎた技術だよ」

「……俺にもこれが凄い技術ということくらいは分かるぞ」

「分かっていないさ。……ジャレィア=ガシェアは数百年どころか、その完成度で言えば数千年は先の技術だよ」


言って、コアを撫でた。

叡智そのもの――いや、これさえ彼女の叡智の一欠片に過ぎないもの。

彼女が現れたこと自体が、歴史における青天の霹靂であった。

違う世界からやって来たのだと彼女に言われれば素直に信じる自信がある。


研究とは本来、莫大な年月を掛けて基礎研究という土台を固めて、莫大な年月という積み木を組み立てていくもの。

だが、彼女は思いついた瞬間に、出来合いの積み木をぽんと置いて終わらせてしまえるのだろう。

土台が歪であっても関係なしに、歪なまま結果を持ってくる。

彼女の発明には文明としての基礎研究が全く追いついていなかった。

四則演算も分からぬ人間達の世界に、突然発展した応用方程式を与えるようなもの。

彼女は天才と呼ぶ他ない存在だった。


「まぁお前のアルベリネア信仰は分からないでもないがね。あの見た目でうちの爺様ですら相手にならないんだ。……前に念願叶って手合わせをさせてもらえたが、何をしても読まれて負けた。千年経っても勝てる気がしない」


黒豆茶を啜って呆れたように告げる。

アルベリネアの武人としての力量を、軍人貴族で知らぬものは子供くらいのものだった。


「貴重な体験だな。……ただ、魔術師の私から言わせてもらうならば、お前はレーミン将軍やアルサング様と比べても随分魔力の動きが荒い。読まれるのはまずそれ故だろう」

「……同じことを毎日のように言われているよ」

「くく、お前も魔術を学べ。刻印は魔力の繊細な動きを身につけるには良い、いずれ本分の剣においても役に立つ」

「……考えておく」


嫌々そうに告げるワルツァに笑い、目を閉じる。


「……きっとこの王国は永遠に等しいものになる。女王陛下もアルベリネアも、私が見る限り不老のお方だ。……お二人のような方が雑事に煩わされぬよう、お健やかにお過ごし頂けるよう計らうことが我等臣下の役目」


戦とは無縁に、下らないことに振り回されず、あの王領にある小さな屋敷で彼女らが幸せな日々を過ごせるように雑事全てを引き受ける。

それがエルゲインストの考える仕事の全てであった。


「平和と安定を続けるためには、我等の堕落なき地道な努力が必要だ。僕は魔術師として、お前は軍人として、互いに良い部分は認め、高めあって行かねばな。……お前が来て丁度良いと思っていたところだ、資料探しを手伝って欲しいのだが」

