第75話 巡り合わせ

――クラレ=マルケルスの戦いの翌日。

天幕の中、ノーザン=ヴェルライヒは眉をひそめた。


「クリシェ様がヒルキントス将軍を?」

「ええ、地形的に可能でしょう。ヴェルライヒ将軍はこのまま竜の顎へ」


ここにあるのは六人の軍団長と副官であった。

例の如く従兵としてミアを含めた黒の第一班が待機しているが、ダグラは訓練のため百人隊の所へ残っていた。


今日の議題はこれからの動きに関して。

どちらが西から迫るヒルキントス軍を抑え、竜の顎を攻めるかだった。


この場の空気としては、兵力を有するノーザンがヒルキントス軍の抑え。クリシェとエルーガが竜の顎攻略という形になってはいたが、クリシェは開口一番、半ば固まっていた彼等の考えをひっくり返した。


「……クリシェ様、流石に無茶が過ぎると感じますが」


筋張った顔を強ばらせ、禿頭の男が眼鏡を傾ける。

サルダン=ガルカロン、ヴェルライヒ軍の第二軍団長であった。


「ヒルキントス将軍は2万以上の大軍を持ってくるでしょう。あちらは我々の東部と違って安定してますからな。しかしクリシェ様はエルーガ軍団長と合わせ1万3000、それでは流石にヒルキントス将軍の相手は難しい。マルケルス将軍とは違い、ヒルキントス将軍は一筋縄ではいきません」


当然の意見であった。

外敵から王国領土を守る四方の将軍はいずれも無能ではない。

アウルゴルン=ヒルキントスは中央にいたクラレとは違い戦績豊富な名将と呼ぶべき人物で、先の帝国との戦でも危なげなくウルフェネイトを解放させている。

いかにクリシェとはいえ、この兵力差でその提案はあまりに無謀。

自分の実力を過信しすぎていると彼等は感じる。


「まぁ待てサルダン。クリシェ様のお話を聞きたい。……重大な方針を決める会議です。流石に何も聞かずにわかりました、とは承諾できません。理由を教えて頂けますか?」


ノーザンが尋ね、クリシェは頷きつつミアを見る。

何も教えられていないミアは一瞬何事かと驚き、そしてクリシェの空になったティーカップに目を向けると慌てたように紅茶を注ぐ。

発言を求めたのではなく、単に紅茶が欲しいという合図であった。


「時間です。ヴェルライヒ将軍の動きは更に二日後、あるいは三日後となるでしょう。対してクリシェとガイコツは明日には出発が出来ますから」


ガイコツ、という言葉に誰もが一瞬ギョっとしてエルーガに目をやる。

それはエルーガのことを指しているのか。

いや、恐らく間違いない。

誰もがそう思いながらもこの空気では誰も尋ねることは出来なかった。

エルーガはその視線に一瞬眉を寄せ、コホン、とわざとらしい咳払いをする。


「ヴェルライヒ将軍達が仮に抑えに掛かるとしたとして、会戦場所はここ。ヒルキントス軍の動きが予定より早くとも遅くとも、障害のない単なる平野しか選べません。強行軍で更に進もうとしても危ういですし、どうあれ無駄が過ぎます」


