第83話 お馬鹿

――明け方。

セレネも軍務には慣れたものだった。

クリシュタンド本軍の被害は無いに等しい。

偽攻の繰り返し――敵の警戒と不安を煽り疲弊させるのが今回の役目であったこともあり、捕虜の処理、その大半を請け負いながらも混乱することもなかった。


一通りの指示を出し終えるとガーレンに北部を一旦預け、竜の顎、その中央を抜けて南へ。

セレネは三十名ほどの騎兵を伴っていた。

野営地を少しでも離れるならば、自陣であっても彼女は必ず護衛をつける。

先日討たれたボーガンに油断がなかったとは言えない。

たらればの話――もう少し護衛を連れていたならば脱出は可能だったのかも知れず、そしてそうであったならば、あの日クリシュタンドはこの戦いに勝利していた。


一軍の将でありながら、父は自らの安全を軽く見てしまったのだ。

それが先日の敗因。

既にセレネは父の死を、純粋な指揮官としての目で見つめていた。


「……あれは」


竜の顎を抜け、南。

ミツクロニアの前に放置されているのは、手足を落とされた死体と旗。

アウルゴルン=ヒルキントス――その哀れな姿であった。

セレネは眉をひそめて目を伏せる。


ノーザンからクリシェの取った行動について、話は通っている。

半ば事後承諾であった。

セレネがそれにどう反応するかは折り込み済みだったのだろう。


どうしてあの場に放置されたままにされているのか。

降伏した捕虜に見せつけるためだ。

鴉を避けるために鴉の死体を吊すように、単純明快なこと。


クリシェならば平気でやるだろう。

どうしてこんなことを、などとは思わない。

彼女は自分にとって無価値なものを、どこまでも無価値にしてしまえる。

それが利用できるなら、彼女は顔色一つ変えずにどんなことでもやってみせる。

クリシェの頭を支配するのはいつも、冷たい数学の論理であった。


埋葬を命じようか――少し考えてやめた。

今更そうしたところで無意味だ。それに兵は忙しい。

であればこのまま、最大限その効果を利用する方がいい。


馬の尾のように金の髪を揺らしながら、セレネはその隣を通り過ぎた。

従う騎兵達は努めて死体から目を逸らす。

その死体の顔は鴉につつかれ、苦痛に歪みきったまま時間が止まっていた。


そうしてヴェルライヒ軍の本陣へ。

ノーザンのいる指揮官の天幕を目指せば、自然クリシェの百人隊が目に入った。

百人隊での強行軍であったため、ノーザン達の天幕を間借りしているのだ。

彼等はセレネを認めるとすぐに敬礼を行ない、セレネは丁寧に答礼を返す。


「クリシェはどこかしら?」

「軍団長は――」

「セレネっ!」


声と共に、突如横合いから現れた影が馬上のセレネに抱きつく。

馬は一拍置いて驚いたようにいななくが、暴れはしない。

抱きつかれたセレネの衝撃も、勢いの割りに軽いものであった。


声を聞いて、その後起きるだろうことを想像していたセレネに驚いた様子もなく。

セレネは困ったような顔をしながらもその銀の髪を撫でて、もう、と叱る。


「落ちたらどうするのよ、お馬鹿」

「えへへ……セレネは馬に乗るのはそこそこ上手だから大丈夫です、ぅぅ……」

「そういう問題じゃないの。……まったく」


クリシェの頬――白く柔らかい肉をつまんで伸ばし、セレネは苦笑する。

その顔も外套も、汚れなく綺麗なものだった。

それほど負担の大きな仕事ではなかったのだろう。

疲れがないことにひとまず安心すると、クリシェの華奢な体を持ち上げ、そのまま横抱きにして頬を撫でた。


「元気そうね。寂しかった?」

「……はい、とっても寂しかったかも、です」


告げたクリシェは力を抜いて、セレネの体に身を預ける。

こんなことなら鎧を脱いでくればよかっただろうかとほんの少し後悔する。

すりすりと身を寄せるクリシェが鎧の感触に眉を顰めているのを見ると、可笑しい反面少しかわいそうにも見えた。


「クリシェ、仕事は?」

「連れて来たのは黒だけですから、クリシェ達はおしまいです。セレネが来ると思ってたので朝ご飯の準備を……」


うかがうように上目遣い。

唇はむにむにと、その大きな目は少し眠たげであった。

くるる、と小さくお腹も鳴っている。

食事を一緒に、ついでに一緒に寝て欲しいと、そんなところだろう。

心の中が透けて見えて、セレネは苦笑する。


「ちょっとだけヴェルライヒ将軍のところへ顔を出してくるわ。そのあと一緒に食べましょうか」

「……はい」

