第245話 鳥籠の少女

思い詰めた少女の前では、案外何も言えないものだった。

自分を殺すつもりで薬を飲ませて、怯えるように顔を歪めて。

自分でも驚くくらいに怒りや悲しみも感じない。

ただ、びっくりして――ああ、終わるのだ、と思っただけ。


悪いことをさせてしまったと、苦しい思いをさせてしまったと考えて、涙を流す少女をただ、慰める。

少女は彼女の姉と同じくらいに美しい涙をベリーに見せた。

芸術品のようなあの美貌を目一杯歪めて、ベリーの胸に押しつける。

自分にそれほどの価値なんてないと思う。

けれど彼女らのそんな顔は、その涙は、まるで虹色の宝石のようで――ベリーにそれだけの価値があるのだと示すように、そんな自分達を投げ売りにするのだ。


姉妹揃って誰よりずっと賢いのに、どうしようもなく商売下手。

そんな二人からこんなにも美しいものを巻き上げて、まるで詐欺のようだった。

純粋な彼女達を騙す自分は対極で、どこまでも不純で性格が悪い。

世界で一番輝かしい、無垢なる宝石を穢して、曇らせて、欲は尽きることなく。

彼女らの悲しみも、苦しみも――それさえも愛おしいと思えてしまうのだから。


あるいは、それが人間というものなのかも知れない。


意地っ張りな少女の、口づけの感触に微笑んで。

その感覚をなんと言えばいいのかと思う。

殺されるという実感もなくて、死ぬという実感もなかった。

ああ、終わるのだ、と感じただけ。


悪いことをした、だなんて思いながらも、胸の内にあるのは罪悪感などではなく、満たされたような気持ち。

それでも自分はどこまでも貪欲であった。


悲しませた少女がそれを忘れてしまうくらいに愛でてやりたかったし、先ほど別れた少女の帰りを待ちたかった。

自分のいないところで彼女が、一人涙を流すことなどあってはならないのだと思う。

その涙は自分に与えられるべきもので、それを受け止め慰めるべきは他ならぬベリーの役割であるのだから。


どこまでも自分は罪深く、欲深い人間であった。

愛らしい小鳥を鳥籠に閉じ込めて飼うような、そんな独善的な愛情。

どこまでも自由に羽ばたける翼を持つのに、窓の外にある自由さえ忘れて、小さな世界を愛するように飛び回り、羽を休める時には掌にその体を擦りつけて。


終わることはきっと、悪いことではないのだと思う。

十分なくらいに幸せな日々を繰り返した。

満たされる日々が続いていた。

ずっと続けば良いと思うからこそ、きっと終わるべきなのだと思う。


そうでなければ際限なく、終わらせることも出来ず。

――彼女達を、永遠の鳥籠に閉じ込めてしまうだろうから。












体は動かなかった。

死んだのだから当然だと思いながらも、不自然な感覚。

裸体に触れるシーツの感触。


濃密な魔力を感じて、動かし、体の隅々を通して探り、目を開く。

力は入らず、酷く体は動かし辛い。

けれど魔力は以前よりずっと馴染むようで、まるで操り人形のように体の全てを自在に操ることが出来た。


ベッドの赤い天蓋が頭上に見えて、周囲を見渡す。


「……クリシェ様のお部屋」


広い部屋にはソファにテーブル――赤い絨毯。

三人分の衣装箪笥が壁際に並び、下着の入った棚や、小物入れの棚。

配置はほとんど変わっておらず、観葉植物が少し変わっているくらいだろうか。


「どうしてわたしはこんな格好を……」


頬を染めて体を隠すと乳房がひしゃげた。

生まれたままの姿に首を傾げ――違和感に気付く。


「……?」


記憶よりは少し肉付きが良かった。

近頃はほとんどベッドの上。慢性的な貧血で肌は青白くなっていたし、体は少しやつれていた。

自分でも分かるくらいに不健康で、けれど今の体はそうではない。

思えば、体のあちこちにあった酷い痛みもなく、気分の悪さや頭痛もない。


スリッパを履いてベッドから立ち上がると、身を隠したまま姿見の前に。

やはり体は健康的に見え、明らかに以前と異なる。

しばらくそうして姿見を眺めて、妙に恥ずかしくなり箪笥の方へ。


ひとまず服を着ようと棚を開き、中身が入っていたことに安堵する。