竜の顎の南部には起伏のない、一面の平野が広がる。

クリシェが開戦場所として示したのはその辺りであった。

そこには戦術的に優位を取れる丘もなく、ここで戦えば対等な条件で真正面から衝突することは避けられないだろう。

彼等はそれを覚悟していたが、クリシェはそれを無駄と断じた。


「……無駄?」

「どれだけヴェルライヒ将軍の軍が精強とは言え、同数近いヒルキントス軍に対してこの場所では正面対決を強いられる。万の損害が出る公算が高いです」

「なるほど。……クリシェ様達だけならば、更に西に戦場が選べる、と」


更に西に行けば、北側は竜の顎から南西に延びるアルケイル山脈の裾――そこから森が広がっている。

川が幾筋にも走った複雑な地形であった。


「ではクリシェ様はこの森にある川を用いてヒルキントス将軍を抑える、と?」

「いいえ」


クリシェは蜂蜜とミルクをたっぷり注がれた紅茶に口付け、微笑む。


「そこでヒルキントス軍を始末します」


その場にいたエルーガ以外は皆驚きに目を見開く。

中でもノーザンは眉間に皺を寄せて、穴が空くような勢いで地図を眺めた。

そうしてしばらく、唸るように告げる。


「……ならば急がねばなりませんね。クリシェ様が狙っているのはここでしょう?」


指さしたのは予想会戦地点とされた平野の西へ二日の距離。

左右を森に挟まれた隘路である。

西からは川を渡ってすぐ――ヒルキントス軍に伏撃を行なうにはこれ以上ない立地であった。


左右の森に兵力を忍ばせ敵縦列を誘い、正面に蓋をしたあと食らいつく。

ヒルキントス軍を兵力劣るクリシェが討つとするならば、これ以上の立地は見当たらない。


「むしろ今すぐにでも出発したほうが良いと思えますが。ヒルキントス将軍の動きは正確には読めない。ここを取れなければ――」

「ガイコツも同じ所に目をつけましたが、ヴェルライヒ将軍がそう仰るのならなお安心ですね。違います」


狙うのはそこではありません、と甘ったるい紅茶を味わいながらクリシェは答えた。

ノーザンが更に渋面を作る。


「ヒルキントス将軍の能力はそれなりに高いものと評価してらっしゃる。そうですね?」

「ええ、個人的な感情を抜きにすれば優秀と言えるでしょう。伊達に王国の西を長年守ってはいない。経験だけで言うならば私やエルーガ軍団長よりも上だ」

「ヴェルライヒ将軍がそう考えるならば、クリシェはますます安心です」


クリシェは微笑み、続けた。


「戦術でクリシェがいつも難しいと考えるのは相手がどこまで読み取るか。相手の行動の裏を掻こうにも、どこまで相手がこちらの行動から意図を読み取ってくれるかが重要な問題になりますから」


敵の行動、その裏を掻く。それを見越してその裏を。

無数の連鎖をどこで止めるか。難しいのはそこであった。

敵の裏を読み掻いた行動は、敵が裏なく行動した場合致命的になる。

それ故敵の能力評価というのはクリシェに取って何より優先させるべき事柄であった。


「記録を紐解いたことがありますから、ヒルキントス将軍の実力は大体わかっているのですが……ご当主様の書庫にもあまり多くはありませんでしたから少し不安が残っていたのです。けれど、ヴェルライヒ将軍もそこに注目して下さったなら、大体上手く行くでしょう」

「……それは」

「ヴェルライヒ将軍がヒルキントス将軍の立場にあったとして。クリシェが先んじて兵力を進ませている状況。そしてその情報を掴んだとしたならば、恐らくは足を早め先んじてこの川の東岸を制圧することを選択する。そうですね?」


ノーザンは神妙に頷く。

ようやく、クリシェの意図が掴めてきた。


「そこが制圧されてしまえばクリシェは小勢、引き返すしかない。その時彼我の距離は精々一日足らず――制圧に失敗したクリシェと、片や制圧に成功したヴェルライヒ将軍。そちらから見て相手は逃げるしかない獲物です、当然ヴェルライヒ将軍はそれを追う」

「……敵の喉笛を食い破るのは、そこ」

「そういうことです。餌に食いつかせれば動きは読めます。単にこの川の東岸に待ち伏せ布陣するのは不確定要素が大きいですから、別の手段で条件を満たせばいい」


要は主導権です、と。

簡単な問題を解くようにクリシェは言った。

ノーザンは真剣に地図に目をやり、何かを考え――首を振る。


「まだまだ私も青い。……クリシェ様はそもそも小勢だから敵を抑えるなどという消極的手段に目を向けてなどいない。ただ相手の首を取ることだけを考えておられる」

「効率が良いですから。首を取ればそれでよし、なら解決は常にシンプルに、それだけを目指すべきだとクリシェは思います」


紅茶に更に蜂蜜を投下する。

もはやほとんど蜂蜜ミルクと成り果てた紅茶を満足そうにクリシェは味わって、頬を緩めた。


「結局兵力の多寡が影響するのは戦場選定の選択肢、そして試行回数です。目的を絞って運用するならばそれほど大きな差にはなりません。同時に戦うのは精々数千の兵に過ぎませんから、その決着が起きる前に決定打を加えれば良い話です」