「エリッツ、わたしもクリシェと少し休むから、あなたたちも休息を。正午にこちらへ軍団長を集めて会議するからそのつもりで」

「は」







クリシェと少しの間そうして触れあい、クリシェの天幕で鎧を脱ぐ。

それから彼女を置いてノーザンの所へ。

単なる挨拶――会議は改めて行なうためクリシェの同行は必要ない。

というよりセレネのために料理を作りたがったクリシェが自主的に離れたと言ったほうが良いだろう。

普段以上にクリシェは上機嫌であった。


「開口一番怒鳴られるかと思いましたが、その心配はなさそうですね」


ノーザンは現れたセレネを見ると苦笑い。


「それじゃ八つ当たりでしょう。わたしはそんなに癇癪持ちじゃないわ」


セレネが睨み付け嘆息すると、ノーザンは髪を掻き上げ微笑を浮かべた。


「将軍にはセレネ様の癇癪でよく相談を持ちかけられたものですが」

「……随分前の話じゃない。分別くらいはつくわ」

「はは、クリシェ様が来てから随分穏やかになりましたからね」


セレネは頬を染めながら、全く、と椅子に座る。


「クリシェとヴェルライヒ将軍のおかげで楽が出来たわ。練兵には良い機会、そのことに関してまずはお礼を」

「当然のことです。ここからはセレネ様の率いる後方の安定が重要になる」

「そうね。西がこんなに簡単に片付くとは思わなかったから、過剰かも知れないけれど」


これから竜の顎を主な兵站路として使用する。

先日あった神聖帝国との戦い――未だ傷の癒えない東部にはそれほど余力がないのだ。

帝国が各地で略奪を行なったため、村を焼かれ仕事を失った民衆を兵として雇うことは出来てもそれを食わせる輜重の長期捻出が難しい。


竜の顎攻略を急いだのはそうした理由もあった。

竜の顎の安定化によってようやく、中央で自由に暴れるだけの兵站を彼等は賄える。

そして竜の顎から通じる後方連絡線の維持が今回セレネとクリシュタンド軍の役割であり、ヴェルライヒ軍を剣とするならば、クリシュタンド軍は盾。

ヒルキントス軍の参戦が遅れた場合はクリシュタンド軍がそちらに対峙し、ヴェルライヒ軍が王都に攻め入る形となっていた。


「過剰なくらいで丁度良いでしょう。王弟殿下は国庫から金をばらまいている」


セレネは同意を示すように頷く。


王宮の宝物庫からは国宝の類までが大量に売り払われているという噂がある。

戦後の事よりもまず勝つこと――ギルダンスタインはそれだけを考えているらしい。


どれほどの兵が集まるかはわからないが、あれから5000を新たに募兵できた程度のクリシュタンド軍の比ではないだろう。

こちらはヴェルライヒ軍と併せ約6万強に落ち着くだろうが、必ず敵はそれを上回る。

国庫から大金を吐き出すのであればそれも可能だった。


大義名分はどうあれ、王宮を手にした『国家』を相手にするということはそういうことだ。


「むしろ、ヒルキントスを討ったことでこちらは対等。そう見た方が良い」

「……そうね。意見を聞きたいけれど、ガーカ将軍は?」

「個人的な見解であれば……好ましい方ですよ。大貴族にありながら政治の類に興味はない……そうですね、将軍――ボーガン様に似た方です」


セレネは一瞬父の顔を思い浮かべ、けれど特に反応は返さなかった。


「安心してもいいのかしら?」

「さて。性格的に動くことはないと考えますが、とはいえ、だからと言って無警戒でもいられません。それを考える意味はあまりないでしょう、お気持ちはわかりますが」


私も動いて欲しくはないですがね、とノーザンは苦笑する。


「まぁ、確かに。考えても無駄ね」


両手を頭上に、セレネはしなやかに伸びをする。


「……ここの捕虜は全部わたしがもらうわ。それでいいのよね?」

「ええ。こちらは限界に近いですから。……それと、クリシェ様の軍とはこのまま分けておいたほうが良いでしょう」


ノーザンは静かに告げ、セレネは一瞬固まると彼を睨み付けた。

怒りの滲んだ視線であったが、ノーザンはそれを正面から受け止める。


「……クリシェに一人で泥を被らせておけって?」

「クリシェ様はそうされることを望んでおられるでしょう。……単なる役割です。飴と鞭が混ざっては使い物になりませんから」

「だからって……」

「考え方ですね。もう過ぎたことです。ならば、それを最大限有効活用するのがその行動に対する礼儀というもの。殿となる兵士を、死地へ送る兵士を憐れみ手を差し伸べてはならぬように。……それと同じことです」


