第246話 それは未完の物語
高い山の上――夜空の星々を覆うような大樹であった。
その周囲を透けるような無数の何かが飛び回り、大樹の幹を小さな何かが走り回る。
その大樹の根元は窪地を埋め尽くすように根が張り、窪地を作る岸壁には魔水晶が輝きを。
耳を傾ければきゃあきゃあと楽しげな声が響き、大地を埋め尽くす根の上、胸と腰に巻布を身につけただけの少女が、困ったように口を開いた。
「もう、リーガレイブ様達のお邪魔をしてはいけませんよ」
告げると風が少女の周りを渦巻くように、緩く束ねた長い髪が体に巻き付き、呆れ。
羽虫のような小人一匹を捕まえると、怒りますよと一言告げた。
もがく彼女を手放すと、周囲に目をやり嘆息した。
根のあちこちを似たような半透明の小人が走り回る無法地帯。
せっせせっせと真面目に花や大樹の世話をしているのは極一部であった。
魂が存在する本質の世界と、物質的な現世の狭間――重なり合う幻想の世界。
色々と不便のない世界であったが、その分随分と人の意識の影響を受けるらしい。
いつ頃からか生まれた精霊もその一つ。
人々がぼんやりと信じるものが、自然と生まれて来ることが良くあった。
神聖視されるような土地と重なる場所などは特にそう。
場所によっては古竜に似た、火を吐く小さな飛び蜥蜴が飛んでいることもあったし、魔獣の中でも特に大きなものがいたりする。
各地の伝承などが影響していたりもするのだろう。
伝説にあるような花や果実が極普通に生えていたり、実を付けていたり――何とも不思議な世界であった。
眼前――大樹の根元にあるのは小山のような灰色の巨体が二つ。
互いに丸まりながら顔を突き合わせるのはリーガレイブとクシェナラースであった。
クシェナラースは一番頻繁――数十年おきにやってきて十年ほど滞在すると帰っていく。
それ以外の竜も時折顔を見せにきて、やはり十年ほど滞在する。
一度そのタイミングが重なってこの場に七頭の竜が集まった時は中々凄まじい光景であったが、誰も文句を言わず、三年ほどその状態が続いたのも記憶に久しい。
時間の感覚が本当に異なるのだろう。
顔を突き合わせて丸三週間会話をすることがなかったりした時には喧嘩でもしたのではないかと怯えていたものだが、何頭集まってもそれは同じらしい。
誰かが魔力を揺らすと応じるように魔力を揺らし始め、一ヶ月休む間もなく会話を楽しむこともあった。
今はお喋りな時期だろう。
昨日から話し始めて四日目――時折黙り込むことはあれど、色々な問答を繰り返している。
関われば関わるほどに不思議であった。
我等はどうして生まれたか、生きる死ぬとは何かなど真面目な会話をしているかと思えば、時折普通の謎かけのようなものを行う事もあり、いつぞや答えが分かって口を挟むと、至極あっさりと自身の真名を許されたのも随分と昔のこと。
失礼とは思いつつも、いつぞやクレシェンタの言った『あの方達は色々考えているようで何も考えてないですわよ』という言葉が脳裏に浮かぶ。
リーガレイブは早々に、五十年ほどでこちらへ来た。
アルベランが崩壊の兆しを見せ、それをクレィシャラナの者達が伝えた時――何かあれば身命を賭してお守りすると口にしたことが切っ掛けであろうとリラは思う。
纏わり付かれては目障りだ、と一言リラに語ったが、それだけではなかったのだろう。
竜の心を知る訳ではないし、理解出来ているとも思えない。
しかしきっと彼等がその矜持で死なぬよう計らってくれたのだろうとリラは勝手に考えていた。
リーガレイブが消えたことを彼等は大いに悲しんだが、事実そのおかげで、アルベランが終わり、後継となるクラインメールが大陸を支配した後、彼等は平和的に降伏を行う事が出来たのだ。
他の竜がこちらにやってきたのはそれからのこと――多くの場合はクラインメールの竜狩りが始まってからだった。
クラインメールの様々な魔導兵器により、無警戒であった竜の二頭が討ち取られた。
とはいえ、仕損じ警戒した竜とまともにやり合えば勝てるはずもなく、それで終わり。
大抵の竜は軽く暴れまわるとその時点でこちらへ。
クシェナラースも散々暴れた後、飽きたと言ってこちらに来た。
大陸外の竜はまちまちだが、今では大陸の竜は皆こちら側にいる。
子供の頃には想像も出来なかった光景であった。
気高く孤高なる竜が二頭、仲良く同じ所で過ごす姿にもいつか慣れると思ったものだが、やはり慣れることもなく、こうして眺めていると何とも言えない気分になることもある。
しかしその原因はリラにあるのだろう。
神に等しきと呼び崇め、勝手に『理想の聖霊像』を押しつけていたのはリラの方。
竜はただ竜として、きっと大昔から変わらず自然体であり続けていたし、今もそれは変わらないのだ。
変わるべきは常に己であった。
聖霊は体の手入れなど求めていないし、食事も必要としない。
ここに来て特に何をするでもないのだが、時折何か問いを投げかけられたりすることもあって、今も日に一度はリラも顔を出している。
随分前にクリシェ達が持って来た盤上遊戯も気に入っているようで、それに付き合うことも多い。
特に最古の竜であるというリナセラはよほど気に入ったのか、ここにやって来る度自分が考案した遊戯を披露したりと――方向性としてはとりあえず、竜は頭を使うことが好きなのだろう。
あまりに絶大な力を持つが故に自然とそうなるのかもしれない。
『――リラよ。お前はどう思う?』
「……、ええと、わたしには難しい問題です。リーガレイブ様」
困ったように言って、続ける。
「とはいえ、力量差がそのまま勝敗とならぬよう、勝負を対等なものにするため運の要素を絡めることは、一つの面白味に繋がるものではあると考えます」
『なるほど。お前はクシェナラースに理があると?』
「無論、どちらにも理があると思うのですが……生死を分ける一度きりのものではなく、繰り返す娯楽。やはり一方が勝ち続けるより、多少思わぬ結果が生じるものである方が双方楽しめるのではないかと……」
話されているのは遊戯について。
数十年前にリナセラが持って来た魔力を使った盤上遊戯のようなものには、兵棋演習の要素が組み込まれ、駒と駒の勝敗に運の要素が絡む。
リーガレイブは竜の中でも相当に賢いようで非常に強いのだが、読み負けはともかく運で負けが生じるのはいまいち納得がいかないらしい。
クシェナラースはリーガレイブの頭の良さを知っているため、ちょっとした博打で優勢をもぎ取りに行くことが多く、普段はリーガレイブ9:クシェナラース1の勝敗も運を絡めた勝負ではリーガレイブ6:クシェナラース4に変わる。
『小さな勝敗がどちらが転んでも良いよう、踏まえた上で構えればよかろうリーガレイブよ。我は汝の思考が優れることを理解した上で、勝てる手段を模索したまで。……それにあの二人がその上で我に勝つことを知っていよう?』
『確かに。見方によっては単に、我の考えが足らぬだけとも言えよう』
困ったようにリラは二頭を見つめ、苦笑する。
崇めるべき偉大なる聖霊――しかし顔を突き合わせて真面目に語るのは遊技論。
まるで子供の口喧嘩のようだと考え、失礼に過ぎると首を振る。
近頃はセレネでさえ呆れた様子でそのようなことを口にするもので、ついついリラもそんなことを考えてしまう。
百に近い魔力の光が互いの頭上に浮かんで近づいた。
また一週間ほどは遊びに興じるのだろう。
「リラ、そろそろ晩ご飯ですよ」
「あ、はい、クリシェ様」
きゃあきゃあと声が響いて、風精が飛び回る。
振り返ると大樹の根っこの上――そこに建てられた不可思議な扉から、エプロンドレスを身につけた銀の髪の美しい少女の姿。
建物はないのに扉だけがあって、その向こうにはまた、異なる場所の風景が。
空間を繋ぐ扉であるらしく、屋敷の側へと繋がっている。
彼女の周囲に風精が集まり飛び回り、風を巻き起こしてスカートを捲り上げようとし、クリシェは嘆息しながら指を振るって突風を起こすと彼女達を遠くへ飛ばす。
