第76話 顔
エルーガはそのまま食事だけを済ませ天幕へ。
クリシェも風呂を浴びて同じく。
酒に酔い屋敷に残ったグランメルドにはロランドが女を宛がった。
情報を得るためだが、特に期待をしてはいない。
既に重要な情報の目星はついていた。
部屋には目を伏せたエルヴェナが姿勢正しく立ち、ロランドは執務机で書き物を行なう。
そしてもう一人。
壮年の男が膝をつき、無言で主人を待っていた。
顔立ちはっきりとしない、起伏のない顔。
背丈は高くもなく低くもなく、体格も並だった。
街の人間が着るようなシンプルなズボンとシャツを着込み、肩提げの鞄を一つ。
言うなれば、記憶に残らない姿をした男であろう。
後で思い出そうとしても曖昧にぼやけてしまうような、そんな男だった。
ロランドの密偵――名はダグリス。
元は暗殺者であったが、その力量を買われこの二十年ロランドの下で働く男であった。
今年で60を迎え、魔力を操る身であれど肉体に衰えを感じ始めていたが、培われた経験と技術は人混みに紛れ、夜闇を駆け、森を踏破し、厳重な警戒をくぐり抜ける。
こうして自分が呼ばれるということはよほどの重大事だろう、とダグリスは考えた。
長くこうした仕事を行なってきた身、頭が回らなければ生きてはいけない。
詳しくは知らずとも用件はおおよそ理解が出来た。
「分かるな、ダグリス」
「はい。軍の警戒程度であれば容易いことです。ヒルキントス辺境伯へ?」
景気や評判、軍の位置。
噂話の一つ一つを拾い上げ、そうした情報を束ねることで物事の予測は立てられる。
そして主人が何を望むのかも。
ダグリスの言葉に対し、満足そうにロランドは頷いた。
「ああ。竜の顎に向かうつもりはないようだ。王弟殿下にはなるべく恩を売っておきたい」
ロランドは表の商売の傍ら、奴隷売買を行なう。
無論、自分の手は汚さない。やらせているが正しいだろう。
王国中央に深く根を張り、彼は自身の王国を築きあげてきた。
彼にとって内戦の勝者がどちらであるほうが良いか――考えるまでもない。
ギルダンスタインはロランドにとって重要な顧客の一人だった。
王弟の失脚はロランドの商売にも大打撃をもたらす。
対するクレシェンタは平和を尊ぶか弱き哀れな姫君。
その周りを囲うは名誉と大義、犬の餌にもならぬ矜持を尊ぶ阿呆共。
そんな王女の治世となれば商売はより難しく――どちらが良いかは天秤に掛けるにも値しない。
マルケルス軍の敗北を知ってはいるが、大きな問題とは捉えていなかった。
英雄なきクリシュタンド。
その娘が指揮を執り、頼みの綱はノーザン=ヴェルライヒだけ。
まず問題なくギルダンスタインが勝利するとロランドは見ていた。
自分はそれを後押ししてやるだけで良い。
彼等が王都に向かえば賊を雇い、その背後を狙ってやるのも悪くない。
それだけで彼等は王国の中で溺れ死ぬことになり、ますますロランドは王国中央との繋がりを太く出来る。
そんな未来にほくそ笑み、ペンを走らせながらロランドは尋ねる。
「エルヴェナ、あの忌み子から何か聞き出したか?」
「……いえ」
「役立たずめ。……元より期待もしてはいないが、だからと言って努力の様子も見えんとなると話が違う。お前がこれまでまともな話を聞き出したことがあったか? お前は股を開いて鳴くしか能がないのか?」
「……申し訳ありません」
震えて告げるエルヴェナに、ロランドは嗜虐的な顔を見せる。
品性のない笑みだった。
「いや、それならそれで良いぞエルヴェナ。そういうことならば俺も優しい男だ。お前のような売女を喜んで使ってくれる主人を探してきてやろう。四肢を切り落として喜ぶくらいの主人でないとつまらんのだろう」
「っ、お許しください、ロランド様……」
「その言葉を何度聞いたことか。ふん、まぁいい。俺が優しい主人でいるかどうかはお前次第……わかるな、エルヴェナ?」
「……はい。どうか、ここへ置いてください」
ダグリスはいつものやりとりを眺めながら呆れていた。
どんなときも脅しつけなければ女を抱けない。
自分の外見や力に対するコンプレックスが滲み出ていた。
ロランドを醜悪であると感じるが、そのコンプレックスこそがこの男を王国有数の大商人にしたのだろう。
臆病であるが故に周到で、力を得るため他人の靴を舐めることも厭わない。
