第244話 英雄譚の終わり

太陽を雲が翳らすように、あの頃の屋敷は陰鬱な気配で満ちていた。

アーネも、エルヴェナも、セレネもそう。

彼女だけがいつものように、楽しげに笑っている。


『――女王陛下はきっと、アルガン様を救ってあげたかったんだと思います』


老婆はベッドの上で上体を起こし、窓の外を眺めて言った。


『政務が終わればずっとアルガン様のお側で。……わたし達に笑顔を見せることも少なくなって、思い詰めるような顔をなさることもあって』


お優しい方なのです、と続けて、微笑んだ。


『無論、わたしなどが女王陛下のお気持ちの全てを理解が出来る、だなんて思っておりませんけれど……女王陛下が深くアルガン様を愛していらっしゃったのは、間違いない事実でございましょう』


老婆――アーネは思い出すように目を細め、閉じた。


『ずっとお側で見て来ましたから。……それはきっと、クリシェ様も、セレネ様も、エルヴェナ様も理解しておられると思いますけれど』

『そうですね。クレシェンタは素直じゃないのです』

『ふふ。アルガン様が元気でいらっしゃった頃――側付きとしてわたしが不手際を見せる度、ろくでなしのアルガン様でもこの程度のことは出来ますわ、だなんて仰ってました。アルガン様ならこうしてた、だなんて』


楽しげに微笑んで、それから寂しげに。

自分の掌を眺める。


『……でも、アルガン様がいなくなってからは、アルガン様のお名前を出すこともなくなって』


そしてクリシェの頬に手を伸ばし、撫でた。


『……女王陛下は、あれから何十年と経った今も、そのことで苦しんでおられるのではないかと思うのです。ですから、クリシェ様にはお話ししておこうと』


クリシェを見るようで、重ねて別の誰かを見るようで。


『もし今もそのことで苦しんでおられるならば……女王陛下をお救いできるのはきっと、この世に二人だけだと思いますから』


アーネは頭を下げて、そう言った。






「アーネから聞いてましたから。もしかしたらクレシェンタが、って」


クレシェンタは目を見開いて固まり、そんな彼女を抱きしめる。


「……ごめんなさい、クレシェンタ」


髪ごと頭を撫でると、絞り出すような声。


「……なんで、おねえさまも、謝りますの」


妹の体は震えていて、声も震えていた。

怖いのだ、と考えて、その体を温めるように。


――故郷の雪の色を思い出した。

見上げた夜空に浮かぶクリシェと、笑うベリーの顔が浮かんで目を細める。


「悪いのはクリシェです。……ベリーに我慢させて、苦しめたのも、全部。クレシェンタにそんなことをさせてしまったのも、全部」


後悔でいっぱいです、とクリシェは言った。


「ベリーはきっと、死ぬつもりで、死ぬことを受け入れようとしていたんだと思います。……リーガレイブさんに会いに行ったときも、クリシェにあちこち見て回って帰ろうって。これは旅行なんだって言って、わがままを聞いて欲しいって」


寿命を迎えようとする、色んな人のところに行った。

不思議と何だか幸せそうで、楽しげで、これまでの思い出を語って笑顔で別れて。

そんな時、ベリーのそんな言葉を思い出す。


「クリシェ、ベリーには沢山わがままを言うのに、ベリーのわがままなんて、全然聞いたこともなくて、その時も……ベリーからのわがままなのに、クリシェがわがままを言って、困らせて」