「もっともそうなこと言って、俺を便利使いしたいだけだろう、お前」

「悪意で捉えるな。……代わりに僕の木偶が出来上がった際は一番に見せてやる」

「……喜ぶべきなのかそれは」


少ないながらも友があり、目指すべき場所があり。

きっとこの先もこうした、幸福に満ちた日常が続くのだろう。

エルゲインストは幸福な日々の中で、ぼんやりとそう考えていた。


――だが、元帥として王国を長きに渡って守ってきたアルベリネアの義姉、セレネ=クリシュタンドの葬儀が行われてからしばらく。

そうした日常は唐突に終わりを迎えた。






彼女に言われてから休息は十分に取っていたものの、それでも夜まで研究室で過ごすことは多い。

その日も研究室で彼女の魔水晶を研究して過ごし、ふと感じたのは胸騒ぎのようなもの。

しかしエルゲインストは感覚的なそれを誤認するようなことはなく、魔力の震えであるとすぐさま感じ取った。


莫大な魔力がどこかで動いているのだとすぐさま理解し、慌てて外に出る。

まだ残っている魔術師は数人おり、エルゲインストに驚いた様子で目を向けたが、彼は気にせずそのまま外へ。

それほど莫大な魔力の震えが起きるとするならば、その原因は天極に異常があったか、あるいはアルベリネア以外に存在しない。


「これは……」


庭に出ると天極には異常が見えず、けれどそれ以上の光景が空にあった。

まるで真昼のように明るい空。

そして、莫大な魔力が膨れあがり、星空に太陽を浮かべるような光。


音が到達するのはしばらく後――だがその音は全身を、大地を震わせる程の異常であった。

雷鳴よりも轟くその音の壮絶さ。

遥か彼方にあるにも関わらず、風さえを感じてエルゲインストは閉口する。

尋常ではない魔力が天空で撒き散らされていた。


「な、何事ですか、ラミル様!?」


外へ駆け出したエルゲインストを不思議そうに思った彼等も、爆音で気付いたか。

慌てたように表に出てきて、エルゲインストの側に寄る。

エルゲインストは答えず、彼と同じように彼等も空を呆然と見上げた。


連鎖的な爆発は続いている。

軌跡を残す閃光はピシューネのような魔力投射の原理であろう。

だが、あのような『玩具』ではない。

仮に上空で踊り狂う無数の魔力が真下へ落ちてくれば、この王都ですら一瞬の内に焼け野原へと変わることは間違いなかった。


考えるまでもない。

それが誰の手によるものかは理解出来ていた。

アルベリネアと女王陛下、その二人以外にそのようなことが出来る存在などいない。

論理で考える前に、戦っているのは二人であると確信する。


遠目に過ぎて姿も見えず、見えるのは爆発と閃光だけ。

しかしこの距離でさえ見え、魔力の圧を感じるのだ。

間近で見たならば一体、それはどれほどのものであるのだろう。


腰を抜かすものがあり、怯えてどこかへ逃げるものがあった。

誰より魔力の扱いに長ける魔術師であればこそ、上空で放たれる魔力がどれほどの規模かを理解出来ていた。

あそこで乱れる光の一つが降ってきただけで、万の人間が死ぬであろう破壊を起こすことは間違いなく、そしてその数は膨れあがる。


数百から、千、数千――数えることなど出来はしない。

光が何かを檻で閉じ込めるように飛び回っていた。

放たれ弧を描く魔力というだけで驚きであったが、それだけではなく、まるで意思を持つかのように膨大な光が何かを狙っている。

エルゲインストの理解さえを超えた光景であった。


アルベリネアと女王クレシェンタ。

それは人を超えた者達の、神々の戦いと言うべきもの。


エルゲインスト達のみならず、眠っていた民衆もベランダや路上に寝巻きのまま現れ、空を見上げる。

そちらを気にする余裕などエルゲインストにはなかった。

時間にしてみれば半刻にも満たない時間。

エルゲインストはただただそれに圧倒され、呆然と空を見上げる他なく。


魔力の渦は突如消え、魔術師達は顔を見合わせ口々に何かを。

その間もエルゲインストは空を眺め、少しでも高い場所へと壁を蹴って研究院の屋根の上に。


しばらくは動きがなく、けれど、青く光る小さな何かが、再び空に現れた。

それは天極へ近づいて行き、慌ててエルゲインストは王都を駆ける。

衝動的なもので、何か明確な理由があった訳でもない。

ただ、今行くべきだと心の中の何かが叫んでいた。


全力で肉体拡張を行い、騒ぎに外へ出てきていた群衆を飛び越えるように通りを駆けていき――しかしその途中で足を止める。


「……っ」


――まるで、己が魔水晶の内側に閉じ込められたかのような錯覚すら覚えた。

大気を、大地を、周囲の全てに刻まれていくのは、青きライン。

規模に関わらず精緻であり、迷いは無く、刻まれる速度はエルゲインストの理解を超越したもの。

見間違えることなど有りはしない。

誰より敬愛するアルベリネアの、完成された術式刻印であった。


天極の外壁が崩落し、内側から大樹が姿を現しているのが見えた。

莫大な魔力を迸らせながら、枝を広げ、幹を太く伸ばし、光輝く花弁をその枝葉の隅々まで覆うように芽吹かせる。


周囲にあった刻印は空の彼方にまで広がっていき、溶けるように消え、


「アルベリネアっ!!」


ようやく大樹の傘、その下に見いだした青き光を目で捉え吠えるように叫ぶ。

しかし声もむなしくその光が消えるのを目にし、


「ぁ……アルベ、リネア……」


虹色の花弁が舞い踊り、王都に降り注ぐ。

手を伸ばしたまま呆然と、エルゲインストは立っていた。


何があったのかはわからない。