兵力にあまりの差があるならばともかく、とクリシェは続けた。

決して自分は間違わない。

そして必ず望んだ結果を力尽くでもぎ取って見せる。

言葉には驕りとも見える絶対の自信が透けて見え、そして少女はそんな言葉を単なる事実へ変えるだけの力を持っていた。

幼く可憐に見える少女であっても、彼女はただの少女などではあり得ない。

――彼女は紛れもない怪物なのであった。


「……あなたが敵にいなかったことを感謝するほかないですね。私は自分をそこまで信じることは出来ない」


呆れたようにノーザンは言った。

夥しい血肉を握り、自分を含めた多くの命を賭けに出し、そして栄光のために前へと進む。

生じるのは脳髄が麻痺するような快感と恐怖、高揚感。

指揮者は常にそれを味わいながら、自身の冷静さを保つ努力をする。


盤上遊びなどではない。

選択には常に恐怖が付きまとう。

正しいか、正しくないか――己の正気は確かであるか。

しかしこの少女はどこまでも冷静に、ただ目的だけを見つめていた。


「私とセレネ様が待つのは五日ほど?」


ノーザンは尋ねる。

彼はもはや、彼女の勝利を規定事項として捉えていた。

彼女は竜の顎を武力によって陥落させようなどとは考えてはいないだろう。

彼女の選択としてあり得るものを選び、彼女を見る。


「そうですね。五日ほど――早ければクリシェも四日目までには戻れるでしょう。できればヒルキントス将軍は生きたまま連れてきたいところですが、流石にこればかりはわかりません」


竜の顎にある防衛兵はヒルキントス軍を頼みの綱とする。

それを切り落とせば、どうあれ兵士達の心が折れる。

彼女は竜の顎を降伏させようと考えているのだ。


「では、それに合わせて準備を行ないましょう。とはいえ、それではこちら側があまりに簡単な仕事です。偏りが過ぎる……グランメルド」

「は」

「兵2000を選びクリシェ様に同行せよ」


グランメルドは座ったまま胸を叩くように敬礼をする。

作法としては良くはないものであったが、ノーザンも他の者も気にしない。


「差し出がましいものではありますが、心配性なもので」

「いえ。ヴァーカス軍団長の実力はクリシェも見ていますから」

「異論なければこれで決まりのように思う。意見あるものは?」


ノーザンは見渡し一人が声を上げる。

先ほどのサルダンであった。


「先行するに当たっての輜重は?」

「先日奪った輜重の大部分を森に隠してありますから、基本的にはそれを用います」

「なるほど。……クリシェ様の策を万全とするには、それなりの後方を用意しておいた方がよろしいですな。向こうにはクリシェ様が遅滞行動に入ると思わせておいたほうが何かと都合が良い」

「……それは確かに。クリシェはここから繋げてもらおうかと思っていたのですが」


クリシェは素直に頷き、サルダンは微笑を浮かべた。

先ほどは苦言を呈したものの、彼は特にクリシェに対し悪感情があるわけではない。

見た目通りの少女に対するように、彼の目は優しげだった。


「では、私からもそれに関して提案を」

「はい、なんでしょう?」


サルダンが何を言うのか、クリシェは首を傾げて彼を見て、


「ここから西――途中の街キールザランに知る商人があります。その男に話を通しておきましょう。兵の慰労を兼ねてそこに立ち寄れば、恐らくヒルキントス将軍に文を飛ばす。財力はありますが品のない守銭奴の屑……ロランドという男なのですが」