ベリーも死にたかった訳ではないのだと思う。

でも、受け入れようとはしていたのだろう。

だから最期に思い出を作りたくて、そんなことを言って――けれどクリシェはそんな彼女を屋敷の中へと閉じ込めて。


――もしそれをクリシェが受け入れていたならばどうだったのだろうと思う。

ベリーは満足して幸せに最期を迎えて、クリシェもそれを納得して。

しばらくの間悲しんで、日々を重ねて、いつかクリシェも最期を迎えて。


そこには少し寂しい、けれど当たり前の幸福があって、そしてきっとベリーもそれを思い描いて、苦しむことなく眠ることが出来たのだろうか。

当たり前の人間としての、当たり前の人生と、当たり前の幸福。

当たり前の寂しさと、当たり前の悲しみ。


みんなは大人で、クリシェはずっとお子様で、今もそうだった。


普通の人が普通に味わい受け入れる、悲しいことや辛いことなんてない、そんな幸せな毎日を続けたい、だなんて思ってしまう。

そしてそんなわがままで大事な人を苦しめたのはクリシェであって、クレシェンタではない。


「……悪いのは受け入れられないクリシェです。クリシェのわがままでベリーは苦しんで、クレシェンタはそんなベリーを助けようとしたんですから」

「違いますわ! わたくしは――」

「違いません。ただ、クレシェンタは、誰かに怒って欲しいだけなのです」

「っ……」


自分は悪くないと思いながらも、胸を刺すように。

吐き出したくて、許して欲しくて。

けれどベリーは怒らない。許しもしない。

ただ寄り添って、それでも愛していると囁いて、信じていると囁いて、それごと全部を抱きしめて。


「でもクリシェはクレシェンタを怒ったりしません。……きっとベリーも、クレシェンタを怒ったりなんてしなかったでしょう」


――怒りもしないベリーはきっと、世界で一番怖い人だった。

もしもクリシェが谷底に身を投げようとするなら、クリシェの腕を鎖で縛って、自分の首へと結びつける。

その上で彼女は平然と笑って、信じていますから、なんて囁くのだ。

いくら引っ張って苦しめても、振り返ると笑顔を浮かべて。

愛しげに鎖を撫でて、微笑んで。


彼女はどんな道をクリシェが進んでも、黙ってそれに従って、鎖の音を響かせる。

いつの間にか、自分の首が縛られているようだった。

苦しくてどうしようもないのに、外すことが出来ない鎖が。


彼女は何一つ許さず、受け入れて、歩かせて、後ろからただ見つめる。

進む先で茨が肌を傷つけるなら、引かれるままに血を流し、そんな姿を見せつける。

鎖の音を響かせて、そこにいることをただ伝える。

その上で、クリシェが行きたいところが、自分のあるべき場所なのだと、そう笑って身を任せるのだ。

クリシェが道を踏み外して谷底に落ちようとしても、きっとお構いなしに。


「……ベリーはそういう人だって、よく知ってますから」


けれどそうやって愛を囁かれることが、信じていると言われることが、どれほど誇らしくて、幸せなことだったのか。


夜空には、弧を描く月が浮かんでいた。

それを見る度、鮮明に、あの日の記憶が蘇る。


『――わたしもクリシェ様を愛し、その全てを信じると決めておりますから』


普通じゃないクリシェに全部を預けてくれて、委ねてくれる、そんな人。


『――ふふ、でもわたしはわたしでよく、変わっていると人から言われることがあるのですよ。良い意味、悪い意味を含めて』


色んな人と出会って、別れて――思えばベリーも、大分頭が変なのだと思う。

あんなに賢いのに、クリシェとは考え方が正反対だった。

損得とは無関係なものをあれだけ大事にして、他人に自分の大事なものを全部握らせて。

損だと分かった上で、損しかないことばかりする。


世界中を見渡したって、あんなに変な人はいないだろう。

けれどクリシェはそんな彼女の変わった部分が、どうしようもないくらいに好きだった。

彼女と結ばれた鎖がどうしようもないほど誇らしく、嬉しかった。


だからクリシェは、彼女のいない鎖を引きずって歩くことになど耐えられない。

永遠とは停滞なのだとセレネは言った。

そうなのだろう、とクリシェは思う。

クリシェはみんなが老いて、成長していくのを眺めたまま立ち止まっていた。

