第242話 罪の檻
「思うにやはり、わたしは世界一の幸せ者ですね」
いつものように彼女は言った。
ベッドの上でクレシェンタを抱きながら、落ち着いた声音で。
「クリシェ様のみならず……歴史に深く名を刻まれる、偉大なるアルベラン女王陛下にこんなにも愛されて」
くすくすと、耳をくすぐる笑い声。
何か言おうと口を開きかけて、すぐにやめる。
胸の内側が緊張と痙攣を繰り返して、息苦しく、そんな間抜けな声をこの使用人に聞かせたくなかった。
口を引き結んで、顔を胸に押しつける。
瞼の上から、唇の上から、全部を塞いでしまうように。
使用人は抱く手に力を込めて、頭を撫でる。
「あら、否定なさらないのですね。……ちなみに、黙秘も図星と考えますのでそのおつもりで」
からかうような声は優しげで、不愉快だった。
顔を上げられないことを、知った上で口にしていた。
「でもご安心下さいませ。このようなクレシェンタ様の恥ずかしい秘密は門外不出、クレシェンタ様の使用人として胸の内に留めておきましょう。言われずとも主人の希望を叶えることが良き使用人というものです」
不愉快な使用人は下らない言葉を重ねて頭を撫でた。
いつもいつも、都合の良いときは姉の使用人、屋敷の使用人、クリシュタンドの使用人。
――そして、クレシェンタの使用人。
真面目に見せかけ適当で、口だけはよく回る女だった。
使用人などとは建前――社会秩序や階級構造など鼻で笑うような個人主義者。
クレシェンタが考える『理想の王国』からすれば最も目障りな女。
感情論で全てを語り、もっともらしい屁理屈を重ねて、小賢しい妄言でそそのかし、自分にとって都合の良い環境を作ろうとする害虫であった。
船頭は二人も要らない。
そしてクレシェンタこそが女王であって、この女はいわば政敵。
もっと早くに殺しておけばどれほど良かったのだろうと思う。
そうであればこんな風に、上から偉そうな言葉を掛けられることもなかったはずだった。
どうしてこうなったのだろう、と考える。
いつの間にか、この女の屁理屈に騙されてしまっていたのかも知れない。
「……ふふ、何か言おうとしても色々考えてしまって駄目ですね。思い出語りもこれからのことも、案外何も言えないものです」
困ったように笑って、頭をなで続ける。
クレシェンタよりも肌は冷たく、ぬるま湯に浸かったような心地だった。
のぼせる訳でも、冷える訳でもなく。
力が抜けて、何も考えたくなるような、そんなぬるま湯に。
「ただ、お恨みもしていませんし、怒っても、悲しんでもいません。人生の結末として、これはこれで良いものでしょう」
彼女は言って、クレシェンタの頭に頬を擦りつけた。
「痛かったのも、苦しかったのも事実。盛大に喚いてやりたいくらいでございましたから……そういう意味ではやっぱり、感謝しておりますよ」
「っ……」
掴んだ彼女の背中――そのネグリジェを握り締めた。
「嘘、ばっかり。……言葉で飾ったところで、あなたは死にますの。わたくしに……殺されますの。なんでそんなあなたに、わたくしが慰められなければなりませんの?」
「……、本当クレシェンタ様はクリシェ様とそっくりですね」
綺麗な方、と再び笑った。
楽しそうに、嬉しそうに、愛しげに。
「法で裁かれずとも、悪いことをしたから罰が欲しいと、そう考えるお気持ちこそが罰なのですよ。……クレシェンタ様は口ではなんと仰っても、ちゃんと善悪を心得ておられますから、それ以上は過分なのです」
いつものように頭を撫でて、髪を梳く。
とく、とく、と彼女の鼓動が響いて、ただただ小さく鼻を啜る。
「その上わたしは法の番人ではございませんし、クレシェンタ様をこよなく愛する一使用人でございますから、こうやって慰めるのも当然のこと。そして泣く子が慰められるのもまた当然のことです」