彼が告げた名前に一瞬、目を細めた。







明朝にクリシェ達は出発した。

まず向かうのは森に隠しておいたマルケルスの輜重。

元々輜重を運んでいたのは雇われの人足がほとんど。

マルケルスがつけた護衛の兵士や傭兵を除けば皆一般人であった。


クリシェ達は襲撃後、書面上で彼等を纏める代表のものと契約を交わし、マルケルスとの間にあった契約報酬をクリシュタンドの名で保証した。

そしていくらかの追加金を払うことで、強引ながらも現状のまま待機させ、輜重をクリシュタンドへ引き渡すことを要求している。


商人自体は武力を持たないものの横の繋がりが強く、全体を見れば財力という大きな力を有する勢力であった。

兵站に関わる契約はそもそもが危険料込みのものであるのだが、特に相手が王国内の商人となると敵に利する商人であってもあまり乱暴は出来ない。

彼等は『王国法に基づく正式な商取引』に則った契約により商品の売買を行なっているだけ。あくまで中立、善良なる一般市民として扱わなければならないのだ。


この辺りは国と商人組合の関係に由来し、難しい部分は多い。

国家は問答無用の武力と権力を有する。商人はそれを恐れる。

商人は莫大な資金を有する。国家はそれを恐れる。

どちらにとっても良い関係にあるのが何よりであり、互いにその関係悪化を恐れる。

二つの関係は半ば法よりも両者の良心、暗黙の了解とも言える部分に委ねられていた。


クリシェ達は商人を武力で拘束し、護衛と称し見張りの兵士をつけ森へ待機させる。

場合によれば武力行使も辞さない。そういう意味合いであった。


当然命を脅かされた彼等はそれを恐れる。多少強引な物言いであっても従うほかない。

けれどそれだけでは後の関係に軋轢を生むため、クリシェ達はクラレとの契約を保証し、そして新たに契約を交わし追加金を支払うことで彼等の顔を立てた。


今回の事はそういうやりとりの末であり、特に問題らしい問題は起きていない。

彼女らが三万の軍を率いたクラレ=マルケルスを容易く討ち取ったことを知れば、勝ち馬はこちらではないかと乗り気ですらある。

襲撃の際、当然彼等の中にも死人は出ているが、仕方ないことと既に割り切っていた。

商人はただ損得で動く生き物であり、そうした意味でどこまでも冷めた感性を有する。


そうして森に隠しておいたマルケルスの輜重を回収した後、クリシェ達は彼等を引き連れ西を目指してすぐに街道へと出た。


距離は若干遠回りにならざるを得ないが、しっかりと足場の固められた場所を歩くかどうかで兵の疲労は大きく変わるもの。

当然それは行軍速度にも影響し、結局の所直線を突っ切るのと時間そのものは大差ない。


この辺りの街道は広く片側を五人の兵士が並ぶことが出来た。

それでも一万を超える大軍となると十里を超える長蛇の列を作ってしまうが、見通しの広い平野となると奇襲の警戒は必要なく、こうして街道を進むことのメリットが大きい。

何事もなく、二日目の夕刻にはキールザランに到着する。


人口十万を超すキールザランは王国でも有数の大都市と言えるだろう。

複数に伸びる街道――それを束ねる流通の要所。

そこに存在するキールザランは当然他の都市と比べ栄えていた。

王都を意識しているのか、塀に囲まれた中央の高台には錬成岩造りの白い家が多い。富裕層はその中に固まっているのだろう。


しかし光と影というもの。

管理が行き届かぬほどに膨れあがった猥雑さ。

街の外には更なる街が築かれ、その隙間に存在するのは貧民街。

街はそれでも際限なく広がっており――キールザランは混沌としていた。

クリシェはその様子に、王都への旅路の途中にあったミツクロネティアを思い出す。


到着前から外の平原に無数の天幕が張られ、こちらを迎え入れる準備が出来ていた。

キールザランに早馬が到着したのは前日のこと。

しかしそれでもこの準備である。

突如現れた一万以上の兵士に対してこれだけ対応できるのは、流石大都市と言ったところだろう。

それだけここには商人の数が多いのだ。

荷ほどきも終えぬ内から商人や娼婦は兵士達に声を掛けていた。


「あらあら綺麗なお嬢さん、貴族の方かしら?」

「……?」


一通りの指示を出し終え、軽い視察。

それが済むと少しの空腹、ちょっと小腹を満たしておきたいところである。

露天で串焼きを購入していたクリシェに声を掛けたのは、露出の多い褐色の美女だった。


「うふ、どうかしら。旅でお疲れでしょう? 私がたっぷりよくしてあげる、こう見えて女の子の扱いも上手なの」

「はぁ……ありがとうございます。でもクリシェは別にお休みするところがあるので――」

「はいはーいストップ! うさちゃんこっち!」