楽しげに彼女らは飛んでいき、全く、とクリシェは両手を腰に。
どうにも彼女らは悪戯好き。スカートを捲ろうとすると構ってもらえるのが嬉しいらしい。
リラが少し跳びはねると、風が体を押し出すように彼女の前まで飛ばした。
感謝を告げると楽しげに、彼女らはリラを置いて空へと舞い上がる。
ちょっとした手伝いをしてくれたりと悪い子達ではないのだが、疲れ知らずの子供のように元気で付き合うのは少し大変であった。
「もう。本当悪戯っ子ばかりですね」
「ふふ、クリシェ様に構ってもらえて嬉しいのでしょう」
「……クリシェは嬉しくないのですが」
なんだかんだで構ってくれるクリシェは一番のお気に入りなのだろう。
ベリーやエルヴェナは子供を相手するように軽くあしらうし、セレネはズボンを穿いて無視、クレシェンタは面倒くさそうに三間以内を結界で覆ってしまう。
アーネはクリシェと同じくであるが、彼女ほどあっさりと対処は出来ないため、大抵先に疲れて飽きられることが多かった。
『クリシェ、暇が出来たら我に付き合え』
「……、またその内ですね。クリシェは色々忙しいのです」
リーガレイブの言葉にうんざりした様子で、決まり文句となった答えを返した。
彼女は意外と押しに弱く、頷けばたっぷり一週間ほどはずるずると付き合わされることになる事が常。
最初が肝心と言わんばかりに、そうした誘いに自分から乗ることはなかった。
しかしその言葉に構わず、リーガレイブはリラに告げる。
『リラ、ベリーにもそのように伝えておけ』
「は、はい……」
うぅ、とクリシェが唸った。
長い付き合い――クリシェの性格も弱点もリーガレイブはよく知っている。
このような誘いは顔を合わせる度。
しかし本当にやりたい時はベリーにも声を掛けさせた。
ベリーは自分が声を掛けられれば断らないし、ベリーが来るならばクリシェの参加は決まったもの。
大体これも数年周期、そのような時期かとリラは記憶を眺めた。
二人が来るとなるとクレシェンタも行くと言いだし、セレネも付き合い、当然他の二人も来る。
ちょっとした野外の宴が数日ほど続くのは恒例の行事であった。
この大樹の窪地――その隅にはそれを前提にセレネが、岸壁に大きな穴を掘って、寝泊まりするための頑丈な別荘まで作ってある。
何度か舞い降りる竜の羽ばたきでその別荘が吹き飛ばされたのも懐かしい思い出。
思い出して苦笑しながら、今回は逃げられないようですね、とクリシェに告げる。
クリシェは不満げに唇を尖らせた。
「ベリーが来るって言ったらですからね……?」
クリシェの言葉を笑うように、断続的に魔力が揺れる。
色々と催し事が好きな彼女の答えは決まっていた。
「……全く。リラ、明日もお買い物に行くことになったのですが、どうします?」
「……? 明日もですか?」
頷きながらもどこか楽しげにクリシェは微笑んだ。
今日買い物に行っていたはず――リラはそれに首を傾げつつ、少し考え込んで頷く。
「そういうことでしたら、わたしもちょっと……そろそろ予備の布が欲しいと思っていたのをすっかり忘れておりまして」
言いながら胸や腰の巻布に目を。
あちこちがほつれたり、破けたりしていた。
補修を繰り返し、控え目に言ってもボロボロ。
ただでさえ最低限な布は心許なく、クリシェでさえ呆れたように告げる。
「……リラもそろそろクリシェ達みたいに普通の服にしたらどうですか?」
「いえ。この生活で服まで上質なものになってしまうと、わたしの場合どこまでも堕落してしまいそうですから」
クレィシャラナで生まれ育ったリラに取って、彼女達のお屋敷は誘惑の園。
年々それに溺れ、自制心が失われつつあることを感じつつも、この一線だけはと譲れない。
やはりクレィシャラナの人は露出が好きなのだろうと、クリシェは考えつつも頷き、まぁいいですけれど、と笑って手を引いた。
くすくすとリラも笑い、二頭の竜に頭を下げると引かれるままに扉へ。
そしてクリシェは今日の楽しい出来事を、嬉しそうに語り始める。
「えへへ、実は今日、お買い物の途中でびっくりすることがあったのです」
「びっくりですか?」
「はい、それでベリーとお買い物をしそびれてしまって――」
扉を開きながら、日記に綴られた今日の出来事を愛しげに指でなぞるように。
大陸統一を果たした女王クレシェンタが五十年近く不在のまま、アルベラン『王国』は体制を維持し続けた。
これは王国が絶対的権力者としての王を頂点に置きながらも、議会制国家として非常に強固な構造が骨子に刻まれていたためであろう。
アルベラン女王が即断即決、頭脳冴え渡る改革者であったことは知られている通り。
彼女は大陸統一の以前から様々な改革を断行し、特に教育に重点を置いた。
小学、大学によって貴族ではない平民の教養を高めるとともに、そこから優れた人材を吸い上げ、地方官吏として起用。
反発に対して絶対的な権力を行使することを厭わず、能力主義的な政治改革を行った。
初めは地方の一官吏――しかし不正や汚職を行う貴族達から取り上げた管理領地の運営を任せ始め、次第にそうした人事配置は王宮にまで。
議会の設立を行ってからは彼等の中でも特に秀でた人材を指名して、そこへの参加を促し、国政へと参加させる。
こうして国の最高議会に昇り詰めた平民、議会貴族に対する反発は多少あったものの、以前から平民の官吏から功績を認められて貴族に取り立てられること自体、一切なかった訳ではない。
女王の命令に反論できる者はなく、議会の三分の一を占める彼等に対し不満を覚える声はあれど、表立った問題はそれほど生じなかった。
当時の貴族達に取って、女王クレシェンタは神の如き存在であり、そして彼女の懐刀――アルベリネアの存在が、彼等の反抗の一切を許さなかったためだ。
戦乱の世が終わりを告げた後、アルベリネアは多くの不穏分子を摘発している。
彼女が戦地で引き連れていた黒旗特務がその走狗として王国全土を駆け回ったとされ、部屋の内外問わずまるで一日中側で見られているようだ、と記された当時の日誌が存在していた。
その後は議会も軌道に乗り、安定を見せ始め、女王クレシェンタは政治を彼等に任せ始めるように。
そして徐々に生誕祭などの女王主体となる式典や祭典を減らし始め、代わりに商人や民衆から企画を募り、それに応じた祭日を設けるようになっていく。
病で体を患っているのではないか、と不安に思う民衆達の前には時折、少女のように若々しいその美貌を見せて、健在であることを知らしめ――しかしどうあれ、いずれ自身が王国から消えることを前提としていたのだろう。
彼女の施策を振り返れば、その中心は権力移譲と分散化を目的としたもの。
現人神と讃えられるほどの政治手腕と、崇拝染みた民衆からの敬意。
彼女はそうした絶対的な権力を用いて、その絶対的な権力を手放すための改革を断行したのだ。
彼女と懇意であったクリシュタンド家の使用人、アーネ=ギーテルンスの記した『気高き鷹の館にて』をはじめ、様々な文献に彼女のことが記されている。
狂った忌み子であったとも、権力に狂う独裁者、魔王であったとも多くの文献では記されているが、彼女に近しい人間は皆、優れた人格者として彼女のことを記した。
評価の分かれる人物であるものの、彼女が求めたものが独裁的国家体制であったと考えるものはいないだろう。
そのため、その最期に行われたとされる『天変の大法』と共に彼女の姉――アルベリネアと姿を消したことについて、それが悲劇として語られるよう仲違いによるものか、予定に組み込まれたものかについては今も意見が分かれている。
どうあれ、それだけの手順を踏んでなお、王国民にとって彼女が偉大なる女王であったことは疑いようもない事実であった。
統一歴百年の節目に議会は女王の不在を開示することに決め、そして薄々と理解してはいながらもそれを聞いた民衆達は悲嘆に暮れた。
新たな王を迎えるべきかどうかで意見が分かれて国は二分し、膠着状態に。
密かにアルベリネアの生み出した魔導兵器の掌握を進めていた魔術研究院の長、エルゲインスト=ラミルが軍部中央の一部と協力。