「……泣いて、ませんわ」
「あら、そうでございましたね。胸の内に留めるお約束でした」
くすくすと笑って、なで続ける。
抱きしめる腕からは段々と力が抜けてきていた。
薬が効いてきたのだと理解して、背筋が凍るように強ばった。
「……クリシェ様の事、よろしくお願いしますね。きっと、随分と悲しまれることでしょうから」
少し寂しそうに笑って、ぼんやりと続ける。
「悲しませるようなことはしないと、お約束していたのですけれど」
咄嗟に顔を上げて、魔力を彼女の内に走らせる。
滲んだ視界で、彼女が微笑んでいるのが見えた。
彼女の掌が頬に触れ、目の下を親指で拭っていく。
「うふふ、クリシェ様と一緒で、やっぱりクレシェンタ様には……泣き顔なんて似合いませんね」
「っ……」
「他の方には、ひみつにしておきませんと。……わたしの愛する、りっぱで、せかいいちの女王陛下でございますから」
言葉が喉の奥でつかえて出てこなかった。
眠たげに揺れる声と、震える瞼を眺めて、彼女の頬を掴む。
鼻先を擦れ合わせて顔を寄せ、唇の感触はただ、柔らかかった。
彼女はほんの少し、震える瞼を大きく開き、薄茶の瞳でクレシェンタを。
それからゆっくり瞼を狭め、しってますよ、と声もなく口ずさむ。
いつものように、からかうように微笑んで。
言った後には目を閉じて、彼女はそのまま意識を手放す。
「ぁ……」
すぐさま魔力を編み込んだ。
時間を止めようと考えて、慌てて魔力を糸へと変える。
もしかしたらと考えて、上手く行けばと考えて。
ただただ、何かが怖かった。
呼吸が乱れて、胸の内で何かが這い回るようで。
それから逃げるようにただただ術式を編み続ける。
魔力は糸のようにほつれて分かれ、檻を作った。
彼女の体を包み込むように、彼女の血肉、骨や神経に到るまでを閉じ込める。
時間を止めるのだと、ただそれだけを考えた。
時間さえあれば、なんとでも出来る。
十年の先でも、二十年の先でも、百年の先であっても、いつかは出来る。
足りないのは時間と余裕だけ。
欲しいのはただそれだけ。
彼女の端から端まで、彼女の全てに刻み込むよう、繰り返す。
完璧の上に完璧を重ねて、幾重にも。
自分に不可能なことなど何もないのだと、自分に過ちなどはないのだと、それを証明するように。
――けれどどうであれ、結果は全てであった。
彼女のネグリジェに血が滲む。
滲んだ血すら、一瞬のうちに魔力へと変わって霧散する。
体のあちこちがまるで風に吹かれた砂山のように崩れていく。
魔力を注ぎ込んで、幾重にも閉じた檻の中。
その内側で、彼女の体は青い光へと変わり――身につけていた衣服だけがその場に残った。
声も出せず、呆然と手を伸ばす。
彼女が身につけていたネグリジェを掴み。
眺めて。
胸に抱いて。
――どれほどそうしていたのだろう。
「女王陛下! 何が……」
気がつくと、入り口の方から声を掛けられた。
声はどこか、遠くから響くようだった。
「アルガン様、は……?」
腕の中には薄っぺらい感触。
呆けたまま、ネグリジェを眺める。
クレシェンタが殺した、使用人のものだった。
胸にナイフを突き刺した、ノーラの姿を思い浮かべて。
赤毛の使用人の姿を思い浮かべて、唇をなぞり、目を閉じる。
背後でへたりこむような音が聞こえて、呼吸を整えた。
「……アルガン様はお亡くなりになりましたわ。突然のことでしたの」
それからいつものように平然と、クレシェンタは嘘を重ねる。
自分はいつだって過ちなど犯さない、完璧な存在だった。
嘘であっても、口にしたことは真実に変わる。
「おねえさま達が悲しまれますわね。……とりあえずは葬儀の準備かしら」
少しの間だけ、ネグリジェを顔に押し当てた。
