第241話 自己鳥瞰
――剣と剣の戦いを想像して、剣を振るったこともない人間が想像するのはまず鋼と鋼を打ち鳴らす剣戟音であろう。
相手の一閃を同じく剣で防ぎ、あるいは弾き。
だがそれは物語の中の誇張であった。
体重が乗せられ、遠心力と共に振るわれる全力の一閃。
その質量とまともに相対することが出来るものなどそうはいない。
剣とはそもそもが武器であり、振るうために作られたもの。受けるよりも振るうが容易く、必然、相手の動に対して静を持って相対することには並ならぬ力量と相手を上回る腕力が求められる。
同等の体格、技術を持つ相手が振るった全力の刃を受けられる道理などどこにもないからだ。
故にどのような剣術でも、避け、あるいは相手の初動を潰すことを主眼とする。
単なる人間であってもそのようなもの。
超人的な膂力、身体能力を持つ魔力保有者ともなれば、相手の一刀を真っ向から受けて防ぐことなど不可能であった。
その全力は容易く鋼の刃すらをへし折り、胴を押し切る。
刃と刃を打ち鳴らせば、互いの刃が破壊される。
彼等の戦いにおいて鋼の音が鳴り響くことは大抵決着を意味するもの、
高みに到るほど、彼等の戦いはむしろ静かになった。
いや、それすら語弊があるだろう。
互いに一撃必殺の刃を繰り出し、風を切り裂き――生じさせるのは嵐。
背筋の凍えるような剣の舞いは、その高みに到るほど、風に悲鳴をあげさせる。
「えへへ、もしゃもしゃはまだまだ元気ですね」
――森の中。
老将が振るうはまさに、剣技の極地というべき刃であった。
幼少のみぎりから修練を怠らず、百年を剣に捧げたものだけが宿す刃の究極。
軽く振るうだけで板金鎧すら斬り裂き、刃は風を圧断、大気すらを細切れに――瞬きの間に数多の剣閃が放たれる。
鋼で出来た剣はもはや姿も見えず、風そのものとなっていた。
流動的で、形も無く、その長ささえ伸縮するように。
天に愛され、才覚に驕らず、長き研鑽を積み。
本来であれば一時代における頂点になり得たであろう。
老将は今なお衰えを知らず――そしてだからこそ、対する少女は歪であった。
動きづらいエプロンドレスをひらひらと。
枝葉を足場に、幹を大地に天地を問わずに跳び回り。
淫らに折れる曲剣を片手に、剣聖と呼ぶべき老将の刃を紙一重に避けながら、その美貌には普段と変わらぬ微笑を一つ。
常人では感じることも出来ない剣閃を、時さえ止める知覚の中で観察し、その速度、姿勢、魔力と慣性の全てを数式のように眺めた。
相手を観察し、躱しながらでさえ、そこにあるのは言葉を口に出来る程度の余裕。
アレハは剣を振るう際、独自の捻りを腰と膝、体に作る。
放たれると同時に捻りを解放し――結果、剣がまるで伸びたかのように、その切っ先は一寸の先を切り裂く。
その剣閃を捉える動体視力を持つ、そんな戦士でさえも欺き切り裂く刃。
歩法と技巧、重心制御によって生み出される芸術的なまやかしは、しかし少女には通用しない。
少女の紫はこの高速剣舞の中、アレハの未来が見えていた。
彼が剣を振りかぶれば、そこからどこまで剣の切っ先が届くのか。
切っ先が走り始めれば、振り下ろされるまでの軌跡の全てが明瞭に――彼が足をどこに置き、腰はどれほど捻られ、頭の位置がどこかまでか。
もはやそれは未来予知と呼ぶべきもので、少女の頭には常に一寸先の世界が描かれている。
「ちゃんと昔教えてたことを守ってくれていて、クリシェも嬉しいです」
アレハは無理に踏み込まず、少女に対してギリギリの距離で刃を振るっていた。
『――クリシェみたいに小さい相手には、もっと間合いのぎりぎりで細かく剣を振る方が良いでしょうね。切っ先を引っかける感じに……ちょっと踏み込みすぎ、勝負を急ぎすぎです』
