第82話 悪意の天秤
ミツクロニアの裾にあったものは単なる矢除けの衝立ではない。
ベルナイクから運んできた木々を隠すための目隠しであった。
枝葉と共に軽く掘った溝に放り込まれ、油を染みこまされている。
水気を大いに含んだ大量の生木は大炎とともに多量の煙を生じさせる。
そして南から北――竜の顎に阻まれる風がそれを運び、舐めるように焼け落ちたミツクロニアの南面全てを覆っていく――
山裾から響くはクリシュタンド軍の銅鑼と喊声。
意図に気付き、叫ぶものがあった。
「煙に乗じて山を上がる気だ! 見えずとも良い、矢を放ち続けろ!」
篝火も意味がない。
巻き起こった煙は全てを覆い隠していた。
兵士達は咳き込みながら、死の恐怖と戦い狂乱に陥りながら矢を放つ。
怯えて剣を捨て、逃げ出す者も多くあった。
見えない状況。
そしてここにあるのはベルナイクの首狩人と、黒塗りの百人隊。
森は消え失せている。視界は大量の篝火によって確保されている。
だから安心していた。
無数の勇者を奪い取ったあのような悲劇は起きない――
この煙は、そんな彼等の心をくじけさせるには十分なものだった。
視界を封じられれば、どこからあれが現れるかなど知れたものではない。
四肢を切断される王国将軍――その姿は目に焼き付いている。
死体は野ざらし。今もあのままだった。
逆らえば、自分もあのように。
「ひ……っ」
一人、二人、五人、十人と。
隣の者が逃げ出せば、その隣の者も。
殺される。殺される。殺される。
狂を発したものが悲鳴をあげれば、そこに敵が現れたのだと誤認したものが続くように。
耐えがたい恐怖によって彼等が起こしたのは集団ヒステリーと言って良い。
あちこちで上がる悲鳴――それが一方的な殺戮を彼等に想像させた。
視界を奪われたことで彼等の想像力は掻き立てられた。
噂の黒塗りと銀の髪。それが次々に仲間を殺していく様を想像して逃げだしていく。
指揮者の姿が見えなくなるこの状況はむしろ彼等にとって好機であった。
崇高な使命ではなく自分の命を守るため、彼等は咎められることなく本能に従い逃げ出すことが出来るのだ。
その悲鳴は重なり、伝わり、山の全てへと広がっていく。
北のクリシュタンド軍と対峙していた者達も空を覆う煙と南からの悲鳴を聞いて震え始めた。
クリシュタンド軍は無数の篝火を焚き、整然と布陣している。
それは攻撃のためではない。
彼等が逃げ出せぬよう見張っているというのが正しい姿だった。
もし南から敵が現れれば、自分達は逃げ場のない状況で背後を討たれる。
彼等の脳裏にもまた死がよぎり、悲鳴は山の全てを覆う。
誰もが殺されることを恐れ、軍の統制が崩れていく。
「……ルーベンス、任せるぞ」
「……は」
――そして山嶺にあったゲルツ=ヴィリングは砦を出た。
煙に乗じて山を登ってくる――これはそんな単純な行動ではない。
呼吸も苦しい煙の中を敵が迫ってくるとは思わなかった。
彼等にはその必要がないのだ。
ただ、煙で視界を覆った。
それだけでゲルツの兵は使い物にならなくなっている。
這い寄る化け物の姿を想像し、怯え、混乱し、もはや彼等のほとんどは兵士でなくなっていた。
山への籠城で疲弊しきったこちらの兵達は限界。
敵は後一押しの力を的確な場所に加えるだけでいい。
山嶺を西に進み、煙が薄れたそこでゲルツは予想していた姿を見る。
木々が残る西の山嶺から現れた軍が行進する姿であった。
先頭にある者は遠目にも分かる。
将軍――ノーザン=ヴェルライヒ。
旗には優美な一対の翼と、吠える狼の姿が描かれていた。
クリシュタンドを示す鷹を描くは畏れ多いとしながらも、それでも翼を描くのは自らがクリシュタンドを守護する狼であることを示すため。
――鷹に仇なす全てを、喰らい尽くすは狼の群れ。
亡き主への崇拝染みた畏敬を頭上に掲げ、ノーザン=ヴェルライヒは山嶺をこちらへと行進する。
「これまで、だな」
敵の兵数は5000ほどだった。
それほど多くはない。
だが混乱し、統制を失ったこちらの周囲に集められたのは2000にも満たない兵士達。
煙の隙間からは逃げ出す自軍の兵――その後ろ姿が見えた。
南側の山裾に展開している敵は喊声を上げている。