鎖の先に彼女が戻ってくるのを待ったまま、動けずに。


クレシェンタもきっと、そうなのだろう。


「クレシェンタが今もベリーが大嫌いだなんて言うのは、大嫌いじゃないとクレシェンタが困るからでしょう?」


告げると、クレシェンタの体が強ばった。

ぎゅう、と力を込めて抱きしめる。


「クリシェ、ベリーがいなくなるなんて考えたくもないです。殺すことなんて想像も出来ません。クリシェはクリシェよりずっと、ベリーの方が大事ですから」


ベリーが痛い思いをするなら、クリシェが痛い思いをしたかった。

ベリーが死ぬくらいなら、クリシェが代わりになってあげたい。

どれだけ苦しい思いをしたって耐えられると思う。

けれどそれくらい大事な相手を、自分の手で殺さなければならないとしたら、一体どんな気分だろうか。


「……だから、受け入れられない気持ちは分かります。でも、どんなに忘れようとしたって、大嫌いだって思い込もうとしたって……クレシェンタがベリーを休ませてあげようとしたのは、ベリーのことを愛していたからでしょう?」

「違……わたくし、は……」

「違いません。……クレシェンタはとっても、優しい子ですから」


ネグリジェの胸元に何かが染みた。

熱を帯びたその感触。

抱いた体は震えていて、ネグリジェの背中を妹の手はぎゅっと握り締める。


色々と、彼女の言葉を考えた。

クリシェに引き留めるようなことを言ったのは、忘れるように言ったのは、誰よりクレシェンタが忘れてしまいたかったから。

自分がベリーを殺したなんて事実を、思い出したくなかったから。


わがままを言って、甘えてきたのもそう。

一人きりを嫌がっているように思えた。

ちょっとした仕事を除けば、何も考えないくらいにべったりとクリシェに体を擦りつけて、離れず。

セレネがいなくなってからはずっとそうだった。


クリシェを独占したい、という言葉通りの感情はあったのかも知れない。

本当は半信半疑――けれど実際に怒らせてみれば、すぐに分かった。


「っ……アルガン様、は、平気だって、仰って……でも、毎晩、何も考えられないくらい、苦しんでて……酷く、なって」


小さな頭にクリシェは頬を押し当てる。

嗚咽と鼻を啜る音が聞こえて、ネグリジェの背中が破れそうなくらい、クレシェンタは両手に力を込めていた。


「我慢しようとして、でも、おねえさまも、研究で、死にそうに……なって……二人とも、いなくなったらって、思ったら……」


思い出して目を細める。

無理解なまま、魂の実在を探ろうとした時のことだろう。

クレシェンタに助けられて――ベリーが死んだのは、あれからすぐのことだった。


いつそうなってもおかしくない状況ではあったし、クリシェは何も考えられなかった。

あの後に解決の目途が立ち、落ち着いてから、コルキスにはそのことについて叱られた事を覚えている。


『――クリシェ様のお気持ちは分かります。結果は最上どころではなく、兵も俺も感謝している。……しかしもう少し、セレネ様のお気持ちもご理解頂きたい。……あの方はあなたやベリー達のために、最大限の努力を重ねておられたのだ』


クリシェが強引に終わらせただけで、後になって考えれば被害を最小限に、時間を稼ぎ決戦を避け、戦略的な勝利を目指した構え。

十分な安全策が取られていた。

クリシェが出なくても、強引に終わらせなくても十分に対処ができる状況であったし、セレネは将として十分にやるべきことをこなしていた。

事前にセレネから方針を聞いていたなら任せていたかも知れない。


あれは今思えば、クリシェを外に出すための誘導だったのだろう。

後でクリシェが謝っても、セレネはもう済んだこと、だなんて言い訳をしなかったから、気付かなかっただけで。


妹の頭を撫でて、目を閉じる。

謝ることだらけだった。

クリシェは何も見ようとしなかった。

セレネのことも、クレシェンタのことも――ベリーでさえ、苦しむところを見たくなくて、クレシェンタに全部押しつけて。


「……でも、そんなことじゃなくて……わたくしが、見て、られませんでしたの。考えたら、怖くて、毎日、苦しむのが分かってて、引き延ばして……なのに、ありがとうって、べりーが、言って」