何かを拭うように、両目の下に。
――クレシェンタにとって、他人は道具のようなものだった。
これまでそうであったように、これからも同じく。
顔を上げて、ベッドから降り、姿見を眺める。
いつもの自分がそこにいて、平然と鏡の向こうからクレシェンタを見つめていた。
それで良い、と考える。
「残念でしたわ」
使えた道具が駄目になってしまったから、クレシェンタの手を煩わせるようになったから、どうしようもなかったから、最期の始末を付けただけ。
何も考える必要なんてないのだと、そう考えて、ネグリジェをベッドの上に。
へたり込み、顔を覆う使用人を横目に、扉へと手を掛ける。
「エルヴェナ様を呼んできますわ。少しお休みなさって」
纏わり付く何かから目を背けるように、やるべきことへと目を向けて。
部屋の外へと足を踏み出す。
終わったことで済んだこと。
どうしようもないのだから仕方がない。
そうやって、意識を逸らして、目を背ける。
――そうすればいつかは、思い出すこともなくなるのだと考えて。
合わせ鏡で出来た檻のようだった。
小さな魔水晶の内側は幾重にも重なる、精緻な紋様が刻まれている。
見た目には片手で収まるサイズであったが、空間をねじ曲げた多次元結晶。
視覚の上ではあらゆる角度から、無限に等しい輝きがその内側に展開されているように見えた。
見る度に内側の輝きを変えて、ほんの少し角度を変えれば様々な顔を覗かせる。
そこに灯る輝きは五つ。
見る度にあちこちから、様々な角度から少女の瞳に映り込む。
何かを探すように角度を変えて、一つの輝きに目を向ける。
いつかそれが消えてしまえばいいと考えて、見えなくなってしまえばいいと考えて――けれどいつ見ても、その光は瞳の中に飛び込んだ。
白いワンピースドレスを身につけたまま、ベッドの上に転がり、長い髪を散らばらせる。
横になって眺め、掲げるように眺め、時折手の中にその輝きを閉じ込める。
そうすればその輝きもいつかは消えるのではないかとそう考えて、けれど再び目にすると、やはり変わらずそこにあった。
目障りなほど輝いて、疎ましい光だった。
再び目の前に近づけて、見つめる。
その輝きが消える角度はないものかと、様々な角度から眺めて、ぼんやりと。
――大嫌い。
いつものように唇が動いて、虚空に響いた。
反応が返ってくることもなく、まして輝きが曇ることもなかった。
いくら繰り返しても彼女の輝きはそこにあって、少女の瞳に存在を示した。
様々な角度から眺めても変わることがなく、目を閉じていても瞼の裏から離れない。
偉そうで、傲慢で、態度も悪い。
褒めるところは食事くらい。
どこまでも不愉快な使用人の、小馬鹿にしたような微笑を浮かべて、言の葉の一つ一つが頭の中に響いて、繰り返された。
その感触を思い出して、唇をなぞる。
胸の内側でドロドロと何かが渦巻いて、その気持ちの悪さに目を閉じる。
その顔を思い出すと、苦痛に歪む顔が浮かんで重なる。
毎晩のように苦しんで、涙を滲ませて。
虚ろになった彼女の瞳が、頭の中に焼き付いて離れなかった。
苦痛と死に怯えるように、助けを求める姿が、毎日のように記憶の中に刻まれて。
『……仮に持つとしても、あなたは何年待つつもりなのかしら?』
『もちろん、クリシェ様が望む限りに何十年でも』
そんな姿を晒しておいて堂々と、彼女はクレシェンタに告げるのだ。
自分はそれでも幸せなのだと、まるで何事もなかったように。
彼女はただただ感謝を伝える。
ありがとう、と繰り返す。
おかげで今日も幸せな日が続くのだと、苦痛に塗れた日々を示して。
昨日も一昨日も、今日も明日も明後日も、その次も。
クレシェンタは引き延ばしているだけだった。