特にアレハは体格に優れている訳ではなく、そして戦場で出会う猛者は長身巨躯のものが多かった。
故に、踏み込みは深く、その間合いの更に内側に己を差し込む術を覚えた。
いつの間にかそれは癖付いて、そして己の剣速への過信がそれに拍車を掛けた。
間合いを同じく、互いの刃が当たる同条件ならば、己が先に斬り殺せる、と。
彼女の指摘は些細なもの。
ただその時に感じた絶対的な差が、己を見つめ直す機会をアレハに与えた。
そのおかげでかつて考えていたよりも遥か高みに己があるという自負がある。
それだけの研鑽を重ね続け、己に生じる驕りの全てを振り払い続け――されど、アルベリネアは遥か彼方の天上に。
老将の頬に笑みが浮かぶ。
その乾いた肌に浮かんだ雫を散らしながら、しかしその疲労は不思議と心地良く。
五連の刃を躱されて、繰り出されるは曲剣の一閃。
それを躱して身を捻る。彼女が手を出すときは決まって、アレハが本命とした一撃の前であった。
躱せる刃は全てを躱し、躱せぬとなれば先を取っては剣を殺す。
彼女の剣技には一切の遊びが無い。
勝つべくして勝つための剣。
彼女は勝敗を何かに委ねると言うことがなかった。
――戦場でもまた同じく、彼女は常に、勝つべくして勝ってきた。
見上げればいつもそこに燦然と輝くもの。
クリシュタンドという名が、アレハの生涯にもたらしてくれたものは一体どれほどあるのだろう。
そして百を超えてなお、その輝きはアレハを照らし続けている。
「でも、ふふん、クリシェの勝ちです」
僅かな疲労、僅かな乱れ。
それを見極めた少女は踏み込み、その切っ先をアレハの首筋に。
数え切れない敗北を思い出して、ただ笑い、
「……私の負けです、クリシェ様」
アレハはそのまま荒く息づき大の字に、その草むらに倒れ込んだ。
「そんなに汗を掻いてるのに、汚れちゃいますよ?」
「いいんです。……少なくとも、気持ちがいい」
ふぅ、とほんの少し息をついて、クリシェはハンカチを取りだした。
それからスカートを折りたたんで隣にしゃがみ、アレハの顔に浮かんだ汗をぽんぽんと拭う。
アレハはまた笑って、されるがままに。
様子を見てか翠虎が寄ってきて、欠伸をすると座り込む。
「修練を怠らず、真面目なのは良いことです」
そしてハンカチをそのままアレハの胸元に置くと、翠虎の上に腰掛ける。
それから桜色の唇をなぞり、微笑む。
「今日は今までのアレハで一番だったでしょうか」
その言葉を聞いてアレハは目を閉じて、笑みを濃く。
「そうですか。……くく、それは嬉しいお言葉だ」
――老いはあれど、肉体に衰えはない。
勝てるなどとは思っていなかった。
それでも勝つつもりで挑み――今日は、アレハの集大成。
いつも通りの惨敗で、けれどその惨敗が不思議と愉快だった。
月は今なお空の彼方に、されど己の高みに到った実感はある。
そこに到ることが出来たのは、きっと彼女がいたからだろう。
しばらくは余韻に浸るように空を見上げ、火照った体を心地良い風に冷ました。
剣に生きたこれまでを振り返るように。
幼き頃から、己の才覚を知っていた。
いつか己は歴史に名を残す、そんな英雄になるのだと確信を手にして。
『――また私は負けたのか』
『……若さま』
その伸びた鼻をへし折ったのは、王国が英雄ボーガン=クリシュタンド。
幾度挑んでも勝てはしなかった。
言い訳を積み重ねることは出来ただろう。
年齢が違う、階級が違う――己がもう十年、早く生まれていたらなど。
しかし所詮言い訳であったと、他の誰でもない、自分が何より知っていた。
そして彼がいたからこそ、彼から学び、己はより高みに到ることが出来たのだと。
そして先に彼は旅立ち――アレハにとってクリシュタンドは、永遠に勝てない存在となってしまった。
アレハにとって目指すべき英雄。