人としての尊厳全てを金という力のために捧げたような屑だった。
とはいえ、それから金をもらう自分も似たようなものかと内心で笑う。
この光景に義憤もわかず、哀れとしか思わない。
こうはなりたくないものだとエルヴェナを軽蔑するように見ながら、暖炉で蝋を溶かし、ロランドの所へ。
ロランドが羊皮紙を巻いて置き、そこへダグリスが蝋を垂らす。
押されるのは羽の生えた天秤の紋章。
天秤は公平と平等を示すものだ。
この腐った商人のどこに公平さがあるものかと、その紋章に呆れつつもダグリスは受け取る。
「では、ロランド様」
「ああ。粗相のないようにな。……エルヴェナ、失態を償うチャンスをくれてやろう。こちらに来い」
「……はい、ありがとうございます」
ダグリスはそれを見ることなく部屋を出て、二階へ。
奴隷と何人かすれ違いはしたものの、その卑猥な衣装や美しい容姿に感情の一つ、興味の欠片も抱かない。
仕事の間ダグリスはカラクリか何かのように、ただ目的のために行動する。
律儀に頭を下げる女を無視するように廊下を進み、突き当たり。
鞄から暗い青灰色の外套を取り出し被り、窓から外へと踊り出る。
そうして夜闇に身を溶け込ませ――そして、その瞬間に気付いた。
「……出だしからか」
――複数の視線。
姿は見えない。だが周囲の建物の配置――そこから潜む影の居場所に見当を付ける。
素人か。しかし視線は屋根の上や塔。高台から向けられていた。
魔力保有者。それも複数だった。
強引に抜けるには危険が大きいと判断する。
何度も死線をくぐり抜けた体。ダグリスとて手練れの一人や二人に後れを取るつもりはないし、荒事はむしろダグリスの領分だった。
とはいえ、視線の感触と数を考えれば、刃を振るって突破するのは無謀であった。
どうにも最初からロランドは狙われていたらしい。
驚きはなかった。むしろ慣れたものと言うべきか。
予定通りの仕事の方がダグリスにとっては珍しい。
誰でも出来る程度の容易な仕事であれば、わざわざダグリスが呼ばれることなどないからだ。
相手は恐らく兵士だろう。
仮にそれが同業であっても、ダグリスの技術をもってすれば逃げることは容易い。
塀を超え、屋根に飛び移る。
そしてすぐさま路地へ。
この街は庭のようなものだった。
路地から無防備な家の窓を潜り、誰にも見つからない内に別な場所から外へ。
二度も繰り返せば完全に視線はこちらを見失う。
自身が向かうべき方向もダグリスは既に見いだしていた。
まるで見えないはずの視線を視覚で捉えるように。
その隙間をくぐり抜けるように夜闇を駆ける。
緩急をつけた動き――風に踊る外套にすら彼の意識が宿っていた。
走る音も、衣擦れもなく。
ダグリスは街の中央を区切る壁を越えて外へ。
家々の隙間を抜き、姿勢を低く。
自身の体に染みついた技術――姿を捉えられなくなったが最後であった。
そうなれば、自分を追える者などこの世のどこにも存在しない。
追っ手も監視者も完全に消えた。
それを確認しても油断なく、彼は音も無く屋根から飛び降り――
「止まってください」
――そして、その首へ刃を突きつけられた。
「っ!?」
思考するよりも早く体が動く。
靴の踵――飛び出し式のナイフを背後へ。
感触はなかった。気配もなく、音も無い。
視界の端に揺れる銀の髪――ただそれだけを微かに捉える。
腰を捻ると次は腕。
仕込みの刃で背後を振り払い――そこでダグリスの世界が回る。
痛みもなく、いつの間にか空を仰いでいた。
右腕は踏まれ、歯の隙間に刃の切っ先が差し込まれている。
欠けた月を背後に、眼前にあるのは銀の輪郭。
闇色の外套が炎のように揺らめいて。
――紫の瞳だけが月よりも冷ややかに輝いていた。
「要求は動くな、です。これ以上抵抗するならば、まず舌を噛めないよう歯を砕きましょう」
少女の口元に浮かぶは微笑。
「その後は指を先端から切り落として、皮を剥ぎます。安心してください、クリシェは獣の解体で慣れてますから、殺さないように出来ますよ」
美しく、蠱惑的で――けれど猛毒を秘めた花のように。
寒気のするような笑みだった。
「分かったなら、瞬きを二回。分からないなら目を閉じてください」
何故、どうやって、俺を。
ダグリスの頭にあるのは困惑と、遠く忘れていた恐怖であった。