次から次に後悔が浮かんで、それと同じように、ネグリジェの胸元が濡れた。

――自分がどうしようもなく愚かだと思う。

少なくとも、こんなに妹を苦しめてしまったのはクリシェなのだから。


「ありがとう、って、愛してるって、べりーは、言って……なのに、もっと、もっと、苦しめて……」


クリシェがベリーを殺すことなんて想像できないように、クレシェンタがベリーを殺すことも想像なんて出来なかった。

あんなにべったりと、毎日のように甘えて過ごしてきたのだから。

けれど毎日、あんな風に苦しむベリーを見ていたならば――その気持ちは簡単に理解が出来た。

理解していたからこそ、それから逃げるように妹に全てを押しつけたのだ。


クリシェが一番見たくないものをずっと押しつけられて、我慢して。

クリシェの研究が上手く行っていないことを知る度、クレシェンタはどんな気分であったのだろう。

ベリーにクリシェがそれを伝える度、彼女はいつまでも待つのだと笑った。

その笑顔を見るのが辛くて、どうしようもなくて、もう少し、と繰り返すようになって。


クレシェンタはどんな気持ちで、彼女に伝えていたのだろう。

平気なはずがなかった。

クレシェンタはクリシェのように、研究にさえ逃げられなかったのだから。


「……ごめんなさい」


涙を流す妹の頭をぎゅっと抱いた。

それ以外に言葉がなかった。


「っ……ど、して、おねえさまがあやまりますの。ぜんぶ、わたくし、が――」

「……クレシェンタが辛いのは全部、クリシェのせいですから」


あの意地っ張りな妹が、みっともないくらいに泣いていた。

我慢出来ずに、しゃくり上げるように嗚咽が漏れて響いていた。

どんなに辛いことをさせてしまったのだろう。

殺してしまったベリーを連れ戻せたとき――あと少しだったと知ったとき、どういう気分だったのだろう。


「クリシェはすっごくわがままで、最低です。わがままは言うのに、わがままは聞かなくて……ベリーにすっごく辛い思いをさせて、クレシェンタにも辛い思いをさせて、セレネにも」


大事なものを沢山傷つけたと思う。

今も腕の中で、傷つけた妹が泣いていた。


「……それでも、会いたいです。会って、本当はこんな毎日を送りたかったんだって、伝えたいです。……痛い思いをさせたのも、辛い思いをさせたのも、全部全部、このためだったんだって」