進め、殺せ、皆殺しだ、クリシェ様が行くぞ――口々に叫びながらもこちらへ攻め上がる様子はなかった。
しかし煙の中にあるこちらの兵士達には状況がわからない。
辛うじて逃げ出さずにいる兵達ですら本当に彼等が攻めてきているのだと錯覚し、無数の矢を射耗し、疲労を増していくだけだった。
いずれ崩壊する。攻撃の一つも受けぬまま。
ゲルツがどれだけ叫んでも無意味だった。
狂乱の最中にある彼等には自分の言葉は届かない。
「……予想通りだ。ここに集まった勇敢なる兵達よ、聞くが良い!」
ゲルツは声を張り上げた。
逃れ得ぬ敗北という死地にありながら、尚も自分に付き従う兵達。
誰もが勇者であった。
震える者もあるだろう。怯える者もあるだろう。
それでもそうした感情を押し殺し、ゲルツと共に立っている。
名誉か、信念か、それとも友のためにか――どうあれ美しい何かのために彼等はここにある。
ゲルツに感謝以外の念はなかった。
「眼前には強大なる敵、ノーザン=ヴェルライヒ。英雄クリシュタンドの下にあり、最強と謳われた男だ。我々にもはや勝利はなく、前方にあるのは死への道。それを分かってなおここにある諸君らは兵士として――戦士として誰よりも強く、勇敢な者である」
ゲルツは誰にでもなく、その場にある者全てに敬礼する。
上位者としての敬礼ではなく、平手を胸に押し当てる、彼等と同じ敬礼であった。
「ここに諸君らが集まった。それだけで私は十分だ。君たちのような兵士を配下に持てたこと――それを何よりの、この生涯の誇りとしよう」
少しの間、目を閉じた。
敗北は免れない。
今日が、最期の戦いとなる。
「そしてだからこそ諸君らに告げる。……命を惜しめと」
その言葉に皆が困惑した。
辛うじて保てていたのは、将軍と共にあったからこそだからだ。
「私はこれより、ヴェルライヒ将軍の首を狙い、前へと進む。微かな希望もないのかもしれん。それに諸君らのような――これからの王国を担うべき勇敢なる兵士達を付き合わせるわけにはいかん。……諸君らはこの砦に残り、そして私が敗れたならば我が副官ルーベンスと共に降伏せよ」
もはや戦って兵力を削るという望みも薄い。
これだけ崩れてしまえば、組織的な抵抗など不可能だ。
数百、精々千を超える敵兵を道連れにしたとして、何の意味があるのか。
それならば少しでも、多くを。
ゲルツの決断はそこにあった。
「主義主張の違いから刃を交えたものの、英雄ボーガン=クリシュタンドを私は今なお尊敬している。誰より戦士としての矜持に溢れた男だ。そしてその腹心であった彼もまたそうだと信じる。……先の見せしめはこちらの瓦解を狙ってのもの。彼は降伏した者に対し、無法を働く男ではないだろう」
多くの命を犠牲に経験を積んだ。
無数の刃の下で鍛え上げた肉体はまだ戦える。
目立つところはなく、凡人の域を超えぬ身であるが、それでも戦士としての矜持がある。
「諸君らは、私の戦いを見届けてくれればそれで良い。……私のわがままに付き合ってくれた君たちに感謝する」
馬を降りた。
ここにおいてはもはや無用なものだ。
魔力によって人を超越する体に、馬は必要ない。
――前へ。
足取りは確か。心は澄み切っている。
幾人かの兵士がその背後を付き従った。
数人から数十人。
そしてそれは百を超し、三百を超す。
正確な数は分からない。
ただ、ゲルツは笑った。
「……馬鹿者達め」
「はは、将軍ほどではないでしょう」
百人隊長の一人が笑って告げる。
「我らが命を持って、道を切り拓きましょう。これほどの啖呵を切った将軍が、敵将にまみえずというのは流石に格好がつかない」
続いて言ったのは大兵肥満の大隊長だった。
将軍に大隊長が軽口を叩く。状況により無礼だと、厳罰を与えられかねない言葉であったが、ゲルツは怒りもせず、ただ笑った。
「くく、確かにそれでは格好がつくまいな。安心せよ、私も昔は剣と槍を手に、君たちと同じ立場にあった。それほどの無様は見せぬつもりだ」
「それは良い。死んだ後にでも機会があれば、是非手合わせを願いたいものですな」
「ああ、約束しよう」
ゲルツは頷く。
彼の側にあった百人隊長は笑う。
「はっ、大隊長が剣を振るうところなど見たことはなかったですが」
「アルバ、貴様。何度も見せてやっただろう」