王国中枢を速やかに占領、多くの議員を捕虜としたことで、百二十三年に渡る大陸の安定は崩れることになる。
ジャレィア=ガシェア、バゥムジェ=イラ、ピシューネ他――彼女の創り出した叡智の結晶はもはや、軍そのものよりも強大な力を持っていた。
そして宙空に刻む魔術式――魔法の存在をアルベリネアの魔水晶から探り当てた彼等は、大気に満ちる潤沢な魔力とそれらを用い、瞬く間に周辺の反抗勢力を制圧、傘下に加え、アルベラン王国から新たにクラインメール魔導帝国を築きあげる。
その名が古き言葉で意味するものは月明かりの遺産。
名の通り、彼等は欠け月の姫君が残した叡智を手にした者達であった。
千年に渡る魔法文明はそれをはじまりとし――
「あー、はいはい、もうお腹いっぱい、十分。ミー様のありがたいそのお話はもう三十回は聞きました」
かつてのクラインメール皇都であり、アルベランの王都。
雪景色――人の行き交うアルベナリアの路上で、うんざりとした様子の女が言った。
伸ばした黒髪を後ろで緩く束ね、身につけるのはエプロンドレス。
そして猫のような黒耳と長い尻尾。
獣人の中でも猫人と呼ばれる種族であった。
クラインメールでの人体実験、魔獣と人を掛け合わせようとした研究が起源とされ、身体能力に優れた彼女らは一時期、特に戦闘奴隷として扱われていた。
クラインメール崩壊から数百年経った今でも彼女らのような者に対し差別感情を向けるものはあるが、魔力適性も高く、その操作に優れるため、今も魔法研究が盛んなアルベナリアにおいては比較的それも薄い。
「ミー様とか略して呼ばないの! ミーデリアリーゼ様と呼びなさいってカルシェは何回言ったら分かるの!?」
愛らしい顔を真っ赤にして怒鳴るは上質な黒と金のローブを身につけた金髪の少女。
膨らみの薄い胸の上には、三日月を模る銅のペンダント。
それは世界樹の側――アルベナリア魔導学院の生徒を示す印章だった。
その大声にわざとらしく耳を押さえて、側付きカルシェは嘆息する。
「それを仰るならわたしもカルシェリアなんですが……そんな風に大声を出して、またはしたないってお父様に叱られますよ。わたしの耳もこんなに大声を側で張り上げられると悪くなってしまいそーです」
「……その目障りな耳取ってやろうかしら」
「うわぁ、猫差別。最低ですね」
「どっちが最低なのよ!」
はいはい怒らない、と少女の頭を撫でて、カルシェは笑い。
「あ、ベリー、海魔焼きですよ、海魔焼きっ」
「ふふ、はい。お嬢さま達には内緒ですよ、用事も済ませないで間食だなんて」
雪の上を兎のようにはしゃぐ、優美な銀の髪。
手編みの白い帽子とマフラーをもこもこと巻き付けた外套姿の少女と、同じく黒外套を身につけた赤毛の使用人を見て、彼女らの向かおうとする屋台に目を向ける。
八本足の海魔――見てくれは何とも不気味な生き物であるが、中々に美味。
海魔焼きはそれを生地で包んで丸く焼き上げたものであった。
ミーの実家がある南部ではわりと食べられるものだが、海の遠いこの内陸では珍しい。
「ほらほらミー様、海魔焼きですよ、海魔焼き。博物館の前にどうですか?」
「あのね……もういい。……大体、カルシェが聞いてきたんでしょ? 博物館に行って何が楽しいのかだなんて」
「……実際わたしは退屈ですし」
「……はぁ。学がないって悲しい。カルシェは尻尾と耳に脳を吸われてるんじゃない?」
「すぐそういうことを。わたしはともかく、他の猫が聞いたら怒りますよ」
周囲に猫がいないことを確認しつつ、少女と使用人の後ろに並び、カルシェは言った。
ただでさえ一言二言、失言が多いというのに、怒ると周りが見えないミーは平気で際どいことを口にするため、いつも周りに気を使う。
猫の多い土地で育ち、差別意識などという高尚な価値観など持ち合わせていないご令嬢だが、持ち合わせなさすぎて基本的に遠慮がない。
「すぐわたしを馬鹿にするカルシェが悪いんでしょ。わたしはアルベリネアになるんだから、アルベランの歴史にも精通しておく必要があるの」
その声にちらり、と前にいた少女が振り返る。
大きな紫の瞳――見れば驚くほどに美しい少女であった。
長い銀の睫毛と、くっきりとした二重の瞼。
形の良い鼻と桜色の唇。
パーツのどれもが美を象ってあつらえられたようで、その幼い顔立ちに一部の狂いもなく配置され。
長い銀の髪を薄紅の花飾りで留め、軽く流し――それさえも幻想的であった。
目の前にいるのに、まるで周囲から浮かんでいるような存在感。
隣の使用人もそんな少女に気付いたか。
赤毛を揺らして振り返ると、そちらもまた美しい。
何とも言えぬ大人びた雰囲気がありながら、顔立ちは整い、大きな薄茶の瞳が幼さを。
少女と同じく小柄で華奢に見えて、けれどその体は外套の隙間からエプロンドレスに美しい曲線を描いていた。
不意にカルシェは違和感を覚えて周囲を眺める。
このような往来を歩いていれば明らかに目立つ二人組であった。
カルシェはこの令嬢の護衛として子供の頃から訓練されているし、周囲の注目を集めるような人物があればそうした空気に気付かないはずはない。
けれどこの場にそのような空気は存在せず、彼女らは極普通にこの風景へ溶け込んでいた。
この屋台に向かったのは彼女らの言葉を聞いてから。
けれど今彼女らが振り返って初めて彼女達を認識したような――そういう何とも言えない感覚。
魔術師でも非常に高位な者となれば、その姿を見えなくしてしまうことすら可能であると聞くが、しかし目の前の二人がそのような魔術の類を使っている様子は見えなかった。
「……何?」
僅かな警戒を覚えたカルシェとは異なり、平然と彼女のご主人様はその目を見返し睨み付けた。
彼女は今、絶賛不機嫌タイムである。
銀の髪の少女はじーっとミーを見つめ、それから隣のカルシェを見つめ、おお、と小さく声をあげ、隣の使用人に堂々と耳打ちする。
ミアとカルア、という言葉をカルシェはその優れた聴覚で盗み聞いたが、どういう意味かは分からず首を傾げ。
けれど使用人は理解したように少し驚きを浮かべて、横目にこちらを。
「……あの。何か用かって聞いてるんだけど」
不機嫌そうに再びミーは声を掛け、使用人は申し訳ありません、と頭を下げた。
「知っている方によく似ていらっしゃったもので……それで少し。気分を害されたなら謝ります」
「あー、いや、こちらこそ……今お嬢さまはご機嫌斜めでして」
「……カルシェ、うるさい」
知人に似ている――先ほどのは人名だろうか。
だとすれば筋が通るとは思いつつも、微妙に納得できない違和感のようなものがあった。
本来的には速やかにこの場を離れるのが良い。
カルシェは自分の勘はそれなりに当たると自負しているし、違和感を覚えるような相手と主人を関わらせるのはあまり好ましくないことだった。
少女達が危険人物であるとも思わなかったが、関わりは持たない方がいいだろう、と適当にこの場を離れる言い訳を考え、
「まぁいいけど。あなた、もしかして魔導学院の新入生?」
「……? クリシェですか?」
「そう。こんなところで側付きを連れているんだもの。どこかから出てきたんでしょ?」
しかし彼女のご主人様――ミーは何やら話し始める。
側付き連れということはそれなりの家の出身で、雰囲気はミーより年下。
恐らくはその辺りからの決めつけだろう。ミーは思い込みが激しい。
カルシェは少女を見つめる。
黒い外套の左胸。
垂れたマフラーの下からちらりと、そこには薄暗く灰の単色で『雷と鷹の紋章』が入っていた。
どこか見覚えがあるような気がしたが、少なくともこの辺りに住む名家のそれではないと記憶を探り安堵する。
ひとまずそれほど大きな問題が起きることもなさそうではあった。
「わたしはミーデリアリーゼ=ヴァーナシュテル。学院高等部の生徒なの。名前は?」
「ええと……」
少女は困ったように隣の使用人を見つめ、それに応じるよう赤毛の使用人は初めまして、と頭を下げる。