あの使用人が取り繕えもしないような、終わりも見えない苦しみを繰り返させているだけ。
そんな言葉を受け取る度に、何に対する感謝であるのかと考えて。
だから、終わらせてやろうと――終わりにしようと考えて。
「……わたくしは、何も悪くありませんわ」
言葉は空虚に響いた。
瞼を開くと、先ほどと変わらず輝く光がそこにあった。
二度と目に映らないようにしてしまいたいほど疎ましく、目障りで、けれど角度を変えると様々な色を見せてくる。
いっそ醜ければ、どれほど良かっただろうと思う。
目にも入れたくないほどに醜ければ、二度と目にしなくても済むのだから。
どうして姉は、こんなものを拾ってきたのだろう。
これさえなければ思い出さずに済んだはずで、囚われることもなかったはずで、けれどここにあるせいで、まるで檻の中に閉じ込められているようだった。
抜け出そうとしても抜け出せず、思考が檻を形作って、閉じ込めているはずのものが、クレシェンタを閉じ込めていた。
――愛してますから。愛してます。
いつもいつも、そんな薄っぺらい言葉を繰り返す。
口先だけのまやかしだった。
これから殺される場に到ってさえ、そんな言葉を繰り返した。
単に諦めただけ。
恨み言を口にしたところで無意味であったから、そんなことを言っただけ。
いつもの意地で、綺麗事を口にしただけ。
殺されて喜ぶはずもない。
どう言い繕っても死は死であった。恨みもしないなんてあり得ない。
だからきっと、本心では。
魔水晶を手の内に閉じ込める。
その輝きが見えないように、覆い隠す。
どうでも良かった。
――永遠に閉じ込めている限り、彼女の言葉はそれで最期であった。
こうしている限り、それ以上何かを語ることなどありはしない。
ここで輝いている限り、綺麗事は綺麗なまま。
どれほど薄っぺらくとも、嘘偽りない言葉のまま、永遠に刻まれる。
それで良いのだと考えて、再び掌の隙間から覗き込む。
鏡面世界の内側に閉じ込めた輝きを眺めて、撫でた。
その輝きは永遠に、クレシェンタの手の中にあった。
「クレシェンタ、ただいまです」
「……おかえりなさいませ、おねえさま」
魔水晶を胸元から滑らせて、ワンピースドレスの内側に。
それから身を起こして、入り口に目を向ける。
いつものようにエプロンドレスを身につけた姉は後ろ腰に曲剣を提げており、クレシェンタは首を傾げた。
「何をなさってましたの?」
「もしゃもしゃが手合わせしたいと言ってたので、それに付き合ってたのです。ぐるるんのお散歩もついでに」
腰からベルトを外すと曲剣を棚の上に。
とてとてと近づいて、ベッドの上に膝を掛けると、頬を撫で、ゆっくりと口付ける。
しばらくそうして、目を閉じて。
開くと姉の紫色がこちらを覗き込んでいた。
少しだけ困ったような、何かに迷うような、そんな眼差し。
もしゃもしゃとは例の如く、姉が与えたお馬鹿な愛称であった。
姉が望むことを知っている人間でも、僅かな生き残りの一人。
フェルワースのように長生きするタイプなのだろう。
肉の体には再生限界と言えるものがあった。
一定の期間を過ぎれば血肉は正常な再生機能を損ない、徐々に品質を低下させ、劣化速度が増大――再生が追いつかなくなってくる。
老化とは劣化。
姉やクレシェンタのように肉体の完全な魔力掌握を行えれば劣化を防ぐことは容易であったが、凡人はそうではない。
しかし、凡人の中でも多少それに長ける人間もあった。
老化がある程度進行しての機能低下。
大抵はそんな頃合いに、肉より魔力を重視した肉体掌握を意識するようになり、老化した状態で安定を保ち始め――そういう人間は随分と長生きであった。
無論元々生まれ持つ肉体の質によるところが大きいが、アレハは肉体的にもそれなりに頑強に見え、魔力による肉体掌握も随分と質が良い。