「あ……」


よく分かっていない様子のクリシェは真面目に対応し、カルアに腕を掴まれ引っ張られる。

カルアは頭を荒っぽく掻きながら、呆れたように嘆息する。


「もう、あーいうのに話し掛けられても答えなくていいから。ちょっと目を離した隙に……」

「……でも、話し掛けられているのに無視するのはどうにも悪いような」

「……うさちゃんは放っておいたら三つ数えてる内に誘拐されてそう」


ミアも班の三人も、クリシェの様子に苦笑いだった。

クリシェは手を引かれ、串の厚切り羊肉を囓りながら答える。


「クリシェは強いですし、誘拐しようとしても返り討ちにできるので大丈夫です」


自信満々に告げるが、まるで子供のような彼女の姿には不安しか覚えない。

外套に紋章が縫い付けられているが、クリシェはどう見ても軍人には見えないのも理由にある。


中に着ているのは白いレースのシャツとスカート。

腰には太いベルトを巻き、曲剣を提げているものの、彼女がこの軍における最高位の軍団長であると気付けるものはいないだろう。

クリシュタンド家に連なるものという立場と役割を考えるなら実質的なトップであるのだが、知らぬものがそれを見抜くことは困難極まりない。


片手で串焼きを持ち、手を引かれ、銀の髪を揺らす少女はどう見てもカモである。

それが絶世と冠をつけられる美少女なのだから、自然と周囲の目を惹いてしまう。


「ともかく、話し掛けられてもあたし達がついてないときは無視。ほいほい知らない人について行っちゃ駄目だよ」

「……クリシェはそんなにお馬鹿じゃありません」

「……どうだか」


やや不満そうに頬を膨らませたクリシェに呆れて、再び嘆息。

クリシェはミアに目を向ける。


「ミア、ハゲワシは?」

「指示の通りに。コリンツ隊は休息に入ってます」

「そうですか」


満足そうに頷き、クリシェは串焼きに頬を緩ませる。


「クリシェはガイコツ達と宴に行きます。後はお任せしますね」

「はい、お任せください」


ミアは微笑み、敬礼した。





クリシェ、エルーガ、グランメルド。

屋敷に招かれたのは三人であった。


塀の中にある一際大きな屋敷。

広い庭園に噴水の類が四つも置かれ、彫刻が大門から屋敷扉までの両脇にずらりと並ぶ。

こちらが合図することなく両開きの扉が開かれ、現れたのは美しい使用人であった。


「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、中へ」


ただし、単なる使用人というには格好が少しおかしい。

白と黒のエプロンドレスはスカートの丈が短く、太ももが露出していた。

黒いハイソックスは白い腿を強調するようで、胸元は谷間を覗かせるよう。

見れば屋敷にいる全ての使用人がそのような衣装で、クリシェは見慣れぬエプロンドレスの姿にこういうものもあるのかと感心する。


露出を好まないクリシェではあるが、それも外での話。

基本的にはネグリジェなど楽な格好を好むクリシェは、夏の少し暑い時期であれば悪くないのかも知れないなどと真面目な視点で評価していた。

あからさまに卑猥な衣装であるのだが、クリシェはむしろそれを通気性をよくするための機能的な構造であると感心したように眺める。

今度会ったときベリーにも相談してみようとすら考えていた。


常識人のエルーガは使用人の格好を見て露骨に不快な顔をし、グランメルドは逆にどこか嬉しそうに頬を緩めていた。


外が豪奢であれば中も当然。

金銀細工の飾りや人の背丈よりも大きな絵画、階段の手すりから全てが全て贅を凝らした一品であった。

掃除が大変そうです、などと観察しながら、そうして使用人に案内されたのは大食堂。

扉を開いてすぐに、鼻腔をくすぐるのはご馳走の匂い。


「皆様、ようこそいらっしゃいました」


そしてそれを掻き消す香水の匂いだった。


「このような場所へ招待してしまい申し訳ない。ああ……初めまして、私がキールザラン商会の代表ロランドと申します。ファレン伯爵、ヴァーカス男爵……クリシュタンドの姫君とは以前お会いしましたな。あれは……そう! ミツクロネティアです」


わざとらしく笑って告げる。

肉で張り詰めたような腹を白と金のジャケットで抑えつけ、太ももは黒いスラックスがはち切れんばかりであった。

薄くなった頭髪を後ろに撫で付け、飾り付けるは無数の指輪と装飾品。


「……お久しぶりです」

「ええ、ええ! まさかまたもそのお美しい姿を目にすることがあろうとは……幸運の女神アルセーに感謝を。人目がなければ涙すら流さんばかりの喜びに震えております。これも巡り合わせというものですなぁ……!」