「申し遅れました。こちらはクリシェ=アルガン様。わたしはベリーと申します、ヴァーナシュテル様」
「ミーデリアリーゼでいいわ、ベリー。こっちの使用人はカルシェリア。よろしくね、クリシェ」
「え、あ……はい……」
困ったような顔をしつつ、少女――クリシェは差し出されたミーの右手を取る。
ミーは笑い、目を細める。
「なるほど……クリシェ。立派な名前を頂いたのね」
「立派……」
「知らなかった? 初代アルベリネアのお名前はクリシェ=クリシュタンドと言うの。きっとアルベリネアのように立派な魔術師になるようにとお付けになったんでしょう」
ますます困ったような顔で少女は隣の使用人を見つめ。
使用人もまた、少し困ったように視線を揺らし――そしてふと、カルシェと目が合う。
カルシェはその困った様子を感じ取り、声を掛けようとするが、
「それにクリシェ=アルガンにベリーだなんて……ふふん、わかったわ。これからあなた達も博物館に行くんでしょ?」
「え?」
「わたし達もこれから博物館に行こうと思ってたところなのよ。アルベリネアゆかりの品々が沢山あるの、良ければ案内してあげようか?」
などと、先輩風を吹かせたいらしいミーは無い胸を堂々と張って告げる。
「み、ミー様、あのね……皆が皆ミー様じゃないんですから……」
「何よ。あなたにはどうでもいいことでも、魔術を学ぶ者にとってアルベリネアはすごく偉大な存在なんだから。この子だって学院に来るくらいだもの、アルベリネアのことはちゃんと知ってるし、あなたとは違うの。ね、クリシェ」
「えと、はい、一応……」
またちらりと、クリシェは赤毛の使用人を見た。
人見知りをするタイプなのかも知れない。
「ここで会ったのも何かの巡り合わせというもの。ふふ、そうね、海魔焼きもご馳走してあげる」
しかし、彼女達のそんな様子をどう受け取ったのか。
カルシェのご主人様はいつもの如くお構いなしに、無い胸を張ってそう言った。
クラインメール崩壊と共に魔法文明は一度終わりを迎えることになる。
それまで世界を支配していた魔術師達への憎悪――その後の百年は魔術師狩りの時代。
叡智の結晶と言うべき多くの魔導技術が貴重な資料と共に焼き払われ、失われ、そして魔術師達の象徴たる世界樹は何度も焼かれようとしたらしい。
しかし世界樹はその度、水を纏わり付かせては火を掻き消し、傷つけられれば揺らぐように再生し、いつしかそれをどうにかしようとしていた人々でさえ、その姿を神聖なものだと受け入れるようになって行く。
そして百年も経てば憎悪も薄れるもの。
世界樹と同じく魔導そのものが悪なのではなく、それを操る人の心にこそ悪が宿るのだ。
かつて古竜のあった山、アルビャーゲルの僧達が世界各地でそう説いて歩き、世界樹と共に魔術師の存在もまた徐々に受け入れられるようになり――それから時間が流れていくと、世界は再び安定を。
そして魔術師達も平和的発展のため、という名目で再び様々な研究を許されるようになる。
魔術師達は魔導学院に入ることで申請なしの独自研究に大きな制限を受け、時折平和教会からの監査に悩まされることになるものの、それなりの自由を得られるようになった。
常人からすれば絶大なる力を持つ魔術師。
厳しい締め付けと弾圧によって彼等が再び反旗を翻すことを恐れた、というのが本当の理由だろう。
魔導学院が魔術師達を管理するための檻であることは多くの者も承知の上であったが、とはいえそれまでの経緯から多くの魔術師に受け入れられ、今に至る。
クラインメール末期の戦争では何百万人もの人が死に、いくつもの街がそこに住む人間もろとも跡形も無く消えた。
魔術師の中でも特に秀でた大魔導――長命な彼等の中に数十年続いたその戦争の生き証人が残っており、魔術師達に呼びかけたことも大きい。
――我等の叡智が向かう先は滅びでは無く、大いなる平和的発展のためにこそある、と。
アルベナリア魔導学院はそうして生み出された一つ――魔導学院でも名門中の名門であった。
魔術師素養のあるものを管理するため各地に建てられた魔導学院などとは大きく異なり、その入り口は狭き門。
才能ある魔術師見習いが幼い頃から可能な限りの努力をして、難しい試験を突破し、ようやく足を踏み入れることを許される場所であり、ここを卒業した魔術師はアルベナリア出身者というだけで一目置かれる存在となる。
当然その後は引く手数多、魔術師の大家ヴァーナシュテル家の娘であるミーデリアリーゼもそこで学ぶ一人であった。
「ふふん、どう?」
また始まった、とカルシェは呆れながらそれを見る。
どうにもそれほど詳しくないらしい二人に、海魔焼きを食べつつ長々と講義を語りながら、ミーは指の上に水の元素を集めた子犬を生みだしてはその場で宙を歩かせる。
子犬は微妙にぷるぷると震えてぎこちないものの、水を一塊に操り、生き物のように操り動かすことは意外にとても難しいものだそうで、高等部における昇格試験の一つ。
教員の導師にその若さでこの力量は素晴らしい、と褒められたのがよほど嬉しかったらしい。
あちこちで自慢げに見せびらかしていた。
猫舌なのか海魔焼きをふうふうと冷まして食べ終わった少女は何かを言いたげに、また少し困った様子で隣を見て、隣の使用人はその視線に苦笑しつつ拍手する。
先輩風モードに入ったミーは気付いていないものの、既にカルシェはこの二人が並の魔術師ではないことに気付いていた。
猫はその尻尾を用いて、魔力を非常に高い精度で感じ取る。
肉体拡張――魔力による仮想筋肉の構築。
彼女たちが今も纏うそれは原始的な魔術の一種で、今も体内魔力の操作に慣れるため、魔術師が幼い頃から基本としてやらされるものであった。
剣を振り回し戦うことが常であった統一歴以前の魔術師達――英雄の時代にはそれを日常的に使う者達ばかりであったそうだが、今ではカルシェのような警護を主目的とする人間や、戦場に出て戦うことを目的とした魔術師くらいしか真面目に修めない。
魔術師に求められるものは基本的に魔法であり、普通の魔術師は魔法に集中するためそれを切り捨てていたし、肉体拡張を行いながら宙空に術式を刻み魔法を操るのは至難の業。
カルシェなども魔法を切り捨てることでそれを修めていたし、技術とはそうしたもの。
何かを手にしようとするには、必ず何かを捨てなければならないものだ。
しかしそういう観点から見て、二人は大分おかしい。
明らかに二人は肉体拡張に慣れていた。
人並み以上に肉体拡張を収め、魔力の感知に秀でたカルシェですら一瞬気付かないほどの静謐さ。
その静謐さは日常的に仮想筋肉を纏っていることの証左で、動作の度に起こるはずの僅かな揺らぎすらが存在しない。
その達人めいた力量の高さは尋常ではなく、考えれば考えるほどに違和感を覚える。
カルシェは既に、二人が単なる新入生と側付きなどではあり得ないと考えていた。
ふと使用人と目が合う。
薄茶の瞳で彼女はカルシェを見つめ、少し考え込んだ様子で立ち上がると、再びミーに目を向ける。
「お上手ですね。ですが、ここに式を足すともう少し安定しますよ」
「へ……?」
浮かぶ子犬に対して指先を向け、青い魔力のラインを。
流麗――魔力の揺らぎは最小限。
水の子犬に魔力の糸が触れると、突如鋭角に軌道し、見るも鮮やかな式を刻む。
震えていた子犬がぴたりと止まり、ミーが目を見開いた。
「蛇口のようなものですね。魔力を安定させるのが難しいなら、魔力を安定させられるよう一定の出力に絞る仕組みを作れば随分と楽になります。これならどれだけ注ぎ込んでも魔力量は安定しますから」
「は、はい……」
「……もちろん少し無駄が出てはしまいますが、まずは安定させることの方が大事。ミーデリアリーゼ様は術式を刻むことに関しては随分お上手ですし、慣れてくれば無駄がなくなって効率化も上手くいくことでしょう」
ミーは驚きを浮かべたまま水の子犬を見つめ、それから頬を赤らめた。
竜に史を説くが如く。
ようやく彼女もそれに気付いたらしい。
「ぁ、あの……もしかして、導師様か何かで……?」