気配もなく背後を取られ、一瞬で抵抗の出来ぬ状況に追いやられている。
刃に震えた歯が当たり、ダグリスは二度瞼を閉じる。
「……良かったです。大丈夫ですよ、ロランドは近々死にます。あなたが身の安全を望むならばそれは保証してあげましょう。少しお話を聞いて、約束をして、クリシェのために働くこと――それさえしてくださればクリシェも決して酷いことはしません」
色々と面倒なのです、と困ったように少女は告げる。
クリシェという名は知っている。
クリシュタンド第一軍団、現軍団長――噂の忌み子であった。
ベルナイクの首狩人、忌み子のクリシェ。
竜の顎での戦いはここにまで伝わっている。
その勝敗は当然ながら、彼女の名も。
この街にも戦場に出かけた兵士が何人も戻ってきている。
一部は狂を発して、日常生活すら送ることは困難であるという。
戦場に出たものがその現実に打ちのめされて返ってくるのはよくあることだ。
そうした噂話を特に重くは見ていなかった。
それなりに剣の立つ貴族なのだろう、と。
忌み子で、化け物であるなどという言葉を信じてはいなかった。
魔力を扱うものは多かれ少なかれ、常人からはそのように見られるもの。
常人の目からすればダグリスもまた十分過ぎる化け物と言える。
恐らくは木々の中という閉塞的な空間で戦うことに慣れた優秀な魔力保有者であり、その状況への恐怖と甚大な被害が彼女を怪物であると表現させたのだろう。
よくある話だと、そう考えていた、が――
「本当ですよ。クリシェはあんまり、嘘はつかないのです」
その紫色に見つめられ、震える体を感じて思う。
――ああ、まさに。
これは忌み子に他なるまい。
ダグリスは自分の力を軽くも重くも見ていない。
過信や驕りを持つような歳でもない。
それでもこの街では、いや王国内であれど自身と並びうるものは数えるほどだろう。
そう自負するからこそ、彼女が理外の化け物であると理解が出来た。
伝え聞いた眉唾程度の噂話。そこで語られる彼女の姿。
眼前にある少女は、まさに噂通りの――
「……あなたの所属する組合は夜の爪でしょうか。それとも闇夜の羽? 前者なら瞬きを一度、後者なら……ああいえ、どちらでも良いです」
少女の口が言葉を紡ぐ。
甘く耳がとろけそうな声であり、
「あなたが何のためにお仕事をしてらっしゃるのかはよくわからないですけれど、きっと最終的には何かしらの利益のためにお仕事をしているんだと思うんです」
しかしどこか、歪であった。
「あなたが協力するならあなたの利益のため、クリシェが色々便宜を図ってあげましょう。けれど断るならば――」
――その時は虱潰しです。
そう告げる彼女の瞳。
路傍の石でもみるような――人が虫に、そして神が人に向けるような。
それはそういう、絶対者の瞳だった。
「適当にロランドもあなたも殺して、この街の今ある仕組みもまっさらに。……ね、そうなったらあなたの仕事が何であれ、あなたの望みが何であれ、喜ばしくないことだと思うのです。ですから、ここはやっぱり頷いておくべきでしょう」
うんうんと頷きながら、少女は目を細めた。
「クリシェも乱暴な手段を取ることも出来ますけれど、とても非効率で大変ですから。だからあなたにも協力してもらいたいというだけ。クリシェはなるべく平和的な解決がしたいのです。もちろん謝礼は弾みますよ。いかがでしょう?」
ゆっくりと曲剣を歯の隙間から引き抜く。
けれど舌を噛む隙一つない。その前に歯を叩き折られる。
「っ、謝礼、と言ったか?」
ダグリスは完全に諦め、尋ねた。
裏の世界に生きるものとして、多少の矜持はある。
だが、利益にもならぬ矜持を捨てられぬほど若くも、耄碌もしていない。
従え、でなければ死ね。お前の周りを含めて全て。
要求はただそれだけで、彼女には一切の迷いも無く。
そして自分にはなすすべもない。
彼女の瞳を向けられた時点で、終わっていたのだ。
「ええ。何が望みでしょうか?」
「例えば俺が……この街を望むと言ったら、あんたは頷いてくれるのかい?」
「そうですね。これまで通り秩序を作り、目立った悪さをしないという約束の上でなら構いませんよ。クリシェはあなたたちの商売にはあんまり興味がないですから」
言葉通り――ダグリスの命にもまた『興味がない』のだろう。