ノーザンは努めて冷たい言い方をした。

セレネは拳が白むほどに握り、弱々しく視線を揺らす。


「お気持ちはどうあれ、お分かりでしょう?」


答えられないセレネを見て、ノーザンは困ったように両手を広げた。


「……まぁ、どうするかは将軍たるセレネ様がお決めになることです。無理強いはしませんが……どうあれ、戦後はそうなる」

「……戦後?」

「平和なんてものは準備期間に過ぎません。次の戦までのね。……その時、クリシェ様がどこにいらっしゃるか――それを考えれば早いか遅いかの違いでしょう?」


セレネは再びノーザンを睨み付けようとして、やめる。

ため息をつくように告げた。


「……忠告ありがとう。性格が悪いわね」

「はは、小言を耳に入れる人間も必要でしょう。嫌わないで欲しいものですが」

「そうね、確かに。……あなたの言うことは間違ってないわ。わたしは非力だもの」


言った後、セレネは続ける。


「……それでもわたしは、誰よりクリシェに幸せでいて欲しいと思うの。なるべくでも、できる限りでも、少しでも」

「それを言うなら私も、セレネ様とクリシェ様の幸せを願っていますよ。その上で……まぁ余計なお世話なのかもしれませんが」


それに、とノーザンはセレネを見つめる。

諭すような口調だった。


「これはクリシェ様がお考えになったこと。そうしてセレネ様が気に病めば、クリシェ様を悩ませることになる。お優しい方ですから……それはお分かりでしょう?」


セレネは答えなかった。








クリシェの天幕――その毛布の内側。


「セレネ」

「……何?」

「……えへへ、ちゅー」


クリシェはキスする。

しがみつくように抱きついて、頬を擦りつけキスをして。

クリシェはやはりクリシェ――お馬鹿である。


セレネは呆れて、苦笑しながらほっぺたをつまんで伸ばす。

食事を終えて、昼の会議まで少しの休み。

戦地で食べるにはいささか豪勢な朝食だった。


久しぶりの再会にクリシェが用意していたものらしい。

セレネと会えるとあって、クリシェは眠気と戦いながらも朝食の指揮を執り、スープや焼き物だけでなく窯を借りてピザまで用意する念の入れよう。

兵士の前でも箍が外れたように甘えてくるクリシェには困りものであったが、可愛くもあって、愛しくもあって、あまり強く叱ってやることも出来なかった。


先日怪我で寝込んでいたので味を占めたか。

クリシェはますます甘えん坊になってしまっている。

クリシェがお馬鹿になっていくことが良いことか悪いことか、それに結論を出すことはセレネに難しかった。


それでクリシェが幸せならばいいのかも知れないとも思う。

気休めのような短い時間でも、なんであっても。


上手く内戦を終わらせたとて、戦後に平和が訪れる保証はない。

他国が動くのならば、先日の神聖帝国が起こしたような規模のもの。

そうなれば必然――クリシェの手を借りざるを得ないだろう。


それが連鎖していけば。

一体いつ、彼女にした約束を叶えてあげられるのだろう。

先のことはわからない。ただ不安だけが顔を覗かせる。

彼女の望む世界は遥か先にあるように見えた。


「……クリシェはこれから先のこと、どう考えてるの?」

「これから先?」

「わたしたちのこれから、かしら。あなたのことだから、具体的にどうなるか、予想はしているんでしょう?」

「ああ、なるほど」


クリシェは少しだけ幸せそうな微笑を弱めた。


「クリシェが周りの国の王様なら、この機会を逃しませんね。王国に攻め入りたいと考えているならば今ほどの機会はないでしょう。それが現状行なわれていない理由……もしくはこの先行なわれない場合の理由は、実利を取れない政治的な問題があちらにあるからに過ぎないと考えます。高い確率でどこかの国は動くでしょうね」


セレネの頬を撫でながら、どこかぼんやりとした目だった。


「複数が来るとなれば、現状のまま領土を維持するのは至難でしょう。戦略的防御面の縮小――王都を中心とした内線作戦に移行させるのが王国として取り得る最良の選択でしょうか。西は森を西端、東はウルフェネイトを東端とし、国力維持に努める」