「えぇと……まぁそのようなものでしょうか。不作法をお許しください」
「いえっ、べ、勉強になりましたっ」
苦笑して言って頭を下げるベリーに、慌ててミーが頭を下げる。
他人の術式に介入して書き換える。
容易くやったそれは素人目にも高度な事。
魔力の色を合わせ、魔力同士の反発が起きないようにしながら、既に展開されている術式を邪魔せず、崩さず、新たな式を刻んで組み込む。
展開されている術式の全てを理解し、把握出来ていなければ不可能で――しかし彼女は軽く見ただけで容易くそれを行った。
魔術や魔法の教導を正式に認められた導師の中でも上澄みだろう。
その上、肉体拡張に一切の乱れは無く。
使用人の纏う雰囲気は見た目と異なり落ち着きがある。
彼女が例えばそのような大魔術師であると言われれば、確かにと頷けるものがあった。
魔術師でも高位――魔導や大魔導として位置付けられる者達の中には、不老とも呼べるような人間もいる。
大抵変わり者で、中には名家令嬢の教育係として側付きを任されるような者もあるだろう。
彼女に関してはそういうことなのだ、ということで一応の納得は出来るが――しかし問題は彼女の隣にいる少女。
それを見た彼女はほんの少し、満足したような笑みを浮かべていた。
そこに驚きはなく――彼女もまたミーの問題点に気付き、この使用人と同じことを考えていたのではあるまいか。
そういう想像が浮かんでくる。
この使用人と比べて見た目相応、いやその雰囲気は見た目以上に幼くすら見えた。
何かを言いたげにしていた彼女はしかし、当然のように使用人の行動を眺め、満足げ。
ミーは17という年齢から考えれば非常に優秀であったし、同年代と比べれば頭一つ抜けている。
アルベナリア魔導学院というエリートが集まるこの場所においても成績優秀者――上から数えた方が早い。
それより明らかに幼く見えるこの少女が、それを遥かに上回る能力を持っているというのは異常であった。
「クリシェ、あなたこんな人に毎日教えてもらってるの?」
「教えて……はい。ベリーはクリシェの先生なのです。色々教わってるのです」
クリシェはどこか自慢げに言って、ベリーは苦笑する。
若き天才と高位魔術師の側付き――確かにそう言われればそう見えなくもない。
しっくりと来るものもある。
だが先ほど目が合った使用人の様子と、今の指導。
まるで『そういうことなので納得して欲しい』と告げられたような気がして、それが妙に引っかかる。
とはいえ、そうでなかったら何なのだ、と問われれば答えることは出来ず、引っかかる、という言葉以上のものはカルシェにもなかった。
楽しげにクリシェは立ち上がると、使用人に腕を絡める。
その様子はまさにお子様――ある意味何とも言えない天才っぽさが出ているような気もして、一人カルシェは考え込み。
「羨ましい……中等部で話題になりそうね。専属導師付きだなんて」
ミーはクリシェを眺めつつ嘆息するように言って、カルシェを横目に見た。
「……それに比べて」
「その言い方は何やら心外ですね。わたしの専門は武術や肉体拡張の方ですから、それに関してはいくらでも教えると言ってるじゃないですか」
ぴくり、と耳と尻尾を揺らして言葉を返す。
「……まぁ、わたしは仰るようにとても平凡で学もありませんので、生徒が驚くくらいに不器用で、運動センスが壊滅的な、どうしようもない運動音痴だと限界もありますが」
「ぁ、あの、わたしがそうだって言いたいの……?」
「いえいえ、まさかそんなことは。もしやミー様、何かお心当たりでも?」
「ぐぬ……っ」
まぁまぁ、と困ったようにベリーがなだめようとし。少女はそんな彼女の腕を取りつつカルシェ達をじっと見つめる。
そしてその長い睫毛を揺らし、とても楽しそうに頬を緩めた。
――珍しい、宝石のような紫色。
初めて見るその瞳と微笑みは、不思議とどこか懐かしい感じがした。
アルベランの多くの遺産をクラインメールは受け継いだ。
当然多くはその崩壊時共に焼かれ、随分な数の歴史的文献、資料が失われたのだと聞いている。
とはいえ壊す者がいれば守る者もいるもの。
様々な人の手に渡りながらも残されたものは多くあり、そしてアルベナリア魔導学院は過去のそうした遺産を収拾、保管することにも力を注いだ。
クラインメールの大いなる発展はアルベランにこそ有り。
そこを探ることはこの先の発展に繋がるものと考えたらしい。
魔術師狩りが原因で魔導技術は最盛期から大きく後退している。
車輪を再発明するよりも、車輪を見つけ出す方が早い場合も大いにある。
過去を究明するための資料収拾は研究と並行して行われており、この博物館に展示されているものはその一部――現在研究が行われていないものや、当時の魔術と関わりのない、歴史的資料としての価値しか持たないものが展示されている。
腹の足しにもならないと、カルシェなどは全く興味のないものだが、わざわざ地方から見に来る者もいるらしい。
地方の学者か画家か。
真面目にカリカリと最近流行の鉛筆でノートに書き込みながら、展示物を真剣に眺めている者は多くいた。
興味のないカルシェでも最初の一回目は多少楽しもうとは思えたが、流石にミーに付き合わされて七回目ともなるとうんざり。
展示物よりも隣の二人の動向の方が気になり、もっぱらそちらを眺めていた。
「意外と言うと失礼かもですが……お好きなんですね」
「……?」
中に入ると少女の外套を使用人が預かり、自分のものと重ねて折りたたんで持っていた。
帽子も使用人が受け取って、身につけるのは白マフラーとシャツ、黒のスカート。
華美ではないが上品で、どこまでもお嬢さま然とした姿であった。
カルシェが尋ねると銀の髪を揺らして小首を傾げ、人差し指で唇をなぞる。
色気のある仕草――考えごとをする時の癖か。
使用人も同じくで、この主従は細かい仕草がよく似ていた。
ミーの提案に困った様子であったものの、中に入ってみれば意外に満喫している様子。
ベリーという使用人と腕を組んだまま、何やら楽しげであった。
ミーのうんざりする解説にも興味がない訳ではないようで、随分とこの辺りの歴史にも明るいらしい。
普通は知らなさそうなミーのアルベラン蘊蓄についていける人間はあまりいない。
だがミーの話には使用人のベリーが相づちを打ち。
それを楽しげに聞きつつクリシェは彼女について回っていた。
「好き……えへへ、そうかもですね。楽しいです」
「お若い方でこういう歴史に興味をお持ちになるのはミー様くらいかと」
「ん……、確かにクリシェはお子様なのです」
少し考え込みつつも、何故か自信ありげに彼女は頷く。
そこまでは言ってないのですが、とカルシェは苦笑した。
「お子様だなんて。こういうものを好んで眺めるのは大体お年を召された方が多いので、それで少し意外だと思っただけです。お気になさらず」
魔術保護のなされた硝子の向こう――並べられるのは当時使われていた剣や槍、美術品、女王クレシェンタの手紙などなど、こういうものを楽しむのは魔術師でも老人連中が多い。
若手は何かしらの成果を挙げたいと、どちらかと言えば洗練され数の多いクラインメール時代のものに掛かりきりになることが多いためだ。
純粋な歴史研究などというものは地位を確立した者や単なる学者が半ば趣味でやるもの。
例えばアルベランのものでも『空前絶後の天才、アルベリネアの刻んだ魔水晶』に興味を持つ若者は多くいても、こういう当時の文献資料に興味を持つ若者は多くない。
調べて新たな魔術理論が生まれるのであればともかく、人間は即物的なもの。
莫大な手間のわりに見返りがない研究に取り組もうと思う人間が少ないのは当然のことであった。
控えめに見ても導師級、明らかに見た目通りではないだろう側付きベリーがこうしたことに興味を持つのはまだ理解が出来る。
導師級の実力があればどこに行っても是非に是非にと引く手数多。だというのに側付きなんてものをやってる変わり者なのだから、変わった趣味があってもおかしくはない。