そういう言い訳をしたいのです、と続けた。


「もしかしたらその内、クレシェンタの言うように、付き合いきれない、って言われるのかも知れません」


色んな事を受け入れて、普通の人としての、普通の幸せ。

例えばここで全部を受け入れることが、本当は正しいのかも知れない。

色んな人を傷つけて、苦しめて、そうまでして進んできたのは、間違いであったのかも知れない。


みんな受け入れようとしていた。納得していた。

納得していないのは――受け入れられないのはクリシェだけ。


「……でも、それでも……もう一度会って、言いたいのです」


これは、どうしようもないくらいのわがままなのだと思う。

けれど、ベリーにあんなに苦しい思いをさせたのは、あんな茨の道を進ませて傷つけたのは、その先にこんな場所があったからなのだと、そう言いたかった。

クリシェが夢見る幸せな場所まで連れて行って、これがそうなのだ、とただ伝えたくて――このまま終わりになんて出来なくて。


もしもそれがいけないことならば、それで終わりでも構わない。

口にするのは言い訳ばかりで、みっともなくて、情けないと思って、それでも、クリシェが夢見たものだけは伝えたかった。


「……この平和なお屋敷で、みんな一緒に、ずっと幸せに暮らしましょうって、言いたいのです」


いつからこんな人間になってしまったのだろうと思う。

いつか夢見た理想からはずっと遠い人間だった。

立派ではなく、弱くて、情けなくて、甘えたがりで、わがままで――そんなクリシェを分かった上で、セレネ達は受け入れてくれて、もっともっと依存して。

返さなきゃいけないお返しばかりが貯まって、溺れてしまいそうで。


クレシェンタもきっと、理解していた。

自分が段々と、弱くなっていくような、そんな感覚。

何でも出来るような気がして、出来ないようなことなどないはずで、けれども本来必要ない誰かに、甘えて委ねたくなる感情が日に日に増していく気持ち。


「クレシェンタだって、同じ場所を望んでるはずです」


願うことも、望むことも。

少なくともクレシェンタはクリシェと同じことを考えていて、それだけは確かだった。


「……クレシェンタは会いたいのに、合わせる顔がなくて辛いから泣いてるんでしょう?」


クレシェンタが言葉通り、何も感じていないのならば、ベリーを殺したりしない。

クリシェの望むとおり、気にもせず――言われたままベリーの命を繋げていただろう。

今もこんな風に苦しんでいない。


「そんな風に泣かなくていいです。……辛いことばかり押しつけたのはクリシェですから、もし怒られるとしても悪いのはクリシェであって、クレシェンタじゃないのです」


クレシェンタに対して、ベリーはどんなことを話したのだろうと思う。

きっと少なくとも、怒ったりなんてしていなかったし、悲しんだりもしなかった。

確かなことは一つだけ。


「それに、ベリーはクリシェと違うのです。……ベリーはちゃんと、クレシェンタの気持ちを理解してますし、嫌ったりしてません。今もちゃんとクレシェンタのことを愛してますよ」

「そんな、わけ……」

「あるのです。……クレシェンタの言うとおり、ベリーはとっても変な人ですから」


自分が正しいのか、間違っているのか。

クリシェに取って、クリシェこそが誰より信用できない人間だった。


お馬鹿であるし、頭もおかしい、普通じゃない。

クリシェはそんな人間であるから。


だからこの選択が正しいかどうかなんてことは分からなくて。


――世界中の誰もがクリシェ様を間違ってると仰っても、わたしだけは。


けれど、そう言ってくれた彼女の言葉は絶対であった。

文句も言えないくらいに真っ直ぐで、綺麗で、自信に満ちていた。


そんな彼女の言葉を信じることは、絶対に間違っていないのだと思う。


ベリーはクリシェを愛していたし、同じようにクレシェンタのことも愛している。

ベリーはクレシェンタがしたことに怒ってなんていないし、恨んでもいない、悲しんだりもしていない。


『……なんで、おねえさまも、謝りますの』


辛いことをさせたと謝って、愛していると伝えたのだ。


「……とっても変な人だってクレシェンタも知ってるから、クレシェンタもベリーのことがそんなにも大好きなんでしょう?」

「っ……」


震える体を抱きながらふわふわと、ゆっくり下へ。

天極から迸る魔力の柱を眺め、術式を片手で宙空に刻み、空間の全てを埋め尽くしていくように。


「合わせる顔がないって言うなら、クリシェが無理矢理連れてきた、ってことにします。……ここで正しいか正しくないかだなんてここで迷ってるより建設的で、それが終わらなきゃ前になんて進めません」