理由も知らない。

ただ、アルベリネアが消えた事だけは確かであった。

恐らくはもう戻ってくることもないのだと、そのための天極であったのだと、それを心のどこかで理解する。


「……エルゲインストか」


声を掛けられ振り返ると、真白い髭を伸ばした老人が一人。

軍服姿――今なお、武人として死なぬ堂々とした姿。

彼はどこまでも落ち着いた様子であった。


「……レーミン将軍、アルベリネア、は」


硬直から立ち直れぬまま、聞いても無意味な事を尋ねる。

老人はエルゲインストを眺め、どう告げるかを迷うようにして肩を叩いた。


「我等に全てを任せて旅立たれた。……クリシェ様をあれほど敬愛していた君には酷な話だろうが」

「どこに……?」


彼はエルゲインストを見つめ、そして首を振り、肩を抱いて歩き出す。


「……今日は眠るといい、エルゲインスト。落ち着いたならばまた後日話をしよう。いずれ、君の所にも顔を出す」


頷くことも出来ず、答えることも出来ず。

エルゲインストはただ、彼にそうされるまま歩いた。


自分は見捨てられたのだ、と考えて。





――数日寝込み、食事は喉も通らなかった。

研究院に戻っても、あれほどのめり込んでいた魔水晶にさえ手が付かず、体調不良を理由に部屋へと戻り、一日の大半を寝て過ごした。

両親は彼を心配したが、だからと言ってどうすることも出来ず、ベッドの上で首飾りにした『フライパン』を眺め、彼女との記憶をただ思い出す。


『ふふん、ねむねむは他と比べてそこそこ優秀ですね。悪くない出来です』


彼女にそう認めてもらえたときの喜びは、一体どれほどのものであったか。

幼い頃のエルゲインストは、ただ彼女に褒めてもらうために魔水晶にのめり込んだ。


『ねむねむ、こういうのはこうです。こう、ぴしゅってやるんですよ』


エルゲインストが迷えば簡単に道を示した。

エルゲインストにとっての彼女は道そのものであり、永遠に続く道の果てにあるものだった。


『おお、中々良い発想ですね。お料理に使えそうです、偉いですよ』


彼女は料理に使えるものや日用品を何より評価した。

魔導兵器を片手間に作りつつ、生活を豊かにする術式を研究して、そういう発想を見いだすことが彼女にとっての魔術師の仕事なのだと堂々と宣言した。

一時期は彼女に喜んでもらうものを見つけるためだけに、使用人から聞き込みまでしていた記憶もあった。


エルゲインストにとって魔術が人生の全てであり、魔術とはアルベリネアであった。

その曇る事なき神秘を目指し、途方もない道を歩くことほど、幸せなことはなかった。

ただ、その神秘が失われた瞬間、エルゲインストの目の前は真っ暗になった。


何をすれば良いのか、何のためにすれば良いのか、何一つ分からない。

自分が何のために生きているのかさえ、エルゲインストには分からない。

彼の生き甲斐とは魔術であり、アルベリネアであったのだから。


「おう、お前がベッドの上でキノコを生やしてると聞いて来たんだが」

「……帰ってくれ、ワルツァ。今は話す気分じゃない」

「お前を放って置くと話す気分になるのが何十年先か知れたもんじゃない」


ワルツァは無視して中に入り、ベッドに近づく。

そして持って来た袋の中から大きな魔水晶を取り出す。


「……お前」

「土産だ。許可は取ってるぞ、皆お前のことを心配してる」


アルベリネアが勉強用と残した魔水晶であった。

その内側に刻まれた美しいラインを眺め、目を伏せる。


「いらないなら割るぞ、エルゲインスト」

「っ!? 何を馬鹿な……!」


慌てて顔を上げると、ワルツァは笑い、ベッドに腰掛けた。

そしてエルゲインストの膝の上にそれを置く。


「あれだけアルベリネア、アルベリネアと慕っていたお前のことだ。沈む気持ちは分からんでもない。だが、死んだ訳じゃない」

「……やめてくれ。上っ面の話くらいは知っている。……とはいえ、あのお方が帰ってくることはない。混乱を生まないための方便だ」


三十年ほど旅に出る、とメッセージを残したらしいことは聞いていた。

だがエルゲインストは、彼女が再び彼の前に姿を現すことがないのだと確信していた。


天極は恐らく、そのためのものだった。

あの莫大な魔力を使って何をしたのかまでは分からなかったが、彼女ならば文字通り、あれだけの魔力があれば何でも出来る。どこへでも行ける。

外へ出ると花を散らした大木――世界樹と呼ばれるそれが目に入った。

それを見ると、あの瞬間を思い出してしまう。

どうしてもっと早く駆けだしていなかったのか。

せめて、別れの一つでも言わせてくれたならば。

せめて、一言くれたならば――いや、全てわがままだった。


きっとエルゲインストは納得しなかったし、引き留めただろう。

自分も連れて行って欲しいと願い困らせただろう。

彼女に取ってエルゲインストは、ねむねむと名付けた子供の一人でしかないのだ。


彼女にただ認められたかった。

必要とされたかった。

けれど、そうなるだけの時間を、彼女は待ってくれなかった。

恐らくは随分前から計画していたものだったのだろう。

心の冷静なところでは理解していた。

エルゲインストが生まれてからの数十年は、彼女にとっては単なる旅支度の時間だったのだと。


「……爺様から聞いていたのか?」

「いや。少し想像すれば分かることだ。……女王陛下の権力を分散させるような政策も、このための準備だったのだと思えばそちらの方がしっくり来る。初めからお二人は、この国を出るおつもりであったのだろう?」