とはいえこの少女がこうした歴史に詳しい事は少々意外ではあった。
教育者の趣味がそのまま影響しているのかも知れない。
そうして奥へと歩いて行けば軍旗が並ぶ場所へ。
その内の一つを見て眉を顰める。
アルベリネアが率いたとされる黒旗特務中隊――三日月髑髏の黒旗と並べられて、雷と鷹の紋章。
意匠はこちらの方が優美で鮮やかだが、描かれる雷と鷹は彼女の身に着けていた外套のそれとよく似ているような気がした。
――見覚えがあるような気がしたのはこれか。
カルシェは頷き、使用人が折りたたんで持つ外套に目を向ける。
当然先ほどの紋章は見えない。
ベリーの外套にその類のものがなかったところを見るに、アルガン家の家紋であるのだろう。
「これがクリシュタンド家の軍旗。こっちは黒旗特務中隊――ご存じの通り、アルベリネアが率いた私兵の旗だそうです」
「随分と古いものなのに……案外綺麗に残っているものなのですね」
解説するごとにベリーが相づちを打ってくれるもので、ミーは随分と楽しげであった。
おぉ、とクリシェも小さく声を挙げ、感心している様子。
ベリーに耳打ちするように、ハゲワシとにゃんにゃん、とクリシェが言ったのが聞こえた。
何がハゲワシとにゃんにゃんなのだろうか、とカルシェは首を傾げるが、ベリーは理解をした様子。
ハゲワシは鷹を勘違いしたものなのか――とはいえにゃんにゃんは何を示すのだろう。
謎は深まるばかりであった。
カルシェが見ているところとは全く別の部分を見ているのかも知れない。
「ええ。商人が趣味でこっそり観賞用にこういうものを保管していたそうです。魔術的な保護も行われていたようですし、これだけ綺麗なものが残っていたのはそれが理由でしょう」
「なるほど……軍旗の刺繍は美しいですし、確かに美術品と言われればそのように楽しめるのかも知れませんね」
使用人が少女の家紋について触れることはなかった。
ミーも気付いていないのか、それとも気付いた上で特に不思議なことでもないと無視しているのか、何も言わず。
この軍旗が使われたのは1300年も前の話。
雷も鷹も武門の家を示すに適当なものに思えるし、別な組み合わせで作られた家紋にも見覚えがある。
案外似たものが出来るのは普通のことであるのかも知れない。
このエリアにはアルベラン末期――特に女王クレシェンタやその腹心アルベリネア、クリシュタンドに関わりが多いものが多く、ここに入ってから二人の歩くペースは落ちていた。
アルベラン――古き英雄の時代。
それを観賞する彼女らの姿は、不思議とそれを懐かしんでいるかのようで、ミーや他の者とは雰囲気が少し異なって見えた。
「どうされました?」
「い、いえ……」
ミーの声に少し慌てたように首を振り、ベリーは僅かに頬を赤らめる。
そこに飾られていたのは一枚の絵画――エプロンドレスを身につけた赤毛の少女と、それに口付けする、煌びやかなドレスを身につけた銀の少女。
そして大きな竜が枠の外から顔を覗かせている。
「これはフィリペーヌの聖霊と乙女達ですね。アルベリネアは愛する使用人を助けるため、古竜に挑み盟約を結んだのだとか……ああ、これはもちろんご存じですね」
「そ、そうですね……綺麗な絵だと」
「竜の盟約者は先ほどの鷹の美姫と並んでアルベリネアを描く題材に使われることが多いのですが、フィリペーヌは特に多くの作品を残しています。実は彼の祖父に黒旗特務の隊員がいたのだとか……これも彼の祖父が晩年に趣味で残した絵を参考に描きあげたものだと言われています」
自慢げに指を立ててミーは言った。
「二人の口付けは当時話題を呼んだそうで、フィリペーヌが画家として羽ばたく切っ掛けとなった作品なのですが……実物は残念ながら燃えてしまったみたいで、ここにあるのは現存している頃に作られた贋作です。それでも貴重で、非常に見事なものだと思いますけれど」
カルシェは絵を眺めつつ隣を見る。
赤毛の髪の使用人。
美しい銀の姫君。
瞳は紫で――もちろん所詮は絵画、顔が似ているという訳ではないが、何やら奇妙な一致であった。
「た、確かに、とても見事な絵ですね……」
絵画に描かれるアルベリネアは衣装に差異あれど大抵、銀の髪と紫の瞳。
どちらも珍しいものだろうが、様々な記録に彼女の特徴的な容姿としてそのように記されているらしい。
その上、カルシェの記憶が正しければ、赤毛の使用人の名は確かベリー。
いつぞやそのようにミーが言っていたような記憶があるし、彼女たちの名前を聞いた時のミーの反応から見てもそれは間違いないのだろう。
だから何だ、というところだが、やはりどこか引っかかるものがあった。
クリシェは絵を眺めつつ、どこか楽しげに薄紅を浮かべた使用人の顔を見ている。
彼女に腕を絡めて放さず、何とも言えない距離の近さ。
仮に二人が目の前で口付けするところを見ても、なるほど、としか思えない。
二人の関係性は、逸話に残る彼女らとも奇妙に一致する。
アルベリネアも義姉のセレネも、女王たるクレシェンタもその血を残すことはなく――彼女らにはありがちな恋愛話などもなく、いつまでも屋敷に使用人達と閉じこもり仲睦まじく過ごしていたようで、『そうした関係』にあったという見方の方が主流であった。
最終的にアルベリネアは女王クレシェンタの仲違いで死んだのだとも、何らかの実験で死んだのだとも伝えられていたが、一説には、彼女らは人を超えて神になったのだとも伝えられており、彼女らと出会ったなどという眉唾な話が世界各地で転がっている。
もしかすると本当にこの不思議な二人は――
「……ないない」
――ミーじゃあるまいし。
らしからぬ妄想だ、と自分に呆れた。
そんな二人がもし今も存在していたとして、あんな街中を普通に歩いてる訳がない。
しかし彼女らの纏う不思議な空気はどうにも、そのような思考へカルシェを導く。
逆に考えると否定材料がそこにしかなく、周囲を見てもやはり、美しい彼女らの姿に注目する者はいない。
それだけではなく、カルシェとミーまでが空気に溶け込んでいるように感じた。
カルシェは自分が美人であると疑っていないし、ミーも子供っぽい性格はともかく見た目は良い。
普通に考えればもう少しこの四人組は視線を集めるはず――だが普段二人で往来を歩いているとき以上に、視線を感じることが少なかった。
認識阻害を行うような魔力の気配は感じない。
そうした空気も、居心地も悪くないため、気にしなければどこまでも気にならないもの。
気にしなければ良いのだ、と思いつつも、三人について歩きながらその後ろ姿を眺めていると、やはり気になり。
何やらもやもやとする気分であった。
仮に尋ねたところで、正しかろうが間違っていようが望む答えは返るまい。
それにそうするとこの空気は壊れてしまうように思えたし、楽しんでいる様子の二人を見るとそうして探ることも不思議と憚られた。
もはや見飽きた博物館――けれどこうして彼女らと歩くこと自体は何やら楽しく思え、少し不思議なままで過ごすのも悪くないともやもやを振り払う。
「――クリシェ、じゃらがしゃじゃなくてジャレィア=ガシェア。アルベリネアの叡智の結晶を変な略称で呼ばないの」
「……じゃらがしゃです」
「も、申し訳ありません。クリシェ様は昔からその呼び方がお気に入りで……」
「お気に入りじゃなくて……うぅ」
何やら不満げにミーを見るクリシェを眺めつつ、展示物を。
両腕には巨大な剣。展示されるのは八尺の鉄機兵――ジャレィア=ガシェア。
クラインメールの模造品――後期のものではなくアルベラン時代に作られたオリジナルであるらしい。
司令塔となる頭部コアは展示されていないが、各関節部のコアが外され、見えるように展示されている。
現在戦闘用の機械人形製造は問答無用の極刑――重く禁じられているが、雑用のための機械人形や義肢に関しては一部例外的に認められていた。
それでも基本的に魔導学院の生徒ですら専攻しないと目にすることのない、オリジナルのジャレィア=ガシェアが展示されるのは珍しいこと。