「あれが剣などと。良くて棒振りでしょう。……ここへ登ったのは降伏のためかと思っていたのですが、大隊長らしくない。腐った性根を入れ替えられたのでしょうか」
「言いたい放題言いおって。貴様は今度鞭打ちに処してやる」
ゲルツはその様子を楽しげに見て、頷く。
そして尋ねた。
「名は何という?」
「第一軍団第二大隊長タキルス=ネア=ゼンガーであります、将軍」
「そして君はアルバ君か。第二大隊は南の防衛だったはずだが」
「これがなんと言うべきか……兵のほとんどが逃げ出しましてな。仕方なくこちらに来てみればこのような有様です」
「……なるほど」
「大隊長の貫禄はその口と腹だけですからな。兵はこの大隊長の下で死ぬのが嫌だと皆逃げだしてしまって……私も最期がこのような大隊長と共にというのはなんとも。虚しさしかありませんな」
貴様、とタキルスが怒声を張り上げ、後ろに指を差す。
「ほら見ろ、数十人は俺と共に死にたいとやる気に満ち溢れている。わかるか、それだけの敬意を勝ち取っているのだ」
「1000人の内の数十人。それもほとんど私の兵です。この中にゼンガー大隊長のため死にたいと思うものはおるか!!」
おりませんアルバ百人隊長、などと言葉が返り、話を聞いていた周囲に笑い声が響く。
「はっはっはっ、いいなぁ、実に良い。もう少し早く君たちと知り合ってみたかったものだ。腰を落ち着けて酒でも飲みたかったものだな」
ゲルツは愉快そうに言ってタキルスとアルバの肩を叩いた。
「君たちのおかげで、私の中に残った臆病の虫もどこかへ飛んだようだ。こう見えて足が震えていたのだ、先ほどまでは」
深く頷き、続ける。
「追い詰められた鼠が如きでも狼を噛むのだと、思い知らせてやろうじゃないか」
「ああ、もはやその選択しかないですな。しかしアルバ、お前は俺を守って命がけで逃がしてくれても良いぞ」
「それは大隊長の役割でしょう。私の倅はあなたの娘と違い実子ですからな」
「貴様……」
そうして彼等は死地へと進む。
煙は所詮、一時の目眩まし。進む内に薄れていく。
そうして、彼我の距離は詰まった。
隊列を整えた両軍の前に出たのはゲルツとノーザン。
両将は先日と同じように――違うところは兵の数と馬上か否かだけだろう。
若々しい声が響いた。
「この状況に怯えず打って出るとは、中々どうして見事なものだ。先日の非礼を詫びようヴィリング将軍。あなたは確かに戦士であるようだ」
翼を模した兜のバイザーを上げ、左手には鋼の盾。
美麗な顔を歪めるように、赤銅の髪を持った男は歯を剥き出しにして笑う。
狼が如き笑みであった。
「未来ある兵達の礎となれれば、私はそれで良い。君と同じく無用な流血は好まん性分でな。これを決着としよう」
「ほう……なるほど」
ノーザンはその言葉に笑みを一転させ、観察するようにゲルツを見る。
そして少し考え込むようにして、言った。
「あなたがそう告げるのならば、恐らくここが分岐点だろう。……手遅れになる前に私は尋ねよう。未だ逃げ出さずここにある勇敢な兵達のため、降伏をしてはどうか、と」
「ここに来て、頷くとでも?」
「よく考えて言葉を選ぶといい、ヴィリング将軍」
面白くもなさそうにノーザンは告げる。
半ば憐れむような色がその目にはあった。
「あなたがどちらを選ぶにせよ容易なことなのだ。少なくとも私にとっては。……だからそれを尋ねるのはあくまで、あなたと、あなたの兵達に対する慈悲なのだよ」
持って回ったようなような言い方。
ゲルツは眉をひそめた。
「どういう意味かね」
「さて、考えるといい」
ノーザンは笑う。牙を見せるように。
ゲルツは意味を探り、時間稼ぎかと首を振る。
「勝敗は刃を持って。答えは変わらぬ」
「そうか。……残念だと、そう言っておこう」
ノーザンはバイザーを戻すと踵を返す。
そして剣を引き抜いた。
ゲルツも同じく背を向け、剣を引き抜く。
喊声が山に響いた。
――戦いは一方的であったと言っていいだろう。
5000対300程度。
本来相手にならぬ数だった。
すぐさまに包囲されたゲルツ達――しかしそこにも意地がある。
元より死兵。自分の死すら恐れぬほどに覚悟の決まった勇者達であった。