目の前にある化け物が何を目的にしているかはわからない。
しかし、わかることもある。
「わかった……いいだろう。あんたを敵に回すのはどうにも旨くないようだ」
ロランドは頭を垂れる相手を、致命的なまでに間違えた。
「それで……俺に何を望む?」
それは経験によるものか、生まれついての本能か。
幾度の死線をくぐり抜けた体がダグリスに伝えていた。
この戦いに勝利するのは、王弟ギルダンスタインではないのだろう、と。
「予定通り走ってもらってます。ロランドの首をすげ替えるのは問題ないでしょう」
そこからいくらかの面倒を終え、終わった後向かったのはエルーガの天幕だった。
クリシェが椅子に座った彼に近づきながら告げると、エルーガは頷き邪悪な微笑。
「何よりですな。……後顧の憂いはなし、といったところか」
先日はロランドと出会った時、殺すための理由がなかったことが何よりの問題であった。
だが今回は違う。
この街は今後、兵站の拠点となる重要な場所として扱われる。
支配者は当然、こちらにとって協力的な相手でなくてはならず、つまりロランドは不適当。
であれば、殺すほかの結論はない。
背後に不安材料を残すことは何より避けるべき状況であるためだ。
軍の行動を阻害する要因は可能な限り排除すべきで、先日クリシェがロランドの始末を提案した際、反対するものも存在しなかった。
それは正義の名の下で、不快な男の始末が出来ることを意味する。
クリシェは上機嫌であった。
後々のために多少の工作に走る必要があったものの、クリシェはそれを苦にも感じていない。
「しかしまったく、ヴァーカス軍団長には困ったものです。これ幸いと悪のりを」
「ヴァーカス軍団長は良い演技をしていたと思いますけれど……」
「ああいえ、その後のことなのですが……」
「……?」
「……すみませんお忘れを。気にしないでください」
こちらの目的が竜の顎でなくヒルキントスにあることをロランドに伝えておく必要があった。
グランメルドは酒に酔った振りをし、ロランドを動かす役目。それは良い。
だがグランメルドはこれ幸いと屋敷に残り、ロランドの用意した女と過ごしていた。
エルーガはそうした彼の不真面目さに対して怒っていたのだが、年若い乙女の前でそれに関して云々と長々説明したくはない。
とはいえクリシェも田舎育ちの娘である。
人間のそれはよくわからず、興味もなく――鍋の横で踊る鶏が如く無警戒で無防備極まりないクリシェであっても、獣の交尾レベルの知識はあるし、男の中には金を払っても交尾したがるものが結構いる、程度には理解もあった。
当然そうした内容の会話で恥じらう感性など持ち合わせてはいない。
クリシェという歪な少女にエルーガが気にすることは何もないのだが、もはやそれは老人の性というべきだろう。
実の孫娘のように可愛がるクリシェには、そうした品のない話とは無縁であって欲しかった。
「ロランドは後日処刑でいいとして……使用人の方達はどうなるのでしょう?」
「さて。あの様子ですと、皆借金を負わされておりますからな。またどこかへ流れていくでしょう」
「……そうですか」
「何か気に掛かることが?」
どこか考え込むようなクリシェの様子にエルーガは尋ねる。
「えと、クリシェがお話ししたのは優しい人でしたので、できればなんとかしてあげたいなと」
「ふむ……まぁ債権をロランドが持っているならば事実上の奴隷として法を適用し、解放することは容易でしょう。しかし他にあるといささか面倒です。ああした奴隷の仕掛けは罪に問うことは難しいですからな」
「……なるほど」
エルーガには意外な言葉であった。
だが彼女の心根が優しいことはよく知っている。
努めて諭すように、柔らかい口調で告げる。
「ああしたものはそれこそどこにでもいる。不憫ではありますが、全てを助けることもできません。時には見なかったことに――」
言いかけ、エルーガは首を振る。
「いえ、こういうものは忠言とも言えませんな。醒めた老人の戯言、押しつけでしかない。才能あり、未来あるクリシェ様には不適切でしょう」
富む者あれば貧しき者あり。
奪われる者は奪われ続ける。
それは世の摂理であった。
一度定まったものを覆すのは並大抵のことではなく、只人の手に余ること。
――けれどそれも只人なれば。