老化が始まった以上、凡人のアレハでは限界もあるが、少なくともこれから数十年程度は体も持つように思えた。
――早く死んでしまえば良いのに。
姉の瞳を眺め、恐らく余計な事を吹き込んだのだと考える。
時間が早く、姉の周りから全てを洗い流してくれれば、姉が迷うこともなくなってくれるはずだった。
姉が大切にして、大切にされる存在はクレシェンタ一人でいい。
「……クレシェンタ、その……お話が――」
「お腹が空きましたわ」
言葉を遮るように姉を見つめる。
両手を伸ばして姉の首に掛け、魔力を伸ばして浴室の魔水晶を操作し、湯を張らせる。
また困ったように姉はじっとクレシェンタを見つめ、それから静かに微笑んだ。
「……じゃあ、お料理を作ってお食事をして、お風呂に入って。……それからお話です。いいですか?」
答えず身を寄せると、甘えん坊さんですね、と姉はクレシェンタをそのまま持ち上げる。
困ったような笑みがどこか、あの使用人によく似ていた。
キッチンで作るのはラクラのパイにカボチャのスープ、羊肉の煮込み。
二人きりとなればそれほど量も必要なかった。
手慣れた料理で、目を瞑っていても出来るくらい。
隣に並んで、待ち時間の方が長かった。
スープをかき混ぜながら棚を眺める。
香辛料に食器、調理器具――随分前からその配置は変わっていない。
元々は姉があの使用人と料理を作るために最適化されたもので、クレシェンタと二人になってからはいくらか改善の余地もあった。
人間が違えば分担する作業も違うのだ。
当然のことで、けれど姉は整理するとき、いつもこの状態に整えた。
包丁から食器まで、全部をぴかぴかに磨き上げて、置き場所は変えぬまま。
――あの使用人がいた時のまま。
あの使用人のように冒険はしない。
味の細かな調整は行うし、新しい食材が手に入れればそれを使って料理する。
けれど今までやらなかったことをやってみよう、などと口にすることはなかった。
『……申し訳ありません。今日の挑戦は失敗でしたね』
申し訳なさそうに苦笑いする顔を思い出して、おたまに口付ける。
スープはいつも通り、あの使用人がいた頃と変わらず美味だった。
何十年と作り続けた料理に失敗などは存在しない。
姉は否定するものの、失敗の多い使用人であった。
『それなりに美味しい料理』を作れる女であったが、わざとではないかと思うほどに無茶をする。
どう考えても不味い果実を主体にして、ソースを作ったり、デザートにしたり。
大抵は失敗して、食材を無駄にして。
けれどそんな姿を眺めながら、姉はいつも楽しげだった。
時折上手く行くと、まるで世紀の大発見の如く喜んで。
『クレシェンタ。これは失敗ではなく、挑戦の結果上手く行かなかっただけなのです。失敗から学ぶことの方が世の中には多いのですよ』
まさに受け売りの言葉を金言の如く、指を立てて。
姉はまさしくお馬鹿だった。
一理もないなどとは思わなかったが、単なる食事。
美味が一つ増えただけ。
美味しいものは十分にあって、安定は十分にあるのに、それ以上を求めて何になるのかと、いつも呆れて非合理的な試みを眺めていた。
大抵の料理を覚えて追いついて、けれどそうしたお馬鹿に仕方なく付き合って、振り回されて。
このキッチンはよく混沌としていたように思う。
あの使用人がいなくなってからは安定を見せて、失敗などはなくなって――ならばもう少し合理的に、道具の配置も変えればいい。
けれど今も、昔のまま。
癖が強くて使えない香辛料は棚の前に出したまま。
食器も包丁も、フライパンや鍋の位置も、全部があの使用人の好みであった。
――キッチンに入る度、そこで料理する度、思い出す。