――巡り合わせ。

確かにその通りだろう。

クリシェは外套の下で曲剣の柄を弄ぶ。


「クリシェもこの巡り合わせに感謝しています。昨日の今日でこの外の手配、兵達もこれで少しは気を休めることが出来るでしょう」

「これくらいのことは当然のことです。私は政治に疎いもので、それほど多くを語ることはできませんが……しかし亡き国王陛下を王国民として敬愛しておりました。偉大なる名君であらせられた先王陛下のお命を奪い、その上で王家の正統を名乗るなど……卑しき一商人である私ですら義憤の念が湧き起こる」


怒りを示すように拳を握り、首を振る。

そして熱のある目でクリシェを見つめた。


「……王女殿下の、そしてそのために戦う皆様のために微力を尽くしたい。そう考えております。これまでは自由に動けず服従を強いられましたが、こうして王国の救世主として皆様が来てくださったおかげでようやく私も巨悪に立ち向かえるというもの。もはや感謝などという言葉では言い表せません、何卒私どもをお使いくださいませ」


良く回る口であった。

ロランドはそこまで言い切ると失敬、熱が入りすぎてしまいましたとクリシェ達を促す。


「長旅でお疲れでしょう。ささやかながらでございますが、食事の用意を致しました。まずはそちらから、お話はそれからでもよろしいでしょう。さ、どうぞこちらへ」


三十人は座れるだろう長いテーブルの端から端までが料理で埋まっていた。

豚と羊の丸焼きに鳥の丸焼きが三羽。

スープは何種類あるのか、煮込み料理や焼き物も無数に存在している。

どれも質がいい。


一番奥の席にロランドは座り、その手前にエルーガとグランメルドが。

クリシェはエルーガの隣に座る。ロランドの近くには座りたくなかったためだ。


皆が着席し、酒杯にワインが注がれる。

ワインは好きではなかったが、とりあえずこれは仕方あるまい。

それらが揃ったのを確認するとロランドは手を叩いた。


「ひとまずは、この出会いを祝して。そして王国の未来に」


空々しいことを当然のように言いながら酒杯を上げる。

クリシェもまたそれに倣い、ワインへと口付ける。

苦みがあって、酸味がある。甘くない。

ぴくりと眉をひそめると、気付いた使用人がくすりと笑い、小声で言った。


「ジュースの方がよろしいでしょうか?」


クリシェは素直に頷く。

黒髪を肩で切りそろえ、楚々とした仕草。

そんな使用人の雰囲気はどことなくベリーに似ている。


食事を取りながらもロランドは喋り続けた。

料理について、昨今の経済について、民衆の暮らしについて。

そうした話に関してはエルーガとグランメルドが対応する。


クリシェの役割というものは先ほどの挨拶で終わっている。

素直に食事を楽しむことにしていた。


使用人さん、などと呼ぶと使用人は苦笑して、エルヴェナと呼び捨てくださいと微笑む。

優しげな雰囲気はどこまでもベリーにそっくりだった。

童顔可憐なベリーと違い、彼女は美人という感じであるし、背丈もこちらの方が高い。

けれど悪戯っぽく、静かに笑う姿はどこかベリーを思い出させる。


「珍しい。フーレの香草ですね。きちんと揉み込んで……下味は天日塩とエルキシュの実でしょうか」

「……よくおわかりになるのですね」

「お料理好きなので」


ロランド達が真面目な話をする中、クリシェは料理研究に熱心であった。

王宮で食べたものと趣向は似ている。


「私は料理にあまり詳しくないのですが……南方ではよくフーレの香草が使われるそうです。なんでも、あちらでは自生しているそうで」

「なるほど……そういえば聞いたことが」

「南方の料理でしたら……ああ、あちらがお気に召すかも知れませんね」


ほんの少し楽しげにエルヴェナは料理を取り分け、クリシェの前に並べていく。

南では辛みのある料理が多いらしく、クリシェの舌に合わないものも多かったが、それでも発想に新鮮さを感じるものも多くあった。


これもおいしい、あれもおいしい。

ロランドを無視することでクリシェは上機嫌。

それを微笑ましそうにエルヴェナは見て世話を焼く。

ロランドもまた、クリシェがエルヴェナを気に入ってる様子を見て特に声を掛けることもなかった。