ネグリジェを一瞬手に取り――しかし調子が良いと考え直して、もはや慣れたガーターベルトを身につけ、上下の下着と靴下を。

それから衣装箪笥に入ったエプロンドレスを身につけつつ、首を傾げた。


ベリーの服はそれほど多くない。

ハンガーには一着黒藍のドレスがあるだけで、ほとんどが予備のエプロンドレス。

後は滅多に着ないワンピースなどの私服が少しあるだけだった。

大きな衣装ダンスは空いており、そのスペースにはクリシェのエプロンドレスも掛けることになっているのだが、その数が記憶よりも増えている。


箪笥を閉めて隣、クリシェの衣装箪笥を開く。

ドレスの数も変わらずそれほど変化はなかったが、やはり服が少し増え――その隣に目を向けると眉を顰める。

よくよく見ると新たに一つ衣装箪笥が置かれており、中を開けるとクレシェンタのものだろう、見たこともない優美なドレスが増えていた。


眉を顰めて彼女達の下着の棚を。

クリシェのものもクレシェンタのものも、明らかに下着や寝巻きが増えている。


「これは……」


困惑を浮かべつつ離れ、恐る恐るバルコニーの扉を開く。

そこにあるのは森であった。

バルコニーに出て空を見上げると、天を覆うような青き大樹が北に見えた。

煌めく虹色の花弁と、風に踊る魔力。

唖然としてそれを眺めていると、ぐるるぅ、と聞き覚えのある声を聞いてそちらに目を向ける。

大きな翠虎が眠たげに欠伸をしてこちらを見ていた。


「なんだか、大きくなっているような……」


ただでさえ大きなぐるるんは一回りか二回りか、更に大きくなっているように見える。

頭の中には困惑だけが踊っていて、彼女を見つめつつ、にゃー、と一言口にする。

ぐるるぅ、とまた彼女は唸り、こちらに見せつけるよう横になり、長い尻尾をうねらせると自分の脇腹の辺りをその先で示した。

ブラッシングして欲しい、という合図であった。


「あ、後で行きますね……」


分かっているのかいないのか、ぐるるんはぐるるぅ、と唸り、また欠伸を一つ。

そんな彼女を見ながら、どうなっているのかと森と大樹を眺め、下に。

ベリーが世話をしていた小さな果樹園もまたここにあった。


バルコニーから部屋の中に入り、深く呼吸を整える。

ここはいわゆるあの世のようなものではないのだろうか、と考えていたが、しかし見慣れた顔。

それに安堵しつつも謎は深まるばかりであった。


両手の感触を確かめ、自分の頬をつまむ。

痛みはあった。

体はちゃんと熱を帯びていて、不確かさはない。


魔力を使わなければ体が非常に動かしにくい点は少し違和感があったが、しかし苦労すると言うほどでもなかった。

普段から肉体に頼った生活をしていないベリーとしては、むしろ変に力が入らない分、そういうものだと認識してしまえばある種の快適さがある。

元々病弱な体を動かすためのものであったから、それなりに慣れていた。


「半霊質……」


物質のようで、そうではなく、魔力とは狭間を満たす存在なのだという。

この肉体はそれに近しい性質を持ったものであるのかも知れない。

魔力は以前よりも遥かに馴染んでいた。

己のそれに限らず、周囲のそれも同じく――魔力のラインを宙空に刻もうとすれば、抵抗さえなく魔力は自身が掌握できる。


『――人にはちゃんと魂があるのです』


愛しい少女の言葉を思い出して、目を開いた。

ここが死後の世界でないのならばと、部屋を出て、すぐさま階下に。

キッチンの扉を開く。


「っ……」


けれどそこには少女の姿は見えず、肩を落とし。

いつも少女と並んでいた場所へと進み、調味料を眺め、調理器具を眺めた。

以前と変わらぬ配置――思えばここに入るのも随分前のことであったように思う。

調子の良い日に来ることはあったが、最後の方はずっとベッドの上にいたのだ。


調理器具は丁寧に磨かれており、輝きを放っていた。

経年劣化の様子は見られるが、とても丁寧に扱われていたのだろう。

見れば包丁も随分と痩せたように見え、けれどその刃を損ねるようなことにはなっていない。