ここに立つあの使用人の姿が重なって、楽しげに笑う姉の姿が重なって、文句を言いつつ仕方なく付き合うクレシェンタの姿が重なった。
姉もきっと、そうなのだろう。
代わり映えのしない、失敗もしない料理を繰り返しながら、不思議と楽しげに微笑を浮かべる。
二人でいても、一人でいても――姉の頭の中にはあの使用人がいた。
「……クレシェンタ?」
不快に眉根を寄せると姉が近づきおたまを奪う。
それからスープに口付けて、首を傾げた。
味付けに失敗したとでも思ったのだろうか。
「えへへ、美味しいですよ」
「……何よりですわ」
嘆息して告げると困ったように、姉は唇を押しつけた。
ほのかに甘いカボチャスープの味がした。
うんざりするくらい、あの頃から変わらない味がした。
この先も永遠に、これを味わうことになるのだろう。
ふと気付けば、クレシェンタの作る料理はどれもあの使用人に学んだもので、どれを口にしても、あの使用人の味がする。
屋敷のあちこちにも――屋敷から一人一人と欠けていくほど、その隙間へと紛れ込む。
指先で唇をなぞって、感触を確かめた。
今も昨日のことのように、触れた感触が残っていた。
――しってますよ。
声もなく紡がれた言葉が頭の中に響いて、今も消えない。
食事を終えて、湯船に浸かり、それから着替えて寝室に。
姉はクレシェンタを膝の上に抱いて、髪に櫛を滑らせた。
窓からは欠けた月の輝きが差し込んだ。
けれど、月はいつも形を変えない。
裏側からの陽光を大地が遮って、だから月に影が出来るだけ。
月はいつも、完全な形で空にあった。
ただ、影がそこに生じるだけで。
「……クレシェンタ」
「聞きたくありませんわ」
クレシェンタはいつだって、完璧な存在であった。
生まれた時から変わりなく、完成されて生まれてきた。
間違えているのは世界の方で、歪んでいるのは世界の方。
いつだって月は、変わらぬままに空へと浮かぶ。
見たものを見たままにしか捉えることが出来ないから、欠けたように見えるだけ。
地に張り付いた虫からすれば、確かにそれは欠けた月なのだろう。
けれどクレシェンタは欠けてなどいなかった。
姉もそうで、間違えているのはその他の全て。
それが真実で、確かなことだった。
けれど、ならば。
望んでいたように世界を変えて、世界の全てを手に入れて、誰もが認める完璧な存在になって――どうして今も、あの使用人のことを考えているのだろう。
堂々巡りの思考に囚われているのだろう。
「……そんな話、聞きたくありませんの」
思い出さないでいいと決めた、もう済んだ些事のはずだった。
自分に並ぶのは姉だけで、それ以外は姉の好んだ付属品。
それ以上ではないはずで、それ以上であってはならないものだった。
そうでなければならないものだった。
――そうでなければ、わたくしは。
考えて、また、嫌なものが胸の中で渦巻いた。
姉はそのまま体を抱き寄せて、背中から頬に頬を当てる。
「クレシェンタはここに永遠があるって言いましたけれど、多分、クリシェが欲しいのは永遠なんかじゃないのです」
両腕で包み込むように。
体の全部を、優しい檻の中に閉じ込めるように。
「クシェナラースさんに言ったみたいに、永遠というのは単なる過程で、欲しいのはその先に手に入るもので……」
そして、愛おしげに。
「目的と言うより、クリシェの単なるわがままでしょうか」
恥ずかしそうに姉は告げる。
「……多分、結局、クリシェは単にもう一度、ベリーに会いたいだけなのです」
ああ、と声もなく嘆いた。
少なくとも、姉の心はいつもそこにあるのだと、クレシェンタは知っている。
「ただいま、って言って、お帰り、って言ってもらいたいだけなのです。……ご苦労様です、っていつもみたいに、抱きしめて欲しいだけなのです」