「爺様からはそう聞いた。……俺は随分驚いたもんだが、冷静じゃねぇか」


ワルツァの祖父、アレハ=レーミンは女王陛下とアルベリネアの忠臣であった。

あの日、あそこに居合わせたのは偶然ではないだろう。

別れのため、あの場にいたのだ。

恐らく、様々なことを聞いて、任されていたに違いない。

二人からのメッセージも彼が預かっていたと聞いていた。


「……多少国内が乱れるだろう。爺様は随分前から根回しのために動いていたらしい。俺も王国軍人としてそれに協力する。お前は魔術研究院の次期院長、魔術師達を動揺させぬよう、纏めて欲しいというのが爺様の希望だ。俺もそう思う」


ワルツァは腕を組みながら続けた。


「魔術師達は魔導兵器を持ち出しやすい立場だからな。ここで引き締めておかなければ流出もあり得るだろう。もちろん対策を取るつもりだが、お前の方でもその辺りに気を配ってもらえるとありがたい」

「……何のために?」


エルゲインストは漏らした。


「もう女王陛下も、アルベリネアもいらっしゃらない。いずれ隠せなくなるのだ、なるに任せればいい。……それが必然だ」

「……お前、先日俺に言った事覚えているのか?」

「僕は女王陛下やアルベリネアのためにと言った」

「細かいこと言いやがって……ああ、嫌な奴だ」


エルゲインスト、と声を掛け、ワルツァは襟首を掴んだ。

そして顔を近づけ睨み付ける。


「……その女王陛下やアルベリネアは、何のために平和を作ったと思ってやがる。民衆が幸福に過ごすためだろうが」

「っ……」

「根本的な事を勘違いするんじゃねえぞエルゲインスト。俺達は女王陛下とアルベリネアに後を任されたんだ。そりゃ、聞いてたのは爺様と数人くらいかも知れないが、それでいじけてどうなるんだ。大々的に民衆へ喧伝でもしてもらった方が良かったか?」

「……それは」


そうじゃねえだろ、とワルツァは手を離し、嘆息した。


「お前の言った通りいずれこの国が滅ぶのは間違いない。永遠の王国ではなくなった。……それ自体は変えられないが、その終わりを緩やかに、可能な限り争いを抑えることは出来る。……正直俺は大人しく玉座に座ってくれりゃ良かったと思うが、こうなったもんは仕方がない。やるべきことをやるしかない、俺も、お前も」


そこまで言うと頭を掻いて立ち上がり、背を向けたまま告げる。


「爺様がラミル家と研究院に資金援助した理由を知ってるか?」

「……いや」

「アルベリネアが、そこそこ優秀な良い子がいるって、お前のことを爺様に軽く漏らしたからだってよ」


エルゲインストは目を見開く。


「……クリシェ様がお認めになった人間だ、と、爺様は言って、お前の今後に期待している。アルベリネアも、お前なら任せられると思ったから、研究院に行くたびお前に付き合ってくれたんだろう。……違うか?」


もう一度ため息をつき、ワルツァは首を振る。


「今は答えを聞かん。……だが、引きこもりのエルゲインストと、期待に応えるエルゲインスト。どっちがアルベリネアが喜ぶかはすぐに分かることだろ」


じゃあな、とワルツァは部屋を出て行き、しばらく扉を眺めた後、エルゲインストは視線を下に。

膝の上に乗った魔水晶に目を向ける。


『それじゃあねむねむ、長生きするように』


あれはきっと、別れの言葉であったのだろう。

エルゲインストに残されたのは、魔水晶。


――この中にはまだ、アルベリネアの残した未知があった。


魔力を流し込むと、形を変える。

手順は覚えている。忘れない。

繊細に魔力を扱い、丁寧に。


パズルが組み替えられるように美しい紋様が蠢き、姿を変えて二段目、三段目。

今もなお解けない、アルベリネアの神秘がそこに眠っていた。


繰り返し、繰り返し、間違えていく。

失敗する度に振り出しへ戻り、美しい刻印へ魔力を注いで没頭する。


何を考えるでもない。

何も考えないためにただ、その神秘にだけ目を向ける。


この魔水晶に封じ込められた途方もない神秘の先には、彼女の姿があるような気がして。

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