頂きに見えていた彼の姿が消えて、その目標を見失って途方に暮れて。
『ああ、名前がまだでしたね。クリシェ=アルベリネア=クリシュタンドです。賊の人数について尋ねたいのですが……?』
そんな折りに、彼女と出会い。
果てしなき空の高みに浮かぶ彼女が、アレハに与えてくれたものがどれほど大きかったか――きっと、彼女は知らないだろう。
より高みへと踏み出す足には、何かの目標が必要なのだった。
がむしゃらに進むのではなく、明確な何かが。
静かに笑い、空を見上げる。
空の端では朱色が滲む日暮れ前。
今は見えない星月へと手を伸ばすように、右手を天に。
「……私は天運に恵まれた。日暮れまでを遊び呆けて」
決して届かぬ空の前に、己の小ささを映して眺めた。
「……アレハも、やっぱり来ないのですか?」
「ええ」
答えてそちらを眺めると、少女の美貌は悲しげに。
ただただ目を伏せ、下生えに目をやる。
「そのような顔をなさらないでください。私は既に答えを見ました」
「……答え?」
アレハは頷く。
「人生を費やして、ようやく得られる問いの答えです。……それを見た以上、私にこれより先はありません」
「大体みんな、そういうことを言います。……ハゲワシもにゃんにゃんも、わんわんもぴよぴよも……カルアやミアだって」
少女は続ける。
遊び場から帰っていく子らに、置き去りにされる子供のように。
「クレシェンタは、みんな永遠なんてうんざりするんだって、クリシェのわがままだって言います。……いつかみんな、クリシェに付き合うのも嫌になるんだって」
「確かに、気の遠くなるような話だ。女王陛下の仰るとおりでしょう」
苦笑して、アレハは身を起こす。
ようやく呼吸も整って。
「セレネ様がお亡くなりになれば、すぐに旅立つのかと思っていましたが……今もこうしておられるのは迷っておられるからですか?」
「……、はい」
「良いことだ」
「……え?」
驚いた様子でクリシェはアレハを見つめた。
アレハは髭に包まれた口に微笑を。
「私はクリシェ様のことを敬愛している。ですが私はクリシェ様ではありません。夢も、望みも何もかもが違う人間です。……仮に付いて行っても、いつか必ず別れを伝えることになるでしょう」
そんな未来を一切想像しなかったかと言えば嘘になる。
永遠の時間があるならば、どれほどのことができるのだろう。
どれほどの高みに至れるのだろう。
しかしアレハは手にしたいものは手に入れた。
アレハの天井はもはや手の中にある。
そしてそれを手にした今――手にしたと思った以上、その先などありはしない。
「この世の誰一人として、あなたと同じ存在はいない。あなたの望むことは他の誰でもないあなただけのもので、あなた以外の誰かの望みではない。そしてそれは皆そうだ」
責めるでも馬鹿にするでもなく、肯定する訳でも否定する訳でもなく。
アレハはただ、穏やかな口調で語った。
「私が私の生涯に問いを見いだしたように、答えを見いだしたように、あなたはあなたの生涯に問いを見いだし、答えを見いだす。その大小ではなく、人が己の人生に見いだすべきはそれだけで、それ以上のものではありません」
突き放すようで、寄り添うようで――優しげにクリシェを見つめる。
真白になった髪を揺らし、穏やかに。
「……あなたが願うものは何でしょう? あなたが心の底から望むものは何でしょう? それはあなただけの問いで、あなただけの答え。他の誰かに委ねるものでも、他の誰かに尋ねるものでもないのですよ」
「クリシェの、望むこと……」
クリシェは静かに繰り返し、目を閉じる。
思い浮かぶのはいつだって、屋敷のこと。
幸せな毎日を、繰り返す穏やかな日々。
「……答えは意外に難しいものではないのかも知れません。少なくとも私はそうです。私や他のものも、多くはあなたと異なる道を歩くことになりましたが――」