ベリーの愛用――姉から贈られた包丁だけは以前見たときから使われていない様子。

けれど、埃を被っている訳ではなく、丁寧な手入れがなされていた。


「……なんであなたが平然と歩き回ってるのよ」

「え……?」


振り返ると優美な金の髪。

珍しく下着と白いネグリジェだけを身につけただけの格好で、入り口の横の壁に手を当てるようにして、美しい少女がこちらを睨み付けていた。


「ぁ、申し訳ありません。その、体調が妙に良かったもので……」


彼女は呆れたようにベリーを見つめ、立っているのも難儀な様子で嘆息し、壁に背中を預ける。

すぐさまベリーは駆け寄って、彼女の額に手を当てた。


「お嬢さま、お体の具合が……?」


セレネは眉根を寄せてベリーを睨み、うんざりしたように言った。


「あなた、体動かしにくくないの?」

「え? ああ……多少は。けれどもう要領は大体掴めましたので……」

「……あのお馬鹿二人といいあなたといい、本当なんだか腹が立つわね。なんで事前に多少練習してたわたしが苦労してるのに平然としてるのよ」


忌々しげに言って、続ける。


「……単純に体が動かしにくいだけ。死にかけの老人からこんな体になって、至って体は健康よ」

「老人……?」


ますますベリーは困惑を浮かべて。

対するセレネはふ、と微笑み――ほんの少し顔を歪めた。

それから倒れ込むように、ベリーに抱きつき、その胸に顔をうずめる。


「……あなたにとっては昨日一昨日のことなのかもね。でもわたしにとっては何十年ぶりなの」


ベリーは目を見開いて、抱きついてきた彼女を眺め。

それから周囲を見渡し、先ほど思い浮かべた想像を再び思い出す。


「あなたには文句から恨み言から、沢山聞かせたいことがあるけれど……ひとまずはそうね」


セレネは少し顔を離して、目元を拭い、笑って言った。


「ずっと会いたかったわ。……おかえりなさい、ベリー」


ベリーはその目をしばらく呆けたように見つめて、それから目を閉じ、頷く。


「……はい、お嬢さま」


いつものように微笑みを浮かべて答え、自分よりも背丈のある、彼女の頭を優しく撫でた。

その感触に目を細め、噴き出すようにセレネは笑う。


「言ったでしょう? あれから何十年も経ってるの。わたしはあなたよりずっと年上なのよベリー。子供扱いしないでもらえるかしら?」

「まぁ。ですがわたしもいつぞや申し上げた通り。……例えいくつになってもわたしにとって、お嬢さまはお嬢さまでございますよ」


見た目はお変わりないですし、と頬を撫でて、背伸びをすると額に口づけ。

それを眺めたセレネは僅かに頬を染めて、呆れて目を逸らす。


「相変わらずあなたは屁理屈ばかりね。……本当どうにかならないのかしら」

「ふふ、そんなことを仰るお嬢さまも、何十年も経ったと言いながら相変わらずでございますね」

「馬鹿にしてると今に後悔するわよ。今となってはみんなあなたより年上――」

「――アルガン様!」


声に扉の外を見ると、廊下の先――階段から降りてきたらしいネグリジェ姿、黒髪の使用人が二人。

一人が走り出し、珍しく結ってもいない黒髪を揺らして駆け寄ろうとして、そのまま足を滑らせ盛大に、廊下へと倒れ込む。


「あ、アーネ様……」


慌ててそちらに駆け寄り抱き起こすと、アーネは額を押さえつつ、目尻に涙を浮かべてベリーを見つめた。

それから嬉しそうに微笑みを浮かべる。


「……良かった。こうしてアルガン様がここにおられるということは上手くいったということなのですね」

「上手く……」

「……アーネ。嬉しいのは分かるけれど、こっちじゃ慣れるまで走ったりしないように、って言われてたでしょう」


セレネがため息混じりに言って、申し訳ありません、と恥ずかしそうにアーネが告げる。

ベリーがエルヴェナに目を向けると、彼女はアーネの様子に苦笑しながら目尻を拭い、おかえりなさいませ、とベリーへ深々と頭を下げた。


「ふふん、どういうことか説明して欲しいかしらベリー? この何も分かっていない若輩にどうか教えて下さい、って素直に頭を下げるなら教えてあげてもいいけれど」