ミーの目的はこれにあり、彼女の顔からは興奮を隠せない。
「それにしても芸術的な刻印……こんなものをアルベリネアはどうやって量産したのかしら」
素人目にも分かる精緻な術式刻印。
腕のある魔導技師ですら容易く模倣できるものではないだろう。
クラインメールが作った模造品とは、全く別物と言って良いほどの力を持っていたとされる戦場の死神――クラインメールはその数三千機とも言われるオリジナルを独占しており、それが彼等の支配を盤石のものとした。
末期、クラインメールの行き過ぎた支配政策に嫌気が差した魔術師達の一部が連合軍に手を貸してなお、常軌を逸した戦闘力と機動力は圧倒的で――
「決して戦ってはならぬ戦場の支配者。……それだけにその最期はなんだか面白いものです」
「最期……?」
「不思議とこのジャレィア=ガシェアにも変な弱点があったそうで、赤毛の女性に対して剣を振るうことがなかったのだとか」
ジャレィア=ガシェアに殲滅された部隊の、唯一の生き残り――赤い髪の女性兵士。
彼女はまるで、意思のない殺戮人形であるジャレィア=ガシェアから見逃されたように感じたのだと証言した。
連合も戦争末期には多くの女性が兵士として参戦していたが、同様の事例がいくつかあり、それが偶然ではないと気がついたのは一人の参謀。
元は歴史学者であったという彼はアルベラン、そしてアルベリネアについての逸話をいくつか知っていた。
「竜の盟約者という題材は有名ですし、絵画にもなるくらい……赤毛の使用人をアルベリネアが深く愛していたという話は歴史を学ぶものならば多くが知っているものです。そこにジャレィア=ガシェア攻略の糸口があるのではないかと検証を行い、そして赤毛の女性で構成された特殊部隊『赤の女神達』を結成。見事これを鹵獲し、それが切っ掛けとなり連合は劣勢を巻き返したそうです」
うんうんと蘊蓄を垂れ流し満足げに頷くミーの話を聞いて、ベリーはぽかんと口を開く。
そしてまた頬を赤らめつつ、困惑したようにクリシェへと目を向けた。
クリシェの顔はこちらから見えなかったが、ぎゅっと彼女の腕を掴み、どこか照れているように見えた。
「……アルベリネアの評価は様々なものが多いですが、しかしやはり、類い希なる力を持ちながら運命に翻弄された方であったのだと思います。これはその証明……この殺戮人形に秘められた彼女の愛こそが、千年越しにあの戦争を終わらせたと言っても過言ではないでしょう」
「な、なるほど……」
白い肌は赤く染まり、やや声は上擦り。
カルシェはそんな『ベリーという名の赤毛の使用人』を眺めつつ、振り払ったもやもやがまた膨れあがるのを感じて何とも言えない気分になる。
「これが数百年の平和と安定を築いたのもまた事実……やはり道具を生み出し、操るのは人の手。これを見るとやはり、平和な時代を生きているわたしも色々と考えさせられます」
ミーはしみじみと言って、一人頷き。
頬を赤らめていた使用人も静かに頷く。
「そうですね、それは仰るとおりであるとわたしも。……アルベリネアはきっと、ささやかな日常を守るためにこそ、これを作られたのでしょう」
――少なくともわたしは、そのように。
そしてそう続け、少女の銀色を愛おしげに撫でるのをカルシェは眺めた。
博物館から出てくると既に日は少し傾き、冷気が強まり。
おかげさまで楽しめましたと二人はミーとカルシェに感謝を告げ、別れを告げる。
また近いうちにとミーは声を掛け、二人は困ったように苦笑して――他にも連れがいたのか、少し離れたところに数人の女性。
優美な金の髪の少女は眉尻を吊り上げ、どこで何をしていたのかと文句を言い、桃色の髪の少女も同じく。
その背後で二人の使用人が困ったように、楽しげに笑う。
そう言えば彼女達が買い出しがどうだ、と言っていたことを思いだし、彼女らの後ろ――巨大な魔獣が欠伸をしながら荷車を引いているのに気付いて、体を硬直させる。
その荷台の上には大量の荷物が載っていた。
どこをどう見ても目立つ馬車と目立つ女性達。
けれど彼女らは当然のように空気に溶け込みそこにいて、カルシェの隣で同じものを見ているミーでさえ馬車を引いている魔獣――巨大な翠虎に驚きもせず、気付いてさえいない様子。
もはやカルシェはあの少女と使用人が単なる新入生と側付きであるなどとは全く思っていなかったし、遠目に見える彼女達が普通の人間であるとも思わなかった。
少女は赤毛の使用人の手を引いて、あちらにいる使用人の一人の所へ駆け寄ると、何かを小さく耳打ちする。
流石にその声は雑踏に紛れて聞こえなかった。
けれど少し驚いた様子を浮かべて、使用人がこちらを見つめたのがはっきりと分かった。
黒髪を綺麗に肩で切り揃えた、美しい使用人。
更に何事かを伝える少女にその首を振ると、苦笑して。
彼女は一歩前に出ると微笑み、ただ、深々と綺麗な一礼を。
どういう意図か、意味かは分からず――けれどどこか懐かしいものがあり、カルシェもまた不思議な感情を抱いたままに頭を下げた。
ミーも何かに戸惑った様子でそれに倣い、顔を上げると彼女はもう一度微笑んで、少女に声を。
少女も赤毛の使用人と共に軽く一礼すると背を向け、そのまま彼女達と歩いて行く。
その先の角を曲がったところで不意にカルシェは駆け出し――けれどそこに彼女達の後ろ姿など、どこにもありはしなかった。
まるで初めから、誰もいなかったかのように。
「――なんで言わなかったの!」
「なんでって言われても、うーん、まぁ雰囲気かなぁ……」
――その日の夜、魔導学院の大図書館。
高い塔の内側に整然と並ぶ本棚と螺旋の階段。
知識の塔と呼ばれるそこの三階にある席は、比較的魔術と関わりの薄いアルベラン関連の書籍が並ぶ場所で、半ばミーの指定席であった。
暇な時間は大抵ここで彼女は過ごし、カルシェは暇つぶしに古い伝承や物語、劇や小話などが書かれた本を眺める。
最初はミーも自分の興味を埋めるように本を眺めていたが、今日は珍しく、カルシェがアルベラン関連の本を捲り、何かを探すように読んでいることに疑問を覚えたのだろう。
どうしてそんなものを読んでいるのかと尋ねられたカルシェは特に隠さず、今日の二人についてを語り――ミーは大激怒であった。
「雰囲気!? あのね、あなたこれがどれだけ重要なことか――」
「ミーデリアリーゼ! あまり騒ぐようならまたしばらく出入り禁止にしますよ!」
「は、はいっ!」
階下からの司書長の声に身を竦ませ、ミーはカルシェを睨む。
カルシェは笑って、まぁまぁとなだめる。
「ミー様は気付いてない様子だったし、二人も何だか楽しそうだったし……わたしの想像が仮に当たっていたとしても、それは多分あの二人の望むところじゃないでしょ。ミー様は絶対わーわー騒ぐでしょーから」
「ぐ……で、でもっ」
「それともミー様はわたしに教えてもらって、折角楽しんでる二人に根掘り葉掘りあれやこれやを質問攻めした方が良かったって?」
「うぅ……だって……」
「稀なこともあったもんだ、と思い返すくらいで丁度いいんですよ、きっと」
ミーは悔しそうに唸りながら目を泳がせる。
『でもでもだって症候群』であった。
感情論に正論をぶつけられると、でも、と、だって、しか言えなくなる彼女の深刻な病気である。
よほど悔しいのか若干泣きそうになっており、苦笑してミーの頭を撫でて、あれでいいんですよ、と言葉を重ねる。
「貴重な体験、貴重な巡り合わせ。気付かずとはいえミー様の憧れの人とお話出来たんだからいいじゃないですか。まぁ、これも全部わたしの勘違いという線もありますし」
言いながらも、不思議と勘違いとは思っていない自分に気付いている。
単なる勘であったが、カルシェは自分の勘は良く当たることを知っていたし、きっとそうなのだろう、と調べるほど確信を深めた。
雷と鷹の紋章――クリシュタンド家の家紋。
軍旗に描かれているそれとは異なったが、しかしあれは本物なのだろう。
本を紐解いていくと、全く同じものが描かれていたためだ。