アレハは立ち上がり、翠虎に腰掛ける少女に微笑んだ。
「あなたと同じ道を歩くことを決めたものもいる。……セレネ様も、使用人達も、ただ惰性であなたに決断を委ねた訳ではないでしょう。相応に悩み、迷い、そして結果がどうであれ――それはあなたが悩んで出すべき答えに添えるものだと、信じたからこそあなたに委ねた」
「ぁ……」
手を伸ばし、下を向く少女の頭を優しく撫でて、目を閉じる。
「クリシェ様はもう少し、ご自分のことを信じてみるといい」
どのように言われようと、彼女は優しい少女であった。
子供のようで――いや、実際に子供なのだろう。
繊細で不器用で、力を抜くことを知らない。
悪いことではなかった。
無鉄砲に走り続けても、いずれ自然と、老いた体がそれを身につけさせる。
けれど老いれば自然と身につけるゆとりは、彼女には今も訪れず。
少し休んでみれば色んなものが見えるだろうに、彼女は出会った頃のまま。
「私の決断が私だけのものであるように、あなたの決断はあなただけのもの。……どのように優れた人間であれ、結局自由に出来るのは己の心と決断だけです」
彼女はきっと、この先も悩み続けるのだろう。
彼女が幸福を求め続ける限り、子供のように。
「周りの誰が、ではなく、ご自分が本当に求めているのは何か。今一度あなたはそれを見つめ直すべきでしょう」
だからこそ皆、この少女を心の底から愛することが出来たのだとアレハは思う。
冷酷で、残酷なこの少女にある、矛盾めいた美しさに。
「……あなたの周りの人間は皆、そうして自分の答えを見つけ出したのですから」
クリシェは静かに頷いて、じっとアレハを見つめて恥ずかしそうに微笑む。
「……クリシェは本当、迷ってばっかりです。でも、もしゃもしゃの言うとおりですね」
それから目を閉じ、ふと空を見上げた。
「クリシェはそこそこ賢いつもりでとってもお馬鹿なのです。いっつも不安で、良いことかも悪いことかも分からなくて……」
青と赤が混ざり合う日暮れの紫、彼女のそれは鏡のようで。
まるで一日の終わる黄昏色を、その瞳に閉じ込めたかのようだった。
「……でも、そんなクリシェを信じてくれる、って、いつもそう言ってくれるんです」
幸せそうに目を閉じて、少女は降り立ちアレハに笑う。
「クレシェンタともう一回、お話ししてみます」
「ええ」
「えへへ、正直もしゃもしゃのこと、最初はどうでも良くて帰り道のついでに拾っただけだったのですが……」
あの時出会えて良かったです、と幸せそうに少女は言う。
アレハは苦笑し、そうですか、と頷いた。
どうでも良いという感情をあの時の彼女は全く隠せていなかったが、まるで長年の秘密のように語る姿は昔のまま。
「けれどそれはお互いに。……私もあなたと出会えて良かった」
王国に来て、目標が出来、戦友が出来――そしてテックレアと出会い、家庭さえ築き。
これほど実りある人生を送ることが出来たのは、彼女に出会えたからに他ならない。
「……私は寄るところがありますので、このまま」
「はい。クリシェも帰ります。じゃあ――」
言いかけて、少女は少し考え込み。
それから静かに微笑んで、口にする。
「……さようなら、アレハ」
アレハは頷き、左胸に拳を。彼女の言葉には敬礼を返した。
もはや言葉は不要であった。
少女は答礼を返し――そして翠虎に乗り、振り返ることなく去っていく。
それで良かった。
アレハはその背中が消えるまで見守り、一人微笑を浮かべて、後を追うこともなく。
そうして、彼女とは別の道を歩きはじめた。
藍と茜の混じり合う空に、己の生涯に彩りをもたらした鷹の姿を思い浮かべながら。
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