「……意地の悪いことを仰りますね、お嬢さま」


言って、苦笑して。

とりあえず事情を聞こうとしたところで、階段から降りてきた新たな影。

黒髪を伸ばし、日に焼けた裸体を真白いシーツで巻き付けて、恐る恐ると降りてきたのはリラ=シャラナ。


「り、リラ様、その格好は……」

「……すみません。その、身につけるものがなく……部屋のものを勝手にお借りしたのですが……」


困ったように言いながらも、特に恥ずかしげな様子もなく。

ベリーを見つめると安堵したように微笑んだ。





リラは裸体にシーツを巻き付けただけでも特に不便はなさそうであったが、流石にこの格好はよろしくないと服を選び。

体格や体形的にはベリーに近い。

部屋に戻るとまだ使っていない下着を渡して、ワンピースを着せて――その過程でリラが事情を軽く話し始めたこともあり、ベリーは話を聞いていく。


事情を人質に取ろうと考えていたらしいセレネは不満げながらも諦めた様子でその補足を。

エルヴェナが更に補足を重ねていく。

それだけで多少、現在の状況についてはベリーも理解が出来た。


元より異なる位相に重なり合って魔力は存在する。

クリシェ達は根源と呼ばれる場所から莫大な魔力を用いて世界を満たし、元々の世界と重ね合わせるように異なる位相に新たな世界を創り出したらしい。


セレネ達は細かいところまでは理解していなかったようだが、個人的に魔術を学び、クリシェやクレシェンタから教えてもらっていたエルヴェナの説明は分かりやすく、疑問となる点はすぐに消える。

ベリー自身魔術については独学で随分と学んでいたし、クリシェから魔力の性質も含めて様々なことを教えてもらっていた。

二人とも学者肌――更に細部へと話は潜り込もうとし、セレネは咳払いをする。


「……そーいう細かい話は後にしなさい。大体事情は分かったの?」

「は、はい……大体のところは。つまり、魂の器として半霊質の体を作った、ということですね。体を動かし辛いのはやはりそれ故……」

「多分ね。わたしとしては若返ったくらいしかあんまり実感がないけれど」


セレネは自分の掌を眺めて言って、違和感を覚えるのか眉を顰める。

アーネも渋面を作り、まだ慣れない体で手を震わせながら紅茶を注ぎ、エルヴェナは少し不安そうにしながらその手伝いを。


そんな彼女らを見ながら、尋ねた。


「……けれど、本当によろしいのですか?」


何が、とは言わず。

けれど理解したようにセレネはベリーを睨んだ。


「それをあなたが言うのかしら? もちろん、あなた以外はたっぷりと時間を掛けて悩んだ上で決めてるわよ。何年経ってると思ってるの?」

「……はい」

「分かっていたけれど、ますます憎たらしいわね。目覚めてすぐにクリシェ様とずっと一緒で幸せです、だなんてお馬鹿はあなたくらいよ、このお馬鹿」

「う……」


セレネは椅子から立ち上がり、むに、とベリーの頬をつまんで引っ張った。


「それはまぁ、ヤゲルナウス様にこの先もお仕えしたいっていうリラ様を含め、個人個人異なる事情はあるけれど……色々考えて、全部覚悟の上で、あの子のお馬鹿に付き合ってあげると決めたからみんなここにいるの。……言っておくけれどその考えはとても失礼な事よ、ベリー」

「……申し訳ありません」


もう、とセレネは座り、アーネの入れた紅茶に口づけ、他の三人は苦笑する。

ベリーは三人に向けて頭を下げ、アーネが慌てたように気にしておりません、と声を掛けた。


「アルガン様のお気遣いはありがたいもの……実際わたしなどは特に深く考えることなくここにおりますので、不安に思われるのも仕方のないことです」

「そのようなことは……」

「とはいえ、深く考えないながらもわたしの居場所はこの屋敷、敬愛するアルガン様の下で共に皆様へお仕えすると決め、この名に誓っております。それは今も変わりません」


アーネは微笑み続ける。


「ですから、ご安心下さい。わたしでさえここが自分の望みに叶うと、そのように思っているのです。他の方達はより真剣にお考えになり決められたこと。……アルガン様が不安に思われることは何もありません」