クリシェもクレシェンタもお馬鹿なのです、と続けて言って、微笑んだ。


「一人で悩んだって、二人で悩んだって、答えなんて出てきません」


永遠とは停滞なのだとセレネは言った。

そうなのだろう、とクリシェは思う。

けれどそれが不幸なことだなんて、セレネは言わなかった。


「……それならセレネに発想がお馬鹿だとかお子様だとかどうしようもないだとか、そんな文句を言われながら考えごとをした方がずっといいです」


その上で笑って彼女は、好きになさい、とクリシェに向かって言ったのだ。

わがままでお馬鹿でお子様だなんて言いながら、いつものように優しい微笑みで。


「だから会いに行きましょう、クレシェンタ。……クリシェと一緒に」


増殖していく術式は空間を跨ぐようにして世界の各地へと巡る。

天極が生み出す莫大な魔力を糧にして星を包み、大気に刻み、大地の隙間に入り込む。


巨大な天極の外殻が割れて、大樹の幹がうねるように蠢いた。

枝葉が膨れあがるように伸び、その先からは魔力のラインが宙空を。

根源から吸い上げた魔力を養分に常軌を逸した大樹は膨れあがり、大地を溶かすように魔力へと変質させて夥しい根を張った。


世界各地の天極が共鳴し、世界の全てを青き幾何学紋様が覆っていく。

大樹はその枝葉に青き蕾を膨らませ、虹色を花開かせる。


大樹の枝葉は王都すらを覆い、少女はその隙間からその幹の側へ。

抱かれた少女の首から提げられた紐が溶け、青い魔水晶が飛び出すように宙へ浮かぶ。


抱いた少女が手を振ると、眼下――街の中央にある屋敷の一つが色を失い、欠伸をしていた翠虎と共にぼやけて消える。


銀の髪を揺らしながら、少女は妹から手を離した。

桃色の髪をした少女の手の中に魔水晶が飛び込んで、一瞬の間。


「クレシェンタ」


声に少女は静かに頷く。

魔水晶を中心に、宙空に術式が新たに刻まれ、走り、魔水晶は溶けるように消えて――また姉の体に抱きついた。


偉い子です、と言って視線を再び眼下に。

王都の外壁――塔の上に一人の白髭を蓄えた老人が立っているのが見えた。

大樹の傘、その真下にいる少女達の姿など、この距離からははっきりと見えていないだろう。


けれども老人は、胸に手を当て敬礼を送り。

少女は静かに妹を抱いたまま微笑んで、答礼を返した。


「……さようなら」


老人だけにではなく、色んなものに。

眼下の全てから、地平線の彼方までを眺めて、少女は一言そう言って。


空間へと溶けるように薄れ、胸に抱く少女と共に空へと消えていった。

星そのものがその一瞬、輝きを放ち――そしてそれは次第に薄れ。


満開の花を踊らせる大樹と、消えた屋敷が一つ。

彼女らの名残はただ、それだけであった。












「女王陛下はどこに行かれたのだ! それにあれは……」


王宮議会――その大広間には錬成岩造りの席が半円、階段状に並んでいた。

当然の如く、そこにある者達は一様に困惑をその顔に浮かべている。

会議の時間にはまだ早い時間、ほとんどは昨晩から眠れず、明け方にはここにあった。


王都の少し北。王都そのものを覆うような巨大な大樹。

それが天極の外殻を割って現れたことを疑うものはなかった。

天へと伸びた光の柱に代わり、枝葉から周囲へ放射されるように莫大な魔力が放出されているのが見える。

青き幹と青き葉。

虹色に輝くような花弁が王都へと降り注いでいた。


花弁――実際それが花弁かどうかは定かではない。

手に持った花弁はどこか透けるようで、感触も不確か。

濃密な魔力が漂い、魔術研究に詳しい人間はそれが物質ではなく、物質と霊質の狭間にあるものだと考えている。

そして王領では女王クレシェンタが過ごしていた屋敷が翠虎を含めて庭ごと消え、くり抜かれたように大きな穴。

彼等が驚くのも無理はなかった。


民衆の混乱がそれほどないように見えるのは幸いだろう。

彼等は王領の中から女王の住居が消えたことは知らないし、同じような騒ぎは以前にもあった。

天を貫くようなあの塔、天極さえも一晩の内に生えたもの。