そうして食事が終わりに近づく頃にはグランメルドはすっかり酒に酔った様子を見せ、顔を赤くし楽しげに笑う。

ロランドは彼を持ち上げるように美辞麗句を並べ立てた。


「――はは、いやいや、勇名轟くヴァーカス男爵がいらっしゃれば次の戦も安心ですな。竜の顎と言えど、大狼の前には形無しでしょう」

「ん……?」


一瞬、不自然に会話が止まる。

そしてグランメルドは取り繕うように言った。


「……ああ、間違いない。任せておけ。西から来るヒルキントスも気に掛かるが……その前に終わらせるつもりだ」

「……ヴァーカス軍団長」


エルーガの声にグランメルドはわかってますよ、と笑って手を上げる。

ロランドの目が僅かに細められた。


「ヒルキントス将軍。噂は耳に入っております。なんでも王弟殿下についただとか……」

「そのようだな。だが俺たちの敵ではない」


どこか酔いから醒めたような声。

グランメルドの太い両腕が組まれた。

会話を打ち切りたがっているサインを見て取り、ロランドは笑う。


「なるほど勇ましい。とはいえ、食事の場には無粋な話でしたな。私は商人、剣を持って戦う勇ましさは持ち合わせておりませんので、ついそうしたところが気になってしまう」

「仕方の無いことです。ですが、些細なことであっても今は戦の最中、気を付けて頂けるとありがたい」


エルーガは苛立たしげにそう言ってワインを口にする。


「ええ、気を付けましょう。……食事もいい頃合いですな。この辺りでデザートと行きましょう、さ、持って来てくれ」








食事の後は湯浴み。

グランメルドは先に部屋へ戻され、契約についての話はエルーガが行なっている。

それが終わるまでは動き出すこともないだろう。


「綺麗な髪でございますね……羨ましいです」

「えへへ、洗ってもらうの久しぶりです。長いとちょっと大変で」


髪についた泡を湯で流されて、クリシェは心地良い感触に目を閉じる。

その髪を丁寧に指で梳きながらエルヴェナは微笑む。


「私は癖っ毛にございますから、こういう長い髪は似合わなくて……羨ましいです。姉もこんな風にとても綺麗な長い髪をしていたんですよ」

「お姉さんがいるんですか?」

「はい。自慢の姉です。ふふ、もうずっと……会ってはいませんが」


クリシェは振り返り、エルヴェナの左肩に刻まれた入れ墨を見た。

歪な星形――奴隷商のマークだそうだ。

王国では公に認められてはいないものの、実際にはそうではないし人攫いも存在する。


食事代や運賃、宿代――名目は何でもいい。

そうした名目で書類に捺印させて借金を負わせ、そして借金返済の名目で奉公に出される。

建前はそういうものだ。

しかし彼女等はその契約によって体を縛られ、自由を奪われる。


やりとりは完全に真っ黒。

けれどそれに対し法的処罰を行なうこともまた非常に難しい。

人を攫う業者、借金を負わせる業者、そして債権を買い付け売る業者。

全てが分担されているし、大抵債権は複数の業者間で右へ左へと回されているため足取りを追うことは難しい。

この場合罪を問われるのは人を攫う業者と借金を負わせる業者だけだ。

債権を買い取る業者は事実を知らない善意の第三者として扱われることが多く、奴隷一人のために掛かる人件費を考えれば捜査を諦め見て見ぬ振りというのが国の実情。


債権の持ち主はロランド。

そしてその下で働くことで、彼女は借金を返済している。

仮にそういう形でも表向き問題は何もなかった。


「細い肩。クリシェ様も……その、戦われるのですよね?」

「はい」

「怖くは……ないのですか?」

「ん……自分が戦うことに関しては、特に」


戦うことは怖くない。

殺されるのは自分ではなく、自分の前に立つ相手であるから。


「……クリシェの大事な人が戦うのは嫌ですから、なるべくそうならないようにやっているだけです」

「ご立派なのですね。これほど小さなお体なのに」

「単なるお仕事ですから。クリシェは立派だなんて思いません」


クリシェは少し考えて、告げる。


「クリシェはエルヴェナが今やってるみたいに、誰かを喜ばせるようなお仕事が一番立派だと思います。クリシェはとても嬉しいですし」

「あら……ありがとうございます」