姉はお子様で、クレシェンタより少しお馬鹿であった。
あの使用人に会うためには普通とは異なる手段が必要で、それを満喫するためには平和な世界が必要で、自然とそれが永遠という言葉になっただけ。
「永遠の愛だとか、そういうのがどうだ、とか、クリシェには難しいことは分かりませんけれど……でも、みんな、クリシェのお馬鹿な考えなんてお見通しだったんだと思います」
姉にとって理想の世界。理想の楽園。子供のような理想郷。
姉は姉の望む全てを欲しがっていたから、そのままにさせた。
姉の望む永遠の楽園が受け入れられるはずなどないと知っていたし、受け入れるのは奇特で僅かな人間だけだと知っていたから。
断られる度に姉が傷つくのが分かって、その内に他人に期待しないようになって――そうすれば、いつか姉も、クレシェンタのことだけを考えてくれるのではないかと思った。
――余計な事など考えず。
「……クリシェにはクリシェの望むこと。他の人には他の人の望むこと。考えてみれば、すごく単純な話です。クリシェはクリシェだから、ベリーに会いたいだけで、ずっと過ごしたいだとか、わがままなことを考えてるだけで」
全部クリシェのわがままなのです、と微笑んだ。
「その上で、セレネ達はクリシェのお馬鹿に付き合ってくれるって言ってくれて」
どこまでも幸せそうに。
「先の事なんてわかりません。もしかしたらいつか、クリシェの側から離れていくのかも知れませんけれど……それはきっと満足したからで、クリシェに愛想を尽かしたからだとか、そういうことじゃないと思うのです」
クレシェンタの作った、ハリボテのような言葉の檻は、呆気なく崩れていく。
すぐにこうなることを知っていた。
随分早い気がして、そうでもないような気がした。
「たとえ違ってもそれで良いのです」
どちらにせよ、
「――クリシェはそういうことだと考えて、そういう風に都合良く解釈しますから」
姉はずっと、あの使用人のことを忘れないし、忘れさせてはくれないのだ。
拳を握って、目を伏せる。
姉だけではなくこの部屋にも、キッチンにも、首から提げた魔水晶にも――記憶の中にも、あの使用人の匂いが染みついていた。
「……まるでアルガン様みたいですわ、おねえさま」
うんざりして告げる。
「いつも聞き心地の良い言葉を吐いてるだけ。……あの方はおねえさまがお考えになってるほど、立派な人間じゃありませんわ」
「立派かそうでないかなんて、些細な事だと思うのです。全然立派じゃなくたってクリシェ、アーネのことは大好きですし」
クリシェだって立派なんかじゃありません、と微笑んだ。
「クリシェはどんな結果になったって平気です。クレシェンタが言うように、もしいつか愛想を尽かされたって……それでも、ベリー達と会いたいです」
クレシェンタの頬を撫でて、吐き出すように。
寒気がするくらいに、繕うことなく。
望むままを口に出す。
「それがクリシェの結論でしょうか。……だから――」
「嫌ですわ」
その言葉を一言で切って、姉の腕を掴んだ。
「どうしてですか?」
「……わたくしはおねえさまと違って、この方達に興味なんてありませんの。二人きりでいる今の方がずっと幸せで、安心出来ますもの」
「嘘ばっかり。クレシェンタはどうしてそうやって、悪い子みたいに振る舞うんですか? クレシェンタだってベリー達のこと――」
「いい加減うんざりですわ。勝手に決めつけないで下さいまし」
振りほどいて立ち上がると向き直り、真っ直ぐと、語気を強めて睨み付ける。
「嫌いだって何回言ったらおねえさまはお分かりになるのかしら。おねえさまが大切になさっているから、気を使ってあげていただけ」
考えるほどに不愉快だった。
胸の内に不快感が這い回って、どうしようもなかった。