ただ全ての兵が、敵将ノーザン=ヴェルライヒを狙って向かう。
前方を切り拓くのはゲルツの軍内でも勇猛で知られた百人隊長、ギーカル。
熊の如き巨体に大槌を振るい、敵をなぎ倒す。
周囲にあるものもそれに魅せられ刃を振るい、急造ながら彼等は勇猛果敢。
死を覚悟した兵は強い。
その先にある生を諦めることで彼等は自らの命を燃料と化し、その全てを燃やし尽くすように前へ。
戦いの始まりにあったのは彼等の快進撃であった。
――だが、それもすぐに終わる。
彼等の眼前に見えたのは銀翼の甲冑。
そして鋼の大盾であった。
「あ、が……っ!?」
頭上に振り上げられた大槌の一撃――それを容易く大盾を用いて受け流す。
そしてすり抜けざまに右手の長剣で足を突き刺すと、転倒したギーカルの肩、その隙間に刃を突き立て絶命させる。
――左手に盾を、右手に刃を。
戦場剣術として名高きロールカ式剣術は盾を構えた時、真の力を発揮する。
それを極めたノーザンの前には、単なる強者など強者たり得ない。
盾を打撃に、防御に使い、あるときはその鋼にて敵の頭蓋を粉砕する。
彼と向き合う者達にはまるで、彼が城壁か何かであるかのように見えた。
視界の全てを鋼の盾に覆われ、そして突如繰り出される剣は鋭く。
ノーザン=ヴェルライヒは乱戦――その最先頭にありながら無人の野を行くが如しであった。
流れる激流が巨岩に分かたれるが如く、細身な彼の横を切り伏せられた兵士が積み重なっていく。
鍛え上げられた肉体と、死地をも恐れぬ武勇。
急造でありながらも誰もが精鋭というべき猛者であった。
それでもノーザンの歩みは止まらない。
全身鎧と鋼の大盾。
総重量は常人の肉体を超えるものがあったが、その動きは素肌と変わらぬ素早さと正確性を保っている。
誰一人としてその優美な鎧、鷹の翼を象る彫刻に傷の一つもつけられない。
ただ、鮮血がその銀色を彩っていく。
英雄クリシュタンドの軍にあって一の軍団長。
ノーザンもまた怪物殺しの怪物であった。
剣技においては師であるボーガンすらを凌ぎ、無数の猛者を屠った盾と刃には一点の曇りすらが存在しない。
盾の一撃は数人を纏めて弾き飛ばし、相対するものを単なる膂力でねじ伏せる。
彼に剣を向ければ空を裂くように、見当違いに刃は乱れ、そしてそれが最期の一振りと消えてゆく。
力と技――二つを兼ね備えた影の英雄を打ち倒すものなどここには存在しなかった。
「ぐぅっ!?」
「っ、大隊長!!」
盾に弾き飛ばされた恰幅の良い大隊長。
それを守るように一人の百人隊長が刃を振り上げる。
そして振り上げた剣の根元からすくい上げるように盾が煌めいた。
――鈍い轟音が響く。
衝撃で腕をへし折られた百人隊長――その首を剣線が走り、息絶え、
「アルバ!! 貴様……っ!!」
大隊長は体勢を立て直すとすぐに、体ごと踏み込み剣を構えた。
刺し違える、そうでなくとも一撃を。
踏み込んだ足に大地がめり込む。
そこには両者の間合いを押し潰すような気迫が伴った。
――だが、銀翼の戦士はどこまでも冷静だった。
見た目に反して素早い男の一撃に対し、姿勢を低く。
その勢いを利用すると、盾によってその巨体を頭上へ投げ飛ばす。
「あ……っ」
そして宙を浮いた男の首を鮮やかに切り裂いた。
血の雨が降り注ぎ、そこにもはや興味の一つを見せない。
一対の翼を象るバイザーの隙間から、ぎらついた瞳だけが前を向いていた。
視線の先――そこにあるのは質実剛健といった簡素な鎧を身につけた老将。
長い髭を僅かに揺らし、二人の死に対し一瞬黙祷を捧げ、そうして槍を構えた。
「勝負だ、ヴェルライヒ将軍!!」
「その意気は認めるが――」
――ゲルツは踏み込む。
老人――だがその動きは常人のそれとは比べものにならない。
風を押し潰すように振り回される手槍。
その柄が鋭くしなり、銀翼の戦士へ。
単なる兵士であれば、それだけで鎧ごと背骨を砕かれるであろう。
そんな一撃を容易にノーザンは盾で受け流す――だが既にゲルツはそこにいなかった。
ノーザンの盾、その更に左手へと回り込みゲルツは長剣を引き抜いている。
元より槍は偽攻であった。
側面を抜け回り込み、かつて鍛え上げた技の全て。
それをその一刀に賭けていた。
鎧の継ぎ目を狙うその眼光――刃は鋭く。