「はい。クリシェの大好きな……尊敬する使用人も、いつもエルヴェナみたいにずっと優しくて、だからクリシェも戦が終わったらそういう風になりたいなって」

「失礼……なのかも知れませんが、ふふ、変わってらっしゃるのですね」


おかしそうにエルヴェナは笑い、立ち上がる。

そして手を引き、薄紅の花弁を散らした湯船の中に導いた。


「変ですか?」

「いえ、とても素敵なお考えです。素直でお優しい方……そういう方は珍しいですから」

「……クリシェはそんなに優しくないと思うのですが」

「とてもお優しく見えますよ。だから、こうしてお世話をする側のわたしも嬉しくなってしまいます」


くすくすと。

エルヴェナは対面に座ると頬を撫でる。

膨らんだ乳房とくびれた腰――女らしい肉体をほんの少し隠すように。

顔を近づけ、エルヴェナはクリシェの美貌を眺めた。


「エルヴェナはあまり好きではないのでしょうか?」

「……お相手がクリシェ様のようなお方ばかりであれば、とても幸せなのかもしれません。ただやはり、ここのお客様は色んな方がいらっしゃいますから、随分慣れた今でも時折辛くも感じます」

「……なるほど」


そしてゆっくりと、首筋へ。

クリシェの細い肩から少し下――鎖骨の辺りに口付ける。

くすぐったさに身をよじると、クリシェの控え目な乳房を包み込むように掌で撫でた。


「あの……?」


エルヴェナは何も言わずじっとクリシェを見つめ今度は上へ。

鼻先を擦り合わせるように近づけて、唇を押しつける。

クリシェは驚きに目を見開いて、きょとんと目を開けたままエルヴェナを見ていた。


その様子に気付いたエルヴェナはしばらくその目を見つめ、そして唇と体を離すと楽しげに、おかしそうに肩を揺らす。

不思議そうにクリシェが小首を傾げると、より一層楽しそうに。


「ふふ、うふふ……駄目ですね。ちょっとした悪戯心だったのですが、どうにも、毒気が抜かれてしまいます」

「いたずら……」

「あんまりお可愛い事ばかり仰るから、少しからかってみたくなったのです。けれど思った以上に……だめです、ふふ、お許しを」


可愛い、からかう。

そこで彼女の行動の意図がわかって、クリシェもようやく納得がいく。

そして真面目な顔をすると彼女の唇へ指先を突きつけた。


「からかってちゅーするのは駄目ですよ。ちゅーはですね、とっても好きな人としないといけないんですから」


そう告げると更に楽しげに、エルヴェナは顔を俯かせて笑いだした。

何がおかしいのか。

クリシェはむう、と考えこみつつエルヴェナが落ち着くのを待った。


しばらくして目元を拭い、まだ笑いを残しながらエルヴェナは告げる。


「はぁ……これほど笑ったのはいつぶりでしょう」

「クリシェには何がそんなにおかしかったのかよくわからないのですが……」

「ふふ、クリシェ様はきっと、おわかりにならないままで結構でございますよ。でも、そうですね、本当、クリシェ様の使用人の方は毎日幸せでございましょう。とても羨ましいです」


エルヴェナはため息をつくように、笑いのあまり込み上げた涙を拭って微笑む。


「……このような場で、わたしのような者が言うのはどうか、と思いますが……本当に、ご武運をお祈りしております」

「……ありがとうございます。クリシェも、ええと……良き巡り合わせがあらんことを」

「ありがたいお言葉……けれど、きっと今日が良き巡り合わせでございました。向こう数年は今日のことを思い出して笑っていられることでしょう」


エルヴェナは言って立ち上がる。


「今日は天幕にお戻りになられるというお話でございましたね。少し残念です」

「……そうですね、クリシェもちょっと残念です。でも……」

「……?」

「いえ。クリシェもお湯にゆっくり浸かれて満足です。ありがとうございました」

「いえいえ、そう言って頂けるのは何よりの誉れです」


くすりと微笑を零す。

切れ長の目尻――色素の薄い唇、全体としてすらりと通った顔立ち。

エルヴェナの雰囲気はベリーに、しかし顔立ちはまったく違う。


けれどその顔立ちにもどこか見覚えがあり。

そんな不思議な笑顔であった。


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