思い返す度に、『あの布きれ』の感触を思い出す。
「本当に頭がお花畑ですわね。馬鹿の一つ覚えにベリー、ベリー、ベリー……本当にうんざりですの」
「……クレシェンタ」
「流石に我慢も限界ですわ。……次ベリーって口にしたら本気で怒りますわよ」
自分でも驚くほどに、感情が不安定だった。
体が無意識に震えて、呼吸が浅く、行き場のない何かが内側に渦巻いていた。
「クレシェンタが心の底からクリシェと二人きりがいいって、ベリー達が嫌いで会いたくないって言うなら考えます」
姉はそれをじっと見返して、続ける。
「でも、そんなことはあり得ませんから、怒ったってやめません」
「どうしておねえさまにそんなことがわかりますの?」
「クリシェはクレシェンタのおねえさんですから。クリシェは他の人の気持ちは全然分かりませんけれど……」
いつものように、優しげに微笑んだ。
「クレシェンタの気持ちだけはよく分かるつもりなのです」
そんな姉を見て、硬直して。
「……おねえさまに、一体何が分かりますの」
血が滲むほど、手に力を込めた。
――姉にわかるはずがなかった。
自分だけが見て来たのだ。
あの時姉が見まいとしていたものを、ずっと、自分だけが側で見て来たのだ。
昼も夜も、毎日のように繰り返して。
だからこそ、そうでなければ――あんなこと。
「なんだか、セレネとベリーの口喧嘩みたいですね」
姉は思い出すように言って、立ち上がり。
「……それより、ベリーって言いましたよ、クレシェンタ」
歩き出すとバルコニーの扉を開ける。
「クレシェンタはいつもいつも、怒っている振りをして取り繕ってばっかりです。……本気でそう思ってるなら、たまには本気で怒ってみたらどうですか?」
月明かりを背に、紫の瞳を輝かせる。
――姉は本気で言っていた。
頭からつま先まで、まるで凍ったように冷えていく。
右手を振るう――周囲の魔力が弾けるように変化する。
いくら姉であっても、限度を超えていた。
「そんなことを仰って……後悔なさっても知りませんわよ、おねえさま。状況はご存じ? わたくしは今、世界中の魔力を掌握できますの」
「知ってますよ」
姉は答えて、部屋の机に転がる魔水晶に、魔力の糸を伸ばして砕く。
そして微々たる魔力を手にすると、青き曲線を身に纏って宙に浮かんだ。
「けど、クリシェはお姉さんですから」
「……わたくしがおねえさまに劣るとでも思っていらっしゃるのかしら?」
「クレシェンタはクリシェと同じくらい賢いですよ。……それでもクリシェの勝ちは変わりません」
だってクレシェンタは本気じゃありませんから、と。
その紫を銀の睫毛で包み、狭める。
「わたくしにおねえさまが殺せないとでも?」
対するクレシェンタもまた、赤に煌めく金の縁取りを狭め。
「わたくしに逆らえないよう、新しく体を作って魂を封じればいいだけですの」
ただただ冷ややかに、その色を暗く光らせた。
「……まさか、おねえさまがここまでお馬鹿だとは知りませんでしたわね」
姉は距離を取ろうとしていた。
天極からの魔力は全て、クレシェンタが手にしている。
姉が唯一優位な、この間合いを手放す不利を理解していないとは思えない。
――それを理解した上で、クレシェンタに優位を与えているのだ。
火に油を注ぐようなものだった。
「えへへ。でもクリシェはちゃんと、クリシェと同じくらいクレシェンタがお馬鹿だって知ってますよ」
それでも笑みを浮かべて姉は言い、クレシェンタを見つめ。
「……その上でベリーと同じく、クレシェンタのことをちゃんと愛しているのです」
――欠けた月が浮かぶ夜空へと、そのままふわりと飛び立った。
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