「……、はい。それでも、考えなしに失礼な事を申し上げました」


求めるものは途方もない永遠の幸福を。

ここはそんな世界であった。


けれど彼女らもまた、それを理解した上でここにいるのだ。

彼女らのその覚悟を問うようなことは失礼としか言いようがない。


それと同時に、とてもありがたいことであった。


「……これからもよろしくお願い致します」

「それでいいのよ、全く」


不満そうにセレネが言い、三人は微笑み。

それを見てベリーは目を閉じる。


――ここはきっと、世界で一番愚かな鳥籠であった。


それを理解した上で、彼女らもまたここにいる。

この小さな世界を愛しいと、心の底からそう思ったからこそ、ここにいるのだ。

これほど嬉しいことはないと思う。

ベリーが夢見る楽園は、ベリーだけのものでは決してない。

そこでの穏やかな日常を、ここにある皆が願い――だからこそ、ここにある。


そしてあの二人の少女達もまた。


「どうしたの?」


不意に視線を向けたのは、屋敷の正面扉に向かう部屋の壁。

なんとなく、帰ってきたのだと考えて微笑む。


「……そろそろ、クリシェ様達がいらっしゃるのではないかと」

「……。なんかそういう魔法か何かがあるの?」

「いえ……単なる勘なのですが」

「あなたね……」


呆れたようにセレネはベリーを睨み、嘆息すると立ち上がる。


「……格好付けて、もし違ったら盛大に馬鹿にしてあげるわ」

「ふふ、はい」


セレネは彼女の笑みを見ながら眉を顰め、ベリーはふと、棚の上へと目を向ける。

そこには小さな袋が一つ。

内側からは不自然なほどに何も感じず、まるで周囲の濃密な魔力もそれを避けていくように。


袋の中身を見ることもなく手に取ると、行きましょうかと扉を開ける。





ベリー達が屋敷の正面扉を開くと、そこには誰もおらず。

セレネはお馬鹿ね、とこちらを睨み付け、ベリーはそれに苦笑する。


空は青く、傘のような大樹からは魔力が輝き、陽光を散りばめた。

眼前に広がる森は、不思議とお伽噺のそれのよう。

鬱蒼とした、というべきであるのに、どこか空気が柔らかい。


そうして眺めていると、ぐるるぅ、と唸り声。

のそのそと欠伸をしながら側に寄ってきた翠虎はベリーに目を向け、彼女が頷くとそのまま彼女達の正面――森の奥へ。

隣にいたセレネはそのやりとりに眉を顰め、後ろにいたアーネ達も同様――怪訝な顔でベリーを見る。


そうして翠虎が行ってしばらくすると、森の中から、


「ほら、駄々を捏ねないんです。ぐるるんも行こう、って言ってますよ」


そんな声が響いてきた。

セレネは頬を引き攣らせて、疑うようにベリーを見る。


「……、あなたって時々異常よね。頭おかしいんじゃないかしら?」

「そうでしょうか?」


くすくすと微笑んで、前に出て。

森から翠虎を伴った少女二人が現れたのはすぐのこと。

赤に煌めく金の髪――クレシェンタは俯きがちに。

銀の髪――クリシェはそんな妹の手を両手で引っ張るように、こちらに背を向けて。


藪の隙間を通って、ネグリジェ姿のまま二人はベリー達の正面へ。

そこでクリシェはぴたり、と立ち止まり、こちらに視線を向けて固まった。

妹もまた、そんな姉の様子に気付いて顔を上げ、ベリーを認めて顔を伏せる。


緩やかな風が吹いて、言葉はなく。

ベリーはただただクリシェを見つめ、クリシェもただただベリーを見つめ。

何かを言いたげにクリシェは唇を動かして、視線を泳がせた。


「ぁ、あの、ベリー……その、クリシェ、ベリーの希望も聞かずに、勝手に……」


クリシェは妹から手を離し、ごめんなさい、と頭を下げた。

ベリーは少し前に出た。

ぴく、とクリシェは肩を強ばらせ、けれど頭を下げたまま。


そんな彼女を見て、くすりと笑い。


「大変なことをしてしまいましたね」

「っ……」


告げるとますます、身を固く。

そんな彼女に近づきながら、ベリーは続ける。


「大失敗です。クリシェ様は一生に一度の機会を棒に振ってしまわれました」

「ぇ……?」

「あれが正真正銘、クリシェ様にとって最初で最後の機会でございましたのに」


彼女の前まで行くと、その掌に、お忘れ物です、と小さな袋を乗せた。

驚いたように少女は顔を上げて、紫の瞳で、じっとベリーを見つめてくる。

それから小さな袋に目を向けて――中から飴玉を一つ取りだした。

時間の止まった宝石を、魔力の光で溶かして、取りだし。

深い蜂蜜色の飴玉を指で挟む。


「……、あの」


それから恐る恐るといった様子で、使用人の唇に押し当て。

使用人はそれを口の中へと受け入れ、微笑む。