ゲルツは体を沈み込ませるように、剣技の見本となるべき鮮やかな突きを放つ。
「――無駄だ老将」
「ぐ、っ!?」
ノーザンは振り向きもしなかった。
その上で、ゲルツの胴を正確にノーザンの足が貫く。
鋼の鎧が歪むほどの一撃。
ゲルツは兵の体に叩きつけられ、転がり、咳き込む。
「……向かってくる勇気は認めよう。だが、英雄ボーガン=クリシュタンドに仕え、鍛え上げられたこの体、その程度の腕では傷の一つとしてつけられん」
「く、まだ……っ」
それでも立ち上がろうとするゲルツに、憐れむような目を向ける。
「これでも……慈悲のつもりだったのだがな。見ろ、老将。――煙も晴れた」
ノーザンは告げ、どこかを指さした。
そこはミツクロニアの本陣――砦であった。
いつの間にか燃えさかるそこには、三日月髑髏の黒き旗。
「っ……まさか」
「時間切れ、というべきだろう。その様子、どうにも夢中で気付かなかったようだが――」
突如連続した悲鳴が響いた。
ゲルツの率いてきた兵達からだった。
「先ほど尋ねた時が最後の機会だっただろう。あなたはそれを断り、そしてもうその選択に取り返しはつかない。――終わりなのだよ、もはや」
ノーザンの言葉と共に。
――兵列を無数の血花が咲き誇り、抜けて降り立つは銀色の影。
二将の一騎打ちの場。
その意図的に作られた空間に現れたのはどこまでも不釣り合いな少女であった。
銀の長髪を二つに纏めて垂らし、シャツとスカートを外套で隠し。
月明かりに輝く美貌は妖精のように、紫色の瞳は静かな輝きを見せる。
華奢で小柄――霧雨のように舞う血の中を潜りながら、彼女の真白い肌には一滴の穢れもない。
可憐と言うべき少女が手に持つは、女の裸体のようにうねる優美な刃。
その歪な曲剣だけが血に塗れ、どこか淫靡に、妖しげな輝きを放っていた。
戦場に似合わぬ少女の姿。
しかし彼女ほど戦場の似合う少女もいないだろう。
ただあるだけで、彼女の存在はその場の狂熱すらを凍り付かせる。
この場にある誰もが彼女を知っていた。
竜の顎に纏わり付く恐怖の具象として。
そしてここにある誰もが知っていた。
それは戦場で出会ってはならぬ、少女の姿の絶望だと。
――忌み子、クリシェ=クリシュタンド。
その姿を目にしたゲルツは震え、手に持っていた剣を取り落とした。
「砦の中を虱潰しに殺して回っていたのですが、やっぱりこっちに来てたんですね」
耳をくすぐる甘い声は静かな戦場の中、どこまでもよく通った。
鈴が鳴るように、小鳥がさえずるように。
恐れや緊張――そんな感情とは切り離された声の響きは美しく、戦場でなければ聞き惚れる声であったのかもしれない。
「ええ、クリシェ様。……ここに」
ノーザンは凍り付いた空気の中、剣を掴んだまま自然な動作で敬礼する。
既に勝敗は決したと言わんばかりであった。
隙を見せるノーザンに斬りかかるものもいない。
そして、当然のように、その場に立ったクリシェにも。
「その人がヴィリング将軍ですね。先日ちょっとだけ顔は見ました。遠くからですけれど」
桜色の唇が優しげに、微笑を浮かべていた。
「虱潰し、とは……砦の兵は……」
ゲルツは呟くように尋ねた。
ルーベンス。残してきた副官の顔が浮かぶ。
「クリシェの目的はあなたでしたから。どこかに隠れているのかと思ったのですが……ほら、探そうにもあの煙でしたし」
こほこほ咳き込んで大変でした、と少女は外套で口元を覆うように困り顔を浮かべる。
悪意なく、無邪気に。
「文字通り、虱潰しですよ。あとは多分あなただけですね、ヴィリング将軍」
あなたの副官も殺しちゃいましたし。
狂える微笑でそう告げた。
――ルーベンス=リネア=アルケルドはある貴族の家に妾の子として生まれた。
男系の一族――生まれる子が皆女であったことで、十と少しになるまでは彼が家督を次ぐだろうと言われており、そしてルーベンスもその期待に応え続けた。
並々ならぬ努力を行い、勉学に、剣技に。
病弱な母のため。
麒麟児と呼ばれてなお驕らず結果を示し続け、妾の子であれどルーベンスこそアルケルドの名を受け継ぐに相応しいと、そう言われるまでに研鑽を積んだ。
そんな彼の転機は、父と正妻との間に男児が生まれたこと。