歴史書とは少し異なる軍事書籍。
現在の軍構造がクリシュタンド式などと呼ばれていることを思い出して開いてみると、彼女の外套――その左胸に描かれたものと同じものが本の始めに記されていた。
偉大なるクリシュタンド家の功績を讃え、などと書かれており、衣服や所持品など、一般的に用いられるクリシュタンド家の家紋はあのようなものであるらしい。
そしてどうあれ、本に今なお記されるような紋章を使うものなどはいない。
過去の英雄にあやかって同じものを使用したり、与えられたりする貴族はいるし、国が違えば似た家紋を持つものもいるだろう。
だがクラインメールの歴史は長い。
今家紋を持っている家はそのほとんどがそのクラインメール時代に家紋を持ち、与えられたものであるし、書物の中で『今も生きている紋章』を与えられることはまずない。
クリシュタンド家の雷と鷹は書物に記録されるだけの『死んだ紋章』ではないのだから。
「……、カルシェは何を探してるの?」
「んー、何を探してるんでしょうね」
「あのね、馬鹿にしてる?」
「してないしてない、何となく興味が湧いたから色々眺めてるだけですよ」
今捲っているのは『気高き鷹の館にて』という本。
これはクリシュタンド家の使用人が記し、残したものの写本であるらしい。
何とも難解な、飾りの多い文章――今使われているメール語の元になった西部共通語とはいえ、読み解くのがうんざりするものであったが、案外書かれている内容は自叙伝というより日記のそれに近い。
それなりに分厚いものだが、無駄を省けば半分くらいになりそうだった。
己の生まれから尊敬すべきクリシュタンド使用人、ベリー=アルガンとの出会い。
この辺りを見たときにはあの使用人が咄嗟に考えたであろう下手な嘘に呆れ、自分のご主人様にも呆れた。
アルベリネアが愛した使用人の名前について触れられているものはほとんどない。
赤毛であったということは学者の間で有名だが、多くの場合、アルベリネアのおまけである彼女は単に使用人と記される。
とはいえミーが何度も読んだはずのこれには、名も姓も容姿の特徴も半ページに渡り無駄にしっかりと記されていた。
もう少し違和感を覚えても良いだろうに、ミーは疑うこともなく。
恐らくあの使用人は自分の名前がこうして残っているなどということも知らなかったのではなかろうか。
でなければクリシェ=アルガンとベリー、などと隠す気があるとは思えない。
思えばアルベランについてはとても詳しく見えたが、後世での話やクラインメールに関する知識は随分と薄いように感じたように思う。
あれだけ知識があれば知っていて当然だろう、クラインメールの有名な絵画などもまるで初めて見るように。
パラパラとページを捲り、書き記されるは屋敷の住人。
女王クレシェンタ、後の元帥セレネ。
別れ際――翠虎の側に見えた二人の姿と重なった。
あれがそうなら、残る二人の使用人――その内の一人がこれを書き記した者であろうか。
登場人物は多くなかった。
三人の姫君が記されて使用人が二人――そして内戦後に一人。
「……エルヴェナ」
口に出すと不思議としっくりと来て、指先でその文字をなぞり目を細める。
肩口で切り揃えられた黒髪の、美しい使用人。
筆者アーネとは切磋琢磨する間柄であったらしい。
「……もうそこ? 斜め読みしすぎだと思うんだけど」
「いや、どうでも良さそうな所多いし。これ、続きはないんだっけ?」
「ない。火事で燃えたんだって。……こんな重要なもの、写本も作ってないだなんてどうかしてると思うんだけど」
本はもう少しで終わり。
本当はもう一冊あったそうで、けれど今は残されていない。
彼女の生家であるギーテルンス家の父に贈られたものであるらしく、その莫大な蔵書と共に長年保管され、そこに埋もれていたらしい。
屋敷の火事と共に忘れられていたその存在に気付いた当時の当主が、歴史的価値あるものだと学者に売りつけ、そうして残っているのがこの一冊。
ぷりぷりと怒るミーに苦笑しながらページを捲る。
内戦が終わって、内容はしばらくライバルであるエルヴェナについて。
そしてクリシェがあの有名な黒旗特務中隊を設立したことについて語り、その隊員が時折王領の屋敷を尋ねるようになったと語る。
当時としては随分珍しいことであったようで、エルヴェナを含め、貴族平民に関わらず一切の差別をしない主人、アルベリネアの人柄を彼女はただただ褒め称えた。
今日の姿を見るに、確かにそのような人物なのだろう。
純粋で優しいお方、と言われれば、確かに、と頷ける。
エルヴェナには黒旗特務の前身、黒の百人隊に所属する姉がいたらしく、特に顔を出すのは彼女と隊の副官であったと本は語った。
その名前は――
「……、まさかね」
頭の上の耳が強ばり、尻尾がぴんと伸びる。
苦笑いをする頬が引き攣るのを感じて、目頭を揉む。
「どうしたの? もしかして何かあった?」
「いーや、ちょっと慣れない本なんか読んで疲れただけ」
「……分かってると思うけれど、今日は徹夜だからね」
「は? なんで?」
「忘れない内に全部書き記しておくの。お二人の喋ったこと、気付いたこと全部だからね? 歴史に残すべき出来事だもん。その内わたしが偉くなって発言権を手に入れたら発表してやるんだから」
真面目に言っているらしいミーはいつの間にやらインクと万年筆、手帳を用意していた。
カルシェはまた頬を引き攣らせる。
「……あの、ミー様、明日にしない?」
「カルシェは寝たら次の日には忘れてるから信用できない。ご主人様の命令だからね?」
「はぁ……思い出に留めるということが出来ないのかなぁ」
「うるさい。思い出を忘れないように書き留めておくの」
その言葉に嘆息すると、カルシェは再び視線を本に。
『――喧嘩をするほど仲が良いとはこのお二人のことを言うのだろう。クリシェ様はいつも困ったようにお二人を眺め、エルヴェナ様はそれをなだめた。苦笑しながらも、とてもとてもお幸せそうに』
それからほんの少し目を閉じて、少女の紫を思い出す。
博物館で様々なものを見ていた時と同じく、ミーやカルシェに向けるのは、まるで何かを懐かしむような瞳であったように思えた。
あの使用人の少し驚いた様子と、その微笑みを思い出す。
不思議と懐かしいような微笑と仕草。
きっとエルヴェナと言うのだろうと考えて、何故かそれを疑うこともなく。
生まれ変わりなどというものは信じていなかったし、そうであるとも思わない。
けれどそう考えると、全てが偶然と思える今日一日の出会いが少しだけ運命的なものに思えて、カルシェは静かに頬を緩める。
本に描かれる些細で愉快な日常は、紡がれるべき終わりもなく、中途半端で続きへと。
記される事なき日常はきっと、今も変わらず続いていて――今日の些細な思い出を、彼女達も眺めて笑うのだろうか。
想像すると色んな光景が本の続きに描かれて、カルシェは一人苦笑する。
本のページはあと少し。
なのにその先がまるで無限に広がるようで、途方もなく思えて。
けれどここに描かれるように、それが不思議と楽しげな、幸せそうなものにも思えて。
カリカリと手帳に今日のことを書き記し始めていたミーは顔を上げ、早く手伝えと言わんばかりに唇を尖らせる。
それからカルシェの指の置かれる一文に目をやり、呆れたように告げる。
「すごい人よね。その人」
「ん?」
カルシェが首を傾げると、ミーは続けた。
「あのアルベリネアを愛称で呼ぶだなんて信じられないもん」
そんな言葉に苦笑しながら、カルシェはその文字を指でなぞる。
「そう? ふふ……でもまぁ、ミー様と違って、わたしはこの人の気持ち分かる方かな」
思い出すのは、雪の上を兎のようにはしゃぐ少女の姿。
自分がどうしてそれを兎だなんて思ったのだろうか。
そんなことを考えながら微笑んで、口ずさむように響かせる。
「とっても可愛いと思いますし。――うさちゃん、って」
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