「お分かりでしょうか? ……クリシェ様は誰よりしつこいわたしから、逃げ出す最後の機会を棒に振ってしまわれたのですよ」

「ぁ……」


ベリーはその頬を包むように両手を。


「わるいお方。……でも、もう手遅れですね。この先ずっと離しませんし、何をどう仰ろうとクリシェ様はわたしから逃れられません」


――この先永遠に。

そう続けて、大きく見開かれた宝石のような紫を覗き込むように、ベリーは唇を押しつけた。

その感触を味わうように、少し長く。

離しても、その感触が残るほどに。


「……おかえりなさいませ、クリシェ様」


告げると、少女は大きく体を震わせて、美しいその瞳を潤ませて、ぽろぽろと涙を零した。

美しい声を歪ませ、ただいまベリー、と響かせて、その胸に顔を押しつけて。

小さく華奢な体は震えたまま、しゃくり上げるように嗚咽を漏らす。


ベリーはその頭を優しく撫でて、頬を擦りつけ。

彼女の後ろで見ていたセレネ達も苦笑するように顔を見合わせる。

その関係を知らないリラだけが、唖然とした様子で二人を見ていた。


そしてクリシェの背後――大きな翠虎の隣で、落ち着かなさそうに指を弄びながら俯いて、目元を優美な髪で覆い隠し。

そうして所在なさげに立っていた彼女へと、ベリーは目を向ける。


視線に気付いた少女はびくり、と肩を揺らし、そして抱かれた少女も鼻を啜り、袖でごしごしと目元を拭い体を離す。

とてとてと妹の側に寄り、その後ろから腰を持ち上げ、身をよじらせる彼女を無視してベリーの前に。


「クレシェンタ」


クリシェが呼びかけても、戸惑うように彼女は顔を上げず。

ただ両手の指を弄んで髪を揺らす。

ベリーはくすくすと笑い、手を伸ばし、その滑らかな髪に指を滑らせ頬を撫でた。


「あれで二度と顔を合わせることもないと思われたのでしょうが、残念でございましたね。……もう言い逃れは出来ません」


ベリーは言って、ほんの少し小首を傾げて、考え込む。

それから笑って言った。


「……ただいま戻りました、クレシェンタ様」


顔を上げた少女は目元の赤いまま、呆然とベリーを見つめ――それから少しして、その美しい顔をくしゃりと歪めた。

それから姉がしたのと同じように、その胸に顔を押しつけて、


「……おかえりなさい、べりー」


一言返すと、静かに体を震わせる。

その体を両手で包み込み、そしてそれを見つめる少女の姉に目を向ける。

クリシェは嬉しそうに微笑んで、まだ溢れてくる雫を拭いながら、妹の頭を優しく撫でた。


アーネは心底安堵したようにまた涙を滲ませ、涙を指で拭い、エルヴェナが密かに用意していたハンカチを手渡した。

セレネはお馬鹿ね、と苦笑しつつ、そんなアーネの頭をぽんぽんと叩いて、そう言いながらも目元を少し潤ませて。

二人の口付けに驚愕していたリラも、王国ではこのような関係も普通なのかも知れないとようやく納得し、素直に目を潤ませ、微笑を浮かべた。


「ふふ、折角意地っ張りなクレシェンタ様のため秘密にしようと考えておりましたのに、クレシェンタ様の恥ずかしいところは周知のものとなってしまいましたね」

「……っ」


楽しげに言ったベリーの言葉に、クレシェンタは肩を揺らし。


「……この先クレシェンタ様がへそ曲がりなことを仰る度、今日のことを――っ」


そして、言いかけたベリーの唇を唇で塞いだ。

目を見開いたベリーを睨み付けて、唇を押しつけて、それから視線を弱々しく揺らして、また胸に顔を押しつける。

うるさいですわ、と小さな声でそう言って、見ていたものが硬直する。


眉をぴくぴくとさせ、頬を引き攣らせたセレネはそんな使用人に尋ねた。


「……、あの、ベリー、あなた……まさか寝込んで苦しんでいる振りをしながらクレシェンタにまで手を出してたの……?」

「えと……い、いえ、そのようなことは……その、これはですね……」

「あら、何か言い訳があるの? わたし達が心配していた中、案外あなたは一人で色々お楽しみだったのかしら」


とても気になるわ、とセレネはベリーに近づき。

どうしたものかとベリーは目を泳がせ。

その胸に抱きつくクレシェンタは、いい気味ですわと言わんばかりに顔を押しつけ。


クリシェはそんな彼女らの姿を見つめて、屋敷を眺めた。

少女が探し求め、少女の望んだ幸福は、今もこうしてここにあった。


その全てを瞳の中へと閉じ込めるように瞼を閉じて。

この先の永遠を眺めるように、ゆっくりと瞼を開く。


望む全てはここにあり、


「……えへへ」


――そして少女は、ただただ幸せそうに微笑んだ。

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