よくある話の一つであろう。
掌を返したように、彼と母への扱いは変わる。
もはやルーベンスには、軍にしか生きる道がなくなっていた。
手柄を立てれば、出世をすれば。
かつて自分が手にしたものを取り返し、母を救うことが出来るだろう。
寝る間も惜しんで訓練を、戦術を学び剣と槍を振るい――そんな彼の幸運は、尊敬すべき上官に恵まれたことだろう。
30にもならぬ彼の才能を見抜き、副官に取り立てたのはゲルツ=ヴィリング。
中央では珍しい、生まれの良さではなく実力で将軍へと成り上がった男であった。
ゲルツは部下に偉ぶらない。
だがその教育は常に厳しく、彼の持ちうるあらゆる経験と知識をルーベンスに叩き込んだ。
一つの油断が数百数千、時には万の人生を終わらせる。
指揮官たるもの、自分に対しての甘さを持ってはならない。
彼の過剰とも言える副官教育に、これまで多くのものが耐えきれず異動を願い出た。
けれどルーベンスだけは逃げず、必死に彼の指導に食らいついた。
ルーベンスが死んでも手放すことの出来ないチャンスであった。
将軍副官という地位は時に将軍の指揮代行すら認められる、名実ともに軍のナンバー2。
コネクションもなく、貴族としての力を持たぬものが副官へ選ばれるということは、そう滅多にあるものではない。
この機会を捨てることなど、ルーベンスには考えられなかった。
元より才あるルーベンスはゲルツが望む以上にあらゆる知識を吸収する。
一つを覚えればすぐに次を。
礼儀正しく熱心で、ルーベンスは良き生徒であった。
それを見るゲルツの顔にはいつしか、厳しいものより優しいものが浮かぶことが多くなり――そんなある日、ルーベンスに彼は言う。
『自分に才覚がないことを私は知っている。だから経験の一つを零さぬように身につけてきたつもりだが……後一歩の知恵があればと、思うことが多くある。だから、自分が役目を終える前に、自分の持ちうる全てを才ある誰かに託したかった。どうか、受け取ってはくれまいか』
――ルーベンス、お前にならば私のこれまで全てを託せると思うのだ。
重く、それでいて背筋が震えるような言葉だった。
自分が求められたこと、自分のこれまでが認められたこと。
それを意味するゲルツの言葉は、彼が父に欲した言葉であった。
彼はそれまで以上に精力的に仕事をこなした。
過信せず、卑下もせず。
ゲルツ=ヴィリングの副官として、その全てを受け取る後継者として。
だが――
「んー、残念。外れです。将軍はいないみたいですね」
その芽を摘むのは一人の少女。
一息に砦の上部にいた兵達を皆殺しにして見せた彼女は、銀色の髪を揺らし、小首を傾げた。
人形か何かのように、どこか無機質な瞳がこちらを見つめる。
見開かれた紫色は不気味で冷たい輝きを見せ、整った顔は人の真似をする人形のようにどこか歪な表情を作る。
敵襲を知らせる鐘の音から僅かな時間も経ってはいない。
鐘が鳴り止む前に現れた彼女は十二人を無造作に――その首を正確に薙いで殺し、ルーベンスの眼前に立っていた。
「アルケルド将軍副官でしたね。将軍はどこに――と」
階下から梯子を登ってきた兵士に、死体の剣を突き立て殺す。
今まで見たどんな剣よりも流麗で、美しく――無駄のない動き。
勝ち目がないことを既に十分過ぎるほど理解していた。
小石を蹴り飛ばすような容易さで、人を殺せる化け物だった。
――降伏すべきだ。
理性が囁く。
だが、ゲルツはまだ戦っている。
彼の敬愛すべき将軍が、最期となるであろう戦場に向かっているのだ。
理性を情念が拒絶する。
「申し訳ないが、あなたを行かせるわけには――」
右手を左腰、剣の柄に。
引き抜かれた剣はしかし、
「……ん、教えてくれそうにないですね」
「ぁ、ぐ……!?」
右腕と共に、床板の上へ音を立てて転がった。
声は背後から聞こえ、目の前には床がある。
いつの間にかルーベンスの体は跪かされていた。
「まぁいいです、適当に聞いていけば誰かに――」
「――うさちゃーん、見つかったー?」
「えーと……」
「うっ!?」
鎧の襟首を掴まれ、ルーベンスの体が宙を浮く。
一瞬の浮遊感と共に、砦の三階にいた体は地面へと叩きつけられる。
受け身もまともに取れず激痛にのたうつルーベンスの側に少女が軽やかに降り立つ。