――その後、クリシェが一つ一つ潰します。

何の気負いもない声だった。

その眼差しは透明で、温かくはなく、冷たくもなく。

セレネを見ながら、けれど虚空を見るように。


「セレネ達は王都を守って、動くのはクリシェ。それが良いと思うのです。時々クリシェが疲れたら戻ってきてお休みして――みんな王都にいるならクリシェも安心です。今みたいに離ればなれになって、不安になることはもうないですし」


少し寂しげに目が細められ、セレネはその頬を撫でる。

クリシェは柔らかい微笑を浮かべた。


「距離も近いですからいつでも帰れて、しばらくはそれでいいです。なるべく早く終わらせたいところですけれど、まぁでも何年かのことでしょう」


全員殺してやればいいのです。

甘い声で囁いた。


額を額に押しつけて、鼻先を擦り合わせる。

瞼が眠たげに、幸せそうに紫色を包んで、続ける。


「……クリシェ達を脅かそうとする、周りの全てに思い知らせてやれば――そうすれば平和になってみんな幸せな毎日です。ちょっとお仕事はしないといけないかもですが、でも、お屋敷で毎日、幸せです。お料理してお茶をして、前みたいに一緒に眠って」


そうなれば、とっても幸せです。

言い聞かせるような声だった。

遠い夢を語るように。


「……クリシェ」


ダグラが負傷したこと、その経緯は食事中に聞いた。

今回こうなった切っ掛けはそれ。

クリシェは名誉や大義、慈悲や施しなどに興味はない。

周囲に合わせて、単に規則に合わせているだけなのだ。

彼女は相手がそれを破るなら、それ以上の報復を行なうだろう。

目的のためどこまでも、際限なく。


それが怖くあった。


「クリシェはそれまで我慢します。……セレネはクリシェのこと、心配してくれてるんですよね?」

「そう……ね」


セレネが答えると、嬉しそうにクリシェはキスをした。


「えへへ、なんだかクリシェも最近、人が思ってること分かるようになってきたかもです。クリシェもセレネがとっても心配で、共感というやつですね」


セレネの頬を挟み込んで、繰り返す。

柔らかい唇の感触。淫らさなどはなく、ただ純粋な好意だけがあった。

クリシェの全てはいつだって、宝石のように輝いている。


「セレネはクリシェのために、いっつも色々考えたりしてくれてます。それがクリシェ、とっても嬉しいんですけれど、でも、セレネがそうして悩んだりするのは嫌です。だから、何も考えないで、クリシェに任せて欲しいんです」


毛布の上で絡んだ金と銀。

クリシェはそれを持ち上げ、さらさらと流して混ぜ合わせる。


「クリシェは……自分が誰より優れた存在であるべきだって、昔は思ってました。何をしても一番が良くて、だから他人からの評価もとても大切にしてましたけれど……最近はそうでもないんです」


銀細工のように長い睫毛に包まれた宝石は、セレネをただ見つめた。


「……今は誰かに嫌われたって、どんな風に思われたって、どう評価されたって、どうでもいいです。ただ、クリシェの大好きなセレネ達がクリシェのこと好きだって言ってくれて、大切に想ってくれて……ならクリシェ、それだけでいいんです」


セレネの胸に顔を埋め、そうする様は幼子のようだった。

安心出来る場所を求めるような――もしかすれば、最もそれを望んだ時期に愛情を得られなかった反動なのかも知れない。

いつだってクリシェが欲しがるのは、子が親に求めるような何かであった。


「それでも、わたしはあなたが心配で放っておけないの。あなたが嫌われたり、怖がられたり、悪し様に言われるのも嫌だわ。……それは、わかってほしいの」

「……はい。セレネは多分、そんなことを言うだろうって思ってました。多分ベリーも同じことを言うと思うんです」


背中に手を回して、しがみつくように。

セレネはただ、彼女の頭を優しく撫でて抱いてやる。


「……ごめんなさい。でも、クリシェはこれが一番だと思いますから」


セレネは端正な顔を一瞬歪め、その目を伏せた。

そしてため息をつくように告げる。


「……ほんと、お馬鹿な子ね。こんなにお馬鹿だと、一生面倒見てあげないといけないのかしら」


ぎゅっと手に力が込められた。

セレネの膨らみに頬を擦りつけるように。

その小さな体を預けるように。


「えへへ、クリシェはとっても賢いつもりですけれど……」


――時々ちょっとだけ、お馬鹿なのかも知れません。


そして囁くように。

熱のこもった返事を返した。

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