それに関しても特にクレシェンタは民衆に対して何かを言うでもなかったし、いつの間にかあの異常も普通の光景となり受け入れられていたのだから。


「静粛になされよ!」


入室すると同時、声を張り上げた老人であった。

未だ衰え知らぬ覇気を有し、眼光は鋭く。

中央筆頭の将軍、アレハ=レーミンであった。

小脇には王国印の刻まれた真紅の箱。

彼等の目はその声に静まり、ただ視線を彼へと向ける。


続くように王国元帥、ノルガン=ヴェルライヒが入室し――彼等がここにあることは特に不思議なことではない。

彼等もまた王国議会の一員であり、議会での投票権を持つ者達であった。


平静を装いながらも動揺していた議長は少しほっとしたような表情になる。

議長ロビニスは名将フェルワース=キースリトンの孫に当たり、祖父とは違い荒事は苦手で悪く言えば気弱な性格。

議会を任され実務においては優秀、人柄良く道理の分かる人物だが、こうした混乱には不慣れであった。

クレシェンタが時折顔を出す議会において、混乱などこれまでありはしなかったからだ。


アレハの持つ小箱に目をやり、尋ねた。


「レーミン公爵、その箱は女王陛下の……?」

「ええ。以前、女王陛下より預かっていたものです。今回のような事が起きた場合に議長が議会にて箱を開け、中のものを開示せよと」


アレハは言って、それを議長ロビニスに手渡す。

何故そのようなものをアレハが持っているか、という疑問は誰も持たなかった。

彼が女王から深い信頼を向けられていたのは誰もが知っているし、武人としての格だけで言うならば現在の元帥、ノルガンを上回る。

元は帝国出身者とはいえ、セレネよりも年上という年齢的なものさえなければ、その武功から元帥の席に座っていてもおかしくはない。


ロビニスは皆に着席を求め、アレハ達も席へ。

壇上の机に真紅の箱を置いたロビニスは彼等を見渡し、箱に巻き付けられ紐を留めていた厚い封蝋を割る。

中に入っていたのは丸められた羊皮紙の束であった。

そして王印。

ロビニスは息を飲み、ひとまずそれには触れず羊皮紙を。

まとめていた紐を解くと、読み出す前に軽く中を検め、更に眉を顰めた。


「……女王陛下の筆跡に間違いない。まずは議長として、指示の通りこの私が読み上げさせて――」


言った時羊皮紙の束の下に魔水晶が入っていたことに気付く。

先にそれを取るようにと文に語られているのを見て、それを手に取ると、


「っ――!?」


途端にそれは輝き、崩れて魔力へ。

青き光は靄を作り、像を成し――ロビニスの前へ。

形作る姿は彼もよく知る女王、クレシェンタであった。


眉根を寄せて不機嫌そうに彼女は視線を左に。


『なんでわたくしがこんなものを……』

『あなた達だけだと不安だから念のため残しておきたいのよ。命令、文句を言わない』


落ち着いた声音。

それが王国元帥――セレネ=クリシュタンドの声だと知らない者も、知る者も、一様に驚きを浮かべる。


『女王のわたくしに向かって……』

『わたしの言うことはちゃんと聞くって言ったでしょう。あのね――』

『あの、セレネもクレシェンタも、もう撮ってるのですが』


女王は一瞬目を見開き、顔を硬直させて正面を。

そしてさっきとは正反対の微笑を浮かべた。


『……、突然大樹が空を覆い、わたくしとおねえさまがいなくなったことで皆様驚きの事と思いますわ』


凜とした声で何事もなかったかのように、昨日会議に顔を出したときと同じように虚像のクレシェンタは言葉を紡ぐ。

皆が唖然として、隣の者の顔を見た。

その中でただ一人――老将軍だけが苦笑する。


十年ほど前に作られたもの。

もしも唐突に二人がいなくなった時のため、国が混乱しないようにとセレネが作らせたメッセージであった。

これを作ったときにはアレハもいたが、黙って眺めていたため声も入っていない。


『ですが安心して下さいまし。これは予定通りのもの。議会が安定し、国政の大部分がわたくしの手を離れたタイミングで事前に計画されていたものですの。これはわたくしから、あなた達に与える一つ試験というべきものかしら』