第一班と二つの班がそこにあり、そこではミアが指揮を執っていた。
「副官だけです、外れですね。ミア」
「……今のところはどこからも」
栗色の髪をした百人隊長は、うわぁ、と顔を歪めてルーベンスを見た。
周囲にあるヴィリング軍兵士達は黒塗りの百人隊と戦っていた手を止め、少女を見る。
眼前にあるのが忌み子クリシェであること、そして落下してきた隻腕の男が副官ルーベンスであることに気がつき、剣を取り落とすものすらあった。
彼等に戦う意志は見えない。
だが。
「――カルア、さぼってちゃ駄目ですよ。クリシェの希望は安全第一、です」
「はぁい」
心の折れた彼等に、斧のような曲剣の一刀が振るわれた。
二人の首が飛び、悲鳴が上がる。
「ひっ」
そしてそれを合図に容赦なく、黒塗りの兵士達が彼等に襲い掛かる。
一度途切れた気力を立て直すのは難しい。
僅かながら連携を保っていた彼等は獣に手足を食いちぎられるように、一人一人殺される。
ルーベンスは苦痛に悶えながらそれを見ていた。
「どうですか、ミア」
「はい、結構逃げたので七割方は処理が終わったかと。タゲル隊は引き続き残敵処理、コリンツ隊は予定通りこれから火を付けてもらおうかと思いますが」
「ん……そうですね。そうしてください」
砦の戦い――こうした障害物と高低差のある地形での戦いは黒の百人隊にとって最もやりやすい状況であった。
迫られれば櫓や小屋など構造物の上部に飛び乗り逃げる。
その後は逆に頭上から無警戒の兵の頭を砕く。
平面機動しか行えない兵士達では、三次元的に動く彼等を捉えられない。
問題なさそうです、とクリシェは頷き、うつぶせになって蠢くルーベンスに尋ねた。
「もう一回聞きますけれど、将軍は?」
「将軍は……ここに、は。降伏、する、だから――」
もはや、抵抗も不可能だった。
ルーベンスは全てを諦め、矜持すら捨てて告げる。
「駄目ですよ、将軍が存命であるのに副官のあなたが勝手に降伏だなんて」
しかしクリシェは諭すように言った。
降伏を受けた際、指揮系統の混乱により被害を受ける可能性がある場合、受ける側はそれを蹴ることができる。降伏という言葉に攻撃を止めたあと、その通達がなされていない部隊、もしくはさらなる上位の部隊からの逆襲を防ぐためだ。
乱戦に陥った状況に将軍の生存という条件が重なった場合、優先されるのは将軍の命令。
副官の降伏宣言を将軍が後から撤回し、逆襲に移ることも聖霊協約上正当となる。
そのリスクがある以上、クリシェに彼の降伏を認めるつもりなどなかった。
徹底的に、刃向かうものを皆殺しにして安全を確保する。
二人目のダグラは出さない。
クリシェの中で既にやることは決まっている。
「そん、な……」
「残念ですね。今回砦で捕虜はとらないつもりだったのです。将軍がいたなら話は別であったのですが」
ルーベンスは周囲から響く悲鳴と、殺されていく兵士を呆然と眺めた。
彼に出来るのはそれだけで、微笑を浮かべる狂った少女にすがるよう、涙すら滲ませ見上げる。
「頼む、どうか――」
「クリシェ様、将軍は西――ヴェルライヒ将軍の所へ少数を率い向かったようです」
「あれ、そっちに向かったんですね。ええとじゃあ……あ、もういいです、お休みなさい」
「ぁ――」
無機質な紫色と、一瞬彼の視線が交錯し。
クリシェはすがりつくような副官の首を踏みつけ砕いた。
「……うわぁ」
「じゃ、クリシェは将軍の所へ行きます。ミア、わかってますね?」
ミアは努めて副官の死体を見ないようにしながら頷く。
「ええと……はい。他からの逆襲があった場合、速やかに撤退します」
「よろしい。それでこそ百人隊長です」
クリシェは偉そうに胸を張り、上官ぶってうんうん、と首を振った。
「勝敗は既に決したようなもの。抵抗はないと考えますが無意味な戦です。一人も死なせないように」
「……はい」
ミアは嬉しそうに敬礼し、クリシェも満足げに頷く。
カルアを見た。
「ミアは下から数えた方が良いくらい剣がへたっぴですから、カルア、ちゃんと守ってあげてくださいね。ミアまで怪我しちゃうと大変ですから」
「ぅ……」
「もっちろん、へたっぴなミアはまっかせてー!」
「カルア!」