目の前にある少女はそうではない。
「拾えるもの全てを拾えばいつかは手に余り、重荷に潰れてしまうもの。クリシェ様のそのお考えは尊ばれるべきものではありますが、貧者に施しを行なうあまりに身を崩した者が多くいることは知っておいたほうが良いでしょう」
「むぅ……確かに。それは一理ありますね」
個人の借金を立て替えてやる程度ならば、どうとでもなることだった。
先日の神聖帝国との戦――クリシェは副将の首を獲り、将軍補佐を捕虜とし、他諸々の活躍を合わせてセレネ以上の褒美をもらっている。
全てクリシュタンドの家に放り込んでいるが、クリシェが希望すればいつでも引き出せる小遣い制。彼女を助けようと思えば、それでなんとかなるだろう。
けれど、今後同じように何人も、となると難しい。
「権力、暴力、そして財力。力を持つ者には正しき力の使い方を求められます。それをよくお考えになった上で、どうしたいか。何を望み、選ぶか。正しさにこれといった答えはなく、非常に難しい問題ですが……」
「……ベリーも昔、同じことを言ってました」
クリシェは困ったように視線を泳がせ、頭を下げる。
「ありがとうございます。……クリシェ、もうちょっと考えます」
「ええ、それがよろしいでしょう。……とはいえその上での結論ならどうなされるかはクリシェ様の自由です。私はどのような結論であっても、その手伝いをする気でおりますよ」
クリシェは嬉しそうにエルーガを見つめる。
エルーガもまたその顔を嬉しそうに――まるで墓の下から起き上がった屍食鬼のような笑顔を浮かべると、クリシェの頭を優しく撫でた。
僅かに頬を染めたクリシェは頭を撫でる手を眺め、微笑む。
「えへへ、ガイコツには色々してもらってばっかりです。沢山お返ししないといけませんね」
「お返しなど。私が好きで手伝いをしようとしているだけですよ」
「じゃあ、クリシェもいっぱいガイコツのお手伝いしますね。なんでも言ってくれていいですよ」
「これは困りましたな……」
そのやりとりをこっそり、一人見守っていた副官クイネズは、声だけを聞くなら微笑ましいやりとりだなと、目頭を揉んだ。
好好爺と孫娘――しかし目に映る光景はどこまでも邪悪である。
立てば死神、座れば魔王、笑う姿は言葉にならず。
ただでさえ部下に恐れられるエルーガの邪貌は笑みを浮かべることでその恐ろしさが増していた。
相手も可憐な少女の姿をしてはいるが、首狩人と敵に謳われる怪物である。
竜の顎で戦っていた兵士達はマルケルス軍にいくらかあったが、その誰もがクリシェのことを恐れていた。捕虜の中には彼女を恐れるあまり逃亡した兵すらあったと聞く。
何をどうすればそこまで怯えられるのか。
勇壮で知られる軍は多くあれど、これほど邪悪に満ちた軍もあるまい。
「……クイネズ、聞いていたな?」
「っ、は!」
「どのようにでも対応できるよう、手を回しておけ」
「は! 了解しました!」
クリシェに対するものとは真逆――地の底より響くような、呪詛が如き声である。
クイネズは規則正しい敬礼を行なう。
「色々とこちらで調べてはおきましょう。とはいえまずは目の前の一戦です」
「はい、ありがとうございます。クリシェ、頑張りますね」
「ええ、ええ。無理をしないで済むよう、非才な身ながらもできる限りはその手伝いを」
「ふふ、ガイコツはちゃんとやってくれる軍団長さんですから、クリシェもとっても心強いです。じゃあ、一緒に頑張りましょうね」
「もちろんですとも」
クリシェに対しては一転優しい声音。
そんな自分の軍団長を見て、自分に対してももう少し、などとクイネズはなんとも言えない気分になったが、エルーガに微笑まれるというのもそれはそれで罰ゲームである。
結局何もしないで見守るのが一番だと、クイネズは静かに嘆息した。
クリシェがエルーガとの話を終え天幕を出ると、外にはいつも通り第一班。
お仕事は終わりです、とクリシェは一言五人に告げる。
「いやー、流石うさちゃん。ミアなんかすぐに見失っちゃったのに」
「……それはカルアもでしょ」
「あたしはちゃんと、見当つけて追いかけてたでしょ?」
ミアが膨れて告げると、カルアは笑う。
周囲を固めていたのは黒の百人隊であった。
流石に逃げる密偵一人を追うとなると、クリシェでも手間を食うためだ。