絶対的な権力者であったクレシェンタは、時間を掛けて少しずつ政治的な判断を議会に任せるようになった。

それはいつか彼女らがこの国から消えることを予定に組んでいたため。

緩やかに議会制国家として体裁を保てるよう、下地を作り――無論、彼女がそうした雑事から解放されたいという理由もあったのだろうが、どうあれ目的はそこにある。


本来はクレシェンタが自らここに立って語るはずであったのだが、セレネは不安に思ったのか、こうしてメッセージを作らせた。

昨日のことを思えば、彼女の不安は正しかったのだろう。


『わたくしと姉上はしばらくの間、様々な研究を兼ね、世界を巡る旅に出ます。戻ってくるまでの予定は大体三十年――それまであなた方には王国の国政をこれまで通り、そのまま担って頂きたいのですわ』


ざわめきが広がり、クレシェンタは笑う。


『これを作っている時点でもあなたたちはそれなりにやれていますし、これを見ている頃には更に議会は安定を見せているでしょう。十分に要求を満たせると感じたからこそ預けるまで』


蠱惑的な微笑を口元に。


『けれどこれが試験であるということはお忘れなきよう。……わたくしを失望させるような真似をなさるならば、早めに戻って、悪い果実は取り除きに行きますわ』


議会は静まりかえる。

何十年と経った今でさえ表立っては語られない、『大粛正』の噂は多くが知る。

天を貫く塔を一夜で建て、街を飲み込まん大樹を生み出す彼女の神の如き力を疑うものもいない。


『お話は以上。民衆にはさもわたくしが政をやっているように見せて下さいまし。同梱の王印は議会で保管し、必要に応じて議長がわたくしの代行を。同封の羊皮紙に今後の決め事や細かいことに関しては色々と記してあります。……語ることはそれくらいですわね』


では皆様、よろしくおねがいします。

そう言って彼女は優美に微笑み頭を下げ、しばらく。


顔を上げると、おねえさま、と声を掛けた。


『さっきのところは消して下さいまし。わたくしが話し始めたところから――』

『クレシェンタ、再生したら消えるように作ってますから、そうなると撮り直しに……あ、もう終わりなら切りますね』

『は、早く切って下さ――』


そんなやりとりを最後に虚像は消えて、場には静寂が。

皆一様に困惑を浮かべ、アレハだけが一人肩を揺らして笑いを堪えていた。


面倒くさそうに撮り直しを嫌がるクリシェと、どうでもいいからと撮り直しを求めるクレシェンタ。

呆れたようなセレネがクリシェからそれを受け取り箱に詰めて、紐でぐるぐると。

魔水晶で作っておいたらしい複製王印を勝手に使って封蝋を。


まるで昨日のことのように思い出して、目を細める。

正真正銘、最後のメッセージはなんとも、彼女達らしかった。


三十年の区切りで戻ってくる訳ではない。

急な混乱や暴走を防ぐ建前であった。

時間さえあればいつしかここにいる者達も、女王のいない王国に慣れていく。

彼女らの時代は緩やかに終わりを迎え――百年も経てばきっと、世界は新たな時代へ変わっていくのだろう。


勝手と言えば勝手で、はた迷惑と言えばはた迷惑。

けれど少女の望まぬ英雄譚は、これでようやく終わりを迎えることが出来るのだろう。

この先はただ、己の望みと幸福を。

そんな彼女達を未来永劫ここに縛りつけることなど、それを求める権利など、この世の誰にもありはしない。


「……お疲れ様です、クリシェ様」


誰にも聞こえない声でそう言って、誰もいない虚空に頭を下げ。


「議長、女王陛下の残された文を」

「え、ええ。……では、読み上げます」


アレハは戸惑う議長に促した。

彼女らのいない新たな世界へと、その舵を切らせるように。

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