ミアが睨むがカルアは取り合わない。
クリシェはそれを見届けると視線を他の三人へ。
三人も了解したように敬礼する。
「じゃ、クリシェはこれで。一日くらいは街でお休みできるように手配してあげますから、ちゃんと頑張るんですよ」
告げるとクリシェは西――ノーザンとゲルツのいる方向へと駆ける。
当然敵兵はいたものの、視界は悪く混乱状態。何の障害にもなりはしない。
彼女の姿に怯えたものは道を空け、怯えぬ勇者は斬り殺される。
彼女を追うものはいなかった。
誰もが自殺であると知っていた。
そして彼女が向かってきた方向――砦のある方を見て、彼等は理解する。
砦の陥落。
宣言通り訪れた忌み子によって、自分達が敗北したことを。
クリシェは邪魔なものを斬り殺しながら、山嶺を薄まる煙の中駆けていく。
そして、乱戦を切り抜け――少し拓けたその場所にはノーザンと、ゲルツ。
両軍二将が向かい合う場に、クリシェは踏み込んでいた。
「――クリシェは無用な流血は避けるべきだと思うのです。全面降伏をしてくれませんか?」
クリシェはゆっくりとゲルツに近づいていく。
「その決断を下せるのはもうヴィリング将軍だけなのです」
軽やかな歩調で。
「きっと将軍は降伏などするものか、と思うでしょう。無謀にもヴェルライヒ将軍にこんな小勢で立ち向かうくらいですから」
ゲルツの行動は論理的な判断からの行動ではない。
無謀に過ぎ、無意味に過ぎる行動であった。
勝敗の結果に影響はせず、痛打を与えられるわけでもない。
それでもこうした選択を行なった理由はわからないでもなかった。
「クリシェには理解はできませんけれど、将軍は大義や栄誉のためだとか、死を尊ぶ美意識をお持ちなのですよね? クリシェはちゃんとそれをわかった上で降伏して欲しいと言っているのです」
微笑を浮かべて、一人頷き。
彼女の他、誰も言葉を発しない。
誰もが彼女が持つ、独特な雰囲気に呑まれていた。
「誓って悪いようにはしませんよ。昼に脅しはしましたが、クリシェはヒルキントス将軍と違ってちゃんとルールは守ります。捕虜に酷い仕打ちはしませんし、ちゃんと同じ王国民として手厚い保護を行なう用意はあるのです。でも――」
狂った紫色はゲルツ=ヴィリングを見下ろし。
「――将軍が断るならば今後のため、クリシェはこの山に残る兵士を皆殺しにしましょう。クリシェと戦うよりは降伏すべきだって、今後クリシェと戦う全ての相手がそう思ってくれるように」
少女の精神は正気にて、狂気に浸っていた。
「指揮統制も取れない軍に、怯えた兵士、夜の闇。容易なことはお分かりでしょう? 以降誰が降伏を宣言しても、許さずクリシェは殺します。知っての通り自己判断による降伏は、こちらが戦闘継続中であるとみなした場合拒絶することが出来ますから」
そして笑顔で尋ねる。
「それを将軍も踏まえた上で、よく考えて返答を。クリシェは正直どちらでも良いと言えば良いのです。どちらにしても、悪くはない結果と言えるでしょうから」
それはどこまでも愛らしく可憐で、人間性の欠けた笑み。
手の内で弄ぶ曲剣は血に赤く煌めき、揺れる。
「でもやっぱり、一般的な倫理感にあわせるなら、人死には少ない方が良いことは確かではないですか? 将軍の一言で救われる命を思うなら、こんな提案の答えなんて決まっているようなものだと思うのです」
――ね、そうでしょう?
断った瞬間、彼女は自身の首を刎ね、言葉通りのことを行なうのだろう。
人としてあるべき躊躇の欠片も、彼女には存在しない。
「……伏、する」
「んー、えと、それじゃあ聞こえません。もう一度、はっきりと、ここにある皆に聞こえるように言ってください。……どうなされるのですか?」
ゲルツは拳を握り締め、繰り返す。
「降伏……する。どうか、兵を、助けてやって欲しい」
未来を託そうとした者を殺されながら、戦場で将として死ぬことすらを許されず。
「……はい。素晴らしい判断です。ふふ、将軍が理解ある方で良かったです」
眼前にあるのは、全てを奪う絶望であった。
ゲルツの積み重ねた全てを折るほどに、少女の心は歪んでいた。
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