極めて効率の良い魔力運用、体捌き――クリシェの身体能力は魔力保有者の中においても常識外と言えるものがある。
だが単純な体格差や歩幅、根本的な体内の魔力量など諸々の条件を加味すると、人より劣る部分も多くあり、例えば直線的に逃げる相手を追うにはそれなりに苦労することが避けられない。
壁を、天井を、木々を足場にした加速に旋回、跳躍。
クリシェにそうした機動力の高さはあっても、単純な速度では他の魔力保有者に対してそれほど優位に立てるわけではないのだ。
そのため今回はルートを絞るためだけに百人隊を運用。
そちらに気を取られている男の逃げる道筋を予測し、気配を消して待ち伏せた。
クリシェの技術があればそれだけで十分。
向かう先さえ分かれば相手を待ち伏せ、抵抗力を奪うことは彼女には容易なこと。
ダグリスはその罠にはめられたことになる。
「アドル、ハゲワシに報告を。その後は大休止に。明日はちょっと早いですから」
「は!」
「ミア達も解散してもらっていいですよ。クリシェはこれからお休みです」
「わかりました」
「今日は天幕だし、うさちゃん一緒に寝てあげようか?」
からかうようにカルアが言った。
ここまでは雨も降っておらず、完全に青空野宿であったため独り寝であったのだが、今日はしっかりと天幕を張ってある。
クリシェは提案に少し驚きつつも考え、やや恥ずかしそうに頷く。
「えと、じゃあそれでも……あ、ミアはカルアの横で寝てくださいね」
「ぅ……は、はい……というかわたしも……?」
「……? ミアは一緒に寝ないんですか?」
「い、いえ……」
クリシェは根本的に、他人と一緒に寝る事へ疑問を覚えていない。
軍団長としてどうなのかというところはあったが、クリシェの年齢と容姿を見てそれを表向きとやかく言う者もいなかった。
残された男三人はやや羨ましそうに二人を見る。
そしてその内バグが冗談めかして言った。
「軍団長、俺もお付き合い致しましょうか」
「男の人は駄目ですよ、もう。同じ毛布を被っていい異性は家族だけなんですから」
「うわー、女の敵。最低……というかうさちゃんもそのくらいの警戒心はあるんだね、ちょっとだけ安心」
「……それくらいちゃんとかあさまに教えてもらってます。クリシェは淑女なのです」
「うんうん、いいことだ。男はけだものだからね。女同士なら安心安心……そうだ、今日はあたしが色々と教えてあげようか――ぅでっ!?」
「カルア、馬鹿なこと言わないの」
ポニーテイルを引っ張ってミアが嘆息する。
「あたしの麗しい髪が抜けちゃったらどうすんのさ、もう」
「そんな事ばっかり言ってるからでしょ。今度から馬鹿なこと言う度に引っ張るから」
クリシェはカルアの拗ねたような横顔を眺め、小首を傾げた。
記憶の顔と照らして、重ね。
「ん、どうかした? うさちゃん」
「いいえ、まぁ、お休みしましょう」
「そだね。ふふん、おねむかな?」
優しげな笑み。雰囲気はまったく違う。
けれど切れ長の瞳とすらっとした顔立ちは、あの使用人と何やらそっくりだった。
「久しぶりにお風呂入ったので、体がぐーたらしたくなっちゃったかもしれません」
「うー、いいなぁ、あたしも行きたかったなぁ」
そういうこともあるものかとクリシェは欠伸を噛み殺し、そのまま自分の天幕へと歩いて行く。
「ん、じゃあ今日はクリシェ、カルアの体ふきふきしてあげますね。クリシェは結構上手なのです」
「おぉ……なにやら得した気分。言ってみるもんだなぁ」
「ベリーとはいっつも洗いっこしてるんですけれど、今日は洗ってもらうだけでしたから。ミアもふきふきしますか?」
「え? い、いえ……そ、その、自分で……」
恥ずかしがるようにミアが首を振ると、呆れたようにカルアが告げる。
「……田舎育ちのくせに恥ずかしがりだよね」
「カルアがまな板とか馬鹿にするからやなの」
「くく、まだ気にしてるんだ? 慎ましいお胸ですねって言っただけじゃん」
「この……っ」
「……確かにミア、クリシェよりちっちゃいかもですね」
クリシェは自分の胸を見て、固まったミアに首を傾げて。
くすくすと笑うカルアに手を掴まれながら、そうしてクリシェは天幕へ向かった。
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